旅行やその他の日常活動(1998年アメリカ)

1997年12月20-28日 ロスアンジェルス、サンフランシスコ

98年3月からはカリフォルニア生活が待っているので、アメリカは楽しいよ、ということを家族に見せるために来ました、カリフォルニア エンタテインメントツアー。ロサンジェルスから入って4泊。車を借りて、サンディエゴ水族館、ナッツベリーファーム、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、超豪華遊園地巡り。チャイニーズシアターや日本人町、サンタモニカにも行きまして、こんなにアメリカは楽しいよ、とアピール。サンディエゴ水族館はすごいね、イルカやシャチのランチタイムショー、動物園もあるが見切れない、こっちに住むようになったら又来よう。ナッツベリーファームは古き良きアメリカの遊園地を目指す、という感じで、スローな乗り物やイベントが多い。ディズニーランドは日本と同じ、日本がアメリカと同じ、というべきでしょう。ユニバーサルスタジオは火薬や水をうまく使ったショー多し、飽きさせない工夫多し。帰りにハリウッド見物。LA最終日はサンタモニカでショッピング、レストランはシーフード。夜はグリフィス天文台へ裏道からあがったのか誰もいない道を走っていると頂上へ、すばらしい夜景、寒いけれども感激。翌日R5でサンフランシスコへ移動。グレートアメリカ、スタンフォードで担当する先生たちにご挨拶、夜はパロアルトでカリフォルニアレストランを体験。翌日サンフランシスコではゴールデンゲート公園にある科学博物館、フィッシャーマンズワーフ、Pier45などを見物、中華街で夕食。ナパバレーを覗いてみて、帰りにサウサリートに立ち寄りディナー、ここはいい町です。最終日、ユニオンスクウェアや中華街などを見物して空港へ、まあ、充実していたのではないでしょうか、家族の皆さんは喜んでくれたかな。

1998年4月1日 クパティーノ、アルマデン

4月から家族でアメリカのカリフォルニアに住むことになりました。近所の公園やゴルフレンジにみんなでいきました。まあ、大変な環境変化ですが、何とかやっていくしかありません。子供たちは現地校、土曜日に日本人学校、これから大変です。住まいはクパティーノ、仕事場はパロアルト、学校は車で送り迎えです。言葉の問題、習慣、食べ物、緊張、いろいろありますが一致団結します。

1998年4月 京都から母来る

京都から母がきた。この目で見ておきたかった、とかいいながら初めてのアメリカを楽しみにしていたようだ。僕は仕事があるので、平日はいない。どうぞ、ご自由に、といっておいたら一人でサンフランシスコに行ったという、69歳である。アパートの前にバス停があって、そこからバスに乗って、サニーベールのCALTrainの駅まで行ったと、その際、「何歳ですか」と聞かれたので69、といったらバス料金は半額にしてくれたということで喜んでいる。CALTrainではオーストラリア人夫婦と隣になったので話が弾んだとか、結構英語は通じたみたいだ、母は中学校の英語の先生をしていたのだが、アメリカにはきたことがない。CALTrainはサンフランシスコのKings Street、4th Streetというところに最終駅があって、そこは中心部から離れている。母はどうしたのだろうか、聞くと、「歩いた」、どこまで、「ユニオンスクウェアまで」、それは何分かかったの、「1時間くらいかな」、まあ、昼間なら大丈夫だと思うが、帰りはどうしたの、「歩いた」、ご苦労様。ユニオンスクウェアでは何をしたのだろうか、「そこいらを歩いた」、つまりずっと歩いていたのだ。「楽しかったよ」、ということなのでよかったじゃない。帰りもCALTrainでバス帰宅、勇気あるじゃないか。お休みにはサウサリートやモントレーにお連れした、「カリフォルニアは良いところじゃないか」というご感想、良かった。

1998年5月 アメリカの変なもの

ゴミ入れなんだけども何も入っていない。収集中なのかもしれないが、その気配はなく、人や動物からゴミを守っている割には鍵はついていない。二つあるのは分別をするためとも考えられるが、アメリカで分別しているゴミ箱をみたことはない。

 

 

何のことはない道にある信号機。片側4車線なので信号機も4つ、歩行者用に1つ、まずは理由はわかるけれどもここまで丁寧にいるのか。車線によって点灯方法が異なるわけでもない。日本なら台風で曲がってしまうことを心配するが、それはこちらではない。信号の故障をよく見かけるが、これは大感動、片側4車線同士の交差点で、皆さんが”First in First go”のルールを守って、目と目を合わせながらうまくやっている、日本でやったらパニック、喧嘩、怒号、警察沙汰。

ゴミの収集、こちらは大きなゴミボックスをトラックの前についているフォークリフトで持ち上げて上からゴミを荷台に落とす、バサーっと一気にね。分別などしないので全部集めている、燃える燃えない、新聞紙、雑誌、プラスチック、家具、電池、机やいすが捨ててあることもあるし、絨毯の切れ端や鉄製品何でもここに捨てる。ところがである、スーパーに行って買い物をすると、買ったものを入れる袋を紙にするかプラスチックにするのか聞いてくる。”Paper or plastic?”これを気にする消費者はなぜゴミの分別が気にならないのか。分別などしている日本人が馬鹿なのか。ドイツでは16分別しているらしいが、アメリカ人の意見を聞いてみたい。(聞いてみた:「ゴミ処理場では全部高熱で消却しており、鉄などの高熱でも燃えないもの以外は関係ないだろう。有害な煙は科学的方法で除去しているので問題ない。問題はゴミの分別を気にしていないアメリカ人の意識だが、今のところ問題は出ていないのではないか。」とのこと。うーん、問題は出ていないのだろうか)

 

郵便回収と配達の仕組みは日本と違う点が多そうだ。回収はアパートの郵便受けに入れておけば持っていってくれるが、郵便ポストもあるのでそこは同じ。しかし、ポストの種類がたくさんあり、どう見ても同種類のポストなのにたくさん並んでいる、どれに入れたらいいのだろうか。それにUSポストのExpressとFedex、DHLもある。郵便局に行っておばさんに聞きながら送るのが安心かな。ポストの横に”Stamped Only”とか”metered Only”などがあって重さで値段が決まるのでちゃんと分けて入れること、ということ。入れ口のない”Storage Box”というのもあるが、これは郵便配達同士が郵便物を一時収納する箱らしい。配達収集の係も細分化されているのか。道ばたにある郵便ポストは道路側に入れ口があるのもアメリカらしい、ドライブスルーである。
配達、これは謎が多い。写真の鍵付きポストが受け取りのための「郵便受け」なのだが、鍵付きなのは安心だが、明らかに小さい。大きな宅配荷物は在宅じゃなければ玄関先に置いていく、受け取り確認もしない。速達便なら本人確認をするのが決まりで、いないと不在郵便扱いで、電話して再配送依頼が必要。小さな配送物は鍵で守るが大きな配送物は玄関先に放置、これもアンバランス、セキュリティが気になるのに片方で大きな穴がある。小さな郵便受けに鍵が入っていたことがある。これは何、とアパート管理人に聞いたら、それは集配ボックスに入れたよ、ということだから、取りに来て、とのこと。それは常識なのか、入居したときには聞いていない。きっと、配達確認オプションとか配達証明とかいろいろなサービスが選べるのだと考えられるのだが、皆さん、いちいち選んでいるのだろうか。郵便の謎は多い。

消火栓、色が決まっていないのです。写真は白ボディに赤帽子ですが、帽子は青、緑、橙、黄色、ボディも白、赤、緑、黄色と様々。きっと州によっても違うのだろうし、ひょっとしたら意味があるのかもしれないが、こんなにバリエーションがあっては消防士が判断に困るのではないか。黄色なら黄色、ということにすればいいのに。

ポスタータワー、掲示板なのだが、紙の上にさらに紙を貼り、さらにその上に、という状態で貼ったら誰かに読んでもらえるのか、それとも上からさらに貼られるだけなのか、僕なら読んでほしいポスターはここには貼らないね。

1998年5月22日 ポイントレイズ

サンフランシスコの北、車で2時間くらいかかるへんぴな場所にある灯台です。すばらしい海岸線、春には鯨が沖を通るという場所です。周りには何にもない岬の先っぽの灯台。まあ、これはすばらしい自然が残っています。車を停めて歩くこと30分、灯台です。灯台にたどり着くにも帰るにも歩き歩きでいい運動になります。車生活には必要な運動でしょう。

 

1998年6月20日 ハコネガーデン

なぜかハコネガーデン、サンドイッチを作ってピクニックに行きました。日本風家屋や庭がこしらえてあって、苔が生えないのは仕方ないので砂をまいてあります。まあ、元砂漠ですから仕方がありません。他にも何組かの家族連れがいてピクニックを楽しんでいます。

 

 

1998年7月5日 コヨーテクリーク

サンノゼの先、R101モーガンヒルを入ったところにあるコヨーテレイク、カウンティ公園になっています。ボートを積んだ車がきて、ボート乗りを楽しんでいます。まあ、何にもないといえば何にもありませんが、日本のようにレストランや茶店、土産物屋が並んだ観光地を思うと、この方がいさぎよくて気持ちいい気もします。

1998年7月12日 モントレー、サリナス

ここのところ毎週のようにモントレー、カーメル近辺にきている。きれいだし、おもしろい場所がたくさんある。今週はモントレーの町を抜けて17マイルドライブの手前、恋人岬、というLover'sポイントという美しい港。海沿いがお花畑になり、日本でいう桜草群生地のような感じがずっと続いている。今日はモントレーで泊まるのでゆっくりできる。ミッションと呼ばれる教会があちこちにある。もともとメキシコからキリスト教布教というミッションを持った人たちがカリフォルニア沿岸を北上してきて、その道筋に教会を建てていったとのことで、ミッション、と呼ばれる教会ツアーもある。El Camino Realという道がサンディアエゴからサンフランシスコまであるがそれがその道らしい。鯨博物館や海遊びで一日が終わる。翌日、サリナスという町にいく、スタインベックの出身地、ということで住んでいた家、とかスタインベック博物館があって見てみよう。ヒスパニック系の住民が多いこの町、レストランもスペイン系、美味しかった ためしはないが、まあ、郷に入っては、ということでチャレンジ。博物館もレストランも、この町自体、まあ、日本人観光客にはお勧めしませんね。

1998年8月2日 ピジョンポイント灯台

サンタクルーズの手前にあるピジョンポイント灯台に行ってみました。カリフォルニアの灯台はいずれも美しく、これもなかなかきれいな灯台です。その後、サンタクルーズの浜辺でサンドイッチランチ、浜辺で鳥に囲まれて昼食です。なぜ、鳥は5メートル以内には入ってこれないのか、もし入ってきたら大変で困るのですが、入ってきません。エサはあげませんよ、と言うのですが、言葉がわからない鳥はいつまでも5メートルの円周上にいます。追い払ってもまたきますので、これには慣れないとね。サンタクルーズからみる夕日は絵にも描けない美しさ、まあ、写真もいいけれども記憶に残しましょう。

 

1998年8月9日 ハーフムーンベイ

カリフォルニアに住んでいる、ということから友人がやたらに遊びに来る。今日はハーフムーンベイにゴルフ。いいゴルフ場で110ドル、日本的にはやすい、こちらでは異常に高い。パブリックは25ドル、この辺で一番高いスタンフォード大学で125ドル、110ドルは日本人だけか、と思って聞くが皆様にこのお値段でお願いしているとのこと、アメリカ人も接待するのかなあ。

1998年8月11-17日 ヨセミテ

マリポサグローブからヨセミテ国立公園に入りました。ジャイアントセコイアが生い立っていて、高さは樹木としては世界一だそうで高いの何の。公園内のホテルは予約が取れないので、公園の中なんだけども一度外に出る宿、という変わったコンセプトのコンドミニアムを予約、公園内にはお店、スーパ、コンビニなんにもないので、公園に入る前にスーパーで数日分の食料を買い込みます。公園といっても東京都より広いのでまあ何とも不便といえば不便ですが、ごみや自然破壊を考えればもっともです。ゴミの分別もこれくらい徹底すればいいのにと思います。

12日はグラシアポイントからの絶景を見て、センチネルドームに登りました、結構きつい登りで、上に何があるの、という問いにはきれいな眺めだよ、という答えしかありません。本当にのっぺらぼうのスイカのてっぺんのような頂上には何もなく、少しはずれたところに枯れかけの木が一本、これがよくヨセミテの写真に撮られる木ですよ、という解説。タフトポイントというところまで歩いてこの日は終わり。

13日はツオルムメドウからタイオガ峠を越えてモノレイクまで行きます。ツオルムメドウはお花畑、360度の山に囲まれた森と草原の大きな美しい広場といったところ。その先はタイオガ峠、11000フィートというから3000メートル級の峠、見事な雪渓が残っています。そこから一気に標高500メートルくらいのモノレイク、塩の塔といわれるタフトタワーが湖のそこここに佇立しています。決して美しい眺めではなく、すごい眺め、という分類です。再度一気にタイオガ峠に駆け上がり、逆のコースで宿に帰る、何キロ走ったんだろう、700マイル!?。

14日はヘッチヘッチー、変な名前。ダムがあってそこまでのハイキング、ヨセミテは歩かせますねえ。川が湖に流れ込んでいる場所で水浴びをしている団体がいて、そこにジョイン、一緒に水浴び。これがいけなかった、ポケットに入れておいた車のキー、これが水浸しになっていたのですね。車にかえってドアオープン操作をすると、防犯用のサイレンが大鳴動、「プワプワプワプワーン」止まりません。どうしたのですか、という周りの人に、「水浴びをしたらこんなになりました」とかしどろもどろです。なんとか乾くのを待って恐る恐るオープン、開いた、良かった。その後ヨセミテの谷に戻りヨセミテ滝を見物、まあ大きな滝がいくつあるのでしょう、ヨセミテ公園、バーナル滝、ブライダルベール滝、ネバダ滝と、大きな滝がいっぱいあります。

15日からはキングスキャニオン国立公園に移動、そこには何があるのか、名前の通り谷と森、まあ、何にもないですね、ともいえます。ここでもハイキング 、よく歩くので体にはいいけれども、この先には何があるの、という問いには行ってみればわかるよ、などといいながら、やっと着いたところには小さな公園だけというケースもあり、アイスクリームでも売っていれば大もうけです。馴れてくると、期待ははずれるものと考えて、レストランがあると大はしゃぎができます。物は考えよう、人間はたいしたものです。泊まりはVesa Valleyという何にもないところにたっている民宿?なぜか「風と共に去りぬ」風になっていて、部屋がスカーレットオハラの部屋とかまあ凝った作りです。夕食はないので近くのレストランを教えてもらいレッツゴー。なんと30マイル先の町、50Kmですよ最寄りのレストラン。このレストランもなぜか19世紀アメリカの田舎町を模した凝った作り、ひょっとしたら凝っているのではなくて、そのままなのかもしれません。

16日はモロロック、セコイヤ国立公園へ。またまたハイキングモロロックの頂上まで、「上には何があるの」「お楽しみだよ」、やはり素晴らしい眺め、予想通り、それ以外には何もなし、気持ちいい。セコイヤ国立公園にはセコイヤを切り抜いた木もあって、今はこんなに保護している木を昔はくりぬいて楽しんでいたことがわかります。人々は何かを学んできたのでしょう。自然を壊すのも守るのも人間です。

 

17日は最終日、Mesa Valleyの宿の主 人と記念写真、そこから一路西へ。フレズノからマデラを抜けてフェアミードでR99をおりて西へ、途中ロスバノス、晴れていたのに大雨、走れないほどの雨です。10分ほどの豪雨をしのぐとまた 晴れ、何だったのでしょう、あの雨は。サンルイため池(Resovoir)にあるダイナソー、恐竜ポイントという地名、そこから山をみると風力発電の数百本の風車を発見、何KW発電できるのでしょう。山の上はずらりと発電風車です。一路クパティーノへようやくご帰還、長いようで短い夏休みでした。

1998年8月30日 ポイントロボス

 

ポイントロボスはラッコがいるという場所、カーメルでいつものようにサンドイッチランチをとって、ポイントロボス公園へ、入場料10ドルを払って中に。大風が吹く中、ラッコがいますね、Sea Otter海の獺です。かわいいという人もいますが、大きなネズミが貝を割って食べているという風にも見えます。アメリカはとにかく自然がいっぱい残っています、これを守るのは人間、なんとしても守っていこうという意志が感じられていて好ましく思います。

 

1998年9月4日 ハーフムーンベイ

 

ハーフムーンベイはクパティーノからR280を北へ45分、クリスタルスプリングで西に15分ほどのところにある、ゴルフ場で有名な場所、そこでサンドイッチランチです。カリフォルニアではどこでもそうですが公衆の面前では禁酒、ビールも飲めないのでしょうか、私はビールはサンドイッチの お供と考えて飲んでいますが、ワインはまずいのでしょう。水族館で有名なモントレイから15分くらい。サンドイッチを食べていると水鳥たちが半径5メートルばかりの円をを形成して私たちを取り囲みます。えさやりは野鳥には厳禁、しかし目と目が合うのです。みんなこっちをみています。どこかに行ってほしいなあ。

 

 

1998年9月10日 ナパ、シュガーローフ

 

サンフランシスコからさらに車で1時間半ほど、ナパバレーがあります。ナパの入り口にはマスタードというレストランがあります。ブドウの花が咲く季節には山から谷へとマスタード色に変わるからというのがお店の説明。有名なロバートモンダビが左に、右には入手困難といわれるオーパスワン。奥にはベリンジャーやなんじゃかんじゃとたくさんのワイナリーが並んでいます。車で来ているのに何で皆さん試飲できるのだろうと思うくらい皆さんじゃんじゃん試飲しています。今回の目的はナパの奥にあるキャンプ地、シュガーローフ。水で有名なカリストガからさらに奥に入ります。まあ、僕らのほかには老夫婦一組、アコードワゴンからテントや寝袋、タープなど下ろしていたら、やっぱりきた、お話にきました。老夫婦、「小さい車からよくこんなにたくさんの荷物があるなというくらい降ろしましたね、よく詰めましたね」とお褒めの言葉。「積み方にはコツがあります、寝袋やテントはこうして袋に入れて」という風に教えてあげるとたいそう感心して帰りました。夜には動物やコヨーテ(英語ではカヤリと聞こえます)の鳴き声でなかなか寝付けませんが、まあいつの間にか朝です。帰りにナパでワインを買ってご帰宅。

1998年9月13日 スタンフォード

シリコンバレー誕生の地碑とそのいえのガレージ。

夏休み明け直前のスタンフォード大学です。結婚式をやっていたり、学校が始まると学生でいっぱいですが、今は観光客がちらほらです。駐車場事情が厳しいので駐車スペースはAとかCとかいろいろな記号で示され、支払う料金で停められる場所が限定されるので注意です。Quadと呼ばれる中央にある教会のファサードを飾る装飾は見事です。

 

1998年9月 新学期、新学年

9月から新学年、長男はJr High 長女はElementary 当初はスクールバスだったが遠回りで時間がかかるのでくるまで送り迎え。毎朝7時半にお送りするのが日課。

1998年9月16日 カーメル

 

カーメル、クパティーノから車で1時間半ほど、水族館で有名なモントレイから15分くらい。町の中心部を走るバス停にあるベンチ。町は海に向かって下り坂、突き当たりが海、いつも強風が吹いている印象です。メインストリートのオーシャンアベニュー沿いには土産物店やレストランが建ち並び歩いて行き来できます。車を止めるのが大変、それをねらって駐車違反の取り締まりが頻繁ですから気をつけないと つかまると25ドルです。

 

1998年9月26日 スタンフォード

勤め先であるスタンフォードまで自転車で行きました。家からジュニペロセラ道路を通って行くと25Kmくらい。走っていると結構自転車ライダーがいる。ペースが違うね、時速33Km以上かな、ついていけない。路面が荒れていて綺麗にしてほしいな。

 

1998年10月22日 クパティーノ、サニーベール

ゴミの収集にきたトラック、日本のように車の後ろから人が入れるのではなく前からゴミの大箱ごとすくい上げて上からどすんです。ゴミの分別という概念はなく、この大箱にふつうのゴミ、いすや机、金属もプラスチックももうなんでもかんでも放り込んでいます。環境問題などアメリカには無関係、クリントンの不倫やアラブの石油獲得の方が重要なのでしょう。 サニーベールの土曜日の朝市、例によって日本ナス、トマト、果物などを買いに行きました。ナスにもイタリア、中国、そして日本版があって、私たちは焼きなすがうまい日本なすを買います。日系農家の方も売りに来ていて、イチゴやキュウリも、まあ何でもあります。安いのかどうかは分かりませんが、スーパーで黙って買うよりは、お店の人と話ながら買う方が楽しいので、朝市は欠かせません。

 

1998年10月24日 サンノゼ

リバーモアにある風力発電にいって、その後サンノゼエジプト博物館にいきました。ミイラやピラミッドの秘密といった展示です。なかなか立派な施設で、小中学生もたくさん訪問していました。その後ミステリーハウスという何のことはないウインチェスター銃でお金儲けした富豪がたてた大きな家を見せ物にしているもの。建て増しを重ねた温泉旅館と同じものに入場料を取って見せているという、金儲けです。その後バラ園、これは美しい庭園です。カリフォルニアの自然は素晴らしいけれど、作り物は天と地、いいものとカスが混在しているので見極めが大切です。

1998年11月7日 スタンフォード

大学の中にあるレズビアン、ゲイ、同性愛のみなさんのコミュニティセンター。その下にはウーマンズセンター。サンフランシスコ地区では7人に一人は同性愛者、しっかり権利を守られています。スタンフォードは大学というには広すぎて敷地内にショッピングセンターやゴルフ場、 教授たちの住居など日本の大学とは比べものにならない大きさです。さりげなくロダンの置物が置かれていたりしてまあ、贅沢というかふつうの風景というか、ちょっとした一日遊べるレジャーセンターとも考えられます。

1998年11月14-15日 法師温泉

中国人の大学教授を連れて群馬県法師温泉に行って来ました。この先生、日本に行く前から”mixed bathing hot spring”に行きたいと言っており、それは”Gender mixed bath”のことだね、と確認、日本には混浴温泉というものがあって是非体験したいとのこと、探しました。まず旅程上の都合より東京から一泊で行ける場所、おじさん二人で泊まれるところ、ホテルではなく当然”リョカン”、そして温泉であること。予約したのは法師温泉長寿館、高峰秀子と上原謙の国鉄CMで有名だったあそこです。アメリカから電話して、トレンタ君という商品があるのを発見、新幹線で高崎まで、そこからレンタカーを借りることに。ついたのは夕方4時、先生、リョカンは知っているらしく、同じ部屋におまえと寝るのだな、とか、まずお風呂に入ろう、などと確認しています。”本当に女性は入ってくるだろうか”という先生の疑問、行ってみればわかるよね、ということで荷物を解いたら速攻、お風呂へ。お風呂は混浴、女性用、と分かれていて混浴には脱衣場らしき場所がない、おい、どこで脱ぐ、はいこちらでお願いします、というのは長方形がさらに8分割されている浴槽を取り囲む周り。衣類置き場は確かにあって、そこで脱いではいるとのこと、まあ、誰もいなかったのでいいや、ということでちゃぽん。”先生、お風呂ではめがねを外した方がいいのでは”、”これがなくては見えないではないか” なるほど、これから入ってくるかもしれない婦女子のお姿を見たい、という強い意思表明ですな。そこへおじさん3人組、さらにおじさん2人、やっぱり婦女子は来ないよね、ここには。ということで1時間近く粘るがあきらめて出る。着替えをして廊下を歩くと、向こうから30代と思しき女性6名。えーっ、急には引き返せないし、このままでるのは悔しいし、先生ももちろん同じ気持ち。玄関先で湯冷ましをふりをしてわずかな時間をつぶし、引き返します。入っているよ、女性6名。 8分割の手前が女性、奥が男性という暗黙のルール。入っていって気がつく、婦女子はすでに浴槽に入っており、こちらは目の前で裸に着替える必要がある、恥ずかしいではないか。先生、どうする。いくしかありません、はい、ということでずばっと脱いで入ります。先生は眼鏡をしたままでね。婦女子は手前、私たちは真ん中の区画、近い。どうするんだろう、とみているとタオルをさらりと前に垂らしてさっさと立ち上がり、後ろを向いて着衣、何のことはない、あっさりしたもんです。先生、曇るめがねを人差し指で下品にならないように気をつけながら拭いながら、こちらも感心することしきり。こうするのか、ということです。その間も、カップルが入湯、こちらも自然に入ってくる。お風呂は湯気でいい感じに曇っているので、はっきり見えないところが雰囲気を盛り上げています。はい、もう夕食の時間です、先生。6時半、格安プランだったので食事どころで皆さんと一緒に食事、先生大はしゃぎです。食事の後にも風呂にいこう、だとか風呂は朝何時から入れるのかだとか聞きまくっている。そうですな、せっかく日本まできて、夢に見た混浴温泉、思う存分楽しんでください。夜はおじさんばかりで残念でした、11時就寝。翌朝、6時に目が覚めると、先生がいない。風呂だな、とすぐわかる。7時頃帰ってきました。どうだった?5時に行ったら、ちょうど出てきたところの女性に遭遇したらしいがその後はぱったり来なかったとか、粘りましたねえ。まあしかし、先生は大満足だったようで、帰りの車の中でもお風呂の話で持ちきりでした。喜んでくれてよかった。
後日談:先生、よほど混浴温泉が良かったようで、翌週、大学で話をするみんなに日本の温泉の様子を紹介しているらしい。先生と一緒に温泉に行った日本人はおまえか、という問いがそれ以降しばらく繰り返されることになった。

1998年11月20日 サンフランシスコ

サンフランシスコで航空ショーがあるというのできてみました。ブルーエンジェルズですか、なんですか、ド派手なショーがアルカトラズ島の上あたりで展開されてまあ、迫力ありますなあ。隣でみているアメリカ人のオボッチャマたちは、これをみてUSエアーフォースにあこがれるのでしょうか。映画トップガンもこのような兵隊集めを目的にしているという話です。

1998年12月23日 サンノゼ

サンノゼにきれいに電飾しているお宅があるとサンノゼマーキュリーに記事があったので住所を頼りにきてみると夜に住宅街が明るく、そこに人だかり、お菓子まで配っているではありませんか。毎年飾るうちにやめられなくなって、子供が大きくなってもヒトの子供のためにやっているボランティアクリスマスだとか。電気代だけで12月は1000ドル以上、大変な出費だとともいますが、本人は毎年の楽しみだとか、ちょっといい話です。

1998年12月27-30日 ロングビーチ

年末休みにR101から州道1号線で南下、奇岩で有名なモロ湾からきれいな教会があるサンルイオビスポ、家の壁に絵が描いてある町ロンポックを経て、デンマークの町並みで有名なソルバングに一泊、翌朝はR101をさらに南下、美しい別荘地のようなサンタバーバラを通り、マリブ、からサンタモニカ、海縁をロングビーチまできてここでまた一泊、ここからはR405からR5へはいってニューポートビーチで休憩。シーフードランチです。このあたりはダナポイントハーバーといって別荘にしたら最高、というような家が立ち並んでいます。さらにR5を南下、サンディエゴに到着、宿泊です。

翌日はサンディエゴといえば水族館と動物園、30ドルも払ってシャムー(シャチのことで英語では鯨殺し−Killer Whaleとなるのをさすがに考えてスペイン語なのでしょうか言い換えています)と一緒に食べるランチショーを申し込み、えらい出費です。レストランでは イカのことをカラマリと呼んでスクイッドと言うのをさけています、これと同じたぐいでしょうか。さすがに有名なだけあってサンディエゴの動物園も水族館も立派、広いし一日では見切れません。

1999年2月10日 レイクタホ

レイクタホに行ってきました。宿泊はリノ、スキーです。スコーバレーというオリンピックも開かれたという大きな、というか巨大なスキー場があって、その一番下のファミリーゲレンデという風情の場所で滑りました。まあ、暑くて晴ればかりがカリフォルニアではないよ、という証拠にきてみたという感じですか。冬のレイクタホ、とりあえずは一周してみよう、ということでカリフォルニア側からネバダ側へ反時計回りで走っていると、急にカジノが出現、州をまたがるとカリフォルニアでは禁止されているギャンブルだこちらではOK、おもしろい光景です。ファミレスでランチ、さらにどんどん走って一周完了、実質1時間半くらい?リノもホテルがやすいので予約したようなもんですから、夜景を見ながら散策、簡単なディナーでおしまいです。翌日はサクラメントで古い町並み、といっても西部開拓の時代、蒸気で走る船や土産物屋があってふつうの観光地です。適当に遊んで帰ります。

 

1999年4月23日 スタンフォード

 

自転車で走っていたらパンクした。ジュニペロセラでのパンク、手を挙げて「乗せてほしい」と意思表示しても誰も止まってくれない。自転車野郎が止まってくれるが、「エ!チューブラーなの」という台詞、チューブラ−そんなに珍しいの? 30分ほど 手を挙げてやっと止まってくれた一台の車、「Expresswayではヒッチハイクはだめなのよ」とのこと。そうなのか。Taxiを電話して呼ぶ。タクシーの後ろに自転車を乗せて帰還、「そんなに苦労するなら自転車で行かなければいいじゃない」という妻のアドバイス、その通り、ですが、そうはいかないのがつらいところ。

1999年8月10-18日 ニューヨーク

夏休みにニューヨークに来ました。サンフランシスコからジェットで6時間くらいでしょうか、ニューアーク空港からタクシーで宿泊先、Belvedereホテルへ、一週間泊まるので格安ホテルです、4人で1泊100ドル。まあ、初めての大都会ですから大変です。まずはエンパイヤステートビルですね。ロックフェラービル前広場もみて、夜に予定するオペラ座の怪人のチケットをゲット、30ドル。翌日は自由の女神です。フェリー乗り場からスタッテン島へ、アイスクリームをなめながら、長蛇の列にげんなり、やめようよ、という 妻M子の一言で女神の周りを一周、写真をぱちぱち撮って、まあこれできたことにしよう、ということで皆満足。帰りにフェリー待ち、ここで再びアイス。マンハッタンへ戻ってはウォール街見物、名物牛さんにさわって、ピア34、フェリー乗り場にあるショッピングモールでランチ。中華街、イタリア人街を抜けながらワシントン広場まで到達、ここで息切れです。クリストファー駅から地下鉄、ご帰還です。翌日の目玉は太平洋戦争やベトナム戦争にも参加したという「航空母艦イントレピッド」。甲板には軍用機が展示、フライトシミュレータで遊べます。旅行もこのあたりまでくると何を食べても「さっぱりしたものが食べたい」気分。寿司レストランに向かいます。翌日はフィラデルフィア、列車でGo、海の博物館で灯台のTシャツゲット。地下鉄の乗り場にゲートがあり安全、日本もこうすればいいのに。翌日は市内乗り放題のバスツアー、アップル ツアーバスですって。アポロシアターに行ってみよう、ということでおそるおそる降りてみましたが、周りには黒人ばかり、観光客などいません。とにもかくにもアポロシアターはどれ、まさかこのこきたない建物がそれ、これをみに私たちはここまできたの、という感じで、這々の体でアップルバスを待つこと10分、地元の皆さんには申し訳ないけど気分は「地獄に仏」セントラルパークで降りて、メトロポリタン、しゃれたレストランで食事して歴史博物館、などをみてこの日はおしまい。もう一度セントラルパークに行こう、ということでジョンレノンの住んでいたアパート、セントラルパーク散策、ときてリーンカーンセンター、何故かおもちゃやのシュワルツ、おもちゃっていう年じゃあないでしょう。五番街を南下、人がいっぱい、10人に一人は日本人?まあ、すったもんだの一週間でした。

1999年9月18日 プリマス、ボストン

ボストンにきたついでにプリマスに行ってきました、初めて欧州人がアメリカ大陸に上陸した地点です。1620年に最初に足をおいた岩、プリマスロックがこれ、ということで1620年だったそうです。ふーむ、プリマスやボストンはさすがにアメリカにしては落ち着いた感じの町で、歩いても違和感がありません。歴史は守らないとね、短くても、ということでポールリビアの住んでいた家、といわれても米国史を知らない私としてはなにそれ、という感じ。卑弥呼の墓を初めてみるオーストラリア人が「この石はなあに」なんていうのと同じでしょうか。

1999年11月2日 グランドキャニオン

 

ラスベガスから一日かけてグランドキャニオンに行きました、車でIS40を飛ばすこと350マイルくらい、途中、おもしろい形のジョシュアツリーを写真に撮ったり、ランチしたりで、フラッグスタッフ経由で5時間ちょっと、到着しました、遠い。駐車場からしばらく歩いて展望台というか公園というか、Rimトレイルとありますから、ここからさらに渓谷の周りを歩けるのでしょうが、われわれはその気はなく、写真を撮ったりしておしまい。ヘリコプターに乗って谷をみられるツアー、というのもあるけれども年に一回くらいは落ちる事故があるということでこちらもパス。それでも食事したり、していると夕暮れの気配、早くしないと夜になる、と思っていたらフラッグスタッフにつく前に日没。真っ暗なIS40をひたすら西へ帰りは必死でとばして、ラスベガス到着は深夜でした。

 

1999年11月1-4日 デスバレー

ラスベガスからデスバレーに行って来ました。ラスベガスは虚栄の町、ギャンブルの町です。予約したのはサーカスサーカスというホテル、なんと家族四人で99ドル。安く泊まってギャンブルでお金をいっぱい使ってね、という趣向ですか。各ホテル前では花火や水のショーを始終やっていて、前を通るお客が立ち止まって見物しているので、歩道も混雑、町中がTDLという風情です。たくさんレストランもあるのに私たちが選んだのはこぢんまりした韓国料理店、気持ちは徹底的に虚栄の町に逆らっています。しかし、ビルの屋上にあるジェットコースターを発見(そんなところになぜ作ったの?)、興奮して虚栄に巻き込まれて行列に並んで乗ってしまいました。フラミンゴやサハラ、シーザーズパレスなんていうバブリーなホテルの間を抜けてサーカスサーカスに戻ります。結構大きなホテルですが周りに比べると地味に見えてくるから不思議です。明日はデスバレー、虚栄とはおさらばです。

デスバレー、アーティストパレットなどといういろいろな色が付いた山肌が売り物の場所、ガス欠を気にしながら行って、まあ、こんなもんか、確かに肌色、水色、黄色、茶色、ふむふむ、人に勧めるか、といわれると時間があったらいったら良いよ、という程度です。まあ、デスバレーそのものがそうかもしれません。ファーネスクリーク宿泊、この感想は翌朝覆されました。朝、日の出前におきだして、眠いという家族を放置、一人で山肌に朝日が当たると美しい、と宿の人に教えられた場所に懲りもせず出陣、感動です。まあ、写真で伝わ るものは感動の100分の一くらい、早起きした価値ありました。

1999年11月20日 京都

11月20日、アメリカから一緒に日本に連れてきた来たスウェーデン人夫妻を京都案内、周山街道の神護寺わきにあるもみじや別館に宿泊、”リョカン”に泊まりたい、という夫妻の要望で、10月になってから必死で電話して20件目くらいでようやくおさえられた宿です。アメリカから電話代いくらかかったんでしょう。金曜日に東京から京都に入り、タクシーでもみじやへ、着いたらお宿では、舞妓さんの踊りを披露中、なんていう場面、スウェーデン人夫妻は大はしゃぎです。団体客向けのショーだったのですが、なんとかかんとかいって部屋の端に座らせてもらって、厚かましいのか当たり前なのか分かりませんが、とにかくラッキー。夫婦にはリョカンのマナーとルールを事前説明、お風呂の入り方、食事の仕方、寝る方法、起きたら何をするか、まあ、いろいろあります。夕食は広間でみんなと一緒に食事、その後お風呂です。ダンナは私と一緒ですから、まあ何とかなりましたが、婦人はどうでしょう。後で聞いてみたら、全然OK、一緒に入った人が手取り足取り教えてくれて大変親切だったとかで、良かった。部屋には布団が敷かれていて、”Futon!”、何みても喜んでます。明日は早く起きて、神護寺の紅葉見ましょう、ということでおやすみなさい。

朝っぱらからお寺で紅葉見て、朝食、そしてバスにてお出かけです。山を下りると仁和寺、バスを降ります。大きなお寺ですが、突然現れた侍、映画の撮影です、まあ、なんて運の強い外人、チャンバラまでみられて、なぜここで撮影をしているの、それは映画村が近所にあって....、説明です。もう朝から二人はハイテンション、竜安寺で庭をみて、 石の配置と白い砂が意味するものは、、、次は金閣寺でしょう。途中にあった立命館大学をみたときに気づいた二人。アメリカでの友達Kの出身大学”Doshisha”は京都にあるのではないか、というご質問、はい昔のPalaceのそばにあります、と回答、ではそこへ行きましょう、ということでタクシーに乗って御所へ。きれいな銀杏のGolden treeと言っていましたが、”Kはここで学んだんだねえ、昼ご飯は彼が食べていたようなものが食べたい”というリクエスト、学校前の食堂でAランチを注文。なんかわざわざそういうものを食べたいというのも、わざとらしさを感じるけれども、ご希望ですから。はい、その後は銀閣寺、哲学の道、南禅寺で清水寺で上がり、日没です。早く帰らないと夕食時間に遅れる、ということでタクシーでご帰還、疲れた。

最終日は高尾の三寺のうち西明寺、高山寺を見て、京都駅へ向かい、関西国際空港からサンフランシスコへお帰り、ご苦労様でした。二人は楽しかったでしょうね。

 

 

 

 

 

1999年12月8日 スタンフォード大学

スタンフォード大学はパロアルトにあって大きなキャンパスを持っています。キャンパス内には噴水やパラボラアンテナ、高速増殖炉、病院などもあり、図書館も16カ所、お花も咲き乱れというか、植えているんですね、きれいにしているのです。これもマーケティング、プロモーションです。世界中から優秀な学生を集めたい大学が精一杯アピールしている、そういう感じです。もちろんアカデミックな部分は優秀なのでしょうが、天気がいい、観光地がたくさんある、治安がいい、子供たちの学校もレベルが高い、スポンサー企業も周りにたくさんあるなどなど大学としては申し分ない特徴を備えています。シリコンバレーがなぜ優良企業が育つのか、それはスタンフォード大学があるからだ、というコメントがありますが、その前の条件が見逃せないと思います。みんな暖かいところで過ごしたいし、汚いところにはすみたくない、近所の人たちは善良な人がいい、子供はいい学校に行かせたい、誰でも考えることです。

1999年12月16日 ニューヨーク

クリスマスシーズンのニューヨークです。ロックフェラーセンター前はクリスマスの装飾できれいです。ワシントン広場は人は多いけれども木枯らしぴゅーぴゅーという感じで長居は無用、後ろに見える貿易センタービルを眺めながら立ち去ります。翌日はブルックリンから地下鉄でコニーアイランドに行ってみました。ただの遊園地、海岸にはボードウォークがあって、テレビで見たような景色が続きます。コニーアイランドの駅はいいけれどもその先は歩きたくないような場所ですな。一気にマンハッタンまで戻り夕食、和食でしょう。

 

1999年12月31日 サンフランシスコ ミレニアム・フェスティバル

年末、というか2000年を前にしての最後の日をみんなで騒ごうじゃないか、というお祭りに参加してきました。31日にはサンフランシスコのデイビスコンサートホール。日本と違って第九ではなく、チャイコフスキーやシトラウスのかわいい曲を演奏、いい気分です。食事は町の中心街に戻って中華街でとります。歩いてPierの方角へ、人がたくさん集まっています。ミレニアム祭りではサンフランシスコ湾に花火が上がる、ということで皆さん12時を待っています。われわれは今日はサンフランシスコに宿を取って同じように道ばたに座り込んで待機、寒い。待つこと30分、始まりました。アメリカの花火は日本にかなわないだろうと思っていましたが、なかなか、派手で大規模、数が多いと迫力があります。日本のように休憩を挟むことが少なく、そこいら中であがるので盛大な雰囲気です。45分くらいの大騒ぎですが、人々は大喜び、独立記念日みたいなモンですね。いい思い出です。

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