読書日記(2010年1月−2月)

2010年2月27日 神々の指紋(上) グラハム・ハンコック ***

16世紀に作製された地図にそのころには分かっていなかったはずの南極大陸の海岸線と川の存在が正確に描かれているのはなぜか。ここから話はときおこされる。次には有名なペルーはナスカの地上絵、マチュピチュの遺跡で示されている技術は果たしてそのときの人たち固有の技術だったのだろうかという疑問である。ペルーのクスコはインカ帝国の首都、そこには次のような神話が伝わっている。「ピラコチャと呼ばれる背の高いあごひげを蓄えてマントを着た白人が南から現れ、建築、彫刻、土木、医学、農業、冶金学、家畜学、文章術などの技術を伝えたと」いうのだ。これはアンデスに住む数多くの民族の間で伝えられる共通の伝承であり、ワラコチャ、コン、コンティチ、コンチキ、ヌスパなどの名前のバリエーションがあるがストーリーは同じだという。こうした遺跡は南米から中米にかけて存在し、メキシコにも有名なピラミッドがある。こうしたピラミッドを調べると、これらを建設した人が円周率を知っていたのは確実だということがわかった。高さと周囲の長さが2πもしくは4πのなっていて、ピラミッドは地球の北半球を示すのだそうだ。

多くの国々で伝わる神話に「ノアの箱船」伝説がある。大洪水で地上の生き物が死んでしまうという話だ。人類は数百万年間まえに誕生したといわれるが、その間4回の氷河期を生き抜いてきたといわれている。その最後の氷河期は15000−9000年前だと推定されている。大氷河期の後にその氷が溶けて下がっていた水位が上昇したはずなのだが、どのくらいの速度で上昇したのだろうか。この氷河期は地軸の傾きの揺れ、火山大爆発、大隕石などの原因が考えられており、氷河期の前にそのような出来事が起きて、当時の地球上の生物は大打撃を受けた、人類も相当数の人口を失ったと思われる。その15000年ころの人類には文明と呼ばれるものはなかったのだろうか。また、氷河期が終わったときに急に文明が広がったのだろうか、という疑問であり、先のあごひげを生やした白人の伝説とエジプトやマヤなどにおける急速な高度文明の広がりとはなにか関係があるのではないだろうか、という仮説である。地軸の傾きの変動は予測可能であり、それにより次にくる氷河期の時期はある程度予測できるという。

ここまでが上巻である。
神々の指紋 (上) (小学館文庫)
神々の指紋 (下) (小学館文庫)

2010年2月26日 地図で読む日本の歴史 **

日本史を本で読んだときに視覚化しにくいのが行ったことのない土地での出来事。白村江の戦いはどこで起こっていたのか、磐井の反乱は、平将門が勢力を握った地域はどこまでか、フランシスコザビエルが布教した道筋、信長がてこずった石山本願寺のは現在の大阪城の場所だったが今よりもっと水で囲まれていた、小田原城に立てこもる北条氏を22万の秀吉の大群はどのように取り囲んでいたか、大阪冬の陣のころには石山本願寺跡はどのように変化していたか、ペリー来航時の航跡、会津戦争の時の政府軍進軍経路、岩倉具視遣欧使節団の旅程、などである。歴史は地図で視覚化すればさらに頭に描きやすくなるのは確か、もっと大きい地図で詳しく知りたい。
地図で読む日本の歴史―歴史を動かした「重大事件」99 (知的生きかた文庫)

2010年2月25日 英国外交官の見た幕末維新 ミットフォード *****

1866年7月に来日し、1870年1月まで滞在した英国外交官ミットフォードの日本日記である。パークス公使の副官として滞在、当時の徳川慶喜や明治天皇、後藤象二郎、山内容堂、伊藤俊輔などと外交交渉をするとともに交流をしている。フランス語など外国語に堪能だったミットフォードは日本語も1年後には話をすることができるようになり、当時の日本語文章も読めるようになっていた、素晴らしい能力であり、日本の貴族や高官と接するときにも礼を失することなく紳士的に振る舞っている様子がうかがえる。当時入手していた太政官日誌を読んで、薩長土肥の各藩主が版籍奉還を申し出ている文書を訳出している。当然、ミットフォードは英語に訳したのだろうが、ここでは原文を読みやすくした日本語で示されている。その後越前、出雲など諸侯からの同様の申し出でがあった文面が示されている。こうした日本人でも難解な日本語文書を訳する力があったことに驚く。

また後日、”The Tales of Old Japan”という著作で、赤穂四十七士、白井権八と小紫、舌切り雀、花咲じじいなどのおとぎ話、怪談佐倉宋五郎、鍋島猫騒動、切腹、結婚、葬式などの文化についての考察などをまとめたものがある。

パークスが学歴がないたたき上げであり、同僚のアーネストサトウは日本語に堪能で頼りにはなったが、ラトビアからの移住者で庶民階級、日本の貴族達との交渉には困難があったと思うが、ミットフォードはその仲介をしていたのではないか。ミットフォードは大坂で1867年に徳川慶喜と会い、彼の先進的な考え方に感銘を受けたという。その大阪滞在では小松帯刀、木戸孝允、中井弘蔵、井上馨らとも交流していたようである。生麦事件が起きたのは1862年、その後の薩英戦争を経て、英国は日本の風習や文化を学んでいたが、当時の日本は攘夷の嵐が吹いていたときで、外国人というだけで浪人達に切られる危険が大いにあり、実際多くの外国人達が攘夷を叫ぶ浪人達に切られる事件が相次いでいた。ミットフォードとパークスも実際1868年3月に京都の天皇に謁見に向かう途中浪人に斬りつけられ、同行していた後藤象二郎達に助けられている。

また、加賀の前田公に謁見したあと、陸路越前、近江を通って大阪まで旅をしているが、その途中でも身の危険を感じる事件があり、偶然の旅程変更で事なきを得た。旧幕府体制から新政府体制に移行する実に動乱のこの時に日本外国人として滞在していた外交官の日誌は歴史的にも大変貴重な資料である。日本人が恐る恐るながらも国際的な国の位置づけを意識し、大国のイギリスとうまく付き合っていきたいという気持ちを持っていることが随所に伺え、それを感じ取ったミットフォードもそれを受け止めている。

この10年後に日本は朝鮮に開国を迫り、日朝修好条約を締結して開国させているが、その時の暴力的威圧的な対応を知ると、この当時の英国と日本の文化的政治的外交力の格段の違いを思い知らされる。現在でもそれはまだ存在しているかもしれない。1906年には英国コンノート殿下の随行員として来日し、40年の日時がどのような変化を日本にもたらしたかを知る。他の外国人も褒めそやす当時の日本の美しさをミットフォードも述べているが、40年後の日本はすっかり変わっていたようだ。開国は文明開化をもたらした。明治維新のあとの殖産興業、富国強兵で日清日露戦争に勝利し、太平洋戦争に向かっていった日本、その後の経済発展を経験した日本で、日本人は果たして幸福になったのだろうか、考えさせられる。アーネストサトウの「一外交官の見た明治維新」も読んでみたい。
英国外交官の見た幕末維新 (講談社学術文庫)
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
一外交官の見た明治維新 下  岩波文庫 青 425-2
イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)
イザベラ・バードの日本紀行 (下) (講談社学術文庫 1872)
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)
オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)

2010年2月23日 日本の歴史を読み直す(全) 網野善彦 ****

日本歴史を、文字、貨幣、被差別者、女性、天皇、日本という国号などという視点から見てみたらどうなるか、これが前半。百姓とは単純な農民ではなかった、海と文化の伝播、荘園、悪党と海賊、などの切り口から見てみたのが続編である。

文字は漢字が伝わり、平かな、カタカナの混合文が広がっていったのだが、他国に比して日本は識字率の高い国である。江戸時代後期で50-60%程度、車夫、人足、女中であってもヒマがあれば本を読んでいたと明治初期に日本を訪れた外国人が日記に記しているという。仮名交じり文が出てきたのが10世紀あたりで、13世紀には文書の2割が仮名交じり、15世紀には50-60%が仮名交じり文になってきた。カタカナの文章も多くなり、神に誓う起請文、願文、託宣記、裁判での宣命書、落書などがカタカナで書かれてきた。平仮名は女性文字といわれ、古くは枕草子、源氏物語、から13ー14世紀のとはずがたり、竹向が記など女性文学の多くは平仮名である。これが明治になるとまたカタカナが増えてくる。

貨幣では和同開珎が8世紀、その後10世紀頃までは皇朝十二銭という貨幣が造られたが、その後は作られることはなく、宋銭など中国大陸からもたらされた貨幣が流通した。この間の例外は後醍醐天皇だけだったという。そして利息の起こりは農民に種籾を貸しだし、50-100%増しで秋に返済を求めた「出挙(すいこ)」である。ここから、農民を土地に関係づけて利息、そして年貢を集める仕組みが形成されていったという。

被差別部落の起源とも言われる非人や河原者は検非違使により管理されていた。12世紀頃には祇園社の宮籠や猿楽なども検非違使による管理対象だったともいう。この時代の寺社の直属していた神人(じにん)や供御人(くごにん)も賤民とされる学説もあるが、こうした人々は神に直属する特権者であったと著者は主張する。8世紀に成立した律令国家は、土地からの逃亡者や病人、弱者などを救済するため悲田院や施薬院を設立、光明皇后の仏教への帰依から救済された、と記録されている。一方的に差別されてきたわけではなくて、国家として土地と農民以外の人々へのガバナンスをなんとか聞かせようとしてきたのではないか、という指摘である。

国家による年貢などの徴税と、仏教による精神的な救済は表裏一体となっていたかもしれない。江戸時代には確立していた士農工商エタ非人、という差別意識は12ー14世紀頃にはまだ形成されておらず、仏教や神社の行事、布教などと国家統制が絡み合って人々の差別意識は混沌としていた。こうした差別への意識には東西格差が大きく、今でも関東以北にはほとんど部落が存在しないのは、この時代からの文化の違いが影響しているかもしれない。

ポルトガル人のルイス・フロイスは、戦国時代にキリスト教の宣教師として来日、1562―1597年長崎や京都で布教、その時代の風俗などを膨大な書物にして書き残しており、当時の庶民の結婚についても述べている。フロイスの記述によると、結婚までの女性は自宅で男性の来訪を待ち、それも結婚候補は複数が一般的。男性も訪問する女性が一人だけでは不安なので、数人の女性の家を回っていたと記述している。結構開けっぴろげでおおらかな感覚だったようで、結婚は神との誓いに基づく一生の約束事だ、というキリスト教的倫理観から見たフロイスは驚いている。江戸時代には女性の庄屋はほとんど見られなかったが、それ以前には女性の荘園主や戸主もいて、女性の地位は江戸時代よりも高かったのではないかと推測できる。

天皇と日本という称号と国号が遣われ始めたのは壬申の乱以降、持統天皇以前には天皇も日本という国家認識もなかった。真言宗と天台宗が最澄と空海によりおこされる頃には天皇と仏教が国家支配権力と仕組みとして成立した。しかしその後も平将門の乱、藤原純友の乱に見られるような反乱は続いており、天皇による国家支配は安泰ではなかった。その後も後醍醐天皇の時代とその後の南北朝時代、足利義満の時代、織田信長の時代に危機を迎えたが、義満や信長の死亡で事なきを得たのだという。

百姓とは農民のことである、という思いこみが一般にも学者の間にもあるが、それは間違いだという。漁民、廻船の民、大工、鋳物師、賭博師、女郎、山の民、など様々な人たちがいて、百姓とはそうした武士以外の数多くの人たちを指し示す名前だったのではないかという指摘である。このことを前提に歴史を見直してみると、飢饉や租税徴収、荘園管理と管理対象だった百姓、海の民(海賊)や山の民(悪党なども含む)への捉え方が違ってくる。一遍上人が様々な階層の人々と関わり合ってきたことを示す絵が沢山残っているが、そうした布教活動が宗教の教えを広めるのに有効だったと言うこと、人民とは士農工商だけではなかったという主張である。

日本歴史を様々な視点から見直してみるということ、実に有益なことだと思う。
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

2010年2月20日 日本幻論 五木寛之 ****

五木寛之の講演録集である。

隠岐島が江戸末期から明治にかけて一時的に農民によるコミューンのような疑似独立が成立したときがあったという話。180にもなる島からなる隠岐は島前と島後と大きく二つに分けられて文化的にも人々の暮らしも大きく異なるという。島前には畑はなく海運と漁業で成り立ち人々は明るく社交的、島後ろには畑も田んぼもあり漁業も盛んだが気候は厳しく、人々は島前に比べると融通が利かず向学心が強い。1868年に島後の農民たちが一致団結、松江藩から派遣されている代官を追放してしまったという隠岐騒動が起こり、そのときの廃仏毀釈運動が激しく、殆どの寺と仏像が打ち壊されたという。50日ちょっとの間の独立は松江藩の軍隊に鎮圧され、さらに明治政府の管理の元におかれたという。

九州は熊本などには「カヤカベ」という隠れ念仏信仰があるという。神棚をお祀りしてあるのだがその裏には仏像があり、実は一向宗、浄土真宗を信仰しているのだといい、時の権力者に見つからないように隠れて信仰しているために隠れ念仏というのだという。体制側としては一向宗徒が一揆を起こし騒乱を招くことをおそれているために弾圧をする、それから逃れるためにはしっかり年貢は納め、表面上は神への祈りを捧げるように隠れているのだ。一向宗の教えは仏の前での平等、一向宗の特徴は団結、一向宗の思想は徳川幕府体制とは相容れないものだった。蓮如は北陸から九州にかけての信者獲得で、表面上の振る舞いと信仰を実際的に分けて生き残ることを信者に教えたという。隠れながら念仏を唱え、信仰は内心に隠せ、とうい隠れ、隠し念仏だというのだ。

蓮如の教えは民衆の目線にたったものだったという。親鸞は聖人だったが、蓮如はいまでも蓮如さんと北陸でも近畿でも呼ばれているという。教えは弥陀如来を信じること、仏の前では男女も四民も平等であるという。一時廃れていた本願寺は蓮如の時代に復活、500万人の信者を獲得したという。親鸞が生まれたといわれる日野の法界時、蓮如の墓がある山科、その地を訪れた筆者は二人の聖人を身近に感じた、教えが人々に近いものだったことを実感したという。

セイタカアワダチソウという外来種が戦後日本に持ち込まれ九州から北陸にかけてススキなどの日本種を一時は駆逐したように見えたが、最近古来種の草が盛り返しているという。文明文化でも同様のことがいえないか。欧米文化が明治維新後から太平洋戦争以降も日本を接見したが、今日本古来の生活や文化の良さが見直されている。神仏習合があり、廃仏毀釈を経ても仏教の教え、儒教の考え方はしっかりと日本人の心に根付き、仏教が日本と同じように伝わっていた韓国には1000万人近くのキリスト教徒がいるのに、日本ではキリスト教徒は100万人もいない。韓国では人口の25%がキリスト教徒になったのは受け入れる土壌があり、日本にはなかったのだろうか。日本は古来より複数の文化が複数の経路で流入してきていたため、複数の考え方を受容し消化するという文化が成立していたが、韓国では中国からの流入に絞られていた。これが日本ではこれほどにも仏教が広まった理由だという。仏教伝来は552年といわれるが、それ以前にも様々な形で仏教や道教、儒教の教えは入ってきていた。仏教は「宅配便」で日本に届けられたのではなく、人々ともに入ってきた。そうした下地がああったので、空海が仏教を日本の天皇と政治統治の仕組みとして取り入れることができた。

筆者は日本におけるジプシーのような人々の存在にもふれているが、これは興味深い。くぐつ師や博打打ち、白拍子、鋳物師、などであり、統治者からすれば税金や兵役を逃れる人間たち。こうした非・常民が日本にも沢山いたことを示唆している。差別と統治、非常民についても調べてみたい。
日本幻論 (新潮文庫)

2010年2月19日 空海の風景(上) 司馬遼太郎 ****

空海の一代記である。讃岐佐伯氏の嫡男であった空海は讃岐の地、真野池(まんのうち)に育った。15歳で奈良に学を得に旅立ち、学問を学ぶ。18歳の時に書いたのが「三教指帰」、道教、儒教、仏教を架空の登場人物に語らせ、自らは仮名乞児となり、仏教の優位性を説く。19歳で大学をやめて四国遍歴をする。奈良から阿波を通り、峻険な海沿いの浦を渉りながら室戸岬までたどり着く。ここで、洞窟に入り、天の明星が光り輝き、そのまま自分の口に入る、という啓示を受けたという。ここからの7年間は消息不明である。

そして、30歳を前にして一般の僧の立場で遣唐使の一員となり、四隻の舟で唐を目指す。第一船に空海と遣唐使の代表だった藤原葛野麻呂、橘逸勢も同船している。最澄は第二船に乗っていたという。途中時化にあって方角を見失い、第一船は今で言う福建省あたりに漂着したという。第二船は別の場所に漂着、三、四船は難破したらしい。当地での扱いは正式な国史としての扱いを受けなかった。難破寸前の船でたどり着いたため、食うや食わず、身なりも海賊とも見まがうばかり、葛野麻呂が如何に説明しても、唐の当地での責任者には倭国国史であると認められなかった。そこで葛野麻呂は空海に一筆書を請うた。空海が書いた文章を見た役人はその文章の完成度の高さと内容の高度さに驚愕した。あわてて唐の都長安に使いを出し、彼らが倭国からの正式な国史であることを確認、賓客としてのもてなしに豹変したという。葛野麻呂や橘逸勢らの空海を見る目は一変した。

長安についた空海は街の様々な場所、そこにいる異教徒や異教の寺を見て歩いたという。マニ教、ソロアスター教、景教などである。そしてそこで僧恵果と出会う。

2010年2月18日 未来を開く歴史 東アジア3国の近現代史 ***

「親日派のための弁明」は文字通り、日本びいきの目から見た近代日朝史であった。これは、中国、韓国、特に現代の韓国人から見た東アジアの日本で言う江戸末期から明治、大正、昭和時代の歴史である。歴史教科書問題で日本でも議論にはなっているが、中国や韓国で現代史がどのように教えられているのか、日本に詳しく伝えられることは稀である。日清戦争から太平洋戦争終了まで、中国の本土、特に満州の地は日本と日本陸軍に蹂躙されてきた。途中、清王朝の滅亡と辛亥革命、国民政府設立などがあり、国民政府側でも日本の力を利用するという場面もあったが、概ね日本が武力で中国国土からでる資源を収奪、人民を支配してきたことは事実である。さらに、満州事変以降は多くの中国人、一般人を殺戮してきたことも事実。中国人から見れば、遠くは稲作や青銅器技術を伝え、遣唐使や遣隋使の昔から道教、儒教、仏教を初めとした学問、宗教、などを伝えることで文明の共有と伝導をしてきた国から、近代になってたまたま先に国民国家を成立させた日本から一方的に収奪された1994-1945年の50年というのは屈辱の期間であった。

朝鮮からみると、同じように高句麗、百済、新羅の昔から百村江の戦いに勝ち、倭寇に悩まされながらも秀吉による侵略も含めて、日本とは戦って何度も日本からの侵攻を防いできた。それが李王朝の滅亡時期に日本が先に開国し、文明開化とともに先に近代化、日清日露の戦争では朝鮮半島が戦場となり、戦争の結果として、1911年には日本に併合されることになってしまう。ここでも1890年台から1945年までのほぼ50年、日本に支配されていた、という父祖の怨念ともいうべき感情を歴史に刻み込んでいる。それがサンフランシスコ条約で戦勝国として扱われず、国家賠償は戦後長い時間かかった日本との二国間交渉で、韓国にとっては不満な内容で決着した。クーデターで政権を取った李承晩がこうした交渉を司り、竹島問題もここに発生原因があるのだが、当時は戦敗国だった日本は、李承晩が一方的に線引きした国境線についてクレームできていなかったことにも問題がある。

しかし、こうした歴史観は、戦争、抑圧、虐殺、日本語強制、などの歴史の記憶が語り継がれた恨みと重なって現代の若者達にも引き継がれている。これを前向きな国同士の関係にプラスにしていかなければならない。お互いに異なる歴史観を持ちながらの共通会話はなかなか難しい。これがこの本が書かれた意図である。自虐的歴史観とこれを呼ぶ人たちもいる、しかし、こうした歴史観を中国、韓国、北朝鮮の人たちは持っていると言うことを知ることは重要である。人は歴史に学ぶ必要があるのだが、それがなかなかできないのは、自分が間違ったわけではない、という考えからではないか。自分は確かにその時には存在しなかった、しかし間違った歴史観を肯定するとしたら、その間違った歴史観に荷担することになる。主張すべきは言う一方で、相手の主張を聞き、物別れに終わることなく未来志向の関係を築く、そのための努力を惜しんではいけない。素直な心で歴史に学びたい。
未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史

2010年2月16日 継体天皇の謎 関裕二 ***

日本書紀が書かれたのは712年、先の持統天皇時代に命じられ編纂されたのだが、その時の為政者(勢力を持っていたのは藤原氏)によって意図されたのは、皇紀元年は推古天皇の治政から21元(60年が21回回る1260年)前であること、そして蘇我氏の正体と歴史上の活躍の足跡をできるだけ消すことであったという。

「神」という名前が付けられた天皇には神武、崇神、応神がいて、没年の干支年記述がないことから、応神天皇までの実在はないのではないかとされている。武の五王とされた讃、珍、斉、興、武のうち、雄略天皇とされる武、安康天皇とされる興以前の三王は定かではないとされる。継体天皇は応神天皇の五代目の血を引き、北陸の地から呼び寄せられたとされているらしいが、先の仁賢天皇の娘を娶っているのだから、それで正統なる血筋としても良かったのに、実在も明確に記述されていない応神天皇のそれも五代目、という血筋の正当性ぎりぎりの血縁を全面に押し出した理由は何であろうか、というのが筆者の疑問。

筆者の仮説は次の通り。
1. 応神以前の天皇は実在せず、紀元元年から逆算して、古代からの言い伝えの説話が当てはまるようにストーリーを考えた結果、神武天皇の東征や応神天皇の母であり仲哀天皇の妻である神功皇后の新羅遠征、などを組み入れた結果、血統が絶えて天皇家が入れ替わったと思われる3つの初代記の天皇に「神」を付け神武、崇神、応神とした。実際にはこの三人は同一人物である可能性があり、同じ人物である応神天皇の逸話を3人の天皇に振り分けた、というのである。
2. 継体天皇も初代天皇と考えられ、当時から勢力を持っていた三河の尾張氏とのつながりが強いという。
3. 応神天皇は神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、武内宿禰の子ではないかと推測する。
4. 中臣鎌足は百済王・豊璋である。
5. 武内宿禰が蘇我氏の祖であるとすれば、蘇我氏の活躍を消し去りたかった日本書紀の編者は、武内宿禰の活躍の記述を避けたかった。古事記によると武内宿禰は孝元天皇の孫だとされる。
6. 神功皇后が卑弥呼だったのではないか。

推測でしかないが、ヒントは古事記、日本書紀、古墳などの遺跡、中国の書物などでしかない。こうした推測を巡らすのは楽しい。
継体天皇の謎―古代史最大の秘密を握る大王の正体 (PHP文庫)

2010年2月15日 塩狩峠 三浦綾子 ****

野政雄という実在した人物をモデルにして書いたという。しかしあくまで原型として書かれたといい、小説は創作である。しかし、何とも感動的なラストである。しかし、そこに至る前振りは長い。

永野信夫が主人公、時は明治10年、実家は東京、父は銀行員で裕福なうちである。しかし母の菊はキリスト教信者、当時は耶蘇教といえば邪教といわれ、近所でもいやがられていたという。祖母のトセは耶蘇教をいやがり、菊との同居を拒否、困った父は別宅に住まわせていた。信夫は母は死んだと聞かされトセに育てられる。信夫はトセに古き武家の儒教的教育を受ける。トセが急逝したときに、菊が生きていて、妹の待子がいることを信夫は知らされる。実は父も母も、妹の待子もキリスト教徒だということを知り、信夫は戸惑う。信夫はトセに仏教徒として儒教的価値観をたたき込まれてきたからである。

親友の吉川と交友が信夫の救いであり、その妹ふじ子に淡い思いを抱く。しかし、吉川は少額4年でエゾに引っ越してしまい、しばらく音信不通になる。その後数年を経て手紙を交換するようになり、文通により友情を暖めあい、悩みを打ち明けられる親友としての友情は続く。20歳になるときに父が急逝、信夫は裁判所に勤め、母と妹を養う身となる。

ある時、親類の葬儀のために吉川とふじ子が東京に状況、久しぶりの再会で友情を確認、信夫はふじ子に強く惹かれる。この再会がきっかけとなり信夫は札幌に仕事を求め行くことを決意する。妹の待子が岸本という男と結婚し母と同居してくれることになったからである。札幌での仕事は鉄道職員である。吉川やふじ子と再会、喜び合うがふじ子は結核を患いカリエスになって寝たきりになっている。いつ死ぬかもしれないふじ子を見た信夫は、札幌一の医師に相談、栄養をつけ体を清潔に保つことが病気を快方に向かわせる唯一の方法だということを聞く。体を丈夫にした暁には結婚したいとふじ子と吉川に伝える。ふじ子がキリスト教徒になっていたことを知った信夫は自分もキリスト教徒になることを決意する。

旭川に異動した信夫は当地で日曜学校の先生となり、キリスト教布教をしながら、札幌のふじ子の回復に努めついに回復、結婚の約束をする。二人は周りからも祝福され、結納の日、鉄道で移動する信夫が乗った列車が坂道で暴走、ハンドブレーキで列車を止めようとした信夫は最後には体を線路に投げ出すことで列車を大事故から守るが死んでしまう。しかし、永野信夫の犠牲的行為は大きく報道され、この事故をきっかけに札幌、旭川でのキリスト教入信者数は激増したという。

「信徒の友」という雑誌への連載小説であり、信仰の臭いはするが、嫌味はなく、筆者の信仰の深さ、他宗教との共存の姿勢も良く感じられるため、読後は感動の気持ちを抱く。たまたま明治10年から40年頃の物語を「春高楼の」と立て続けに読んだのだが、明治の頃の結核の流行、北海道開拓など時代の背景にふれることができた。江戸時代が終わり、富国強兵、殖産興業、成長の途中にある日本を人間の側から、当時の文化を東京と北海道からみることができた。信仰があることの強さは、戦国武将の高山右近と信夫、母の菊、同じような強さだと描いている。「信徒の友」としては大成功の連載だったのではないか。
塩狩峠 (新潮文庫)

2010年2月15日 四千万歩の男 伊能忠敬の生き方 井上ひさし ***

50歳までは入り婿となった商家の発展に寄与、今の価値でいうと三億円程度だった資産を70億円にまで増やしたというから立派な働きである。忠敬はその後、第二の人生で自分の足で歩いて日本全図を完成させるために天文学、暦を学び3万5000Km(4000万歩)歩いたのだ。井上ひさしは全五巻の長大小説「四千万歩の男」として本にしているが、忠敬の日記をベースとして実時間通りに書いたためにまだ完成ではないという。1800年、忠敬の1年の仕事を書くのに5年を要したと言い、日本全土実測にかかった17年を描こうとすれば85年かかるということになり、書く方も大変だが読者も大変なことになる。

忠敬の師は高橋至時、その子、景安はシーボルトに忠敬の地図を渡したことでシーボルト事件となり死罪になる。このエピソードを物語の山場にしようと思っていたらしいが、とてもそこまで5巻ではたどり着いていない。日本の海岸線の長さはロシア、オーストラリアについで世界第三位の長さだという。この大変な大事業も、最初は北極星が一度低くなるには真北にどの程度の距離を移動する必要があるかの実測であったという。110.75Km(28里2分)であることを計測した忠敬、正確な値をはじき出している。さらにそこから全国を測定のために歩き始め、同時代の多くの人物と出会う、という物語である。一人ではない、想定のために総勢17名の旅程である。忠敬のなした測量はもちろん大事業であり、後の日清日露戦争の時まで日本軍参謀本部では忠敬の地図が使われていたというからすごいものである。しかし、この「四千万歩の男」という小説も相当な大事業である。
四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)

2010年2月14日 春高楼の 清水義範 ****

明治33年(1900)、樋口淳一郎は仙台二高から東京帝大に入学し上京してきた。青森は弘前が郷里の準一郎が初めて東京に出てきて経験する交友や世の中の出来事を描く青春記であり、漱石の「三四郎」のパスティーシュを気取りながら立派な一つの青春物語である。鳩バスツアーに歴史版があるとしたら、明治33−34年のツアーともいえる内容だ。時は日清戦争後、日露戦争前の東京、日本が江戸時代を終わり、海外に向けて開国し、日清戦争に勝つも臥薪嘗胆、富国強兵に励んでいる頃の物語。淳一郎は若く正義感に燃えた好青年であると同時に、当時の日本の象徴である。

三四郎のマドンナ里見美弥子に当たるのが、友人の吉武のいとこの竹越百合子、しかし淳一郎は下宿の娘きと、友人江藤の妹みづきにも恋心を抱く。当時の文化として描かれるのが、流行が始まっていたサイクリング、野球、かるたとり、社会主義運動、恐露病、横浜の西洋レストラン、講道館柔道、キリスト教徒、ペスト流行などである。文学ではタイトルに持っている土井晩翠、藤村、鉄幹、泉鏡花、紅葉、正岡子規、独歩などが淳一郎や彼の友人の口から語られる。

友人の妹みづほは結核で死ぬ。ショックを受ける淳一郎は彼女を思う詩を書く。淳一郎は文学を目指すことを決意する。男の子が女の子に出会い、恋をする、という青春物語の王道を行くストーリーであるが、この歴史の鳩バスツアーの後味はすこぶる良い。
春高楼の (講談社文庫)

2010年2月10日 歴史と風土 司馬遼太郎 ***

全集のための語りおろし、そして雑誌連載からの三編である。中国からモンゴル、アジアから関ヶ原、龍馬、雑賀孫市から紀州の話題、峠、明治維新、密教、家康と宗教などなど、幅広い話題を語っている。トピックスとして拾い読みするだけでも面白い。司馬遼太郎はこうしたエッセイでも面白いのだ。
歴史と風土 (文春文庫)

2010年2月9日 小さい「っ」が消えた日 ステファノ・フォン・ロー ***

日本語を学ぶ中で「促音」に苦労した体験を持つドイツ人の著者が、日本でも問題になるいじめをなくしたいと 、小学生にも分かるようにメッセージを「お話し」にしたもの。メッセージには次のようなものが入っている。
1. どんな人にも役割があって、えらい、金持ち、きれい、大きい、強いことなどだけが重要なのではない。泣き虫、優柔不断、暗い、遅い、小さい、貧乏、弱いなどにも役割はある。
2. 言葉は大切、そして日本語は日本人の重要な言葉だ。
3. 外国人は日本人の早口が分からなくて困っている。
4. 政治家が話している演説には内容がない。

巻末には50音と濁点、促音、半濁点まで含めてそれぞれのキャラクター想定と絵がついていて、これを使って色々な話が作れそうな気がする。実際に劇を学芸会で上演してみたら面白いかもしれない。

日本人が外国語を学ぶに際しても、母国語人には思いもつかない苦労をするのだと思う。reachと言ったつもりがleachと聞こえて浸みだしてしまう、beerとキャビンアテンダントに頼んだつもりが、なぜかmilkが届けられる、こういう経験はあるだろう。フランス語にはなぜリエゾンやアッシュミュエがあるのだろう、と考えた学生もいるだろう。

著者と訳者が考えた「っ」のない世界での秀逸は、弁護士が原告から相談を受けて、訴追するかどうかを聞き糾す次の言い間違い。『どうしましょうか、訴えますか、それとも訴えませんか、あなたからOKがあれば、訴えますよ』これが促音がないと、『どうしましょうか、歌えますか、それとも歌えませんか、あなたカラオケがあれば、歌えますよ』

英語やフランス語でこうした言葉の遊びをしてみたら語学も面白くなるかもしれない。
小さい“つ”が消えた日

2010年2月8日 東と西の語る日本の歴史 網野善彦 ***

日本の歴史は東西の戦いの歴史だという。そもそも日本民族はアイヌや琉球をのぞけば単一民族だ、ということに疑問を呈している。縄文時代から弥生時代にかけては北方、半島、南方からの人種が相当程度混雑していたはずであり、自然植生や環境が東と西では相当程度異なるではないか、という主張。

現代でも、フォッサマグナから西と東で言葉が異なることは皆が認識している。言葉に限らず、食べ物の習慣が違っている。「買った vs 買うた」「広く vs 広う」「だ vs じゃ」などが東西の違いである。現代の婚姻相手の出身地を東日本と西日本とで分けてみると、9割以上が同じ地域なのだそうである。現在のような交通条件でも東西交雑はそんなに進んではいないことから、歴史上はそうは進まなかったのではないかという推測である。

考古学からみた東西の違い、古墳時代の東西相違点などからみた違いをあげている。古代から中世にかけては、海賊的武者である西に比べて馬賊的武者は東なのである。そして東では平将門が、西では藤原純友が中央政府に対して反乱を起こしたのが10世紀。これらの武士の勃興を告げる反乱は鎮圧されるが、この後源氏と平氏という二大勢力が東西に起こる。源平はこの後交互に日本の勢力を二分しながら拮抗する。

その中で、西国は東北の勢力と結び、投獄は九州の勢力と結ぶことで東西対決に臨むケースが多いという。最初に勢力を集めたのは平氏、東北の藤原秀衡と結んで、東の源氏を追いつめようとする。西の平氏はここでも海洋的性格を帯び、東の源氏は狩猟的性格である。一時は平氏に滅ぼされた源氏の頼朝は伊豆に育っていたが、以仁王の勅命を受け平氏討伐に立ち上がる。木曽義仲も同時的に京都に討ち入るため、清盛が死んだ後の平氏は西へ逃げる。この後は有名な壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する。

荘園や公領の違いについても述べている。大きくくくると西の荘園は米で年貢を納め、東の荘園は布や麻など米以外でも納めていたのだという。この後も東の武士と西の武士が戦い、北条氏から足利氏、そして尾張三河の信長、秀吉、家康が天下を取るが、その戦いの構図も東西対決であり、九州と東北の武士たちが西と東とに分かれてそれぞれが合従連衡する。

鎌倉から江戸のながい東支配を破ったのが明治維新であり戊辰戦争、薩長両藩は徹底的に関ヶ原の戦いの恨みを晴らすかのように幕府軍、会津や東北列藩同盟を追いつめて容赦しない。

大相撲でも東西、歌舞伎でも芝居でも「東西東西」、神社仏閣では狛犬が東西に据えられている。東西史観とでも言うようなユニークな見方である。
東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)

2010年2月7日 パンデミック 追跡者(1,2,3) 外岡立人 ***

H1N1流行にあわせて出版された新型インフルエンザサスペンス。さすがに医師であり、2008年までは小樽保健所長を務めていた著者だけに、真に迫っている。主人公の医師遠田は著者の分身、美人の妻を迎えて新型インフルエンザの押さえ込みに立ち向かう。その背景にあるのが2003年に起こっていたSARS流行。そのときの経験をベースに、新型インフルエンザの拡大を「保護ウイルス」というアイデアで乗り切ろうとする遠田医師。2009年の4月にはこの小説の通りインフルエンザの感染は起きた。小説では北海道のR島で海鳥にふれたという島民に広がりだしたH5N1パンデミックウィルス、実は元はといえば米国サンタフェの研究所から漏れ出たことが分かった。同じウイルス株はエジプトのカイロでも広がりだしていた。これは実際の世界でのH5N1の広がりをなぞっているようだ。日本国内でのウイルス封じ込めと、世界におけるそのH5N1変異株の封じ込めに、遠田医師と友人のウイルス研究家岸本が立ち向かう。

著者は実際にH1N1の流行時にも、それ以前からも自ら立ち上げているHPで毎日の世界からの情報を翻訳し、自分のコメントをつけて提供している。全くのボランティアだというから尊敬する。現実世界のH1N1はとりあえず小康状態に移行したようだが、H5N1はまだインドネシアやカイロでくすぶっている。本小説でも登場した万能ワクチンはまだ研究中、吸入すれば1週間は効力が続く、といわれているCS8958は第一三共から臨床試験を少量して市販の認可申請が出されたと聞いている。小説で出てきたようなアンチパンフルは現実的ではないと思うが、CS8958は今年の秋からの販売予定だそうだ。今後はこうした新薬に期待したい。
http://nxc.jp/tarunai/ 

パンデミック追跡者 第一巻
パンデミック追跡者 第二巻
パンデミック追跡者 3

2010年2月6日 フェルマーの最終定理 サイモン・シン *****

数学の本を読んで感動する、こういう経験をさせてくれたサイモン・シンに感謝したい。フェルマーの最終定理、  Xのn乗 + Yのn乗 = Zのn乗  nが3以上の場合、これを満たす解はない これがフェルマーが350年前に書き残した予測であり、フェルマーは「私は証明したがこの余白には書ききれない」と書き残したという。これを証明したのがアンドリュー・ワイルズ、1994年のことである。当時の新聞紙上には第一面を飾った、というが、数学に関心がなければなぜこれが大ニュースなのかは感じられない。

かつてニュートンは「われわれは巨人の肩に乗った小人のようなものだ。当の巨人よりも遠くを見わたせるのは、われわれの目がいいからでも、体が大きいからでもない。大きな体のうえに乗っているからだ。」と言ったという。物理学は先人が残した数多くの実績の上に立って新たな発見を積み重ねるからである。

数学でも同様のことが言えること、そしてこのフェルマーの最終定理といわれている証明でも言えることを、難しい数学理論をうまく解説しながらサイモン・シンは説明してくれている。日本人にとってもうれしいのは、ワイルズの証明の中で非常に重要な役割を果たしている数学的予測があることだ。「谷山ー下村予想」という数理論である。サイモン・シンは谷山と下村のキャラクターや結婚を前にして自殺してしまった谷山のことを好意的に書いている。そして、巻末には、説明に関連するいくつかの数学問題とその解法が解説されており、素人でもよく分かるようになっている。

ワイルズが証明に使ったのは数多くの数理論や定理であり、谷山ー下村予想もその一つ。この証明以降の数学ではコンピュータを使った力ずくの証明が増えてきたという。例えば「4色問題」 すべての地図は4色で塗り分けることができる。 これを証明するのに、1740ケースに分けて、そのそれぞれのケースをコンピュータを使って解析、証明したという。ワイルズが行ったような紙と鉛筆、そして自分の頭脳を使った証明ならば、他の数学者によって時間はかかっても検証ができた。しかし、証明はこういう方法でコンピュータが行った、という証明の検証はコンピュータでしかできない。これでは「エレガント」ではないのだ。

ローレンツの「ソロモンの指輪」と同じように、この本を読んだ若者が数学者を目指す、等と言うことになればそれは良いことだと思う。エレガントな解法、これは物理学でも数学でも共通の心地よさであり、力ずくの証明では「この学問を目指そう」という若者の心を引きつけないではないか。学問には魅力が必要である。著者によるその他の著作も読んでみたい。
フェルマーの最終定理 (新潮文庫)
暗号解読〈上〉 (新潮文庫)
暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)
宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)
宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

2010年2月4日 親日派のための弁明 金 完燮 ***

過激な右翼による日本愛国本の一種かもしれない、と思いながら、韓国人が書いているというので読んでみた。日本の立場を擁護しすぎているとは思うが、朝鮮・韓国の近代史のことが韓国の視点からきれいにまとめられていて大変勉強になった。著者の主張のポイントは次の通り。
1. 韓国で行われている反日教育は東アジアの発展を阻害している。中国の反日教育もしかりである。
2. 封建制を経験して国民国家となったのは西欧諸国と日本だけであり、それを経験していない韓国の近代化は、日本による併合による国家の基礎作りがあったために早まった。
3. 後進国は植民地支配されていた宗主国からの独立により国家自立は勝ち取れるが、国家的基礎体力がないために独立後も経済的成長が難しい。
4. 西欧諸国の植民地支配は資源の収奪のみが目的であったが、日本による併合は日本への同化であった。そのため日本と同等のインフラ整備や教育が行われ、戦後の発展の基礎になった。
5. 韓国は太平洋戦争の戦勝国ではなく、敗戦国であった日本に戦勝国としての権利主張はできないはずであった。しかし、李承晩は平和ラインという日本海での国境線を韓国の都合の良い位置に引き、日本漁船を拿捕し、竹(独)島を韓国領と主張した。

こうした主張を裏付けるために、江華島事件以前の李王朝から、日本による開国要求、大院君によるクーデターと歴史を解説。東学党の乱以降の、李王朝と朝鮮人革命の騎士達である金玉均などによる戦いが、王朝の力でねじ伏せられてきたことを述べ、日清日露の戦争が朝鮮半島でどのように行われたか、高宋と閔妃による権力奪還などが実は朝鮮人民のためにはなっていなかったことを解説する。

ハワイとプエルトリコを比べて、ハワイが独立国からアメリカの50番目の州になることで得ている経済的恩恵と、プエルトリコが51番目の州にならないことにより蒙っている不都合を考えると、ハワイの選択が正しかったことを示しているという。韓国は36年の日本による併合時代から戦後、経済発展をしてきているのは、日本による支配が一定期間以上に及んだからだとも言い、戦後も日本と一体であったならばもっと発展をしていたかもしれないとまで言う。

韓国人から見れば売国奴とも思われるこの本、韓国では販売禁止になっているというが、こういう本を発禁にしない国に成れれば韓国も一皮むけると思う。しかし、だから日本の朝鮮半島支配は正当な行為であったとは言えないことは当然であり、戦争行為の正当化はできない。この本を読んで感じることは、韓国における反日教育の行きすぎを見直して欲しいこと。一方、日本における歴史教育において近代東アジアの認識が甘い、というか歴史観を持たない日本人が多いこと、こちらも大問題である。中学高校の歴史の時間は近代史から初めて欲しいと思う。
親日派のための弁明 (扶桑社文庫)

2010年2月2日 細川ガラシャ夫人 三浦綾子 ****

キリスト教の洗礼を受けて、信仰の力で夫である細川忠興の指示を守り、夫を助けた細川玉子、洗礼名がガラシャ。明智光秀の子として生まれた玉子は小さいときから才気煥発、思ったことは口に出して分からないことは分かるまで尋ねる子供であった。神と仏の違いについての疑問も小さいときに不思議に感じた。当時日本に布教にきていたバテレン達のキリスト教の神と日本古来の神道、そして仏教の違いについても口に出して聞いたが、納得できるような答えを呉れる大人はいなかった。

戦国の世である、武家の女は政略結婚をさせられ、好きでもない会ったこともない武将の元に嫁にやられるのが常であった。父である明智光秀はそうした中で、小さいときからの知り合いであった熙子を嫁にもらった。玉子はこうした両親をみていたので、自分もそうなりたいとは思ったが、希望が叶えられないこともあることを知っていた。細川藤孝は明智光秀とは長い友人であり、信長の家臣としての仲間であった。藤孝の息子である忠興が17歳の時、玉子と結婚させた。忠興は立派な武将であったが、光秀のように教養のあるタイプではなかったが、玉子は忠興に愛され玉子は幸せだった。

信長に重用されながら、重臣たちの目の前で面罵されることが重なり光秀は本能寺の変で信長を殺害する。娘である玉子は旧信長の家臣たちに狙われる、毛利と戦っていた羽柴秀吉に殺されると思った忠興は、人も通わぬ孤立した村に玉子を隠す。秀吉には妻とは離縁したと伝える。秀吉はその後1年をかけて、信長の家臣であった柴田勝家などを殺害し天下を平定する。そして忠興は秀吉から妻の呼び戻しを許された、隠し立てはお見通しだったのだ。

その後、秀吉が死んだ後、石田三成につくのか、徳川家康につくのかを細川忠興らは迫られるが、住居は大阪城下、徳川家康につくために出兵するときにも妻子は大阪城下に残さねばならない。忠興は玉子に言う。「決して家をでて逃げてはならぬ」キリスト教の洗礼を受けていた玉子はガラシャと呼ばれていて、忠興の言いつけを守り、人質として玉子を差し出すように迫った石田三成に攻め殺されてしまう。徳川家康に忠興は「夫の留守を立派に守り、筋を通した玉子は大変立派な奥方だ」と褒められるが、忠興にとって死んだ妻は戻らない。忠興はその後家康に取り立てられ、家光の代まで徳川家に仕えた。

読んだ後に、良い意味での心地よさが残る物語である。戦国の世に生まれて、自分の意志とは関係のない嫁ぎ先に生きる女性として、信仰を持ち、世の中の無常や不幸な人々の暮らしなどに思いをはせるガラシャ夫人の凛とした人生が感じられるのだ。キリシタン大名の一人として高山右近が登場するが、彼も信仰を持ち、領地人民を大切にし、キリシタン禁制後は潔い決断をしている、彼の人生もこれとは別に読んでみたい気もする。
細川ガラシャ夫人〈上巻〉 (新潮文庫)
細川ガラシャ夫人〈下巻〉 (新潮文庫)
塩狩峠 (新潮文庫)
氷点 (上) (角川文庫 (5025))
氷点 (下) (角川文庫)

2010年2月1日 日本人の美意識 ドナルド・キーン ****

それは暗示、または余情であるという。平安中期の歌人藤原公任は歌の優秀さを示して、その最高は「ことばたへにしてあまりの心さへある也(詞の妙を尽くして、余情のあらわれる境地)」だとしている。その良い例としたあげられたのが次の歌。

ほのぼのと明石のうらの朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思う

公任は、この歌の言葉にはない含意をほのめかす力があると言い、舟に自分の愛人が乗っている、
などと解説すれば歌の効果は減少されると。主語が省かれていて曖昧なので良いというのだ。芭蕉の俳句

枯れ枝に 烏のとまりけり 秋の暮れ  

これを英訳したのが

On the withered bough
A crow has alighted:
Nightfall in autumn.

本当に一羽なのかどうか、この俳句では分からないし、1羽が一番その雰囲気を表しているかどうかは分からない、というのがキーンの解釈である。そもそも「秋の暮れ」は秋の日の夕暮れなのか、晩秋なのかも分からないという。日本語が曖昧なので様々な解釈ができることに良さを感じるとのだそうだ。

平安時代の文学では女性によって書かれたものが日本文学の良さを示しているというのもキーンの主張である。8ー13世紀の女性文学が隆盛を極めたあと、19世紀まで目立った活躍を見せた女性作家は見あたらないという。万葉集、古今集、源氏物語、蜻蛉日記などであり、土佐日記は紀貫之という男性が女性の振りをして書く、ということをしてまで和語を使って書きたかったのだという。キーンはどうやら源氏物語と蜻蛉日記を最高傑作と見なしているようだ。

日清戦争で日本の文化が世界に出て行ったとも指摘。江戸から明治で国は開かれたが、人々の心はまだ自信を持てず、世界から吸収することばかりに気を奪われていた。日清戦争は日本も文明国の仲間入りができるきっかけとなり、その結果文学やその他の芸能も花開いたのだ、と指摘。演劇、錦絵、文学が国内外に向かって広がり、逆にそれら日本の文化を初めて見る外国人からの評判となって帰ってきたという。その典型例が「川上音次郎」や「花子」一座であろうか。1900年の頃、川上一座は欧米を周り、喝采を得ていた。花子は日本では全くの無名、しかしアメリカのダンサーであるロイフラーに見いだされ、欧米で公演、貞奴に次ぐ日本の大女優として欧米で絶賛されたという。決して日本的美があったわけではなく、見る方から珍しい演し物と思われただけだとは思うが、それでも数年に渡ってパリ、ロンドン、ニューヨークで好評を博し、その後も1917年ころまで欧米で公演して回ったと言うから大したものである。ロダンは花子にぞっこんだったとも書いている。戦争で住む場所が亡くなってしまった花子に「一緒に住もう」とも申し出て、本当に同居し、花子の像も数点造られたという。花子は晩年、岐阜で静かに暮らしたと言うが、そのロダン作花子像は日本の当時の芸術家から何回も訪問を受けたという。

キーンほど、古き日本の心を理解し、文学を学び、日本の良さを感じた人間は少ないのではないかとしみじみ思う。存命中に一度でも話を聞いてみたい。
日本人の美意識 (中公文庫)

2010年1月28日 ソロモンの指環―動物行動学入門 コンラート・ローレンツ ****

感動的な本であり、著者が近所に住むおじさんなら毎日「今日は何しているのかな」と覗きに行きたくなるだろう。虫取りや自然観察が好きな少年少女は詩人か自然学者になるしかないのではないかと思わせてくれる。動物学者であり、動物行動学の「刷り込み」を学問として解明した著者は、様々な鳥たちと「動物と話ができるソロモンの指輪」なしに会話ができたようだ。ローレンツの住む家には多くの放し飼いにされた鳥や動物たちがいるので、家の中は羽根や糞が至る所にみられる。これは妻にとっては大変な災難であるはずだがその記述はない。たった一カ所、飼っているオウムが、母親とその姉妹、そして近所の友人達とがティーパーティを開いているテーブルに舞い降りかけて、テーブルにおいてあった砂砂糖を淑女達にぶちまける、というシーンが描かれているのだが、著者は「バンザイ(日本人ではないのでこうは言わないはずだが)」と言っている。

最初のお勧めは、アクアリアム、家の中に水槽をおいて近所の池の生態系をそのまま再現する、という遊び。同じ池から同じ日に掬ってきた生き物と水草も、違う水槽に入れると同じようになるとは限らないのだそうだ。アクアリアムの生態系は水槽がおかれた場所の日当たりや風通し、動植物のたまたまの配剤によりあらゆる変化を見せるという。ヤゴやゲンゴロウが如何に上手に餌をとり生態系を支配するか、動物の数が生態系に与える影響、動物の組み合わせによる相変化などなど、観察をしているのだ。宝石魚という魚の子育てを紹介、両親が卵を口の中に入れて育てるのだが、両親も餌であるミミズなどを食べる。そこで、口に卵を入れた父親にミミズが与えられるとどうなるかを観察、宝石魚の父親はミミズに飛びつくが、飲み込めないので一度卵とミミズをはき出して再度ミミズをくわえ込んで飲み込み、卵が水底に落ちてしまう前にしっかりとそれを捕らえたという。

コクマルガラスという鳥を飼っていたこともある。雛の時に飼い始めると初めて見る生き物を親だと思うという例の「刷り込み」である。コクマルガラスは同時に一緒に育つ仲間達、という小グループも認識する。このため、グループの一匹だけに人間を親として刷り込むと、その一匹のためにその人間は親としてのしつけや面倒を見る羽目になる、と著者は言っている。仲間に入れないのだそうだ。コクマルガラスの序列に関しても観察している。12匹いれば1ー12位の序列がしっかりとできあがるのだが、位が近い同士は争うが、大きく違うと保護者非保護者の関係になるという。あるとき、幼鳥であった数匹のコクマルガラスが大きな別のコクマルガラスの群に混じり合って、このままでは群とともに別の場所に飛んでいってしまうことが予想される事態が起きた。著者にはなすすべもない事態だったが、一匹の兄鳥が、その群に飛んでいって、一匹ずつ兄弟達を辛抱強く連れ戻したのだ。

ガンの子の刷り込みが親鳥の姿ではなく「ガガガガ」という鳴き声であることも自分で実証して見せている。その際、自分の庭でそれをしている様を近所を通りかかった観光客に見られているのだが、観光客からは庭の塀があってガンの子達が見えない。大きな生き物は親鳥とは思えないガンの子達のために、しゃがみながら「ガガガガ」といいながら歩いていた著者を見ている観光客は楽しい見せ物を見たのだろう。

そして犬である。犬には大きく二系統あるといい、オオカミ系とジャッカル系だそうだ。オオカミ系は人にこびたり馴れたりはしないが、一度忠誠を誓った主人とは一生の関係が続くという。ジャッカル系の犬は人にすぐ馴れるが、誰にでも馴れてしまう。いずれの習性もかわいくて好きだと著者は言う。犬は元々群で行動、餌を集団で襲い得ていたが、人間の集団についていると餌のおこぼれが手にはいることを覚えたのだという。そのため、ジャッカルの群はいつも人間の群の周りにいることになり、人間も犬以外の猛獣からの危険を知らせてくれるジャッカルを追い払ったりはしなかった。そのうち、後ろをついて回っていたジャッカルたちは、人より走るのが速いので、いつしか先を走り獲物を人の代わりに追いつめたり、時には一緒にしとめることもあった。こうして、人と犬たちの共同、主従関係が時間をかけてできたのだという。他の動物の家畜化とは全く異なるプロセスであり、犬だけが人間の本当の友であるという。

この本を読んで理科好きになる少年少女は多いだろう。訳者の日高敏隆先生は残念なことに2009年11月に亡くなったが、こうした理科好き先生がたくさんでてくることが、理科系の弱体化を防ぐことになるはずだ。ローレンツは畑正憲のように動物好きであり、ファーブルのように昆虫を観察する。ローレンツの近所に住んでみたいと感じた読者は多いのではないか。
ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF)

2010年1月25日 神さま仏さま探訪記 小松美保子 ***

神社、八幡宮、稲荷、天神社、戎神社、七福神、鬼子母神、金比羅、地蔵尊、観音、山王神社などなどの由来と御利益について。外国人を日本を案内するときに困るのがこれ、違いがわからず説明ができない。

1.伊勢神宮は正式には「神宮」、江戸時代には60年に一度、合計4回のおかげ参りがあり、一日に2−14万人の人が訪れたという。
2.八幡宮は九州宇佐、京都石清水、鎌倉鶴岡の三つのいずれかが全国3万あるといわれるの八幡宮の本社。725年に応神天皇が宇佐八幡宮を建立、もともとは宇佐地方豪族ヤハタ氏の氏神様。平安時代に平安京の守り神に宇佐から移されたのが石清水(男山)八幡宮。源頼朝が鎌倉の守り神として建立したのが鎌倉八幡宮。八幡神は神仏習合の濫觴、神功皇后を現人神として祀ったのが宇佐八幡宮。御利益は厄除け。
3.日枝神社は家康が江戸城の裏鬼門に建てたもの。元々は比叡山の延暦寺が京都の鬼門に当たったことから、日枝祭神の大元である滋賀の坂本を大本山とする全国3800にのぼる日吉(日枝:ひえ)神社に天台宗が神仏習合されたという。
4.稲荷さんは全国に3−4万あるという。御利益は現世利益なら何でもこい。狐は田の神の化身、稲荷は田圃の神様であるという。伏見稲荷の裏にはお山があり、そこにはお山信仰の数万の神様が祀られているという。
5.海神から商売繁盛の神になったのが西の戎神社。10日戎は東に始まり、元禄時代には十日戎が行われていた。京都ゑびすは西宮、今宮とならぶ三大えびす。
6.酉さんは商売繁盛であるが、元々は農耕の神。ルーツは埼玉の鷲宮神社で収穫感謝の神様だったそうだ。
7.七福神は江戸時代谷中から始まった。徳川家康が天海僧正に「七福とは何か」と問うたところ「寿命、裕福、人望、清廉、愛嬌、威光、大量」と答えたという。それぞれに寿老人、大黒天、福禄寿、恵比寿、弁財天、毘沙門天、布袋を当てたという。
8.天満宮は菅原道真を祀っているが、没後亡骸を牛車にのせて墓所に向かおうとしたところ、牛が止まってうごかなくなった場所に建てられたのが太宰府八幡宮。没後40年に災いが続いたので京都北のにある地主神社の地に天満宮を建てたのが最初。だから天満宮にはかならず牛がいる。怨霊を収めるために創られた神社には京都の上・下御霊神社がある。目白にある谷保神社は菅原道真の三男道武をまつった神社。神無月には神様は出雲に行くのに谷保でご開帳とは「野暮」なこと、とこの谷保神社がヤボの語源だとか。

外国人を観光案内する前にもう一度おさらいをすることにしよう。
神さま仏さま探訪記―ご利益をたどれば日本人が見える

2010年1月23日 それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子 *****

東大教授の著者が、栄光学園の歴史クラブに属する1−3年生に5日間、明治から太平洋戦争に至るいくつかの節目で、日本はどのような判断をしていったかを解説した。特徴は日本国内事情と同期する形で欧州、米国、中国での動きを説明、地図を使って視覚化をはかるなど、高校生にも理解できるように工夫している点、これは一般人にもよくわかる。米国が中国の共産化を阻止できなかったことが、ベトナム戦争の長期化を招いた、とか、9/11以降の米国の動きと1937年時点での日本の動きにおける共通点、など、歴史上のイベントを現代につなげることで、聞いている側も話題を身近に感じられる。「戦争とは相手国の憲法を書き換える行為である」というジャン・ジャック・ルソーの言葉を紹介、第二次大戦後に起きたことの解説をしている。こうした著者の歴史を横断する、そして世界地図をまたぐような説明は歴史解説に躍動感を与えている。

まずは日清戦争、これは実はロシアとの戦争の始まりであった。シベリア鉄道敷設をするロシアに朝鮮半島に進出されれば日本は危うい、という危機意識を日本は持っていた。その途中にある満州の地も生命線であるとこの時代からみていた。東学党の乱を期に日清戦争に突入、日本は勝利、台湾の地を獲得するが、領地交渉で得た遼東半島を三国(ロシア、フランス、ドイツ)干渉で取りかえされてしまう。当時はイギリスとアメリカが日本の後ろにいて中国の権益確保を狙っている。日本では弱腰外交に対して失望感が広まり、徴兵されるのに投票権もない、ということから普通選挙制度の施行が実施される。これが政党政治を定着させていく始まりである。

その後もロシアに対する警戒感から朝鮮半島への権益には日本は敏感になっていた。シベリア鉄道の南側には同じくウラジオストクにつながる中東鉄道も敷設されていた。日本にとっては朝鮮半島と満州の地は、対ロ施策の重要拠点となっていたのだ。ここでも日米英と仏独露という対立構図があり、日露戦争はこれらの国同士の代理戦争であったといえる。日露戦争といえば遼東半島にある旅順港の戦いと日本海海戦が有名、いずれも激戦であったが辛くも日本が勝利する。この戦争での戦死者数は日本が84000人、ロシアが50000人、これだけの犠牲を払って得たものは、南樺太、朝鮮半島への権益、満州でロシアが有していた権益の放棄であり、日本は関東州と満州の中東鉄道権益を得る。しかし実は英米だけではなく独仏にも満州への経済権益は解放されたのである。日本国内ではこの結果税金が高くなり、徴税対象者が増えることで参政権も拡大した。日露戦争の5年後、日韓併合が行われたが、欧米諸国はこれを黙認した。

第一次大戦ではほとんど戦死者や犠牲を出さなかったのが日本、漁夫の利を得たとされている。世界ではその後ロシア、ドイツ、オーストリアの王国が滅亡、ドイツではワイマール帝国、ロシア革命後はソ連が誕生している。日本はドイツが中国に持っていた権益と南太平洋マーシャル諸島やグアム島などの権利を得た。このような戦後和平交渉はパリ講和会議で行われ日本からも多くの政治家が参加したが、主導権は握れなかった。こうして日本国内には次のような感情が生まれたという。
1. 自分だけはうまく立ち回ろうとする英米への反感
2. 山東半島を中国に返還するという約束を日本が破ったため、パリ講和会議で中国とアメリカから日本批判され衝撃を受けた。
3. 朝鮮独立運動の勃発によるショック。

1931年の満州事変、このころの日本民意はどうだったのか、当時のインテリである東大生に調査したところ88%が満州での武力行使は当然の権利と考えていた。ここに満州事変を中国を相手にした戦争とはみていない当時の日本の立場が示されているという。この時もやはり仮想敵国はソ連、ソ連からの侵入を食い止めるためには、日露戦争の結果得た、南満州の権益を確かなものにしておく必要があった。しかし英米がこれを国際的に承認しているわけではなかったが、両国ともここまで口出しをしている余裕もなかった。リットン調査団は事変後の調査をして、日本に不利にはならないレポートが作成されたと思われるが、日本では日本の権益を踏みにじるレポートだと受け止められた。日本では米国からの横やりを受けずにいかに満州の権益を守るかが焦点であった。満州における現地軍の単独越境という事態に日本の幣原喜重郎内閣は毅然とした態度をとらず、事実上軍事予算を認めてしまう。これは当時の軍事テロ(515事件や血盟団事件など)が政治家に心理的影響を与えていた。このころの蒋介石は日本軍と戦いながらも国民党内部の抗争があり、共産党の紅軍とも戦うという大変な状況に陥っていた。満州事変を起こした日本に対し国連に訴えリットン調査団を派遣したもらったのであるが、結果として蒋介石が期待したような内容に七っていない。日本の中国における権益を是認する内容だったのである。そして国際連盟脱退への引き金を引いたのは、またも関東軍の熱河省への侵攻であった。国際連盟の規約に基づくとすれば、国際上違反である他国侵略を行う日本は国際連盟加盟国と戦争状態にはいることを意味し、松岡洋右は脱退宣言をする以外にオプションを失ってしまった。

中国の外交官であった胡適は1935年ころの中国と日本の関係を『日本切腹・中国介錯』論で考えていたという。つまり、満州事変以降の日本の侵攻は、現時点のソ連とアメリカの状況を考えれば口出しを期待することはできない。ソ連では第二次5カ年計画が完成しておらず、アメリカ海軍増強もその途上になるからである。そのことをよく認識している日本は早晩全面的に中国に攻め入るであろう。そして沿海地方の大半を占領し、多くの中国国民が殺される頃にやっと米ソが日本をたたく、それで初めて中国は救われる。実際にその通りになったのだが、その上を考えていたのは王兆銘、その戦略では中国はソビエト化してしまうと。これもその通りになった。

欧州におけるドイツはフランスを占領、英国が一国でドイツと戦う様相であった。陸軍はソ連とドイツの調停を試みて、ドイツに加勢、英国に戦線を集中させられないかと考えていたようだ。しかし、ソ連はドイツと宣戦布告、日本はソ連との戦争に備える北進論から、南進の戦略に切り替えることになる。太平洋戦争突入の切っ掛けになったのが南部仏印進駐、これをアメリカが取り上げて資産凍結と石油禁輸を行った。日本陸軍はこうはならないと読んでいたようだ。アメリカがなぜこうしたのか、それは当時ドイツと戦っていたソ連が冬場を乗り切ってドイツとの戦いを有利にしたかったから、という。世界の状況はつながっているというのだ。

この本では多くの地図が示され、日本、朝鮮半島、中国、ロシア、ソ連がどのように絡み合ってきたかを歴史を踏まえて解説する。日本が日清・日ロ戦争を経験し、その上第一次大戦で勝ち得た領土や各種権益を失うおそれが非常に高かった太平洋戦争になぜ突入してしまったのかが、まさに時々刻々と解説される。日露戦争による政党政治に拡大と、政党政治の行き詰まりによる軍部台頭、農村出身者が多かった陸軍の国民煽動戦略の旨さと、情報操作などが絡み合っている。それにしても身の程知らずなのは日本だけではなく、ドイツもイタリアもおなじであったが、戦勝国も正義のために戦ったわけではなく、アジアの資源や経済的進出という目的があったのだ。戦争は外交の延長、という。第一次大戦後のパリ講和会議での反省を生かせなかった日本の政治家と、世界を知らなかった多くの日本人が起こしたのが太平洋戦争の敗北であった。歴史を振り返り、物事の本質を考えることはいつの時代にも重要なこと、この本はそうしたことを教えてくれる。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ
戦争の日本近現代史―東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで (講談社現代新書)
満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)
あの戦争になぜ負けたのか (文春新書)

2010年1月23日 司馬遼太郎を歩く(1,2,3) 重里徹也、植戸義昭、荒井魏 ****

司馬遼太郎が書いてきた作品の登場人物の足跡を実際に訪れてみて、そこに司馬遼太郎も取材に来ていたことを確認する、そういう本。膨大な量の作品の一つ一つに地道な取材があったことが確認されていく。読み始めたときは作品解説本のように感じたが、そうではない。司馬遼太郎の作品に対する真摯な姿勢を知ることができる、司馬遼太郎を偲ぶ本である。収められた作品は次の通り。

1巻 『峠』『空海の風景』『国盗り物語』『夏草の賦』『燃えよ剣』『故郷忘じがたく候』『貂の皮』『覇王の家』『新史太閤記』『竜馬がゆく』

2巻 『王城の護衛者』『蘆雪を殺す』『最後の将軍』『馬上少年過ぐ』『酔って候』『播磨灘物語』『花神』『関ケ原』『箱根の坂』『梟の城』『世に棲む日日』『伊達の黒船』『重庵の転々』『尻啖え孫市』

3巻 『歳月』『城塞』『翔ぶが如く』『義経』『菜の花の沖』『長州人の山の神』『功名が辻』『宮本武蔵』『真説宮本武蔵』『坂の上の雲』『妖怪』『喧嘩草雲』『肥前の妖怪』『逃げの小五郎』『戦雲の夢』『北斗の人』『きつね馬』『大盗禅師』『割って、城を』『殉死』

3人の著者達が登場人物の生まれ故郷や活躍した場所を訪問、地元の人に取材すると、何年も前に髪の毛が真っ白な先生が来たことを覚えていて、その時のことを話してくれる。司馬遼太郎が小説を書き始めるときには、神田の古書街に行って大量の本を仕入れるので、今度は誰のことを書くのだな、と古書店主達は知ることができたという。多くの作家は取材をして本で下調べをするのだが、このように幅広い時代と人物を扱うこのような作家はまた出るのだろうか。

司馬遼太郎ファンであっても、読んだことがない本もあるだろう。3巻セットで読んでみると一通りの司馬通になれること請け合いである。
司馬遼太郎を歩く
司馬遼太郎を歩く〈2〉
司馬遼太郎を歩く〈3〉

2010年1月22日 かくれさと苦界行 隆慶一郎 ***

吉原御免状の続編。26才で江戸は吉原に出てきた後水尾上皇の落とし胤である松永誠一郎が32才になった頃から物語は始まる。この物語は著者が生きていれば4部作まで構想されていたという、その第二部にあたる。前作で片腕を誠一郎に切られた裏柳生の義仙が、老中の酒井忠清の手先となって吉原つぶしを行うのが大きな流れ。吉原の創始者である庄司甚右衛門である幻斎も86才になっているが至って元気、最初に誠一郎に出会ったときには9才だったおしゃぶは15才になり、誠一郎の妻になる。幻斎と誠一郎の力になる吉原戦闘集団の一人野村玄意は吉原戦闘集団である首代(くびだい)を束ねている。

誠一郎は柳生一族の表のリーダーである柳生宗冬に信頼され、柳生の奥義を伝えられて我がものとしており、宮本武蔵に鍛えられて二天一流の腕に柳生の奥義を併せ持った天下一の剣客となっているが、表向きには吉原の惣名主である。

吉原は幕府から江戸における唯一の花街として独占販売権を与えられてはいるが、岡場所とよばれる娼婦の館がある場所は点在しており、これらを取り締まるのは吉原の仕事とされている。酒井忠清は吉原の営業妨害をするため、義仙を使って、大阪の花街から女性と店管理のノウハウを入手させ、江戸に複数の岡場所を密かに開店させる。吉原への客の入りが悪くなったことから、誠一郎たちもこのことに感づく。吉原は調査によりこうした事実をつかむが、届けを受けた幕府は証拠を押さえることを取りつぶしの要件とする。そのため、誠一郎たちは現場への踏み込みを決意するが、義仙と裏柳生のもの達に妨害される。

もう一人の登場人物が荒木又右衛門、別名「お館さま」、馬鹿力の持ち主であり剣の腕も一流である。彼には柳生への借りがあり義仙を一時は助け、追ってきた吉原首代とそのリーダー玄意を切るが、最後には誠一郎が後水尾上皇の子であることと正義は誠一郎にあることを知り、誠一郎に切られるが、その時、幻斎を相打ちにする。義仙も誠一郎に切られるが最後には生き延びて、僧侶となる。

物語の所々に作者の解説が入るところが面白く、この物語でも吉原の文化が解説されるが、印象的だったのは人殺しを経験した男の見分け方である。昭和20年の終戦後戦地から引き揚げてきた男達を見ると人殺しをしてきたもの達はその目を見ると見分けがついた、と言うのだ。その時、人殺しをしてきたと大きな声で威張るものがいる一方で、そうしたもの達をかわいそうなもの達と見る冷静な目を持つ人たちもいたと良い、物語に急に戻って、その時の登場人物の目がそうした冷静な冷めた目である、という解説になるのである。

皇室と幕府、幕府と旗本、虐げられた階級である流浪の民と武士、などを物語の背景とし、そうした人たちを戦いに敗れた側、差別された側の視点から描いている。剣による戦いの描写、吉原での男女の描写も娯楽小説として面白いのだが、裏に潜む人々と権力の争いや抗争も興味深いものがある。徳川家康の出身階級に関する秘密、後水尾天皇と幕府の確執、柳生一族の興隆などを描いた他の作品もある、よんでみたい。
隆慶一郎全集第七巻 かくれさと苦界行 (第4回/全19巻)

2010年1月19日 鷲の人、龍の人、桜の人 キャメルヤマモト **

生まれ育った国でその人のタイプを決めつけることは危険だが、どういう考え方や傾向を持った人が多くいるを知っておくことは有効である。基準を決めて、それを他の人にも守らせるアメリカ人、信頼できる相手である圏子(チュエンツ)の輪を広げて信頼と誠実さを重要視する中国人、その場の雰囲気に染まりチー ム、組織で物事を進める日本人、著者が主張するのはこういう色分けである。アメリカ人が考えた標準を世界的な標準に仕立て上げて、それを守ることをグローバル対応だと思いこむ、ということは近年度々日本人が経験していること。英語が国際語だ、というのが一番分かりやすい例である。日本人の心理をよく表す文章として、漱石の草枕冒頭があげられている。「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角にこの世は住みにくい」初めて合う人同士では、所属する組織、会社、年齢を知りたがる日本人、場を知る上で、その人が属する組織や年代を知ることは、そこで発生する場を察知する最も有効な手段であることを日本人は知っているからだという。

アメリカ人はビジネスで成功して金持ちになることに何の後ろめたさもない。中国人にとっては学歴、圏子、職歴がお金を更に増やすために必要な投資先であり、単に現金や金を持つことではないと考え、日本人はお金は成功のたまたまの結果であり、お金に執着する人は尊敬されない。

キャリアで考えると、アメリカ人は「アップ オア アウト」、出世できないなら組織を飛び出て新天地を探す。中国人はアメリカ人と同じアップ オア アウトであるが、リスク分散で、自分と親類縁者で各国の各地に分散する。日本人は一つの組織で自分の技を磨き、一流の職人(プロフェッショナル)を目指す。

組織で仕事をする場合に、アメリカでは仕事を部品に分けるモジュール化とマニュアル化が得意、中国人はプロセスの細かいところは飛ばしても、面子と体裁を整える、日本人は担当者同士がすりあわせを行い、上司の意志も確認しながら調整しつつ仕事をこなす。アメリカの職務記述書、日本は職場に慣れる、中国では職務を先例や他社事例からコピーする。

結論として、日本人がすべきポイント3つ。
1. 和風のチームワークを競争によって磨く。
2. 外の人たちと手をつないで強みを取り入れる。(中国人の良さを取り入れる)
3. 標準・基準を作り出す(アメリカ人に学ぶ)

各国人をステレオタイプ化することは本書の目的ではないだろう。特性を知ることで無駄な誤解や摩擦を避けることは賢明なビジネスパースンには必要なこと。一度外国で仕事をしてみれば大いに感ずるところがあり、首肯できる部分も多い。
鷲の人、龍の人、桜の人―米中日のビジネス行動原理 (集英社新書)

2010年1月16日 偽りの明治維新 星亮一 ****

仙台に生まれ、福島民報の記者をした筆者が書いた、会津からみた明治維新の歴史である。歴史は勝者が書く、と言われるが、明治維新での勝者は長州と薩摩、官軍として会津藩を撃滅し、会津若松の地から下北半島の厳しい地に転封、斗南藩とした。そこへの若松からの移住者は極北の慣れない土地で塗炭の苦しみをなめた。

まずは、会津戊辰戦争にお ける薩長連合軍の暴虐を描く。会津側は油断していたようだ。城の外に出ていた主力群がいない鶴ヶ城に攻め込んだ薩長軍に年寄りや女性たちは抵抗したが破れた。城の外でも薩長連合軍は略奪や陵辱を繰り返したという。破れて城を明け渡したときの会津側の人数は約5000人、そのうち病人が284人、老人と子供が575人、女性が1200人近くいたという。

この会津戊辰戦争の原因は元をたどれば、幕府からの京都守護職という依頼を松平容保が受諾してしまったことから来ている。新撰組や京都見回り組が活躍した激動の時代であるが、敵対していた薩長が手を組んだ。このとき京都守護職である松平容保に敵対していたのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、坂本龍馬、そして岩倉具視という錚々たるメンバーである。そこに徳川慶喜の弱腰対応が決定的な敗因を作った。孝明天皇が痘瘡の結果急死してしまったことから、薩長軍の反撃が始まった。明治なって「京都守護職始末」を編纂した元会津藩士山川類右衛門によると、孝明天皇が松平容保を最も信頼していたことを示す文書はあるという。さらに孝明天皇は岩倉具視にヒ素を盛られて毒殺されたという説もあるが立証はされていない。そして薩長軍は錦の御旗を掲げて進軍してきたことが大きかったとも言う。しかし、なによりの敗因は徳川慶喜の江戸への撤退であろう。勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸城は無血開城されたが、会津に京都でいたい目にあった薩長は会津を徹底的に打つことにした。これが会津戊辰戦争である。

この結果、17000人の人々が今の青森県三戸、五戸、野辺地、大畑、下北の地に強制転居させられたのだ。その中に先ほどの山川類右衛門や後に陸軍大将にまでになる柴五郎も含まれていた。山川はその後貴族院議員にまでなるのだが、下北での数年はまさに塗炭の苦しみだった。こうして会津の人々は今でも鹿児島県、山口県への恨みを持っているという。大久保憎し、木戸孝允憎しである。安倍晋三が総理になったときに会津での演説で戊辰戦争にふれ、申し訳ないことをした、と言ったそうだが、それを聴いた会津若松人たちはかえって憤慨したという。「軽すぎる、言葉でなくて墓参りでもしてほしいものだ」と。それほどにこのときの憎悪は代々語り継がれてきているということ。会津戊辰戦争に先立って東北の各藩は連合を組んだというが、会津の人たちの憎しみが際だって深いということ、歴史には表裏があるということだ。
偽りの明治維新―会津戊辰戦争の真実 (だいわ文庫)

2010年1月14日 冬の稲妻(上・下) 神坂次郎 *****

痛快な物語、秀吉に一泡食わした男、種子島に生まれた根来一族の呂宋助左右衛門の半生を描いた物語である。1543年に種子島に漂着したポルトガル船を助けた種子島の島主14代種子島時尭は二丁の鉄砲を贈られた。時尭はこの日から火縄銃に夢中になったという。そして火薬と鉄砲の製造を種子島でやろうと技術の導入に努力する。そのころ種子島に育っていた根来の十郎太は火縄銃の技を身につけ種子島党を立ち上げ、堺を目指す。そして信長のもとで石山本願寺を攻める父のいる和歌山雑賀一族に合流する。その後、信長、秀吉の軍勢に傭兵として荷担、鉄砲や大筒の技術を武器に大活躍、毛利水軍を撃破して信長や秀吉にも認められることになる。

その後、鉄砲の技を持つ雑賀や根来などの一族を恐れた秀吉は、彼らを根絶やしにしようと数万の軍勢を引き連れて根来寺に攻め寄り、十郎太の父は殺される。戦場で父の名前である助左右衛門の名を譲り受けて十郎太は堺に逃れる。堺の町では千利休やその弟子宗二などの茶の湯の面々に保護された助左右衛門は商人となり呂宋交易に身を転ずる。このあたりは野上弥生子の「秀吉と利休」と時代がかぶる。宗二は秀吉の勘気を被り秀吉に殺され、利休も腹を切らされる。助左右衛門の妻となっていた奈々も秀吉の家来に殺された助左右衛門は何とか秀吉に一泡吹かせてやりたい。

呂宋での商品を携えた助左右衛門は二束三文の見た目の良い壺を手みやげに、茶の湯の心などを知りはしない秀吉に利休の力添えを得て高く売りつけることに成功する。呂宋では糞尿瓶と言われている壺をつかまされたことを知った秀吉を騙したことが発覚したときには助左右衛門は呂宋への船旅に出たあとである。豪傑呂宋助左右衛門の半生記である。

こういう豪快なサムライであり商人が本当にいたのかどうか、実際には名前だけしか明らかではなく、詳しくは不明らしいが、天下人にここまで逆らえる人間の物語は読むだけでも小気味よい。サラリーマンに元気をくれる物語である。
海の稲妻〈上〉―根来・種子島衆がゆく (講談社文庫)
海の稲妻〈下〉―根来・種子島衆がゆく (講談社文庫)
今日われ生きてあり (新潮文庫)
縛られた巨人―南方熊楠の生涯 (新潮文庫)
元禄御畳奉行の日記 (中公文庫)
藤原定家の熊野御幸 (角川ソフィア文庫)
猫大名 (中公文庫)

2010年1月11日 人名の世界地図 21世紀研究会 ****

Smithさんは鍛冶屋、Masonさんは石工、この程度は知っている人もいると思うが、Walkerは織物工、Tuckerは布地職人、Parkerは私有庭園の管理人などなど姓は職業を表すケースも多いらしい。もちろん出身地を表すケースも多い。BrettのBritain、ScottのScotlandは分かりやすいが、WalsmanやConnelのWalesはわかりにくい。そのほかNormanのNorway、DenceのDenmark、FlemingのFlandre地方、PettengaleのPortugalなどなど、このバリエーションも多くて、欧米人は名前を聞くだけでお互いの出自を想像するのだろう。また、名前の前後につく接詞で分かるケースも多いらしい。O'が頭に着くとO'Haraなどでアイルランド、Mcが頭に着くMcArthurはScotland系、Ibnやbinは息子の意味でアラブ系、senやzsenが後ろにつくのはオランダ系でJanzsenなど。sonが後ろにつくのはスウェーデン系でAlfredsonなど。

ユダヤ人の名前の特徴も記述がある。ユダヤ人には16世紀頃姓を名乗るのを禁じられていて、ドイツでは領主が植物と金属の名前を売ったという。RosentalやLiliental、Blumental、Apfelbaum、Birnbaumなどは薔薇の谷、百合の谷、花の谷、リンゴの木、梨の木。Goldstein、Sebersteinは金の石、銀の石。その他にはRothchild赤い盾、Rubinstein紅玉石などsteinやsternがつくケースが多いという。その他多い物にはFriedmanで平和の人、Greenberg緑の野原の人、Hoffman宮廷の人、Kaufman商人、Weinbergブドウ畑の人などなど。迫害の歴史を名前に刻んでいるという。

その他の地方でも中国、朝鮮、アラブ、アフリカでも同じように名前の由来があり、国名、地方名、職業などが名前の由来になっている。日本でも沖縄でも名前が薩摩藩による迫害の歴史になっている。黒人の名前も迫害の歴史である。しかし奴隷解放の時に自分で名前を選んだ黒人も多く、そういう場合には白人にも多い名字を選んだという。

差別と迫害が人類の歴史だと思うと、読むと気が重くなる話も多いが、名前を聞くだけで多くの情報が込められていること、知ったかぶりすることには注意が必要だが、知っていて邪魔にはならないだろう。
人名の世界地図 (文春新書)

2010年1月10日 日本人のしきたり 飯倉晴武 ***

八百万の神と仏教、旧暦と十干十二支、氏神と鎮守、ハレとケなどの日本人の信仰から始まり、正月、年中行事、結婚、懐妊と出産、祝い事、贈答、手紙、葬式、縁起にまつわるしきたりとその意味をまとめた物。知っていることも多いが、中に知らなかったことも多い。通して言えることは神事と仏事がまさに混合していること。そのことを我々は深くは意識せず、しきたりとして、または年中行事として実践していると言うこと。

おみくじは元々は田んぼに水を引く順序を決めるのに使われていた。縁日は神や仏に縁のある日が選ばれ、8と12の薬師、18の観音、24の地蔵、寅の日の毘沙門天、牛の日の稲荷、庚申の帝釈天など。いずれも8-24日に設定されるのは太陰暦をベースに決められていた縁日に月夜が明るいため、という。招き猫は世田谷豪徳寺を通りかかった井伊直孝が猫が手招きするので寺に入ったら突然門前に落雷、以降豪徳寺に井伊家は莫大な寄進を行った、などなど。

一読しておくと面白い。
日本人のしきたり―正月行事、豆まき、大安吉日、厄年…に込められた知恵と心 (プレイブックス・インテリジェンス)

2010年1月9日 ニューヨークのとけない魔法 岡田光世 ***

アメリカに高校時代2年間留学、その後ニューヨークの大学で学んで、今は日米を行き来しながらエッセイを書いて、英会話を日本で教えているという著者、ニューヨークが好きなのだそうだ。僕も度々ニューヨークには仕事で訪れたが、確かにこの本に書かれているような情景に出くわした。

地下鉄に乗っていると、「XXに行きたいのだけれどもこの電車で良いのか」と白人女性がこのボクに聞くのだ。びっくりしながら「ボクは日本から来た旅行者ですよ」と答えると、「そう、日本は良いところよねえ、私も一度行きたい」なんていう風に会話が始まる、という話。1988年LAにまだ地下鉄ができる前にボクが仕事で行ったとき、バス停でバスを待っていると同じバス停で待っている白人のおばさんが話しかけてきた。「今日は車の鍵を忘れたのよ、仕方がないからバスを待っているの」と言う。何のことかなと思って、「そうですか」と曖昧な答えをすると、「あなたは日本人?」と聞くので「そうです、仕事でLAに来ましたが、今日は休みなので町を見て回ろうと思っているのです」と答えた。そうすると「LAでは気をつけないといけないよ、LAではみんな車に乗るんだから」とかなんとか答えたと思う。要するに、バスに乗るのはよほど貧乏人であり、危ないんだよ、ということを旅行者のボクをみて黙ってはいられなかった、ということだ。さらに自分は今日は鍵を忘れただけで、本当は車で通っているのよ、とも言いたかったのだろう。

確かに、LAやNYCにはいろいろな人たちが住んでいて、一歩外に出ると緊張する。西海岸でも東海岸でもアメリカの都会に住んだことがある人は経験する緊張感、これが日本にはない。日本では東京の夜の地下鉄でも電車の中で寝る、これが一番の特徴だと思う。NYCならまずあり得ない。東京の地下鉄で一人で通う私立の学校に通う小学生達がいる、それも何人も、これは日本以外ではあり得ないのではないか。誰にでも挨拶して、気軽に話をするのはこの危険の裏返しなのではないかと思う。どんな人がいるかわからないから、まずは話をしてみて危険度合いを調べよう、と。日本ではまずそんなに危険なことなど起こらないと思いこんでいるので、夜の地下鉄でさえ眠り込んでしまう。

「Hi! guys」という声掛けをしながら子供が大人達に向かって話しかける、日本語で日本人が日本でやれば失礼なガキども、となること請け合いだが、アメリカの都会では日常茶飯事だ。アメリカのオフィスで同僚に物を頼むのに、いちいち「すみませんがこれお願いできますか」などという人はいない。いきなり仕事の内容を依頼するに違いない。日本では外で無愛想な人でも、同僚同士では「XXさん、これお願いします」とか言っているのは身内での摩擦を避けるためだとボクは解釈している。

だからどうした、と言うことはないことはないが、それは文化の違い、好き嫌いはあると思うが違うのだから仕方がない。こういうNYが好きになる人が沢山いると言うこと、これは良いこと、世界にはいろんな国や人たちがいるのだから。
ニューヨークのとけない魔法 (文春文庫)

2010年1月9日 吉原御免状 隆慶一郎 *****

これは面白い本に出会ったものだ、この方は脚本家として活躍してきたが、71歳で小説デビューして5年の間活躍したが76歳でなくなっている、もっともっと書いてほしかった。

時代は明暦3年(1657年)、幼い頃から宮本武蔵に剣術を鍛えられた松永誠一郎が育てられた肥後からの旅で、江戸は吉原を訪れる。武蔵は死ぬときに、誠一郎の養育にあたっては、剣術は教えるな、そして誠一郎が26歳になったら江戸に向かわせ、吉原遊郭の庄司甚右衛門を尋ねさせよと、遺言したという。誠一郎は自分は捨て子であり、武蔵に育てられたことしかしらず、甚右衛門は誰なのな、なぜ尋ねさせたかを知らない。

誠一郎が吉原の町に到着し、そこにいた人間と会話、「神君御免状を探しに来た」と言ったとたん、急に周りからの殺気を感じた。その日は8月14日、遊郭が元あった場所から今の場所に移転、新吉原が誕生して営業開始する最初の日にあたっていた。誠一郎を迎えたのは三味線が奏でる清掻(きよすががき)、その三味線の音を聞きながら、甚右衛門を訪ねるならここに行きなさい、と言われた西田屋に行くが、すでに庄司甚右衛門は13年前に死んでいた。

西田屋では幻斎とよばれる老人が登場、旗本であり吉原を徘徊する水野十郎左衛門と、彼がリーダーの神祗組がいる。花魁の高尾やライバルの勝山、そして誠一郎をなぜか慕う9歳の女の子おしゃぶ、さらに誠一郎を襲う忍者のような影のもの達がうごめく。その背景は読者にもしばらくわからない。しかし、吉原は幕府やその他の町からは独立した地域であり、影のもの達たちは柳生一族が雇った忍者であることが分かる。さらには神君御免状と誠一郎出生の謎である。家康が江戸開府に際して、庄司甚右衛門に与えた遊郭を運営し独立自営を免許する御免状、柳生一族はこれを奪おうとしているのだ。そして誠一郎は後水尾上皇の御落胤であることも判明する。

そして、江戸時代に虐げられていた人たちが登場してくるのだ。遊女の誕生の歴史、非人、日本におけるジプシーである傀儡子(くぐつ)一族などが物語の伏線にあることが語られる。単なる剣術使いの話ではなかったのである。「道々の輩(ともがら)」とよばれていたジプシーのような流浪の民は、時の為政者である徳川幕府にとっては邪魔な存在となっていた。「道々の輩(ともがら)」には山伏や巫女、修験者などの傀儡子(くぐつ)一族を始めとして海民、・山民、鍛冶・番匠(大工)・鋳物師の職人達。楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる芸能の民。陰陽師・医師・歌人・能書・算道など知識を売る面々と武芸を売る武人。博打打ち・囲碁打ちなどの勝負師。巫女・勧進聖・宣教師、そして各宗派の公界僧たち、これらすべて道々の輩であり、日本全国を自由の行き来、主人を持たず自由に振る舞い生きる人たちである。そしてこうした人たちは、室町・戦国の時代までは自由に全国を往来していたのが、この時代には差別され社会の片隅に吹き寄せられていた。遊郭の住民はこうした被差別民の一族、出身者であると筆者は解説している。

そして吉原の人々は家康から吉原で自立し独立した集団であり地域として活動する免状をもらっていた、というのが物語の背景である。そのおかげで江戸時代の差別と逆境の中で耐えることができたというのだ。そして家康は関ヶ原の戦いで殺されており、その後は影武者が家康となっていた。また、明智光秀は死んでおらず、南光坊天海として江戸時代にまで力をふるっていた。

物語を紡ぐ中でつぎつぎと歴史の裏側の逸話をあぶり出し、その伏流水として江戸時代に存在した差別、道々の輩と呼ばれる自由民達を抑圧していた仕組みを解説する。さらに家康自身の出自が自由民であったこともあぶり出す。吉原の話であるため、花魁の生活やそこに通った男達の欲望、吉原のしきたりや儀式なども描写されて面白い。

遊女の中でも最高の格式を持つ花魁と遊ぶための段取りも紹介されている。最初は初会、お見合いであり、面会して花魁は何もせず別れるのである。この小説で誠一郎の相方に選ばれたのは高尾太夫。2回目は「裏」と呼ばれ花魁の美しさを演出する。部屋に焚きこめられる香、花魁が美しく見えるための燭台の位置、太夫の仕草など工夫が凝らされるという。「裏」では花魁は持てる芸を披露、相手の気を引こうとする。また酒の酌み交わしもある。三度めの出会いでやっと「馴染み」になる。

傀儡子(くぐつ)一族の女性は湯女としての特技を持っていたという。今で言う「垢すり」のようなものか。もとは有馬の湯女が伝えたとされ、江戸時代には傀儡子(くぐつ)一族が抑圧されて途絶えたと言われていた。しかし、地方の温泉では連綿と後代まで伝えられていたらしい文書が残されているという。藤波剛一による「東西沐浴史話」によると佐渡島の小木に立ち寄った尾崎紅葉はこの媚術によって恍惚の境に運ばれたという。こうしたちょっとした挿話が至る所に語られていて興味は尽きない。

是非一読をおすすめする。
吉原御免状 (新潮文庫)
一夢庵風流記 (新潮文庫)
影武者徳川家康〈上〉 (新潮文庫)
影武者徳川家康〈中〉 (新潮文庫)
影武者徳川家康〈下〉 (新潮文庫)
死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)
死ぬことと見つけたり〈下〉 (新潮文庫)
かくれさと苦界行 (新潮文庫)
花と火の帝〈上〉 (講談社文庫)
花と火の帝〈下〉 (講談社文庫)
捨て童子・松平忠輝〈上〉 (講談社文庫)
捨て童子・松平忠輝〈中〉 (講談社文庫)
捨て童子・松平忠輝〈下〉 (講談社文庫)
柳生非情剣 (講談社文庫)
かぶいて候 (集英社文庫)
柳生刺客状 (講談社文庫)

2010年1月7日 エクサバイト 服部真澄 ***

物語の時代設定は2025年、日本やアメリカ、イタリアでのお話しであるが、場所がどこであるかは重要ではない。「ユニット」と呼ばれる映像記録装置が極小化され人体に埋め込まれることで、埋め込まれた人が見ていたすべての映像が記録されるというもの。それを開発販売するのがグラフィコムという会社。ユニットを装着する人たちが増えて、個人情報保護や情報セキュリティの視点が話しを彩る。その画像データを計測する単位がエクサ(10の18乗)バイトだという話し。現実世界ではPCのメモリー容量がメガ(10の6乗)バイトからギガ(10の9乗)バイトに移行中、ディスク容量はギガバイトからテラ(10の12乗)バイトへ、テラバイトの上(1000倍)はペタ(10の15乗)バイト、その上がエクサ(10の18乗)、ゼタ(10の21乗)、ヨタ(10の24乗)、今のところここまでは決められているらしい。世界の多くの人たちがそのユニットを装着したいと思う、そして自分の人生の記録を残しだした、そうすると何が起こるか、というシミュレーション物語だ。日本人映像プロデューサのナカジは、そうした情報をどのようにビジネスにできるかを考えている。同じようなことを考えているのがもう一人の登場人物エクサバイト社のローレン・リナ・バーグ。二人で話し合うのは、世界中の人のユニットを死後回収して、回収して集積した映像データをベースにして世界中の歴史を映像化、集大成してしまおう、という思いつき。ここにグラフィコム社から横やりが入る。

読みやすいのでどんどん読んでしまい、朝を迎えてしまう、なんていう人もいるだろう。どんでん返しや思わぬプロットが組み込まれていて飽きない。自分が「ユニット」を着けるだろうか、と考えると「否」、拒否ですな。ユニットを着けた人と付き合いたいか、「否」。交差点やコンビニ、商店街、高速道路などに設置されているカメラでさえ抵抗感があるのに、プライバシーまで映像化するのはあり得ないオプションだ。着想、ストーリー、問題点指摘などでは面白いと思える小説だが、現実感はあまりない。人のプライバシーは覗きたいが自分のプライバシーなど晒したくない、誰でも思うこと。しかし、情報集積や記録密度の高度化、映像処理技術の発展速度を考えれば、技術的な実現性はかなりあると思う。メガネに埋め込める映像投影&記録装置であればすぐにでもできそうだ。後は検索技術、Googleが実践しているサービスの延長線上には、映像情報さえ集約されていれば可能、とも考えられる。やはり問題は検索の後の情報処理技術だろう。不要な情報からいかに必要な、欲する情報を取り出して見やすい形に編集するか。しかし、これも時間の問題かもしれない。iPhoneはこうした話しのとっかかりになる携帯端末かもしれない。
エクサバイト

2010年1月6日 客室乗務員は見た! 伊集院憲弘 **

JALの元チーフパーサーによるさまざまなとんでもない乗客の実話集。傍若無人な大物総会屋カップルは窓の汚れを指摘、外側の汚れ何も関わらず今すぐ拭きなさい、と乗務員に命じた。どうしてもシートベルトを締めない競馬馬の買い付け業者、「日本競馬界のために締めてください」との言葉で締めてくれたそうだ。有名な帝人社長夫人はいくつもの持ち込み手荷物を機内に持ち込み、隣の席には他の客の予約を入れさせなかった。機内食とお酒にまつわるわがままな要求、アテンダントを召し使い扱いするVIP、かき氷が食べたいと泣き叫ぶファーストクラスに乗った子供、アテンダントのスカートの中を盗撮する客、暴力をふるう、お産、トイレに時計や財布を流してしまうなどなど、想像もできないわがまま顧客のお話。これでも女子学生はキャビンアテンダントになりたいでしょうか。
客室乗務員は見た! (新潮文庫)

2010年1月6日 日本語の美 ドナルド・キーン ***

キーンが日本語で書いたエッセイ集。「私の20世紀のクロニクル」との重複は後半少々あるが、面白い発見もあった。「中央公論」は戦時中発禁になったのは「うちてしやまむ」という戦争標語を表紙に載せるのを断ったからだという話し、佐高信も書いていた。旅先でふと知り合った人と話の接ぎ穂に困ったときには「方言」の話しをすればいい、というのも至言。相手が地方人であればあるほど盛り上がるだろう。明治5年に太陰暦を太陽暦に変えたときの話し、時の為政者が明治になって年俸制から月給制になったため、給料を13回払いたくなかったので太陽暦にした、とのこと。そもそも閏月に生まれた人の生まれ月は何月だったのだろう。

日本語でイギリスはなぜ英国というか。中国語の「英国」の読みが「イング」に近かったから。ベルギー(白耳義)やメキシコ(墨西哥)もそうらしい。その他、安部公房が儀式を嫌っていて、表彰などの出席をえらく嫌っていたこと、円仁の「入唐求法行状記」を最初に研究したのはライシャワー博士だったこと、などなど。キーンが如何に日本文学と深く関わってきたかを物語る。
日本語の美 (中公文庫)

2010年1月5日 許されざる者、筆刀両断 佐高信 ***

権威を振りかざすものと権威に擦り寄るものに舌鋒鋭く攻撃の矢を放つ筆者の自慢話集、かな。僕は筆者の立ち位置は嫌いではないが、やはり「どうだ、ここまで言うやつはいないだろう」という自慢話にも聞こえるのは考え過ぎか。

一方、権威に楯突く人間には随分点が甘い。田中真紀子、田中康夫、土井たかこ、福島瑞穂などの政治家には相当の弱点と嫌味があると思うのだが、筆者はほぼ好意的に取り扱っている。幸田真音、高杉良、城山三郎、西木正明、藤沢周平は大好きなようだ。辛淑玉、テリー伊藤、金子勝は大好きで、中坊公平と木村剛は大嫌いのようで、いずれにしてもはっきりと嫌悪を表明することが重要らしい。

自民党の最近の歴代総理小渕、森、小泉は反吐がでるほど嫌い、これはよくわかる。櫻井よしこ、この人と共同戦線を張っている、これが今ひとつ理解できないが、まあいいか。
許されざる者、筆刀両断! (ちくま文庫)

2010年1月5日 私と20世紀のクロニクル ドナルド・キーン ***

日本と日本人を愛して、日本文学を研究し続けたアメリカ人の自伝。谷崎潤一郎や三島由紀夫徒の交流などは自慢話になりがちだと思うが、とても素直に読めた。キーンは1922年のニューヨーク生まれ、9歳の時に父と欧州旅行に行き、飛行機にも乗ったと言うことで学校でもヨーロッパと飛行機の感想を皆に聞かれ、これが大変印象的だったとのこと。飲料会社の宣伝文句、アイルランドで見たのは「わが社の紅茶も飲んでみてください、美味しいですよ」アメリカなら差詰め「わが社の紅茶は世界一」となるところ、文化の違いに最初に気づいたという。

語学の才能があった筆者は16才でコロンビア大学に飛び級入学、源氏物語に熱中した。そして太平洋戦争、日本語が分かる人材として米国海軍に採用、ハワイからアッツ島、ガダルカナル島、沖縄と日本軍人が残した日記を解読するという任務に携わった。そして終戦、東京での任務を終えて帰米、ハーバード大学でライシャワー博士に学ぶ。そのご日本留学、京都に住む。そこで永井道雄と嶋中鵬二と知り合う。日本文学を学ぶ中で三島由紀夫とも知り合い、各種の賞の選考委員となったときに三島を推薦するが果たせず。三島は1970年秋に自決、その夏にも三島と夏の休日を三島の下田の別荘で過ごしたという。その後三島の葬儀委員長は川端康成が務めたが、その川端も自殺、筆者によるとノーベル賞受賞者は本来は三島であったが、まだ若く、偏向しているという話しがあって川端となったとのこと。三島はノーベル賞をほしがっていたのを知っていた著者は、川端康成の受賞で地理的要件からもう三島には20年は回ってこない、これが三島の自決を早めたと推測。また、川端の自殺もノーベル賞受賞後に良い作品を書けなかったことによると推測。一つのノーベル賞が二人の大作家を死に追いやったと悔いている。

筆者には多くの著書がある。「百代の過客」は日本人による平安から江戸時代にかけての日記の解説、朝日新聞への連載を本にしたもの。「明治天皇」は父である孝明天皇の時代から書きおこした大著である。その他、「日本文学の歴史」を25年かけて書いた。キーンほど日本人のことが好きで、自分も日本人の心を持ち、日本人の心を知っている人間は日本人の中でも少ないのではないか。もう88才になるキーン、長生きしていただきたい。
私と20世紀のクロニクル

2010年1月2日 風のまつり 椎名誠 **

カメラマン、神田六平が奄美か沖縄の小島と思われるような小さな南の島にきて、海の生き物図鑑に使う写真を撮る、という仕事をすることになった。ロイヤルホテルに宿泊するのだが、客は少なく、フロントには捨三という男がサービスをしていた。島では「おじゃれ舟」という売春宿を営む氏浦ミヤコという女性と知り合うが、彼女は六平にとっては謎に包まれている。島では選挙が始まるらしかった。六平は町のスナックでホテルの捨三にありもしない疑いをかけられた上に突き飛ばされる。どうも選挙、ロイヤルホテルの買収話などが渦巻いていて、東京から探偵が探りにきた、と六平は疑われているようだ。写真を撮る、というのもどうも怪しまれている。そういうドタバタに巻き込まれ、六平はたびたびひどい目に遭う。そうこうするうちに島に台風がきて、ホテルは被害に遭う。台風一過の次の日、島で年に一度開かれるという「風車の祭り」を見に行くことになる。そこで謎の女性ミヤコに会う。ミヤコは夜の7時にもう一度きてほしい、と六平に伝える。7時にきてみるとミヤコは浴衣を着て待ていた。そして浴衣を脱ぐと裸になって見事な泳ぎを披露した。そういう話だ。椎名誠の本ということでもう少し期待したが、まあ、正月の時間つぶしにはもってこい。
風のまつり (講談社文庫)

2010年1月1日 おかめなふたり 群ようこ **

正月元旦、初詣に行っておせちを食べて、つまらないテレビから逃げるようにして本を読んでみようと思って手に取った本、それがこれ。群ようこさんが子猫を拾って責任感からその面倒をみるうちに可愛くなり、愛情を注ぐのだが猫の「しーちゃん」はワガママで子供っぽいところがいつまでも抜けない。仕事で昼間家をあけると、機嫌が悪い。朝夕の食事でえさの缶詰の種類を変えないと食べない、ドライフードよりも缶詰を好みご飯は食べない、言うことは全然聞かない、などわがまま放題なのだが、これがどうも可愛いらしい。マンションに猫を飼う、どうも戴けないと思うのだが、飼っている人は多いようだ。夜はベッドで一緒に寝るとか、僕には信じられないが猫好きには楽しい話なのだろう。自分こそは猫好き、という方にはとても人ごととは思えないエピソードばかりではないのだろうか。
おかめなふたり (幻冬舎文庫)

2010年1月1日 万世一系のひみつ 竹内久美子 **

今まで出版された本をQ&Aのようにまとめた本。そんなバカな!やシンメトリーな男を読んだ方にはおなじみの話。主張があったのは「XY遺伝子」のYを残そうとするのが父系を継いで現在まできている天皇家のお世継ぎ問題。ここは何としても男子で、直系でなくても宮家の男子から次世代天皇を出してほしいという、遺伝生物学者としての主張である。世界で一番古い家系を持つという日本の天皇家、どうでもいいよ、という話ではないと思うが、誰が結論を出せるという問題でもない。急ぐ必要はないが、そのうち決めなければならない問題でもある。宮内庁が決めたり、国会が決めたりするのも限界があり、国民がどう思うかである。遺伝生物学は一つの見方であり、男子相続を主張する皆さんには理論的支えともなる主張である、が、まあしかしそれだけの話である。竹内さんには遺伝子学エッセイに集中してもらった方が面白いと思うがどうだろうか。
遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)
そんなバカな!―遺伝子と神について (文春文庫)
遺伝子が解く! 女の唇のひみつ 「私が、答えます」〈2〉 (文春文庫)
遺伝子が解く!男の指のひみつ (文春文庫―私が、答えます)
もっとウソを!―男と女と科学の悦楽 (文春文庫)
アタマはスローな方がいい!?―遺伝子が解く! (文春文庫)
遺伝子が解く!愛と性の「なぜ」 (文春文庫)

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