読書日記(2009年11月−12月)

2009年12月31日 逝きし世の面影 渡辺京二 *****

小説ではなく歴史評論を読んで感動を覚えるというのは何と素晴らしいことだろう、これはそういう本である。幕末から明治前半にかけて日本を訪れた外国人からみた当時の日本文化、庶民や侍たちの日常を紹介し、産業革命を終えて東洋の小国に通商を持ちかけてきた外国人が日本の風俗や文化をどうとらえたかを解説している。引用しているのは次のような外国人たちの日記や報告書である。
明治6年に来日し38年間日本を観察した日本研究家 チェンバレン
明治21年に来日した宣教師で近代登山開拓者 ウエストン
安政3年に領事として来日したハリスとその通訳ヒュースケン
初代駐日英国公使オールコック
慶応3年35日間の日本見聞録をまとめた21歳のフランス人ボーボワール
一人で東北旅行をした英国人女性イザベラバード
安政5年通商条約締結のために来日したエルギン卿使節団のオズボーンとオリファント
明治9年来日し東大医学部の基礎を築いたベルツ
大森貝塚を発見したモース
このほかにも多くの外国人が残した書物から証言を引き出している。

今は失われてしまって二度と戻ってこない文化、と著者はいうが、さらにそれらは明治20年代にはすでに失われていたとも紹介している。著者はいくつかの視点から当時の日本描写を紹介する。概ね章立てにあわせて紹介してみよう。

1. 陽気な人々
日本は専制国家であり人民は収奪され苦しんでいる、と聞いて来日した外国人たちが口をそろえていうのが庶民の幸福そうな顔、健康な体、遊び回る子供たち、冗談を言いながら仕事をする職人、大笑いする母親たち、控えめでかわいい笑顔の少女たちの姿であった。江戸時代の農民は天領と大名領では年貢比率が違い、大名領が厳しく生活レベルが違ったはずなのだがその差は明確にはわからず人々は家を清潔に保ち、村や町内の絆を保って幸せそうに暮らしていた。当時の日本人たちは初めてみる外国人に異様な興味を示し、他の国の中国やマレーシアであったようにおどおどすることなく素直に興味を示したという。興味は洋服、ボタン、履き物、帽子、ベルトなどでボタンを特にほしがったという。

2. 簡素と豊かさ
生活は豊かではなかったが、それが不潔や犯罪にはつながらず、泥棒がいない、大声で怒鳴りあう男たちもまれ、家々で鍵をかけているところはみたことがないと言っている。生活は決して贅沢はなく暮らしは質素、農業の方法は原始的に見えるが、使われている道具には工夫がみられ、放牧する土地が不足しているためほとんど牛馬は使われず、人力で耕作が行われている。人々の懸命の勤労により人口を十分に養うだけの農業生産力があると思われる。地域によっては貧富の差があるが、豊かな村では米、麦、綿、トウモロコシ、煙草、藍、麻、豆類、茄子、くるみ、胡瓜、柿、瓜、杏、柘榴が生育されている。年貢は江戸のはじめに測量された検知に従い決められており、それ以降の250年で生産性は50-100%も向上しているため、農民には相当の収穫分があったと思われている。

3. 親和と礼節
天然痘の後遺症である痘瘡が顔に表れている人が多い。また皮膚病、眼病を患う人が多いのは衛生状態の向上と治療法が知られていないためと観察された。そして売春の公然化により性病に罹患している人が都会では3分の一にものぼるのではないかと推察される。しかしである、こうした盲人やハンセン病などの病人は社会の中でそこそこの施しを受け生きていけたのだ。観察者によるとそれは物価の安さと、人々の思いやりと優しさだという。また、家の表は開け放たれ、家の中で行水する娘、子供に授乳する母、それらが通りから丸見えなのであり、異国人が表から見ていようと気にもしないのだ。近所のつきあいは行き来が激しく、鍵がかかっていないため子供たちはお互いに家や通りを縦横無尽に走り回って、母親や娘たちも近所同士のつきあいをしている。近所の絆が強く、開放性の強い絆の強い社会であるという見立てである。これが争いが少ない社会、礼節と親和が両立する社会を形成する根本であるという分析がされる。

4. 雑多と充溢
外国人からみた日本人の日常は、まるでお芝居の一幕を見るようで、とても現実のものとは思われない小道具や舞台装置であふれている。人力車で通る街角で見た道具売り、行商人、子守をする子供、金魚売り、靴治し、羅宇屋、飾り立てた箱を持った理髪屋などが小道具と舞台装置に見えたのだ。道には盲目の按摩や子供たち、放し飼いの犬などが道を歩いていて馬車や人力車がぶつかりそうになるが、馬丁や車夫はいちいちそれらを避け、道の端に寄せて通るのだ。

5. 労働と肉体
日本人は労働を苦役とは考えず、必要な労働を終えるとそれで一日は終わりとばかりに仕舞いにかかる。そこには効率や成果に対する報酬という概念はなく、時間あたりの賃金、という概念もない。一日に必要な糧が得られればそれでよしという姿勢であり、主人に使われて嫌々働くということではないようだ。農民が勤勉であること、職人が凝り性であることは否定しない、しかしそこには資本家と労働者という対立は存在しない、という観察である。日本には鉄道が通るまでは「分」という時間単位はなく、日中と夜間を日の長さに比例して変化する大まかに区分した時間の概念しかなかった。労働者はすばらしい肉体をしているが、支配階級の侍たちの体は細く弱々しい肉体しか持っていないと見られた。また、日本人男性がほとんど醜い容貌だったのに対し、女性はおしなべて可愛く美しいと観察された。

6. 自由と身分
一般庶民は自由度が高く、身分が高くなるほど儀式やしきたりにとらわれており日常生活の自由度がなかった。町衆の独立は尊重され、町衆同士の争いに侍が関与することは避けられた。また上流階級のものたちの生活と中流、下流の生活レベルは大きな差はなく、上流の侍たちも質素な暮らしをしていた。下流中流の民たちはそれぞれの生活に満足して皆幸福そうだった。こんなに一般人民が幸福そうな顔をしている国は欧州にもアジアにもなかった、というのが各国訪問者おしなべての感想であった。職人や商人の仕事は細分化されていた。畳、障子、大工、とび、簪、髪結い、理髪、帯、装飾品などの商売が細分化されてそれぞれ成り立つことにより多くの人々の生活を成立させている。これは飛び抜けて大儲けする商人が少なく、人々が相応の収入で満足していることと物価の安さによる。

7. 裸体と性
人々は町では銭湯を使ったがどこも混浴であり、何の不都合も生じていなかった。また、行水や川での水浴びを外国人が通る道ばたでも平気で行う娘や女性たちに何度も出くわし、外国人の方がどぎまぎしていた。道を歩く外国人が珍しい時には銭湯に入っていた男も女も真っ裸のまま表に飛び出してきて外国人を見物するため、外国人からみるととんでもない眺めとなった。素っ裸の人垣の中を通ることになったのである。夏の労働者はふんどし一つ、日本人は裸にこだわらなかったが、西洋人が着るような胸や肩が露出した舞踏会用の服を着せると恥ずかしがった。彼らは、女性が人目を引く目的で露出させることに恥ずかしさを覚えていたのであり、日常生活での裸体の露出にはまったく恥ずかしさを感じないようであった。売春は公然と行われ政府もそれを認めていた。街道沿いの宿にはすべて飯盛り女、つまり売春婦がおり、人々はお茶でも飲むように売春婦を買った。そのため性病は成人の間に蔓延していた。売春婦はその多くが病気になり25歳の年季明けを待たずして死んだが、そうした売春婦も年季明けを迎えると普通の結婚をした。人々も売春婦だったことを理由に受け入れを拒むようなことはなく、芸者としてのしつけがしっかりとなされた社会人として受け入れいていた。

8. 女の位相
娘は結婚するまではとても大切に育てられ幸せな子供時代を送る。しかし、結婚すると嫁ぎ先の姑、夫に仕え、生活は一変するのだ。このように女性の立場は建前上は男の下にあった。しかし、実態としては家庭の経済を握るのは女性がしっかりしている場合には妻であり、多くの家庭では女性の方がしっかりしていたため、女性の家庭での力は夫より強かった。子供が成人すると女は姑となり安逸な生活に入る。新妻時代の苦労は姑となったときの安穏な生活で回復されるかのようである。女性に限らず中流以下の人々も比較的自由に旅行を楽しんでいるようだが、上流階級である侍階級の女性の方が外出の機会は限られていた。

9. 子供の楽園
子供は大変大事に育てられていた。どの家庭でも子供たちは自由に遊ばされていて、親が子供を叩いたり、大声でしかりつけたりはしない。さらに大人たちは大人の時間である食事や観劇、お寺参りなどへも必ず子供たちを連れて行くため、子供たちは大人の振るまい方を生活の中で身につけていく。子供たちは自由に育つ中でも大人の社会のしきたりや我慢、忍耐を学び、社交辞令を覚えたのだ。そして、12−3歳になれば立派に親の代理を務めることができるようになる。

10. 風景
農家は貧しくても生活に清掃されていて気持ちがいい。さらに裏山や木立などが家を取り囲み、さながら自然のなかに生活があるように見える。街道沿いの茶店は必ずすばらしい景色の場所にあり、日本人が景色を眺めて自然を楽しむすべを知っていることを物語る。自然の美しさを鑑賞する目は誰かに教わったわけではなく、日本人が生まれながらに持っている能力であるとも思える。四季ごとに咲く花や草木、秋には紅葉、雪景色など、一部の芸術家だけではなくすべての日本人がそれを楽しんでいる。人間は自然の一部であることをあるがままに受け入れているのだ。ヨーロッパの一般民衆が果たして景色の美しさを愛でるだろうか。欧州の農民たちの話題といえば明日の収穫であり今日の夕食である。

11. 信仰と祭り
日本人の武士階級に信仰のことを聞くと、「無信仰」と答える。日本人の知識階級は寺の僧侶に尊敬を払っているとは思えない。一般庶民も同様であるが、しかし道ばたの地蔵や村の神社で手を合わせているのはほとんどが下流階級の女性である。男や上流階級の人たちはお参りをしないようだ。祭りは日本人にとっては店が建ち並ぶ市であり娯楽である。お伊勢参りや善光寺参りは行楽旅行であり、決して宗教的な巡礼などの行いではなさそうである。日本人は神道と仏教の違いには無神経であり、さらにはキリスト教さえ簡単に受け入れるのには驚いている。キリスト教の布教にきた神父が寺の一角を借りて布教をしたいという申し出に、寺の僧侶はこれを受け入れ、場所を少し広げたいというと、そこにあった仏像などを倉庫にしまって場所を作ってくれたのだ。どこの国に異教徒に場所を貸してくれる宗教家がいるだろうか、これが宣教師たちの素朴な疑問であった。僧侶に限らず、日本人が外国からの訪問者に気持ちよく過ごしてもらおうと心を配っていたこと、外国人にも大いに感じられていた。

このような日本人の文化はすでに失われているという。筆者はこのような時代が日本にあったことを150年前の外国人の目から見た日本描写を通して我々に伝えてくれている。しかし、いまでもこれらの一部は残っている。気がつくのは次のような点だ。
ー宗教的儀式やしきたりは年中行事であり楽しみの一部でもある。お祭りやお寺参りは今でも残っている。
ー正月、七草がゆ、桃/端午の節句、お盆、七五三などは日本人に染みついた年中行事であり、それらの宗教的背景を意識することはない。
ー子供たちは比較的自由に育つ。
ー田舎には近所つきあいが残っている。
ー清潔好きであり、礼儀正しい。
ー年寄りを大切にする。
ー自然の美しさを鑑賞する心を持つ。
ー田舎には里山が残る。
沖縄には多くの古き良き日本文化が残っている気がする。しかし、こうした美しい日本文化は文明開花、殖産興業、富国強兵のかけ声とともに日本中で薄れていった。さらに太平洋戦争の敗戦で跡形もなくなったと思うものも多い。しかし、今でも残るいい部分、日本らしい思いやり、優しさ、長幼の序、四季折々の良きしきたりなど、なんとしても残したいと思う。すばらしい本を読んだ気がする。
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

2009年12月30日 横浜富貴楼お倉 鳥居民 ****

幕末から明治初めにかけて料亭の女将として横浜で料亭富貴楼を経営、当時の政治家や経済人を集め一世を風靡したといわれる「お倉」とう女性の話をとりまとめたもの。江戸一番のいなせな男で遊び人だった斉藤亀次郎に惚れて、一生養ったお倉は、もとは新宿の女郎屋豊倉の遊女だったが、そのときに亀次郎と知り合い新宿から品川に河岸を変える。しかしちょうど江戸幕府が瓦解、官軍の江戸入城があり江戸の町は火が消えたようになったため、亀次郎と二人で大阪に行きます。そして明治2年に横浜にきて、芸者を始めます。そのころ井上馨と知り合い、明治4年駒形町にあった松心亭を買って料理屋を始める。井上の知り合いの陸奥宗光は横浜の知事、その年から世界旅行に出かける伊藤博文も顔を出すようになる。店を尾上町に移した頃からは大久保、大隈、松方など政界の大物も顔を見せるようになる。なぜこうした政治家たちが東京ではなく横浜の富貴楼に集まったのか、後にお倉はこう述べていたという。
「幕末に京都の志士たちは京都の町中をさけて伏見に集まったように、横浜に見えたと思うのです。それにできたばかりの汽車に乗りたかったのですよ。明治5年に開設された新橋ー横浜の鉄道は近代日本の象徴だった。しかし10年前までは江戸の時代、開国と攘夷がまだ戦っていた、そうした時代に新しい日本をどうするのか、前例もない中での政治だった。そうした中で、鉄道に乗って自信を付けたかったと思うのです。」
歴史で習うこうした面々は自信満々だったように思えるがそうではなかった、というお倉さんの証言である。お倉は三菱の岩崎弥太郎や後藤象二郎とも家族ぐるみのつきあいがあった。そしてこの富貴楼の座敷では様々なことが相談され語られた。その詳細は伝えられてはいないが、明治4年に店を開き、明治29年に大磯に別邸を建てて移転、明治39年に引退するまでの間、お倉が経営する料亭で数多くの政治家や経済人たちが語った中から、いくつかが紹介されている。戊辰戦争で西軍が東軍を追いつめる中、上野の戦いに負けて会津に下がり、その後どうするのか、蝦夷か桑名か、という土方歳三の決断もあったという。伊藤博文は上海からロンドンまでペガサス号に乗り込んで密航のような形でいった話も聞かされたという。

大久保利通の息子牧野伸顕、小泉信三もお倉の客だった。福沢諭吉の門下生だった竹越与三郎はお倉の働きを次のように紹介する。
「西郷隆盛が九州で反乱を起こしたときに、私兵を募って京都で政府に反乱しようとした陸奥宗光を大隈、井上、大久保は捕縛しようとした。これを知ったお倉は陸奥に腹を切ることを勧めている。おめおめと捕まるよりは名誉ある死を、というわけである。大隈と伊藤が明治14年の政変以降仲違いしていた仲を取り持ったのもお倉だ。岩崎弥太郎と井上馨の諍いの仲裁も行って、三菱と共同運輸の合併を裏で取り持った。」

鉄道が横浜から国府津まで延伸したのをみたお倉は明治29年に大磯に別荘を建て移転、そこで料亭を開設したのだが、伊藤博文、山県などそうそうたるメンバーも大磯に別荘を建てたり引っ越したりしている。先見の明があったのか、人望が厚かったのか、とにかく明治初期の女傑であった。
横浜富貴楼 お倉―明治の政治を動かした女
昭和二十年 第一部 (1) 重臣たちの動き 【1月1日〜2月10日】
昭和二十年 第一部 (2) 崩壊の兆し 【2月13日〜3月19日】
昭和二十年 第一部 (3) 小磯内閣の倒壊 【3月20日〜4月4日】
昭和二十年 第一部 (4) 鈴木内閣の成立 【4月5日〜4月7日】
昭和二十年 第一部 (5) 女学生の勤労動員と学童疎開 【4月15日】
昭和二十年 第一部 (6) 首都防空戦と新兵器の開発 【4月19日〜5月1日】
昭和二十年 第一部 (7) 東京の焼尽 【5月10日〜5月24日】
昭和二十年 第一部 (8) 横浜の壊滅 【5月26日〜5月30日】
昭和二十年 第一部 (9) 国力の現状と民心の動向 【5月31日〜6月8日】
昭和二十年 第一部 (10) 天皇は決意する 【6月9日】
昭和二十年 第一部 (11) 本土決戦への特攻戦備 【6月9日〜6月13日】
昭和二十年〈第1部 12〉木戸幸一の選択

2009年12月28日 雲の都(1,2,3部) 加賀乙彦 ****

永遠の都を夏に読んで、続編を読みたいと思っていた。この物語、登場人物が多いので、永遠の都から雲の都に至る主要な登場人物と親子夫婦関係と不倫関係を図にしてみた。

永遠の都では戦後、悠太が幼年学校から帰ってきて、父の悠次に戦争の意味、大人の身代わりの早さについて追いつめた。妹央子がパリに留学して、希望を感じさせ終わっている。雲の都は昭和27年から始まる。透はその後弁護士になり多忙な生活、夏江は透が火之子を八丈島に連れて帰り5歳まで父子で暮らすが、東京に帰ってきた。夏江は31歳になって女子医大に入学、医者を目指すため、初江が火之子を預かっている。この昭和27年の頃にはまだ戦争の傷跡がひどく、西大久保の小暮家の周りは、米兵相手の連れ込み旅館が建ちいかがわしい歓楽街へと変貌していた。夏江と透は一度別居したが 今はよりを戻そうとしている。悠太は東大医学部に合格、医者を目指しながら亀有の セツルメントで地元の人たちへ診療所と託児所を開設している。菜々子は悠太を慕うが悠太にはその気はない。セツルメントに出入りしている浦沢明夫は菜々子を思い、悠太に告白する手伝いをしてもらう。菜々子は明夫の思いを受け入れ結婚する。60年安保前夜の騒然とした世の中で、左翼右翼がうごめく中、悠太は活動する中で資金が必要となり、初恋の人富士千束の リサイタルを開き、そして桜子と一緒に五郎の絵の展覧会を開いて収入を得た。桜子は夫となった野本の造船会社から得られる収入で、華やかな生活を送っている。ヨーロッパに留学中でシュタイナー先生に師事している央子はパリでデビューし、成功をおさめる。

悠太は東大医学部を卒業、精神科の研修医として松沢病院に派遣され、東京拘置所で医官として様々な犯罪者と出会う。「宣告」で描写された精神の病、犯罪者の心の闇が語られる。戦後の有名になった事件の死刑囚達と面談、なぜ犯罪をおかしたのか、今はどう思っているのか、死を受け入れているのかなどヒアリングし、資料としてまとめる。悠太は晋助と時田利平のカルテを探し、見つける。悠太が精神医学を志したのは祖父利平と晋助がヒロポン中毒と精神の病をきっかけにして死んだことにあるのだろう。そして桜子との逢瀬、桜子は悠太との間に子供を産み、夫の野本もそれを自分の子と認知、名前を武太郎と名付ける。この間、央子はロンティボー国際コンクールで優勝し、一層名声を上げる。

そして時は1964年、東京オリンピックが開催される年だ。悠太は35歳、火之子の本当の父親は間島五郎だったことが医学的に証明されてしまう。調べたのは悠太、夏江は透にこのことをすでに告白していたが、透は動揺し火之子とぶつかり、火之子は家を飛び出してしまう。学生運動の全共闘が登場、自分に反対する勢力は反革命勢力だ、と支離滅裂な屁理屈を主張、悠太とぶつかる。この構図、小泉劇場と同じだ。央子はヨーロッパでの成功を手みやげに帰国、シュタイナー先生の息子ピエールとの結婚を決意、日本で活動する。桜子は50歳、悠太は40歳になり、桜子は一度アメリカの葡萄園主のお金持ちと結婚し離婚して帰国していた千束と悠太を再会させる。悠太は千束にプロポーズ、二人の結婚に反対していた千束の父は痴呆になっていて、反対する人もなく二人は結婚に同意する。そのころ学生運動の火の手は西大久保の木暮家にも及ぶ。学生運動を押さえつけようとする機動隊、それを見物する野次馬達に家が蹂躙され、住めなくなってしまう。この土地を売ると1億以上になるとわかり、初江夫婦と悠太は本郷のマンションを買うことになる。最後は透の死だ。透は末期ガンであることがわかり、家を飛び出していた火之子に連絡、父が自分のことを実の子ではないと嫌っていると思いこんでいた火之子だが、結局火之子は父の透と最後の時を過ごすことを決める。約1年、二人は最後の時を過ごす。

物語の力としては時田利平という傑物が主人公であった永遠の都には遙かに及ばない。雲の都は悠太が主人公、筆者にとっては自分だからだろうか、どこまで書こうか迷いながら書いたのだろうか。しかし永遠の都との共通項は、身近に感じられる時代世相だ。永遠の都は戦争であったが、雲の都は戦後復興と学生運動だ。悠太にとってみると学生運動などは所詮絶対殺されることはない安全地帯からの国家権力への遠吠えであり、国家権力も催涙弾と水でこれらを排除するだけ、戦争時代の強力な統制からはほど遠いと感じている。さらに、学生たちの主張が独りよがりで、戦争時代、国民が国家の呼びかけで国を挙げて戦争に突っ走ったこととの共通項を見いだすのだ。

筆者の精神科医としての描写も興味深い。「悪魔のささやき」という単語が数回登場、死刑囚が殺人を犯した理由、学生運動、男女関係さまざまな場面で使われる。これは新書「悪魔のささやき」で詳しく語られている。また、「フランドルの冬」を書いた筆者の様子が物語の終盤、J大学での学園封鎖により時間ができた悠太が取り組む小説として登場する。

「雲の都」の読みどころ、ポイントは戦後の時代世相、精神科医としての死刑囚心理描写、学生運動と太平洋戦争時代の思想と言動の相似形、加賀乙彦の自伝であるといってもいいのだろう。
雲の都〈第1部〉広場
雲の都 第二部 時計台
雲の都〈第3部〉城砦
死刑囚の記録 (中公新書 (565))
宣告 (上巻) (新潮文庫)
宣告 (中巻) (新潮文庫)
宣告 (下巻) (新潮文庫)
不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)
小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)

2009年12月27日 葡萄と郷愁 宮本輝 ***

葡萄と郷愁、象徴的な小説。東京とブダペストの女性がそれぞれの状況から脱出できるチャンスをつかむ。同じ日の時差7時間ある別地点での二人の女性の心の葛藤を描く。

沢木純子はロンドンに住む外交官村井から何度も国際電話をもらいプロポーズに「はい」と答えている。外交官夫人になりたいという気持ちと、今までつきあっていた幼なじみの孝介とを比べている。孝介との思いではあるが、村井と結婚しようと決めている。それなのに孝介との最後と思えるデートに出かける。その途中で友人の真紀に出会い、真紀から村井との関係を打ち明けられる。しかし純子の心は変わらない。孝介とのデートでは、孝介の自宅でセックスをするが心は村井に向かっている。もう決めているようなのだが、心の中での迷いがかえって反対の行動をとらせているようだ。幼なじみで両手をなくしたいつ子のことを思い出し、彼女が結婚することを聞く。いつ子に電話して自分の迷いを打ち明けるが、いつ子は村井との結婚は孝介と決着がつけばうまくいくと励ましてくれる。孝介に共通の郷里岡山から送ってきたというおみやげの葡萄をもらう。

孝介と分かれた後、モロッコ旅行から帰ってきたばかりの先輩の岡部晋太郎と偶然出会い、おでん屋で晋太郎が離婚したことを知り、復縁を進める。タクシーで家に帰る途中、おでん屋にブドウを忘れてきたことに気がつくが、そのまま家に帰る。そこに村井からの電話があり、挙式の日取りを決める。これが一つの話。

同時進行でブダペストのアーギとい若者が偶然であったアメリカ人未亡人の養女になるという申し出を受けるかどうかを悩んでいる。ハンガリーはまだ共産主義の国、自由が制限されていて好きなことができないが祖国は愛している。こちらも大学の友人や恋人がいて、町の居酒屋で葡萄酒を飲んで、悩みを打ち明け、シンデレラのような養女の話に友人も耳を貸している。しかし、祖国と友人、そして自分の父親は捨てられず、ハンガリーに留まろうとする。アメリカ人未亡人から国際電話がかかってくるのだが、電話回線が悪く受話器をあげるとすぐに切れてしまう。これがもう一つの話。

純子は郷里の葡萄をおでん屋に忘れてロンドン行きを決め、アーギはハンガリー産の葡萄酒を飲んでブダペストに残ることを決める。1990年の小説であり、ソ連がまだあって東欧諸国は暗い日常が続いていた。一方の日本はバブル景気で浮かれていた頃だ。逆の決断になりそうな気もするが、主人公たちは自由な国からは脱出し、不自由な祖国にとどまる決意をした。アーギも思い切りよくアメリカに行ってほしかった。どちらも半日の話であり、半日の中に二人の育った故郷や両親、幼なじみの思い出が絡み合って、現在の決断につながる。葡萄は土地が乾燥していて栄養が行き届かない土地でも育てようによっては豊かに育つという。両親がどのようにその子を育ててきたのか、子供が故郷と育ての親のことをどう考えて生きてきたのかが決断につながっている。
葡萄と郷愁 (光文社文庫)

2009年12月26日 百代の過客 ドナルド・キーン(上・下) ****

アメリカ人の筆者に日本の古典日記を教えてもらった。蜻蛉日記では次のように評価する。「この日記が持ついちじるしい特徴は強烈な女性的性格だといえる。自分を客観視しようなどという気持ちは毛筋の先ほどももたないという、ある女性の不幸な記録である。この世に自分ほど深く悲しんだ女性は誰一人いないと確信し、読者にもそれを味あわせようと、彼女は心に決めていたのである」道綱の母として知られるが、夫は藤原兼家、政府高官である。彼女は息子と夫、この二人以外には関心を示していない。彼女は平安女性の生活の悲しみを読者に伝えようとしているというのだ。キーンはこの蜻蛉日記と奥の細道を日記の傑作としているが、無名の日記にも大いに関心を示している。聞いたこともない多くの日記を紹介する中で、日本人が書く日記と西洋人の日記の違いを次のように解説する。「日本人の日記に主に記されるのは自分の心の中とその動きであり、西洋人のようにどこで何を食べて、誰と何を話したかではないのである」

キーンは太平洋戦争中は従軍し、日本兵が戦場に残した日記を収集するという活動をしていたという。米国軍は禁止していた日記を日本兵の多くが書き、それらは結構有用な情報源となったからである。そして日本兵の日記の、それも死ぬ間際になればなるほど、どんなに文学的才能がないと思われる兵士の日記ににも感動を誘う記述がみられたという。

日本人が残した平安時代から幕末までの80編の解説、朝日新聞での連載を上下の本にしたもの。価値ある書き物だと思う。
百代の過客―日記にみる日本人 (上) (朝日選書 (259))
百代の過客―日記にみる日本人 (下) (朝日選書 (260))

2009年12月25日 オーケストラ楽器別人間学 茂木大輔 **

オーケストラの担当楽器別性格診断。大学のオーケストラが淡路島の合宿にいって、夜の練習が終わった後、飲み会になり、二次会で八畳の部屋で飲んでいて、ふっと話題が切れたときに、この本があれば結構盛り上がるかもしれない。そんな本。僕はトロンボーンだった。どうなっているかというと、酒飲み、開けっぴろげでいつも上機嫌、という性格診断、まあそうだけどネ。
オーケストラ楽器別人間学 (新潮文庫)

2009年12月24日 平成今昔物語 村林悟 ***

特別すごい、と思う本ではなかったが、まさに自分の人生と重なる昭和史がかいつまんで紹介され、実に懐かしかった。昭和23年に三重県に生まれ育った筆者が自分の子供たちに伝える昭和の歴史、という形で語られる。昭和史を平成の今から眺めているのでこういうタイトルになっている。僕は昭和29年(1954年)生まれ、自分史に重ねてそれぞれのエピソードを読んだ。

南極観測船「宗谷」、初めて南極に出かけたのは1956年、僕も小学生の頃にプラ模型で「宗谷」を作った記憶がある。太郎次郎を置き去りにして逃げ帰ったのが第二次南極観測だった。氷に閉じこめられた宗谷号はソ連の砕氷船にロープで引っ張ってもらったがダメだったという。結局ヘリで脱出、アラスカ犬16頭は置き去りにされた。いや、思い出した、作ったプラモデルは次の「富士」だったはずだ。南極砕氷のための船翼のメカニズムがついていたからだ。その次の「しらせ」も老朽化している、というのは平成の今の話だ。

伊勢湾台風では5000人以上の人が死んだ。1959年というから、僕は京都に住んでいた。潮岬から伊勢湾に向かったため、京都でも停電があったと思う。当時台風でなくても停電は普段でもあった記憶がある。電力供給はまだ不十分だったのだ。家に電圧を上げる道具があった。それがないと電圧が下がってテレビの映像が半分くらいに縮むのだ、今の人たちには信じられるだろうか。しかしである、停電になっても蝋燭をともして結構生活できるのだ。電気冷蔵庫もテレビも炊飯器もなかったからだ。うちに炊飯器がきたのは1961年頃、冷蔵庫は62年やテレビははやくて浅沼委員長が殺されたニュースを何度も何度も見た記憶がある。64年東京オリンピックの時にはカラーテレビ導入が検討されたが、当時天然色といわれていたカラー放送はまだあまりなく我が家では見送られた。62年の冬には大雪が降り、京都でも30センチ積もった、第二室戸台風では京都は伊勢湾台風より大きな被害があった。同じくらいの台風はもう来なくなった。停電もないし、あのころの台風前のなぜか「ワクワクする」子供の思いを感じている現代の子供たちはいるのだろうか。

60年安保と岸伸介。近所の子たちと「安保反対あそび」をしていた。「あんぽはんたい」と叫びながら歩き回る、という単純な遊び、近所に警官の息子がいてそいつが僕の子分だったので、いつもその母親が出てきて「こら、やめなさい」怒るのだから楽しいことこの上なかった。「ハガチー帰れ!」遊びもあった。子供はなんでも遊びにしていた。岸伸介も暴漢に刺されたが命を取り留めた。祖母は岸が死んで浅沼さんは生きていてほしかった、と言っていた。

ケネディ大統領が死んだのは祖母に教えてもらった。暗殺って何、と聞いたら、悪いやつに殺されることだと答えた。誰?と聞いたらわからない、と祖母は答えた、その通りだったのだ。少し前の1960年だったと思うが、ソ連のスプートニクが月の裏側の写真を撮り、日本の新聞にもその写真がある面一面を使って掲載され、我が家では玄関、といっても狭いアパートだったのでそのドアの内側に貼ってあった。ただの月の表面じゃないか、と思ったが大人たちは「ソ連はすごい、アメリカなんかそのうちソ連にやられてしまうぞ」と言っていた。ガガーリンが初めて地球外飛行をしたのもこのころ62年だ。翌年、ガガーリンは日本にもきた。僕はガガーリンバッチを買ってもらい長いこと宝物にしていた。65年には女性初の宇宙飛行士テレシコワが「私はカモメ」と言った。ソ連の方がアメリカより進んでいると思っていたので、僕は大きくなったらモスクワ大学に行きたいと思っていたのだ。

東京オリンピックの前は、五輪音頭や「オリンピックへの道」というクイズ番組があって盛り上がっていた。これはすごい盛り上がりであり、今の東京招致どころではなかった。国民をあげて東京オリンピックをみたい、成功させたい、日本をいい国にしたい、という雰囲気で国中があふれていた。僕の叔母は当時中学生、僕は小学4年、叔母は中学代表として東京オリンピックの開会式に行った。これはうらやましかった。何しろ、夢の超特急にも乗れるのだ。帰ってきたら話を聞こうと思っていたが、テレビですべてを見ることができたので、なんでも知っていたので聞くことはなかった。五輪期間中でテレビ中継が目白押しなのに、同級生たちが放課後ドッチボールをして遊んでいるので、「こんな世紀の瞬間を見なくてどうする」と思いながら毎日学校から飛んでかえってテレビにかじりついていた。印象に残ったのは東洋の魔女バレーボール、重量挙げの三宅、マラソンの円谷、競技場でイギリスのヒートリーに抜かれたのだ、これは「なにしてる!!」と叫んだものだ。

ベトナム戦争は知らない間に始まっていた。東京オリンピックが終わってすぐ、トンキン湾事件と報じられたと思ったら「北爆」という聞き慣れない言葉がテレビで毎日伝えられるようになった。ベ平連や学生の反米デモが繰り返され、テレビドラマですばらしい国だと思っていたアメリカがベトナムの人をいじめている、という印象だった。ゴジンジェム政権、グエンカオキ、ホーチミン、テト休戦、17度線などという言葉が耳にタコができるほど報じられた。ジョンソン大統領は戦争をやめられず、ニクソンが戦争を止めると公約して大統領になったのだが、なかなかやめられず、パリ合意にはずいぶん時間がかかった。73年に休戦合意してからもしばらくは戦争は続いていた。僧侶が焼身自殺する映像が何回もニュースで流されて、反戦疲れもあった。僕が小学生から高校生までの間続いたベトナム戦争、その間反戦歌としてフォークソングははやり続けた。高校3年間はずっとフォークソングを歌っていた気がする。「戦争を知らない子供たち」「イムジン河」フランシーヌの場合は、で始まる歌もあった。

佐藤栄作は非核三原則と沖縄返還でノーベル賞をもらった。ちょうど今、沖縄への核持ち込み密約の契約書が見つかった。ノーベル賞はどうなるのだろう。「私は嘘はもうしません」で有名になったのは池田勇人だが、佐藤栄作は今の今まで嘘を突き通してきたということになる。

中国の文化大革命とはなんだろう、実に訳がわからない革命だ。毛沢東が腹心だった林彪を殺害した(報道では飛行機でソ連に逃げる途中で墜落したとされたが、誰も信じなかった)。若者が自分の親や大学の先生たちをつるし上げて、毛沢東語録を手に持って行進しているすがたが報じられた。それまで1949年に独立した中国には何も印象を持っていなかったが、なにか得体が知れないと感じたのだった。造反有理、革命無罪というスローガンだったが、高校一年生の時に教室の掲示板に貼ってあった「造反有理、紙は醒めているか」意味がわからなかった。

成田空港反対運動はいったい誰が反対していたのだろう。国際化する中、羽田は手狭だから千葉の不便な成田に空港を作る、それに反対するのだったら少しはわかるが、建設そのものに、そしてその手続き、手順に反対したのだ。当時社会党や共産党も反対していたが、今ではどの党の議員も海外に行くときには成田から飛行機に乗っている。土地を手放さなければならなかった人たちには同情が集まったが、それは成田に限らない。どうして成田闘争、などという長期間にわたる騒ぎになったのか、誰かの政治的判断ミスだ。

ソ連のチェコ侵攻は1968年、中学2年の時だった。当時はチェコスロバキア、プラハでドプチェクという大統領が国の民主化を図ったが、ソ連がそれを戦車でつぶしたのだ。ソ連のそれまでの良いイメージがつぶれた事件だった。北朝鮮だって東京オリンピックの時には手を横に振る入場行進を見て,いい国だと思った。ソ連も中国もいい国という印象だったのが、このころにみんなつぶされた。それはアメリカも同じ、世界に良い国はないのかという気がした。

大阪万博は1970年3月に開幕、当時僕は中3の春休みが始まったばかり、暇な春休みの3月17日に万博に行った。まだまだ開幕直後で入場者数が一日15万人くらい(当時入場者数が毎日新聞に出ていた)、大人気のアメリカ館、三菱未来館にもノータイムで入れた。5月には友人と買ってもらったばかりのカメラを手に、英語の実践に万博に行った。外人がうじゃうじゃいるのは勉強のチャンス、というわけだ。準備していったフレーズは次の通り。「Excuse me, Would you please take a picture with us?」 これを外人とみれば言い寄るのだ。最初の外人は高校生が二人急に近づいてきたので、びっくりしたようだったが、「picture?」とかいいながらカメラを取り上げようとするので、「with us」と連呼しながらカメラを取り返した。しかし、とにかく通じたのに気をよくして10人以上の外人と写真を撮った。結局通じた単語はpictureだけだったようだったが満足だった。

三島由紀夫が割腹自殺したのもこの年だった。森田必勝という若者が介錯したと報じられ、そっちの方に反応した。介錯って侍でもないのにできるのか、と思ったのだ。よど号ハイジャック事件もこのころだ。ハイジャック、というおしゃれな言葉も初めて知った。このころ英会話学校に行き始めて、この話題になり、ハイジャックがちゃんとした英語だということも知った。船ならseajack、Jackというのは悪いやつなのだ。70年安保は10年前のようなデモにはならなかったが、大学紛争では多くの死人がでた。10年前は樺美智子さん一人が死んで大騒ぎだった。高校に入って驚いたのは、5月1日メーデーの日には学校が2時間目で終わり、先生たちはバスを借りてメーデーに出かけてしまったことだ。生徒は自習、当然みんなさぼって帰ったが、僕たちは先生が出かけていったというメーデー会場に行ってみることにした。宇治川の塔の島が会場、大勢の人たちがいた。先生に見つかるにはいやだったが、先生たちがさぼっているのだ、と思い、先生を探しに行ったのを思い出した。その後どうなったのか記憶にない。

田中角栄による日中国交回復は1972年、ニクソンの頭越し外交に遅れること一年、日本も中国と国交を回復したというニュース、ぴんとこなかった。なぜなら国交などなくても商売はやっていたし、人は行き来していたのを知っていたから。パンダがきたので良かった、というのが印象だ。田中角栄は列島改造論で建築ブームが起きた。僕は大学志望を建築学部にしようと思っていた、短絡的だった。大学入学は1973年4月、次の年にはロッキード疑獄で田中角栄は逮捕、ブームは終わった。

オイルショックは突然やってきた。中東戦争が起きて、石油から作られる製品がなくなるという噂からトイレットペーパーや洗剤の買い占めが起きたのだ。実はこのころ我が家ではトイレットペーパーを使っておらず、落としがみだった。トイレットペーパーなどなくなっても平気だと思っていた。実際すぐに店先にペーパーは復活、実際にはいくらでもあったのだ。しかしガソリン代はそれまで50円だったのが100円になった。これは元には戻らなかった。

浅間山荘事件は、高校2年生の冬だった。テレビで浅間山荘に警官が突入する様を実況中継しているので、授業を抜け出して食堂でテレビを見ていた。「どうしてほかの生徒たちや先生はこれを見ないのだ」と世紀の瞬間を見逃しているみんなを不思議に思ったものだ。すごいのは、鉄の玉で浅間山荘をたたきつぶす作業、大迫力だった。内部リンチがあったこともわかり、これ以降もうだれも過激派に肩入れすることはなくなったと思う。

うーん、こうして書いてみると、1960年から1977年3月僕が大学を卒業するまでの日本の出来事は興味を引かれる面白いことがいっぱい起きている。それに引き替え1980年以降の日本国内は平穏なのだ。民衆の怒り、国外からの脅威、戦争の恐怖、国家への不信などが大きな渦となっていたのがその期間。2010年海外は大変なことが沢山起きるのだろうが、日本の国内は引き続き平穏な年になるのだろうか。
平成今昔物語

2009年11月2日 あなたみたいな明治の女 群ようこ ***

選ばれた女性がバリエーションに富んでいて面白かった。森鴎外の母、峰子は1846年生まれで長男の鴎外(林太郎)を溺愛する。悪気はないが、林太郎の妻茂子に経済を任さず、林太郎の日常の面倒までみている。鴎外はこうした家庭生活を小説「半日」に書いている。峰子は家族にとっては面倒見がいい母親であったかもしれないが、周りには相当迷惑なおばさんだったのではないかと筆者は言っている。息子の林太郎の大学での成績にまで口出しをしているのだ。担当教授のところに押しかけて点数を上げるように交渉していたことが日記に書かれているという。教育ママであり、結婚後も日常の面倒をみて財布も握っているとしたら、妻の茂子は立場がなかっただろうと思える。

高群逸枝は結婚して小学校代用教員となるが、物書きとなるべく執筆に専念する。多くの研究や詩集なども発刊しているが、筆者はもっぱら高群が飼育してかわいがったニワトリについて書いている。筆者にとってみると「あの高群が」という気持ちがあったのだろう、高群がニワトリを可愛がるときには我が子のように接していたというのだ。これが子供がいなかった高群夫婦円満の秘訣でもあったようだ。

木内きゃうは小学校教員となり、小学校校長から参議院に選出されている。若い頃から年をとるまでずっと働きづめで、休むいとまもないような人生を送ったらしいのだが、それが筆者には新鮮にうつっているようだ。「あんまり一所懸命なので鬱陶しいくらい」と評している。

富本一枝は雑誌「青鞜」編集部に1年勤務、平塚らいてうの「愛人」ともいわれた男勝りの新しい女であった。絵の才能を生かしてその後も活動をするが、富本憲吉と結婚、家庭的な人になる。しかし憲吉は外に女性を作り家を出てしまう。それでも子供を育て家庭を守った。

福田英子は頭がよかったが男運が悪かった。子供たちに読み書き算術を教えて一家を支えた。大井憲太郎の大阪事件に関わったとして入獄、出獄後大井の子供を作るが離別。その後福田友作と結婚、しかしその後も苦労に苦労を重ねる。死ぬ間際の言葉「男はだめだ、勲章や位階をほしがるからね、その点女はいい、そんなものにき求めないからねえ」

宮田文子は波瀾万丈、思いつき通りに行動して、その思いつきが当たるのでそこそこの行動ができた。「こんな女が明治時代に本当にいたのか」というのがこの人の人生を紹介された本を読んだときの感想だそうだ。二度の結婚と離婚、政友会機関誌の記者を経験してパリへ移住。パリのファッションを日本にもたらすため資生堂の子供服部主任となる。レストランを開業したりピストルで顔面を撃たれたりまさに波瀾万丈である。

網野菊は志賀直哉の弟子として小説を書いた作家であったが、小さい頃母が姦通罪で入獄、父は再婚した。母は菊が
女学生の時に出所してきて学校帰りの菊に会いに来るが、あまりにみすぼらしく感じ冷たく接する。小説の愛読者であるという孝一と結婚、しかし結婚生活は思い描いたものとはかけ離れており離婚、その後一生一人で過ごした。

こうした女性たちを群ようこは自分の手元に引き寄せて、自分だったらどうかと考えている。いずれの女性もその一生の一端がわかるような記録があるのだから、小説家や議員などその道での一流の女性であったはずだが、この本では一流の部分にはあまり焦点を当てずに、何気ない個人生活について興味ある部分を拡大して読者に見せているのだ。それが明治時代に活動していた女性たち、ということで、この時代にもこうした女性たちがいて、今の女性と同じような苦労と楽しみ、悲しみを持っていたのだとよくわかる。また明治時代の女性の立場、それに反発した女性の気持ちがよくわかる。男性の立身出世物語では内分、本物の歴史が感じられ「おんなの昭和史」というような感想を持つ。筆者もそれを狙っているのだろう。
あなたみたいな明治の女(ひと) (朝日文庫)

2009年12月21日 仏教と儒教、仏教と神道、キリスト教とイスラム教、仏教とイスラム教 ひろさちや ***

昨年のラマダン期間中、日本事情紹介番組「Thought(改善)」が、サウジ、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク等のアラブ諸国視聴者の間で大反響を巻き起こしたという報道がありました。番組では日本人の規律、社会的モラルに焦点を当て、サウジ人の習慣やマナーが対比して紹介されました。番組放映期間中、ジッダで行われた名古屋グランパスと地元サッカー・チームのアル・イティハドの対戦は2対6で日本チームが敗れましたが、試合後日本人サポ−タ−が観客席を清掃して引き上げたことを賞賛する記事が掲載され、企業や学校、家庭等で日本人を見倣う光景が見受けられるようになったということです。


当該番組での、アラブ人からみた日本人の道徳と経済発展紹介例は次の通り。

1. 日露戦争でバルチック艦隊を打ち負かし、太平洋戦争敗戦で壊滅的被害を受けたあと復興、経済発展した。背景に国民道徳の高さがあるのではないか。

2. 自国語と自国文化を尊重している。 抽象概念や技術用語も日本語化、高等教育もすべて日本語。デパート・旅館のお辞儀、上履きによる施設内清潔維持なども素晴らしい。

3. 狭い国土と創意工夫。 畳と布団による部屋の有効活用、パーキングタワー、屋上のテニスコート、トヨタ生産管理など。

4. 学校での清掃は生徒が行う、道路・公園をきれいに保つ努力をする、誰かの説教や命令はない。

5. 誰でもが「目の前にあること」の改善をすること、改善範囲拡大に躊躇がない。

6. 学校では給食を生徒が配膳、残さず食べる努力をし、後片付け。その後、歯磨き、(ティッシュペーパでなく)タオルで顔を拭く。清潔でありエコである。

7. 他人への思いやりがある。トイレの音姫、アイスに適量のドライアイス、濡れた傘に袋、電車中での携帯電話不使用、駐車スペースにはみ出さず駐車、電車座席につめて座る、旅館で客が布団をたたむなど。

8. 路で拾った財布を警察に届け、警察もそれを持ち主に返す、正直と信頼がある。


番組の解説では、これこそイスラムが目指す理想的国家像ではないか、というのです。「親切と思いやり」を教義とするイスラム教を知るためのヒントになる話だと思います。一方、このような日本人の規律的な行動様式には、多くの場合意識された宗教的背景はないと思います。日本人に道徳に対する向上心、責任感が強いのは、「礼儀は大切だ」、「人様にに迷惑をかけない」、できれば「世の中のお役に立て」などという価値観を親が子に伝え、社会人として子を世の中に送り出すことを自分の役割と感じているからだと思います。戒律の締め付けなしに理想を実現する日本人にアラブ人からの関心が高まっているのです。

多くの日本人は「自分は無宗教」などと言いますが、日本の婚礼や祭礼には必ずと言っていいほど宗教的背景があります。そして、私たちが考えている「道徳」の多くは宗教的教え、戒律と重なる部分が多いのです。日本でのこうした道徳観は儒教の影響が大きいと言われていますが、儒学とも言われる儒教は宗教なのでしょうか。国交正常化前、中国のケ小平が、日本から西園寺公一を迎えたときに、西園寺が日中戦争から太平洋戦争の侵略を詫びたところ、逆にケ小平が、漢字と孔孟思想を輸出してしまったことを詫びたという逸話を司馬遼太郎が紹介しています。戦争は十数年で終わったが、漢字や思想は大和言葉と八百万の神の国の日本人を1000年以上苦しめたのでお詫びしますと言う話。孔子、孟子は男尊女卑、克己復礼を1500年も前に日本にもたらした、という中国人らしい時代感覚のユーモアです。実際には日本人はそれらをうまく取り込み、150年後には漢字で古事記を編纂、儒教も教養や道徳観として取り入れ、その後仏教の広まりとともに儒教は廃れますが、江戸から明治にかけて国家や家族の価値観確立のために忠孝思想が強調され、朱子学などの学問として再び着目されたと言われています。中国から輸入した忠孝思想を基礎に教育勅語、軍人直喩を作り、それらで教育された軍隊が中国に攻め入った歴史をケ小平は皮肉ったとも解釈できます。


5世紀頃に入ってきた儒教の『仁・義・礼・智・信』は、謙譲の精神を持つ高人格者が、天子(君主)を補佐することで理想的な政治が行われる際に必要な五徳だとされています。

 仁:思いやり、慈しみ。

 義:人道に従うこと、道理にかなうこと。

 礼:社会生活上の定まった形式、人の行なうべき道に従うこと。

 智:物事を知り、弁えていること。

 信:嘘を言わないこと、相手の言葉を疑わないこと。

その後中国でも日本でも為政者が人民統治に都合の良い『忠・孝・悌』を加え、換骨奪胎、中身が入れ替わってしまったと言われていますが、儒教の唱える五徳は日本の民衆レベルの教養の中に根付いていると感じます。

仏教も儒教と同じ頃日本にもたらされていますが、それを国家の仕組みとして定着させた立役者が空海だと言われています。『三教指帰』(さんごうしいき)は空海が24才のときに書いた書物、「三教」とは当時日本にあった儒教、道教、仏教のこと、空海はこの三教の思想をユニークな人物達に語らせます。儒教を代表する亀毛(きもう)先生は学問と仁・義・礼・智・信が大事であると説き、そうすれば出世や結婚もできて幸せになれると言います。道教の教えを代弁する虚亡(きょむ)隠士は不老長寿となって仙人になる教えを説き、自由に生きるべきだと言います。最後に仏教を代表する仮名乞児は、苦しみから解放され救われる道は仏教だと他の二人を説得します。こうして儒教が唱える道徳も仙人の幸せも仏教の一部として取り込んだ仏教が日本では広く布教されていくことになります。空海自身はその後、唐で密教を学んで、天皇を頂点にいただいた国の形の中に、密教の儀式と教えを組み込むことに成功、天皇をまつりごとの頂点におきながら、仏教が国家統治の理論的支柱となる形態に移行していきます。この形がその後の摂関政治、幕府と朝廷、象徴天皇と形を変えて現在にまで続いていると「空海の企て」の著者 山折哲雄さんは主張しています。

その後の歴史のプロセスでは本地垂迹(ほんじすいじゃく)や神仏習合があり、神道と仏教は民間習俗でもミックスされてきています。除夜の鐘を聞いて神社に初詣するのは、寺が神事に協力しているケースです。お彼岸に墓参りする習俗は仏教的ですが、明治時代には神道の春秋の皇霊祭と言われていました。お盆の送り火は神道の精霊祭の儀式をお寺が取り入れたと言われています。また、葬儀や法事は在家の行事でしたが江戸時代に檀家制度が確立されると同時にお寺の行事となりました。仏教は各宗派に別れ盛衰を繰り返し、明治維新には廃仏毀釈が行われ神仏間の争いもありましたが、神も仏も日本人の頭の中では大きな混乱なく同居し、儒教の教えは道徳として広く日本の民衆の中に根付いてきたと言われています。これだけの宗教行事を行う日本人は生まれたときから仏教徒であり神道信者だと考えた方が、生まれたときからイスラム教徒でありキリスト教徒である中東、欧米の人たちから正しく理解されると感じます。(外国で”What is your religion/denomination?”と聞かれた場合の平均的日本人のベストアンサーは”Buddhist/Jodo-Shinshu(例えば) & Shintoist, since those two have been mixed together in the Japanese history”だと思います。)

さて、仏教の理想は、欲望を少なくし、足るを知るこころを持つことです。そのためには「正しい考えを持ち、正しいと信じることをなす、規則正しい生活を送る」などの世俗的な欲を断ち切ることが求められ、「(不要な)殺しはしない、盗まない、不倫しない、嘘をつかない、酒を飲みすぎ(飲ま)ない」ことを求められます(キリスト教もイスラム教も宗教が共通して持つ戒律です)。その後、迷いや苦しみのない悟りの世界へ入ること、つまり涅槃の境地になれば自らも仏となることができるというものです。八百万の神がいて、解脱して涅槃の境地になれば仏にもなれる、さらには死ねば成仏、つまり誰でも仏になるという解釈は、人間はどんなに修行しても神やアッラーにはなれないキリスト教やイスラム教とは大きく異なる部分です。“God”の日本語訳はない、と言われる所以です。

多くの日本人はこうした仏教の成り立ちや歴史を強く意識してはいませんが、親が子に教える「我慢は大切だ」、「人に迷惑をかけるな」、「勤勉は美徳」、「身のほどを知れ」などはこうした複合的な宗教的背景の上に成り立っている価値観だと思います。4S運動(整理・整頓・清潔・清掃)や小集団活動が日本の製造業で根付く背景も、人々が意識の中に持つこうした価値観から来ているのかもしれません。経済活動一本槍から、社会貢献や環境推進活動、ワークライフバランス推進など短期的には会社の利益にならないようなことにも気を配る企業の社会的責任の考え方は、実は日本文化の奥底に流れる伏流水だったのだと思います。アラブの人たちに賞賛された日本人の「思いやり」や「慮る」こと、日本語には多くの類似語があり、英語に比べると宗教用語以外でも家族・周囲、弱者・社会、罪人・改悛者への思いやり、相手の気持ちや状況・背景などに気を配る日本人の語彙の豊かさを感じます。

こういう仏教、キリスト教、イスラム教、儒教のなぜなぜがわかる本、これがこのシリーズです。
キリスト教とイスラム教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と儒教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と神道―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教とキリスト教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)

2009年12月20日 シンメトリーな男 竹内久美子 ****

この人の本は面白い、科学の読み物ではなくて竹内さんのエッセイだと思って読めば楽しいのだ。本書のテーマはシンメトリー、生物が生き残るということは、寄生虫や感染症に負けずに育って、さらなる子孫を残す可能性が高いということ。それを見分けるのに雄も雌もパートナーがシンメトリーかどうかで判断しているというのだ。

1. 子孫を残そうとする雌はシンメトリーの雄を選ぶ。その際、シンメトリーは微妙な違いなので、フェロモン、臭い、体の模様や色などでも見分けるようになったという。
2. 人間の乳房はいつでも発情可能な印であるという。しかし大きければ良いというわけではなく、これもやはりシンメトリーが最良であり、大きいとシンメトリーが低下する傾向もあるという。シンメトリーが高い女性が多くの子供を産むということがわかっている。
3. 男の指は生殖機能を表す。薬指が人差し指より長い男性は精子の力が強いという。手足の指の左右の差が差が等しい男性の生殖機能は高い。
4. 女性の足は足首が引き締まり、アキレス腱がくっきりと浮かび上がっている女性の生殖器はよく発達している。
5. 排卵期の女性はピルを飲んでいない限り、シンメトリーの高い男性のにおいをかぎ分ける。
6. 男性は生殖の機会が高まると生殖腺を刺激し、ひげを伸ばす。
7. はげの男性の生殖能力は高い。そして胃ガン、結核。気管支癌、肺気腫になる可能性が低い。
8. シンメトリーな男性は運動能力が高く、筋肉質である。その男性の鼻は高い。
9. ウエストのくびれた女性は元気な赤ちゃんを産む。
10. 女性は女性化した顔を持つ男性を好む。東洋人は西洋人よりいっそう女性化した男性を好む傾向がある。そのため東洋人の顔は西洋人よりネオテニー(子供化←女性化)である。これは男性も同じ傾向。西洋の方が浮気の率が高く、現時点での女性能力が高いことが求められるため、大人の女性が好まれる。東洋では浮気が少なく将来の子供を産む能力が重視、子供っぽいかわいい女性が好まれる。

本当なのかどうかは分からないが、男性の指が気になる女性は多く、女性の足とおっぱいが気になる男性は多い。今後の研究を知りたい。
シンメトリーな男 (新潮文庫)

2009年12月19日 白州次郎の日本国憲法 鶴見紘 ****

良い本を読んだ、白州次郎については妻の正子さんのエッセイなどが雑誌に掲載されたりして有名になったが、白州次郎の一生全体をカバーした話を初めて読んだ気がする。



事業家である父文平は綿取引で巨額の富を得る。自身も若い頃米国ハーバード大学に留学していた文平は次郎17歳の時に英国ケンブリッジ大学に留学させ、月額1万円を送り続けたという 。1919年のこと、今の4000万円だというから桁違いだ。そこで親友となるストラッドフォード伯爵と知り合う。二人は終生友情をつなぐことになる。1929年日本が中国に進出、世界大恐慌のあおりで父文平の会社は倒産、次郎は帰国する。

帰国後、樺山愛輔の息子丑二と知り合い妹の正子を紹介され結婚する。文平は会社が倒産していたにもかかわらず結婚祝いとしてランチア・ラムダを贈る。いったいいくらしたのかは誰も知らないらしい。正子の父である樺山と外交官であった吉田茂はヨハンセングループといわれる戦争に反対する意見を持つ陣営にいた。白州はその関係から吉田に接近、お互いに24歳も年は離れていたが言いたい放題、意見を真っ直ぐに言う白州を吉田は買う。駐英大使となった吉田に白洲は同行し、英語が十分でなかった吉田を補佐する。

吉田の外交官としての働きも太平洋戦争は止められず、白州は鶴川に農地を買って正子と終戦まで移り住み、食糧不足の戦争中を過ごす。終戦後、戦前から白州の力を知っていた近衛や幣原喜重郎から対GHQ対応の窓口の仕事を依頼される。幣原のあと吉田が首班となるがその間に大きな課題となったのが日本国憲法であった。松本蒸治が中心となり日本案を策定するがGHQに却下、1週間後にはGHQ案が提示される。今日問題にされている「押しつけられた憲法」である。この間の白州の働きがこの本の白眉である。

白州は憲法草案策定中の松本にアドバイスする。「GHQ側が考えている案は先生が想定しているような生やさしいものではありませんぞ。少なくとも天皇の大権は大幅に制限する必要があるでしょう」これは松本が旧憲法の1−4条はそのままにしなくては日本の国ではなくなる、国民に理解されないなどと言っていたからである。そして一週間後GHQ案が日本側に手渡されたのだが、その場にいたのは吉田外相、松本国務相、白州であったという。GHQ側はこれが天皇制度を安寧させ恒久化させることができる案であり、これを受け入れられなければ、戦勝国側11カ国による憲法協議に入り、天皇制の維持も保証できない、と迫られたという。

マッカーサーがホイットニーに検討を命じた柱は次の3つ。
1.天皇の義務と権力は、憲法に従い、憲法によって定められる国民の総意によって実施される。
2.戦力の否定、陸海空軍の否認。
3.封建制度の廃止。
松本は、国体護持は国民の総意だと信じておりそれなしには受け入れられないと考えていたのだが、国民は「天皇陛下万歳」と口にして死んでいったけれども、本当はお母さん、お父さんありがとう、と死んでいったのが本当の心の中であったはず。天皇の戦争責任、というところまでは踏み込まず象徴天皇として残し、国民主権を柱とするというGHQ案はそのときの国民の総意であった。白州はこうした松本の心中をホイットニー准将に手紙で伝える。急がないでくれ、日本人がこれを受け入れるには時間がかかると。このGHQ案の日本語訳を白州と外務省の小畑が一晩でやれ、とGHQに命じられたという。吉田は国体護持派だったが、皮肉にもこの新憲法を公布したのは吉田が総理大臣になった年の1946年11月3日であった。

その後サンフランシスコ条約締結でも、白州は吉田とともに渡米している。吉田の演説原稿は当時の外務省の役人がGHQの担当者と相談して書いたものがあったらしいが、吉田は白州に相談、白州は内容をみて激怒、「日本人の誇りが全くない演説だ、書き直そう」といっさい書き直したという。

晩年は軽井沢ゴルフクラブの支配人、東北電力の会長、鶴川の農民として最後まで軽やかに、表舞台にたつことなく1985年永眠した。

こうした日本人がいたことは喜ばしい。今の日本には坂本龍馬も白州次郎も見あたらない。日本人の矜持、プリンシプルは現在の日本に当てはめるとそれは何であろうか。今の白州ブームでちょっと持ち上げられすぎていて「神話化」が進みすぎている気もするが、次の点はその通りだと思う。
1.英国のスノビズムを持った数少ない日本人だった。
2.今あるものはしょうがないから受け入れるという日本人にはプリンシプルがない、という白州の主張。
3.自動車は道具であり下駄だ。しかし持ち主の魂は乗り移る。
4.強いやつに喉元を押さえつけられていても言いたいことはいうべきだ。

お金持ちの坊ちゃんだが、英国式ノブリスオブリージュをたたき込まれ、人との交渉ごとは苦手で決して表舞台にはでようとしなかった白州、どのように評価できるだろうか。
白洲次郎の日本国憲法 (知恵の森文庫)

2009年12月17日 病気じゃないよフツーだよ 藤臣柊子 **

この本を読んでみようと思った理由が思い当たらないのだが、手元にあったので読んでみた。神経症で小さいときから苦しんでいる、今は漫画家の藤臣さんの闘病記だ。明るく書いてあるが、とんでもない状況への対応である。病院に行ってみよう、と同病の読者に問いかけている。筆者は漫画家、という神経症患者としてはたいそう恵まれた職業に就けたのだが、普通は芸術家やデザイナーなどで身を立てるのは難しい。毎日決まり切った事務所に出かけて、人と顔をつきあわせて、好きでもない仕事をこなす、時には怒られて、酷いときには能なし扱いもされるようなサラリーマンなら大変である。しかし、そうした人たちが多い、というのがこの本の存在理由だろう。

病院選びが重要だともいう、先生によって鬱病の症状が悪化することもあると。個人のクリニックが良いといっているが、先生次第だろう。大病院だと先生も替わるが中小であれば固定する。

会社でも「プレゼンティーイズム」が問題になる、鬱病の一種だろうが、会社にはきているが効率が上がらない、会社から出ると元気が出る、という都合がいいもの。さぼっているのだろう、と思われがちなこの症状、花粉症や頭痛などとも併発するから見分けがつかなくてやっかいだ。藤臣さんが最後にいっているのは、そういう自分とつきあわなければならないなら、できることをやってみよう、気持ちが晴れないなら山に登って、海にも潜ってみよう、と。一人でいたいときもあるが、一人では生きてはいけない、仕事をすることは重要だという。そうだろうと思う、引きこもりで親元にいるのが一番だめだと思う。いくら鬱病でも自分の面倒は自分でみたい、これが人間というものだ。それもできない重症の人もいるかもしれないが、なんとか突破する努力、これがなければ保護者なしでは生きてもいけない。

励まされる人は多いのではないか。
病気じゃないよ、フツーだよ―神経科に行ってみよー

2009年12月15日 歴史と小説 司馬遼太郎 **

司馬遼太郎は歴史小説が一番、こういう随筆は週刊誌で読むに限る、これが感想。細切れで読むと、利き酒7種セット、などという中途半端な心持ちになる。1. どれが本物かわからない(自分が悪いのだが) 2. 美味しいものはもっと飲みたくなる 3. どれも結局記憶には残らない 4. 次々と好きな方に持っていかれる気がする

それでも司馬遼太郎ファンとしては新撰組、龍馬、土方歳三、高杉晋作、池田屋騒動、などというと期待する。そう、読むと面白いのだが先の1−4を感じるのだ。

最後に、モンゴル語と日本語との比較があって面白かった。日本は漢字、漢語を取り入れたので抽象的概念や大和言葉にはなかった官位などをうまく表現することができるが、モンゴル語はそれができないため、科学的概念や技術を取り入れるため政治的決断をして、シリル文字を捨てて、ロシア文字に切り替えたという。そうか、モンゴルでは近代まで日本でいう大和言葉で暮らしてきたのだ。漢字を取り入れ、仮名とカタカナを発明した日本人の先達に感謝しなくてはいけない。これは収穫。
歴史と小説 (集英社文庫)

2009年12月13日 兇眼 打海文三 ***

殺人サスペンスにカルト教団が絡んでいると思ったら、実は教団に引き込まれて集団自殺してしまった親たちの子供たちが教団の資産を持って10年以上逃げ回る、それを突き止めるという話だった。打海文三は一筋縄では読まれたくないというひねくれた作家なのだろう。

江東区のマンションで殺人事件、殺されたのは洞口という物書き、同じマンションに住む夏子はその殺人に疑問を抱く。マンションの管理人の武井は前職が大学助教授、そのときに教授の娘に惚れられて一悶着の結果自殺されている。その際、目をけがした。夏子はそのことを突き止めていて、武井に洞口殺人事件の捜査を武井に持ちかける。洞口は11年前のカルト事件のことで子供が訪れてくることを夏子に伝えていた。カルト集団の資産5億円を持って逃げたというのは8歳から14歳の子供たち、夏子たちは子供たちを手引きした大人がいたはずだとの想定で捜索をする。

武井はさまざまな情報の切れ端から子供たちが潜むアジトを突き止めて夏子とその場所に向かう。5億円を追っていたのは夏子と武井だけではなかった。大須というやくざがやはり子供たちを追ってきた。夏子と武井は子供たちを見つけるが逆に監禁されてしまう。数週間後、大須もアジトを突き止める。大須と子供たち、武井との戦いで武井は大須を殺害、子供たちもけがを負う。

武井は戦いの達人でもやくざでもない普通人だが、夏子に誘われ子供たちを探すプロセスで子供たちの不幸を知り、何とか助けてやりたいと最大限の努力をする。

お話はこれだけだ。しかし、打海の小説の魅力は読者を放さない、なぜだろう。最小限の記述なので、ちょっと気を抜くと登場人物の状況をつかめなくなる。3行読み飛ばすと前後関係が不明になる、という経験を繰り返すと読者は一心に読むようになりお話につり込まれていくのだ。ハルビンカフェとも愛と悔恨のカーニバルとも違うジャンルの小説だと思う。
兇眼

2009年12月12日 歴史の舞台 司馬遼太郎 ***

本の前半3分の2は中国西域、天山(テンシャン)山脈の北、ジュンガリアと呼ばれる地域と南、タクラマカン砂漠の北の端にすむ人たちの話である。1977年と80年に訪れたと書いているのだが、一緒に行った人たちがすごい。井上靖、東山魁夷、団伊久磨、藤堂明保など10名である。当時、中国は積極的に外国人に旅行を許可していない状況であったが、長年功績のあった中島健蔵さんを招待、彼に同行したという。

西域の広さを示す描写はいくらあっても行ったことのない人間には分からないのかもしれないが、遊牧民とは、という記述がその草原の広さを想像させてくれる。遊牧民というのは人間が牧畜を放牧して暮らしているのではないというのだ。草を食べて生きている牛や馬、羊の群れの中に人たちが馬に乗るすべを覚えて混じって移動している、そういう文明なのだそうだ。野菜不足になってしまうのを、羊の乳を飲むことでカバーすることを身につけた紀元前数世紀頃に発明された文明なのだそうだ。それまでは草原は広すぎて人間の住める場所ではなかった。

ジュンガリアのイリという町に10日間宿泊した際、皮膚は白皙、髪の毛は金髪に近いカザフ人だという女性がお世話係についたという。名前がトルスングリ、彼女は遊牧民として育ち、農業には携わったことがないらしい。彼女は人を明るい気持ちにするすばらしい笑顔と、親切な対話相手となったが、相手のことを慮ったり、気を遣うという神経を持っていなかった。彼女は教育を受け、中国語を話すようになり今の職業を得たと思われるが、サービスするなどという考えは理解ができないのである。トルスングリはいつも食堂にいて配膳をしてくれる。いつも機嫌がよく、目が合うと微笑んでくれるのでとても気持ちがいい。そういうお世話係なのだ。

中国のケ小平が、日本からの客として西園寺公一を迎えたときに、西園寺が日中戦争から太平洋戦争の侵略を詫びたところ、逆にケ小平が、漢字と孔子、孟子の思想を提供してしまったことを詫びられたという逸話。戦争は十数年、対する漢字や思想は何千年もの間日本人を苦しめているという。孔子、孟子は男尊女卑、克己復礼を1700年も前に日本にもたらした。漢字は確かに輸入された7世紀当時の大和言葉とは全く異なるものだったのだが、100年も経つ頃には古事記が漢字で書かれている。その後、かなと漢字は混合して日本語をなすようになったのだが、これには日本人の大変な苦労があった、というユーモアのある話なのだ。儒教のほうはそんなに被害を及ぼしていないではないか、とも思えるが、日本語が持つ敬語は長幼の序という思想の体系化されたものではないかと思う。

その後、朝鮮が中国の支配下に半分入りながらも「韓」と呼ばれ、けもの編で表されるその他の周辺国とは違う扱いを受けていることを解説している。日本は倭、人が人に委ねている、つまり主人と従者がいて、上下関係を結んでいる国、という見方をされていたと説明する。後書きで土佐人の気質にふれている。

司馬遼太郎の調査や研究、思索の幅広さに触れることができる。

2009年12月10日 シリウスの道 藤原伊織 ***

広告代理店の副部長の辰村、競争が激しい業界で最前線にたって働いている、独身の38歳。上司は美貌の部長立花42歳、子供が一人で離婚調停中。現役大臣の息子が縁故入社してきた戸塚、証券会社を辞めて派遣志望で入ってきたデイトレードもする若い女性平野、彼らが新たなクライアントとなる可能性がある電気会社の広告コンペに参加する。

物語の縦糸として辰村の幼なじみ明子と勝哉が25年前に過ごした思い出の日々と、その中で起こってしまった事件が語られる。昭和30年代と思われる辰村の少年時代はみんなが貧しかった。その中で、仲良しの3人は短いが濃密な共通経験をし、楽しい時間を過ごす。明子は辰村と勝哉の関係を二重星であるシリウスに喩える。「とても仲良しでいつも一緒にいるが対照的な性質」

広告コンペを競う中で、戸塚の意外なやり手としての一面を見、平野の若いが感性鋭い才能を発見する。上司の立花は協議離婚、辰村に接近するが一線は越えない。社内の抗争は源氏鶏太を思いだし、昼夜ない広告代理店業界は逢坂 剛を思いだし、男女の描写は連城 三紀彦を思い出す。それぞれちょっとずつ現代風にシフト、しかし現在ではない雰囲気。

テロリストのパラソルの登場人物がでてくるなどお遊びもあって楽しい。

2009年12月9日 1972年のレイニー・ラウ 打海文三 ***

筆者の短編集。表題のレイニー・ラウは25年前に分かれた中国人の恋人の名前、劉雨からとった呼び名。主人公の佐伯はライターとなり、その後日本人女性と結婚し、慶子という娘をもうけるが離婚。その娘と一緒に香港にいるというレイニーに会いに行く。レイニーと慶子は意気投合、慶子はレイニーと父との再会を喜びキューピッドになろうともする。佐伯とレイニーは25年後、香港で再び心をつなぐ、という話し。

路環島にて。男は一人でマカオ観光に来ている。そこで一人で観光に来ている日本人女性に声をかけ関係を持つが、お互いに名乗ることはしない。男は過去にあった女性との話を女にするが、それ以上のことは言わない。女の方は自分のことは何も語らず、帰国の日を迎え、それで別れてしまう、というお話し。

満月の惨めで、かわいそうな。康子は41才、娘の満月(高校二年生)と暮らしている。ある日、新聞に満月が昔好きだったという高校生の死亡事故記事が載っている。娘に知っているかを聞くが、はっきりしない。康子は死んだ高校生の葬儀にダンスの先生と一緒に行ってみる。あとで、満月もこっそりと葬儀に顔を出したことを知り、満月が好きだったこと、死亡事故のことを知っていたこと、男子高校生には振られていたことなどを知る。

胸が痛い。高校3年生の隆一は友人の母が好きだったという李成愛のLPを聞かせてもらい、韓国人の歌う恋歌に興味を持つ。大学に入り、韓国語も少しかじって韓国旅行に出かけて、釜山で韓国人の高校3年生の女性と知り合う。相手も日本語を勉強中、お互い好意をもち、韓国語、日本語で心を通じ合う。

ここから遠く離れて。古田ヒロムは物書き、太平洋に面した町に引っ越し、そこで背中の美しい女性と出会う。女性はフィットネスクラブにかよう傍ら、ジャガイモを育てているが商売するほどではないという。女性は古田が書く作品やエッセイを読み、それを自分へのメッセージと解釈する。古田もそうだと肯定し、二人は接近していく。女性には子供もいるのだが気にはしていない様子。二人はさらに接近していく。小説とはあなたにとって何、と聞かれた古田は「出会えなかった女性との恋愛を経験し過去とすることができるもの、未経験だからこそ創造できる体験の貧しさが小説を生む」と答えている、著者の気持ちを代弁しているのではないか。

概ね男女が知り合い、その後数十年も離れていたり、思い出の中に年上の女性との経験を持っていたり、それを相手に打ち明けたりしながら、接近していくというお話しが多い。どうと言うことのないシナリオの周りには作者のちょっとした嗜好や好みの映画、音楽などがちりばめられている。筆者のデッサン、習作集、という感じ。
一九七二年のレイニー・ラウ (小学館文庫)

2009年12月7日 日本史を読む 丸谷才一、山崎正和 ****

作家の丸谷才一さんと山崎正和さんが日本史を時代別に好き放題にしゃべりまくる、対談集、とても面白かった。まずは古代、額田王と大海人皇子の有名な恋歌「あかねさす、紫野行き標野行き、野守はみずや君が袖振る」、「紫の匂える妹を憎くあらば人妻ゆえに我恋いめやも」大岡信さんがこれを解説しているのを読んで丸谷さんは初めて分かったと。ハンティングが終わってからの夜の宴会で二人がふざけて即興で披露したものだという。二人が好きあっていたこと、そのことは周りの人たちには知られていたこと、この時代は恋愛に鷹揚だっったこと、この二首は恋歌ではなく雑歌にあげられていること、などを理由にしていて、なるほどと思う。

白河法皇と待賢門院璋子(たまこ)の関係、これは祖父と孫なのだが、男女関係になってしまう。これを角田文衛が「待賢門院璋子の生涯」で璋子の生理日情報から立証してしまう、という話し。宮中には血を忌む、ということから生理日の女性は女御だろうが皇女だろうが外出させられる、その日記から調べたという。

南北朝時代の8名の天皇には「仁」の字が使われていない理由、これも面白い。南北の諍いからくる反抗で伝統の文字を名前に付けない、ということをしていたというのだ。後醍醐天皇が異形の王であった、好き放題なことをしていた、と言う話し、建武の中興があったころには神仏混交、天皇制と貴族の関係、武士の勃興など面白いものがあったのだろう。役人に武士と公家を均等に混ぜて秩序を壊そうとした。楠木正成や名和長年などの地方豪族を政権に近づけたなど。

足利時代になると、武士のエネルギーに満ちていた。王朝文化が持っていた優雅さが、武士のエネルギーで日本中に広がった。源氏や伊勢物語、古今集が日本人の好みになり、日本的と言われるすべてのものはこの時代に始まったと言っても過言ではない。観阿弥、世阿弥、町衆文化などもこの時代だ。

戦国・安土桃山時代では、影武者の話をしている。西洋には影武者はおらず、日本歴史には沢山登場する。その代表的時代が戦国時代。徳川家康は関ヶ原の戦いで死んでいて、その後は影武者が全国統一したというのもこの話。出雲の阿国もこの時代、林家辰三郎は「歌舞伎以前」で解説している。

江戸時代、日本の庶民は西欧に比べると大変良く旅行をしていて、時計、時間の概念がよく育っているとの指摘。時計が西洋から入ってくるとそれを実用的なものに作り上げていったのが日本人。機械で動く芸術品にしてしまい、王族しか使わなかったのが中国人だという。

明治になると、遊女に面白い女性が登場、「横浜富貴楼のお倉」、かのじょは遊女から料亭の女将になった女性で、遊女が今ほど悪く見られていなかった時代に、明治維新の大物である、陸奥宗光、井上馨、大隈重信、大久保利通、伊藤博文などを集めて情報流通を促進させていたのがお倉だという。大久保利通の息子である牧野伸顕もこの店に連れて行ってもらった記憶があるという。明治4年に5人の子女をアメリカ留学させている。吉益亮子、植田悌子15才、山川捨松12才、永井繁子9才、津田梅子8才、いずれも旧幕府系の藩士の子女である。彼女たちは数年の年月アメリカで教育を受けるので若い2人は日本語より英語が母国語になったという。山川捨松は帰国する際のアメリカでの講演で、当時米国と英国が対立していたのを引き合いに出し、大英帝国の植民地支配と文化的支配を批判すると米国人町衆から大喝采だったという、国際バランス感覚が合ったという話し。

近代では日本の電子工業創業期の話題から、日本はアメリカの技術に学んだが決して物まねだけではなかったという話し。アメリカ人は物まねだと言う指摘をするけれどもそうではない、ということを二人であげている。このあたりは、必死で探せば探すほど、やはりものまねだった、と言うようなもの。

しかし、この二人の縦横無尽の対談、面白いが、読んでいる方に残るのは、「丸谷才一、山崎正和は博覧強記だ」ということで、議論の筋や二人の独特の主張が頭に印象付けられる、と言うものではなさそうだ。しかし、この本をきっかけに、いくつかの本を読んでみたくなる、これは良い。
日本史を読む (中公文庫)

2009年12月5日 ノモンハンの夏 半藤一利 *****

なんという戦史、おそらくものすごい量の参考資料収集と聞き取り調査、これほどの書き物はそうはない、と感じさせられるドキュメントである。ノモンハンは「事件」として歴史に書かれているが、これは当時のソ連軍からの攻撃にほぼ一方的にやられた日本軍の敗北の一戦であり、戦争とならなかったのは、ほぼ同時に進められていたドイツのポーランド侵攻があったからである。両面戦争をしたくないスターリンからの指示があり、ノモンハン戦線のソ連司令官が目の前の敵である日本軍をほぼ殲滅したことを機に攻撃を中止した、というのが事実。本書では日本側の関東軍を無謀な戦いに引っ張り込んだ張本人として、作戦主任の服部中佐と、作戦参謀辻政信をあげている。

まず、1939年頃、「事件」の背景として当時の中国戦線の状況が解説される。中国は攻撃すれば一ヶ月で降伏する、という非常に甘い読み「中国一撃論」で開始されたが、泥沼化している。中国は4000キロという国境線をソ連、モンゴルと接しているため、中国と戦いながらソ連と事を構えることの危険性を説明。欧州ではドイツが防共協定から三国同盟に格上げすることを日本に提案していて、日本は三国同盟締結が英米との開戦につながることからまだ踏み切れないでいる。

ノモンハンはハルハ河によりモンゴルと満州国が国境を接する地。川の東に日本軍、西にモンゴル軍が位置している。戦略的な意味はあまりない地域であるが、国境線が曖昧なまま放置されていたことが「事件」を生んだ。国境を越えたモンゴル軍兵士がいた、として日本軍が二人の将兵を捕捉したのがきっ かけだった。当時の関東軍参謀本部はソ連軍を日露戦争当時の経験から考察、近代化していた機械化部隊の実力を過小に評価していた。スターリンは戦略家ジューコフ中将を司令官に送り、一度日本軍を徹底的に叩いておこうと考える。このとき天津租界で日英が対立、日本が英国租界を武力封鎖するという事件が起こり、英米の世論が反日でわき起こっていた。このため日本側は対英米強硬派の力が強くなっていた。関東軍服部、辻の参謀コンビは、日本の参謀本部からの指示を聞かず、モンゴル国境を越えて爆撃をするため、ソ連からの反攻を受ける。ソ連軍はこのときにはハルハ河西岸に日本軍の歩兵で1.5倍、砲兵が2倍、飛行機が5倍集結していた。日本軍は通常防御できる4倍の地域に防衛軍を展開、この軍隊同士が衝突したのだから、勝敗は始める前から決していた。最前線で戦った第23師団でいえば15975人の構成員のうち12230人が損耗(戦死傷病)しており、76%の損耗率であった。ガダルカナル戦の損耗率でさえ34%とされており、いかにこてんぱんにやられたかがわかる。一方のソ連モンゴル軍も圧倒的な優勢であったがそれでも24492名が損耗、日本の兵士たちが劣勢のなかいかに勇猛に戦ったのかがわかる数字である。

そのころ日本では三国同盟加盟への可否が議論され、石渡海軍大臣は米国を敵にした場合の勝機を聞かれて次のように答えている。「勝てる見込みはありません、日本の海軍は英米を敵に回して戦うようには建造されていません」と答えている。それでも日本は三国同盟を締結、英米戦に突入するのだが、太平洋戦争開戦時の日本参謀本部の作戦課長はなんとノモンハン事件後、責任をとらされたはずの服部と辻コンビである。ノモンハン事件では司令官、参謀長は予備役編入されていたが、参謀たちは現役のまま異動させられたに留まっていたため、復帰がなった。ノモンハンの反省は戦い面でも、人事面でもなされていなかったのだ。

著者が本書を書くことを心に決めたのは、戦後戦犯を逃れ生き延びた辻政信が参議院議員となり、著者と面談、日本の再軍備を語る辻に狂気をみたときであったとしている。陸軍のこのような参謀たちを教育し「英才」に仕立て上げた仕組みは見直されているのだろうか。

2009年12月3日 職場は感情で変わる 高橋克徳 ***

不機嫌な職場の著者の一人による解決策の提示。組織感情マップを示し、組織にありがちな問題の類型化をしている。
1. 仲良し過ぎてぬるま湯
2. 活気があるがつらい
3. 焦りがいらだちに
4. 感情のぶつけ合いでギスギス
5. 関わりを拒否する冷え冷え
6. 無感情

そもそもこうした組織の雰囲気はどのようにして作られてくるのか。これは人間の脳の成り立ちから来ているという。脳は@原始は虫類脳 A旧哺乳類脳 B新哺乳類脳
@は不要な接触を避け危険を回避する Aは喜び、愛情、恐れ、怒り、嫌悪で知覚して認知した上で感情として発現する Bは社会的存在としての自己で、動物的直感や感情的には嫌なことでも責任感ややる気というものが介在する一番人間的とも言える部分である。

こうした感情は組織内では連鎖する、という。これが共感というもの。こうして醸成されていく組織内の感情は、組織で活動する際、組織効率に大きな影響を与えるためにコントロールできることが好ましいが、難しい、これがマネジメントの役割の一つである。組織感情は組織の成長、例えば、立ち上げ、成長、成熟、変革という成長フェーズ、それぞれのフェーズでどのような感情を共有したいか、これをコントロールできれば組織としてよりよい働きができるという。

組織感情マップの右上、高揚感はわくわくするような気持ちが持てるかどうかがポイント、共感できる組織ビジョンや目標設定ができれば好ましい。自分でやってみよう、という主体的な感情は自立と自律、自分たちの仕事が社会に役立っていると思えること、関心が持てる、と言うことが重要。みんなで頑張りたい、という連帯感では、仲間と一緒に困難や壁を乗り越えることがきっかけになる。これらが高揚感を支えている。

右下の安心感では、組織内メンバー同士がお互いのことを知り合い、信頼できるかが重要。挨拶、お礼、返事などの基本マナーが安心感を作り出す。支え合い感がない不機嫌な職場の共通項は、タコツボ、情報非共有、非協力。マネジメント同士の経験の共有や助け合いネットワーク構築のミーティング「リフレクション・ラウンドテーブル」が有効。認め合い感では、自分は必要とされている、君が必要だ、というメッセージ交換が有効。

左上の緊張感では、過度なプレッシャーはストレスを生み、行きすぎた緊張感はギスギスした職場を産む。ストレッサーへの対処策は「コーピング」。耐える、逃げるという消極的コーピングと助けを呼ぶ、直接ストレッサーに働きかけて解決するという積極策がある。ストレッサーはそうは変わらないケースが多いので、自分が変わる方が得策であるケースが多い。

左下の冷え冷え感はたちが悪い。第三者による介入が必要だ。

2009年のWBCの日本チームは実力を発揮して優勝した。個人力Xつながり力=組織力の勝利だった。イチローは優勝記者会見で次のように語った。「チームにはリーダーが必要だという発想は安易だ。今回のチームにリーダーは不要だった。それぞれの選手が向上心を持っていれば十分であり、その場合にはリーダーはいないほうが良いくらいだ」

最後に、すべての能力発揮、感情の基礎となることは体と心の健康。健康管理が組織管理の基本である。

これが著者が示した不機嫌な職場をなくす「解決策」。組織長の役割は重要だ、ということ。パワハラ上司などは問題外であるが、世の中には部下に緊張感を与えるのが管理職の仕事と考える人も多い。部下のやる気や前向きな自立心は、ノルマ達成、仕事の締めきり、顧客のクレーム、会社赤字転落の危機など、という緊張感の前に無力なケースも現実には多い。こうしたハードルを連帯感や達成感に変えられるか、これがマネジメントだと思う。

2009年12月2日 中国大国の虚実 日本経済新聞社 **

2006年発刊の中国情報、ちょっと古いが、このころの中国の状況を確認したかった。2005年度は自動車生産台数、GDPともに米日独についで世界4位だった。人民元の切り上げが2005年に行われ、米ドル連動性に移行した。反日デモは中国国内格差拡大の国民不満を反日というはけ口を提供することで中国政府が煽ったが、世界からのバッシングを浴びて、沈静化をはかるが政府が想うような動きにならず、人々も世界の動きが国内世論とは違うことをWeb情報で知ることとなった。エネルギー効率が悪いため資源不足に陥る中国は世界に資源を求めて進出、しかしさらに環境問題が経済発展にたがをはめる。張平が書いた本「凶犯」で描かれた都市戸籍と農村戸籍の問題、地方の有力者の悪事を暴いた公務員が有力者に抹殺されるが、それを訴えて地方官僚の悪事を中央に訴えるという殺された男の妻に、都会戸籍を与えることで隠蔽しようとした話。これは中国にまだまだある格差問題の一部なのだろう。

上海に暮らす中国経済専門家呉軍華さんが示す、今の中国の課題は次の通りである。
1. 投資・外需依存から消費主導への転換が必要であり、官有経済からの離脱が不可欠となる。中国は確かに豊かになったが、官に関係する人ばかりが豊かになっている。これは国有企業が川上産業を占めていて、そこに集中的に財政出動し、川下産業は競争市場としているためである。結果として家計部門には富の配分が行われず、消費は増えず外需頼りになってしまっている。
2. 疾走型経済から安定成長経済への移行が必要である。8%という成長をずっと続けることはできない。第三次産業を育成して雇用の創出をしていくことが重要になる。

中国が持つリスクよりも、中国と取引しないリスクが大きいので、進出するという決断をする日本企業、これからも同床異夢の摩擦は続くのだろう。

2009年12月1日 月のしずく 浅田次郎 ***

いい話ばかりなのだが、浅田さん、話を作りすぎてはいませんか、と言いたい。本の表題になった「月のしずく」、長年千葉の工場で荷役労働を続けている中年労働者が偶然路上で男に振られた銀座の女を拾う。千葉の労働者である男にとっては、銀座の女はほど遠い存在、その女が自宅までついてきてしまった。女は急場を助けてくれた男に感謝するが、男はこの女に惚れてしまう。女はこんな田舎の労働者に関心がないが、男は真剣である。女は男の不器用さに怒鳴り散らしてしまうが、男の一途な気持ちに気がつく。どうなるんだろうな、と思うところでお話は終わる。

聖夜の肖像では、パリに留学していた若い頃好きになった絵描きの思い出を忘れられない女性がいる。今では不動産事業でそこそこの成功を収める男の妻となって何不自由なく暮らしている。男はこの女が自分に最高のパートナーであると信じているが、若い頃の恋人を忘れられていないことも知っている。クリスマスの夜、夫婦で出かけた表参道で、昔の恋人の絵描きに出会う二人。偶然に驚くが、夫は妻に似顔絵を描いてもらうよう勧める。絵描きは20年前の女の似顔絵を描く、女は今の幸せを噛みしめる、という聖夜の肖像。

ヤクザの息子の成長物語、「銀色の雨」、中国孤児の男の物語、「流瑠想」、不倫相手と別れた30女と、やり手デザイナーに振られた実直な営業マンの偶然の出会いを描いた「花や今宵」、戦前の出来事と思われる「フクちゃんのジャックナイフ」、母親に捨てられた悲しみをふれない女の物語「ピエタ」。どれをとっても人と人とのつながりのバリエーションだ。

手の込んだ設定なのだが、どこか嘘くさい、そんな設定は不自然だ、話がうますぎる、そんないい人はいない、などなど。鉄道屋(ぽっぽや)の話は本当に良くできた話、その小型版だ。

2009年11月30日 虚像の砦 真山仁 *****

TV業界の問題を中心にしながら、広告会社がメディアを牛耳っている実態、官庁が許認可権限で放送業界を監視し、「報道の自由」「中立公正」「権力の横暴監視」「メディアの情報垂れ流し」などの問題から来る、官庁、政界との3すくみ状況があることを、架空のTV局PTBを舞台に描いている。

PTBテレビのディレクター風見は、熱血報道、現場主義、事実の報道などを心がける報道部員。中東での日本人NPOからの2人とフリー報道記者1人が拉致された、との情報に情報収集に走る。自衛隊の海外派遣を進める政権を揺るがすニュースに、官邸も緊張、拉致犯人からは24時間以内の自衛隊撤退を求める声明が出されるが、時間経過と共に「自己責任」論がメディアに現れる。風見は政府による情報操作を疑い、現地に飛んで解放された3名にインタビュー、政府による情報操作の証拠を握る。

一方、PTBの報道を常々憎々しく思っている政権党の大物議員は、官庁とPTB内の権力争いを使っての情報隠蔽を工作する。これを知った風見はこれを阻止しようと奔走する。

架空の物語なのだが、TBSによるオウム真理教ビデオ事件、坂本弁護士事件を背景にした報道側の行きすぎた報道自粛や、やらせ問題、有名キャスターによる世論への影響、政権与党による報道への容喙、電通によるメディアコントロール、TV業界の下請け依存体質、TV局と地方局の問題、TV社員の高給と財務体質の脆弱さ、などなど、多くの問題をすべてあぶり出している。ハゲタカはNHKでドラマになったが、この「虚像の砦」をドラマにする勇気があるTV局がもしあったら尊敬できる、と思うほどの徹底したマスコミ批判になっている。批判だが冷たくはなく、熱血報道の記者が主人公、応援もしているのだ。

ハゲタカも面白いが、これはそれ以上、真山仁シリーズの一番のでき、だと思う。

2009年11月29日 バカ丁寧化する日本語 野口恵子 ****

問題は現在日本の謙譲語、尊敬語、丁寧語の使われ方とマジョリティはどう変化していくのか、という問題である。
1. 「させていただきます」の多用。典型的なのは政治家、「私は皆様にお訴えをさせていただきたいと思うわけであります」 この一文に多くの問題があるという。政治家は偉そうに威張っている、と思われたくないために謙譲表現である「させていただく」を使っているのだが、訴えることに対する聞き手からの許可を得ようとしているわけではない。丁寧の「お」をつけているのだが、謙譲表現に丁寧語を付加するのは変である。さらに不要な「を」をつけてさらなる丁寧表現をしようとしていておかしい。思うわけでありますはさらに不要、無駄を削れば「私は皆様に訴えます」である。
2. 尊敬語と謙譲語の不適切な組み合わせ。話をしているお客と店員、そこにはいない店長、という状況で「あいにく店長は出張中でおりませんがもう戻る予定です。お客様、よろしければお待ちいただき、お目にかかりますか。」せっかくうまく謙譲表現していると思ったら、最後にダメにしている例である。さらに日本語の不備を指摘している。それは相手の配偶者を指す場合に、ご主人や奥様、という男女不平等表現をしたくないケース。適切な日本語がない。
3. 「ちょっと待ってもらって良いですか」 これはちょっと待ってください、と言う意味でTVでもよく耳にする。ちょっと貸してもらって良いですか、と相手に言われたら、これは自分に貸して、と要望しているのか、隣の人に貸してもらうことを私に許可を求めているのか、文章からはわからない、状況判断が必要、と言う例。待ってください、の間接表現なのである。
4. 言葉は時代と共に変化する、関西の「さ入れ」。関西弁で作らせていただきますは「作らしてもらいます」、ところが今は「作らさせてもらいます」が標準になってきたという。桂米朝なら前者だろう。「働かさしてもらう」「「行かさしてもらう」「書かさしてもらう」。
5. TVの芸人やバイト先のマニュアルの影響度は大きい。 3の「ちょっと待ってもらって良いですか」これのどこがおかしい、と思う若者が多いという。「お会計はレジの方でお願いします」これのどこがおかしいか。会計におは不要であり、レジには方はいらない。「いらっしゃいませ、こんにちわ」こういわれてお客としてうれしいのだろうか。

この本を出張する飛行機で読んでいたのだが、飛行場や機内でのアナウンスや問いかけが気になって仕方がなかった。
■羽田空港で「持ち込み手荷物は一つまでとなっております」一つまで、というのはゼロか1だから一つまで、と言っているのか。なっておりますとは、そのルールを決めたのは航空会社ではないのか。
■荷物検査場で、「もう一度通させていただいてよろしいでしょうか」通してよろしいでしょうか、で十分だ。
■席についてアテンダントから「新聞の方は大丈夫ですか」 新聞は読まれますか、の方が良いと思う。ANAまでファミレス並みか。
■飛行機から出ようとして「ちょっとお待ちいただいてよろしいでしょうか」 うーん、これは状況次第、強引に進もうとする客には有効な「慇懃無礼表現」というケースもあると言う気もするが、通常なら、ちょっとお待ちいただけますか、で十分である。

確かに、丁寧化が過ぎるという気がする。

2009年11月28日 私たちが好きだったこと 宮本輝 ***

男女2名ずつ4人が3LDKマンション一つの部屋で暮らし始め、二人ずつが仲良くなる話。与志くんが主人公の工業デザイナー31歳、公団の76倍の抽選に当たり引っ越し、友人の昆虫写真家ロバが同居することになる。そこに店で知り合った医師を目指す愛子とデザイナー曜子、それぞれ28歳が転がり込む。4人ともそれぞれのパートナーや同居人のことを思いやり、借金をして助けたり、支え合って2年間の同居生活を送る。

あり得ないなあ、と思う。こんなに同居人である他人のために自分の時間とお金、気力を使う人がそろうか、という感想。口では互いに文句を言いながら、行動は同居する友人やパートナーを助ける。現実は逆のことが多いから小説になるのか。こういう話が良い、と思う人もいるのかなあ。

2009年11月27日 アメリカ居すわり一人旅 群ようこ ***

1987年発刊、著者が20歳の時に3ヶ月滞米して経験を若い気持ちで日記風に綴ったもの。貧乏な中、アメリカってどんな所なんだろうと興味津々だった様子がうかがえる。1980年代はまだ、日本からの飛行機便がシアトルで入国審査していた時代、入国管理官の太った白人のおばちゃん、記憶にある日本人は多いのではないか。その前はアンカレジで一度止まっていたので、駐機場からアンカレジ空港売店にたーっと寒い中走って買い物に行った方もいるだろう、いずれも今では遠い昔の話しだ。

本書ででてくるNJ州はNYCの隣、当時日本人はそんなに珍しかったのだろうか。1988年に会社のフィラデルフィア駐在員の自宅を何回か訪問した際、もう既に多くの日本人がいたと記憶している。その数年前の話しだから、よほどNJの田舎地方に行ったのか、それとも20歳の女子学生が12歳と間違えられて珍しがられたのか、不明だ。英語が十分できるわけでもないのに叔母を頼って単身渡米、頼りの叔母は直ぐにパリへ旅行、2ヶ月以上を一人で過ごしたという話し。3ヶ月滞在を許されたとのことで、学生ビザなのかとも思えるが、NYCにある会社でアルバイトもしていて、週給35ドルをもらっている、イミグレーションにばれていたらどうなっていたか。そのころならアルバイトくらいは大目に見てくれたかもしれない。

運転免許も銀行口座もなしで、よく頑張った、というか、そんな知識もなくよく行ったという旅行記だ。アルバイト先で現地のおばちゃまや友人とも結構うまくやっている様子が描かれていて、元女優というおばちゃまには養子に欲しい、とまで言われているから、相当とけ込んだ様子。よく言えば人なつっこい、悪く言えばずうずうしい、いずれにしても度胸がある人だ。

自分もこんな旅をしてみたい、と渡米する人は気をつけて欲しい、9・11以降は入国管理とアルバイトには厳しいということ。それにこのように人が良いアメリカ人はNYCやNJの都会にはもう少ない。アメリカも日本も田舎に行けばまだまだ人が良い地方はある。(田舎に泊まろう、を見ているといつもそう思う)それでも、それを期待してアメリカの田舎に行くのはよした方が良い、襲われたり、差別されたり、最悪のケースでは言葉の誤解で銃で撃たれることもある。そんなことを言わなくても今の若者はこんな無鉄砲はしないかな。

2009年11月26日 日本語「ぢ」と「じ」の謎 土屋 秀宇 ****

鼻血は「はなぢ」なのに地面はなぜ「じめん」なのか。差詰めは「さしずめ」で大詰めは「おおづめ」、統一ルールはあるのか、という疑問に、現代かなづかいルールでは次のように決めているという。
『二つの言葉の連なりで生じた「ジ・ヂ、ズ・ヅ」はぢ、づで書く』、つまり鼻血は鼻と血という二つの言葉のつらなりであり、地面は一つの単語である、という解釈、分かりにくいなあ、という話し。

当用漢字は昭和21年、政府が漢字廃止を将来にらみながら、当面は使っても良い漢字、として制定した850字。これに見あたらない場合には代用漢字を当てる。例えば肝腎は肝心、熔岩は溶岩、月蝕は月食、昂奮は興奮、と言う具合。意味が違ってきてしまう。明治維新以降、漢字廃止論が議論されては、実際にはそうはならなかった。しかし太平洋戦争敗戦後GHQの指導のもと、真剣にローマ字採用や漢字廃止が検討された結果が、教育漢字や当用漢字で漢字使用を制限しようという動きだった、という。このため従来の美しく、意味や由来が分かる漢字が変容してきてしまった、というのだ。昭和56年にはこれらの反省から当用漢字にかわり、常用漢字1945字が制定、改善された。

それでも、仮名遣いには不具合が残されているという。それが例えば地面(じめん)であり世界中(せかいじゅう)である。ぢめん、せかいぢゅう、ではないか、という主張である。日本人のアイデンティティーは日本語、つまり国語にある、という主張は「日本語が亡びるとき」の水村美苗さんも同意見。優れた文学は国語たる美しい日本語から生まれる、と言う主張。

日本語、国語への興味や関心を多くの人たちが持つことは大変重要だと思う。「にほひ」、と「におい」を比べると旧仮名遣いを知らない日本人でも前者は良い香りを想像し、後者はくさい臭いを想像するではないか、と指摘。旧仮名遣いの語感を示す、これはごもっとも。こういうお勉強は重要だと思う。

2009年11月25日 秀吉と利休 野上弥生子 ****

千利休については歴史の時間に習った記憶がある。秀吉に寵愛され切腹させられたと。歴史の教科書には大徳寺の門に自分の仏像を飾ったため、秀吉の怒りに触れたとあった。本書を読むと、史実に基づきながらも秀吉と利休のパーソナリティを活き活きと描いていて、当然であるが歴史教科書で学ぶよりは何倍も面白い。

素晴らしいのは当時の人々の生活や文化が活き活きと描写されていること、著者の研究がとても広く深くなされたことが随所に伺える。例えば利休宅に堺の代官から贈り物が届く描写。
「昼過ぎに鮮鯛一折りと南蛮の葡萄酒一壺が届いた。この音物(いんもつ)は利休が茶頭(さどう)より秀吉の政治顧問とみられている敬意である。利休が部屋に帰ると、書院風な小障子であかるい窓のまえの机のそばには大福帳、当座帳、出入控帳、唐伝来で堺でも大店だけのものになる曾呂盤(そろばん)がおいてあった。」
これだけを書くのにどれほどの調べ物が必要なのか分からないが、当時の商人、茶人、侍、貴族、庶民のそれぞれの生活と風習が分かっていなければ何もかけないようなお話しなので、大変だと思う。

ご存じの通り、千利休といえば当時一級の文化人で堺生まれの大阪人、一方の秀吉は三河の田舎生まれの成り上がり者、この二人が天正16年から19年の3年間、どのように触れあっていたのかがストーリーのメイン。立場としては関白太閤秀吉に仕える茶人であり、スポンサーと芸術家であるが、茶道では立場は逆で師匠と弟子である。茶に限らず文化面で秀吉は利休に適うはずもなく、言葉のなまりからして秀吉には劣等感があるが、力関係は逆である。これが伏線。

秀吉は信長の死後、光秀を討ったのち天下を統一する、その過程で小田原の北条氏を征伐するが、物語ではそのあたりが前段部分となっている。その際、秀吉に所払いされていた茶人の山上宗二が、秀吉の激怒で文字通り首を斬られてしまう。秀吉の周りにいる武士も茶人も、ご機嫌取りに失敗すると良くて所払い、悪ければ死罪となる物語前半の一つのヤマである。後段では昔からの秀吉の部下である石田三成と利休の確執が描かれ、三成が利休のちょっとした言動の失敗にも耳を傾ける。利休が別の酒の席で、秀吉の朝鮮征伐「唐御陣」について漏らしたひとこと、「今度の唐御陣は明智討ちのようにはいかない」を秀吉に伝える。その際、大徳寺の仏像のことにも調べを尽くしておき、伝えることを忘れない。秀吉は、利休の存在の貴重なこと、茶でいやされる自分を十分分かりながらも、自分をないがしろにする、さらにその奥に、田舎モノであり、教養レベルの低い秀吉を軽んじる雰囲気を感じ取って、激高する。一時は堺に所払いとすることで収めるやに見えるが、利休が自らの過ちを認めようとしないことに腹を立て、切腹を命じ、即刻実行してしまう。

利休からすれば、謝罪をしなければ死罪を免れないことを薄々感じながらも、秀吉にこれ以上跪き、おもねる人生に嫌気がさしてくる。そのため、秀吉の母である大政所に利休の妻からだした手紙にも、謝罪する、ということを敢えて書かないで出してしまう。ここが、この物語の大きなポイントである。つまり、利休は秀吉に仕えることが実は嫌だったのである。これは実在はしない物語の中の息子、紀三郎の認識としても表現される。紀三郎は利休が親であることに反発するが、利休があえて切腹させられることを受け入れた、その気持ちを理解するのだ。歴史の教科書を教える際に、「秀吉は成り上がりで短気だった。利休は一流の茶人だった」というだけでなく、こういう本を副教材にして高校生に読ませれば、歴史好きが増えること間違いなしだとおもう。

2009年11月19日 帰らざる夏 加賀乙彦 ☺☺☺☺

昭和48年に書かれた本、僕も大学生の時に読んだのだがあまり印象に残っていない。著者は陸軍幼年学校時代に刷り込まれた神国日本、天壌無窮の皇国、忠心報国などの信念が8月15日の天皇によるラジオ放送「ポツダム宣言受諾」で一気に瓦解する、という経験をした。当時著者は13ー17歳であり、思春期を迎える中で大人から教え込まれた日本不敗を信じ、自らも死んで国に尽くす、と思いこんでいた、それが一瞬のラジオ放送で変わってしまうという「価値観の瓦解」について綴られている。

先の2.26事件では逆臣となり処刑された青年将校たちの心情が良く理解できた、という幼年学校時代の著者の身代わりである鹿木は、8月15日の天皇による受諾宣言も「君側の奸による謀略」だと考えてしまう。阿南陸軍大臣は自刃した、という報道に、自分たちも死ぬべきなのではないかと考えてしまう。しかし、矛盾も感じるのは、アッツ、キスカ、レイテ、サイパン、硫黄島で「死んで国を守れ、生きて虜囚の辱めを受けず」と命じていた天皇が、なぜ今になって、国民は生きて新しい日本を再建して欲しい、などと言うのかが理解できないと感じる。もしそうなら、死んでしまった玉砕戦死者は浮かばれない、何のために死んだのか分からないではないか、と思う。大人たちはどう感じているのかが理解できないのだ。

幼年学校の教官たちの間でも意見は分かれるが、大勢は「生きて日本を再建するのだ」となり、主人公の鹿木は、そういう意見変更が軽々しくできない。同時に、昨日まで「日本不敗、大和魂」などと言っていた教官たちの変節が理解できないでいる。13ー17歳の価値観確立時に刷り込まれた考え方と、大人になって軍国時代を迎え、それに自分を適合させていったその上の世代に世代間ギャップがあるのだ。

終戦時、10歳以下の人は、そこまでの価値観の瓦解はなかっただろう。24歳以上であれば、開戦時には自我の確立ができており、どのように開戦を迎え覚悟を決めたか、人それぞれであるにしても、覚悟の決め方があり、終戦を受け入れることもできたのではないか。著者がいうのはその間の世代、11歳から22ー3歳の価値観確立世代が、どのように敗戦を受け止めるのか、それもエリート中のエリートであった陸軍幼年学校の生徒の自分はどう消化するべきなのかが分からなかったという。本にしたのが昭和48年、戦後28年経過しなければ本にはできなかった、と言うことからも著者の苦悩が伺われると思う。

1945年当時、11ー22歳だった人は2009年には75ー86歳、加賀さんのような当時のエリートでなければここまでの苦悩はなかったのかもしれないが、人間、自分の価値観を根こそぎ書き換えることは相当な苦悩を伴うことは想像できる。それも17歳のエリート少年にとってはどうだったのか、それが「帰らざる夏」のメッセージである。今、このメッセージに共感できる人、世代はどのくらいいるのだろうか。国が負ける、などという価値観の大転換は、そうそうあることではない。受験失敗、会社の倒産、失業、配偶者の死、友人の裏切り、信じていたものに背かれる、こうしたときに人間がどのように振る舞えるのか、これらは価値観の上にのっかている状況理解である。価値観はそうした判断基準を根底をなす物、ここまで思いを巡らすことができるか、読者の理解力と想像力が必要である。

今、再読してみて、強く心を動かされる。「永遠の都」を読んだあとなので、小暮悠太 として描かれていたあの少年が鹿木青年になったと、位置づけられたこと、自分の今の年が著者が本書を書いた年齢に達したこともあるだろうが、日本が高度成長時代を経て、アメリカと条約を締結し、世界の中での日本の位置づけを意識できるようになったことも大きいと思う。戦争が持つ意味と世界の中での外交と戦争の働きをである。マッカーサーが占領軍で日本に来たときに、「日本は12歳」と言った、その意味がわかる、その上でこの本を読む、そうすると価値観の瓦解に至る経緯と、それを本という形にして書く気持ちになった著者の心の移行が感じられるからである。単なる幼年時代の思い出物語、として読む話ではないだろう。
帰らざる夏 (1973年)

2009年11月18日 フランチェスコの暗号 イアン コールドウェル  ☺☺☺

ダビンチコードやダンテクラブのような謎解きが主題ではあるが、描写の中心は4人の仲良し大学生のプリンストン大学での謎解きと交流がメイン。プリンストンで学んだ人なら懐かしい風景が思い浮かぶのだろう。殺人や学生クラブの火事が出てくるが、これがなければ一流の大学案内になっただろうにと残忍に思うほど、大学の季節感やキャンパスライフが紹介される。主人公はトーマス、父親が研究していた謎の本「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」を介して親友となるポールと知り合う。そして大男で人が良いチャーリー、銀行家の息子ギルが加わり、本の謎解きを行う。謎解きの内容も少しは面白いのだが、なにより、トーマスが付き合うガールフレンドとのやりとりや4人の男達の交友が、20歳前後の心理を表していて、大学生版のハックルベリーフィン物語か、スタンドバイミーか、という読後感もある。原題は”The Rule of four”、4人の友情と謎解きのルールを指している、という。プリンストン大学OBは必読か。
フランチェスコの暗号〈上〉 (新潮文庫)
フランチェスコの暗号〈下〉 (新潮文庫)

2009年11月15日 謝謝!チャイニーズ 星野博美 ☺☺☺☺

中国人が大好きになった著者の中国旅行記。中国南部の日本人旅行者はあまり行かないと思われるようなベトナム国境の町、東興、ベトナムに中国人と一緒に不法入国してみる。普通の日本人ならやらないこと、著者は肩肘張らずに、しかし緊張感をもってやってしまう。台湾の対岸の町、廈門や平潭では地元のタクシー運転手と仲良くなり、寧波では食堂のおばさんと仲良くなる。仲良くなるきっかけは何気ない出会いだが、相手の中国の人が、日本人の旅行者に気さくに話しかけてきてコミュニケーションが始まる。この始まりは相当程度に中国人側の積極性が関与していて、日本ではこうはならない。中国人の狡猾さや、気が抜けない盗人がいることと同時に、底抜けに人が良い人たちがいる、これが著者が中国人が大好きになった理由だ。

この本を読むと、読者も中国人が好きになってしまう。バイタリティ、という言葉がぴったりな星野博美さんである。
謝々(シエシエ)!チャイニーズ (文春文庫)

2009年11月14日 風土の日本 オギュスタン・ベルク  ☺☺☺

日本の自然と人間の特性について着目していた外国人、オギュスタン・ベルグというフランス人の風土学者が描いた日本とその風土について。驚くほどの日本研究と理解、そして論述する範囲の広さに尊敬の念さえ抱く。

まず日本の季節と風景、暦から春夏秋冬が日本人にとってどのように移ろい日本人がそれをどのように感じているのかを、一茶の俳句から解説しようとする。「夕立やかみつくやうな鬼瓦」夕立という夏の季語から、日本の気候を説明し、同じ雨でも感じ方が違う、四季によってはうれしい雨も鬱陶しい雨もある、そしてそれが一つの気象現象を表すだけではなく、雨をもたらした風景を思い起こさせるという。

「花冷えの火鉢にさして妻が鏝」4月の東京には時として寒い日があり、そのときには家にはまだ火鉢が出ていて、こんな寒い日には外に出ても良いことなんてありませんよと妻が気を利かせている。こういう調子で日本の四季と人々の暮らしを説明してくれる。フランス人に日本の文化を紹介してもらっているのだ。

ベルクが日本人の性格を著した明治末期の著書「国民性十論」(芳賀矢一)を紹介、次の十章からなっている。
1.忠君愛国
2.祖先を崇び家名を重んず
3.現実的・実際的
4.草木を愛し自然を喜ぶ
5.楽天洒落
6.淡泊瀟洒
7.繊麗繊巧
8.清浄潔白
9.礼節作法
10.穏和寛恕
ベルクは4番目に自然を喜ぶことが登場していることに注目している。日本人の美意識には植物が強く影響しているというのだ。衣料、食料、住居に植物を取り入れ、色彩名称にも植物名が多いという。「桜色、桃色、山吹色、葡萄色、、」日本酒にも「桜正宗、菊正宗、松竹梅、黒松剣菱」、人の名前も「おまつ、お菊、おウメ」

西洋文明と日本文化を対比して月尾嘉男さんは日本の自然環境が豊かに残っている理由について次のように言っている。『自然を開発して人間が利用するという西欧の哲学ではなく、自然と共生して利用するという独特の価値意識を維持してきた影響も無視できない。その結果、それぞれ独自の自然環境を基盤にした多様な文化が存在していることも日本の社会の特徴である。』一方、ベルクは「風土の日本」の中で60-70年代に進んだ公害について次のように述べています。『一見すると分裂症的とも言える日本社会の自然に対する姿勢をどのように解釈すればいいのだろうか。一方では自然を賛美し、他方では荒廃させているという接し方なのである。西洋から吸収した技術文明と、深いところになる日本文化の両立し得ないことを知りながら、進んでいく力は、進んでいくのだから認めてしまおうとする姿勢は、自然と自然的なるものについて日本独自の伝統的考え方から出てきたものである。日本では、自然が支配階級に占有されている偏りをただすことが住民運動の歴史的役割だったのである』と言っている。

1972年の田中角栄による「日本列島改造論」は高度成長という西洋文明の流れのまさしく白鳥の歌だった、というのがベルクの指摘である。日本は経済発展の行き過ぎによる公害問題の4大訴訟とも言える「富山、水俣、四日市、新潟」を経験、1975年には人工海岸の総延長が8369Km、日本の海岸の4分の一にも達していた、これはフランスの海岸線総延長距離よりも長いという。こうした支配階級による自然破壊に対抗したのは住民運動であり、1970年代にやっと自然破壊を抑止する方向に転じた、と評価する。

フランスも自然豊かな農業国だが、日本のような温暖で多雨気候ではなく、針葉樹と広葉樹が混在するような日本の森林と里山、自然と町が一体化するような成り立ちにベルクは驚きながら、その環境が破壊されていくことに憤りを感じているのだ。19世紀までの日本では豊かな自然の中に人間生活を埋め込むことで「共生」ががはかられてきた、20世紀は文明開化、富国強兵、殖産興業から敗戦を経て工業化、経済発展至上主義を掲げ、生活レベル向上、国力増大に励んできた結果が、その「共生」の破壊だったのではないか。

フランス人に教えられる昭和から平成に至る日本の姿、ためになります。
風土の日本―自然と文化の通態 (ちくま学芸文庫)

2009年11月12日 受精 帚木蓬生 ☺☺☺

プロットは臓器農場と似ている。臓器農場では無脳症児だったが、受精ではヒトラーの精子を使った人工授精、舞台はブラジルのサルヴァドール。

恋人の明生を交通事故で亡くした舞子は失意の中死のうかと思った。そのとき、出会ったのがドイツ人ヘルムート。費用は無料で、明生の子供を授かれると暗示にかける。舞子は催眠状態で明生の幻影に出会い、受精ができる施設があるブラジルへの旅を決意する。韓国経由でのフライトで韓国人女性の李寛順に出会う。ブラジルでの滞在先は昔アフリカの黒人達がブラジルに陸揚げされた土地サルヴァドール。一流の施設を完備したホテルと見まがうばかりの病院だった。そこでフランスからの女性ユゲットとも出会う。これら3人の女性の境遇は似ている。恋人が交通事故で死んでいて、恋人の死を受け入れられずに悩んでいる間に、この施設への入所を受け入れている。

施設での待遇は問題ないが、ある時、舞子と寛順はドイツ人女性バーバラの不審な死を見てしまう。日系医師のツムラにバーバラが密かに入手したと思われる情報を寛順は密かに提供、ツムラは病院の秘密を探る。病院は血液から遺伝子を解析してその人間の将来の病気を予測する技術を開発していたのだ。米国の保険会社と契約して、保険契約者の血液から保険契約に必要な将来の病気罹患可能性情報を提供する、というビジネスを病院は行っていたのだ。さらに旧ドイツの亡霊が絡んでいて、ここにつれられてきた女性達は、病院組織が計画的にパートナーを殺戮して、ヒトラーの遺伝子から人工授精を施して、ヒトラーの末裔を作り出そうとする集団だったことがわかる。

舞子が思いを寄せる明生との恋愛描写は宮本輝を思い起こすが、医学的なサスペンス部分は著者独特の情報収集と経験に裏打ちされた記述だ。ヒトラーにまつわる逸話の紹介で、著者の別の作品である「ヒトラーの防具」に登場する日本人軍人が出てくるのは面白い。帚木さんの小説には、心地よい流れのようなものがあると感じる。この心地よさの正体はなんなんであろうか。
受精 (角川文庫)

2009年11月7日 カシスの舞い 帚木蓬生 ☺☺☺☺

精神病医 水野はフランスに留学、研修医としてマルセイユの大学病院に学んでいる。病院で知り合ったシモーヌと付き合って研究と恋愛を両立する日々を送っている。大学病院は分裂症と覚醒剤中毒が研究され、薬物を薬として使うための研究がされ、世界的に注目されている。大学の死体置き場に首なしの死体が見つかり、それは大学病院の患者と言うことがわかるが、そのカルテとレントゲン写真が紛失していることを水野は知る。

水野はある日シモーヌの生まれ故郷の港町カシスを訪問、シモーヌの育った叔父の邸宅を訪れるが、叔父が薬物中毒で死んだことを知る。その妻も薬物中毒、容易な事態ではない。カシスは覚醒剤などの薬物がヨーロッパ中から集まり、再度販売される拠点の町になっていたのだ。町で年に一度開かれる音楽祭が取引の隠れ蓑になっているのだ。シモーヌと水野はお互いに愛し合い、必要としているがシモーヌには水野に伝えていない秘密がある。

さまざまな疑惑の解明を決意した水野は大学病院に付属している閉鎖病棟、脳研究所に潜入し、病気が進展し別病院に移転したはずのもと患者が電極を頭に刺されて実験台のように寝かされているのを発見する。大学病院の助教授や研究者は研究に必要な実験として人間を使っていたのだ。それも入院する患者や交通事故死者などを巧みに実験台として、アンフェタミンなどの薬物のテストをしていたのだ。水野は警察に通報、カシスとマルセイユの売人組織、大学病院内のネットワークは一網打尽になる。

シモーヌは、こうしたネットワークの一部であり、水野に告白の後死のうと決意する。シモーヌは水野に自分の生い立ちと、カシスの薬物状況を手記にしたためる。
「私の周りには4つの狂気があった。病気としての狂気、自らの意志による薬物摂取という狂気、狂気を科学的に解明しようとして行きすぎた人体実験を繰り返す狂気、そして、これら3つの狂気をさらに増幅させようという薬物取引の仕組みを町ぐるみで作り上げた狂気、これをカシスの舞いという」シモーヌは水野の目の前で海に沈み自殺しようとするが果たせない。

著者の初期の作品だが、精神科医としてのフランス留学経験からの作品であり、シモーヌとの恋愛描写や大学病院内での実験や薬物描写はその後の作品につながる。マルセイユの町やカシスの町が見事に描かれていて、目に浮かぶようだ。訪れたことがある人には懐かしいだろう。実際に暮らしたことがあるような記述もあり、著者はどのくらいマルセイユに滞在したのであろうか。
カシスの舞い (新潮文庫)

2009年11月5日 昭和史のおんな 澤地久枝 ☺☺☺☺

昭和10年頃に生きた女性をつづった昭和史。旧民法の時代であり、教育勅語と徴兵制、日中戦争拡大期で軍人勅諭が生きていた時代である。治安維持法があり日本が戦争をしていたその時に生きていた女性達の価値観の歴史、とも感じる。女性が生きることを描くと当然同時代の男達の生き様を女性の目から評価することにもなり、実は現代と変わらない問題を抱えていたことがよく分かる。この本が書かれたのは1977年、戦後32年、今から30年前である。発行人は「昭和史」を書いた半藤一利。
1. 妻たちと東郷青児
  恋愛に節操のない東郷青児が結婚後直ぐに別の女性に惹かれ、親に仲を引き裂かれるやまた直ぐに別に女性と同棲するなど、まことにだらしない。挙げ句の果てに自殺未遂などするのだが、女性は散々な目にあっても東郷青児の絵描きとしての名声には傷は付いていない。
2. 井上中尉婦人の「死の餞別」
  井上中尉の若妻は夫の出征を見送った直後に自害、時節柄美しき夫婦愛であり、お国のためのすばらしい心がけと絶賛される。しかし、その後の井上中尉の戦場での行状や、再婚の苦労を追ってみると、偶像化された軍人妻の亡霊がどれほど普通の軍人である井上中尉に重くのしかかったことか、「死せる孔明、生ける仲達を走らせる」である。
3. 保険金殺人の母と娘
  医者の息子として安逸に育った長男を父と母、そして長女が保険金をかけて殺してしまう。しかし、母は医者としての夫に直接手を下させようとはせず、母と娘で息子を出刃包丁で刺し殺し、強盗に入られたと見せかけ保険金をだまし取るがばれてしまう。裁判では、実際に殺人をしていなくても教唆したとして主犯は父親とされる。父親には母以外の女性とのつきあいがあることも明らかになっていて、母には娘達や世間も同情を寄せた。
4. 志賀暁子の「罪と罰」
  女優であった暁子の半生。恋多き女性暁子は映画監督や映画界の多くの恋の遍歴を雑誌に手記などで明かしてしまう。男性にとって迷惑な話であるが、この時代男性側は実質的な被害を被らず、結果として暁子の映画女優としての時代は長くは続いていない。
5. 杉山智恵子の心の国境
  岡田嘉子が一緒に逃避行をした相手の杉本の妻が杉山智恵子である。岡田嘉子は1972年に帰国し、数本の映画に出るがその後「心の故郷」であるソ連に帰国する。杉本は逃避行直後にスパイ容疑で銃殺されてる。智恵子は二人の逃避行に理解を示しながらも、夫の逃亡に恨みを隠せない。
6. チフス饅頭を贈った女医
  医者である女性広川君子は医学博士を目指す男、伊藤と結婚、別居してでも勉学を続ける男に送金を続け、6年ものあいだ結婚し続けながら同居したのは1ヶ月ほど、男は医学博士を取得するが、なぜか長く貢献してくれた妻と一緒に暮らそうとはしない。君子は離婚することを受諾、手切れ金として6年間の送金分ほどの金額を手にするが、憤懣やるかたない。怒りは治まらず、当時流行していた腸チフス菌を塗布した饅頭を患者名を語って伊藤に贈る。食した伊藤の弟は死に至る。裁判では君子に禁固8年の判決が下るが、伊藤に裁判官は厳しい評価を下す。この時の弁護士には滝川幸辰がいるが、「本当の被害者は被告人である」と述べ、多くの傍聴者、国民は君子に同情する。
7. 性の求道者・小倉ミチヨ
  「相対」という会員制雑誌は大正2年から昭和19年まで発行された、性の情報誌。発行者が小倉清三郎と妻ミチヨであった。会費は年3円で手刷りの月刊誌が届けられるというもの。「相対性理論」と聞いた多くの方はアインシュタインの、と考えるが、「相対」会員だった方だけは違ったようだ。
8. 桝本セツの反逆的恋愛
  桝本セツの愛した人は唯物論研究家であった岡邦雄、美津という妻と3人の子供がいる家庭人だった。邦雄は家庭を捨ててセツとの暮らしに入るが、二つの家族は交流を続ける。邦雄の死後は美津の子たちがセツの2人の子たちの面倒をみる。

いずれの女性も女性として伸び伸びと生きられる時代ではなかった昭和初期、戦前に大いに女性としての本能と意志を貫いた人たちであり、大いなる苦悩や不幸を味わった。共通するのは、好きな相手がいたこと、その相手は立派な男とは言えない弱い面をもった男性であり、その弱い面を女性が助ける、補完する、代替するなどで女性としての社会的役割を果たそうとしていたこと。しかし社会はそうした女性の社会的役割を肯定したわけではなかった。この本が書かれた1977年という時期、それはここに登場した人たちがや関係者がまだ存命していた頃。取材対象に配慮した部分もあったろうと想像でき、客観的な記述が十分果たせなかったかもしれないが、米原万里さんはこの本を読めば戦前昭和史が分かると書いていた。紹介された8つのストーリーから、昭和10年ころ、まだ大正デモクラシーの名残があり、しかし時代は確実に戦争の時代、そのころの男女関係に関する価値観がよく分かる書き物だと思う、価値ある昭和史資料だと思う。
完本 昭和史のおんな
続 昭和史のおんな

2009年11月4日 座礁 巨大銀行が震えた日 江上剛 ☺☺☺

第一勧業銀行が1997年に総会屋に不正な融資を75億円もの金額を頭取自らしていた、そのことを組織ぐるみで隠蔽していた、そのドキュメンタリーのような小説。小説であるが、ほとんどノンフィクション、と解説されるストーリ−である。主人公は都市銀行広報部次長の渡瀬、著者江口さんそのものである。渡瀬は自分の銀行が総会屋に不正な融資を75億円している事実をつかむ。このことが不正融資先の総会屋が融資資金を使って日本最大の証券会社を通して企業株式の買い付けを行い、その証券会社が飛ばしや損失補填の疑いから東京地検の取り調べを受けたことから、不正融資の事実も発覚する。

こうした事実を銀行の歴代経営者は知りながら、申し送り事項として引き継いできていることを渡瀬は知る。実際の融資は銀行の総務部が実行していることも判明するが、総務部でも上からの要請であるから断れなかったのだ、と嘯く。顧問弁護士も「法律上の問題はない」などと社内会議で解説するのだが、それに対して経営者達が、先生が問題なしと言ってくれるなら安心だ、などというのに渡瀬は激怒、頭取や専務、常務がいる会議の席上、次のように渡瀬が発言するのがこの小説の最大の山場である。「こんな融資を私は教えられたことはありません。きちんと融資使途を確認して担保を取って、融資して、そして返済される、融資はもっと厳格なものです。生きて使われ、きちんと返済されてこそ融資だとあなた方は教えてくれたのではありませんか。」「どこの銀行に大蔵省検査をごまかすのは当然だ、どこでもやっている、などと発言する役員がいますか!」

ちょっと格好良すぎる気もするが、江上さんは本当にそういう発言をしたのだろうと思える。それは、銀行を辞めて、そのことを小説、と言う形で告発し、その後も小説家として次々と作品を出しているから。江上さんの講演会を聞いたことがある。席上質問をした。「不祥事で不正をはたらいた経営者達は責任を取って退任をする、しかし、次世代の経営者達はこうした経験をしていない、つまり懲りていない。どうしたら企業不祥事の再発を防止できるのでしょうか。」これに対して江上さんはこう答えた。「社員が気づくしかないのです。法律的に問題がない、などという法律の専門家の話は信用できない、社会人としての常識から、それはおかしい、と社員が感じたら、それは変だ、と発言すること、できる会社であることが、不祥事発生抑止力だと思います」「そのためには社員がやる気やりがいを感じて働ける会社であることが重要なんです」

江上さんは懲りたんですね。社会人としての常識が通じる会社、会社の常識が社会常識とはかけ離れている実態。セミナーでは「ちょっとおしゃべりが過ぎるおじさん」という印象だったのだが、小説はリアリティが迫る迫力がある。銀行不祥事告発の向こうには江上さんにとっては何があるのであろうか。それが課題だと思う。
座礁 巨大銀行が震えた日 (朝日文庫)

2009年11月3日 差別と日本人 野中広務 辛淑玉 ☺☺☺☺

野中広務という政治家については、京都の園部出身で部落出身者だ、ということは知っていたが、保守自民党の幹事長まで務めた人であり、反共の立場を貫く政界の寝業師だ、というくらいの認識であったが、大いに認識を改めた。ベールを剥ぐ役割を辛さんが務めているのだが、これがまさに適任であった。辛さんは在日朝鮮人の立場を表明している有名人であるが、疑問に思ったことは全部聞きたい、自分が少しくらい傷ついたとしても、相手の矛盾は指摘したい、という人だと感じた。その辛さんが、ずばずば聞くので、政治家相手なら言を左右する野中さんもついつい素直に答えてしまう。

圧巻は最後のところで、二人が自分の信念を貫く中で家族を守ることが難しい、日本ではできない、ということを互いに吐露するところ。お二人の本音がでて、実際の対談では涙で声が震えたという。野中さんが「このごろもう疲れちゃっているんだ。自分の出生問題の波及の大きさ、日本の閉鎖性と僕はずっと戦ってきた。自分の出自が明らかになることで家族が冷たい仕打ちを受けるようになった」これに対して辛さんは「二十歳のときに本名で生きることを宣言したが、母親におまえは日本の怖さを知らない、と言われた。マスメディアに頻繁に出るようになると、実家にも嫌がらせがくるようになった。しばらくして母親からは日本名で暮らしたい、と頼まれて、受け入れざるを得なかった」

野中さんは今では政治家をリタイヤしているのだが、奥さんは一緒に食事に行ってくれないという。有名な野中広務さんは人に取り囲まれるからだ。辛さんは、日本では小泉さんや竹下さん、石原さんの息子達が芸能界で人気者になるが、野中さんの娘も人気者になれるだろうか、と問題提起する。差別は、する側からすれば『享楽である』という辛さん、野中さんが戦後未処理問題を誠実に解決していくことが政治家としてやり残した仕事だ、というと、在日朝鮮人はいつも日本の政治家達の視界からはずれている、と指摘。野中さんはそれを認める。ハンセン病問題、人権擁護法案の挫折、女性の社会進出支援などについての対談は、他の自民党や民主党の政治家達だったらどう答えているのであろう。

辛さんが定義する日本の政治家に必要な資質は、将来ビジョンや政治理念などではなく、問題解決力や勢力間の諍い調整力だという。野中さんには政治的信念はあるがビジョンはなさそうだ。しかし、問題解決力、調整力があり、他人の痛みを感じられる政治家として自民党の幹事長まで務めたのだろう。差別は今でも厳然として存在する。人との違いを見つけて力とお金がある側がそうではない側を差別する、二人とも一生をかけて差別と戦う人である。
差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)

2009年11月2日 時の渚 笹本稜平 ☺☺☺

面白いけれども、ちょっとできすぎた偶然に思える結末。ヒントは前半部分から示される。本庁警察の元刑事茜沢は、余命半年という元池袋のヤクザ松浦から自分が赤ん坊の時に人に託してしまった息子の探索を依頼する。松浦は35年前生まれて間もない息子を池袋の公園で見知らぬ女性に渡してしまったのだ。女性は要町で「金龍」という居酒屋をやっていたというユキちゃんという女性。依頼された茜沢も35歳、とくればだれでもいろいろ想像できる。ユキちゃんの本名は原田幸恵、鬼無里の旅館の娘だったことがわかる。一方、茜沢が刑事を辞めるきっかけになった殺人事件で、茜沢は妻と子供を殺人犯にひき逃げされている。被疑者は江戸川区会議員駒井、これも35歳。両親を殺した上で逃亡途中に茜沢の妻子もひき殺した疑いなのだが確証が得られず無罪となっていた。新たな殺人事件の容疑者に再び駒井が浮かび上がった、と連絡してきたのは元茜沢の上司だった真田。

誰が松浦の息子なのか、駒井は殺人犯なのかなどがストーリーの柱だが、茜沢が幸恵のルーツを探るプロセスで知り合う人物達が暖かく、これがストーリーを包んでいた作者の人の良さを示していると感じる。「天空への回廊」「太平洋の薔薇」に比べるとスケールは小さいが、親子の絆を描いた本作品は、作者のもう一つのストーリーテラーとしての才能を示す。読後の印象は悪くない。

今までのコンテンツ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

Copyright (C) YRRC 2009 All Rights Reserved.