読書日記(2010年3月−)

2010年8月17日 手紙 東野圭吾 ****

武島剛志には高校生の弟直貴がいるが両親はいない。自分ができが悪かったので弟には大学進学をさせてやりたいが金がない。引っ越しの仕事で訪れたことがある資産家の家に忍び込み家人に見つかって刺し殺してしまった、強盗殺人で15年の懲役だ。直貴の苦労はここから始まった。そんな直貴に剛志は手紙を毎月書く。 高校卒業までの食費、学費、アパート代などを稼ぐためにアルバイトをしたいが、兄が服役中だとわかると雇ってくれないので、嘘をつくことになる。レストランでアルバイトを見つけるが級友が客として訪れ店に服役中の兄がいることが分かり、店主は理解を示してくれるが客が敬遠して結局辞めることになる。 卒業後リサイクル工場で働きそこで由美子と知り合う。通信教育で行ける大学があることも知る直貴、手続きをして入学する。そこで音楽をする仲間にも出会う。ボーカルとしてバンドのメンバーになるが、またしても服役中の兄のことでバンドを辞めることになる。大学の合コンで中条朝美と知り合う。彼女は田園調布に住む裕福な家庭のお嬢さん、交際は深まるが家族に反対される。朝美は直貴との交際を続けると主張するが家族は、服役中の兄がいることを知ると手切れ金を渡してでも別れさせようとする。直貴はここでも彼女との交際をあきらめる。 通信制大学を卒業、兄のことを隠して大手家電販売店に就職をする。働き初めてしばらくすると盗難事件が起こり、警察の調査のプロセスで兄のことが会社にばれてしまう。会社は倉庫係に直貴を異動、その扱いに憤慨した由美子は家電量販店の社長平野に手紙を書く。手紙には直貴の今までの苦労が綴られていた。平野はその手紙を読み、そうした手紙を書いてくれる存在がいることに感激、新入社員である直貴に話をする。なぜ人は人を殺してはいけないのか、罪を償うこととは。本人だけではなくこうして家族に大変な迷惑をかけ続けることに兄は犯行を犯すときには気づいていなかった、気づくべきだったのだ。 直貴は由美子と結婚、会社の寮に入る。ここでもあるきっかけから服役中の兄がいることが近所の住民にわかってしまい、子供にも悪影響を与える。直貴は今でも毎月手紙をくれている兄に「迷惑だからもう手紙を書かないでほしい、縁も切りたい」と手紙を書く。由美子がひったくりにあい、娘はけがをする。犯人が捕まってその両親が謝りに来る。謝ってもらっても子供のけがは治らない、しかしその両親の気持ちは伝わる。直貴は兄が殺害した被害者の子供に謝罪にいく。そこで兄は被害者の家族にも毎月手紙を出し続けていたことを知る。その被害者の家族への手紙に弟から絶縁状がきたこと、手紙が受け取った人を苦しめていることを知った、と書かれている。直貴はさらに苦しむ。 直貴は昔のバンドの仲間と一緒に、兄が服役する千葉刑務所に慰問演奏に行くことを決意する。兄の姿を見た直貴は声が出ない。 手紙を書き続ける兄の気持ち、苦しむ直貴、直貴を支える由美子、直貴を取り巻く周りの人たちの反応。罪の償いとは何なのか、兄弟の絆を断ち切りたいという直貴の思いは正しいのか、社長の平野がそれをこのように説明する。「正解などないのだよ、自分で決めるしかない、それがすべてなんだ。逃げないで現実と向き合う、と決めたらその通りにがんばってみることだ。人を殺すということの罪は、その人の自由を奪うだけではなくて、その人を愛する人、思いを寄せる人にも大いなる影響を与える、そのことを知れば人を殺すことなどできないのだ。その罪の償いは一生かけてもしていかなければならない」 直貴の人生はこれからも平野社長の言うとおりになるだろう。それが社会に対しての罪の償い、こういう償いが必要だからこそ新たな殺人などの犯罪を抑止する、というのが平野社長の意図である。剛志が出所してきたら直貴はどうするだろうか。 手紙 (文春文庫)

2010年8月13日 無縁・公界・楽 網野善彦 ****

筆者が高校教師をしていたときに回答できなかった質問が二つあったという。 1. 日本の天皇家は滅びそうになったことがたびたびあるが、滅びることがなかった、なぜか。 2. 平安から鎌倉時代に集中して偉大な宗教家が出現した理由はなにか。 本書はその2つの疑問に対する回答の一部である試案であるという。 記述の最初は「エンガチョ」、汚れたものに触れたりや悪いことをすると「エーンガチョ、エーンガチョ」とみんなに囃しかけられるという遊び、関東地方以外にもあるのだろうか、関西にはない。あるタイミングで「エンガチョの指切った」という合図でこの遊びは終了する。汚いこと、悪いことと縁が切れる、ということであろう。この「縁が切れる」というところに筆者は着目する。歴史上にも、社会のしがらみを切る、貸し借りをチャラにする、中立状態になるなどの存在があったという。それをタイトルの無縁・公界・楽として解説する。 江戸時代にはあった縁切り寺、駆け込み寺、無縁所などがあり、夫と離縁したい女性、罪を犯したとされた人が逃げ込むなどの特殊な場所が寺の中にはあった。これを公界(クガイ)という。 自治が守られた町もいくつかあった。伊勢地方の桑名、宇治、山田、大湊などである。こうした町には時の権力者の力が及ばないというケースがあったという。堺の町も自由都市として有名だった。伊勢志摩地方に多くいた海の民には天皇に供物を貢ぐ一族がいた。こうした貢ぎ物は時の権力者への年貢とは別で、権力者の力が及ばないとされていた。農民や商売人のように定着せず、諸国を動きながら生活する人たちにはこうした権力から義務を免除されるという共通する性格があったという。「道々の者」と呼ばれた人たちで、海人、山人、鍛冶・番匠・鋳物師などの手工業者、獅子舞。猿楽・遊女・白拍子などの芸能人である楽人・舞人、陰陽師・歌人・能書・算道などの知識人、博打打ち・囲碁打ちなどの勝負師、巫女・勧進聖・説教師などの宗教人などと分類される。 こうした道々の者たちが関係した場所が無縁・公界・楽、その人や場所に共通する特徴はつぎの通り。 1. 不入権。理不尽なる権力介入をさせない。 2. 諸役免除。 3. 自由通行権。 4. 敵味方に分かれることはない平和権。 5. 私的隷属からの解放。 6. 貸借関係の消滅。 7. 連座制の否定。 8. 自治組織「老若」の存在。 本書の記述には反対論も多いという。この増補版ではそうした批判も掲載して、筆者なりにさらに補足している。隆慶一郎の愛読者なら、こうした「道々の者」が登場して活躍する物語を知っているだろう。穢多・非人と呼ばれた被差別民もこうした道々の者たちの一部もしくはなれの果てかもしれないが、道々の者たちには手に職があり芸に秀でていたという違いがある。こうした芸能の技や職により得たものを天皇に貢ぐ、このことでその時々の権力者からの搾取を免れていた、というが定住しないため年貢として召し上げる手段がなかったのかもしれない。 今まで読んできた日本史にはあまり登場することがなかった人たちであり、登場したがこうした切り口で解説されてこなかった新たな見方である。 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

2010年8月12日 江戸商売図絵 三谷一馬 ****

これは面白い本に出会った。江戸時代、文化文政、享保、天保、安政などの各時代に衣食住などに関わる商売や職人たちがどのような風俗で商売や仕事をしていたのか、当時の浮世絵などを模写して一冊の本にしている。初版は昭和38年2000部刷られて2800円だったという。その後昭和50年に改装されて1万5千円で発刊1000部刷られた。それがこの版は中公文庫から1429円で発刊、江戸時代の小説を書く人、テレビ番組を考える人、歴史家などにとっては必需品だろう。欧米人が江戸後期に日本を訪れて、様々な商売が細かく設定されていてそれぞれが成り立っていることに驚いているが、現代人がみても驚きである。はたして本当に成り立っていたのだろうか。 「白粉屋」「紅屋」「扇地紙屋」「烏帽子屋」「針売り」「糊売り」「茶飯売り」「耳あか取り」「砂糖水売り」などなど興味は尽きない。それが絵入りで解説されるのだからおもしろく、京都大阪と江戸のちがいも説明される。 寿司の歴史がわかる。稲荷すし→コハダすし(巻きすし、こはだ、鉄砲、朧、アサリ、蛤、きりするめの7種盛り)→早鮨(生魚のすし) 蝶々売り、という蝶々が棒の先についているだけのおもちゃ売り、からから売りという赤ちゃんのあやしの道具に使うような小太鼓に紐が二本、その先に玉がついていて小太鼓を敲くおもちゃ売り、シャボン玉売り、やじろべいを売る与次郎売りなどなど、おまんまが食べられて時々お酒にもありつける、これで十分と考えればすべては成り立つのであろうか。足るを知るという人生を暮らしていたに違いない江戸の庶民に拍手である。 江戸商売図絵 (中公文庫)

2010年8月12日 氷紋 渡辺淳一 ***

小説の最初から結末を予感させる描写がいっぱいである。 大学医学部教授の娘だった有己子、将来を嘱望された研究員諸岡敬之と結婚したのが7年前、一人娘の真記は小学一年生である。何の不満もないような生活だが、有己子は結婚が決まったときに当時夫の同期生であった久坂に抱かれている。その久坂は天塩にある病院に赴任しているというのだが、その母が死んだので久しぶりに札幌に帰ってくると夫から伝えられる。 有己子は連絡をしようとするが夫の同期生であったという人の母の葬儀に顔を出す正当な理由が見つからない。葬儀が終わった後思い切って連絡を取る。そして天塩に帰るという久坂を札幌駅まで見送りに行き、久坂に誘われて再び抱かれる。 有己子は下腹部に激しい痛みを感じ、夫に診察してもらうと尿管結石だという。入院と手術を予定しているときに、久坂が一月ほど同じ病院に出張してくることを知り、有己子はとまどうがあいたい気持ちは隠せない。夫の執刀により結石除去手術は成功する。退院の日まで久坂は同じ病院にいながら見舞いにも来てくれない。 夫は結石手術だけではなく有己子に相談もなく不妊手術までしてしていたことが後からわかる。昔二回目の妊娠をしたときにひどい悪阻で二度と妊娠はしたくない、と言っていたからだと夫はいうが、自分に相談なく不妊手術をした夫が許せない。夫を問いつめると、久坂への思いを結婚当初から知っていたといい、手術を久坂にも見学させたのだといった、そしてそれが夫の久坂への仕返しだったことを知る。 有己子の気持ちは夫から離れているが、久坂はクールである。 不倫小説であるが、描写が客観的、空からみている医者が患者の心の動きを解説するような不倫小説。有己子はこの先どうなるのであろうか。 氷紋 (講談社文庫 わ 1-4)

2010年8月12日 鬼麿斬人剣 隆慶一郎 ***

鬼麿は刀鍛冶、その師匠は稀代の名工源清麿、天保13年に清麿が死ぬが、そのいまわの際の遺言が金に困って作ってしまった駄作の回収、もしくは廃棄であった。ヒントは13年前に清麿がたどった旅の道すがらであり、中山道を通って野麦峠から金沢、福井、そして京とつながっている。鬼麿はそれだけを頼りに旅に出る。鬼麿の剣の腕前は大刀で鍛えられた試し切り、身長は6尺5寸、体重は32貫という巨漢、3尺2寸5分という長い刀が武器だ。 山窩一族といわれる山人のメンバーとして暮らした経験がある鬼麿、旅の途中に山人の子供「たけ」と知り合う。さらに追っ手である伊賀忍者の服部頭領の娘おりんとも道連れになり旅を続ける中で、師匠の名作と駄作の両方に出会う。駄作は折って捨て、名作はそのままにするのだが、持ち主にしてみれば「駄作」といわれて簡単に折らせてくれるわけではない。そこが物語のストーリーである。 著者の特徴の一つが公界の人たちを登場させること、このお話では山人がクローズアップされている。江戸幕府の体制の中でも公界の人たちは体制に背を向けて、もしくは無視、あるいは身を隠して生きている。網野善彦が無縁・公界・楽という著作を発刊しているが、そのなかで体制の外の人たちとして解説される海人や運送業、など士農工商ではくくれない人たちが大勢登場するのだ。 荒唐無稽ともとれる人物設定もあるが、源清麿は実在の人物、時代設定も史実に沿っているという、なぜか引きつけられる小説である。 隆慶一郎全集第六巻 鬼麿斬人剣(第3回/全19巻)

2010年8月7日 「ニッポン社会」入門 コリン・ジョイス ***

デイリーテレグラフの日本支社記者による日本解説。プールはもっとも日本がわかる場所だという。60分に一度休憩時間があって、みんながそれを守る。自分は疲れていないとか今きたばかりだ、というのは関係なくみんながルールを守る。泳ぎ方にもルールがあるようで、遅く泳ぐ人のレーンと早い人のレーンが設定されていてすごいことは皆がそのルールを守っていること。 日本語の擬音語はおもしろい、いらいら、ぎすぎす、しくしく、最高はズングリムックリだという。日本語を学んで暫くたったときに日本人に「日本語、お上手、ペラペラですねえ」と言われた、このお上手、そしてペラペラが分からなかった、という笑い話。 日本にきて初めての夏、外の発電機の騒音に悩まされたという。それは蝉の鳴き声。イギリスには蝉はいないのか。小便器にセンサーがついていてし始めると水が流れ、し終わると水が流れる。なんてテクノロジーだ。 日本でしか見られない光景。電車で眠る人、電車で新聞を小さくたたんで隣の人に迷惑がかからないようにしている人、プールで耳に入った水を出すために飛んで踊っている人、ハチ公前で携帯で待ち合わせ人と連絡を取って「わーここここ」といっている人、歩道を走る自転車に乗った人が向かいから来る歩行者のために降りる人、駅のエスカレータで左に寄る人、そして右にいる田舎ものに文句も言わず後ろに並んでしまう右通行の人、スーパーの売り場で品物を選んでいる人の前を横切るときにしゃがんで通る人、電車に乗っていて席が一つ空く、二人ずれが席を譲り合い、一人が座るともう一人の荷物を持ってあげる。 日本ではバブルがはじけた後の15年を失われた15年といっているがとんでもない、この時期にサッカーとビールは大進歩した。 イギリスの方がおいしいもの、ビール、チーズ、パン、紅茶、ビスケット。イギリスに持って帰りたいもの、マッサージいす、シャワートイレ、するめ、味噌、使い捨てカイロ、畳スリッパ、料理包丁。 14年の日本駐在、結構おもしろい。 「ニッポン社会」入門―英国人記者の抱腹レポート (生活人新書)

2010年8月7日 春の道標 黒井千次 ****

石坂祥次郎の若い人のような、しかし時代設定は昭和24年、戦後のまだ進駐軍がいる頃、旧制中学から新制高校にちょうど切り替わる時に17歳の高校2年生を迎えていた倉沢明史(あけし)が主人公。文芸に関心を持ち、左翼活動が盛んだった頃、恋愛の経験をする主人公、最初の女友達は親同士が知り合いの一つ年上の慶子、文通をしたりお互いの家を訪問したりして恋愛感情を相互に抱く。ある日、慶子の家を訪問した主人公は慶子に接吻されて興奮する。慶子は口紅を付けた口の形を手紙につけてよこす。明史はうれしくて舞い上がるが、慶子からの手紙がぷっつりととぎれる。 ある日、通学途中にかわいい女子中学生棗をみつけて勇気を出して声をかける。棗は中学3年生、来年は明史の西荻高校を受験するという。明史はなんとしても入学してほしいと願う。お互いに心惹かれて、丘の上で口づけをかわす。しかし棗は家庭教師の西堀に嫁ぐという。 なんという若い、酸っぱいような恋愛物語だろう。三鷹事件が当時の事件として挿入されるが、明史の心はそのような事件や時事には向いていない。高校生の純粋な恋愛物語、この時代にはあったのだ。 春の道標 (新潮文庫)

2010年8月6日 神戸ものがたり 陳舜臣 ***

1965年に「神戸というまち」と題する作品を書いた著者、1981年に改訂版を出した、それがこの「神戸ものがたり」、そしてその文庫版を出すのが1997年で阪神淡路大震災の直後、大震災の一章を付け加えて発刊したという。 ポートアイランドが作られ始めた1966年、神戸が日本国復興にあわせるように日本の貿易の出入り口として発展して、今までの不当では不足した分を補おうと計画された。この時点で神戸港はNY、ロッテルダムを抜いて世界一の貿易量となっていたという。ポートアイランドの埋め立てに使われた土の量は8000万立方メートル、一ノ谷から神戸の街の上をベルトコンベアで運ばれ、海の上をバージが運んだ。ポートアイランドが完成した1981年、博覧会ポートピアが開催された。「魅力ある未来都市」、これがテーマであった、先端の流行や文化を取り入れ、古いものは未練なく捨て去る神戸を象徴するような博覧会であった。 金星台という展望台が諏訪山の山の端にある。ここからは神戸の街が一望できる。明治7年にこっkでフランス人ジャン線が金星を観察したことから命名された。ここに記念碑がもう一つ建つ。海軍営之碑、勝海舟の海軍操練所跡であり、坂本龍馬たちが住んだ寄宿舎の横には折れ鳥居があった。戦後道路工事の邪魔になるとあっさり撤去された。我が国海軍濫觴の地、と刻まれた水飲み場の石は戦後、これも取り除かれたらしい。 金星台の麓には異人館地帯があった。その海洋気象台の下に中華同文学校があり、その一角に中華会館があった。孫文もそこには立ち寄ったという。さらに東に200メートル行くと移民館があった。戦前の移民はここから送り出された。石川達三の蒼茫に登場するお夏や孫市などのような惨めな人たちだっただろう。戦後は移民も明るく送り出された。移民館から東に行くとトーアロードがある。ドイツ語で門を意味する”Tor”が語源だとか。 布引と六甲は対照的な山だ。布引は布のようにながくひいて流れ落ちる滝にその名の由来がある。布引の茶店に美人三姉妹がいた。松、福、三番目の名前は不明であるそうだ。お福に恋したのがポルトガルの海軍士官モラエス、日本に惚れ込み日本人になりたかったという。しかしお福は胸の病気でしんでしまう。傷心のモラエスは徳島に渡り、そこでおヨネという娘と結婚した。六甲を開発したのはイギリス人グルーム、モラエスとは対照的に明るい太陽のような男。六甲山に別荘を造り、1903年日本初のゴルフ場を開発した。1929年にはドライブウエイーにバスも通るようになり、1932年には六甲ケーブルが完成、布引は開発から取り残され、六甲は開けた。 神戸の海は港湾とそうでない海にわかれる。サナトリウムや映画が上映されたのも神戸が日本で最初だという。須磨の水族館、パーマネントウェーブ、ラムネ、スーパーマーケット、ペスト流行も神戸が最初。神戸には1938年大水害があり、1945年には大空襲があった。水と火の大災害だ。そして1995年に大震災、谷崎潤一郎は関東大震災があったので地震がないという神戸に転居してきたと言うが、1995年にはいなくて良かった。 こんな神戸の四方山話、陳舜臣らしいエッセイである。 神戸ものがたり (平凡社ライブラリー)

2010年8月5日 陰陽師 夢枕獏 ***

阿倍晴明は大内裏の陰陽寮の陰陽師、悪霊をお払いする霊力を持つとされている。親友の源博雅と摩訶不思議な悪霊、生霊、死霊、鬼退治などをする。 【第1話】 玄象といふ琵琶、鬼のために盗らるること 帝が大事にしていた玄象という琵琶が鬼に盗まれ、博雅が玄象を羅城門から見つけ出してきたという話。 【第2話】 梔子の女 親の供養に般若経の写経をする僧のもとに女のあやかしが出る、その女には口がなかった。口の無い女の霊に悩まされている僧を助ける物語。 【第3話】 黒川主 鵜匠の孫が夜な夜な池に入って鮎や鯉を食べる、それを唆す黒川主の正体は獺。 【第4話】 蟇 雨漏りのする応天門を修理したら、今度はあやかしが出る。 【第5話】 鬼のみちゆき 謎の牛車の女が七日間をかけて内裏へ向かうのを見かけた人間は瘴気にやられて倒れてしまった。晴明がその謎を解く。 【第6話】 白比丘尼 人魚の肉を食べたために十代のまま不老不死となり、何百年も生き続けたといわれる少女であった八百比丘尼の話。 映画にもなっているし、一時ブームにもなっったので知っている人も多いはず、野村萬斎の顔を思い浮かべる方もいると思う。 陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)

2010年8月4日 梟の城 司馬遼太郎 ***

伊賀忍者の葛籠(つづら)重蔵、風間五平、木さる、小萩、忍者の男女が情を通じながら命じられた仕事のためにお互いを殺し合う、というお話しだ。天正9年、織田信長によって攻め滅ぼされた伊賀の葛篭重蔵は、信長に取って代わった秀吉を親の敵と考えている。忍術の師匠である下柘植次郎左衛門は重蔵に秀吉暗殺を命じる。実は次郎左衛門に秀吉暗殺を命じたのは堺の豪商今井宗久、暗躍するのは背後の徳川家康。宗久からの使いは小萩という女忍者、宗久の養女であるというが、もとは武士の娘であった。重蔵と小萩は互いに惹かれ合う。重蔵の手下のもう一人の女忍者木さる、そして黒阿弥_は、重蔵とともに秀吉暗殺を企てる。次郎左衛門のもう一人の弟子風間五平は、伊賀の掟を破り伊賀を飛び出して京都奉行前田玄以に仕官し、彼は秀吉暗殺を企む重蔵を捕らえることで、玄以に取り立てられると約束をしていた。甲賀の忍者摩利支天洞玄も、玄以に雇われ重蔵を殺そうと狙っていた。しかし重蔵は洞玄を倒し、一人で伏見城に乗り込む。重蔵が秀吉と対面した時、思ったよりも老いぼれていた太閤を見て命乞いを聞き入れてしまう。五平も重蔵を追って伏見城に侵入していたが、城の警備に捕らえられる。石川五右衛門と名乗った五平は処刑された。その後、重蔵は小萩とともに山中でひっそりと暮らした。 これだけの話である。1960年の作品であり、忍者もののはしりなのであろう。梟とは忍びの者を指す言葉、昼は人の目に付かず虚に住む、他のものとは群れず一人で生きる、という存在。その梟が実は恋する相手を求めていたというストーリーなのだ。映画にもなったし、ストーリーを知っている方も多いと思うが、司馬遼太郎のその後の作品を知る人にとっては異色の作品とも感じられる。つまり、歴史観があまり感じられないという点。時代設定はあるし、秀吉の朝鮮進出は批判的に描かれている、甲賀伊賀忍者の哀れな行く末についても記述があるが、このお話しで世の中がどう変わった、世の中の趨勢が登場人物の生き方にどのような影響を与えたか、という接点は少ない。ただ、忍者である、という出自が生き方を左右している。同時代にポピュラーだった白戸三平のカムイに近いものがあるのかもしれない。 梟の城 (新潮文庫)

2010年8月2日 武士道 新渡戸稲造(奈良本辰也訳) ****

ベルギーの哲学者に「日本に宗教教育はないのか、それではどのようにして道徳を教えられるのか」と問われてそれは武士道だと考え書いた、という本書、原書は英語で書かれたものを、奈良本辰也が翻訳した。 武士道とは「人の倫(みち)」であるという著者、武士が世の中からいなくなっても武士道は伝え続けられているが危機に瀕しているという。1899年のことである。欧州にも騎士道があり、武士道は騎士道の規律であり、Noblesse Obligeである。武士道とは武士が守るべきものとして要求され教育された道徳的徳目の作法であるという。文章にはなっておらず、口伝、格言ではあるが強力な拘束力を持ち人々の心に刻み込まれている。 仏教と神道は武士道に重要な考え方を与えている。仁義礼智信と、忠誠心や先祖への崇拝、親孝行の心である。もっとも上位に位置するものが「義」であり、「勇」と並んで重要な武士道の双生児である。裏取引や不正な行いほど武士道にとって厭われるものはない。社会、両親、目上の者への義理は義務である。正義の道理が「義」である。 「勇」は義によって発動される。「義を見てせざるは勇なきなり」、勇気とは正しいことをすることである。勇猛には無駄死にがあり、向こう見ずの犬死にである場合もある、これを勇猛の私生児と名付ける。匹夫の勇と大義の勇の区別ができることが武士には求められた。 「仁」は人の上に立つものの必要条件である。武士の情けは仁である。いつでも失わぬ他者への憐れみの心である。「礼」とは他人に対する思いやりを表現することであり、品性である。礼は最高の姿としてほとんど愛に近づく。礼儀は慈愛と謙遜から生じ、他人への感情に対する優しい気持ちによって物事を行うので、優美な感受性として現れる。 真の侍は「誠」に高い敬意を払う。武士に二言はないのである。「名誉」という感覚は個人の尊厳と価値の意識を含んでいる。不名誉は人を育て、名誉のためには苦痛と試練を耐えることができる。「人に笑われるぞ、体面を汚すな、恥ずかしくはないのか」は過ちを犯した少年を諫める言葉である。 日本人の忠義とは主君に対する臣従の礼と忠誠の義務であり、封建時代の道徳である。主君による命令には絶対的に服従した。個人よりも藩や国を重んじることができるのはこの忠義のためである。武士道は損得勘定をとらず、算術を欠く。これは武士にとっての品性であり、思慮や知性、雄弁よりも武士の行動原理である義、勇、礼を重んじた。よって武士道は無償、無報酬の実践を信じた。 人に勝ち、己に勝つためには感情を顔に出してはならない。心を安らかに保つには寡黙、無表情を旨とした。切腹は儀式であり法制度上の手続きである。人に殺されるよりも切腹は名誉ある死であり、罪を償い過去を謝罪し不名誉を免れる、友を救うためには武士は喜んで切腹した。そして刀は忠誠と名誉の象徴であった。 武士道が求めた女性は家の守り手であった。戦場では男が完全に指導権を発揮し、家では完全に女性が主導権を握った。侍の心は大和魂であり、武士階級だけではなく農民や商人においてさえ理想の姿を現した。侍は民族全体の美しい理想であったのだ。武士道は日本の活動精神であったが、それは今(1899年)西洋文明に洗い流されようとしているかに見える。しかし、国民性を形作っている心理的構成要素は「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の歯」のようにそれぞれの種族にとって取り除くことができない要素である。自己の名誉心こそが日本発展の原動力である。明治維新において日本という船の舵取りをしたのは武士道以外の道徳的教訓を全く知らない人々であった。劣等国と見なされたくない、という名誉心が日本に変化をもたらした活動のバネであった。名誉、勇気、武徳のすぐれた遺産を守れ、というのがこれからの日本人に向けたはなむけの言葉である。 この本が海外で評価されて理由はよく分かる。キリスト教徒であった新渡戸は敬虔な信者であることを表明しながら、キリスト教が持つ不完全さと武士道の精神を比較したからである。そして、欧州の文学や歴史を示しながら、それとの比較論において日本の武士道を解説した、これも欧州人にとって分かりやすいと感じられた理由であろう。しかし、なぜここまでして新渡戸は武士道の弁護、のようなことをする必要があったのだろうか。アメリカ人女性と結婚したからだろうか、国際連盟事務局次長を務めて、日本の満州進出の説明をする羽目になったからであろうか。ラフカディオハーンでは不足感を感じたのであろうか。日本の当時の立場をを説明することが自分に課せられたNoblesse Obligeだと思ったのだろうか。しかし、いずれにしても、当時の目覚めた世界に日本人の感じ方がよく分かる名著だと思う。 武士道 (PHP文庫)

2010年7月28日 故郷忘れじがたく候 司馬遼太郎 ****

三つの中編。「故郷忘れじがたき候」、は秀吉が朝鮮に攻め入って、秀吉没後逃げ帰るに際して島津氏が連れ帰った陶工たちがいた。その末裔は九州薩摩の山中に故郷の風景を思い浮かべ、東シナ海対岸にあるはずの朝鮮半島の方向に開けた土地、苗代川に住み着いた。薩摩藩はその後、陶工を武家として遇し、姓名を朝鮮時代そのままに受け継いだ。そのうちの一人が沈寿官、370年前に朝鮮南原城で捕らえられ拉致された。同じ村には朴、鄭、金、白、崔、廬、陳、丁、何、朱、伸、李、林、車、などの17氏が朝鮮風俗そのままに暮らしていたという。 沈寿官氏が韓国を訪問したときには大歓迎を受けた。ソウル大学で自分の生い立ちと先祖たちの薩摩藩で受けた処遇、そして日本での現在を語った。講演の最後に、「今の韓国人は36年の日本による植民地支配を言うが、それを言い過ぎることはいかがなものか、前へと進むことが重要ではないか。36年を言うなら私は370年を語らねばならなくなる」と語ったという。そしてその後当時の朴大統領と面会、当時日本人として大統領と単独面会したのは大変珍しいことだった。大統領は沈氏が捕らえられた場所を地図で指さし晩餐をともにした。沈氏は翌日南原城を訪問、ここでも大歓迎を受けた。深く祖先のことを思い、祖先の墓参りをしたという。 「斬殺」。明治維新の時、薩長が京都をおさえ、江戸には彰義隊がまだ戦う前だった時点で、新政府は200名の兵隊を表面上朝廷側に付いた仙台藩に3人の公卿を頭に派遣、会津攻めを要請した。参謀としては長州人の世羅修蔵、もう一人は薩摩人の大山格之助。大藩である仙台は未だに旧江戸時代の空気が色濃く漂い、長州の足軽風情の侍大将としか見えない世羅をあざけった。しかし表面上は公卿3名をあがめ奉り、会津攻撃をなんとか避けたい、しかし表面上逆らうことはできない、という時間稼ぎをしていた。裏では奥羽列藩同盟結成を働きかけ、薩長なにするものぞ、という空気が東北には満ちあふれていた。 仙台藩にも勤王派はいたのだが、この時点では勢力を削がれ、世羅某をいつ斬って捨てるかが議論されていたのだが、そのことを世良自身は気がつかない。結局世羅は江戸への援軍要請の旅途上に捕らえられ斬首される。 「胡桃に酒」は明智光秀の三女たまが細川幽斎の息子忠興に輿入れする場面から始まる。たまは後のガラシャ夫人、美人で有名、忠興は一目で惚れてしまい、留守ちゅう他の男がたまに近づかないように必死で幽閉する。たまの父親は光秀、主君の信長を討ったときには、幽斎は忠興にたまを離縁するようにアドバイス、たまを丹波の山奥に文字通り実際に幽閉してしまう。その後秀吉が天下を取り、たまの幽閉を解き、大阪玉造に御殿をつくり住まわせるように忠興に命ずる。 秀吉の女房狩りは有名であった。忠興はそれが我慢できないが、九州征伐、はては朝鮮征伐には出陣せねばならない。たまは留守居である。忠興は朝鮮からたまに贈り物をする。その中の一つが胡桃割りと葡萄酒である。胡桃に酒を飲んだたまは腹痛を起こす。胡桃に酒は「食べ合わせ」、たまは忠興と自分がまさに食べ合わせだった、と気がつく。たまの子侍従の誘いでたまもキリシタンの洗礼を受けることを決意、忠興が出陣中に受洗してしまう。忠興は怒るがたまの心は変わらない。忠興の嫉妬と独占欲にたまも嫌気がさしていた。しかし秀吉は死に、東北の伊達が反乱を起こすとの知らせに家康が軍勢を率いて立ち向かう。その間に石田三成が大阪で立つ。大阪にいる各武将の家族は三成の人質になる。たまは人質となるよりも死を選ぶ。 故郷忘じがたく候 (文春文庫)

2010年7月27日 満州事変 島田俊彦 ***

日本が中国で戦争への道を進んでいった歴史にはいくつかの変曲点がある。本書では孫文が死んだ1925年から、そうした変曲点を結んでいった。 孫文の死は中国の昏迷を象徴する。旧清朝勢力が馬賊と結んで地方にあり、孫文の国民政府は王兆銘、孫科、宋子文、蒋介石などが勢力を競い、共産勢力も力を伸ばしていた。日本を初めとする列強各国は中国の利権を狙い、北からはソ連が顔を出していた。 1927年頃中国国内での列強進出に不満を持つ中国国民は各国代表に対して暴力事件を起こし、それを口実に各国は兵力を送った。第一次山東出兵がそれである。アメリカは、張作霖と蒋介石が手を組むことや東北三県が張作霖支配下になることを恐れ、日本は張作霖勢力に肩入れしていた。1927年田中義一内閣は満州、中国、朝鮮に駐在する官憲首脳部を集め東方会議を開催、満蒙に関する方針を決めた。 1. 満蒙の資源を獲得するためには満蒙独立、シナ独立を支持する。 2. 東北三省の独立を支持するため、日本人顧問を送る。 3. 関東州にある関東庁が満蒙における害呼応方針と行政を担当する。 4. 東北三省独立のため張作霖を支持する。 この関東庁は1919年設立された。南満州での鉄道経営、満州の外交の窓口となり、関東軍設立のきっかけともなった。統帥権独立の名の下に、関東軍は日本の参謀本部とは独立した司令官を頭に抱くことになる。この仕組みが、後の関東軍の暴走の原因となった。 1928年関東軍に赴任した石原完爾、1930年には「関東軍満蒙領有計画」という一文をまとめた。張作霖爆死事件の犯人河本大作の後任は板垣征四郎、石原と板垣のコンビが満州事変の準備を着々と進め、あとはスイッチを入れるタイミングのみという状況になった。 1931年、関東軍は奉天で柳条湖で満鉄を爆破、事件の引き金を引いた。手薄な関東軍に支援をすると言う目的で朝鮮にあった林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で越境、中国に進出した。これは独立国国境を越えた進軍であり、宣戦布告とも取れる厚意であるが、日本政府の態度は優柔不断であった。参謀総長は天皇への帷幄奏上権を使い、天皇からの勅命を得るべく参内しようとしたが中止となった。閣議の承認なしに統帥権のみにて最終的決裁を得ることは不適切との判断であった。その後、閣議が開かれたが、朝鮮軍の単独行動が「天皇大権の干犯」にあたるのかどうかという議論はなされず、朝鮮軍越境を事後承諾してしまった。これは政治家がテロを恐れた、統帥権問題を政治問題にしたくなかった、という理由からだと思われる。この決定が林将軍の名を上げたことは言うまでもなく、関東軍の暴走が勇気ある行動に変化してしまったのである。 ここからは関東軍の進軍と暴走が一直線であり、中央政府の意向は甚だしく軽くなった。一方、日本のマスコミは関東軍の進軍を華々しく伝え、満蒙は日本の生命線、という石原完爾のコピーが新聞紙上を飾った。原因は一つではない。マスコミは世論を煽った。政治家はテロを恐れた。国民は国威発揚に喜んだ。軍隊は破滅に向かって進んだ。中国は国民政府と共産軍の戦いが続いていた。英米は日本を叩く機会をうかがった。日本のインテリは軍隊におもねった。この当時誰かが日本の暴走を指摘して止めることができたのであろうか。 満州事変 (講談社学術文庫)

2010年7月24日 中原の虹(4) 浅田次郎 ***

西太后は死に、最後の清国皇帝になったのが三歳の溥儀。そして辛亥革命が起こって中国の激動はさらに深まる。袁世凱は玉座を狙うが、世論は袁世凱に味方しない。東北地方を牛耳る張作霖は中央進出の機会をねらう。 登場人物が多く、それぞれが渾名と俗称をもちきわめてややこしい。張作霖は俗称が白虎張で、雨亭と呼ばれ、総攬把である。張作霖の第五番目の将軍は李春雷であり雷哥と呼ばれ赤巾ともよばれる。春雷は宦官の頂点に立った春雲の兄、この二人は最後に出会い会話を交わすが、あくまで旧清国の代表と東北軍の少将としての出会いである。 清朝が最後を迎えて国民政府と共産軍が入り乱れ、英米日が利権を狙うという複雑怪奇な状況の中で、張作霖が満州の英雄としてどのように振る舞ったのか、一大スペクタクルである。蒼穹の昴に比べると後半やや失速感があることは否めない。蒼穹の昴では春児が宦官の頂点を極める、という成長物語だったのに対し、時代背景も難しい1900−1915年の中国という設定で、主人公に張作霖という馬賊を持ってきたことに無理があったのかもしれない。読者は張作霖の爆死事件、というその後の結末を知った上で読むからだと思う。日本軍の動きも背景にありそうだが、吉永という将校が登場するきりである。 清国設立の時代の記述が挿入されるが、全体の流れに乗りきらないために、大きなストーリーの邪魔になっているのではないか。期待が大きかっただけに尻すぼみ、という印象だ。 中原の虹 第四巻

2010年7月23日 「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年 加藤聖文 **

ポツダム宣言は米国大統領トルーマンが一人で作り上げ、英国と中国に呼びかけて三国共同で出した声明であった。戦後のソ連との勢力争いを見越し、ソ連が宣戦布告する前に如何に日本を占領できるかというぎりぎりの時間的駆け引きであった。中国の蒋介石は当時連絡を取ることも困難な状況にあり、署名は”中国主席(電信による)”とされていた。 本書はポツダム宣言以降終戦処理が東京とそれ以外の日本帝国占領地域でどのように行われたかを記したものである。朝鮮、台湾、中国、(重慶、新京)、南洋諸島、樺太である。そしてこうした動きは各国別の歴史と捉えるべきではなく、東アジア全体として考える必要があり、米ソ対立を背景にした動きであることを強く認識する必要があるとしている。 朝鮮総督府があったソウルでは阿部信行朝鮮総督が9月9日に降伏文書に調印、その間朝鮮人はそれまでの秩序に従って行動、独立活動は行われなかったという。台湾では安藤利吉総督が10月25日になってようやく降伏文書に調印、台湾での日本人攻撃や暴動、略奪などが起きなかったことが原因とされている。台湾人にとっては日本人は箸の上げ下ろしにまで口を挟む「犬」と思われていたが、その後本省からきた中国人は豚、なんでも略奪する支配者が来たと思われていた。「犬の後には豚が来た」と言われた。 満州での混乱については多くの本が出版されている。ソ連の侵攻を前に関東軍は、満州に住む民間人避難よりも、自分の家族の撤収を優先し歴史に汚名を残した。民間時犠牲者数は広島長崎より満州の方が多かったという。中国にとって見ると米ソの駆け引きに翻弄された。国民政府と共産軍は戦いを続けるさなかに満州国が崩壊、ソ連軍が満州に攻め込んできて日露戦争以前の権益を取り戻そうとしてきたのである。 南洋諸島は第一次世界大戦後ドイツの権益を日本が引き継いだ。ここでの日本人の移植者は多くが沖縄人であり、朝鮮からの移民も多くいたことはあまり知られていない。戦争末期どれだけの日系民間人、朝鮮人、そしてもちろん多くの現地人が戦争に巻き込まれて犠牲になったのかは統計情報すらない。 樺太・千島は終戦の8月15日以降もソ連からの侵攻が続き、多くの日本人が終戦後戦死したという。日本軍が如何に無理を重ねて領土拡大をし続けたか、という象徴が敗戦処理に現れ、犠牲は多くの現地人と日本からの移植者たちに降りかかった。ポツダム宣言が一月遅れていたら北海道はソ連領となっていただろうと思われる。二月遅れていたら日本は北日本と南日本に今でも別れていたかもしれない。軍部の責任や当時の政府関係者の責任は追及されるべきだが、日露戦争と第一次大戦後の政府対応を軟弱外交と非難し、軍部の勢力増長を促した責任は、マスコミと国民にあると思う。多くのインテリやマスコミ関係者、学者、学生が軍部の動きを支持したのは事実である。このような愚かな戦争を引き起こした責任は国民にあると考える必要があると思う。 「大日本帝国」崩壊―東アジアの1945年 (中公新書)

2010年7月23日 日本は世界第五位の農業大国 浅川芳裕 ****

食糧自給率は41%、農業の危機である、というのは農水省の予算獲得のために宣伝であり、事実ではないという指摘である。食糧自給率をカロリーベースで計算している国は世界で日本だけ、生産額で見ると日本は世界で五位、1位は中国、続いてアメリカ、インド、ブラジル、日本、フランスと続く。生産額ベースでは自給率は66%、カロリーベースというのはカロリーが少ない野菜などが低く計算されて実態とはかけ離れてしまう、というのが著者の指摘である。 農業は弱い産業だ、というのは農水省の主張、「4割程度の食糧自給率は安全保障上の問題である」という認識である。しかし実態はそうではないという。スーパーに並ぶ農産品の大半は国産、棚には一年を通して十分な農産物商品が陳列され、米については40年以上も減反施策が続けられている。じつは農水省の果たすべき役割は既に終わっている、というのが著者の主張である。 日本の農家数200万戸(面積30アール以上、年間農産物販売額50万円以上)、このうち売り上げ1000万円以上が7%を占め、全生産額の6割を占めている。そして成長率は10%と伸びているのだ。農家のうちの120万戸が売り上げ規模が年間100万円以下、生産額への貢献が5%、成長率はマイナス130%であるという。農水省の補助事業はこうした200万戸全体にかけられており、こうした零細農家は実は兼業農家、いわば大規模家庭菜園農家であるという。日本では専業農家は15%、イタリヤは12%、スペイン19%と大体似たような比率である。 問題はこのような兼業農家が大半を占める農業を十把一絡げにして補助事業を展開するという発想が間違っているという。政権与党による票田獲得施策は国の方向性を誤らせる。 著者は次の8策を提言する。 1. 民間農園の整備 2. 農家による物産別全国組合設立 3. 科学技術に立脚した農業ビジネス推進 4. 輸出促進 5. 検疫体制強化 6. 国際交渉ができる人材育成 7. 若手農家の海外研修制度 8. 海外農家進出支援 データベースの主張と具体的提言は説得力がある。農水省は反論しているのだろうか。 日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書)

2010年7月21日 世界一「病気に狙われている」日本人 濱田篤郎 ***

2008年に発刊された本、当時は新型インフルエンザ流行前でこの手の情報本が売れていたが、今読み返してみると当時われわれが何を心配して騒いでいたのかが分かる。この本のタイトルは世界に旅行する日本人は旅行前にワクチン接種を怠る傾向があり、欧米人はしっかりとワクチン接種をする。そのために、海外の病院に感染症で担ぎ込まれる旅行者の第一位は日本人だというのだ。世界最長寿国日本がなぜ、こうも準備を怠っているのかが現地病院では不思議がられているという。 面白いのは1968年の香港インフルエンザの時の日本人や世界の対応。ちょうどメキシコ五輪開催と重なっていた流行なのだが五輪中止とはなっていない、というより議論さえされていなかったらしい。感染症は抗生物質発見で克服できるものだと1970年頃までは考えられていたが、耐性菌出現でそれが不可能だと分かった。さらにラッサ熱、エボラ出血熱、HIVなどが次々と発生、インフルエンザも毎年流行を繰り返す中で、今、感染症と人類との戦いは続いている。 結局、清潔を維持する、人にうつさない努力をする、感染の仕組みを知る、予防できる感染症はワクチンなどを打つなど、当たり前の対応をするしかない、というのが現状らしい。科学は進歩しているようでいて、ウイルスの方も進化しているのでいたちごっこだ。この本の価値も2009年に新型インフルエンザが流行し廃盤になってしまったらしい。こちらもいたちごっこなのか。 世界一「病気に狙われている」日本人――感染大国日本へのカウントダウン (講談社プラスアルファ新書)

2010年7月20日 ボトルネック 米澤穂信 ***

高校生の自分は中二で死んでしまった女友達の思い出に東尋坊に行き、気を失う。気がつくと金沢の街にある川縁のベンチで横になっていた。家に帰ると知らない女性がいてここが自分の家だという。聞くと家族構成、友人などはほぼ同じ、違うのは死んだはずの女友達諏訪ノゾミが生きていて、自分の家にいた「姉」の後輩であると言うこと。自分の世界では事故で死んだはずの兄も大学生になっているという。自分はこの世界では生まれていないらしく、その代わりに「姉」が少しずつ家族や友人の運命をうまく改善、ノゾミや兄の死を救っていることが分かってきた。ひょっとしたら自分が多くの事故の原因、つまりボトルネックではないのか、と気がつく。うーん、アイデア倒れか。 ボトルネック (新潮文庫)

2010年7月17日 夏草の賦(上・下) 司馬遼太郎 ****

長曽我部元親が明智光秀に親しい斉藤内蔵助の妹、岐阜城下に美女の誉れ高い菜々を嫁にほしいと言ってきた。斉藤は妹に「どうか」と問うと、菜々は即座に「行きます」と答えた。見知らぬ遠い国土佐に嫁ぐと答えたのだ。そこからこの物語は始まる。土佐の7つの郡のうち数郡しか持っていない時点での元親であるが、そのうち土佐を一つの国にまとめ上げるのは長曽我部だとの噂は岐阜にも聞こえてきていた。 実際、元親はこの後、知略謀略を駆使して当時別の豪族が治めていた郡を国盗りし、土佐の主となる。勇者であるとの噂であるが、単に勇猛果敢であるだけではなく、噂を故意に流したり、敵の忠臣に裏切りをさせたりとの権謀術数を使うことにも長けていた。土佐を治めた次には伊予、阿波、讃岐である。これは戦国武将の性(さが)ともいえる性向である。元親は一領具足といわれた土佐独特の郷士(普段は百姓だが合戦には侍として駆けつけ、手柄を立てれば侍並みに恩賞を与えられる)という仕組みを考え出し、時間をかけて人口が少ない土佐の国の戦力を高めていった。 四国の4つの国をすべて見下ろせる場所はどこか、と考え、阿波の大歩危小歩危の奥にある、今でいえば池田市、当時は白地(はくち)といわれた城を根城にする阿波の三好氏の支族である大西氏を攻めて乗っ取ってしまう。そこから伊予と讃岐を攻め、最後に残った阿波の三好氏を、今の徳島県板野郡藍住にあった勝瑞城に追いつめる。三好氏は織田信長に助けを求め、織田信長はこれを助けようとするが、まさにその途中、明智光秀に殺されてしまう。この機に乗じたのは長曽我部元親、一気に勝瑞城を落とす。 しかし、その後天下を取った羽柴秀吉に助けを求めた三好氏を秀吉は支援、元親には「土佐だけで我慢せよ」と命じる。これには従わない元親を秀吉は毛利と丹羽の大軍で撃破、元親は秀吉に降伏してしまう。ここで元親の天下盗りの野望は潰え、ここからは秀吉の家臣としての働きしかできなくなる。秀吉が薩摩の島津を攻めるときに先鋒を命じられたのは元親と阿波攻防で敵として戦った十河存保、さらに軍の指揮を執るのは戦を知らない仙石権兵衛であった。この戦いで元親は大事な跡継ぎの弥三郎を失ってしまう。薩摩の大軍に土佐軍のほぼ全滅の大敗北を喫して土佐に命からがら逃げ帰る。 弥三郎を失った元親は、菜々にも先立たれ、跡継ぎに菜々の子である末子の盛親を選ぶが、秀吉亡き後の家康の勢力に阿ることもせず、石田三成側について、結局土佐の支配権を奪われてしまう。 土佐、という辺境の地から天下を取るのが難しかったのか、時代がちょっと違えば信長や秀吉に先駆けて京都にまで勢力を伸ばせたのかはわからない。また、島津や毛利のように幕末まで勢力を維持するような謀略、知略を駆使しなかったのはなぜなのだろうかと考えてしまう。山内容堂の土佐は結局明治維新を起こした一つの勢力となり、実際に動いたのは長曽我部侍といわれた下士である。そういう意味では長曽我部のスピリッツは土佐に残っていたといえるのか。 夏草の賦 [新装版] 上 (文春文庫) 夏草の賦 [新装版] 下 (文春文庫)

2010年7月15日 海溺れる魚 戸梶圭太 **

人が沢山死にすぎるお話しだ。警察内部の腐敗を世の中の腐敗の中でかき混ぜたような気持ち悪い読後感を持つ。企業への脅迫事件に絡んで、元過激派、ヤクザ、警察公安、警察刑事が金を奪い合う。宍戸錠が出演する映画にもなったと言うが、その映画は見たくない。 溺れる魚 (新潮文庫)

2010年月13日 「法令遵守」が日本を滅ぼす 郷原信郎 ***

建設業界の談合も始まった明治の頃は合理的な仕事の割り振り方法だった。複雑な下請け関係が形成され、建築物の施工方法についても複雑化した現代に、明治時代に制定された法律で現代の談合問題に対応しようというのが間違いだとの指摘。 ライブドア事件、村上ファンド事件は法律的に罰せられる内容だったかというとグレイ、しかし、株式分割による市場価値以上の株価形成を繰り返して会社買収をしていたライブドア、ライブドアによるフジテレビ株買い付け情報を操作して、巨額のキャピタルゲインを得ていた村上ファンド、いづれも世間良識から言えば「アウト」、この社会的不正ともいえる行為を如何に捉まえることができるのかが検察側の課題だった。形式的な法令遵守なら両社とも行っていたのだ。耐震偽装問題では、姉歯設計士がやり玉に挙がったが、建築されているすべての建造物に問題がないわけではないのが現実、実は現場での安全を支えているのは技術者の倫理と信用である。法令遵守ではないのだ。パロマのガス湯沸かし器の問題も、法令遵守からいえばパロマ社の対応は問題なかったのかもしれないが、問題発生後の会社による対応に世の中の人たちは違和感を抱いた。湯沸かし器の問題ではなく、その後の据え付け調整の問題であると、こいう会社主張は受け入れられるのか、会社に問題はないのかという違和感である。 筆者は企業でも組織と組織の間に落ちるような案件に問題が生じやすいと指摘。法令というのは象徴である、と考えた方が良い。法令は環境変化を知る手がかりであり、社会の良識に対する「眼」をもつことが企業には求められる。これが筆者の主張である。 江上剛は「腐敗連鎖」の中で、経営者が法務部門の弁護士や専門家にこのようなセリフを言わせている。「この件は法律上問題はないのかね」弁護士「法的には問題はないと思います」経営者「本当に法令違反にはならないのだろうな」弁護士「法令遵守違反ではないと思います」  その結果、その経営者が属する銀行は不正経理処理で世間から叩かれ糾弾され、経営陣は全員が退陣することになります。法令遵守と社会的責任、コンプライアンス上正しいことか、ということには距離がある、ということを江上さんは小説で度々指摘しています。 コンプライアンスという英語を「法令遵守」という日本語に翻訳したことに問題がある、という指摘もあります。コンプライアンスとはもっと広い概念であり、法令遵守を含み、社会の良識に反しない、という意味であること、会社経営者ではなくても噛みしめなければならないと、大相撲野球賭博問題の報道を見ていて感じます。「他にも問題はないのでしょうか」「社会に公表するべきことで、まだ言っていないことはないのでしょうか」「反社会的勢力とのつながりは断ち切れるのでしょうか」こうしたコンプライアンスが大相撲社会には問いかけられているのだと思います。 「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)

2010年7月12日 男 柳美里 **

美里さん、才能はあるのですが魅力的ではない。男、というタイトルで体の部分をサブタイトルに男の思い出を書いているが、下品である。セックスとは脳で行うもの、と書きながら書いているのは体の部品であり、書かれた内容は嫌いな男とでも寝る、いやでも寝る、汚くても寝る、とりあえずはやってみる、という記述の連続、気持ちが悪い。近づきたくない人種である。 男 (新潮文庫)

2010年7月12日 デフレの正体 ― 経済は「人口の波」で動く 藻谷浩介 ****

1. リーマンショックは終わるのか→日本国内需要減退の真の原因は少子化。 2. 世界同時不況の中で減っていない日本人の金融資産と日本の貿易黒字。 3. 中国、韓国、台湾の経済繁栄こそが日本経済を支える。 4. 対日黒字国フランス、スイス、イタリアの共通項は高級ブランド。 5. 国内新車販売数、小売り販売高減少でわかる内需不振。 6. 地域間格差よりも人口減少(人口オーナス)が示す内需不振。 7. 団塊/団塊ジュニア世代を中心にした人口構成比変化が示す日本の未来。 8. 生産性向上で進むデフレでさらなる経済規模の縮小が進展。労働者数を減らすとミクロ(企業)の生産性は上がるように見えるが、減らされた労働力が活用されなければマクロ(国)レベルのGDPは減少する。現在行われている日本企業の経営努力はこれ。 9. アメリカの金融工学の常識「投資先の商品や会社が生む収益は長期的には一定の成長率で増加する」。少子化時代には通用しない。 10. 高齢化の日本では、相続される側の平均年齢が67歳、これでは相続された遺産は再び貯蓄されGDP増大に寄与しない。 11. 貯蓄は老後に備えたリスク基金、埋蔵金となり消費に回らずGDP増大には寄与しない。しかし、日本国債購入に回れば安定的な購入者となり日本経済の信用性維持には寄与している。 12. 人口減少を生産性向上で維持するのは生産量維持であり、消費量維持ではない。つまり、GDPを継続的に維持するには永遠に輸出増を実現していく必要がある。 ではどうすればいいのか。 施策の方向性:生産年齢人口の維持、生産年齢人口の所得維持、個人(高齢者+生産年齢者)消費総額の維持向上 向かってはいけない方向:公共工事による景気拡大(→将来への財政赤字累積増)、在日外国人数は230万人、生産年齢減少は毎年60万人(2005―2010年で300万人、2010―2015年で450万人、2015―2020年には650万人減少すると予測:社人研調べ)であり外国人労働者受け入れ増大では追いつかないだけではなく、コスト(住居、教育、医療、福祉、年金、家族呼び寄せなど)的に見合わない。高齢者増大に歯止めは掛からない。一人の消費者が買う量が決まっている商品、例えば車、電機製品、不動産などを大量に生産する施策は不良在庫を作るだけ。 @高齢富裕層からの所得移転  30―40歳代の子育て世代に団塊世代退職により生じた人件費をシフトする。  生前贈与促進税制、できれば孫へ。 A女性の就労  女性の有償労働者は人口の45%、生産年齢人口の専業主婦は1200万人。  出生率が日本一低いのは東京都、専業主婦率は一番高い  20―39歳女性の就業率と出生率(国勢調査2005年、人口動態調査より)は正の相関。   →子育てにはダブルインカムが必要、子育てストレス緩和と社会的支援を受けやすくなる、 B外国人受け入れ  生産力より消費力増加が課題、短期滞在の旅行客や外国人短期定住者を増やす。 C高齢者と若年層が共通して関心を持ち、買う理由が説明できる商品を開発する。例)ヒートテック、大画面液晶TV、Wii、TDR、ハーレーダビットソン、フェアレディZ とても説得力のある展開、主張も納得できるし、少子化、高齢化の各施策を別々に論じていて論理的である。企業におけるダイバーシティ担当者、経費削減ばかりを検討させられている経営企画部、人事部担当者の参考にすればいい。 デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

2010年7月11日 その数学が戦略を決める イアン・エアーズ ****

一昔前なら超大型コンピュータを使ってもできなかった統計的データ処理がGoogle検索やPCでも可能となった。テラバイト単位の記憶容量のおかげであるという。オーリー・アッシェンフェルターはワイン好き、ワインは収穫したブドウを熟成させて瓶詰めし何年ものとして試飲するまでその美味しさは専門家でもわからないのだが、アッシェンフェルターはそれを次の数式でほぼ予測できるとしたのだ。 ワインの質=12.145+0.00117X冬の降雨+0.0164X育成期間中の平均気温-0.00386X収穫期降雨 ワイン専門家は当然のようにこの数式を受け入れていないが、この簡単な数式の的中率はワイン専門家の予想以上であるという。 医療過誤による患者の死亡を減らすために行われているのがEBM(Evidence-based Medicine)というもの。EBMによると、医師が診察後丁寧に手洗い消毒を行うことで、産褥熱の死亡率を12%から2%に減らすことができたという。これを応用したのが医師のためのソフトウェア「イザベル」患者の症状を入力することで30程度の疑うべき病名を提示することができて、医師による見逃しを防げるというもの。 クリントン政権時の財務長官をしたサマーズはハーバード大学総長の時に、女性差別発言をしたとのことから辞職に追い込まれたのだが、その原因となったのは次の発言。「トップ25以内の研究機関で物理学を専攻している人たちは1万人に一人という優れたIQ偏差値を持っている。その優れた人たちの男女比率は1:5程度で男性が多い。」これが女性差別だとされたのだ。真意は男性の方が女性よりも標準偏差の値が大きいので最優秀から最低の分布が女性よりも広く、平均値は同じでも大天才になる確率が男性の方が高い、同じように最底辺の人も多い、ということになる。これは統計情報からみれば当たり前ともいえる話ではないか、という発言。 統計情報というのは読み方は難しい、というもう一つの例。 1. 40歳女性の1%は乳ガンにかかっている。 2. 乳ガン患者の80%はマンモグラフィーで陽性を示す。 3. 乳ガンではない女性の10%程度はマンモグラフィーで陽性を示す。 さて、マンモグラフィーで陽性になった女性が乳ガンである確率は? 直感的に考えると75%程度だと思ってしまうが正解は7.5%程度である。 1000人の40歳女性がいるとする。1%の10人が乳ガンであるので、このうちの8人はマンモグラフィーで陽性を示す。乳ガンではない990人の10%99人も陽性を示すので、陽性を示すのは107人になるが、実際には8人であるので、8/107=7.5% 数字はおもしろい。 その数学が戦略を決める (文春文庫)

2010年7月11日 中原の虹(3) 浅田次郎 ****

蒼穹の昴では春雲が宦官の頂点に上り詰め、西太后に仕えるのだが、中原の虹には清国の最後の皇族たちを守る側として登場、脇役である。中原の虹の主人公は張作霖、馬賊の頭として満州の地で活躍する。第三巻では西太后は三歳の溥儀に帝位を譲り、光緒帝とともに西太后も死ぬ。袁世凱は幼溥儀に代わり、孫文の率いる中華民国勢力と対抗しようとするが、革命勢力からは清国の歴史にピリオドを打たせることを条件に、共同して中国を治めることを提案される。袁世凱は東北地方で勢力を張る張作霖に近づこうとするが、張作霖は相手にしない。 中原の虹 第三巻

2010年7月9日 Limit(2) フランク・シェッツィング *

月、上海、カナダ、これ以上我慢はできなくなりました、3−4巻こそが佳境、との腰巻き情報でも私は2巻でリタイヤです。 LIMIT〈2〉 (ハヤカワ文庫NV)

2010年7月7日 Limit(1) フランク・シェッツィング **

「2001年宇宙の旅」を大阪梅田の封切館で見たのは1968年、中学生だった私は、一緒に行った両親に映画の意味を聞いた。最初にサルが戦う場面で、骨を武器に戦うこと→道具を使うことで人間は進歩したのだよ。船長がくぐり抜ける光のトンネルは何→時空を超えて別の世界に行ったのではないか。宇宙から地球を見ている赤ちゃんは誰→人類が次の進化を遂げようとしているのではないか、などなど。この時の強烈な印象は今でも目に焼き付いている。そして、映画のサル同士の戦いのイントロがとても長く感じたことも。 Limitの第一巻はサルの戦いで終始している感じだ。化石燃料が資本主義のなかでその価値を失い、アメリカと中国が月での新資源ヘリウム3を採掘している、時代は2025年。スタンリーキューブリックは既にこの世にいないが、デビッドボーイはまだ生きているという設定。アーサー・C・クラークの描いた宇宙エレベータを実現させた富豪のジュリアン・オルレイは次なる投資のために世界から投資家たちをエレベータから月へと招待する。上海での話題が交錯して、カナダでは石油会社の幹部が殺される。ストーリーは見えないまま、話が進むため、読者はページをめくるしかないのだが、先は見えない。海のYrrを描いた作者の本、というだけで第二巻を買う。 LIMIT〈1〉 (ハヤカワ文庫NV) LIMIT〈2〉 (ハヤカワ文庫NV)

2010年7月1日 マザーネイチャーズトーク 立花隆 ****

1990-93の雑誌対談集である。サルの研究者河合雅雄、近親相姦はサルの世界でもタブー、人間でもそうだが理由は異性間で非情に親しくなると性衝動が抑圧されるから、という。そして人間の一夫一婦制を支えるのは何か、という話に発展。人間の夫婦も異性間で非常に親しくなるのだがこれを支えるのは何か、友愛、愛情である、これはサルにはないのだという。 動物行動学の日高敏隆、学生に質問された。「人類はこれからも進歩していくのでしょうか」日高:前に座るちょっとセクシーな女子学生に「君だって初めての時は世界が変わったと思っただろう」。女子学生「はい」。日高「君にとっては世界が変わったのだろうけれども昔からそうだった、だからこれからも繰り返していくんだよ」と答えたそうだ。答えになっていないのだが質問した学生は納得したという。 惑星科学者の松井孝典、銀河系に高等文明が存在する確率を聞かれて。「問題は高等文明が惑星間通信ができるような技術力をどのくらいの期間維持できるかです。私は100年と見ているんで銀河系に散らばる高等文明を持つ可能性のある星間距離の数百光年から考えて100年では交信できない。」地球型の星がある確率や、水、空気がある確率よりも文明継続年数が問題であるとはショックである。 植物学の古谷雅樹、植物の特徴は@自分で栄養を賄えるAすべての細胞が全能性を持つB環境に依存して暮らす。植物の視点から地球や動物を見ると全く違った世界が見える、という本「植物の生存戦略」があるが、動物よりも先に地球上に現れた生命体の戦略は動物とはまるで異なっているのだ。 立花隆の知的好奇心、底知れないものがあり、僕もこうした好奇心をいつまでも持ちたい。 マザーネイチャーズ・トーク (新潮文庫)

2010年6月29日 帰還せず 青沼陽一郎 ***

太平洋戦争後、東南アジアにとどまり一生を現地でおくった日本人が数多くいた。筆者は現地で本人たちへの取材でその理由を確かめた。インパール作戦の敗走がきっかけで、現地の人たちに匿われた結果現地の軍隊に編入され、現地の女性と結婚し子供をもうけた。インドネシア独立軍への参加がきっかけだった、日本はアメリカ人に占領されていてみんな奴隷になっている、帰還船は潜水艦に沈められるなどの流言飛語、など様々な理由と背景が語られる。 共通するのは、 1. 日本に帰っても自分の居場所などない。(貧困、長男相続次男以下は丁稚奉公、両親死亡など) 2. 現地での活動に参加(ビルマ、インドネシア、ベトナムなどの独立運動) 3. 女性と知り合い結婚(現地人から紹介、子供をもうける) 戦後の日本の復興と発展を知り、ある人は里帰りを何度かしているがやはり元の場所に戻っている。便利になった日本は住みにくそうだというのだ。自然がない、効率一辺倒、知り合いがいない、親類が冷淡など。経済発展は人間の幸せにプラスに働くことはないのか、というのが本書のテーマなのだろうか。女性と暮らし、子供や孫に囲まれた生活を捨てたくない、これが自分の幸せなのだと皆口をそろえて言う。幸せとは子孫を残し、子供や孫たちが幸せになることである、というのが多くの証言者の言葉である。 あまりに多くの戦友たちの死を見てきた人たちの後ろめたさ、「自分だけが生き残ってしまった」「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本軍の教えはここまで人々の心に根ざすのか、という問いかけでもある。イチローや松井が大リーグで活躍するニュースには目を通して喜んでいる、というのも共通する証言である、やはり皆さん日本が好きなのであり、それでも日本には帰りたくない、こういう心境なのである。本書は研究所ではなく証言集であるだけに、何の先入観もなく証言を取りまとめている、これがこの本のおもしろさであろう。 帰還せず―残留日本兵六〇年目の証言 (新潮文庫)

2010年6月29日 城山三郎が娘に語った戦争 井上紀子 ***

城山三郎は2007年に79歳でなくなった。官僚たちの夏、大義の末、総会屋錦城などの代表作があるが、戦争の悲惨さを訴えた数多くの作品が印象的である。「指揮官たちの特攻」では中津留大尉と関大尉に自分の体験を重ね合わせて書いたという。 城山三郎は娘の紀子さんにはあまり多くのことを語らなかったと言うが、「世の中のムードに流されず、自分の頭で考えよ」「人に迷惑をかけないようにする」「世の中の多くの情報から正しいと思うものを良く考えて選べ」などを繰り返し語ったという。個人情報保護法の制定では、国による情報統制の怖さを知る城山としてはなんとしてもそうした部分を阻止したかったのだという。海賊対処法案では、自衛隊が他国に出かけていって攻撃ができる、という部分に大いなる脅威を感じていたという。憲法九条は世界の宝である、という話である。妻や娘には大変優しい夫であり父であったのだろう。 城山三郎が娘に語った戦争 (朝日文庫)

2010年6月26日 永遠のゼロ 百田尚樹 *****

感動的な本である。 佐伯健太郎は26歳、司法試験に受からずぶらぶらしていた。雑誌のライターをやっている姉の慶子は30歳、二人の祖父にあたる人物のことを調べることになった。祖父といっても祖母は結婚を二回しているという。二人が知っている祖父の前の夫宮部九蔵のことである。元特攻隊員であり、昭和20年終戦直前に特攻で死亡したことがわかっているが、それ以外のことはよくわからないため、当時のことを覚えている人たちにインタビューして調べることにした。そして少しずつわかってくる祖父の姿に二人の孫は感動した。祖父は心優しく、何人もの兵隊を教え、ある時は命を救い、ある時は上官に逆らっても部下の名誉を守り、妻である祖母と約束した「必ず生きて帰る」ことを実行するため、半強制であった特攻への志願も部隊でたった一人拒否したというのだ。 中国戦線で飛行機乗りになった宮部九蔵は当時のベテラン戦闘機操縦士たちに鍛えられた。そのため勇猛果敢で知られたが、休暇で実家に帰った際に結婚、子供を授かった。宮部は妻に生きて帰ることを約束、その時から、どうしたら死なずにすむかを考え続けた。真珠湾攻撃では空母赤城に乗船、零戦の操縦士となった。零戦の特徴はその旋回性能と航続距離三千キロという長さである。宮部は真珠湾攻撃で未帰還となった二九機のことを残念がっていたという。大勝利のことを喜ぶよりも家族を残して死んだという未帰還兵のことを考えて悲しいといったのだ。当時の飛行機乗り、定刻軍人としては「恥さらし」といわれる考え方だった。真珠湾攻撃が米国外交官の不手際でだまし討ちになってしまったことを、当時の外務省の役人の無責任さがなせるわざと筆者は指摘し、真珠湾攻撃でも決定的打撃を与えるために第三派を送らずに引き返した南雲中将を批判、軍部のエリートは常に自分の失敗を避ける行動をとり続けたために日本軍は大いなるチャンスを何度も逃しているという。役人もエリート、士官学校を出た軍人もエリート、エリートが日本をダメにしたと筆者は言っている。 ミッドウエイの海戦で一気に四隻の空母を失うことになったこともエリートである源田実参謀の油断であったと。そして暗号解読に成功していた米軍の情報収集力に負けたという。宮部もその戦いに参加したが、戻るべき空母を失い、残った飛龍に帰還、その後はラバウルに移ったという。そのころには宮部の戦闘機乗りとしての腕前は一流であった。だが、臆病者といわれるほどに慎重な操縦であったために多くの同僚からは誤解されていたともいうのだ。 ラバウルから片道560海里もあるガダルカナルの攻撃命令がでたときには正気の沙汰ではないと思った。目的地で攻撃に使える時間はわずかで、そしてまた560海里を戻らなければならないからである。そのガダルカナル攻撃でラバウル飛行隊の飛行機操縦士たちは急速に消耗していったが宮部は生き残った。そしてこのころから特攻が始まる。どのような命令でも九死に一生を得る可能性はあったが、特攻は十死零生である、と宮部は表現した。そのような作戦は狂気でしかないと。しかし宮部はその特攻隊になる操縦士の教官に任じられる。宮部にとってこれほどの苦しみはなかった。 そして宮部自身にも特攻命令が下った。宮部が乗るはずだった零戦は52型の最新型、それを21型に代えてほしいと宮部は言ったというのだ。その52型は特攻の途中でエンジン不調になり引き返すことになった。それに乗っていたのが健太郎の知っている祖父大石健一郎だった。なんということなのだ。宮部九蔵は自分の命と引き替えに大石を救ったのだ。 大石は助かった命を宮部の残した妻と子供に捧げようと決意、戦後帰国して4年、宮部の妻と子を探し出し、結婚した。それが健太郎と慶子の祖父と祖母だったのだ。この結末も感動的なのだが、宮部の戦友たちが語る思い出の中の宮部が、徐々にその姿を健太郎と慶子の前に現すたびに二人は祖父の宮部九蔵の本当の姿を知り感動は深まっていく。 高山という新聞記者が登場する。高山は特攻隊員はイスラム原理主義者のテロと同じことなのだという主張をするのだが、健太郎は違和感を持つ。テロは一般人をも標的とした殺人であり、特攻は命じられて逃げられず「お国のため」と言われながら実は両親や愛する人のために死んでいった若者たちだ。筆者はそこに大きな相違点を見ている。 また、日露戦争後の臥薪嘗胆から第一次世界大戦後の日本外交を「弱腰」と批判し、日比谷焼き討ち事件を引き起こしたのはマスコミの責任が多きのだと筆者は主張する。その後の海軍軍艦建造にともなう外交交渉や満州事変への突入までの日本の国の行方を大きく変えていったのは軍隊の前に体制におもねるマスコミがあったのだというのだ。515事件などでテロが横行してからは軍隊の勢いの前にマスコミはさらに権力におもねった。戦後は手のひらを返したように、戦争期間中の特攻隊員などを戦犯扱いしたのもマスコミだったと。高山はそのマスコミの象徴として扱われている。 戦争を歴史としてしか知らない世代が読んでも、証言として語られる戦争は生々しく、人間の声でいっぱいである。そこにはお国のためや名誉はなく、家族のために死んでいった230万人の兵隊たちの声がある。戦争物語として必読の書としたい。 永遠の0 (講談社文庫)

2010年6月24日 彗星物語(上・下) 宮本輝 ****

城田家には13人の家族が暮らしている。恭太は11歳、姉は長姉の真由美21歳と次女の紀代美18歳、長男の幸一は24歳、両親は晋太郎と敦子、祖父の福造、そして晋太郎の妹で離婚して居候しているめぐみ、そしてその3人の息子たち春雄、夏雄、秋雄は中二、小五、小二と3歳の娘。そして犬のフック。この城田家にハンガリーからの留学生ポラーニ・ボラージュという24歳の青年が同居することになった。ボラーニは日本語を祖国で学び、日本では幕末の日本歴史を勉強し論文を書き上げるという3年の留学である。 ハンガリーはヨーロッパの中でも迫害と占領、そしてソ連による支配と厳しい歴史を持つ国、そしてヨーロッパの一員であり、日本の文化、日本人の考え方とは大きく異なる。同じ家に住むために衝突や摩擦が起きるが、13人の家族とはそうした異文化コミュニケーションをとおしてお互いに成長する。 彗星は長い楕円運動の末、何年か後に再び戻ってくるが、ボラージュもそのような未来を期待させるようなタイトルである。雄吉という恭太にとっては叔父にあたる恵那の住人は教師であり、天文台をもつ趣味人、彗星を発見するのが生き甲斐という人間であり、恭太が生まれたときに発見した彗星をキョウタ・シロタ彗星と名付けた。城田家の中心も敦子と恭太の二人であり、13名と一人の留学生、そして犬のフックが楕円の円周を回る彗星だともいえる。 それぞれの家族、ボラージュは完璧な人間ではなく、わがままやちょっと出過ぎた自己主張もするが、お互いを理解しようとしてさらに衝突を繰り返すが、そうした接触が相互理解を深めることになる。ボラージュの留学生仲間と城田家の二人の娘の交流の結果も楽しみな結末である。 宮本輝らしいしっとりとした読後感をもてる良い作品だと思う。時代設定が1985年であり、ソ連崩壊前、ハンガリーはまだ東側と呼ばれていた時代、日本への留学は大変難しい時期だっただけにボラージュの勉強も背水の陣である。今これを読むと、こんな時代もあったと思うが、ソ連崩壊を知らない世代がこの本を読むとどう感じるのだろうか。 彗星物語 (文春文庫) 彗星物語〈上〉 (角川文庫) 彗星物語〈下〉 (角川文庫)

2010年6月22日 サムライの海 白石一郎 ****

1857年から1868年までの11年間を描いた海の男の物語。高島秋帆の息子で、正妻とは別腹の子として生まれ、庄屋の息子として育てられた蘭次郎、長崎の海軍伝習所に友人の清次と入門させてほしいと押しかける。責任者の勝海舟に入門を許されるが、漁師だった清次が訓練に参加できたのに対し、蘭次郎は飯炊きでしか役に立たなかった。蘭次郎が高島秋帆の息子であると知った勝海舟は砲術を勉強しないかと蘭次郎に持ちかける。 五島列島沖に演習に出かけた折りに遭難、鯨漁師に助けられた蘭次郎、鯨漁に関心を抱く。日本の伝統的な鯨漁では大勢の漁師が銛や槍で鯨を狙うため多くの死者が出る。それでももうけが大きいので漁師たちは死をもおそれないということでやりがいを見いだしている。蘭次郎は砲術を使った近代捕鯨ができないかと、アメリカに渡航するという勝海舟にアメリカで使われているという捕鯨のための銃を手に入れてきてほしいと頼む。 幕末の日本で、捕鯨に近代技術を取り入れようとする青年が、幕末の高杉晋作や坂本龍馬などの英雄たちと知り合い、切磋琢磨するという青春物語である。昭和53年ころの新聞小説、親に対する恩、グジラ漁に賭ける漁師たちの心意気、幕末の志士たちが国の将来を憂いて、戦いに身をやつす中で、蘭次郎は鯨漁への情熱をかき立てる。さわやかな読後感を持てる小説、20代で自分の将来に悩む若者に読んでほしい。 サムライの海 (文春文庫)

2010年6月19日 中原の虹(2) 浅田次郎 ****

第二巻では女真族の話から始まる。ヌルハチは17世紀初頭の満州で諸族を統一し、清朝の基礎を作った太祖、ヌルハチの長男チュエンは父に疎まれている、第二子ダイチャン、マングルダイ、ヘカン、アミンなどと続く。結局長男は獄につながれ獄死、ダイチャン、アミン、マングルダイ、ヘカンが権力を継承した。 日本軍の少尉で清国軍の軍事顧問として奉天に赴任したのは吉永将、張作霖の息子張学良とも知り合う。吉永のははちさは四谷で中国人あいての下宿屋を経営、李春雷の妹のおりんを預かっている。おりんの子供は清一、 西大后は老いてもう長くはない、西大后を補佐するのは李春雲、春児(チュンル)である。第二巻では袁世凱が派遣した清国正規軍を馬賊である張作霖が指揮する、というポイントと、西大后が息子である光緒帝を道連れに死を覚悟で清国の未来を3歳の溥儀に託すという話。列強各国に食い物にされる中国をいかに守るのかが西大后の使命、西大后は光緒帝と連絡を取るためにテレグラムの回線を敷設、同時に死ぬことで清国を救い、溥儀に託すことを伝えた。 春児は西大后から清国の将来を見据えてほしいと頼まれる。 中原の虹 第二巻

2010年6月18日 明治日本見聞録 エセル・ハワ−ド ****

1901-1908年、日本の島津家に家庭教師として来日滞在したイギリス人女性の回想記。元大名の島津家は当時は公爵の家柄、長男は11歳で公爵として跡取りをしている。その長男を筆頭に4人の男の子供の教育を担当した。当時は外国人が歩いているというだけで人だかりがした時代、その時によくイギリス人女性を家庭教師として招聘し子供たちを託したものだと思う。当時の貴族は両親は子育てをしない。家庭教師というのは親代わりのようなもので朝から晩まで一切の教育を担当するのであり、生活指導や振る舞い、良識、健康管理、歯の管理まで含まれているのである。 受け入れ側の島津家もとまどったらしい。朝昼晩の食事をどうするか、最初は洋食のフルコースで毎食ビフテキが出てきて困ったという。エセルが最初に取り組んだのは封建的な考え方の排除と民主的な関係の構築であった。子供たちは無意識に自分のことを自分でしない、という育ち方をしているのでそれをあらためた。また、多少の危険があったとしても子供たちにスポーツを体験させた。 やがて日露戦争が勃発、銃後の生活も一変した。日本国民の努力には目を見張った。エセル自身も同盟国民として慰問袋を作り戦場に送った。前線の兵士からは礼状が届き感激する。貴族の令嬢たちも銃後の協力を惜しまないことにも驚く。少年たちと鹿児島に初めて行ったときには、その歓迎ぶりに驚く。殿様の子供たちとその家庭教師、ということで鄭重な歓待を受け、島津家が今でも尊敬をされていることを知る。 同じ時代に日本を一人で旅行したイザベラバードさんもイギリス人であった。やはりイギリスという国は偉大な国である。 明治日本見聞録 (講談社学術文庫)

2010年6月16日 誤診 米山公啓 ***

北島紗江子はテニスをしていて不意に経験したこともない疲労感に襲われた。夫の友人である曳田の病院に行き診察を受けたところ精密検査が必要といわれ、即日入院、CTスキャンの結果脳に障害があると言われた。しかし、病状は良くならず、手足の痺れ、全身の痛みなどがあり、結局死亡に至ってしまった。家族には脳梗塞が死因とつげられたが中学生だった娘の麻里には疑問が残った。夫は数年後事故で死亡、麻里は疑問を胸に抱いたまま医者を目指した。 麻里が大学病院での研修、臨床医としての経験を経て、曳田の経営する病院に勤務を始めたのは30歳になる頃であった。曳田の病院は近代化が進んだ病院であったが、経営は苦しく、医療法人として株式会社となり病院経営に乗り出す不動産会社が理事会メンバーになっていた。MRとの癒着問題、国立大学系列の病院との勢力争い、医師のステータスや処遇が以前より悪くなり、患者からの訴訟も増えてきてなり手が減ってきている問題などが取り上げられている。最大の問題として取り上げられているのが誤診、患者側への情報提供が公正にされていない、それは医師側の良心にのみ依存する問題であることが描写されている。患者側にも医師を恐喝したり訴訟に持ち込む悪質なヤクザが居たりするために、医師側もそれに対抗する手段を用意していることも紹介されている。問題は単純ではない。 なぜ誤診が起こったのかを解明したい麻里は曳田の生い立ちや境遇を調べ、異常な性癖の原因を知るが、それがなぜ誤診につながったのかは釈然としない。麻里の母紗江子はギランバレー症候群だったことが想定される症状であるにも関わらず、曳田はなぜそれを見抜けなかったのか、優秀な医師でも患者の症状を誤診することがあること、新薬投与は院長の指示で行えること、院内処方の場合には薬の組み合わせチェックはされないことなどがあげられ、誤診が起きてしまう裏側が描かれる。麻里は曳田の病院を去るが、曳田も欠席した理事会で解任決議が了承され、院長を馘首されてしまう。 誤診はあってはならないことのはずであるが、実際の現場では誤診が起きてしまう環境、状況が数多くあるのだ、ということがよく分かる。患者側からの理不尽な訴えは「モンスターペアレント」がいる学校と同じ構図である。悪いことばかりが紹介されているようだが、曳田が徹底的な悪者だとは描かれていないのが救いになる。 誤診 (小学館文庫)

2010年6月15日 全日本食えばわかる図鑑 椎名誠 *

この人の本ははずれが多い。まあ、期待はしていないのでがっかりもしないが、いつ読むのかと言えば、温泉に半身浴で45分浸かる間に読むので、超速読のとばし読み、額に汗して洗い場の人が使っているシャワーのお湯を後ろから浴びながら読む本である。全国旅をしている間に食べる食事は楽しみの一つであるが、海に行けば海鮮丼、山では山菜の天ぷら、こればかり食べていたのでは楽しみは一通りである。だからこそ、もう一歩踏み込みたい、という意気込みの本である。この手の話は人の話を聞いたり読んだりするより、自分で失敗する、経験することが重要であることは言をまたない。半身浴以外では読まない本、これである。 全日本食えばわかる図鑑 (集英社文庫)

2010年6月15日 西方冗土 中島らも ***

関西人による大阪論。一言で大阪を表現すれば「巨大な地方都市」、住むのは田舎というひがみを持って都会にあこがれるひねくれもの。東京人から見れば大阪人のステレオタイプは「ヤクザ、アキンド、ヨシモト」、うどんとたこ焼きを主食に「わやでんがな」と声高に奇っ怪な話をするがめついヤツら。 沖縄、讃岐、大阪と共通項があるような気がする。店の看板にあふれる「そのまんま感」、大盛りで有名になった食べ物店を一人で切り盛りするおばちゃんのたくましさ、その地方の有名になったものをその他の地方人に教えたくて仕方がない習性など。 大阪のちょっとした深みはその歴史にある。商人たちは他人との摩擦を減らすための努力をしてきたので、言葉のやりとりに冗長度合いが多いのだ。「あの件はどうですか」→「考えさしてもらいますわ」関東人からすれば、考えてくれるのだ、と思いそうなこの言葉、「考えなければならないようなことは、難しいこと、お断りです」というのが本当の意味である。これが京都に行くともっと凄い。「あの件はどうですか」→「そらもう、せっかくのXXさんからのお申し出ですよってに、精一杯きばって考えてみますさかいに、もうちょっとまっておくれやす」、このように言ってもらえば関東人であれば相当脈があると感じてしまうだろうが、京都人はどうやったらうまく断れるのかを必死で考え、ちょっと言葉の端に臭わせているのだ。たくさんの言葉を並べてニュアンスを薄めているのだが「もうちょっと」と入って居るではないか。 この本を読む、関西人の反応を予想してみる。神戸人:やっぱり大阪は田舎もんのあつまりゃ。京都人:いっしょにせんといてほしいわ。奈良:国宝の数やったらまけへんで。和歌山:関係ない話や。香川:うどんは讃岐や、というアピールがたらんな、こらもうちょっときばらなあかんわ。岡山人:岡山にもヤマダ電機もビックカメラもできた、これで岡山も都会の仲間入りや。 大阪人の友人で困るのは、仲良くなることと迷惑をかけることを同義語として考えていること。仲良くなった友人に「正月に遊びに来てや」というと、本当に1月2日にやってくる。びっくりするが呼んだのはこちら、買ってあるステーキを焼いて出す、美味しいという、そらそうや、正月用に奮発して買ったステーキ、打ちっ放しにでも行くか、という話になって、箱根駅伝を見たいのに出かけることになる、こうして貴重な正月休みが一日つぶれるのだが、これは友人になった証拠、これでいいのだ。 西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退 (集英社文庫)

2010年6月13日 絵で見る幕末日本 エメェ・アンベール ***

1863年に長崎に到着、1864年に日本とスイスの通商条約の締結に尽力した著者、その短い滞在期間に江戸、京都、長崎を始め金沢、鎌倉、東海道、江戸の町中の庶民の暮らしを絵で残した。宗教に対する見方に誤解がみられるようだが、それ以外の庶民生活については偏見のない公正な描写である。鉛筆で書かれた挿絵は細密で人々の表情が面白い。 一番印象的な挿絵は日本橋から江戸城ごしに見える霊峰富士、高い建物がなく、江戸城が遠くに見えるさらにその向こうにそびえ立つ富士山は神々しい。葬儀の様子、弔問、棺の前での祈り、寺での埋葬式、火葬、骨を拾う様子、墓の前での祈り、賤民の火葬の一連の挿絵は貴重な文化史ではないか。 鎌倉八幡宮の挿絵では先日倒れた大銀杏が見事にかかれている。アンベール一行が江戸の町中を見物する様子、そのときに立ち寄った茶店「万年(マンシ)」、六郷川にあった刑場での罪人の様子、裁きを受ける罪人、石責めの刑、鞭打ちの刑、磔の刑に処せられる罪人の行列、斬首の刑の一連の挿絵も迫力がある。 手元に置いておいて、思い出したときに見てみたくなるような本である。 絵で見る幕末日本 (講談社学術文庫)

2010年6月10日 ビゴーが見た日本人 清水勲 ****

フランス人画家のジョルジュ・ビゴーが日本に居たのは19世紀の最後の17年、その滞在と経験から、日本の当時の文化や政治を風刺画として残した。高校歴史の教科書にも登場する「漁夫の利」「国会議員之本(丁髷を結った男が投票するのを官憲3人が見つめている第一回衆議院選挙投票風景)」「ノルマントン号(27名のイギリス人は救助、25名の日本人は全員死亡した事件)」「1897年の日本(列強クラブに英国に紹介されて入会する日本)」が有名である。 ビゴーは明治14年フランスを発ち、明治15年1月に横浜に上陸している。日本では西洋画を教えるという職を得た。そして「トバエ」などの時局風刺雑誌や「国会議員之本」などの画集を刊行することで日本社会に未熟さを風刺した。当時の日本は日清戦争で国際社会から急にその存在を認められるが、三国干渉で中国の権益獲得を西欧諸国から押し戻されるという経験をした。「臥薪嘗胆」「富国強兵」を心に誓った日本が頼ったのは当時の一等国イギリスであり、フランス人のビゴーはその関係を鋭く皮肉った。 日本を知るために、ビゴーは外国人があまり住むことのなかった東京の下町に住み、花街に通い、日本人を妻にして日本語と文化を学んだ。日本の庶民と金持ちの間にある貧富の差、舞踏会に着飾って出かける日本人の西欧人を猿真似した滑稽さ、車夫の客の風体からみた日本の西洋化の度合い、老夫婦と若夫婦に見る時代の進み方、職業の違いによるほおかむりの違い、帽子のかぶり方、陸海軍軍人の違い、ごろつき、漁師、教頭先生の風体に見る西欧化、国会議員の6分類(気取った欧州帰り、趣味の良い議員、ドイツ帰り、アメリカ帰り、地方出、商人出身)、国会を巡る人物像(警官、衛視、憲兵、記者、弁護士、壮士)など、こうした絵はどんな文章でも伝えられない当時の雰囲気を伝えてくれる。 ふんどしをして歩く男が股ぐらに団扇で風を送る姿、上半身は傘を差し背広を着ているが下半身はふんどしで靴を履いている滑稽な男、花街で大引けの拍子木が鳴らされるなかふんどしを締めている客、商人に接待され大いに盛り上がり踊っている役人、混浴の浴槽で女性の裸をうれしそうに見ている男たち、女性の背中を流す三助、うんち座りをする商人、キリなく繰り返されるお辞儀による挨拶、色メガネ好きの男たち、踏切の旗振りとして働く子持ち女、乳母車が珍しかった頃の風景、子守、洋装のエリートを見送る丁髷男など、外国人が日本の何におもしろさを見いだしたがよく分かる。 百聞は一見にしかず、ビゴーの絵は明治初期の日本を良く伝えてくれている。 ビゴーが見た日本人 (講談社学術文庫 (1499))

2010年6月8日 英国人写真家の見た明治日本 ハーバート・G・ポンティング *****

明治の美しい日本と日本人が写真で紹介されているので、日本びいきのポンティングの解説や旅行記と相俟って、明治初期の日本のすばらしさを知ることができる。日本女性に関して西欧人が如何に偏見を持っているか、日本女性の良さを紹介、家庭を取り仕切っているのは女性であり、男性は家庭の長のように振る舞っては居ても、実は女性が取り仕切っているのが日本の家庭である、と看破している。 日本に到着したときに見た富士山の美しさ、東京湾に浮かぶ数多くの船を紹介、まずは精進湖、本栖湖、芦ノ湖などから見た富士山のすばらしさを描写する。京都では知恩院の鐘付きと寺内部での美術品や僧侶たちの様子、鶯張りの廊下、五条坂から清水寺への経路と清水の舞台、びんずるの謂われ、竹林に行き交う人力車などを写真付きで紹介する。面白いのは、竹林で人力車に乗った婦人を写真に収めるために、出入り口を一時的に封鎖、それが警官にとがめられ、6シリングの罰金を取られたが、撮影料と思えば安いものだ、などという逸話も紹介していることだ。 京都の名工では青銅の象嵌師である黒田氏と昵懇になった。黒田氏は西欧人が上っ面だけ分かったような顔をして、工芸品を買い占めていくことをよく知っていて、そうした人たちには本物の芸術品は売らない。このことに気づいたポンティングは、深く黒田氏に接近、本物の芸術品に触れることができた。陶芸や七宝でも同様のことがあり、ポンティングが単なる写真家ではなかったことが伺える。ポンティングが日本を訪れたのは日清戦争後、日露戦争を挟んだ数年であり、数回の来日で数多くの経験と交流があったようだ。 保津川急流くだりと逆に遡上も経験した外国人は珍しいだろう。保津川遡上については、船を操るベテラン船頭たちによる経験談として語っている。阿蘇山と浅間山という活火山への登山も面白い。写真の感光版のなかでも特殊なものは火山付近に立ちこめる硫黄などのガスでダメになってしまう、という経験談も披露、実際に火口の際まで行って写真を撮る際に、小噴火にであい、命からがら逃げる、かとおもえば引き返して決死の覚悟で写真を撮る、こういう冒険談は当時の日本人には大変な酔狂ものだと映ったに違いない。 富士登山では、重い写真用具を強力を雇って頂上まで担ぎ上げ、頂上では2日間嵐で外出もままならないという経験をしている。下山時には足下に見える三日月の形をした山中湖にまっすぐ降りようとして強力に止められる。道がないので無理だというのを聞かずに突き進んで、結果は散々な目に遭う。それでも夜中近くになって吉田の旅館にたどり着く。冒険家というものはこういうものだろう。 鎌倉、江ノ島、伊豆の江の浦湾、宮島など観光地を巡っているのだが、かならずポンティング独特の体験談がある。単なる写真付きの観光旅行記ではない、英国人から見た日本文化が解説されているのだ。江戸末期から明治かけての外国人による日本旅行記が面白いのは、今は見られなくなった日本の良さを当時の西欧人たちが見て喜び、そして褒めているからだ。まさに「逝きし世の面影」である。 英国人写真家の見た明治日本 (講談社学術文庫)

2010年6月6日 中原の虹(1) 浅田次郎 ****

蒼穹の昴の姉妹編、ともいえそうな本書、昴で出てきた春児(チュンル)も登場する。主人公は張作霖、時代は日清戦争直後で辛亥革命前の中国、張作霖はまだ馬賊の頭ではあるが満州では一大勢力を持っていて、西大后も一目置く存在。張作霖には多くの傑物が従っていたが、その手下になったのが、李春雷(チュンレイ)、なんと春児の兄である。春雷は張作霖のその他の手下である、張景恵、張作相、湯玉麟、馬占山などと行動をともにする。 この時代に、清の国の皇帝だったのは光緒帝、満州の総督は徐世昌、軍機大臣は袁世凱、春児は光緒帝の大総管太監。清の皇帝には代々伝わる龍玉があるとされるが、それは今誰の手にあるのか、この言い伝えを知るものたちは龍玉を巡り暗躍しようとする。 日本軍は中国に日清戦争の勝者として駐留、日露戦争ごのロシアとの中国支配権争いに必死であった。日本軍から通訳として奉天に派遣されたのは吉永将、赴任する列車が馬賊の襲撃にあって張作霖の手下であった馬占山と李春雷に助けられ、行動をともにする。波瀾万丈の物語展開を予感させ第一巻は終わる。 中原の虹 第一巻 中原の虹 第二巻 中原の虹 第三巻 中原の虹 第四巻

2010年6月5日 ペルシャの幻術師 司馬遼太郎 ***

奇妙な読後感を持つ短編集。特に、兜率天(とそつてん)の巡礼は印象的だ。京都の大学の教授で閼伽道竜(あかどうりゅう)は北畠顕家に関する南朝の新説を太平洋戦争中に唱えて大学を追放された。閼伽道竜の妻は波那、終戦の日に発狂して死んだ。その死の原因は妻の先祖にあると考えた閼伽道竜は調査する。妻は兵庫県赤穂の大避神社の禰宜が実家であり、その祖先はユダヤ人だったことを突き止める。彼らは古代キリスト教の一派である景教(ネストリウス教)で、秦氏の一族としてダビデの礼拝堂を建立、これは仏教伝来より以前のことであったという。ユダヤ人は井戸を掘る、イスラエの井戸が当地に伝わっているともいわれる。その祖先をたどっていくうちに大和路から洛西の廃寺であった蓮台院の弥勒堂に兜率天曼陀羅の絵図を見つける。なんとその絵図のなかに妻の波那がいるではないか。ろうそくの明かりで妻の波那にそっくりな姿を見ているうちに弥勒堂もろとも燃え尽きて死んでしまう、という幻想のようなお話。景教の伝来が仏教よりも前で、それを伝えたユダヤ人が祖先という奇想天外な話を軸にしていて、引き込まれてしまう。京都の太秦がその地である、やすらい井戸がイスラエル井戸だ、というのももっともらしい。 飛び加藤、果心居士の幻術の二話も幻術使いと忍者の話であり、幻術使いが戦国武将たちをたぶらかす話はおもしろい。また下請忍者では伊賀忍者たちの悲惨な生活と老後を描き、下忍たちがどのようにして教育され仕事をしてきたのかが分かって興味深い。白戸三平の影丸伝よりもこちらの方がリアリスティックである。牛黄加持では真言密教の安産祈願で藤原得子の安産を祈って得子の産道に精液と牛の角を混ぜ合わせた液体を塗り祈祷する、という奇想天外な描写に驚き、外法仏では異形の僧侶の首を手に入れたい女がどのようにしてその僧侶の首を手にしたかという奇妙きてれつな話、いずれも手が込んだ話である。 ペルシャの幻術師 (文春文庫)

2010年6月2日 戦時下動物活用法 清水義範 ***

行きすぎたダイエットやメカ音痴を皮肉った短編集。 面白いと思ったのは「ダイヤの花見」、長屋の花見をもじったものだが、JRの山手線列車や特急日本海が登場するキャラクターで、みんな長屋の住人という設定。ある時、大家のひかりがみんなに長屋の住人である各列車に招集を掛けた。住人たちは招集の意味が分からず集まる。なんだろう、大家さんの招集目的は、長く支払っていないJR上納金であろうか、などと噂する。現れた大家のひかりは花見に行こう、と提案して一同大安堵するのだが、さてどこに花見に行こう、特急さくらに聞かねばならない、などと議論は一向に収まらない。下げは、列車だけにいつまでも平行線。 「こだわりの旅」も面白い。旅に出るときに、人が行かないような場所や隠されたレストラン、秘湯などを時間と手間を掛けても訪れることで旅行の楽しみを感じる独身男がいる。かれが、京都の観光客はめったに訪れない隠された名刹、庭などがだいすきな女性と出会い、旅の楽しみに花を咲かせ、意気投合して結婚する。新婚旅行はドイツメルヘン街道とフランス田舎の旅、なのだそうだ。 清水義範はパスティーシュとSFで名をはせた人だが、これもSFのうちなのか。気楽に読んで楽しめばいい。 戦時下動物活用法 (新潮文庫)

2010年6月1日 海辺の扉(下) 宮本輝 ***

満典が日本に帰るところから下巻は始まる。20ドルしかもたずに帰国するところから満典が誰かに依存する様子がうかがえる。金がないので、という理由で別れた妻の琴美に連絡、タクシー代を立て替えて欲しいと、都内のホテルで待たせる、社会人ならこんなことができるだろうか。さらに、琴美とよりを戻してしまう、エフィーを愛する男ならこんなことをするだろうか。日本での就職は昔の知人を頼る。いい人ばかりなので、旅行代理店に就職が決まる。一年ほどの勤めで経営者の信頼を得て、ギリシャツアーに添乗、アテネのエフィーに会うために、日本の母親を同行して行く。エフィーには子供が生まれている。エフィーは満典にそのことを手紙でも電話でも知らせていなかったため満典は驚く。エフィーとしては自分を迎えに来て欲しいのであって、子どもの存在を敢えて伝えなかったという。満典の日本での裏切りをエフィーは捨てられた琴美から満典への手紙で知るのだが、それでもエフィーは満典を信じるという。自分を抑えることができない人が多い、というギリシャ人では希有な存在なのだ。 満典は地中海クルーズでドイツ人の男から12万ドルを受け取っていたが、これをエフィーは画家の水谷に相談するようにとアドバイスした。エフィーは水谷に小切手にして12万ドルを託すが、水谷は殺されてしまう。水谷の姉が日本にいた満典を訪問、水谷が隠していた12万ドルの小切手を満典に手渡す。この金を巡ってエフィーがつけ回されているかもしれないと気になっていた12万ドルの小切手を持参していた。アテネの知人シーラの店を訪れ、この小切手を渡す。たしかにシーラは人を使ってエフィーを見張らせていたという。エフィーは見張りに気がつき、怖い思いをしていたと満典に告白する。 エフィーは満典の死んだ息子晋介の生まれ変わりを産むつもりだと満典に伝える。生まれ変わり、という言葉に満典は輪廻転生、という言葉を思い浮かべる。「再会の時は訪れる」という言葉を教えてくれた人から、同じ生を繰り返すのが輪廻転生であり、生まれ変わるのは六道輪廻であると教わる。来世で生まれ変わる晋介に会えるのではなく現世で出会いたいと満典は思う。エフィーが産んだのは女の子、名前をエミーと名付ける。満典がエフィーをミコノス島に迎えに行くところがラスト、エフィーと満典は幸せを誓い合う。 過去世、現世、来世、輪廻転生、六道輪廻などと仏教用語は多出するが、満典の生き方や考え方に仏教的示唆があるわけではない。むしろその逆で、エフィーへの思いやりや琴美への思いやりが欠けているのが満典の生き方である。それでも周囲が助けてくれて満典はなんとかエフィーとの人生の出発点にたどり着くというお話しである。ギリシャの様々な島が登場し、白い家並みや青いエーゲ海を思い浮かべながら読み進む物語は気持ちが良いのだが、そこに登場する観光客の日本人やその日本人をカモにするしたたかなギリシャ人の描写も手加減はない。ギリシャの経済情勢は現在最低の処まで来ているが、今が良ければいい、先のことはあまり考えないという国民性から財政破綻や脱税による闇経済が3割もあり政府財政再建を阻んでいる、というのも理解できる。ロードス島、クレタ島、サントリニ島など日本人なら訪れてみたい観光地、そこでうだつの上がらない日本人と団体旅行しかしない日本人描く舞台にする、ということでこの小説の存在が際だっている。 海辺の扉 下 (文春文庫) 海辺の扉 上 (文春文庫)

2010年5月31日 海辺の扉(上) 宮本輝 ***

我が子を過失とはいえ自らの手で椅子から叩いた結果落下、2歳の子供を、いすの下にあったおもちゃ箱の角で頭を打って死亡させてしまった。妻の名前は琴美、彼女とはそれが原因で離婚、職も失った。こういう過去を持つ満典はギリシャに渡り、エフィーという女性と結婚、現地で暮らすようになって4年がたっていた。エフィーには過去を教えていないまま結婚を続けていた。ギリシャ国立博物館にあるアルタミスの馬と乗り手、というブロンズ像はその2歳の子そっくりに思えたのだ。満典とエフィーはギリシャ語と日本語でコミュニケーションをとる。エフィーも日本語を話し、満典もギリシャ語を話すが、どうしても超えられない壁を感じるときもある。満典はドラッグの運びやのようなアルバイトで生計を立てていたのだが、そこに地中海クルーズでクサダシからあるものを運び出してくれたら5000ドルだす、という話に乗ってしまう。エフィーをつれてその地中海クルーズに出かけて、さまざまな人物たちとであう。クルーズで謎のドイツ人が現れ、クサダシでの任務は失敗すると告げられる。そのドイツ人は信じられない、と満典が伝えると、12万ドルを手渡され、そのお金を無事にアテネに帰り着いたら、そのドイツ人の娘に送金してくれ、それが自分の話が本当だという証だという。不思議な話だが、満典はそのドイツ人の話を信じようとするが、ドイツ人は失踪、その後、アテネでこの仕事を依頼した男が現れ、このたくらみが失敗したことを告げられる。事件のさなか、満典はエフィーに日本での自分の過去を伝えるが、エフィーは満典を信じるという。満典はエフィーをつれて日本に帰ることを決意するが、エフィーの母親が脳溢血で入院、満典だけが先に日本へ帰り、就職が決まったらエフィーを呼び寄せることを約束する。ここまでが上巻。 海辺の扉 上 (文春文庫) 海辺の扉〈上〉 (角川文庫)

2010年5月28日 空山 帚木 蓬生 ****

俊子と亡くなった達士、真紀と慎一の二組の恋愛物語が背景にあるのだが、メインは九州の美しい山村での産業廃棄物処理施設問題である。真紀が暮らす村は五条村、そこでもごみ問題が発生するが、慎一の知恵と村人たちの協力で焼却施設を村民たちがモニターしながら、温浴施設を併設することでうまく並存している。隣の草野市の市議会議員に立候補し当選した俊子は商店街活性化やごみ問題に取り組もうと勉強する。あるとき、五条村の裏にそびえる菅生連山の頂上に登った俊子は山の向こう側の上山町側の赤谷に、ごみの山が積み上げられ、産業廃棄物らしきものまで捨てられ燃やされている光景を目にする。さらにその隣の黒谷には新たに大規模なごみ処理施設が建設中らしいのだ。俊子は市議会の女性議員5名で「手の会」を結成、隣町にできるごみ処理施設と、不法と思われる五味投棄が地下水を汚染する可能性と地下水でつながっている五条村や草野市への悪影響を訴え始める。さまざまな妨害が入り、上野町の市長や議員たちも利権に群がり、人をあやめることまでに手を出していることを知り怒りを感じる。ごみ問題最大の山場は、上野町で開かれた公開のごみ処理シンポジウムでの慎一の講演である。 ゴミは五味 1. 水銀、カドミウム、クロム、亜鉛などの重金属 2. ダイオキシン、DDT、PCB、フロン、その他有機溶剤などの有機塩素化合物 3. 古い水道管にも使われるアスベスト 4. プルトニウムなどの放射線物質 5. 毒ガス、劣化ウラン弾、地雷、核兵器 そして5つの対策があるという。 1. 焼却は万能ではない。焼却による化学反応でダイオキシンなどの有害物質が発生する。灰にも水銀、砒素、鉛、カドミウムなどが濃縮される。有害物質が生じないような焼却の工夫と住民のチェックが重要。 2. 有害物質への監視と規制が甘い。行政による許認可とその後のフォロー、チェック体制が重要なのだと。 3. 生産者による製造物最終処理責任の明確化。ペットボトル、PC、家電製品など幅広い対応が重要。 4. リサイクル促進。リサイクルが進むように課税と補助金をうまく組み合わせること。プラスティックトレイや新聞、雑誌などを対象とするリサイクル促進法の整備が重要。 5. ゴミ処理情報の住民への開示。住民がゴミ処理問題を継続的に意識し、自分の問題としてチェックし、一緒に考えて行けるようにするには行政がゴミ処理情報を開示することが重要。 この本、「空山」は美しい村と山肌に抱かれた景色、素朴な人々と自然を愛する住民、そして真紀や俊子という登場人部を巧みに配したゴミ処理問題小説である。 < a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062737787?ie=UTF8&tag=tetsu814-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062737787">空山 (講談社文庫)

2010年5月27日 女たちの海峡 平岩弓枝 ***

連城三紀彦の黄昏のベルリン、逢坂剛のカディスの赤い星、筋書きもタッチもまったく違うのだが、時代観というのが重なって読めてしまった。出だしはスペイン、トロントに留学中の脇坂知之は始めてのヨーロッパ旅行で、日本人のジプシーの踊り子と出会う。何歳くらいなのかが分からないが妙にエロティックな香りを感じる。そしてもう一方の主人公、哲朗は麻子とは血がつながらない姉弟、麻子が養子として哲朗の母小夜子が育てられた。哲朗は麻子に姉以上の思いを抱いている。知之と哲朗は友人、日本に見合いのために帰っている知之と食事をしているところに麻子が現れる。麻子に知之は好意を感じる。ここからがちょっと謎解きじみた展開で、麻子の母は深川で芸者をしていたという川村晴江、晴江が深川から出奔したときに小夜子が麻子を預かった、と聞いている麻子だが、父親は誰なのかを知らない。哲朗の父親はすでに亡くなっている。知之は麻子に好意を抱きながらも安原理佐と見合いをしたが、麻子のことが頭にあり、受け入れることができない。その知之の父は嘉一郎、実は晴江のいい人だったのだ。そんな時、フラメンコをやっているスペインレストランで、ジプシーが踊るフラメンコを見た知之は彼女が旅行先で見た日本人の踊り子だだと直感する。そして小夜子は踊り子が川村晴江だと思う。小夜子にはひとつ大きな疑念がある、それは、晴江が好きだったのは脇坂知之の父、嘉一郎であったはずなのだが、麻子は嘉一郎の子供なのか、という点である。知之が麻子に好意を抱き、哲朗も麻子が好きだ、となると晴江に麻子の父は誰なのか、そのことを質したい、と小夜子は思おうが、フラメンコダンサー一行は目の前から姿を消してしまう。フラメンコダンサー一行は、草津、そして横浜からニューヨーク、スペインと逃げるようにして小夜子と麻子の前からいなくなるが、ついにスペインのマラガで晴江を捕まえる。ここで血液検査をして、麻子は小夜子の夫との子供であることが証明されてしまう。哲朗の思いは遂げられず、しかし麻子は知之とも一緒にはなれないと感じてしまう。ストーリーには強引な出会いと偶然がたくさんあり、現実離れしている。また、血液検査で父親を確認する、というのは具体的にはどうしたのだろう、という細かいことも気になる。血液型判定では、父親ではないはず、ということは確認できても、この人が確かに父親であるということは精密なDNA検査でもしなければ確認できないと思うからである。晴江の奔放さがこのストーリーを支えているのだが、草津の旅先で嘉一郎の弟圭一郎とすぐにできてしまう、圭一郎がその一夜の思いから離婚まで考えて、NYC、スペインまで仕事を放り投げてでも晴江を追いかけていく、というのも現実離れしている気がする。何気ない、という言葉の対極の連続なのだ。スポーツ新聞連載小説だということで、波乱万丈の展開が期待されたのではあろうが、通して読むと、無理な展開と本来の大人ならしないようなとっぴな行動の連続、しっとりとした麻子には不似合だ、と思う。 女たちの海峡 (文春文庫 (168‐26))

2010年5月25日 春朧(下) 高橋治 ****

坊津の元継の所に行っている史朗はその地がよほど気に入ったようである、知覧には帰ってこない。沙衣子の父元則は一人で知覧に戻ってきた沙衣子に、姑との確執で戻ってくるなら知覧に戻ってきても良い、日野別荘の権利は史朗に贈与すること、しかし沙衣子が何をしたいのかをはっきりさせろ、と言葉少なではあるがはっきりと伝えた。そんな親子の所に長良から長男の恒之が訪れてきた。用向きは「日野一統であり鵜匠である洋平と結婚して、日野別荘を経営してくれないか」というのだ。これには元則も激怒、恒之は帰っていった。結局史朗の夏休みの間中、知覧に滞在した沙衣子だったが、今度は修善寺の女将、洌子の勧めでシンガポールに旅行、洌子は足を骨折していけなかったのだが、沙衣子は一人で旅に出て、旅先で航空会社のパーサー梨香子と知り合う。沙衣子は梨香子に宗野のこと、長良の旅館のことなどを打ち明ける。梨香子は宗野が暮らしたというアルルに電話をかけ、アルルには既に彼はいないこと、スイスに移り住んだこと、その移り先などの情報を沙衣子に提供した。沙衣子はスイスを訪問、そこで宗野が師と仰いだ男性、手がけたシャレー(別荘風の木造建築物)を見る。そこで日本にいる宗野の勤め先、住所がわかる。沙衣子はその勤め先の秋田、そして角館を訪れ、ついに角館の山車祭りで宗野と再会、田沢湖で3日を共にする。宗野には、長良の旅館のことを相談、時間をかけて構想を練りたいと言われる。山中温泉の紺野、修善寺の洌子、建築家の剣などの支援を得て、恒次郎から相続した山に木造建築で別荘風の旅館「日野別荘」を建てることになる。梨香子はこの間、パーサーを辞職、沙衣子に代わって日野旅館の女将として日野別荘を切り盛りする。結局、沙衣子は宗野と結ばれそうになりながらも、建築施主と建築家の関係を崩さず、結ばれることはない。高橋治の恋愛小説なのだが、手が込んだ筋書きである。修善寺、長良川、山中温泉、シンガポールのティオマン島、知覧、横浜、角館、スイスのシャトー・デーとTV映像にしようとすれば相当なロケ費用がかかりそうな展開である。沙衣子が旅先で知り合う人たちが、あまりに都合よく沙衣子が捜し求めるものを提供してくれるのでちょっと白けるほどではあるが、まあ、お話であるのだから目くじら立てるほどではないだろう。現実問題であれば問題がある長良川の旅館経営には多大なる影響を与えるような若女将沙衣子の長期不在である。姑の松乃でなくても怒るであろうほどの沙衣子の優柔不断だと思うのだが、これも物語では問題にならない。世界中を飛び回ってもお金にも困らず、一人息子の史朗が不良になるわけでもない、最後は意地悪な姑の松乃も梨香子に洗脳されて改心し、沙衣子の見方になってくれるという好都合なストーリーである。しかし、読後感は悪くないのは、登場する観光地、日本旅館もてなしの心あるべき姿、日本のよさなどが琴線に触れるせいであろうか。 春朧〈下〉 (新潮文庫)

2010年5月24日 蓮如 五木寛之 ***

親鸞の弟子の蓮如の生涯。親鸞は評価が確立しており、立派な仏教指導者であることに異論はないが、蓮如には毀誉褒貶、様々な評価がある。五木寛之が作家ながら蓮如に関心を持ち調べた結果を話し言葉でまとめている。生まれは1415年、本願寺僧侶の息子として生まれるが母親は正式の妻ではなく、蓮如6歳の時に父親は正妻を娶り、母親は家を出された。その後蓮如は、寺に残るが庶子として40年以上肩身の狭い思いをして育った。父親は存如で20歳の時の息子、蓮如が43歳の時に父親が死亡、正妻の子どもとの跡目争いに蓮如が勝利、本願寺を継ぐことになる。ここから51歳まで比叡山の僧兵との戦いがつづく。結局延暦寺側が勝利、本願寺は破却され、蓮如は近江の国の堅田一族を頼り、近畿地方を布教に回る。近江地方では農民の惣の組織の上に講という宗教組織を載せることに成功するが、時の為政者に圧迫され、北陸の吉崎に逃れる。ここでも吉崎本願寺を中心とした布教に成功、後に一向宗の大勢力となり、加賀一国を一向宗が治めるという基礎を築くことになる。蓮如61歳の時に吉崎を去り、大阪に石山本願寺を建築、85歳で死ぬ。最後の年代の評価は散々であるが、それまでの生涯で広めた教えは、今でも蓮如忌ということで人々に親しまれている。「れんにょさん」は近江から越前、そして隠れ一向宗の九州地域では今でも親しくその名前が呼ばれているという。

蓮如―聖俗具有の人間像 (岩波新書)

2010年5月23日 春朧(上) 高橋治 ****

紗衣子は岐阜は長良川の鵜飼いで有名な老舗旅館の次男に嫁いだ。旅館の長男恒之は本館を経営、姑が大女将をしている。旅館の女将として嫁いだわけではなかったのだが、次男の恒次郎が急性白血病で死んで老舗旅館の別館の若女将を務めることになってしまった。がむしゃらに働いてきたのだが、日本旅館のあり方に疑問を抱く。物語の書き始めは、このような疑問を抱いた紗衣子が修善寺の旅館を訪れ、もてなしの一つとして演じられている薪能をみる場面から始まっている。修善寺の女将は洌子、一人で宿泊する紗衣子を見て声をかける。話を聞いてみて、これは助けてやろうと妹分とする、と宣言、知り合いの剣にアドバイスを依頼する。

剣は紗衣子の旅館を訪れ、紗衣子の日野別荘の旅館としてのもてなしについて苦言を呈する。長良川の鵜飼い、花火などのイベントに依存しすぎてはいないか、泊まり客が心地よい一晩を過ごせるもてなしの心を失ってしまってはいないか、と疑問を投げかける。剣は山中温泉の故山亭を訪れることを紗衣子に勧める。故山亭を訪れた紗衣子はその旅館の主人紺野から日本旅館のあり方を教えられる。

姑の松乃は日野本館と別荘をもっと大きくしたいと思っているが、そんなことをすればもっともてなしの心が失われてしまうと紗衣子は考えるようになる。松乃には今まで我慢して従ってきたが、ある時本館と別館を建て直したいと持ちかけられ、ハッキリとそうは思わないと意見を主張する。

紗衣子の実家は鹿児島の知覧、父の元則は一人で元武家屋敷に住んでいる。そこに紗衣子の11歳の息子史朗と里帰りする。史朗は4歳の時以来であり、祖父の元則の生き方を知り、母の悩みを察する。実家の紗衣子が暮らしていた部屋にはそのころに残していった箱が残されていた。そこには学生時代に訪れたパリで知り合った建築家の卵、宗野徹也からもらった手紙が入っていた。その手紙には宗野の紗衣子への気持ちがあふれていたのだが、若い紗衣子は手紙の文字面しか読めず、徹也の気持ちがくみ取れなかったのだ。

紗衣子が小さい頃にお世話になった叔父で防津に住む父の弟の元継を訪れる。そこで、父の気持ちを知ることになる。父は、「姑の松乃との確執で困っているなら帰ってくればいい」と考えていることを、元継の口から知ることになる。上巻はここまで。
春朧〈上〉 (新潮文庫)
春朧〈下〉 (新潮文庫)

2010年5月22日 歴史を考えるヒント 網野善彦 ***

日本の歴史の中で何気なく使われている様々な単語を、その背景、本来の意味、変遷などを解説、歴史通になるための教養講座、という狙いか。市民講座での講演録を本にしたという。

日本:対外的には大宝律令の701年の翌年、遣唐使が当時の唐(中国)に対して日本からの使いであるといったという。国内で初めて使われたと確認されているのは689年、浄御原令発令の時。

日本の範囲:今の北海道、沖縄は12世紀まで日本の範囲外であった。さらに東北の青森、岩手の北部、鹿児島はそれぞれが独立していたという。

関東:740年、続日本記では伊勢の国の鈴鹿、越前の愛発(あわち)、美濃の国の不破
関より東は関東だった。鎌倉幕府成立以降は三河、信濃、越後以東は関東、鎌倉幕府以降関西という呼び方も成立、続日本記の三関より西を関西と称した。

百姓:農民のことと思われているこの単語は、貴族や官位を持った人々以外のすべての人たちを指した言葉だった。江戸時代にも百姓は様々な職業を持っていたと考えられるが、士農工商という身分制度確立の課程で農民のことを意味することが定着した。

エタと非人:東日本にはほとんど存在しないが西日本にはたくさん存在する、歴史的な経緯がある。動物、特に馬や牛などの家畜の解体は当初は聖なる仕事とされた。ケガレた仕事だけに聖なる立場の人たちによって行われなければならないということ。15−16世紀以降、徳川幕府体制の中で、こうした職業が差別され、士農工商の下に位置づけられるようになった。

小切手、手形、為替:こうした言葉は中世から古くは古代まで遡れるという。

市場、相場:いずれも市庭、相庭からきている。人々が共同で何かを行う場所を庭と称した。狩庭、塩庭、稲庭などもある。

落とし物:物が落ちると、誰のものでもない神様のものになるという考え方。

日本語は歴史を背負った単語から成り立っている。これはどの言語にもあるのだろうが、日本語の歴史は古い。古いだけにその変遷の歴史も長いものがある。長く使われるうちに差別、忌み言葉、丁寧が悪い言葉にと変遷する。汚い、悪い、忌むべきなどの単語には深い歴史があるということだ。
歴史を考えるヒント (新潮選書)

2010年5月20日 完全版 摘出 つくられた癌 霧村悠康 ***

ストーリーは単純だ、乳ガン患者が手術で左と右の乳房を間違って摘出され、あわてた医師はもう一つの乳房も同時摘出した。研修医で手術助手本木のミスだったが、監督責任のある高木教授はこれを隠蔽しようとした。大学医局の教授が絶大な権力を持つこと、助教授以下は教授の意のままに動くしかないことが描かれる。折しも外科学会の会長選挙があり、T大学とO大学の勢力争いから票読みと裏工作も紹介される。乳ガンがないほうの乳房を摘出された患者は事実を知らされず退院するが、教授のポジションを狙う助教授の内部告発により、医療過誤である手術の内容が暴かれる。教授は退任を迫られるが、内部告発のなかで、その助教授もガン隠蔽に一役買っていたことが判明する。正義感がある研修医本木は医局を退職する。

この物語のおもしろさは、医局の縦社会の描写と大学の学閥争いの中で行われる教授選考、学会会長選挙などなどの医学部、医学界の勢力争いである。多くの医者出身の作家が同様のストーリーの物語を小説にしているので本当なのだろう。医療過誤はあってはならないと思うが、患者の側からそのことを指摘できることは少ないだろう。誠実なる情報開示が望まれるのは近年報道されている企業の多くの情報隠蔽事件からも言えることだ。組織は自組織を守ろうとして不都合な情報を隠蔽しようとする。警察、学校、病院、自衛隊、民間企業でもそうだ。良心と良識ある個人がどこまで誠実に社会正義を貫けるのか、そこが課題だ。道徳心の問題、信念があるか、人間として恥ずかしい生き方をしたくはない、という考え方ができるかどうか、日本の教育が抱える課題だと思う。
完全版 摘出―つくられた癌 (新風舎文庫)

2010年5月19日 都と京 酒井順子 ***

京都人と東京人の考え方の違いを京都が大好きな東京人が解説する、という嗜好。「いけずと意地悪」「薄い味と濃い味」「始末とケチ」「おためとお返し」「比叡山と東京タワー」「祇園祭と高円寺阿波踊り」「市場とシジョウ」「観光寺院と葬式寺院」などなどと興味深い分析があった。一部紹介すると、京都人は薄味好きと考えられているがそうでもない、吸い物やうどんのだし汁の色が薄いことからそう思われているだけで京都にある人気ラーメン店や一膳飯やの味は濃いモノが多い。始末とケチでは、京都の人は日常生活は質素にしている人が多い。スーパーでも東京には時々ある高級スーパーは京都にはほとんどない。しかしハレの日にはどっと豪華に飾り付けをして派手にお祝いする、という粋を持っている。金持ちでも普通は質素に暮らしているのが本当の京都人である。贈答の話はおためとお返し。京都では贈り物をもらえば必ず「おため」を返す、いわゆるお返しであるが、もらいっぱなしではコミュニケーションが成り立っていないと感じているからであるそうだ。あげた方もおかえしをもらわないのは自慰行為、おためが返ってきて初めてセックスが成り立つ、という解説。披露宴に呼ばれたときに、お祝いを披露宴会場で渡すと思いこんでいる東京人にとっては京都人が、親しい人の場合には特に披露宴に先立って自宅を訪問してお祝いを手渡すことに驚く。[はるとらっしゃる」の分析も面白い。「あの人変なことしたはる」「こんな場所で喧嘩したはる」などと京都人が使う「はる」は尊敬語、丁寧語の範疇を超えていて侮蔑や距離感を表す意味もある、という分析、京都人にはできないだろう。しかし、丁寧語が距離感を表すのは標準語でも同じこと、夫婦げんかでおなじみの丁寧語は妻が夫に放つ矢の一種である。

酒井さんは、京都好きの人口が増えることは京都人にとっても大歓迎、しかし京都に住み着く人が増えるのは困りもの、このこともよく分かっていらっしゃる。京都がこれ以上大阪や東京のような都会になるのをなんとか食い止めたいと多くの京都人が思っている。
都と京 (新潮文庫)

2010年5月18日 森のなかの海(下) 宮本輝 ****

下巻では奥飛騨の山荘に集った13人が一緒に暮らす中で、特に阪神淡路大震災から逃れてきた7人の若い少女たちと希美子とのコミュニケーションがあり、少女たちの悩みを希美子が受け止めて、一緒に考えてやる、というより、自分も一緒に悩んで自分の問題として解決していく、というなかで希美子も離婚や震災のショックから立ち直る。併行して、山荘の主だった毛利カナ江の生涯が少しずつ明らかにされる。19歳の時に室谷宗弥との間にできて出産した子どもは生きていたのである。名家であった毛利家はそれを秘匿するために山荘での出産をさせ、赤ん坊は京都の清水参道にある半田旅館に養子に出されたのであった。その子は旅館の息子として成長するが、陶芸家となっていた宗弥はあらゆるつてを辿って半田旅館を訪れる。数年の交流をするが、父親だとは名乗らない。陶芸の話を半田旅館の息子にするうちに息子は宗弥の弟子入りをする決意をする。そして陶芸家半田葉鬼(ハキ)を名乗る。宗弥は38歳で死ぬが、その後毛利カナ江とハキは京都の陶芸展で出会うが、ここでも親子の名乗りは上げない。

結局、山荘の木の根本にうめられていた骨壺に記されていた「ハキ」という銘から、その壺が半田ハキのものだと分かり、希美子と父は下関にいて料理屋を開いていた半田ハキに会いに行く。ここで、半田ハキは希美子から自分が毛利カナ江と室谷宗弥の子どもであり、典弥であることを知ることになる。典弥は希美子に徐々に自分の人生、毛利カナ江と室谷宗弥の人生を語る。

奥飛騨での生活では、炊き込みご飯の店を開店、山荘の住人たち総出で店を切り盛りする。最初はうまくいかないが、徐々に繁盛するようになる。こうした生活を続け、成長していく7人の少女も一人ずつ飛田から東京、大阪などへ旅立っていく。希美子も新しい人生に旅立つことを示唆するようなエンディングである。

宮本さんの人生や生活には、引き出しがいっぱいある。この物語に出てくるものでも、陶芸、炊き込みご飯、マロングラッセ、葉巻、PC、森と自然、などと自分の周りにあるものを楽しめるような話が多い。平家物語や西行などの挿話も楽しめる。宮本輝ワールドである。
森のなかの海(下) (光文社文庫)
森のなかの海(上) (光文社文庫)

2010年5月17日 ディールメーカー 服部真澄 ***

企業買収に絡む買われる側と買収する側の駆け引きを、老舗のエンターテインメント企業「ハリス・ブラザーズ」を舞台に展開させる。シェリル・ハサウェイはハリス・ブラザーズの商品部門副社長、同居する日系人反(そり)ケントとともに情報収集を行う。買収を仕掛けるのはIT企業のマジコム社CEOビルブロック。公開買い付けでTOBをし掛けるが、過半数の株式には手が届かない。こうしたときに、ハリス・ブラザーズの創設者ジェイク・ハリスが50年前に仕込んだタイムカプセルに未公開のハリスのキャラクターが仕込まれていて、それが公になれば含み資産と考えることができる。そうすれば、査定した資産価値以上の企業価値があると見なせるので、その情報を知る知らないで大きくTOB価格に影響する。真偽を巡って虚々実々の駆け引きがブロック側とハリス・ブラザーズのCEOノックス・ブレイガーの間で繰り広げられる。シェリルはこうした情報を反とともに入手し、買収株価を20ドルあげてでも買収する価値があると考える。買収後の会社での地位とストックオプションを条件にこうした情報をシェリルはマジコム側に提供する。

マジコムの新たなTOB価格に多くの株主がなびき、TOBは成立するが、ここで、著作権問題が隠れていることが分かる。創設者ジェイクハリスの遺産を引き継ぐ人物がこの世にいたら、その人物がハリス・ブラザーズを相手取って巨大な著作権訴訟を起こすことができ、その判例から原告の主張が認められるだろう、というのがシェリルたちの読みである。遺産を引き継ぐ人物を巡って再び駆け引きがあり、結局関係者は死んでしまう、というのがストーリーである。LBO、ゴールデンパラシュート、ストックオプション、ホワイトナイトなどなど、企業買収がブームになったような90年代に話題に上ったタームの解説本のようなお話しになっている。

逆転に次ぐ逆転が大好きで、企業の裏側話が好きな向きには面白いかもしれないが、こうした飾り物を取り去れば結構単純な企業買収物語である。服部真澄、「龍の契り」を読んだときにも感じたのはこれと同じ感想。つまり、プロット、時代背景、国際的な企業や人物の登場などがうまく組み合わさって面白く読めるストーリーなのだが、時代背景が少し変わり、プロットが分かってしまうと途端に色あせてしまう。時代性を重要な主題とする旬のものである。
ディール・メイカー (祥伝社文庫)

2010年5月14日 森のなかの海(上) 宮本輝 ****

阪神淡路大震災の朝、希美子は夫の猛司と昨夜の喧嘩があって別の部屋で寝ていた。二人の子どもたちは夫の実家に帰っていた。大地震は二人を初めとした阪神地区一帯を襲い、多くの犠牲者を出したが、希美子と猛司は擦り傷で助かった。しかし、喧嘩をせずにいつものように就寝していたらその場所は天井やタンスが落ちてきた場所であり、ひょっとしたら向かいの神社の鳥居が落ちてきた場所なのであった。二人は夫の勧めで知人宅に移動、夫は会社を見てくると言い出かけていった。

夫の実家に連絡をしたところ、姑の口から思わぬ悪口雑言を聞いてしまい、夫が外で女性と付き合っていて、子供まで産まれる予定があることを知る。また姑もそのことを知っていたことが分かる。希美子は震災と夫の裏切りのダブるショックを受ける。「人間の真心を横領する輩が居る」というレミゼラブルの一節を希美子は思い浮かべる。希美子は実家に帰り、両親に会い慰められる。父はうどん屋に希美子を連れて行き、「うどんは延ばしたあと3つに折り重ねて延ばし、またそれを三つに折る、これを30回繰り返すので3の30乗、2百6兆の層をなす。人間も50歳なんて言うのは初めて人生を知る年齢だ」という。折り重ねられた層の数だけ人間も成長する、そう言う話である。

そんなとき、以前手助けをして度々訪れるようになっていた奥飛騨に住む女性毛利カナ江の具合が悪い、という連絡が入る。カナ江には身寄りがなく、住んでいた栗林のなかの大きな一軒家と360坪の土地、そして合計3000万円ほどの遺産を受け取ることになってしまう。東京に住む希美子の両親もここを気に入り、父はログハウスを敷地内に建てることになる。

希美子は二人の子どもと奥飛騨の家に住むことを決意する。ある日、阪神淡路大震災で罹災した人たちのニュースに自分たちに親切にしてくれた家族の14-17歳の3人の娘が引き取り手がなく避難所住まいをしていることを知り三人を引き取ることになる。性格の良い3人の姉妹は本当の名前とは別に「イッチャン、ニチャン、サンチャン」と呼ばれる。三姉妹はすぐに希美子と二人の子どもたちと良い同居人となる。長女は高校三年生で数学の成績がとても良く、東京に暮らす希美子の両親と同居し、東京の私立高校に通うことになる。そんなとき、3姉妹を頼って7人の少女たちが奥飛騨を訪ねてくる。阪神淡路大震災は多くの身寄りのない人たちを生み出してしまったが、行政は何もしてくれない、というのが問題なのである。7人はそれぞれの事情を抱えた孤児、もしくは引き取り手が居ない子たちであるが、不良、性格に問題があるなど、希美子としては悩みが増えることになる7人であった。しかし、放り出すわけにも行かず、7人も同居、父のログハウスを7人の住まいとする。

とあるきっかけから三姉妹の二番目の「ニチャン」の料理の腕前が良く、松本のいい場所にある店を借りて「炊き込みご飯屋」を開店することになり、みんなで協力して開店にこぎ着けようと準備する。上巻はここまで。
森のなかの海(上) (光文社文庫)
森のなかの海(下) (光文社文庫)

2010年5月11日 英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎 ****

英国政府が日本をどのように活用しようとしてきたのか、この本の前半では昭和の初めから満州事変、そして太平洋戦争開戦に至る15年位の間に、秩父宮や白州次郎、吉田茂という英国人脈構築を通した対日工作の内情を記述、後半は、戦後米国中心に日本占領が行われる中で英国がどのように日本への影響力を行使しようとしてきたかを解説する。日本人である徳本が書いているのに、なぜか英国人が書いているかのような錯覚を持ちながら読み進む。

第一次世界大戦の後、パリにおける国際条約締結の結果、日英同盟の破棄が想定されている頃、英国では最悪の場合には対日戦争を予見、中国や東南アジア支配により、戦争遂行に必要な資源の確保と備蓄が整ったときには、日本は最初の攻撃を放つと英国情報局は読んでいた。実際には、石油の備蓄が一年半はもつと考えた日本は日本は戦争に踏みきった。

昭和のはじめ頃、英諜報機関は日本の暗号を傍受解読、情報源としてきた。英国外務省の若き昭和天皇の人物分析は次の通り。「周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない。」さらに、太平洋戦争直前の日本を次のように評価、もはや日本における穏健派による和平工作は無用と考える。「日本は野心的で冷酷な軍人が支配する、危険な潜在敵国である。クレーギー大使はわれわれが友好的に接すれば日本の危険性を取り除けるという固定観念を持っている。だが、宥和政策で日本の軍国主義者が変質するとは思えない。」ここまで、吉田茂や昭和天皇、秩父宮などの訴えに耳を貸してきた英国外務省もさじを投げたということであった。これはこのときチェンバレンに代わり英国首相についたチャーチルの考えが大きく影響している。アメリカを欧州戦線で苦戦している英国の味方に取り込むためには、対日参戦させることがもっとも手っ取り早い、という戦略である。

こうしたときに日本サイドで大きな役割を果たしたのが松岡洋右、国連脱退で有名な彼は、1941年4月からの日米交渉で出された融和案に反対、「三国同盟の趣旨に反する」というのが彼の主張、これに日本陸軍は大きく影響され、融和案への同調者はいなくなった。もはや中日英国大使クレーギーがいくら英国政府に融和策、対日戦争回避を訴えても戦争へのベクトルは変えることができなくなっていた。


後半は戦後の天皇象徴制に向けての英国の戦略である。GHQは米国であり、米国は憲法策定、農地改革、教育改革と矢継ぎ早に日本改造を実行していた。これに対し、英国は急激な改革は日本の歴史を無視するものであり長期的にはひずみを生じさせることになると考えていた。白州次郎の「ジープウエイマップ」と言われるレターはこうした英国の考え方を象徴する内容である。東京裁判などを通して、戦争責任について深く考えさせられた昭和天皇は退位するのではないかとの情報を英国外務省はキャッチ、その時には高松宮が摂政となることが想定され、任期がなくて能力も不足しているのでそれだけは避けねばなないと英国諜報部が分析した話は非常におもしろい。

広島に原爆が投下された日の翌日、当時の良子皇后は、今の貨幣価値でいえば数十億円にもなるという1千万スイスフラン額寄付を赤十字国際委員会に行った。この金はスイス当局が戦後凍結するが、赤十字と英国政府はこの金を巡り争うことになる。英国にとってみれば「資金の大部分は、日本領の英国人戦争捕虜の救援用に送った資金を、日本が為替取引きにより、スイスフランで取得した。これまでに日本は、一度にこれほどの巨額な資金を行った事例がない。」また、終戦の直前、ある日本人がスイス銀行から数百万フランの引出しに成功した。この基金は今でも謎に包まれているという。

戦前戦後の歴史は日本とアメリカの資料をベースに解説されたものが多いが、英国がこのような諜報活動を続けていたこと、考えてみると日本開国からペリーに続いてパークスやオールコックが日本公使として駐在、その後もアーネストサトウなどの親日派の英国人の働きで日英同盟が交わされてきたことを考えれば、英国が日本をうまく活用したいと活動してきたことはよく理解できる。また、日本人が今でも英国に対し親近感を抱いているのはこうした諜報活動の成果かもしれない。歴史を考えるもうひとつの視点を提供してもらった気がする。
英国機密ファイルの昭和天皇 (新潮文庫)

2010年5月9日 日本のいちばん長い夏 半藤一利 *****

圧巻はなんといっても1963年に開かれたという30人のあらゆる視点からの戦争関係者による座談会である。ポツダム宣言が出た7月26日から8月15日にかけて、このメンバーが何を考えどのように行動したのかを語っている。なだ万で5時間かけてやったという内容を紹介し、その後、松本健一と著者が解説している。

30名の話者を終戦当時の肩書きと主な発言で紹介する。

迫水久常(内閣書記官長):ポツダム宣言を予期していなかった。当時はソ連による和平の仲介を期待していて、それにまだ期待を持っていた。気になったのはポツダム宣言にソ連は入っているのか、という点だった。受諾すると考えたとしても、陸軍の第一線の説得が無理だと思っていた。そこで、政府は記者会見をして記者の質問に答える形をとった。政府は「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しであり重要視しない」と回答した。何回か記者とやりとりする間に黙殺という言葉になった。英米の新聞はこれをRejectと表現し、新聞には「ポツダム宣言、日本政府は黙殺」とでた。

松本俊一(外務次官):外務省はポツダ ム宣言を予見していた。当時、ポツダムに米英中ソの首脳が集結している情報は掴んでいたから、ドイツが降伏した後に彼らが話すのは日本の降伏のことしかなかったから。外務省はソ連による仲裁などは期待していなかった。あの記事で英米の雰囲気は大きく変わった。

佐藤尚武(駐ソ大使):ソ連による仲介と言っても、日本の腹はソ連に全部読まれていて、向こうの腹は皆目わからない、こうした中で交渉しろというのだから、それが広田・マリク会談ですよ。

荒尾興功(陸軍省軍事課長):陸軍もソ連による仲裁は期待していなかった。阿南陸軍大臣との会話で、「ソ連は信用おけない。米国が日本に上陸する一歩手前くらいに進撃を開始してくる」というものがあり、大臣も同意していた。

鈴木一(鈴木貫太郎首相秘書官、貫太郎の息子):ポツダム宣言後、広島長崎に原爆が投下され、迫水さんがソ連も参戦したという情報を持ってこられたときに首相は初めて終戦という言葉を口にした。大臣一人一人に意見を聞いて、最後は陛下に聖断をお願いするしかないというところまできた。

岡本季正(駐スエーデン大使):8月10日の朝、条件付き受諾、という電文をソ連と英国政府に通告せよと日本から言ってきた。「国家統治の大権に変更を加えるが如き要求は包含しないものと了解して、宣言を受諾する」という内容で、大権などという単語は翻訳できず、やむを得ず「日本は天皇を中心とした国家であり、これだけは動かすことができない」と伝えて後は相手の出方を待つばかりだった。私のように外国にいるものは気が気ではなかった。その時に英国の新聞に次のような論調がでていたので早速日本に伝えた。『今度の日本の宣言受諾に対する連合国からの回答は、ソ連の猛反対を押し切った米国外交の勝利である』これが最終的に日本の強行派を押さえることができる情報になった。

町村金五(警視総監):玉音放送は当初14日午後6時の予定だったのが、阿南大臣から陸軍説得のためにもう少し時間をくれ、といわれて15日正午になった。

入江相政(侍従長):玉音は二度録音した。一度目のは声が低い、ということになり二度目の録音でOKとなりました。録音が終わったのは14日の夜中を過ぎていて、迷い込んできたと思われるB29がいて空襲警報がでる中を帰った記憶があります。翌15日には宮城に兵隊が入ってきて、録音盤を探しているのですね。徳川侍従は「そんなものはない」と答え顔を殴られても知らん顔をしていました。

館野守男(NHKアナウンサー):宮中で探してもなかったからでしょう、放送局に反乱将兵が入ってきて、ピストルをつきつけて、「玉音放送を中止しろ、自分たちに放送させろ」と脅かした。覚悟をしていたので、「そんなことはできない、東部軍司令部の許可がなければできない」と答えました。そして電話で東部軍司令部と話をして彼らは説得されたのです。その後反乱兵たちは自決しました。

最後にこれらを元に3つの問題点について著者が解説している。
1. 原爆投下は「ポツダム宣言黙殺とソ連参戦」によりやむを得ず早まったのか。
米国は早くからドイツではなく日本への原爆投下を決めていて、これは人種差別の視点から決まっていた。トルーマン回顧録によれば、「私は原子爆弾を使用することになんの疑問もなかった。チャーチルに原爆投下について相談したところ、戦争終結に役立つのであれば原爆使用に賛成する、と言った。」目標都市は京都、広島、横浜、小倉と決まったが、陸軍長官が京都は歴史的都市だから、という理由ではずし、長崎、新潟が加わった。
2. ソ連による仲裁での和平。
ポツダムにおける会談では、スターリンから次のような話が出たとされている。「日本からの新提案を受け取ったことを皆さんにお知らせする。この文書には何一つ新しいことはないので、以前と同じように拒絶しようと思う」それに対しトルーマン、英国外相アトリーは「異議なし」と回答、日本からの期待など歯牙にもかけられていない。
3. 天皇の終戦に当たってのお言葉。
国民に語ると同時に、軍隊の将兵にしみじみと語っている、ということに気がつく。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、というのは武装解除や降伏、という未だかつて日本の軍隊が体験したことがないことを受け入れてほしい、という陛下の気持ちが入っている。終戦処理ということが、当時は如何に難しい処理だったのか、真剣刃渡りの心境だったのだと思う。

なんとも貴重な証言集ではないか。
日本のいちばん長い夏 (文春新書)

2010年5月9日 思いやりの日本人 佐藤綾子 ***

日本人には主たる宗教はないのか、よく外国人に聞かれる質問である。著者は日本人の心の縦軸は「お天道様が見ている」、横軸は「隣人への気配り」であるという。

ソニーと日産がアメリカ的経営手法を入れて一時的には利益を出したのが、その後は低迷しているのに対し、トヨタは日本的経営を継続し、いまでも一流企業の世界のトップの位置を維持している、これは日本的経営と思いやりの心が企業経営でも重要だという証明であると主張する。

霊柩車に雨よけを、針供養、墓参り、お盆の送り火、茶断ち、野菜の無人販売、これらは共通した思いやりの文化であると著者はいう。「おかげさま」というのは縦軸思想だということを忘れている日本人が多くなっているのではないかという。おかげさまというのは神仏の助けであり加護である。また見えないところで自分を支えてくれている友人などへの感謝の心であるというのだ。行間を読む、「一つよろしく頼みます」、などというのも相手と自分の間にある曖昧な部分を慮ることができて初めてできることだという。

江戸の傘かしげ、渡し船のこぶし腰浮かせ、袖ふれあうも他生の縁、発つ鳥後を汚さず、こうした考え方も思いやりの心である。

「お天道様はみているぞ」「閻魔様に舌を抜かれるぞ」「人さまに迷惑をかけるな」などという教えは親が子に伝えるのが日本、縦軸と横軸は親子相伝である。宗教観がない、のではなくあらゆる宗教に抵抗がないのが日本人、というのが著者の見立てである。日本人としてのアイデンティティの確立に「思いやりの心」を役立てたいという思いである。
思いやりの日本人 (講談社現代新書)

2010年5月9日 知らなかった! 驚いた! 日本全国「県境」の謎 浅井建爾 ***

廃藩置県、版籍奉還から明治政府による中央集権への移行の課程で、3府302県もあった府県が、財政上の問題から半年で3府72県に集約され、様々な綱引きの経緯があって、太平洋戦争後になり現在の道都府県(沖縄は1972年)に落ち着いた。

廃藩置県直後に誕生した県には難読地名も多い。東北の斗南(となみ)、胆沢(いさわ)、登米(とよま)、関東の忍(おし)、壬生(みぶ)、志筑(しづく)、中部の挙母(ころも)、近畿の三田(さんだ)、出石(いずし)、櫛羅(くじら)、中国の母里(もり)、成羽(なりわ)、九州の杵築(きづき)、飫肥(おび)。

そして現在の都道府県になるのだが、現在の名称で旧藩名を残す地名はない。新体制への移行を果たしたいという意志が働いたという。72県から現在の都道府県に集約されたときに廃止された県名には、次のようなものがある。盛岡、水沢、仙台、酒田、置賜、磐前(いわがさき)、若松、宇都宮、新治、入間、印旛、木更津、足柄、相川、柏崎、筑摩、新川、七尾、金沢、足羽(あすわ)、敦賀、浜松、額田、名古屋、安濃津(あのづ)、度会、長浜、大津、堺、豊岡、飾磨、北条、深津、浜田、名東、松山、宇和島。小倉、三潴(みづま)、伊万里、八代、美々津、都城。これらはいずれも現在でも残る地名である。

隠岐が鳥取ではなく出雲であった島根に属したのは「隠岐騒動」の結果であり、淡路島が旧来の徳島ではなく兵庫に属しているのは「稲田騒動」の結果である、などというのは幕末から明治にかけての歴史を紐解くと出てきた話である。佐賀も江藤晋平が起こした「佐賀の乱」の結果三潴や長崎に編入された時期もあったという。西南の役をおこした鹿児島も美々津、都城、鹿児島、宮崎が入り乱れて一時は全部ひっくるめて鹿児島県、という時代もあったという。

埼玉と東京の境に位置する保谷や大泉は元は入間県、浮間も埼玉だったらしい。今は秋田県の鹿角地区は元は陸中というから岩手県であった。戊辰戦争で官軍が陣を張ったのが鹿角、その結果盛岡には属さず、九戸、八戸、三戸、江刺と属する県が変わり、官軍側の秋田県に落ち着いたという。

川に沿った県境には不思議な例が多いともいう。福岡と佐賀の間の筑後川を挟む県境は川を何度も行き来している。埼玉と茨城を挟んで流れる利根川流域には両岸に同じ地名が連なっている。これは川の流れが氾濫のたびに変わったことを示している。東京と神奈川の間の境川でも県境が何度も川をまたがっている。

まあ、話の種にはなる、という程度か。
知らなかった! 驚いた! 日本全国「県境」の謎 (じっぴコンパクト)

2010年5月9日 病気にならない免疫生活のすすめ 安保徹 ****

「健康問答」を読んで触発され、たびたび登場していた安保先生の著書にも目を通してみた。先生の主張は「病気を治すのは自分自身の免疫力、薬を飲まずに免疫力が強くなる生活パターン、生き方に変えましょう」というもの。

人間は活発に活動する時にアドレナリンを分泌、交感神経が優位になるが、これが続きすぎると活性酸素が溜まり健康を害することにつながる。休むときにはアセチルコリンが分泌され副交感神経が優位になる。このときには消化器管系が活発に働き、涙、くしゃみ、咳、唾液、尿など排泄と分泌が活発に行われる。この二つのバランスをうまくとることが健康を維持することだという。

人間がガンになる理由はこの二つの働きに異常を来す時、ストレスが主な原因だという。働き過ぎ、人間関係の悩み、深い心の傷などを真剣に悩むほどストレスはたまる。真面目な頑張りやさんがガンになりやすいというのだ。

下痢と便秘を交互に繰り返す過敏性腸症候群の患者が、下痢になったら下痢止めを飲み、便秘になったときには下剤を飲む、というのはあまりに体の仕組みを知らないこと。本当に直すべきは便秘である。

ガンを治す4箇条。
1. 無理な生き方、ストレスが多い生活をやめる。
2. ガンを恐れすぎない。
3. 辛いと感じる治療は受けない。
4. 副交感神経を優位にするために体を温める。
ガンの三大治療法である、手術、 抗ガン剤、放射線治療だけで直そうとするのには無理があるという。

気圧と体質は相関している。日本で気圧が高いのは秋田ー青森、福岡ー広島ー岡山ー大阪ー名古屋、一方低いのは低気圧がよく通過する沖縄と高地が多い長野であり、長野の男性と沖縄の女性が長寿なのは知られていること。気圧が低くなると副交感神経が優位になることから、のんびりとした気質が生まれる。男性は怒りに、女性は冷えに注意することが重要であるという。

そして、そのほかにも病気を遠ざける生き方が紹介されている。
□痛み止め、降圧剤などの薬で鎮痛や降圧すると本来的な原因は取り除かれない。
□背中を伸ばして暮らす。
□風邪、インフルエンザには感染して直す。
□ある程度年をとってきたら仕事は手を抜く。
□PCは一日4時間、暗くなったら触らない。
□病気のレッテルを貼らない(口に出して言わない)。
□バリアフリーや空調への依存は避ける。
□夜更かしをしない。
□日本人は皮膚ガンにはなりにくい、もっと
□太陽光を浴びる。
□体の出す声を素直に聞く。

いずれも、五木寛之と帯津良一が言っていることと重なっている。コーヒーエネマ提唱者の新谷弘美先生の主張とも相容れる部分が多い。腹落ちすることは実行できると思う。
病気にならない免疫生活のすすめ (中経の文庫)

2010年5月9日 健康問答 五木寛之・帯津良一 *****

「健康」について今までいろいろ考えて実践したことや分からなかったことがほとんどすべて解説されている、という意味で「知りたかったことがすべて分かった」。ポイントはたった一つの健康法ですべて解決はしないこと、人の個性により健康法は様々であること、人間の健康状態の瞬間を切り取って治療する西洋医学には限界があること、PPK(ピンピンコロリ)を目指して日々養生することが重要であること。聞いてみれば当たり前のことが多いのだが、TVなどで特集されるとそれにすがりたくなることもある。要はバランスが重要なのである、いくつかの重要だと感じたポイントを整理してみる。

1. 水は多くとった方がいいのか:闇雲に多くとるのではなく、体の欲求に応じてのどが渇いたら飲む程度で十分。

2. 冷たいビールは体に悪いのか:冷たい飲み物は良くはない。ビールも冷蔵庫から出してしばらくおいてから飲むとよい。

3. 高血圧の人に限らず塩分は控えめが望ましいのか:塩分は必要でありある程度意識的にとった方がいい。

4. 牛乳を飲むことは良いことか:無理して飲むことはないが、適量飲んでいても問題はない。

5. 肉は体によくないのか:やたらに食べることをせず、食べたいと強く感じたときに満を持してときめいて食べよう。

6. 健康のために一日30品目食べなければいけないか:栄養学的根拠は曖昧、こだわる必要はない。

7. 朝食は抜いてもいいのか:空腹なら食べるべき。無理して食べることも、無理して抜くことも必要ない。

8. 酒は毎日飲んでもいいのか:酒は体にいいので欠かさず飲んでもいいが飲み過ぎないこと。

9. コーヒーは体にいいのか:嗜好品として飲むなら良い。

10. 緑茶にガン予防に効果があるのか:何ともいえない。楽しんで飲めばいい。

11. アルカリイオン水は体にいいのか:軽々しく断定はできない。水は大事だがそれで病気が治るわけではない。

12. 玄米食は体にいいのか:玄米菜食は一つの思想である。その思想に共鳴しおいしく感じるなら食べればよい。飽きたら休むこと。

13. 体は温めた方がいいのか:暖めることは良い。体自体が温かくなるために日頃薄着で鍛えるのも悪くはない。

14. 抗菌、防菌は有効か:うがいや手洗いを忘れても問題はない。抗菌にこだわりすぎる方が問題だ。

15. ウォーキングは体にいいのか:体調をみながらのウォーキングはいい。

16. お風呂は体にいいか:長風呂でなければ体によい。

17. 温泉は体にいいのか:温泉はリラックスするためのもの。がんばって入浴するものではない。

18. メタボリック症候群はよくないのか:基準値とされる値に根拠はない、お節介である。

19. 睡眠は8時間必要か:人類は古代より5−8時間でやってきた。休むときは横になって骨を休めることが重要である。

20. 便秘をすると大腸ガンになりやすいのか:コーヒー浣腸を勧めたのはゲルソン療法のマックスゲルソン、日本で進めているのは新谷弘美。便が大腸に滞ることは万病の元、痛便には気を配ろう。

21. 病気は完治するのか:命は流れゆくもの。ある瞬間をとらえて完治したかしないかを論じても無意味である。

22. インフルエンザワクチンは接種すべきか:年齢と体力次第である。若い人は感染して免疫力をつけた方がいい。お年寄りはワクチンは有用である。

23. 健康診断は毎年受ける必要があるか:毎年受けても万全ではないことを知るべき。日頃体調変化に細かい注意を払うことが重要。

24. サプリメントは有効か:勘をを働かせて効果があると思ったら続けるが、1−2ヶ月で効果を感じなければやめる。高価なもの、セールスマンの人相が悪い場合、断定的な言い方をする場合は買わない。

25. 臨床医の直感は科学の上位に位置するのか:最終的に信用できるのは自分の直感である。それを磨くことが重要。

26. 笑いは元気の源になるのか:無理に笑う必要はない、つらいときには泣いたり長い嘆息をつきながら生きていくのがいい。

とてもよい本に出会った。
養生問答―平成の養生訓 (平凡社ライブラリー)

2010年5月8日 小暗い森(下) 加賀乙彦 ***

昭和15年から17年、東京に初めて爆撃機が訪れるまでの日に日に生活に戦争の陰が入り込む日々を、大人たちの視点で語る。この本の特徴は語り手が自在に変わっていくことである。

夏江は傷痍軍人でキリスト教徒の菊池透と結婚し洗礼を受ける。透の故郷である八丈島に二人で行って生活を始めるが、透の健康はすぐれず数ヶ月で東京に帰ることになる。時田利平の息子史郎は薫と結婚、披露宴には親戚一同が顔を見せる。脇敬助は陸軍大尉、注目を集める。弟の晋助は東大の仏文科学生、こちらは全く軍隊に興味を持っていない。風間姉妹の松子の夫は大河内秀雄、風間振一郎の秘書でありボディーガード、梅子の夫は速水正蔵、建築家。桜子は造船会社社長で27歳も年上の野本武太郎、醜い顔で金を持っている、この一点で桜子は結婚することにした。4姉妹の父風間振一郎は日満支石炭連盟代表理事であり、石炭工業界常務理事、代議士としても三期目である。披露宴に出席している時田利平はモルヒネ中毒がひどくなり、手をふるわせている。こうして結婚した史郎と薫、しかし、薫は本の虫、夫の面倒などみないことから史郎は薫と別れたいと考え出す。

悠次は糖尿病が悪く時々眼底出血して視力を下げる。病気をしている間に女中に手を出して子を作ってしまうが、流産。妻の初江は晋助と関係を持ち、末子のバイオリンの才能があるといわれている央子は、実はバイオリン好きの晋助と初江の子である。実に複雑な男女関係である。時田病院の事務長平吉は利平の妻いとと関係を持っているらしい。若い医師や看護婦が戦争にかり出されていて、病院職員は年寄りばかりである。しかし、戦争の拡大で、利平が発明した皮膚病の薬や真水蒸留装置などが軍隊に採用され経済的には栄えている。

昭和16年12月、日本はついに米英と戦争状態に入る。菊池透が懇意にしていたジョー神父が敵性国人として逮捕、併せて菊池も治安維持法で拘留されることになる。脇敬助、晋助兄弟も戦地に赴くことになる。夏江は徐々に迫りくる戦争の足音を感じ、初江や自分の不幸を思いながら聖書を手に取る。詩編84篇。「なんじの家に住むものは幸なり。その心シオン大路にあるものは幸いなり。かれらは涙の谷をすぐれども、そこを多くの泉あるところとなす」人間の最大の不幸は不幸を自覚できることだと夏江は思う。この章のタイトル「涙の谷」の出典元である。

この本の特徴は時代の様子を克明に庶民の目から捉えていることである。歴史の時間に習うような事件や出来事が実際に町ではどのようにして起きていたのかを登場人物の目でとらえている。「永遠の都」は通しで読みたい。
永遠の都〈3〉小暗い森 (新潮文庫)
永遠の都〈4〉涙の谷 (新潮文庫)

2010年5月7日 生命燃ゆ 高杉良 ****

昭和の高度成長時代を支えてきたのはこうした技術者達だった、という物語。今の時代で考えると、働きすぎて家族を顧みることが少なく、早くに命を失い迷惑をかけた、バランスの悪いワーカホリック、ということになるのかもしれない。物語は昭和43年から始まる大分におけるエチレンプラント立ち上げ、そして後半は中国大慶でのエチレンプラント立ち上げの国家プロジェクトへの技術協力であり、無理がたたって主人公は45歳でこの世を去る。

時代は昭和43年、昭栄化学(昭和電工がモデル)は大分に石油コンビナートでエチレンプラント建設を計画、コンピュータ制御によるプラント制御システムの導入を図る。昭栄化学でコンピュータ制御技術の担当者だった柿崎は糖尿病の持病をおしてプラント立ち上げに奔走、東京から大分に単身赴任して猛烈に働く。その後家族を大分に呼び寄せるが、猛烈ぶりは変わらない。大分での市議会議員選挙では昭栄化学は候補者を立てて選挙運動に励む。柿崎は本来の業務ではないと反発するが、近所の九六位神社に選挙運動に立ち寄るなどの協力をする。昭栄化学は阿賀野川流域の水銀中毒事件で被告になっており、一審判決を無条件で受け入れる、という経営判断をしているが、工場運営は地元の理解が得られて初めて成功する、ということを肝に銘じている。大分ではそうした努力の結果、選挙の候補者は当選する。こうした働きから、プラント立ち上げは成功、地元の理解も得られる。

物語の後半では大分のエチレンプラントを見学した中国から技術移転注文が入り、柿崎が技術指導者として訪中、先方からも絶大な信頼を得る。こうした中、柿崎の糖尿病は悪化、視力は極端に低下している。さらに、急性白血病を発症した柿崎は発熱の中、中国から訪日した技術団を受け入れようとする中で倒れ入院、闘病の甲斐なく数ヶ月後この世を去る。

家族はこういう猛烈に働く夫、父をけなげに支える、という視座から語られるが、仕事に打ち込み、一生懸命働くことは正しいこと、という価値観が前提であり、こうした前提があって日本の経済発展が成し遂げられたことも事実である。柿崎は死に際に次のようにいう。「俺はどんなことでもつねに全力でやってきた。だから未練はあるが悔いはない。」こうした言葉を座右の銘にしたビジネスマンは多いと思う。今の若者はどう思うのであろうか。
生命燃ゆ (新潮文庫)

2010年5月5日 小暗い森(上) 加賀乙彦 ***

永遠の都の第二部にあたる。ダンテの神曲の一節。「七十の人の命の中程にして、正しき道を失えし我は、とある小暗き森の中に、我自らを見出でき。」この本のタイトルである。

「子供部屋」では主人公の小暮悠太が生まれたときから記憶をたどって昭和17年4月18日の東京発空襲までの記憶が語られる。両親である悠次、初江、弟の駿次、研三、末の妹央子、親戚で母初江の妹夏江と夏江と結婚する菊池透、悠次の姉脇美津とその夫脇礼助、その子敬助、晋助、風間振一郎と藤江夫妻、その娘たちの百合子、松子、梅子、桜子、そして学校の友達である松山哲雄、外交官の息子で病弱の吉野牧人の話などが中心。悠太が抱いた富士千束への幼い日の思いも描かれる。祖父時田利平が経営する病院の複雑な人間関係も悠太の視点から紹介されている。

「涙の谷」では、もう一度昭和15年にさかのぼり時田利平や悠次、初江、夏江が語り始める。小暮家の女中なみやは悠次の子を妊娠、おなかが目立って悠次の子であることを白状する。堕胎を拒否するがある日一日中歌を歌って働きづめに働いて流産する。時田史郎は30歳になり、父の利平に勧められた縁談を受ける。相手は大学教授の塚原の娘薫、英語が堪能、というふれこみである。央子は3歳の頃から晋助のすすめでバイオリンを習い始める。先生は富士千束の母である。夏江はセツルメント時代に知り合って、負傷兵として帰還、入院していた人菊池透と再会そして結婚した。時田利平の病院には前妻とその前の妻の子である上野平吉を病院の事務長にすえ、間島五郎を武蔵新田にある別邸の使用人として使っている。利平の新しい妻いとは若いため、病院内での人間関係が噂になる。上野平吉との関係を利平に疑われるが知らんぷりを決め込んでいる。利平は睡眠不足になりモルヒネ中毒になってしまう。

時代としては満州事変からノモンハン、日中戦争へと戦争の時代である。ものが不足し、昔は時田、脇、風間、小暮の各家族が一緒に出かけた夏の逗子や葉山のことを初江も悠太も懐かしく思い出す。

2010年5月2日 薔薇窓 帚木 蓬生 ***

どことなく加賀乙彦のフランドルの冬の主人公、宮本輝の道頓堀川の邦彦を思い起こさせるようなこの物語の主人公は、パリ警視庁の特別医務室の診断医ラセーグ。舞台と時間設定は1900年、万国博覧会開催で観光客があふれるパリ。

パリ警察で犯罪者の精神鑑定を担当、精神的に問題がありそうな患者を、治療はしないが、年間2千人もを診断する。ラセーグはパリの娼館に通って娼婦のマリエンヌと会い、日本趣味で刀のツバを集めている。友人で警部のエドモン、恩師でパリ郊外に隠棲生活を送るガルニエ、日本人骨董品などを売っている商人の林忠平、宿屋のおかみのイヴォンヌ、ラセーグが住むアパルトマンの気の置けない仲間たち、そしてある日、街で保護されたという日本人少女を診断した。これが口がきけない状態で現れた音奴だった。ラセーグのはからいでラセーグの下宿先の女将イボンヌの元で下働きとして働くようになった音奴は少しずつ周囲に心を開き始めた。

一方、ラセーグは、見知らぬ貴婦人につきまとわれる。執拗に誘われ、そして病気だという手紙を受け取り彼女の屋敷を訪ねる。診察をしてその日は帰るが、別の日に再訪、一夜をともにする。それ以降、ラセーグはストーカー的につきまとわれるようになる。ポリニヤックという伯爵夫人はラセーグに変質的な愛情を抱き、それが高じてラセーグを恐喝するようになり、使用人たちまで巻き込んでしまう。

万博に沸くパリでは、若い女性の誘拐が連続して起こっていた。女性の 特徴は観光客、異国人、移民出身、異教徒など、この対応に苦慮したパリ警察は、ラセーグに協力を求めて来た。ラセーグは音奴の証言からそれが音奴を監禁していた男と同一人物であり、写真コンクールに出展していた男とも同一人物、そしてその男がポリニヤック伯爵夫人の裏手にすむ子爵であることを突き止める。

タイトルになっているのは、シテ島にある裁判所のステンドグラスがバラのように形取られている窓。パリの表通りのきらびやかな華やかさと、裏通りにみられる移民や異教徒、貧民たちの不幸がステンドグラスから盛れてくる光とカテドラルのなかの陰影に象徴される。ストーカーとして描かれているポリニャック伯爵夫人の妄想は、薔薇窓が作ったカテドラルの中の窓の光なのか。後半明らかにされる猟奇的殺人も正常と異常の光と陰、薔薇窓が象徴している。音奴が憔悴して保護されたときと元気になった後も光と陰、薔薇窓と音奴も光と陰かもしれない。

物語の中では、万博に沸くパリは多くの人たちの息づかいや観光客の歓声まで聞こえてきそうな筆者の描写力が発揮されている。林とラセーグの日本美術に関するやりとりや、当時のジャポニズムの盛り上がりも興味を引かれる。当時大きな話題となった、川上音二郎一座の演劇や日本の見世物の舞台もおもしろくかかれている。中国での政府と義和団の間で諍いがあり、これを機に列強と日本が中国というパイを奪い合うさまが報道されている。林が最後に日本の開国以来の発展ぶりと、西欧の科学や技術をあと少しで取り入れて追いついてみせるという心意気を、傲慢である、と評する。日清戦争に勝ち、一流国の仲間入りをしたと思いたい日本人を、まだまだフランス文化と文明の奥深さには追いつけない、100年以上かかると見ている。林はこうもいう。「日本では形にならないものはすべて後回しなのです。西洋で評価されている絵なら日本では高値が付きますが、自分が気に入ったので買おう、という人はいません。僕が帝国大学卒業でも芸術家でもないことから、そんな男が万国博の事務局長になったので非難囂々でした。中身の人間より上辺が大事、そんな社会は首の上に自分の頭をのせていないのです。」イギリス人女性で日本の東北を旅行したイザベラバードも同じようなことをいっている。そんな林は自分の目利きでかいためた印象派の絵画を日本に持ち帰り、西洋美術館を作る、という夢を持っている。だからそんな日本に帰りたいのだという。

ヒトラーの防具や三たびの海峡のように完成された物語ではない印象、理由はエピソードが多すぎて読んでいて面白いのが、色んなエピソードに気をとられてしまい、ストーリーを読者が消化しきれない気もする。しかし、そこは帚木、うまく最後はまとめているので読後感は良い。
薔薇窓〈上〉 (新潮文庫)
薔薇窓〈下〉 (新潮文庫)

2010年5月1日 姫椿 浅田次郎 ***

八編の短編集。人間の不幸を食べて5000年、という空想上の中国の生き物、(しえ)が登場する。OLで独身の鈴子はマンションで一人住まい、9年間連れ添った猫リンに死なれてしまいショックを受けている。そんなとき、ペットショップでひょうんなことから手に入れた珍獣「しえ」。「しえ」は善人と悪人を一目で嗅ぎ分ける能力がある。アパートの管理人、隣人の米山は善人だ。鈴子がつきあっている宮崎は売れないデザイナー、「しえ」が来てから初めて鈴子の部屋に訪れた宮崎を見て「しえ」はうなり声をあげる。宮崎は悪人、と判定されたのだ。ある日、鈴子が部屋に入ろうとすると、管理人が呼び止める。宮崎が留守中金目のものを持ち出そうとしたところを隣人の米山がとっつかまえた、というのだ。人のいい米山は鈴子にプロポーズをする。鈴子の不幸は「しえ」にすっかり食べられてしまったのだ。

不動産業を営む高木は借金で首が回らず死のうと考えている。タクシーで昔すんでいた場所に降り立つ。そこで、昔通った銭湯がまだあるのに気がつき入ってみる。番台のおじさんは高木のことを覚えていた。そして、そのころ知り合った妻ふーちゃんのことも覚えていた。昔なじみの客が風呂に入っていて、昔のことを思い出し、そこに植わっていた花「姫椿」のことも思いだし、20年間の苦労と思い出がよみがえり、死ぬことを思いとどまる。

昔の級友九鬼と町で再会、九鬼は私に昔の女の話をする。そしてその女と町で15年ぶりにその女を見たのだと言う。会社の社長と思しき旦那と仲良く旅行に行った帰りだ。見つからないように隠れて話を聞いて、幸せそうなことを確認して良かったと思った、というのだ。ところが、数日後、新幹線で同じ女が逮捕され護送されているところに遭遇し、今度は彼女と目があった。そして九鬼は名前を呼ばれる。確かに彼女、同じ女がなぜ。そして、九鬼は競馬場で有るとき私をみたともいうのだが、その時その日は香港に居たはず、同じ顔をした別人か。同じ顔をした別人が別の人生を歩んでいるかもしれないという「再会」。

ゲイバーのマダムが死んだ。完璧な女を演じていたマダムだったが、その葬式で、夫、子供たちがいることを知る同僚。ゲイバーのマダムとして平日を新宿で過ごし、週末は家庭人となる生活を長く送っていたのだ。焼き場でそのマダムの骨を拾う。それは喉仏、立派な喉仏だった。

会社の人事異動で閑職追いやられた浜中、そこには定年直前の女性鈴木と営業から同時に異動になったという仙田がいた。この仙田がトラブルメーカーなのだった。会社の金は使い込む、定年間近のお局を結婚詐欺まがいの目に遭わせる。結局、浜中は早期退職制度により会社を辞めることになるが、その金を持ってオーストラリアにいる息子を頼って飛行機に乗る浜中。どう見ても息子は父親の金ねらい。トラブルメーカーは仙田だけではなかったようだ。

昔の女典子とは7年もの間一緒に暮らした。求婚をしたのだが断られた。その典子が忘れられない塚原。その典子が20年後シドニーで大道芸人として目の前に現れる。オリンポスの聖女。

柴は編集者、誠実な性格である。女房と子供がいない寒い夜、裸の女性を部屋にあげてしまう。その女性は鞄に500万円の札束と携帯電話しか持っていない。自分は誰なのかを語らない女、名前はレイコだということだけがわかる。携帯電話にやくざ風の男から電話がかかる。いきなり「おまえは誰だ、おれのレイコに手を出したらしょうちしねえぞ」などと脅される。携帯に登録されている誰に電話しても埒があかない。そしてやっと話がわかる「ヒコムラ」につながり、家に迎えにきてもらう。他の誰にも住所や個人情報を明かしていないことを確認され、お礼にと500万円をもらってしまう「零下の災厄」。

大学助教授の牧野は58歳、娘の真由美と二人暮らし、妻のミドリは11年前に死んだ。牧野の趣味は競馬、なぜか娘も最近競馬にこっているらしい。真由美に彼氏がいるのかどうか牧野は知らない。牧野が妻のミドリと知り合って結婚を申し込んだのも競馬場だった。ミドリを愛していた牧野はずっと独身のままだ。そしてある土曜日、牧野は常連で不器用な大工だったという男「解体屋」と仲良くなり、負けてすってんてんになったと解体屋に酒をごちそうになる。そしてある日、家まで解体屋に送ってもらうことになり、そこで娘の真由美と出会う。解体屋は娘の彼氏だったことがわかる。これは偶然なのか、それとも真由美のはかりごとなのかは分からないが、解体屋と牧野はとても気が合う。解体屋は真由美に結婚しよう、と申し出いているが真由美は決断できないでいた。父親が再婚しない理由を真由美が問いただすと、母親のミドリが好きだから、という返事、うれしい気持ちがする。偏屈な父が再婚する相手は難しいだろう。しかし、自分が結婚して面倒をみてあげればいいのだと思う。解体屋と父、気の合う二人をみているうちに真由美は結婚を決意する。「永遠の緑」

出来不出来がバラバラ、「天切り松」や「地下鉄に乗って」は粒ぞろいだった、浅田次郎でも出来不出来は様々なのだ。
姫椿 (文春文庫)

2010年5月1日 脳は語らず 渡辺淳一 **

この小説が出版されたのは昭和49年、話題はロボトミー手術、その当時でも批判の声が多かったロボトミー手術はは、その後人権意識が高まり、その他の薬物療法が発達してきたため下火になっていったらしい。しかし昭和50年には日本精神神経学会でロボトミー手術を否定する決議がなされ以後出術はされていないという。取り上げられたのは昭和48年に起こされたというロボトミー裁判。

週刊誌の記者池谷は夫がロボトミー手術で廃人にされた、という話を聞きつけ取材に走る。ロボトミー手術をした病院を取材すると、金儲けのためにやったのではないか、よく状況を調べもせずに手術してしまったのではないか、ということがわかり記事を書く。しかし、その手術の裏には教授選出の人間模様があることが徐々にわかってくる。

ロボトミー手術の話は別にして、大学教授が医局では天皇であること、国立大学の医学部の派閥争いのこと、病院が大学ごとに色分けされており、大学からの人事異動などは大学教授の手の内にあること、なぜ医学部教授になりたいのかなどが詳しくそして手厳しく書かれている。

そして、裁判が元で左遷された助教授の不倫と助教授を愛して自殺してしまった女性、そしてその裏話が女性の姉の口から明かされ、池谷は単純に取材して記事にしてしまった自分を悔やむがすでに手遅れだった。

渡辺淳一、売れっ子作家なのだが、ロボトミー手術がすでに時代遅れなのは別にしても、ストーリーや推理の部分はやはりすこしお手軽な気がする。この先生は不倫小説が良い。
脳は語らず (中公文庫)

2010年4月28日 嵐吹くときも(下) 三浦綾子 ***

旭川に移り住んだ志津代と文治夫婦、そして母のふじ乃。志津代夫婦には3人の子供に恵まれる。文治の兄恭一は志津代の幼なじみ八重と結婚、旭川に出てきて八一旅館を営み成功する。美貌のふじ乃はマージャンで知り合った近所の年下の若旦那といい仲になるが、一緒になりたいと言い出すふじ乃を先方の親も志津代、文治も反対する。そして昔一度だけの過ちを犯した増野が旭川に現れる。増野の妻が病死したことを期にふじ乃は増野と結婚、息子の新太郎を連れて東京の増野の家に入る。増野の商売を手伝うふじ乃は天性の明るさで店をもり立て、さらに料亭も経営するようになる。新太郎も何不自由ない生活を送るが、ある日家出、3週間後に旭川にひょっこり顔を出す。ふじ乃は旭川に新太郎を迎えにくるが、新太郎はふじ乃の生まれ故郷佐渡島に志津代たちとふじ乃とで訪れることを約束させる。佐渡島にはふじ乃の実家がある。そこで、新太郎は暴れ馬に出会って頭を打ち死んでしまう。

派手で天性の明るさをもつ美貌のふじ乃、無邪気な八重、美人でしっかり者の志津代、正しいことしかできないハツ、こういう様々な性格の登場人物が生きていく上で、さまざまな他の人たちとの関係で罪の意識を感じながら、それでも一生懸命生きようとする。本の題名は新太郎が死ぬ前に文治たちに教えた歌「荒野をいくときも、嵐吹くときも、行く手をしめして絶えず導きませ」という賛美歌からきている。時代背景は明治の日露戦争の前後、日本が日進月歩で富国強兵、殖産興業に突き進む時代である。文治の父は佐藤文二郎という自由民権運動家であり、幸徳秋水などとの交流もあったという設定、物語の中にも少し歴史が顔を出す。描かれている女性の描写が生き生きとしているのが特徴、三浦綾子さんらしい。
嵐吹く時も〈下〉 (新潮文庫)

2010年4月27日 嵐吹くときも(上) 三浦綾子 ***

北海道の焼尻、天売を彼方に見る地、苫幌に生まれた志津代、家は苫幌に一軒だけの雑貨店「カギ中」。雑貨店といっても、鰊漁が盛んな20世紀初頭が舞台であり、蔵を3つも持つ大店である。父は一代でこの店を育てた44歳の順平、母は30歳で美貌のふじ乃。志津代は幼なじみで近所で旅館大和屋を営む次男の文治に恋心を持っているが言い出せない。小学校から高等小学校にあがり、そこを卒業すればそれぞれの道に分かれるのがこの時代、文治は人の紹介で東京にでる。志津代は「かぎ中」の跡取りには関心がないが、行きがかり上無視はできない。順平はふじ代を大切にし、ふじ乃もそれに応えているが、ある日、行商人で昔からの知り合いである増野と一夜を過ごし、増野が立ち去るのを志津代は見てしまう。このことは志津代の勘違い、ですまされてしまうが、志津代は納得していない。

志津代の弟新太郎が生まれたとき、順平はふじ乃を問いつめるが、ふじ乃は白状しない。順平は表だっては新太郎をかわいがるが、人目がないところでは新太郎を抱きもしない。それを一番不思議に感じているのは志津代であった。ある時、順平がふじ乃に漏らした不平からふじ代が家出をする。数日で見つかったが、それ以降ふじ代は博打に手を出し、店の金を使い込むようになる。順平は見て見ぬふりをするが、志津代にはそれが不思議でならない。ある日、志津代はその疑問を口に出し、ふじ乃を問いつめる。志津代は順平にも迫るが、順平は答えず部屋を出たところで脳溢血で死んでしまう。順平の死後、番頭見習いとして入ってきた三郎、一見一生懸命に勤めているように見えたが、借金をして店を他人に売り渡す結果となり、三郎は出奔してしまう。志津代は文治と結婚するが、ふじ乃、新太郎とともに旭川に移り住む。そこに新太郎の実の父である増野が現れる。
嵐吹く時も〈上〉 (新潮文庫)

2010年4月25日 天地人(下) 火坂雅志 ***

慶長の役で西南の各大名は朝鮮への派兵を秀吉に命じられた。上杉家は謙信以来の地越後から会津への転封を命じられた。佐渡の金山の権利を残したままの転封であり、石高は越後、佐渡、出羽、信濃などで91万石だったのが、佐渡、出羽を維持したままで会津を保持するため120万石、これは徳川家康の265万石、毛利輝元の129万石に次ぐ大領地となる。直江兼続はこれを受諾する。秀吉が死んだ後には徳川に付く勢力と、石田三成に付く勢力が拮抗する。景勝の悩みは深い。家康が伊達政宗を討つために関東に攻め入った折りに、石田三成は西国の勢力を集めて反徳川の旗幟を明確にする。このとき、徳川家康は西にとって返す、その隙を景勝はつかなかった。これが後に関ヶ原の戦いへの不参加、大阪冬の陣、夏の陣での景勝の徳川陣営への参画につながる。判断をしたのは直江兼続であり、「義」を最重要視する考え方に反する判断であった。しかし、上杉家を残すための苦渋の判断、これが兼続の「愛」なのであろうか。筆者は「愛」は慈愛、思いやりの仁、民への愛である、と解釈する。

上杉謙信は次のような言葉を残しているという。「大将の根底をなすものは仁義礼知信の五徳を規とし、慈愛を持って衆人を哀れむ」。直江兼続の愛はこの考え方である。直江兼続にとって、晩年の徳川家康への従属はどのような苦渋の選択であったのだろうか。
天地人〈下〉人の巻

2010年4月24日 能・文楽・歌舞伎 ドナルド・キーン ****

日本文化への造詣の深さでは日本人以上ともいえるキーン博士の日本伝統芸能解説。原文は英語であり、日本文化を西洋人にも分かるように工夫して解説している。

まず、能、舞台は中尊寺や厳島神社にあるような至ってシンプルかつ厳粛なステージである。能を一言で言うと次のようになる。「多くの場合、仮面(能面)をかぶる舞人によって演じられ、主人公(シテ)はツレと地歌とともにセリフを謡い、語る、浮き世を離れた、あるいは超自然的な劇詩である」「能は舞台の外から流れる能管(笛)の音によって開始が告げられるが、その音色はフルートのように柔らかいものではなく、現世から離れた我々の理解を超えた苦しみをたたえるような響きだ。」「西洋の舞台とは違い、能においては登場人物はそれぞれの名前ではなく役柄で認識され、シテ、ワキ、ツレに加えて、ツレの延長である子役、間狂言などが存在する」「『翁』を除くすべての能は次の五つの範疇に分けられる。1.脇能:神々についての能 2.修羅物:武士(男)を題材にした能 3.鬘(かずら)物:女性を中心においた能 4.現在物:現存する人物を描いたもの 5.切り能:悪魔や天狗を描いたもの。そしてどの能も序・破・急の3つの部分からなる。」

そして能楽論を確立した世阿弥について述べている。世阿弥は能楽師のあり方を九つの段階に分けて考えた。その最高の段階が「妙花風」、賞賛しようとしても褒めようがなく、どこがよいのか考えられない深い感銘があり、芸位にも当てはめられないような超越した無上の芸である、としている。世阿弥は足利義満、義持に支持されるが、後に義持は増阿弥に傾注、世阿弥は軽んじられる。

観阿弥の時代にあった四つの猿楽の一座が現在の、宝生、金春、金剛、観世の四流派につながっている。

能と能の間に演じられる狂言は中国の「狂言綺語(狂った言葉と絵空事の言い回し)」からきているという。

能面には平家の公達であり悲しみの表情を浮かべる「中将」、品格のある老人「小牛尉」、有名な「般若」、若い女性を表す「小面」、などがある。

文楽では、3人の人形遣いが人形を操るが、キーンには最初、その3人の人形遣いが目障りだったという。しかしものの数分で人形にしか目がいかなくなるという。文楽を初めて目にしたアーノルドトインビーも次のように描写している。「西洋ならば人形を操っている人たちを観衆から隠すことでしか得られない芸術的効果を、人形遣いを隠すことなくその技術によって成功を収めている。かれらは無表情でいて自分たちの動きを生命がないという印象を与えることにより、客観的には誰の目にも見えているその姿を主観的には消すことに成功しているのである」

とにかく、このキーン博士の知識と日本文化への理解、愛着には脱帽する。歌舞伎は外国人にも派手な衣装や大きな舞台、次々に切り替わる場面で面白く楽しめるかもしれないが、文楽はストーリーの背景となる時代が江戸時代で古く、主人公が泣いたり死んだりする理由がわからないなどストーリーの必然性が理解しにくい。こうしたことをふまえて解説している。西洋人には能が一番退屈だろうと思う。登場事物が少なく、ストーリーもたいした話ではない。しかしキーン博士も言うような超自然的な力のような神々しさが能にはある。シンプルな舞台や能面、伴奏である笛の音がそれらをもり立てる。これを読んで能・文楽に興味を持った西欧人は多いのだろう。日本文化理解のためにキーン博士がなした貢献は果てしないものがある。
能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫)

2010年4月24日 天地人(中) 火坂雅志 ***

謙信の死後、上杉の領内は内輪もめが続いていた。兼続は主君景勝の命により直江家に婿入りすることになった。ここに直江兼続が誕生する。妻は亡くなった信綱の妻お船を娶ることになる。武田勝頼は織田信長に攻め滅ぼされ、続いて信長は上杉の領地もねらっていた。柴田勝家、前田利家、佐々成政からなる織田軍1万5千に上杉家の魚津城は風前の灯火であった。抵抗むなしく魚津城は落とされるが、信長が明智光秀に殺されたため織田軍は一気に撤退して九死に一生を得た。その後、柴田勝家は羽柴秀吉に滅ぼされ、羽柴から豊臣になった秀吉が天下を取る。上杉景勝は豊臣秀吉に臣下の礼をとり、後に五家老の一人に数えられるまでになる。この景勝を家老としてずっと支えたのが直江兼続であった。兼続は謙信の教えである「利よりも義」を守り続けるが、それに共感したのが真田家から人質に上杉家に身を寄せていた真田幸村であった。秀吉の臣下となった上杉景勝は直江兼続とともに京都に上洛する。そして北条攻めがあり、朝鮮出兵があるのだが、そこには「義」はないと兼続は感じる。秀吉が死ぬと一気に情勢は混迷を深め、徳川家康が反旗を翻そうとして勢力を募る。中巻はこのあたりまでである。
天地人〈中〉地の巻

2010年4月21日 風よ雲よ(下) 陳舜臣 **

盗人海賊の頭領になった鄭芝竜と安福虎之助の絡みが続く。登場人物が多くて大変だが、鄭芝竜の息子福松は後の鄭成功。安福虎之助は福松とともに船で移動中摂津屋幸兵衛に捕らえられる。福松は脱走、しかし捕らえられた虎之助には摂津屋の二人の用心棒が見張りについている。大友勘作と塩原源内である。この大友が勘作を切り捨て、そして摂津屋をも切ってしまう。その時、脱走した福松に教えられた芝竜が救出にくる。物語はこうした、戦い、日中を挟んだ商人の往き来、それに芝竜とお多喜の子ども福松、千成組の首領和歌原群蔵、宿場人足上がりの盗賊であった李自成、後に大順国の皇帝となり北京を攻めることになる。こうした数多くの登場人物が絡む血湧き肉躍る物語、といいたいところであり、こういう読み物が好きな人にはたまらないのかもしれないが、私にはそれほどでもない。
風よ雲よ (下) (講談社文庫)

2010年4月20日 文明の衝突と21世紀の日本 サミュエル・ハンチントン ***

人間の自己認識を形成するものは、祖先、言語、歴史、価値観、宗教、生活習慣、社会制度であり、部族、民族に基づき共同社会、国家、そして最も広いレベルでは文明を意識するという。

こういう意味での文明が世界には8つあるというのが著者の主張である。西欧、イスラム、東方正教、中華、日本、ヒンヅー、ラテンアメリカ、アフリカである。この中でもっとも孤独な文明は一つの国家で形成されている唯一の文明、日本だというのだ。これはチャンスとも考えられる。他の文明に対して嫌悪感や好意を偏ることなく保持できて、その決定を国家レベルでできる、という指摘である。一つの見識、そういうレベルかなと思う。
文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)

2010年4月20日 ネット未来地図 佐々木俊尚 **

いくつかの機能やサービスについての論点を整理した本、2007年10月の発刊であり、この手の本としてはすでに2年半が経過、相当古いという感は否めない。これは当然ではあるが筆者の責任ではなく読み手の問題である。Amazonの強み、お勧め(Recommendation)機能、行動分析型ターゲットマーケティング、電子マネーと仮想マネー、GoogleとMSの覇権争い、携帯電話のプラットフォーム争い、日本のベンチャービジネスが世界を席巻できない理由、お金にするManetize、YouTubeはネタの視聴、動画とTVの裏表、雑誌、新聞とWeb広告、携帯ユーザの下流化、Second Lifeの寿命、Twitterの面白さ、Wikinomics、などとこう並べただけで、だいたい書いてあることがわかりそうな本ではないか、その通りである。
ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点 (文春新書)

2010年4月19日 占領下日本の教訓 保坂正康 ***

戦後GHQによる日本統治でもたらされた最大のものは民主主義だった、という主張。占領は20年9月から24年頃までが前半で、朝鮮戦争に至る期間、これが民主主義と日本国憲法、農地改革、教育改革、財閥解体、という大物から隣組の見直し、などという小さな所までGHQのなかの民政局GSと呼ばれた機関のホイットニーが中心になり進められた。後半は24年から27年、サンフランシスコ条約締結までで、「逆コース」とも言われた期間。分岐点は昭和24年1月だった、と著者は言う。昭和23年12月東京裁判判決7人絞首刑、17名のA級戦犯釈放、GHQ経済安定9原則発表、日本に緊縮財政迫る。昭和24年1月、第24回衆議院選挙、第三次吉田内閣成立、3月ドッジライン、5月労働組合法、労働関係調整法、下山、三鷹など事件。この後半戦をGHQで仕切ったのがG2ウイロビー、日本再軍備、レッドパージなどと暗い時代に向かう。

子ども達、孫達に伝えるべきことは何か。
「モノが言えない軍事主導体制は国家は間違わせた。言論の自由、基本的人権の尊重がなされる民主主義を守ることこそ最重要。」これが著者のメッセージである。

第一の開国が1860年ころのペリー来航以降の諸外国との商業条約締結だとすると、太平洋戦争敗戦からサンフランシスコ条約締結が第二の開国とも言える。第一の開国での未熟さ、国力増強のみに狂奔したツケが満州事変から太平洋戦争にいたる失敗を招いたのだと私は思う。経済発展は国、個人両方がもつ道徳の裏打ちがあってこそのモノであるべきであり、身の程を知らない背伸びやプライドは身を滅ぼすのである。現在、21世紀にあり、日本という国、民間企業も含めた私たちは第一の開国、第二の開国の反省をどのように考えているのだろうか。正しい歴史認識と反省を子や孫に伝えていくことこそ私たちのするべきことだと思う。憲法改正論議があって、押しつけられた憲法だ、という意見がある。手続き的な事実はどうあれ、民主主義、基本的人権、言論の自由、男女平等、平和主義、などは世界に誇れる内容である。この国が世界の中でどのような役割が果たせるのか、妙なプライドや背伸び、身の程知らずの背伸びをすることなく、「正しいこと」を身の丈に応じて実現できることを考える必要があると思う。仏教用語かもしれないが「足を知る」というこの言葉が持つ意味を深く考えたい。
占領下日本の教訓 (朝日新書)

2010年4月18日 天地人(上) 火坂雅志 ***

上杉謙信の息子 景勝、その景勝が幼き頃から相手としてつきあったのが樋口与七兼続。謙信はお屋形様と呼ばれて尊敬され慕われている。兼続は若い頃からその才気煥発を謙信に見込まれ景勝に勉学の相方として選ばれたのだ。謙信が北条氏康と戦ったときに講和の印の人質として養子縁組したのが氏康の七男三郎景虎、後に謙信が死んだときに上杉家を継ぐのはどちらかと景勝と争うこととなる。

戦国時代の武将としては珍しく謙信は義を重要視した。裏切りをせず、謀略を使わず、非道をせず、これが信念であった。兼続はそうした謙信を尊敬していた。兼続が謙信にしたがって戦にでた折りに、景虎の手下たちが、野良犬に「景勝」という名前を付けていじめているのを見つけ激怒した兼続は景虎たちと剣を交える、これを謙信に咎められ、兼続は蟄居を命じられる。

一年後蟄居が解けたときに謙信は死ぬ。こうして跡目争いが起きて結果として景勝が勝ち、兼続も景勝の一の手下として家老格として取り立てられる。跡目争いに乗じて武田勝頼は越後に攻め込むが、兼続の知略として和睦条件に信濃と上野の上杉領を割譲することを提示、武田勝頼はそれを受け入れる。上巻はここまで。
天地人〈上〉
天地人〈中〉地の巻
天地人〈下〉 (文春文庫)

2010年4月16日 オールコックの江戸 佐野真由子 ***

ラザフォード・オルコックが1859年に総領事として来日、2年の休暇を挟んで1864年まで江戸と横浜に駐在した期間を、彼の書翰や日記、その他の記録からオルコックの視点から描いている。多くの記述は1861年5月に開催されたロンドン万国博に日本からの遣欧使節団をなんとか招きたい、タイミングをあわせて欧州文化を知って欲しい、欧州の人たちにこの極東の地に中国とは全く異なる文化と歴史を持つ国日本がある、ということを認知して欲しい、という彼の活動と心理描写に費やされている。

広東から長崎を経て高輪東禅寺に入るのは1859年、アメリカに遅れて通商条約を日本と英国が締結するタイミングである。長崎が日本の第一印象となったのだが、湾と山の緑の美しさは良い印象を与えたようである。 しかしそこでは出島、という小さな地域に外国人が押し込められている実情を見て、いつか居留地区を拡大し、この美しい長崎の山に沿って外国人達も住めるようにしたい、という夢を持つ。横浜に移った後に「神奈川問題」を抱え、幕府と交渉する。幕府は神奈川を海港の地とする、と一度は約束しながら、港は横浜に開港し、外国人居留地区も横浜に新たに開鑿した地域にしたいと申し出てきた問題である。幕府としては東海道沿いであり、大名行列や攘夷の志士たちの通り道に外国人達が住むことを懸念したのだ。諸外国の公使たちは反発したが、港と街まで開発した幕府の意向には抵抗できなかった。

江戸に移ってからは、幕府のメンバーとのコミュニケーションは進むが、理解できていない事柄も多かったようだ
とくに、朝廷と幕府、幕府と諸大名の関係である。国の代表として幕府の老中達と交渉をして条約を締結しているのだが、はたしてそれは日本国と約束をしたことになるのか、これがオルコックの素朴な疑問である。ある時ごく限られた人数で安藤対馬守、酒井雅楽守ら数名の老中と英国公使、そして通訳のみで話をする機会を得て、この疑問を取り上げ、老中達からの解説を得たオルコックは、この疑問の答えを得たのであった。それ以降老中達との信頼関係は深まったという。

そして、ロンドン万国博の知らせがくる、その時点で偶然準備していた遣欧使節団、彼らをなんとか万国博開会日である5月1日に間に合わせたい、これがオルコックが考えたことであった。また、日本人達には英国、フランスの工業、文化、商業、町並み、人々の生活、すべてを見てきて欲しかった。そのための下準備に奔走する。実はこうした期間中の1861年にオルコックは水戸藩の攘夷派の浪士達の襲撃を受けて、けが人を出している。こうした腹立たしい事件を経験しながらも、なんとか日本という国を世界の舞台に引っ張り出したい、という熱い思いを抱いているのだ。言葉の面では1862年に来日したアーネストサトウがオルコック駐在の後半はサポートしたと思われるが、前半は日本人通訳の森山多吉郎に依存していたようである。森山への信頼は篤く、ロンドン遣欧使節団に遅れて下賜休暇を取ったオルコックが随行したのはこの森山である。森山随行の理由は遣欧使節団に加えること、であったが、身分は低かったが能力を買っていた森山へのお礼、だったのかもしれない。

1861年5月のロンドン万博では日本からの出品物もさることながら、遣欧使節団40名に注目が集まったという。衣装とちょんまげ、という見た目、そして見学する熱心さである。1867年のパリ万博に日本と薩摩藩が出展した、という話が有名だが、その前のロンドン万博でもこのような話題があるということ、オルコックの熱意の結果であり、そして功績である。

同時期に英国から来ていたミットフォード、アーネストサトウ、そしてオルコックに関する書籍を読んだが、いずれからも感じるのは、異文化を受け入れ、なんとか自国との通商を始めること、これが通商外交ではあるものの、それを越えた「温かい目」というものを感じるのである。マッカーサーは戦後日本を「12歳」と評したが、このころの日本は英国人の目から見れば幼稚園児だったのかもしれない。それでも日本人の持つ勤勉さや柔軟性、歴史と文化を評価し、国際社会への扉を外から開こうとしたのだろう。アメリカ人初代駐日公使タウンゼントハリスは、こうした日本人達を国際社会、文明社会に引き入れてしまうことに一抹の不安を抱いていた、それは日本人達がとても幸せに見えたからだという。こんな幸せそうな人たちに、西欧文明である物質主義をもたらすことは果たして正しいことなのかと。普天間報道を聞いて、未だに日本人はかくも外交にナイーブなのか、と感じる。
オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)

2010年4月15日 中国の鳥人 椎名誠 **

超常小説というのだそうだが、椎名誠の短編SF集、いまいちのできだと思う。ちょっと面白いな、と思ったのは表題作「中国の鳥人」、あとは一つの思いつき、一つの発想で一つの短編を書いている感じで、ヒネリが欲しいなあ、椎名誠の名前を使うなら、と思う。アドバードと武装島田倉庫は面白かったよ。
中国の鳥人 (新潮文庫)

2010年4月13日 武士の娘 杉本鉞子 *****

長岡藩家老稲垣家の娘として明治6年に生まれた筆者が、日本で幼少の時に受けた教育、長岡での暮らし、その後の東京での教育を書いたのが前半、後半は杉本松雄に嫁ぎ米国に渡って二人の子をなす話と、松雄が盲腸炎で亡くなって日本に帰国、二人の娘 花野と千代が帰国子女として日本教育を受け、最後には再度渡米するまでを書いた後半。

武家に生まれた子供達が受ける教育とはどのようなものだったのか、教科書的には武士の心構え、四書による音読、読み書き、「仁義礼智忠信孝悌」などを学ぶ、となると思うが、著者はその背景にある武士とはなんたるものかを祖母の教え、母の威厳、兄との関係、父への思慕などにより解説しているように思う。

印象的だった部分を紹介しよう。
6歳頃の勉強では祖母から神代物語、宮本武蔵、田宮坊太郎、小栗判官、岩見重太郎、八犬伝、弓張り月の話を聞いた。著者は生まれたときに臍の緒が首に巻き付いていたので「尼」になるものとして教育を受けたとのこと。女の子としては異例の「四書音読」などもさせられたという。「百読意自ずから通ず」といわれ訳も分からないまま読んでいると、その韻律が音楽でも聞くようで四書の大切な句を暗唱した。四書を教えた師匠は肉体の安逸を戒めたので、自分も座布団をはずし、弟子には身動きすることを禁じたという。最も寒い日にも手が凍える中硯や筆、墨を丁寧に布でぬぐい汚れを取る、それを庭の雪で行った。居心地良くしては天来の力を受けることができないという考えで火の気のない部屋でお習字をした。寝るときでさえ、武家の娘は身も心も引き締めなければならないので「き」の字になって寝る、こうした教えによって女の子は穏やかな中にも威厳を備えることができる「制御の精神」を身につけることができた。

東京に出て学校に学んでいた頃のこと。
学校の先生方は日本の作法に欠けていられると感じたが、親しむほどに先生それぞれの個性の奥底に流れる隠れた気品を見いだした。教育者という名誉ある地位と陽気な性格とが何も矛盾することがないことが次第に理解されるようになった。日本の先生方は礼儀正しかったが親しみにくく、外人の先生方は絶えずニコニコして一緒に遊んだりお食事をしてくれた。

渡米して米国人宅に同居、そこで客人をお迎えするときに部屋を日本のもので装飾してみたときの感想。
西洋には西洋、東洋には東洋の、自然のままの美しさがあり、アメリカの書架の上に日本の青銅の香炉をおいてもひどくそぐわないものになる。この大きな自由なくつろいだ部屋には西洋の装飾が一番ぴったりしている。

アメリカの女性がもっている金銭に対する態度にういて不真面目である、と感じたこと。
靴下の中にへそくりをしたり、夫におねだりをしたり、友達から借りたりする、こんな冗談のような話が信じられなかった。日本では妻が家庭全体の幸福に責任を持つように教育されていたので、家の諸掛かりや食物、衣服、教育費を賄い、社交や慈善事業への寄付さえも受け持ち、夫の収入に応じた地位を保てるようにする、これが女性のつとめだと信じていた。

こうした日本とアメリカの考え方や文化の違いを一つずつ経験し解釈分析して書き残してきた、これがこの本である。原書は英語で出版され、ドイツ、フランス、デンマーク、スエーデンなど7カ国語に翻訳されたという。著者は合計して30年の米国生活を送る間に、コロンビア大学で日本文化史の講義を担当するまでになっている。1928年に帰国、この本の最後にはこう記されている。「赤ら顔の異人さんも、神国日本の人々も、今尚お互いの心を理解しおうてはおりませず、この秘密(西洋も東洋も人情に変わりのないこと)は今もなお隠されたままになっておりますが、船の往来は今尚絶えることもございません。」こう言い残した著者の予言はその後の太平洋戦争につながるものであろう。日本江戸時代の武家の教育、日米文化の相違のそこに流れるもの、凛とした女性の視点から見た立派な歴史的書き物だと思う。
武士の娘 (ちくま文庫)

2010年4月12日 非情銀行 江上剛 ***

合併をひかえた大栄銀行の内部には非合法勢力と思しき九鬼と歴史的に繋がる一派がいた。新宿支店長の中村は人事担当の常務に昇進、合併相手である東光銀行との合併後をにらんで人員削減を企図していたが、そのやり方は非情であり、自殺者まで生んでしまった。自殺した岡村の親友であった竹内は中村の不正融資の証拠をつかもうと奔走、仲間を募って証拠をつかんだが、中村と九鬼ににらまれ、数々の嫌がらせを受ける。

全副頭取加納に相談した竹内に加納は「やってみよう」と約束してくれる。大栄銀行頭取の山本は自分の栄達を望むが中村が勝手に勢力を広げるのを見て面白くない。加納からのアドバイスを得て、中村を初めとする不正融資や銀行内の刷新を図った上で合併に望むことを決意する。

まあ、こういう話だが、江上さんの話の特徴は、
1. 銀行の仕事は社会的意義がある立派な仕事であるが、バブル崩壊で貸しはがしにはしり道徳を失った。
2. 銀行の仕事を愛する勤王の志士は銀行内にも必ずいる。
3. 銀行はお上には極めて弱い。
4. いずれの銀行にも闇の勢力とのつながりがあり、それを切りたくても切れない事情があった。
5. 金融庁が発足してからは銀行内の不良債権が見つかりやすくなった。

ということで、だいたいどの小説もシナリオは少しずつ異なるが心棒となっているのはこれらの5つ、この人は小説より講演会の方が面白い。
非情銀行 (新潮文庫)

2010年4月9日 龍の契り 服部真澄 ***

良い書評が多い服部真澄のデビュー作だが、期待ほどではなかった。香港割譲時に中国がイギリスと締結した条約に密約文書があり、その文書の内容は、1997年に香港は中国に返還されない、という可能性を秘めた文書であった。この文書を巡り、優秀な日本の外交官、中国とCIAの二重スパイ、香港のキャスター、ハリウッド女優、日本企業の経営者などが錯綜する。世界経済を支配するゴルトシルト財閥のマネーロンダリング疑惑を解明するために、上海香港銀行の調査を行うのが日本人外交官沢木、香港の天才ハッカーのラオ、日本の家電メーカー「ハイパーソニック」の社長の西条達も絡んできて、上海香港銀行の社内NWに侵入するのがクライマックス。最後は北京の毛沢東廟のなかで対決があり、大逆転がある。

手が込んでいて、登場人物や仕組まれたプロットも多く楽しめるが、15年前の物語、ということで少々古さも感じる。しかし、香港返還の1997年の二年前に発刊という良いタイミングでの著作であり、そのタイミングは本書好評の要因だろう。シナリオは良くできているので、これはずいぶん考えたのだろうな、と思う。書評が良すぎるのは、期待値を高めすぎて満足度をかえって下げてしまう効果もある、ということを噛みしめた。
龍の契り (新潮文庫)

2010年4月9日 照葉樹林文化とは何か 佐々木高明 ***

広葉樹のなかでも樫や椎、楠、椿などのように葉っぱの表面がつやつやしていてテカテカ光っている樹木を照葉樹とよび、中国南部雲南を中心にしブータンから揚子江流域を底辺に、タイ北部を頂点にした逆三角形地帯がその地域の中心地なのだそうだ。この地域を東亜半月弧と呼ぶ。照葉樹林帯は中国大陸から日本の西半分までをカバーするのだが、その地域には共通の農耕文化が成立しているという。これらの地域での農耕の発展段階を三つに分類すると、@プレ農耕段階 A雑穀栽培を主とした焼き畑農業 B稲作が卓越する段階 と整理できるという。 つまり照葉樹林帯地域は稲作発展地域でもある。

東南アジアの稲作民族に共通してみられる文化的要素には次のようなものがあるという。
雑穀栽培、茶、ニワトリ飼育、水牛飼育、酒、キンマを噛む習慣、金属製飾り輪、高床住居、木綿、切り妻屋根、竹製カゴ、腰巻き、陸稲栽培、笊(ざる)、水稲栽培、篩い(ふるい)、堅杵と堅臼、土器製作、豚飼育、マレー式ふいご、牛飼育、刀剣、頭上運搬、盾、蓑、革張りタイコ
そしてこうした文化要素の大半は水田耕作民とともに雑穀栽培を主とする焼き畑民にも広く見られるという。

これらに水田耕作が広まることで加わった文化要素として、
水田漁労、唐すき、踏み臼、絹、高機、天秤棒、輿、牛車、金銀細工、影絵芝居
つまり、水田農耕に直接関係のないようなものでも、安定した収穫と土地所有がもたらした富貴階級の出現が関係している。

焼き畑農業で雑穀栽培をしている農民がどのように水耕稲作をはじめるかという話。
1. 焼き畑農業は村を挙げての作業が主だが、村の有力者が谷間に小さな水田を作ってみるところから始まる。
2. 耕地を水平にし、畦を作り水漏れをしないようにするやっかいな作業を少数の人の助けを借りてやってみる。
3. 農作業の用具は雑穀栽培と共通であるので転用可能である。
4. うまくいくと、水田は個人所有となる。凶作豊作の差が少なく安定収入と生活をもたらす。
5. 他の村人もまねをするので、その村での水田面積は拡大する。雑穀栽培との共存が基本である。

気候変動との関係も解説されている。12500年前のベーリング温暖期に定住が始まり、その後の寒冷期である11000年まえのヤンガードリアスに麦作農耕が誕生、その後10000年まえから始まる間氷期で稲作が始まったのではないかと言う。もちろん急に稲作が始まったのではなく、ベーリング温暖期から徐々に始まった稲作が10000年まえから拡大した、という話である。

日本への稲作の輸入は琉球、揚子江→朝鮮半島、モンゴル南部→朝鮮半島、という3ルートが示されている。さらにモチ好き、という照葉樹林地帯の民族的志向も見られるといい、米をはじめ多くの穀物に粘りけのあるモチ種類があり、それらを好む民族が照葉樹林帯民族である、という指摘も面白い。照葉樹林文化、というのはまだまだ大きな仮説だそうだが、一つの生活・農業文化の視点であることは間違いない。
照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

2010年04月07日 外交官の見た明治維新(下) アーネスト・サトウ *****

下巻は明治維新を挟んでの数年のこと、日本に滞在していた英国外交官が当時日本を変革していた当事者の日本人達と情報交換し議論した、その内容を率直に書いているので面白い。特に、飾りのない表現、という点がポイントで、太平洋戦争前にはほとんどの部分が黒塗りされた状態だったというのも頷ける。例えば、サトウがハリー・パークス公使と会津、桑名の両大名と会談した模様。

「会津は年の頃32歳くらい、中背で痩せており、カギ鼻の色の浅黒い人物だった。桑名は一見24歳くらい、あばた顔の体の小さい醜い青年だった。」

英国の通訳の若者に日本の大名がなぜこんな風に描写されなくてはならないのか、と戦争中の日本人なら憤慨したことだろう。伊達の殿様が外国諸代表に1864年に都落ちした5名の公卿の一人、沢主水正(モンドノカミ)を紹介する場面。

「沢は悪党面、とまでは言わぬが相当な面構えで、それでいて人を引きつける良いところがあった。1、2年後には外務卿になったときには私たちはこの人物が大好きになった」

つまりけなしているのではなく、思ったことをそのまま書いているだけなのだ。さらに、

「大村丹後守(タンゴノカミ)は虚弱な病身くさい男で、会見中に一言も口をきかず、外国人と話すのを怖がっている様子に見えた。沢の子息で女子のように色白な道楽者らしい青年も一緒だった。」

京都で天皇と接見したときの記述。
「謁見の次第を次のように取り決めた。陛下のおっしゃる言葉を文書にして陛下がまずそれをご覧になる。次いで、それは陛下の手から山階宮に渡され、宮がそれを読み上げて伊藤(博文)に渡す。伊藤がそれを翻訳してハリー卿に渡す。それからハリー卿が通訳の伊藤を通じて口頭で天皇に答辞を述べる」
これは天皇はこれまで皇居内の人々以外とは誰とも話をしたことがなかったためである。10日前に初めて諸大名に謁見した、というタイミングでの謁見をしたということ、なかなか貴重な経験だったであろう。そして謁見を許されたのはハリー卿ではなくミットフォードであり、理由はイギリス本国で宮廷に伺候した経歴があるためであった。

ミットフォードの日記にも記されていたことだが、ハリー卿と一緒に知恩院から皇居(京都御所)に向かう途中、二人の暴漢に襲撃された。この時に命をかけてこれらの英国人達を守ったのが、同行していた薩摩藩士の中井弘蔵、土佐藩士の後藤象二郎であった。こうした事件もあり、この二人は英国外交官達から厚い信頼を寄せられている。後藤象二郎の船中八策は、サトウやパークスらとの議論から知識や情報を得た結果のアウトプットであり、日本の歴史にはあまり表面化して出てこない、こうした外交官達によるガイダンスが相当程度あったのだろうと想像できる。また、サトウは1895年にも来朝、日本語が堪能であり、日本人の考え方や伝統文化にも造詣が深いため、丁度三国干渉の時であり国際情勢の分析や日本へのかずかすのアドバイスをしたと思われる。また、その後の日英同盟締結にも大きな力を発揮したのではないだろうか。

大政奉還後英国政府が正式に天皇を日本国の元首として認めるという儀式の際の天皇とハリー卿などとの記述。
「ハリー卿が進み出て女王陛下の書翰を天皇に捧げた。天皇は恥ずかしがっておずおずしているように見えた。そこで山階宮の手を煩わさなければならなかった。陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いてどうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤は前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読み上げた」
「翌日、祝いの席で長州候は大きい赤ん坊のように振る舞って、私を隣席へ座らせようとして聞かなかった。日本の諸侯はばかだが、わざわざ馬鹿になるように教育されてきたわけだから、責めるのは無理だという気がした。天皇の母方の叔父の子息は、ヨーロッパの猫がみたいとせがみ、また一人の大官は二グロが見たいと言い出したので、私たちはこれらの希望をかなえてやるのに苦労した」
なんとも、これでは真っ黒に塗りつぶされてしまうのも頷ける。

「中井を訪ねると、井上石見というすこぶる愉快な薩摩人がきていた。私はかれとかなり遠慮なしに各方面の人物の品定めをした。東久世は身分はよいがヨーロッパ使節として派遣される最上の代表的人物ではない、伊達か岩倉、それとも肥前の閑痩(カンソー)あたりが適正だと私は考えていた。」ヨーロッパ使節団の人選にまでコメントをしていたことが分かる。

勝海舟からは水戸藩の動き、についてレクチャーを受けている。これは外国人にとって謎であった水戸の政争についてであった。
「水戸の老公斉昭は耳が遠いので社交を嫌い全国を歩き回った。質素倹約の習慣はこの時からである。水戸光圀は古来の京都政治を支持する尊皇論を唱えていた。斉昭は軍隊教練、勤王攘夷、ヨーロッパ科学の導入を進めた。1858年には将軍家定が没したが、水戸老公は自分の第七子に将軍職を継がせたかった。井伊掃部頭(カモンノカミ)がこのころ勢力を持ち、斉昭を隠居させ越前(松平慶永)、土佐(山内容堂)、宇和島(伊達宗城)を隠居させた。水戸藩士が井伊を暗殺した背景である。当時は薩摩と長州が京都の政策に呼応して攘夷の思想を鼓舞していた。水戸の天狗連は両国と結んだが、将軍に軍隊に撃滅された。」
かなりの日本の情報を数多くの日本人達から得ていたことが分かる話である。

岩倉がイギリス公使に対して述べた見解。
「天皇は二千有余年の昔からこの国を統治しているが、将軍はまだ七〇〇年も経ていない制度である。国家の権力は将軍が持ち、一八五三年にペリーが来たときには将軍の権威はまだ安泰であったが、その時天皇は攘夷の政策を表明した。その結果国内に擾乱が生じ、将軍の権力維持ができなくなった。孝明天皇と家茂が没し、徳川慶喜が後継となったが、彼は有能であったので天皇を上に頂く政府が絶対に必要であることをよく理解することができた。その後、天皇の政府は外国人への政策を一変し、条約諸外国との国際関係を築いたのである。商業的な関係だけではなく、ヨーロッパ諸国の文明国同士に存在する関係になることを希望する」

なんとも、ナイーブな表明であるが、英国外交団はこのような日本国の誕生を暖かく見守ったことが良く伝わって来るではないか。サトウは一八六二年に来日、一八六九年に帰国、その後一八七〇年に再来日、一八八三年に帰国、一八九五年には日本駐在公使として来日、一九〇〇年には中国駐在公使、一九〇六年に帰国して余生を過ごしたという。この人物が明治維新の裏側で果たした役割は大きいのではないか。第一級の歴史資料だと思う。

2010年4月3日 一外交官のみた明治維新(上) アーネスト・サトウ ***

1862-1882年の20年間日本に滞在、日本語も堪能になり英国公使たちの通訳となってサトウ、後に日本人の妻を娶って子ももうけた。1862年からは横浜に滞在、外国人居留地に住んだ。その頃の政情は尊皇攘夷の嵐の中、外国人だというだけで切ってしまう、という輩が横行する状況だった。リチャードソンは島津の大名行列に乗馬のままで通りがかり切られて大問題になった、これが生麦事件。薩摩藩には賠償金請求をしている。その後鹿児島、下関で薩長両藩と砲撃による戦争をしているが、その後イギリスは薩長と組み、フランスは幕府とくんだのは有名な話。大阪訪問はミットフォードの日記と時期は重複、しかし、サトウの日記の方が詳細な記述が多く細かいことがよくわかる。陸路大阪から江戸まで旅行した様子もかかれていて、この時になると、東海道沿いの旅籠の人たちが外国人の扱いにもなれてきている様子がわかる。また、サトウが当初は日本人の考え方にとまどいながら、徐々に日本人を理解し好意を抱いてきていることも分かる。ここまでが上巻である。
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
一外交官の見た明治維新 下  岩波文庫 青 425-2

2010年4月1日 風よ雲よ(上) 陳舜臣 ***

17世紀の中国は明朝末期、マカオで日本人で大阪夏の陣で敗れて国外に逃れていた安福虎之助は国姓爺鄭成功の父である鄭芝竜と出会った。虎之助は豊臣家の武士中橋鉄之進に、豊臣の遺児である宣吉を探し出して欲しいと遺言されそれを生きがいにする。二人は明と日本を行き来しながら力を蓄えていく。
風よ雲よ〈上巻〉 (中公文庫)

2010年3月28日 ザビエルの見た日本 ピーター・ミルワード ***

1549年に日本にきてキリスト教の布教活動をした最初の西洋人、と習った。ザビエルはイエズス会や友人たちに手紙を書いている、それを紹介しているのが第一部。著者がザビエルの手紙などをもとに解説、それが第二部。

インドでキリスト教の布教をしていたザビエルは、ポルトガルへ帰る商人から日本という国のことを耳にした。アンジロウという日本人が、日本でもキリスト教に改宗する機が熟していると語った。ザビエルは、日本に向かう決心をする。

以下、ザビエルの手紙。「その国は日本と呼ばれていて、イエス・キリストの教えを広める上でインドより発展しそうなところだそうです。なぜかというと、日本人はどの国民より知識に飢えているからです。」「他の日本人がアンジロウと同様に知識に飢えているとすれば、日本人はほかのどの国民にもまして優れています。」「日本人に会ったことのある人びとがそろって同意するのは、彼らが並々ならぬ知識欲を持っている国民だということです。私は経験によって日本人に何を学ぶことが出来るかをいずれお話ししましょう。」

「まず第一に、この国の人々は、私の知る過去のいかなる国の人々より優れていることです。彼らは親しみやすく、善良で、悪意がありません。他の何ものよりも"名誉"を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も庶民も、貧しいことを不名誉とは思っていません。」「この国は土地が肥えていないので、豊かな暮らしはできません。しかし、家畜
を殺したり、食べたりせず、時々魚を食べ、少量の米と麦を食べています。彼らが食べる野菜は豊富で、幾種類かの果物もあります。」

「この地の人々は不思議なほど健康で、老人も沢山います。たとえ満足ではないとしても、自然のままに、わずかな食物でも生きていけるということが、日本人の生活を見ていると、よく分かります。」

また次のような記述もありますが、僧侶が自堕落な生活を送っているとの記述もあります。「日本にはボンズ(坊さん)が大勢いて、彼らはその土地の人達から、大変尊敬されています。彼らボンズは、厳しい禁欲生活をし、決して肉や魚を食べず、野菜と米だけを食べ、一日一度の食事はきわめて規律正しく、酒は飲みません。」

1551年、二年間の滞在を経てザビエルは日本を去り、思い出を語る。
「日本人はどの国民より何事でも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話は全くきりがありません。彼らは地球が円いことを知らず、また、太陽と星の動きについても何も知りませんでした。ですから彼らが私たちに質問し、私たちが彗星や雨の原因について説明すると、彼らは私たちの話に夢中になって楽しそうに聞き入り、私たちをたいへん偉い学者だと思って心から尊敬しました。私たちはすぐれた知識を持っていると思われたために、彼らの心に教えの種をまく道を開くことが出来ました。」

翻って現代の日本、キリスト教は全国にあるが韓国のような拡大はない。同じような儒教的価値観を持っていると思えるのになぜだろうかと思う。ザビエルが苦労したのは、『「亡くなった子供や両親、親類などが悲しい運命に合い、永遠に不幸になった彼らを地獄から救うことはできないのか」という問いに、「その道も希望もない」と答えなければならないとき、日本人たちの悲しみは信じられないほど大きいのです。』というくだりである。祖先を敬いたい日本人にこの考え方は受け入れがたいのだろうか。

私は、先祖を敬う、年寄りを尊敬する、両親に感謝する、子供を大切にする、家族は大切だ、こうしたことは教えではなく本能だと感じるのだが、誰かに習ったからこう考えているのだろうか。倫理観は身近なところから芽生えて近所、知り合い、社会、国、世界へと広がっていくものである。身近な教えが倫理観の土台だとすると、日本人には合う、合わない、両方の考え方があろうというものである。
ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

2010年3月25日 『坊ちゃん』と日露戦争 古川愛哲 ****

日清日露戦争時代の日本の時代背景を夏目漱石、正岡子規、秋山真之という「坂の上の雲」の主人公たちを基軸に解説してみたような時代解説書である。

まずはタイトルにある坊ちゃんが象徴するのは薩長藩閥政治への批判であった、という話。明治維新では幕府側であり、明治以降は浮かばれない元松山藩士の「うらなり」のフィアンセがマドンナ、それを横取りしようとするのが帝大出で威張り腐っている「薩長」の象徴である「赤シャツ」、画学の「野だいこ」は江戸っ子のくせに薩長に媚びを売る唾棄すべき輩、会津人の「山嵐」は最後には坊ちゃんと共謀して赤シャツに一泡吹かせようとして坊ちゃんとともに左遷される。これは戊辰戦争の再燃小説なのだ、というお話。

日露戦争における捕虜の数、ロシア側は79000余り、日本は2000名だという、この差はあまりに大きい、なぜか。日露戦争時には虜囚の辱めを受けず、という軍人への教えはなかった、とされるがそうではなかったという。

明治初期の小学校で明治政府が教えたかったのは軍事教練だった、という話もある。英仏の軍隊をみると立派に整列を崩さない行進をする、かたや日本の兵隊たちは整列や行進ということを全くわかっておらず、軍隊が弱体だ、という課題を小学校における教練から鍛えようとした、というのが著者の指摘。

日清戦争は当初、日本が勝てないと欧州では予想されていたが勝てた理由、それは海軍の軍艦が軽量機敏で大砲の大きさで劣っていたのを機動力でカバー、海軍での機動力の重要性をはっきりさせたという。陸軍では清国の軍隊の方が田舎の百姓の寄せ集めであり、訓練も十分されずに戦地に赴いていたため、という。

そのほか、ニコライ二世は日本嫌いで日本人を馬鹿にしていた、というのが定説であるが、ニコライ二世の日記によればさにあらず、日本人嫌いではなかった。日露戦争の戦史は後世の軍隊によってまずい部分は削除、良い部分だけが残されたので戦史としての価値が低い、というはなしなどなど、日清日露戦争にまつわる雑学、ともいえる内容。「坂の上の雲」をよりおもしろく読むための参考書、という位置づけだ。
『坊っちゃん』と日露戦争 もうひとつの『坂の上の雲』 (徳間文庫)

2010年3月22日 国民の歴史(下) 西尾幹二 **

ポルトガルとスペインの間で交わされた世界をに分割するというトルデシリャス条約、秀吉の朝鮮出兵から太平洋戦後の話まで、歴史上に散らばるトピックスにコメントを加えている。Godを神と訳した過ち、鎖国の歴史上の取り扱い、万国公法における一等国の定義、ここまではなるほど、と思うところもあった。明治維新以降は著者の思い入れが強く、読んでも頭に入ってこない。こういう人もいるのだ、という本。
決定版 国民の歴史〈下〉 (文春文庫)

2010年3月21日 十面埋伏(下) 張平 ***

刑務所、警察、地区委員会、財界、村の重鎮などを巻き込んだ犯罪を刑務所員と警察の心ある人たちが命を張って摘発、犯罪を阻止するお話なのだが、中国の現代の官僚組織の腐敗、地方の貧困、公共機関の賄賂の横行、親類・閨閥・派閥・親分子分の世界を余すところなく描いた小説ともいえる。

登場人物は多いので名前を覚えるのには苦労する、というか覚えられないので、正義にあふれた側なのか悪漢なのか、で覚えて読むことにした。正義の側から書かれた小説なので、その方がわかりやすいと思ったからだ。中国での党や行政の腐敗はいうまでもない大問題、その中国社会の病巣をある事件を追及することで克明にえぐり出している。昔からある中国の黒社会と共産党の地方組織が、癒着している実態が経済発展のかげで国の財産の私物化を助長している。共産党の幹部や家族は、金をしこたま儲けて資産家になっているというのは知られた話。そうした実態を地方に小説の筋書きを移すこ とで発売禁止を免れながら暴こうとしているのだと思う。
十面埋伏〈下〉
十面埋伏〈上〉

2010年3月19日 梅原猛の授業 道徳  梅原猛 ****

戦後の教育に道徳がなくなり多くの問題が発生しているのではないかと、洛南高校の仏教の授業に続いて行った半年間の道徳の授業録。

今の時代にも残る道徳心は江戸時代の教育の名残であり、このままでは廃れてしまうという危機感がある。決して日の丸・君が代の教育を復活させろというのではない。仁義礼智信という五徳の教え、この意味と実践を子供たちに伝えたい、という気持ちである。天皇が神だ、というのは現人神である、という解釈と、本当に神様なのだ、という話では大きな違いがある。国のために最後は死ぬ覚悟で奉公しなさい、というのが教育勅語であった。こうした教えをするための道徳教育であってはいけない。

そもそも、道徳は動物の親子の愛情に宿っている。自利利他の心は母が子供を思う心がもっとも原始的な形であるという。仏教もキリスト教も自利利他の精神であることには変わらないが、仏教が人間も自然の一部であり、自然の一部である動物たちはできれば殺さない、不要な殺生はしない、というのが教えである。キリスト教は人間とその他の自然と位置づけて、人間は自然が与える環境や困難を克服しなければならないとしている。

エマニュエル・カントは「永久平和論」で、国民一人一人がしっかりとした自由と人格を確立し、そうした人々が国を形成する共和制をとらねばならない、としている。国民は選挙で代表を選び政治を行う、こうした共和制で初めて立派な人格者が政治を行う仕組みができる。さらに、そうしてできた国同士が協力できる連合体を形成することが必要になる。こうした国同士の意思統一をする機関がもてることで初めて永久平和が実現できる、という論である。個人が持つ道徳観を代表者に集中させて、その代表者が政治的決定を行うことで国としての道徳の実践を行うということであろう。これが本当に実現できれば戦争は起きないのであろう。

人間はこうした道徳の実践が本当にできるのであろうか。日本は江戸末期に開国を列強諸国に迫られてやむなく開国、明治維新後、富国強兵と殖産興業で経済発展を目指し、日清日露戦争と第一次世界大戦で領土を得た。しかし、日本も列強諸国からの圧力を受けての選択であったとはいえ、植民地拡大政策は植民地となった人々から搾取し、略奪する非道徳政治であったのではないか。戦後の経済成長もバブル崩壊から15年を経たいまはリーマンショックで萎んでしまった。強欲資本主義の限界を示しているのではないか、これも道徳心の欠如からきているのかもしれない。道徳心を持った代表が政治や企業経営をしているのか、エマニュエル・カントが唱える永久平和論は単なる理想論なのであろうか。第三の開国を迎えるといわれる今、第一、第二の開国で失敗した反省を生かすべき時ではないだろうか。
梅原猛の授業 道徳 (朝日文庫 う 10-3)

2010年3月19日 花妖譚 司馬遼太郎 ***

司馬遼太郎が福田定一時代に書いていた短編を「花」を切り口に集めた短編集。自分に恋したナルキソスは水仙、播磨は三木城に立てこもった別所長治はチューリップ、黒いボタンの蒲松齢、芥子の花を虞美人草と呼んだ話、沈丁花の匂いに惚れた子青、役小角の睡蓮、北朝のスパイだった菊の典侍、催眠術で病を治した塩売長治郎の花椿、無敵のアブル・アリ、10日間で1万キロを走った男の話、蒙古桜。すべて未生流家元の発行する雑誌への連載であったという、粋な短編集である。
花妖譚 (文春文庫)

2010年3月18日 イザベラバードの「日本奥地紀行」を読む 宮本常一 ****

こういうポイントが目の付け所だ、という解説書であり、イザベラバードの日本紀行を読んだ後に読むととても参考になる。

地名:小笠原諸島はボナン諸島と呼ばれていた。小笠原貞頼がそのことを言っていたことが人々に伝わり、ペリーが航海日誌に「Ogasawara」と記入した、このおかげで日本の領土と認められた。偶然が生んだ日本領土だった。バードが巡った東京湾岸の地名がレセプション湾、ペリー島、ウェブスター島など、どこの国だか分からない、これは日本がアメリカの属国になっていればそうなっただろう、という話。

着るモノ:日本の東日本では男は夏はほとんど裸、入れ墨をして、紺色のほおかむりをしていた。西日本では甚平を着ている人が多かった。アイヌには裸になる習慣がなくて、お風呂にはいるのにも男女とも裸になるのを嫌がった。日本人は混浴で裸を恥ずかしいとは思わなかった。女性が風呂にいることで混浴でも乱暴者がいても悪事をはたらかなかった、という。

関東と関西の街:京都、大阪、堺では中国の街を倣って東西南北の通りに名前を付けた。京都では大路と小路、大阪では筋と通りで地名を表せる。江戸は中世以前の地名を家康が残したので古い地名が使われ残った。そのため地名に一貫性がなく、場所の特定が番地依存になっている。さらにその番地も街の有力者の住まいを順に1番地、2番地としていったためにルールが存在しない結果となった。さらに飛び地が多く、江戸以外のヒトや外人には知らない場所に地図を頼りにたどり着くことが困難な街になってしまった。東京では荒れ地を開拓すると開拓者のモノになり、そこは山野と名付けられた。そのため山野、山谷、散谷、三谷、神谷、美谷、深谷などが多くの場所に存在する。

ゲタの音:ゲタをならして歩く、この音がバードにとっては奇っ怪な音に聞こえた。数百人がゲタを履いて歩くと、相当な音となって街に谺したという。

日本の馬:小さい馬しかいなかった。仙台にはシャムから連れてきたアラブ馬がいたらしく、大きな馬が育っていた。轡がなかったので、馬を乗馬した人間が操るすべがなかったという。バードは轡を日本に持ってきていた。先頭馬がいないと馬の集団は歩くこともしない。普通の訓練されていない馬は前の馬に従ってしか前に進まないため、訓練された先頭馬の存在が必須だった。

日本の貧しさ:大家族が多いのは貧困から来ていた。バードが調べた部落では24軒の家に307人が暮らしていたという。嫁は姑の奴隷であり、子供を産まなければ離縁された。西日本では、女性の地位が比較的高く、女性が気に入らない亭主を離縁することもあったという。

性病と漁業と津軽三味線:性病が目にはいると盲目になる。秋田の能代はハタハタ漁が盛んで栄えた街だった。そのため女郎屋もおおかったが、性病が流行り盲目の人が増えた。盲目の人たちは三味線を覚えて稼ぎを得ることになり、津軽三味線が広がったのだという。

ねぶた祭:夏になると蚤が多くて寝られなかったため、ねぶたい毎日を過ごした。それを祭にしたので秋田や弘前、黒石ではねぶた祭がある、という、本当なのか。

バードが妹に書き送る日記、という形でまとめられた日本紀行を宮本常一が解説する、というのは贅沢な本だと思う。二重に学ぶこと多し。
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)

2010年3月15日 苛立つ中国 富坂聡 ***

中国でみられる反日運動の根底には何があるのか、それを2003−2005年に起こった半日の動きの裏側から描いたドキュメンタリー。サッカーアジアカップ決勝での騒動、西北大学での日本人留学生による寸劇から発生した日本人攻撃、尖閣列島に強制上陸した七勇士の話、香港メディアによる反日キャンペーン、日本首相による靖国神社訪問こうした動きからいつも発生する反日運動の本質は、人民の政府への反発であるという。もちろん反日感情はあり、大問題なのだが中国政府にとっての本当の大問題は、今までの共産党一党支配にたいする人民による反発なのだと指摘。誰があおっているのかは実際にはわからないとしながらも、一度騒動が起きてしまえば政府もこれを抑えられない。事前に押さえ込むこと、これが反日のパワーを反政府に向かわしているともいう。中国と日本は隣国、反目の連続からは良いことは生まれない。今後、中国では公害問題が必ず現れ、日本企業はその矢面に立つだろうと予想、そのときでも日本は逃げることなく、中国に民主的なプロセスと表現の自由を保障し、人権の保護が重要だと示すことが重要だという。中国は未熟な国なのか、ここまで面倒を見なければ発展できない人たちなのか、それは私にはわからない。
苛立つ中国 (文春文庫)

2010年3月14日 十面埋伏(上) 張平 ***

刑務所に収監されている王国炎は死刑囚だったのだが、なぜか懲役15年に減刑された。不審に思った刑務所捜査官の羅維民は調査を始めたが、刑務所内の上司や、複雑に入り組む党の組織と警察組織とのつばぜり合いが展開される。羅はかつての同僚魏徳華に相談、魏は上司である警察の地区公安本部長である何波に相談、かくして警察組織と刑務所組織との戦いに発展する。コネと裏切りで大変な組織間抗争があることを描写しているのだが、どこまでがフィクションなのか、手に汗握る。何波が公安地区本部長を解任されるという事態に発展、ここまでが上巻である。
十面埋伏〈上〉
十面埋伏〈下〉

2010年3月14日 イザベラバードの日本紀行(下) *****

実に考えさせられる書き物に出会った、という感想だ。上巻は1878年6月から9月、横浜に船で上陸、東京での滞在を経て、日光から会津、新潟へ抜け、今度は日本海側から青森にまで至った。下巻では蝦夷(北海道)の地をを旅して、主にアイヌの人たちと交流をしている。その際、連れは通訳の日本人伊藤という男性1名のみであった。船で東京に戻ったバードは、その年の10月から神戸、京都、伊勢、大阪を旅行、特に奈良から伊勢にかけてはギューリック婦人と二人で訪ねている。

北海道でのアイヌ訪問では美しい山野の景色とともにアイヌの人たちの貧しき中にも宿る訪問者への暖かい心遣いを述べている。同時に日本人がアイヌを差別する様子も率直に記述している。この当時にはまだまだ多くのアイヌ人たちが集落を形成して自然の中で暮らしていたことがわかる。アイヌの特徴として、男性は身長163−169センチ、女性はおしなべて154センチ以下である。脳の平均重量は1300gでインドにいるすべての種族より重く、シャム人や中国系ビルマ人並であるといい、しかしとても鈍い人たちでもあると解説している。アイヌの信仰は原始的な自然宗教であるが、義経信仰が残っており、義経がアイヌに示した優しさなどの先祖からの言い伝えは文字がなくても何百年も伝わることを示している。

函館に滞在するバードの元にも東京で起こった兵隊による暴動、「竹橋事件」が伝わりすでにニュースが迅速に地方まで伝わっていたこともわかる。天皇は来年3月に選挙を行うことを宣言、アジアの小国が専制政府からの脱皮を行おうとしていることをバードは評価している。岩倉具視、三条実美、寺島宗則らが外国の非協力的な支援にもかかわらずなんとか新政府運営を軌道に乗せようとしていることにも一定の評価をしているのだ。その理由として、ピンハネや一部役人たちのつく嘘を指摘しながらも、自分自身が実証して見せているこの国の安全さと人々の勤勉さ、人々が見せる幸福の表情、女性の地位が低くないこと、教育熱心であること、医療、郵便、徴税の仕組みがうまく機能し始めていることなどをあげている。そして弱点は官僚の無駄、働きの悪さ、日本人による自営を意識しすぎた外国資本への忌避感、高級な欧州製品をただ輸入して、その使い方を教育しないことによる無駄を指摘している。しかし、バードの結論は、この国は奴隷の国から脱して自由土地所有の国を作り上げている、ということだ。

京都ではすばらしい芸術や浄土真宗の最高指導者赤松氏と話をする機会を得、文化レベルの高さと主に、仏教の没落の実態を知る。赤松氏は日本に根ざしていた儒教の哲学がイギリス哲学に取って代わられようとしていることの弊害をバードに主張している。バードは赤松氏の主張を「あり得ない輪廻思想に基づく虚言」と受け取ったようだ。

最後の章で1880年時点の「日本の現況」をまとめているので興味深い。首相の三条実美の年収は1920ポンド、長官が1440、副長官が960ポンドとしている。警視総監の月収は60ポンド、警部は3−12ポンドであるとしている。年収にするとそれぞれ720ポンドと36−144ポンドとなる。為替レートは分からないが警部の年収を仮に360−1440万円に相当するとすれば、警視総監は7200万円、首相は2億円弱となる。前島密が整備した郵便事業については年間5577万通が郵便で送られ、盗まれたのがわずか221通、行方不明が135通だったという。この他にも、電信、教育、軍隊、造幣、新聞、警察と司法などについて解説、いずれにしても明治維新から13年でここまでの進歩をしていることを高く評価してる。

そして最後に、当時の文部大臣代理田中不二麿によるレポートを紹介しながら、日本の将来に向けての懸念事項を述べている。教育において「倫理」が教えられていないこと、そして西洋の技術や文化、考え方を受け入れる素地のない人々にも強制していることが懸念事項だという。日本の東北地方や蝦夷の地を自分の足で回ってバードが体験し知ったことは、東京や大阪などの都会とあまりにもかけ離れた日本の地方の文化的遅れである。日本全国を一律の教育を行うことによる、上辺だけの外国文化理解や知ったかぶりの危険性を指摘しているのだ。もう一つは江戸時代に大名が庶民に借金した証文を新政府が返済しなければならないこと、このために国債を発行していうことにも言及している。大隈重信が財政改革を試みており、『財政学の教科書』シュタイン卿のアドバイスを入れず、1905年までにプライマリーバランスをゼロにする計画であることを紹介、それが成功するかもしれないことも示唆しているが、危うい計画であることも指摘している。

最後に、彼女は言う。「日本の将来にかかる暗い影は、キリスト教の果実を、それが育った木を移植することなしに獲得しようとしていることに根ざしている。仏教が廃れ、儒教の道徳の教えも一部の特権階級であった武士の階級にとどまっているこの国では、国民の不道徳、嘘と姦淫を高潔と立派な精神に置き換えることで初めて日出づる国になり、東アジアの光明になれると考える」

現代の日本では「第三の開国」を唱える主張があるが、第三の失敗を主張しようとしているように思えてならない。第一の開国は江戸時代の終焉であり明治維新であった。そこでは中国がアヘン戦争で骨抜きにされ、列強諸国にいいように植民地されるのをみた武士階級が幕府体制をひっくり返して開国を実現した。殖産興業、富国強兵で坂の上の雲を見た明治日本人の夢は日清日露戦争の勝利、第一次世界大戦後の領土拡大で達成できたかに見えたが、科学的分析力欠如と帝国主義的欲望により敗戦、第二の開国を占領により強制されることになった。戦後の経済発展は経済至上主義ともいわれ、働き蜂とも揶揄されながらも日本を世界第二の経済力を持つ国に持ち上げたが、バブル崩壊、リーマンショックを経て「第三の開国」を迎えようとしているというのだ。その主張は「グローバル化に適合しないと国際的競争力を失う」というもの。

バードが指摘する当時の日本の問題点の多くが現在日本にも当てはまるような気がしてならない。多大な政府による国民への借金、経済発展至上主義、欧米の良い技術だけを取り入れて日本人だけでうまく運営しようとする考え方(海外進出するときにも現地法人のトップは日本人)、倫理道徳教育の欠如、アジアの人たちへの差別的考え方などである。今日は六本木の新国立美術館でルノワール展をみながら、バードの同時代の欧州人であるルノワールの描くフランス人の当時の暮らしを見て考えながら、同時期に日本で起きていたことに思いをはせていた。バードが今の日本をみたらどう言うだろうかと。
イザベラ・バードの日本紀行 (下) (講談社学術文庫 1872)
イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)
イザベラ・バードを歩く―『日本奥地紀行』130年後の記憶

2010年3月10日 イザベラバードの日本紀行(上) *****

1878年の明治維新直後の日本東北から蝦夷の地を47歳の英国人女性が日本人通訳一人を連れて旅行した旅行記である。一言で言うと「感動した」。

英国大使パークスが横浜にいる頃、船で横浜に上陸したバードは、東京で日本に滞在する欧米諸国の外交官や技師達そして日本人の政治家達と出会った。アーネスト・サトウとは会っているようだが、ミットフォードと会ったという記述はない。事前にスタディはしてきたのだろうが、その時の日本が置かれた明治維新直後の位置づけを認識、大都会東京での文明開化と殖産興業の動きを実感した。そして日光から東北への陸路での旅に出たのである。日光では「金谷」という主人の家に宿泊する。後に日光金谷ホテルをたてることになる人物に違いない。そこでは日光東照宮や華厳の滝など「日光に行かずして結構というなかれ」という言葉を体験する。ここから先の旅は外国人には初めての旅程であり、ほとんど旅情報がない中での6ー8月の行程であった。バードは率直な語り口で、日光以降の日本における田舎の農村の貧しさを描く。「男性はふんどし一つ、女性は腰に巻いた布きれだけであり、上半身裸である。田んぼや畑には雑草がなく、見事に手入れされているが、おしなべて農民達の暮らしは極めて貧しい。皮膚病や痘瘡にかかっている人が多く、清潔という公衆衛生概念がないために感染症に罹患している者も多い。しかし、子供は常に大切にされ、貧富の差なく読み書きの教育が施されている。人々は平気でウソをつくが、親切で素朴な人たちである。仏教は廃れ、古来の神道を人々が信じているわけではない、信仰は実質的にはない。しかし誰もがお守りを身につけているのは事実であり、迷信やお化け、祟りの存在をまじめに信じている。

日本民家にいる蚤、虻、蚊、その他人を刺す虫についての記述も多い。普通の宿屋ではさすがになかったようではあるが、町を外れた宿場町では、畳の端から蚤が何百匹も飛び出てきた、と書いている。粕壁では井戸の水に当たって具合を悪くした話があったが、その後、英国領事婦人が同じ粕壁の井戸水に当たって亡くなった、との解説もある。やはり、明治維新後でも田舎での公衆衛生概念は低レベルであり、眼病や皮膚病を患う特に子供たちが、虫刺されの後を手で掻くことで傷口から化膿して手に負えない状況になっている、という記述もある。民間レベルの衛生知識欠如であるが、読み書きそろばんは教えても、こうした常識を教えていなかったのだ。

バードは、客観的な観察眼で不衛生さや不気味な習慣を解説しながらも、日本の純朴で心正しい、しかし不信心さらに自らに問うている。わが主である救世主キリストは全世界の民のために救済を施すのではないのかと。こうした純真無垢で単純素朴なやさしい心を持った人々が徳と不徳を気づかぬうちになしていること、神の右手はこの地の異教徒には及ばないのか、と。バードがこうした決して楽しいばかりとは言えず、相当つらい目にまであって旅行を続けるモティべーションはどこから来ているのであろうか。東京、京都、大阪、長崎あたりを見て富士山や箱根、日光くらいを観光して帰れば、大変な日本通になって帰れたであろうに、東北の日本人でさえも行かないような会津や越後、奥羽の山中の村や町に宿泊した理由は何なのであろうか。上巻は蝦夷の地を踏むところで終わっている。
イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)
イザベラ・バードの日本紀行 (下) (講談社学術文庫 1872)

2010年3月7日 神々の指紋(下) グラハム・ハンコック ***

南極の地図から始まった世界に残った遺跡の検証はエジプトピラミッド群まで到達した。ピラミッドにも大いなる土木技術が使われたと思われるギザのピラミッド、スフィンクスとそうでもないものが、人類の進歩とは逆の順序で残っている。紀元前1万450年という年に過去のピラミッド建築をした人たちが未来の人に伝えたかったメッセージが込められているという。

いくつかの根拠を羅列する。
1.スフィンクスは1万ー1万5000年前に建設されたと思われる。
2.ギザのピラミッドはオリオン座の3つの星の位置を地上に表したもの。
3.エジプトのピラミッド群の近郊からは紀元前4000年頃と思われる12隻の外洋船が見つかっており、当時すでに外洋を航海する技術があったと思われる。
4.ギザのピラミッドを建設した人たちは地球の軸の傾きにより12の星座位置が変化し、2万6000年かけて一回りすることを知っていた。

一つの石の重さが200トンにもなるピラミッドを作り上げる技術は現代でもない。それを今のような高さに積み上げるためには経済力、王の支配継続力に加えて、途方もない建築技術が必要であり、正確な東西南北、52度という傾斜角、オリオン座をかたどった位置などの科学技術は今までわかっている歴史事実からは大きくはずれる。これは1万5000ー9000年前に終わったといわれる氷河期の期間に起こったのは氷の氷解だけではない地球変動があったのではないかという。

分かっていないことはたくさんあるということか。
神々の指紋 (下) (小学館文庫)
神々の指紋 (上) (小学館文庫)

2010年3月6日 空海の風景(下) 司馬遼太郎 ****

司馬遼太郎は空海を次のようにいっている。「空海以前にも空海以降にも日本に思想家、仏家は多いが、日本におけるその生きた時代の日本的条件における人物であり、空海だけが人類的普遍的時代を超越した存在である。空海の存在は、この国の社会と歴史の中で、よほど珍奇なものであったことがわかる」と。空海は「朝廷も天皇も所詮は日本という小さな国の中での存在であり、空海が会得した人類共通の原理の前には王も民もなく、天竺にいようが、長安にうが真理は一つであると。遣唐使のメンバーとして長安に滞在し、当地随一の僧である恵果から密教の秘伝と曼陀羅を授かってきた。恵果には1000人を超える弟子がすでにいたのだが、その弟子たちよりも空海に密教の奥義を恵果は伝えることにしたというのだ。恵果は空海に奥義を伝えた後に死んでる。死を前にして日本からきた天才僧空海を見いだし、その天才に感激して急いで密教の秘伝を伝えたという。恵果の師は西域からきた不空であり、仏教という宗教は非常に国際感覚あふれる伝道をしていることが分かる。恵果にとってみれば、この教えを日本にいる人々に伝えてほしい、よろしく頼むということだったのかもしれないが、それにしても空海の能力は高く買われたものである。

空海の風景、というタイトルである。中身は人物伝のような小説でもあり、書き物や歴史書が限られた時代の人物が対象であるので、筆者の作り出した部分も多いのだろう。空海がみたかもしれない風景を、生まれた場所である讃岐から、修行で歩いた室戸岬、高野山、京都の高雄山寺などを筆者も巡り歩いて見た。空海には空白の時代が多く、その空白の時にはどこにいて何を考えていたのか、それを筆者は想像して書いている。遣唐使から帰国して、筑紫野に1年以上とどまり、すぐには京都に戻らなかった、それはなぜか。空海は先に帰っていた最澄の天台密教が時の天皇に高く評価されるのを伝え聞いて、それは本物ではないと思ったのだろうという。しかし、今すぐに京都に行くことをしていない。時間をかけて、自分が持ち帰った真言密教こそが本物でることが、最澄にはわかるはず、と持ち帰った経文の目録を朝廷には送って反応を見ていたのだという。実際、後に空海が京都高雄山寺入った際には、最澄は空海に経文を借りて写経をしている。最澄こそが空海が持ち帰った真言密教の価値を知っていたのだ。数年のあいだ、最澄は空海と手紙のやりとりをし、空海からの教えを請うたという。空海はしかし、数年後最澄に縁切りを意味する手紙を書く。写経、経文を読んでも密教を学ぶことはできない、という理由からである。

空海は、東大寺別当に若くして任ぜられ、東寺の建立、綜芸種智院の設立をしている。最後は高野山で死ぬのだが、帰国後に残した建築物、曼陀羅、著作物、そして仏教を日本の統治の仕組みに取り込んだことは偉大な事業であったという。空海の見た風景を、その後の日本人で見たものはいなかった、という気がする。
空海の風景〈下〉 (中公文庫)
空海の風景〈上〉 (中公文庫)
『空海の風景』を旅する (中公文庫)

2010年3月3日 梅原猛の授業 仏教  梅原猛 ****

梅原猛が2001年に孫も通う京都の洛南中学校3年生を相手に授業をしたときの授業録。洛南中学は東寺の隣にたつ仏教(真言宗)の学校。空海の綜藝種智院が設立された場所にたつ。難しい宗教という内容を優しく中学三年生にでも分かるように語る。なぜ宗教は必要なのか、文明が発達するには宗教が必要だったことは歴史が証明していることを説明する。そして仏教とキリスト教、イスラム教の違いの一つが聖者の死に方であるという。イエスキリストやマホメットは殺害されるが釈迦は天命を全うする。戦いと対立の教えではなく和と自然との共存の教えであるのが仏教であると。東南アジアに広く伝わる仏教は自分のための小乗仏教だが、日本の仏教はすべての人のための大乗仏教だという。そして仏教の教えは平等、自由な知恵、慈悲であり、仏教の「空」を実践しているのがイチローだという。仏教は道徳を教えるが、道徳さえあれば仏教がいらないわけではなく、仏教とは道徳を維持継続していく仕組みであるという。

日本の律令制を定めた聖徳太子は仏教をその中心の教えとして17条憲法に取り込み、国民に説いた。行基には著書はないのですが遊行僧として広く国民に仏教の教えを説いて回った。最澄は聖徳太子の教えと中国から持ち帰った密教の教えを天台宗として打ち立てた。これらのこの根本はすべて法華教であり、その教えは日蓮に引き継がれ、創価学会や立正校正会もこの流れであり、日本仏教の柱である。空海は真言密教をもたらし、東寺と高野山を根拠地とし、嵯峨天皇に寵愛された。浄土教を開いたのは比叡山にいた源信、その弟子の弟子である法然、その弟子が親鸞、その弟子が蓮如で浄土宗、浄土真宗という日本で一番広まった教えにつながる。

ハンチントンの「文明の衝突」によると現代は文明の衝突の時代である。世界にはユーラシア大陸に6つ、アメリカ大陸に一つ、アフリカ大陸に一つ、合計8つの文明があるという。西欧文明にはヨーロッパと北米が含まれ科学技術主上主義であるキリスト教文明を形成する。もう一つは東欧・ロシア文明でビザンチンとロシア正教を背景に持つ。アラブ世界には一神教であるイスラム教による文明がある。これが現在一番勢力を伸ばしており、他の宗教を認めないのでバーミヤンの遺跡なども簡単に壊してしまう。そしてインド、ここはバラモン教を源にする多神教であるヒンズー教の文明。中国では仏教は廃れ儒教国と言える。そしてハンチントンは日本を一つの独立した文明だと言っている。その背景は仏教と神道が混淆した神仏習合の文明だという。特にキリスト教徒イスラーム教、ユダヤ教はお互いに排他的であり、衝突は避けられないのかもしれない。仏教は和と調和を目指す。キリスト教やイスラム教は人間中心であり、自然は支配しコントロールすべきもの、仏教では人間は自然の一部分であり共存すべきものである。グローバリズムという資本主義の支配に流されてはいけない、世界は多を含むことによって素晴らしいことを知るべきである、と主張する。一木一草が人間の中にある、つまり自然や地球と人間は一体である。福岡伸一さんの「動的平衡」の考え方に通ずる。強者が弱者を管理するという考えには与したくない、というのが梅原さんの思想である。
梅原猛の授業 仏教 (朝日文庫)

2010年3月1日 江戸の芸者 陳奮館主人 ***

1948年に喜多壮一郎さんという政治家により書かれたエッセイ、というか江戸文化を芸者という文化の切り口からかかれた研究書、ともいうべき書き物。江戸時代の中でも安永・天明の頃から寛政、文化文政、天保と時代をふるごとにどう変わっていったかを解説する。芸者の前進は踊り子だというが、男芸者というのもいた、こちらは若衆であり男色の対象であったともいう。吉原と深川、その他の岡場所との違い、江戸と京都の芸者、芸妓の違い、結髪、簪と髪飾り、髪油、川柳、狂歌などもうこれは通人を通り越した学者の研究ともいえる。戦中から戦後にかけてはこのような政治家もいたのだということ、驚きだ。
江戸の芸者 (中公文庫BIBLIO)

今までのコンテンツ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Copyright (C) YRRC 2009 All Rights Reserved.