読書日記(2009年1-3月)

2009年3月30日 異邦人の夜 梁石日 ☺☺☺

梁石日の小説はいくつか読みましたが、「血と骨」がやはり印象に残っています。主人公は金俊平、ヤクザもおそれて近づかないという、筆者の父をモデルとしたという男。ケダモノなのか人間離れした存在、どのような言い方をしても表現しきれないような、暴力とエゴのかたまりでした。その印象が強くてほかの作品の印象が薄い、というのも物足りない気もしますが、この異邦人の夜、これは記憶に残ると思います。フィリピンからきたマリアと韓国に生まれ日本にきて日本人と結婚、不動産で財をなす木村秀夫、この二人が様々な運命に踊らされ、結局はその出自からは逃れられない物語。マリアの恋人榎本、その榎本に5000万円の金を渡したのは木村、榎本はその金が元で殺されてしまう。マリアは残された5000万円を持って逃げるが、逃げるときにヤクザを二人殺すため警察とヤクザから追われる身となる。六本木で金を元手にクラブを開業、ビジネスを広げようとするとヤクザに邪魔をされる。一方、木村の娘で何不自由なく育ってきた貴子は、韓国性であるコウ、韓国名であるキジャを名乗ろうと裁判を起こす。父の故郷である韓国に渡り、父のふるさとに両親と祖父母の墓を見つける。墓のそばで父の生い立ちにまつわる秘密を知ることになる。マリアも木村もその生まれを隠そうともがくが、結局少しずつ生まれの秘密はばれてしまい、マリアは自殺、木村は生まれ故郷で警察に逮捕される。在日韓国朝鮮人は60万人、フィリピンなどアジアからの出稼ぎ労働者も10万人以上いると思われますが、不正滞在やその他で正確な統計はないと思います。そうした方々がどういう立場、どのような思いをもって日本で生きているのか、この小説はほんの一面かもしれませんが日本の読者に見せているのだと思います。アジア諸国からの出稼ぎにはヤクザが絡み、在日コリアンには政治家と北朝鮮が絡む、そうしたこともこの小説では描かれていると思います。アメリカには日本の何倍もの移民が住んでいて、日本以上に差別や生活格差が存在しますが、そのことをアメリカ人は知っています。知っているのか知らないのか、認識があるかないか、これは大きな違い、何が正義か、何が悪なのか、立場によって様々、このような実態があること日本に住む私たちはいつも認識しておく必要があると思います。

2009年3月29日 京都に強くなる75章 京都高等社会科研究会 ☺☺☺☺

京都の高等学校の現役社会科の先生たちが共同執筆した京都案内、歴史視点での京都案内で面白く読めます。京都案内というと、嵐山、清水寺、金閣寺などの観光地案内とグルメや旅館案内、お祭りやマーケットのイベント案内というのが定番、歴史を看板に据えての案内は 千年の都らしいといえます。僕が面白かったのは「巨椋池」、京都の南に昔あった巨大な池を1932年に干拓、今は住宅地や高速道路が走ります。地名には向島、中書島などという駅名や西浦、蓮池などの地名にも残ります。木幡(こわた)や大和田も「ワタ」という入り江を表す言葉からきているとは中学生の時に習ったこと、思い出されます。今元気で面白い京都の古本屋さんの紹介もユニーク、東京では神田の古本屋街ですが、京都にも京大の周辺から三条河原町までたくさんあるということ、この不況の時代を経ても河原町近辺の古本屋さんは一軒も廃業していないことなどを紹介しています。京都の町とその周辺の面白さを歴史を切り口にほじくり返してやろうという社会科の先生たちの熱意がほとばしっています。京都好きには是非におすすめしたい逸品です。

2009年3月28日 都電百景百話、続都電百景百話 雪廼舎 閑人 ☺☺☺☺

今では荒川線しか走っていない都電、この本が出版されたのは昭和57年、掲載されている写真の多くは昭和42−43年に撮影されたもの、この45年の間に東京がたどってきた歴史と変化を感じさせてくれる非常におもしろい本です。左のページに都電の写真、右ページにその解説、というのがこの本の構成。皇居から始まり大手町、神田、日本橋、茅場町、銀座、築地、月島、門前仲町、森下、錦糸町、などなど古き良き時代の東京が都電を通して紹介されている。昭和42年といえば3年前に開催された東京オリンピックを目指して作られた首都高で町の景色と交通が一変したとき、都電の写真にも大きな影響が見られます。また、雪の都電写真が多く見られ、雪が降ったら写真を撮る、という筆者の意気込みも感じられます。しかし、東京で30センチの雪が積もることは今ではまれなこと、写真には多くの雪景色があり、この50年近くでの温暖化を感じざるを得ません。江戸時代の地図と昭和初期の地図、そしてこの本を手元に比べると、東京という町がどのような大きな変化を遂げてきたかが感じられます。本著と続編はそれぞれなんと2500円という高額本、僕はたまたま社内オークションで2冊350円で入手、ラッキーてしたが、この本を30年前に買った方もいるはず、皆さん大切に保管しておいてほしいと切にお願いします、貴重な都市資料だと思います。

2009年3月24日 明日への疾走 キム・ウーゼンクラフト ☺☺☺☺

アメリカ東部の中流家庭で何の不自由もなく育ったゲイルは、そんな平和でなんでもない生活から逃げたくて、そしてたまたま好きになった相手がテロを前提とする革命家だったため、銀行強盗を企て、人を殺した罪に問われて、18年間監獄で過ごしてきた。もうひとりの警官ダイアンは身に覚えのない麻薬所持の罪でいい加減な裁判を経た後に監獄入りした24歳、テキサス出身。一つの監房に入れられた女性二人が協力して脱獄する。若いダイアンは自らにかけられた冤罪をはらしたい、ゲールは失われた人生を取り戻すため、トラックにヒッチイハイクしてニューヨークへ入り、つてを頼ってシカゴ、そしてダラスへと逃亡を重ねる。ゲイルとダイアンは刑務所で知り合っただけの知り合いだが、信頼感で結ばれる。逃亡の道々でゲイルの革命活動時代の友人達に助けられるが、ダイアンにはその人間たちが信用できるように思えない。ダイアンが信じられるのは警官時代につきあっていたレンフロだけ、彼を頼って出身地に戻って冤罪を晴らそうとするダイアン、それを止めようとするゲイル。ダイアンを陥れたのは疑っていた保安官ではなく、仲間だと思っていたエファードとその仲間。ストーリー展開が軽快で、ストーリーにも無理なく物語に引き込まれる、作者は元麻薬捜査官、経験と知識を生かした描写はさすが、アメリカでの保守と改革派、共和党と民主党、ブッシュとオバマ、シニア世代と若者世代などという価値観の対立を象徴させ、そして協力させて目標に向かわせる、というアメリカの現状と重ね合わせてみるとおもしろい。日本の四畳半的サスペンスを読んでも決して得られない開放感と舞台の大きさを感じる。

2009年3月18日 熱欲 刑事・鳴沢了 堂場瞬一 ☺☺☺

刑事鳴沢了のシリーズもの、新潟警察署で刑事課担当だった鳴沢は捜査上の行きがかりから人を殺してしまい、青山署生活安全課に異動している。お話はマルチ商法の被害に遭ったと訴えでてきている老人たちとのやりとりから始まる。被害は予想以上に大きく、背後には木村インターナショナル、K商事の存在と実質的に詐欺工作を取り仕切っている数名の人間が見えるが、詐欺の立証をできるような証拠を残していない。マルチ商法であり、被害者が加害者にもなることから被害届けを出すこともためらう被害者も多いと想像できる。同じ頃、ドメスティックバイオレエンス被害にあってDV被害者を守るNPOに逃げ込んでいる被害者からの通報があり駆けつけて、DV被害者沙織とNPO職員、優美と出会う、これも生活安全課の仕事。町で鳴沢の米国留学時代のルームメイトで今はNY警察刑事である内藤七海と偶然出会い、祖母の住む自宅に招かれると、そこに優美がいる、七海の妹だった。ここからマルチ商法被害とDV被害、七海の日本での活動目的が徐々に一つの線上に重なってくる。鳴沢は優美に引かれ、優美との会話の中で新潟警察での出来事がトラウマになっていること告白する。事件の概要が徐々に明かされてくるとともに、背後にいる中国人トミーワンの存在が七海の目的だったこともわかってくる。警察官の仕事を誇り高きやりがいある仕事であると書いている点、同じ警察小説を書いている黒川博行とは異なる。黒川の小説では人は死なないが、警察内部に存在する問題をえぐり出すように描写する。堂場は鳴沢の心の中の葛藤は描くが、警察の暗部にメスを入れることはしていない。中国人を使った殺人のからくりやマルチ商法とDVという現在の問題を題材にした読み始めると最後までやめられないお話、警察小説好きには格好の読み物。

2009年3月17日 21世紀の国富論 原丈人 ☺☺☺☺☺

日経ビジネス3月16日号に原 丈人(ジョージ)さんが取り上げられていました、タイトルは「株主至上主義の歪みを糺せ」。糺すとは根源までさかのぼって間違いを直すこと、株主価値最大化を追求する資本主義から、企業の社員、顧客、地域社会、株主の利益のバランスをとって長期的な成長を図ること、市場で競争しながらも事業を通じて社会に貢献する「公益資本主義」に、という主張です。原さんの著書「21世紀の国富論」は2007年に出版されたその時に読んだ本、再読してみて原さんの主張がその通りに現実となっていること感じました。

原丈人さんの本業はベンチャーキャピタリスト、「21世紀の国富論」は、現在の資本主義経済の行き詰まり指摘と未来に向けての提言です。原丈人さん自身がアメリカの共和党のアドバイザーであって、アメリカがリーマンショック前、バブルの時期にベンチャーキャピタリストが自らの批判を行う、経済人にはこうした姿勢も必要だと思います。

著書では、近年の経済が今に至るまでに、どういう歩みをしてきたか、日本がこれからどう進むべきか、という原さん自身の考えを示しています。原さんは、アメリカ追従ではない日本独自の資本主義のルールを創り、新しい産業を創出するためのベンチャー投資を行なえるような土壌を作るということが必要であるとして次のような主張をしています。

現在の資本主義のシステムについて、一体何が問題なのかを提示、原さんによると、ROE最大化、時価会計、減損会計といったような、アメリカ資本主義のルールが問題だとのこと。特にROE最大化を経営管理の判断基準ではなく経営目的としてしまい、短期的視点での経営がなされるということを問題としています。加えてストックオプション制度、ヘッジファンドの問題を指摘しています。ストックオプション制度はCEOが任期中の株価を上げることを最優先事項とし、短期的に利ざやを稼ぎ、結果として問題となる企業体質の改善はなされないケースが多いと主張しています。ヘッジファンドにも短期的視点から、モノ言う株主として「内部留保よりも配当重視」などと改革を提言し、株価の上昇による利ざや狙いをするという点で問題があるとしています。これは、リーマンショック以降、アメリカの優良企業といわれた大企業や投資ファンドの問題点として今改めて指摘されていることです。アメリカの企業で政府の支援を受けながらも経営者が多額の報酬を受け取ろうとして批判されていることとも同根かもしれません。

原さんは、新しい産業とは何か、についても述べています。原さんご自身はマイクロソフトと90年代には競合したボーランドへの出資者であり、PCに接続するカメラなどを製造するピクセラにも出資、IT産業に深い関心を持っておられるのですが、IT産業以外にも成り立つ原則として使えそうです。「パソコンは使い勝手が悪く、人間が機械に合わせる。これからは機械が人間に合わせる時代です」、「これから十数年のあいだにパソコンは終焉の時代を迎えるでしょう。少なくとも、パソコンがその主役である『情報社会』は崩れるでしょう」、「どんな国でも、産業や文化、教育にあたってもっとも重要なインフラは交通と通信です。なかでも、21世紀には通信インフラの整備がますます重要なポイントとなるはずです」。日本でも一時話題になった「ユビキタス」、原さんはこれを、「使っていることを感じさせず、どこにでも遍在し利用できるコミュニケーション機能を持つPUC(Pervasive Ubiquitous Communication)」と表現、PCのあとにはPUC技術を中心に据えた基幹産業を創出すること提唱しています。

原さんは企業の社会的責任についても言及しています。「会社の存在価値は、まず事業を通じて社会に貢献することが第一で、その結果として株主にも利益をもたらすというのが本来の姿です。企業価値の向上は結果であって目的にはなりえないのです。しかし、目的を実現させるためにあるはずの手段を、目的であると勘違いしてしまう悲しい習性をもつのが、人間というものなのかもしれません。手段と目的の転倒というこの現象をもたらすもの、私はその最も大きな原因がものごとの数値化にあると考えています。人間が幸せになると言うことが一番の目的で、お金持ちになることやGDPをあげることは幸せになるための手段でしかないのです。しかし、お金やGDPは目的化され、その思考が個人にまで波及する。仕事を通じて生きがいをつくり、その結果として個人も金銭的な富や社会的充実感を得る。その実現のために会社があります。」

アメリカは多様な人々の集合体であり、人種、宗教、出身国、肌の色の違いなどを一括りにできる唯一の価値観として「お金」があるのではないか、「お金持ちになれば幸せになれる」と幸福を量る物差しはお金、とせざるを得ないところに「アメリカの病」はあると原さんは主張しています。スタンフォードビジネススクール出身の原さんは「ハーバードのビジネススクールは『しゃべり方教室』、一のことを十あるようにニコニコと自信たっぷりに話す方法を教え、スタンフォードのビジネススクールは『そろばん教室』、株価を短期にいかに上げるかを教えます。要するに自分を魅せる術のトレーニングがビジネススクールであり、企業活動をとおして社会に貢献することなど教えてはいないのです。」と別のインタビューで説明しています。

「短期的株価上昇を狙うヘッジファンドの言うとおり、研究開発などに必要な内部留保まで配当に回し、邪道の財務手法を駆使する株価至上主義にはノーを突き付けることが重要であり、新しい基幹産業は新しい技術がつくると考え、必要な研究開発投資は長期的視点に立って行うこと、企業は株主のものという考え方では新しい技術は生み出せない」というのが原さんの主張、会計基準や資本のグローバル化とともに、アメリカだけを手本としているようでは日本は行き詰まると警告を発しています。原さんが著書の中で繰り返し述べているのは「会社は株主のためにあるのではなく、製品やサービスを通して社会に貢献するためにある」というもの、長期的視点に立った経営者としての考え方の基本ではないかと感じます。

先ほどのPUCという概念に基づく新たな基幹産業は、開発途上国も含めた広いマーケットでの普及を想定して研究開発がなされるべきとも述べています。「通信インフラという面で発展途上国が先進国と肩を並べるようになれば、新しい技術は先進国が先ずその便益を享受し、かなりの年月がたってから『援助』という形で途上国に伝播していくという、これまでの構図が大きく崩れていきます。」この説明として、原さんがバングラデシュのNGOであるBRACと合弁で遠隔医療、遠隔教育の普及に向けたコミュニケーション技術開発の事業を始めたことが紹介されています。「医療や教育などの分野では、ODAなどの効率の悪い政府経由の援助ではなく、新しい投資モデルによって低いコストで高い効果を得る道を模索していくべき」と自ら立ち上げ旗振りをしているBRACを例にとって説明しています。

ODAは、国民からの税収で大規模に実行されるのが常ですが、その役割を大きく見直す必要がある、という主張もあります。「税金の仕組みを変えることで、 個人や企業の資金をこの支援分野へ積極的に導いていくことが大切です。投資であるにせよ、寄付であるにせよ、NGOのように全額を損金扱いにすることができれば、税金として払うよりも『途上国』の事業に直接関わりたいという人々は潜在的にもっといる。」原さん自身の資金も含めて、民間の資金が世界の人々の生活を豊かにする新しい技術の育成や、途上国を支援するような事業へと積極的に流れていくための仕組みづくりが必要だとしています。また、こうしたNGOのような事業に関わる人々の意欲をもり立てることが重要であり、私たち日本がリーダシップをとって取り組めることだと原さんは主張しています。

ベンチャーキャピタル(VC)、原さんによるとVCとは「製造業、技術を持つ起業家がゼロから事業を立ち上げ、世の中に役立つ製品を開発することを経営にも関与して支援しお金を儲けること」。日経ビジネスの同じ号に「宴の後の買収ファンド」という記事があり、3兆円の投資マネーが回収できていない、という金融危機の波紋についての解説がありましたが、原さんのようなVCとは異なる考え方による投資ファンドの結末だとも思えます。原さんが指摘する米国型資本主義の限界について考えてみると、イギリスやアメリカが20世紀に行ってきた「市場開拓」は新たな消費者(国)の開拓であり、日本も太平洋戦争後に同様の「市場開拓」を行ってきたと気づきます。さらに、現在の経済危機は、米国のサブプライムローンに端を発している、と言われていますが、21世紀になり、新市場だったアジアやアフリカ諸国が力を付け、さらなる新市場が枯渇してきたことが、現在の事態の背景にあるのではないかとも考えられます。米国型資本主義の行き詰まりとは、農耕→工業→サービスと産業形態を転換させ、消費国→生産国→輸出国と技術移転を繰り返しながら、世界を舞台に新たな顧客(消費国)を開拓し続けてきた、大きな「マルチ商法の限界」を意味しているのではないでしょうか。原さんが提唱する「公益資本主義」はその答えとも考えられます。

原さんは、21世紀に日本やアメリカが果たせる役割について、具体的に自らの経験を踏まえて述べていて、グローバルな日本の役割やアメリカが果たしてきた役割について良く考え認識を持つ必要があるということです。アメリカを主なビジネス拠点とする原さんは、自分の役割についてこう言っています。「アメリカを助けるのは日本だよとアメリカ人に教えること」、原さんの経験を聞いてその主張をかみしめていると、私も企業に勤めている人間として広い視野と高い視座、歴史観を持ち、自ら信じることを実行することが重要だと感じます。
 

2009年3月14日 健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか 近藤 克則 ☺☺☺☺☺

そんなに分厚い本ではありません、なのに価格は2625円、買うときにはちょっと迷いましたが、これはお勧めです。まず格差社会はなぜ健康に悪いのか。ジニ係数という貧富の差を表す統計数値がありますが、米国50州を貧富格差が大きい順(ジニ係数が大きい順)に並べて平均寿命を調べると明らかな相関があり、格差の大きいルイジアナ州では寿命は短く、格差の小さいアイオワ州では寿命が長い。OECD諸国で比較してもジニ係数の小さい北欧諸国は長く、係数の大きいスペインやイタリヤは比較的短い、見事に相関しています。企業の中でも21世紀に入って成果主義を導入して社員のモチベーションが下がり、人事制度を人材成長主義と業績をミックスした制度に移行する企業が増えていますが、著者はそこにも触れています。そして、近年のメンタル問題を起こす要因を3つに整理、企業の風土や組織コミュニケーション問題、個人の資質、そして個人が属する家庭やプライバシー。企業としてはストレス耐性とでもいえる自律 型社員育成プログラムを組んで社内教育すると同時に、管理職研修などでパワハラについて気づかせる研修をしていることを指摘。これらは短期的効果は見込めるものの、長期的にはまた元に戻ってしまうと主張。長期的には企業風土や人事制度そのものにメスを入れていかなければメンタル社員を本質的に減らしていくことは難しいとしています。健康教育や介護予防はなぜうまく行かないのか、それは個に働きかけているだけでは難しく、仕組みや組織全体を変えていかないと問題は解決しない、というのが著者の主張。また、結婚はなぜ健康によいのか、話し相手がいる、食生活が安定する、経済的に安定する、社会的な信頼が高まるなど結婚のパートナーがいることと健康維持を強い相関があることと位置づけています。英国の学者たちが、日本の平均寿命が長い理由の一つに、社会的絆の強さをあげているとのこと、確かに、アメリカやイギリスの社会的絆崩壊をみていると、日本のすばらしさを実感します。平日昼間に小学生たちが友達同士で帰れる国というのは珍しいこと私たちは喜ぶべきだと思います。こうした社会的絆の強さはGDPや成長率などでは計れない健康と幸福の尺度かもしれないと感じます。この本、ちょっとお高いですが、何度も読みたい近年まれにみる良書だと思います。

2009年3月11日 人間の幸福 宮本 輝 ☺☺☺

中堅タイルメーカーに勤める中年サラリーマンが主人公、妻はいるが子供はいない、マンションでの二人所帯。主人公には酒の勢いで知り合い月に5万円を渡している女性がいるがその女性が同じマンションに引っ越してきてしまった。そうしたときに、マンションの向かいにすむ家の奥さんが殺されてしまうところから物語は始まる。警察による捜査が始まるとマンション住民の私生活が住民同士の疑心暗鬼の中、少しずつお互いの 知るところとなり日常生活に波紋を広げていく。外見上50歳前後のおとなしい独身婦人が実は多くの男達を手玉に取る魔性の女であったり、子供が不良になり、その息子がマンションで盗みを働いている、という疑念を逆手にとって住民に無理難題を押しつける夫婦がいたり、殺された女性の娘が実は情緒不安定で、マンション住民の子供に励まされながらも手首カットで自殺を繰り返していて、そのことを父親は知らなかったり、などなどの日常生活の裏側が描かれる。こうした中で様々な過去や背景を持つ登場人物達の様々な幸福の形も描かれ、不幸も幸福でさえも多様であることを物語り的に伝えようとする。主人公のつきあっている女性はそのうち家に乗り込んで主人公の奥さんと対決するのだが、奥さんの勢いにかなわずマンションから夜逃げすることになり、図らずも主人公はパートナーとの絆を確認できることになる。物語の中で不思議なのは、主人公がなかなかNoとは言えない優柔不断な性格に描かれているのにカッとしやすく、謝るのも早いこと。そして途中から登場するマンション住民を10年も日陰の女としてつきあっているという男性との出会いそして主人公とのつきあいの深まりが、常識的にはあり得ない展開で不自然なこと。さらに、主人公達がマンション住民などを尾行したりストーカーまがいの行為をすること、またそれが素直な気持ちの表れであるかのように描かれていることも不思議の一つ。壬生狂言という難解な仏法説話を民衆にも分かりやすい劇にしたという演芸が京都にはあるが、この物語全体が「壬生狂言」ではないか。わかりやすくしたいがために、ちょっと突飛なシナリオや登場人物像にしている、とも解釈できる。「水のような人間と火のような人間がいる」というエピソード、自分の形を変えながらでもどこまでも広がっていく、流れていこうとするタイプと、火のようにもえあがって、周りを焦がすが風が吹くと消えてしまうタイプの人間がいる。仏教の説法のような話である。「蛇は自ら蛇を知る」密林の中にいても蛇はほかの蛇の存在を感知するの力がある。「自分のためにだけしか生きたことのない人間は不幸」。こうしたエピソードが挿入され、それぞれが説法となっている。宮本ファンには良いお話でも、説法臭さを感じる読者も多いのではないか。それでも大好き、というなら大いに結構だと思う。

2009年3月8日 6ステイン  福井 晴敏 ☺☺☺

「市ヶ谷」と呼ばれる防衛庁情報局の工作員たちを描く6つの短篇からなる作品。工作員たちと言っても普段は普通の生活をしている人々。タクシー運転手、主婦、引退したおじいちゃん。そういう人たちの日常の生活が、元その道のプロフェッショナルとして、極限状況の中で生き延びるために自分の真価を発揮するお話。登場する人物たちは心の中についてしまったステイン(染み)を拭いとるために戦います。本当のプロに徹しきれない過去を引きずってきた彼らの戦いは、田舎のローカル線での死闘であったり、ミニ原子爆弾の入ったアタッシュケースを巡る争奪戦だったり、機密の記された電子手帳を掏り取ったり、といった、戦い方こそさまざまであっても、自分の一番得意とする領域で復讐をします。
「いまできる最善のこと」千葉の夜のローカル線でなぜか乗り合わせたのは小学生一人、そこに乗ってきたもう一人の男、爆発、逃亡、小学生には危害を及ぼしたくない、と咄嗟にかばうが、プロの工作員としてはどうなのか、と自問自答。必死の思いで小学生のコンパスで、、、。
「畳算」市ヶ谷からの指示で、ひなびた民宿をタクシーで訪問、そこには身分を隠して生活しなければならない男を愛してしまった女性が、ひたすら彼の帰りを待ち続ける。元芸者の女性の強いプロフェッショナリズムと夫への思いに心を打たれるが、アタッシュケースは見つかり、そこでもう一つの事件が、、、。
「サクラ」女子高生?伝法真希?ガングロ女子高生。その正体はスゴ腕工作員のサクラ、工作員にはとうてい見えない相方、北からのスパイと通じ合う日本人を見張る、その時に、、、しかし、その事件がきっかけで真希はいなくなる。
「媽媽(マーマー) 」母である由美子が続いて出てきます。タイトルが「お母さん」。小さい子を家に残して後ろ髪をひかれつつ、情報局の業務に向かい、そこで出会った中国人に心を揺さぶる言葉をかけられる女性を描いている。「母親は家に帰れ」というターゲットの中国マフィアの男に心が揺れる。次の「断ち切る」の母親は由美子と先のマーマーに描かれなかったもう一人の母、息子がいて、それでいて幸せにしてあげられていない、負い目がある。
「断ち切る」断ち切り師、バッグの底をカミソリで切ってサイフを取るスリ師はとっくに引退し、息子夫婦の元で将棋を打ちながら生きてきた断ち切り師の男。ある女性にその能力で策略に協力して欲しいと頼まれる。母は子を育てるものという先入観は時代遅れだと思っているし、仕事もしたいが本能では子どものそばにいたいと思っている、そんな女性の微妙な心理。
「920を待ちながら」亡国のイージスの主役如月行が出てくる。普通の作家なら恥ずかしくてやらないと思うがサービス精神なのか、娯楽なんだからいいでしょ、という姿勢、悪くはない。タクシー運転手で市ヶ谷の非常勤スパイの男。若手で特殊工作スペシャリストの男。市ヶ谷の命令である標的を張る。それは十年前のある事件と,内部腐敗を正そうとする勢力との陰謀があった。
なぜか千葉と浅草ばかりで起こる事件、福井さんの地元?全部、親子の話。急に工作員の世界という非日常に引きずり込まれるストーリー展開で、のめり込んでしまうために、通勤電車で読んでいると乗り過ごす危険性大。ハードボイルドなのにこころを揺さぶってやろうというのが作者の意図か、結構揺さぶられる人もいるのではないか。

2009年3月3日 脳内出血 霧村 悠康 ☺☺☺

ホテルで見つかる変死体、その直前、ホテルの一室で宮村と時間を過ごした若いやり手の学者と思しき男が描かれている。最初から国立O大学の島田が犯人ではないかと示唆しながら物語は進行する。一方、O大学島田はUSOP10という遺伝子についての画期的な論文を発表、世界の一流論文誌に掲載され学内から絶賛される。現時点での指導教官の景山、元々の所属研究室不知火教授、医学部長水無、同僚の我孫子、研究助手の弘田などが登場、国立O大学の論文ねつ造が暴かれる。大学内での勢力争いや研究者達の上昇志向が批判的に描写され、同じO大学を描いた「白い巨塔」の財前五郎を思い起こすが、財前ほどの大物はおらず、景山も不知火も小物の扱い、弘田だけが若手研究者としての正義感を現す。宮村教授は名前を涙香(るいこ)といい、殺された次の日から海外の学会へと出張の予定、搭乗者名簿は通常カタカナ、ミヤムラルイコウ、というだけでは男女の区別がつかない、というのが一つのミソ。宮村は大学の多くの男達とベッドをともにしており、それぞれが弱みを握られている格好。警察に聞かれるとまずい立場を持つ。宮村の身元はこうしたことから長い間判明せず、警察は追い込まれる。島田が容疑者としてあげられるが、精神に異常を来したと見なされ病院へ入院、しかし病室から失踪する。論文ねつ造と殺人、という二つの事件を絡めて大学の内部腐敗を描いたサスペンス、最後のオチはお楽しみだが、名前と職業やタイトルだけで性別の思いこみがあること、男女の区別はつかない、というのがポイント。USOP10という名前自体が「嘘ペテン」というのも大阪人らしいシャレ。霧村さん、現役のお医者様らしい、帚木さんや渡辺淳一さんのようになるのか、楽しみです。

2009年2月28日 エ・アロール 渡辺 淳一 ☺☺☺

「それがどうしたの」ミッテラン大統領が、奥様以外の女性との関係と子供について記者会見で問われた際に応えた言葉。その言葉を、老後を過ごす施設の名前にしたのは来栖、54歳、32歳の麻子と週末を過ごす、渡辺淳一の理想の姿か。施設は東銀座の料亭の跡地、来栖が父親から相続した土地である。医者である来栖が土地を引き継いで考えたのは、介護ではなく老後を楽しく過ごせる施設、夫婦でも独身でもお金を払えば入所できる高級な老人ホーム、そこでは70歳を過ぎた男女の三角関係や男女の悩みが紹介される。来栖は麻子と楽しく過ごしているので安全地帯から入所者のトラブルを担当医そして所長として対応する、というとても気楽な立場、渡辺淳一の気楽さを映すような小説、この方は幸せな人生を送っているのでしょうねえ。中には旦那様が定年と同時に奥様から離婚を宣告される方や70歳を越えても男性に興味が尽きない女性も紹介されていて、これはこれで面白い。これからの高齢化が進む日本でコレクティブハウスのような施設が増えてくると私は思っていますが、その先鞭を付けるような小説、目の前に老後が迫っている50ー60歳代の読者には考えさせられることが多い小説ではないでしょうか。 ところで所長の来栖さんも最後には、、、、というお楽しみ。

2009年2月27日 アイスステーション マシュー・ライリー ☺☺☺☺

息をつぐ暇もないような展開、映画にしようものなら制作費用は何億円、それを書いたのが執筆時22歳のライリーというオーストラリアの若者、ということで読み初めてからは止められない勢いで最後まで飛ぶように読んだ。スコーフィールドという米国海兵隊中尉が主人公、南極ウイルコックス基地で発見されたという宇宙船らしき物体を探して基地に到着、まもなくフランス軍からの攻撃を受け、さらにイギリス軍からも攻撃される。いったいどうなっているのか。さらには母国米国のICGという組織からも命をねらわれ、ぎりぎりのところで自らと部下、そして巻き込まれた子供カースティを必死で守ろうとする。隠されていたのは宇宙船ではなく1979年に米国が極秘で開発していた究極のステルス飛行機、この秘密を知りたい、守りたい、ということで各国がNATOの友好関係もかなぐり捨てて戦うが、ワシントンの表舞台ではそのようなそぶりは全く見せない裏で戦闘は続く。海兵隊員達の会話や描写は「エイリアン」を思い起こさせる。驚かされるのは大風呂敷をおもいっきり広げたストーリー展開と登場する武器、液体窒素が爆発する手投げ弾や遠くにムチのように振り出して巻き付けて、手元操作でまた巻き戻すマグフック、強力な小型爆弾トリトナール80/20など、こうした小道具がお話を一層おもしろくする。気に入らないのは人や動物がやたらに死んでしまうこと。悪い奴は死んでも仕方がないのだ、という描き方で、スコーフィールドの部下たちもたくさん死んでしまう。動物たちもたくさん登場する。アシカのウェンディ、これはカースティのペットになっていて最後まで生き残るが、象海豹(アザラシ Elephant Sealといえばカリフォルニアのアニョヌエボという保護地区で数十頭の群を間近にみたこと思い出す。一頭の雄が何頭もの雌と子供たちを従えている。時には海岸近くの駐車場に上がってきて車などを壊している、というニュースもみたことがある)は地下に埋没した飛行機の放射能に汚染され体も牙も巨大化、人間たちを襲う。鯱(シャチ)も人間を襲うので何頭かは殺される。死が多すぎる、という批判はあると思うが、ストーリーや矢継ぎ早に起こる出来事、度重なる危機とそれを間一髪の機転で切り抜けるスコーフィールド、この描写がおもしろく手に汗握る展開に読者は引きつけられる。人口が日本の7分の1しかないオーストラリアで17万部売れた、ということは日本ならミリオンセラー、次作のユタ州砂漠の地下にある秘密基地が舞台となる”エリア7”、そして第三作世界を代表する戦士15名に懸賞が懸かりスコーフィールドが標的になる”スケアクロー”大いに期待される。映画化できればヒット間違いなしと思うが、もうされているのかしら。

2009年2月23日 日本沈没第二部 小松左京、谷甲州 ☺☺

第二部は、日本が海面下に沈んでから二十五年後のストーリー。沈没後世界にちりぢりになった日本人を、政治、土地を失った人々、別れ別れになった家族、辺境や開発途上国で活動する人々、など様々な視点から描いたもの。日本人は世界に難民として分住しながら、高い科学技術や政府組織を維持。中田首相は、日本の沈む海に人工浮島の建設をもくろみ、アジアの政治的緊張の中で日本国家の回復を目指すなか、国土を失っても、その誇りを継承させようとする中田の愛国主義と、世界と共存するコスモポリタニズム鳥飼外相の対立がある。第一部は大学生の時に読んだのか、ずいぶん時間がたったせいか、第二部は第一部とは異なる小説という印象、書いた人が違うのだから当たり前か、もう一度第一部を読んでからその直後に読んでみるべきだったかもしれない。

2009年2月22日 千日紅の恋人 帚木 蓬生 ☺☺☺

百日紅かと思ったら千日紅の恋人。宗像時子、という今でいえばアラフォーのバツ2女性が主人公、亡き父の残してくれたアパート「扇荘」の管理人である。扇荘には様々な住人がいて、問題や騒ぎを起こすが時子はそれを巧みに、時には誠意を持って解決する。時子の母峰子とは別居、時々一緒にカラオケ教室に通ったりしている。ある日、新たな入居人、有馬生馬(いくま)が登場、時子よりも一回りは若そうな好青年である。第一印象から好意を寄せる時子、花を植えてくれたり、母も誘って一緒にカラオケ発表大会にきてくれたりと青年も好意を示す。著者の帚木はこの小説でもいくつかのエピソードを紹介している。
「雄は左をしたに、雌は右をしたにしていつも走っているので片方の足だけ長くなってしまった動物”シャソク”、雄雌は出会うことはあるが横に並んでは一緒に歩けない動物。この話を小さい頃から聞かされていた有馬はこの動物の存在を信じ込んでいた」
「彼岸花はモグラ防止にお百姓さんたちがあえて畑の脇に植えていたもの」
「千日草やビオラという花は長ければ半年は咲いている、交代交替に植えていれば一年中お花が楽しめる」
「草木国土悉皆成仏ーどんな動物も植物も鉱物さえもすべての存在が死んだら幸せになれるとした空海の教え」
そして最後は、
「サイゴンスコール、それがあなたからのプロポーズ」これで時子さんもハッピーエンドになるのだが、物語には介護や痴呆などの問題が小さいエピソードとして組み込まれている。小さな幸せの周りには多くの苦しみも著者はかいま見せている。時子はアパート経営というしっかりとした収入源を持っているが、それでも老後は不安、一度は断ったプロポーズが向こうからもう一度現れてくれる、これが最後の著者からの救い。

2009年2月18日 海岸列車 宮本 輝 ☺☺☺☺

手塚かおり、夏彦兄妹と二人と知り合う国際弁護士戸倉陸離、3人をそれぞれの視点から語り、それぞれの生い立ちから今までの人とのつきあい、現在のパートナー、友人などを通して、男女のふれあいの様々な形を示している。作者はあとがきで、「最近の軽薄な男女関係や不倫に不誠実さを感じていること、本来分別のある大人ならそのようなつきあい方はできないはず」と主張。25歳という設定のかおりと男女の仲になりそうになる妻子ある戸倉を通して、まじめに考えれば考えるほど、責任ある大人が不倫をする決断は難しいはず、と語らせる。主人公たちはそれぞれ両親を亡くしており、手塚兄妹は叔父に養育されてきた。その叔父が亡くなったときから物語は始まっている。手塚兄妹の母は二人を捨てて山陰の香住の一つ先の鎧、という漁村にいると叔父に教えられてきたため、鎧は二人にとっては心の故郷、折に触れて訪れてみるがそこに母はいない。城崎から鎧までは海岸をいくつものトンネルを抜けて海を見ながら走る、これが「海岸列車」。夏彦は28歳、40歳の金持ちの未亡人とつきあい、旅行したり美味しいものを食べたりしてヒモの生活を送っている。この二人の男女関係は物語でどのような働きをするのか、作者の言ういい加減な男女のつきあいの典型であるが、醜悪な関係とは描かれていない。むしろ、二人からは不幸は生まれず、娘の泉や夏彦の友人関係から新たな幸せさえも生まれそうになる。手塚兄妹の母が二人を捨てるに至った経緯、叔父が養育することになった理由は後になって明かされるが、そのことも二人の鎧への想いにつながっている。かおりは「情緒的ではあるが情動的になれない女」と夏彦に評価されている。物語は戸倉の学生時代の交遊に広がり、学生時代に苦学をともにしたビルマ人とエジプト人との共同生活が紹介される。ビルマ人の友人は学位を取得 、帰国後死亡するが、その直前に戸倉にペーパーナイフを贈る。それには「私利私欲を憎め、私利私欲のための権力と、それをなさんとする者たちと闘え」と彫ってある。この言葉が物語の後半で紹介される周長徳の生い立ちからたどってきた歴史、様々人との奇跡的出会いとつながる。戸倉の亡くなったビルマ人とのかかわり合いの結果、戸倉は夏彦とアフリカでのNPO活動にチャンレジするという別のエピソードとつながり広がりをもったキーワードとなる。作者は「海岸列車」を25歳のかおりの応援物語としたかったようだ、これは「オレンジの壷」と同じ。物語の中で、25歳の女性に贈る箴言をたくさんちりばめてあるが、一つ紹介すると、「お酒を飲んで周りに不快感を与える男とは一緒になるな」。誰を生涯のパートナーとするかは女性にも男性にも重要な選択、その選択によって男女とも人生を選択することにもなる、というのが主人公たちの両親の物語として紹介されている。宮本 輝、独特の読後感をもつ作家、 夏彦と陸離への描写に違和感を持ちつつも、かおりは応援したくなることは確か。20-30歳代の男性は反発を感じるかもしれないが、50歳以上には男女ともに受けるのではないか。

2009年 2月17日 モルヒネ 安達 千夏 ☺☺☺

在宅医療に携わる医師 真紀の視点から語られる死への想いの物語。小さい頃に母は入水自殺、残された姉と父に育てられるが、その姉は12歳の時、父に蹴られたことが原因で頭を打ち翌朝死んでしまう。そのとき真紀は小学二年生、姉の早紀が死んでいたことに一晩中気がつかず看病をしていた記憶がある。父親は裁判で故意の殺人ではなく過失であり無罪を主張、真紀は養父母に養育された。死を見つめ死を考えて育った真紀は、死を自分で管理できると考えた医師を目指す。養父母も医師、跡継ぎの思いからの医師志望かと思ってくれるが、真紀にとってはそうではない。真紀が勤めるのは在宅医療を専門とするホスピスで死を見つめる毎日、院長の長瀬と婚約している。そこに7年前分かれた元恋人ヒデが脳腫瘍患者として現れる、余命は2ー3ヶ月。ピアニストを目指し7年前にオランダに向かうため真紀と分かれたヒデ、真紀もそのとき医師となる道を選びヒデを見送った。そのヒデがホスピスで余命を全うしない安楽死を望む。医師である真紀はまたしても死と向き合う、今回は安楽死。ヒデは一緒にオランダに行ってほしいと真紀に頼む。モルヒネを持って一緒にいってほしいといわれた真紀は頼みを受け入れる。安楽死を30年前から法制化している国、オランダでヒデはなにをしたいのか、アムステルダムで4年一緒に暮らした女性がいたともいう。結局ヒデは宿泊中のホテルから失踪する。アムステルダムでは、楽器店の主人からヒデがコンサート中、脳腫瘍の症状がでたのか、突然演奏を中断して舞台から去り、戻ってこなかったのだ、最後まで聞きたかった、という話を聞く。1枚だけでていたCDを買った真紀は帰途につき、成田には心配して迎えにきていた長瀬と出会う。形としてはハッピーエンドであるが、真紀とヒデは人生の陰の部分を歩く同類、養母や長瀬は日向を歩く異人種である、と真紀は感じている。これからも死を見つめ日陰から日向の夫、長瀬を見ながら暮らすことになる真紀、長い時間をかけた安楽死とも思えるし、モルヒネを打ったつもりになってヒデを想いながら暮らすのか。100ccのモルヒネは死につながるが、適量のモルヒネは痛みを和らげたり、気持ちを静めたりする。真紀は残りの人生というには長すぎるこれからの結婚生活を、モルヒネの適量を試行錯誤しながら生きていくのだろうか。

2009年2月15日 東京今昔散歩 原島広至 ☺☺☺☺

幕末・維新 彩色の京都 白幡 三郎 ☺☺☺ ☺

明治から昭和にかけての東京や京都の町を写した写真に色を付けた彩色写真が日本土産として日本を訪れた観光客に売られていたらしい。このような写真と江戸時代の切り絵図や明治大正昭和の時代の地図、それと現在の写真などを見比べることで東京の町の変貌を知ることができる。地区は亀戸、隅田川、浅草、上野、皇居界隈、日本橋、銀座、霞ヶ関、四谷、芝、高輪と広範囲。これを読むと東京の町を歩きたくなる。僕がおもしろかったのは浅草界隈の変貌。浅草寺の歴史、今はある雷門が再興される前の仲見世、東京で当時一番高かった浅草十二階、百貨店の前身勧工場、花屋敷横にあったひょうたん池、六区に立ち並んでいた松竹館、常磐座、オペラ館などなど興味は尽きません。

同じコンセプトの京都版、こちらは金閣寺から保津川下りまで100枚以上が紹介されている。鴨川の床でポーズをとる舞妓さんやできたばかりのインクラインを引き上げられる船など、こちらは東京と比べるとずっと鄙びた感じ、人の数も少ない。三条、四条の鴨川に架かる橋が何度も流されたことや、それをかけ直したことがわかる。京都観光の前にでも読んでいくと同じもの場所をみても面白さが違うと思う。

2009年2月13日 風の岬 渡辺淳一 ☺☺☺

野々宮敬介は去年の3月、大学を卒業して、国家試験を受けたばかり、医局では一年生。外科の医局に入って手術に立ち会ったとはいえ、ほとんどが見学で、たまに手伝いをしても創口を鉤で開いているだけの「鉤持ち」である。その敬介が伊豆の富士浜の町立病院に医長として出張を命じられた。赴任した野々宮は初日は二日酔いで引き継ぎをすっぽかし、診察はしたものの看護婦大石の助けでなんとか無事に過ごすことができた。初日に歓迎会で宴会が行われた「一力」のママ、看護婦大石、東京の女子大に行っていて一時帰郷している一色有希子、こうした女性陣が野々宮を誘惑したり、遊んだり。夏目漱石の「坊ちゃん」か、石坂祥次郎の「何処へ」の雰囲気。最近の渡辺淳一といえば男女の深みに入っていく不倫ストーリー専門、という気もするが、このようなさわやか青春物語もあった、ということ。

2009年2月11日 大阪学 大谷 晃一 ☺☺☺☺                                                                                         大阪人はなぜ振り込め詐欺に引っかからないのか竹山隆範 ☺☺☺                                                上方芸能と文化 木津川計 ☺☺☺

コミュニケーションの取り方は、人との距離感でずいぶんと違ってくるようです。この数年で被害者激増の振り込め詐欺、都道府県別人口一人あたりの「振り込め詐欺被害金額ランキング」(平成17年週刊SPA!調べ)によると第1位東京 412.9万円、最下位大阪 47.4万円、「なんでやねん」と言いたいくらいの差がついています。2位が鳥取、46位は青森であり、都会と田舎、貧乏と金持ちという差でもなさそうです。振り込め詐欺グループへのヒアリングでは「大阪はやめとけ」というマニュアルもあるとかないとか、人とのコミュニケーションの取り方に秘訣がありそうなこの話、理由を考えてみましょう。

「大阪人はなぜ振り込め詐欺に引っかからないのか」(竹山隆範著)によると、「大阪のおばちゃんの貢献が大きい」とのこと。話し相手との距離感を大切と考える大阪のおばちゃんは、会話をする中で必ず相手にグっと近づくタイミングを持つ、その時に相手の嘘がばれる、というもの。静岡県では「大阪のおばちゃんを採用した振り込め詐欺撲滅キャンペーンを平成15年に実施したところ被害が急減」、冒頭ランキングでは45位にランキングされています。いわゆる「ボケとつっこみ」はグッと近づくコミュニケーションの典型、いつも本音で話すように生活すれば詐欺など怖くない、というのが先ほどのキャンペーンCMにも登場した大阪のおばちゃん代表舟山さんのコメントです。そういえば大阪のおっちゃんはどうしたのでしょうか。舟山さんに聞くと、「うちのお父ちゃんなら最近はマナーモードになってます」とのこと、これは別問題。

関西転勤者が必読書と薦められる「大阪学」(大谷晃一著)によると「大阪人のケチさが街を詐欺から守っている」「ケチとは悪いことではなく、合理的でないものには1円も払いたくない、という近江商人の考え方につながっている」「東京では人間関係が上下関係から、これは武士と町人の関係。大阪は人間関係は対等、商売人と客、という関係、この違いは大きい。東京は三代続いてはじめて江戸っ子、大阪では三ヶ月も住めば立派な大阪人になれます」「聞くのはタダ、聞かな損、一瞬恥かいても得したらええ」。人との距離感が東京と大阪ではとても違う、このことが振り込め詐欺が少ない理由ではないか、としています。組織で上下関係を無視してはいけませんが、合理性は重要です。組織内コミュニケーションを取る上で自由闊達に意見を言えること、これは重要なポイントです。近江商人と言えば「売り手よし買い手よし世間よし」としてCSRの元祖とされています。江戸時代には儲けた商人が公共工事や橋の工事も負担した町大阪、CSRでも大阪が元祖かもしれません。

「大阪人」と一言で言っても「いろんなヤツがおるでぇ」という関西人からのつっこみがありそうです。「上方芸能と文化」(木津川計著)によると大阪の文化を、都市的華麗の宝塚型、土着的庶民性の河内型、伝統的大阪らしさの船場型、学術研究機能性の千里型と分類し、それが相互に浸透し混在して全体文化を形成しているとしています。「大阪学」が扱う大阪人や、典型的大阪人、とよく語られるタイプは、河内型ですね。関西には大阪人とは文化背景が異なるとされる京都人、神戸人もいて、東京から見れば「多民族」な関西地方、コミュニケーションで最も重要な言語にも奥深いニュアンスや歴史的変遷があります。(神戸、京都、大阪比較論もありますが別の機会に)

有名な「好っきゃねん」、大阪でも日常会話ではあまり聞かなくなった言葉、小さい「っ」や「ゃ」を使っています。「好き」に親密感を増す「や」を小さくひっ付けて照れを隠しながら、「小っさい」「大っきい」というような形容を強調する場合の促音「っ」と、だめ押しするような「ね」にさらに念には念を入れた「ん」。まとわりつくような「好き」の告白用語で、距離感、これ以上近いモンなし、という使用者の気持ちが表れています。「とても好きです」などという標準語には及びもつかないくらいの気持ちが入っています。人とのコミュニケーションの第一歩、気持ちの表現です。ちなみに、やしきたかじんの「なんか好っきゃねん」、「なんか」は関西弁ではないようですので、照れ隠し気味のチャンプルー的用法ですね、これも最近の関西弁ではアリです。仕事場ではあまり気持ちの表現は不要かもしれませんが、普段のコミュニケーションには必要、大阪人に学ぶところないでしょうか。

「大阪では毎日が無礼講」これは言い過ぎかもしれませんが、東京に比べれば、という比較論としては頷けます。また、TVの街頭インタビューで登場する元気な大阪のおばちゃん(たぶん河内型)を思い浮かべれば、「自由闊達」と言う言葉も霞みます。仲良くなるまでは、東京人にとっては異なる言語体系と価値観をもつ他民族、と感じることもある関西のお友達。一度親しくなると急接近で、人によってはお正月急に相手の自宅へ訪問する人もいて、来られた側は土足で私生活に踏み込まれたように感じてしまうかもしれませんが、これも親愛の情の表現です。この距離感が大阪人、いやこれは関西人共通のコミュニケーションだと思います。会社は会社、プライベートは別と考えたい方には難しい距離感かもしれませんが、慣れてくると、相手が一番忙しいときに訪問する、こんなこともできるのが本当の友人ではないかと感じるようになります。言いたいことが言い合える雰囲気、自由闊達のお手本は大阪のおばちゃんです。

敬称の付け方にも特徴があります。東京では浅草の観音様、門前仲町のお不動様、関西では「すみよっさん」や「えべっさん」のように神様がいる神社はさん付け、大文字山の送り火は京都では「だいもんじさん」(「八月の風物詩、大文字焼き」とNHKニュースが流れるたびに、京都の人は「気持ち悪いわー」と感じています、せめて「五山の送り火」にして欲しいと思います)。おいもさん、お豆さん、あめちゃん、食べ物にも敬称、愛称をつけます。昔、京都のおばあちゃんから「お玉さん、卵から“ごぉ”引いて“さん”足したら“にぃ”少ななったさかいに、かわいそやから“お”付けた」と説明されました。身近に感じたいもの、大切な食べ物には愛称を付けて親しみを表現する、というのもコミュニケーションの第一歩です。

この際、ついでに大阪論。東京では他人を笑おうとするが、大阪では自分自身を笑いのネタにする。関西の漫才では自分や相方の入院(退院できれば)や離婚は最も笑いのとれるネタです。小学校の学級委員の選び方でも、一学期はとりあえず頭の良いヤツ、二学期はスポーツができるヤツ、三学期はやっぱおもろいヤツ。大阪での価値観を表しています。「おもろいヤツ」が最大のほめ言葉、笑いを取るためには誰でもちょっとしたリスクなら冒す覚悟があります。家族同士の付き合いがある男友達同士の久しぶりに会った時の挨拶、「どや、おまえんとこのぶっさいく(不細工の強調)な嫁はん、元気にしてんの?」「うちのプリティーハニーちゃんかいな、元気すぎて手におえんがな」。東京ならケンカでもはじまりそうなご挨拶、売られたつっこみにはボケで返さなければ損する、という、まあ、東京人には想像もできない距離感です。一方、1985年に起きた現物まがい商法による豊田商事事件、被害の中心は大阪でした。「儲かる話には弱い」というのも大阪の特徴、周りの知り合いもみんな信じている儲け話には「乗り遅れたら損」と言うケース。「ウチは騙されへんでぇ」と思っている元気なおばちゃんも気をつける必要があります。ちなみに、小切手が一般的なアメリカでは振り込め詐欺はないがフィッシングが深刻という報道がありました。人との対面が必須となる小切手時代にはなかった犯罪が、インターネットという人の顔が見えない時代にはびこるようになった典型です。一時話題になった“セカンドライフ”も今は閑古鳥が鳴いているとか、人と人との関係ではやはり信頼の確立、フェースtoフェースのコミュニケーションがどこの国でも重要だと思います。

関東出身者が関西に赴任して聞き取りに苦労する関西弁。ご参考までに、大阪南部では「だ行」や「ざ行」を「ら行」で発音するケースがあり、東京人からは「関西弁は聞きづらい」、と言われる典型例です。関西のお客様のシニア経営幹部に、こうした関西弁を多用する方がおられて聞き取りにくい例がありました。「よろがわのみる飲んで腹ららくらりや」→「淀川の水飲んで腹ダダ下りや」、これが聞き取れるようになれば関西のお客様とのコミュニケーションも不安はありません。「せーらいつこたっておくれやす」→「せーだい使ってやってください」。「せーだい」これは「うんと」といった感じで関西では多用される副詞です。意味が分からなかった方、大阪人とコミュニケーションを取るためにはもう少し修行が必要でしょう。関西でのコミュニケーション向上のお役に立ちましたか?せーだい頑張って!。
 

2009年2月9日 子宮の記憶 藤田宜永

主人公は相当屈折した性格の17歳、少年である。両親の仲はよくない、母親とは全くうまくいっていないし、父親は医者であり、若い女性に手出している。主人公もその女と関係を持っていて、、、などという設定。彼は自分が生まれたばかりの赤ん坊の時に誘拐されていたことを知り、赤ん坊の自分をさらった女性が真鶴に住んでいることを知る。真鶴にバイクで訪れて、海辺にある桜井食堂で、自分を誘拐した犯人、愛子を見つける。素性を隠して桜井食堂で住み込みのアルバイト、周囲にはスナックのママ幸子、愛子の夫である英雄の連れ子継子美佳、これがまたひねくれた性格。愛子は、一生懸命働く主人公に心を許すようになる。すべての登場人物が、人間の業とでもいうか、過去の過ちを引きずっている設定で、素直には読めない。いつも機嫌が悪く、美人でもなくデブの美佳に惹かれるという主人公だが、これにはついていけない。また、自分をさらった愛子に惹かれていくというこの気持ちにも理解できる部分がない。映画はよかった、という人もいるが、藤田宜永、直木賞も取ったという作家だが、しばらくは読む気にならないだろう。

2009年2月5日 悪果 黒川博行 ☺☺☺

大阪のマル暴の警官とその相方が、賭博の検挙を行い、暴力団賭博の客であった専門学校の理事から金を脅し取ろうとします。ところが騙そうとしていた主人公と共犯関係にあった雑誌の編集者が殺され、暴力団、学校法人、不動産取引などをめぐる事件に巻き込まれていきます。警官による犯罪者や商売人を対象とした脅迫、金の召し上げ、裏社会との癒着、捜査情報の漏洩、同僚の裏切り、捜査費の組織的な着服。こうした犯罪的行為は、警官自身の利得のためでもあるのですが、事件捜査を進める上で不可欠な情報提供者とのつきあいに金がかかるからでもあります。優秀な警官であればあるほど、賭博の情報をつかみ、内偵し、検挙するプロ。しかし警官が使える捜査費は、上層部が不正な領収書を書かせてごまかし、かすめ取っています。業務遂行に差し支えるのでどうするか、自分でも稼がないと情報ネタとつきあえない、と言う構図。著者は、大阪府警で暴力団を担当する警官が自らの金もうけのため裏社会の人間達とつきあい、そして時には金も吸い上げる、その代わりに情報を提供する、このような警察腐敗をえげつなく描写しています。黒川さんの魅力の一つに「関西弁」がありますね。刑事コンビの行動や関西弁を使った会話が小気味良く、警官とその相方や出てくるメンバーのキャラが立っていて、悪いことをしていることは分かっていても、なぜか応援してしまう、という感触を読者が持つ。もう一つは権威批判の精神。官僚の一つである警察でも、キャリアがノンキャリアを支配する構造ができあがっています。成果を上げた警官が昇進する仕組みがあればもっと公正な人事制度なのでしょうが、出世するのはキャリアだけで、現場のノンキャリアには捜査費も回ってこない。キャリアに都合の良い仕組み、これは世間から見れば非常識、難しい試験を通ったキャリアにしてみれば、捜査がうまいというだけで階級を上がってくる、それは認められない。こうした権威と現場の戦いを面白く描写している、これがこの小説の魅力だと感じます。

2009年2月4日 安楽病棟 帚木蓬生 ☺☺☺☺

認知症老人の介護をあつかった小説。ドキュメンタリーではなくミステリー小説であり、延命治療と積極的安楽死を取り扱ったお話なのですが、前段でこの病棟に入った人々の人生が紹介され、その人々のその後の病棟生活について看護大学を卒業した看護士の目を通して見たものとして語られます。介護されている老人達はさまざまな人生を経てきており、認知症になったその人の今までの人生の意義と人の尊厳について考えさせられます。この本の中で病棟の先生がお見舞いに来た患者の家族に次のように話します

初老は40歳から始まると考えてください。つまり老いという非常に緩やかな坂を下りはじめること、これが誰にでもおこる老化現象で、その坂の先では体や精神が今の皆さんのように思うようにはいかず、場合によってはいうことをきかなくなるという状況になるのです。

自分も将来は介護の対象になるということです。「安楽病棟」の若い看護士は、介護経験を通して数十年前と現代の介護を取り巻く状況の違いについて次のように分析をします。

1.昔は頭脳と体がほぼ同時に老衰を迎えた。ここ数十年で医療技術が進歩し、寿命が延びて体は長生きになったが頭脳はその体の長寿についてきていない。脳医療の進歩が重要である。
2.時代の変化が早くなり、親と子、孫の価値観が甚だしく違うようになってきたため2―3世代同居が難しくなってきている。昔は時の流れが緩やかであり、価値観の相違による世代間の相克も今ほどには顕在化していなかった。
3.上記2の結果として、世の中に沢山いる高齢者に若者が気を配らなくなってきている。同居する老人がいれば町で出会った高齢者に席を譲る、手を引いて交差点を渡るなどの行為や思いやりが自然に出てくるはず。


確かに、核家族化とか都市集中による住宅事情変化などという新聞記事に書かれていること以外にこうした側面があることに気づかされました。

もう一つは人間の尊厳問題です。介護が必要となる状態には誰でもがなるわけではありませんが、身体的な問題とともに精神面での問題が原因となるケースがあります。その一つがいわゆる認知症です。症例は本当に様々で、進行度合いや既往症、その方の性格、家族との関係などが組み合わさって対応には個別のケアが必要とされるのですが、多くの老人を同時に預かる施設としてはどうしても一様な対応にならざるを得ないのが現実です。「目は疑り深く、耳は信頼を呼ぶ」という認知症の例もこの本ではあげられています。目は良くて耳が悪い老人は同居人を疑う傾向があり、耳は良く聞こえて目が不自由な方は同居人を信頼する、というもの、ありがちな話です。自宅での介護の苦労も、教科書通りには行かないこと、またこうした個々の状況が突然変化して家族の手に余ってしまう、というところにあります。

しかし、こうした認知症といわれる老人にも人間としての尊厳が必要であり、実際に面倒を見ている家族の気持ちは大きく揺れ動きます。「安楽病棟」ではオランダにおける安楽死への対応の説明もあり、安楽死をオランダではLife terminating(生命終結行為)と表現、重篤認知症患者に適用するというもの。ここまで進んでしまって良いのかという問題提起であり、実際に介護をされている方には身を切られるような話だと思います。オランダのような割り切りが必要な時代が日本にも来るのか、それは行き過ぎなのか皆さんも考えてみてください。
 

2009年2月3日 北の狩人 大沢 在昌 ☺☺

新宿に、秋田から、マタギの男がやって来る。男は訓練を積んだ身のこなしで、十年以上も前に潰れた暴力団田代組のことを執拗に調べる。そして、新宿のアンダーグラウンドが突然騒がしくなってくる。 何か事が起こると感じた新宿署の一匹狼の刑事佐江はこの男 梶 雪人をマークする。まあ、出張のお供 というレベルですな。

2009年1月31日 オレンジの壺 宮本 輝 ☺☺☺☺

祖父の日記を読む、というところから発展する物語。 語り手は田沼佐和子、25歳。結婚したが1年で離婚、元亭主にいわれた言葉「おまえは石のような女だ」に傷ついている。父は田沼商事の社長、祖父の祐介がイギリスのスコッチやマーマレードの日本販売権を獲得したことを基礎に会社を発展させてきた。祖父は亡くなる際に子や孫に遺産として家や絵を遺したが、佐和子には若いときにつけた日記を残した。佐和子は今までその日記を見てみようとは思わなかったが、離婚をきっかけにして読んでみる気になった。日記には若き日の祖父が仏英の製品買い付け交渉に出航する1922年4月から11月までのことが記されていた。第一次大戦を終えたばかりの仏蘭西パリではまだまだ戦争の傷跡が残り、東洋人である祖父はパリで受けた人種差別にも言及している。そのような歴史や欧州事情に全く疎い佐和子は日記の背景について学んでみようと思った。日記にはパリで知り合ったアスリーヌ夫人とその娘ローリーヌのこと、そしてローリーヌと恋に落ちて結婚、子供までいたことがかかれている。日記はローリーヌのお腹の中の赤ちゃんを残して祖父が日本に帰国するところまでしか書かれていないが、そんな話は佐和子は聞いたことがない。姉が、ローリーヌから来たと思われるフランス語の郵便物を祖父から預かっていたことがわかり、その翻訳を知人の弟、滝井に依頼する。手紙からローリーヌの娘はマリーというが、母子ともに出産時に死んだことを知る。しかし納得できない気持ちから滝井と共にパリに赴く。物語はパリからエジプトまで展開、実は裏の日記もあることが判明、その裏日記の持ち主がパリでの祖父のもう一人のパートナーであったことがわかる。いったい、祖父はパリで何をしていたのか、どういう人間だったのか、日記に出てきた「オレンジの壺」とは何なのか。結局マリーはスイスで生きていることがわかり、エジプトの裏日記の持ち主はパリでの祖父のスパイとしての役割を果たしていたことがわかるが、全貌は解明できないままである。しかし佐和子は満足感を持つ。

日記を読む前に比べると人生を客観視し、パリでの協力者滝井への好意も確かなものになる。佐和子は女性として人間として成長する。雑誌「Classy」に92-93年に連載された小説であり、20代で結婚に失敗した女性を励ますような内容である。この時25歳だった女性なら今は40歳、アラフォーであり、二度目の結婚をしていなければアラフォーシングル、「お一人様の老後」予備軍である。今のシングル化の芽は90年代前半に既にあったことが読みとれる。それにしても佐和子は無防備に滝井という独身男とパリやエジプトに旅行し、滝井もどうにかしたい気持ちをなかなか口にしない。二人はホテルの部屋で度々お酒を飲む、チャンスはあるのだが一線を越えることがない。現実にはいくら社長令嬢でもここまでおくての女性はいないのかもしれないが、Classyだからこれでもいいのかもしれない。アラフォーシングル女性が読んだら欲求不満になるだろう。宮本 輝の物語力は凄いものがあると感じる。この小説がサスペンスなら謎はほとんど未解決であり読者は不満だらけであるが、この小説ではそうではない。佐和子のせりふ「もうこれでいいの、終わりにする」ということで区切りがついた気になる。そして、佐和子の父の科白「敗軍の将、兵を語らず、勝軍の将、己を語らずだ」という言葉に納得してしまう。第二次大戦を十数年後にひかえるフランスからドイツのヒットラーの勢力増大やロシアと欧州の関係、日本の中国進出への欧州からみた意味づけなど作者の欧州史観や戦争観をかいま見せている。人間は進歩しているはずであり、日記は過去の人の成功や失敗を知る手がかりとなる。「勝軍の将も己を語れるのは日記」ということがわかり、祖父がなぜ日記を佐和子に残したのかも「語っておきたいことがあった」と思える。この後、日米欧は第二次大戦に突入するが、1922年時点でも敗戦復興のドイツ、資源獲得に血眼の日本が見えていて、経済的困窮や資源エネルギーが国を戦争に駆り立てること、肝に銘じる必要がある。資源エネルギー問題は現在は「環境問題」へと看板を掛け替えているが、根本は同じとみるべきである。今年のCOP15、ポスト京都議定書の国際合意でロシア、中国がどう動くか、米国、インドはどう変わるか、そして日本はどう考えるか、重要な歴史の局面である。

2009年1月21日 宣戦布告 麻生 幾 ☺☺

北朝鮮による敦賀半島への少人数特殊部隊による侵攻を題材にした擬似パニックシミュレーション小説。現実の可能性は別にして、警察力では対応できないような外国による侵攻があった場合の、日本が取るであろう対応をシミュレーションしている。非武装中立、憲法九条の制約、警察対応の自衛隊対応への延長解釈などがリアルに語られ、省庁別対応や組織別、地方自治体と政府連携がいかに拙いことになるかを解説している。災害対応でも類似の問題があると感じるが、他国による侵攻がテーマであるだけに深刻かつ判断に急を要することが想定され、自衛隊という強力な軍隊を保有しながら、憲法と法律でその行動を縛っている現状の矛盾や独立国家として国を守ることの意義を感じる。最後の終息部分はフィクション小説にありがちな尻すぼみ感があるが、それまでの問題提起に本小説の価値はある。

2009年1月15日 シャングリラ病原体 フリーマントル ☺☺☺

スパイ小説のフリーマントルによる人類滅亡の危機をもたらすウイルス(病原体)の恐怖を描くSF小説。新型インフルエンザのニュースが流れる中読むとスリルが増大する。アメリカの気候学者ストッダートは地球温暖化による危機の提唱者、彼が率いる救助チームが南極から発信されたSOS信号を頼りに基地に向かう。救助チームが発見したのは死骸だけ、それも急激に老化して死んだと見られるが、救助に向かったストッダート以外のメンバーも同じ症状で全員死亡する。同時にシベリアや北極、アラスカでも同様の報告が上がってくる。ストッダートはこの問題に対応すべく編成されたワシントンDCに本拠を構える国際混成チームのリーダに指名される。しかし、各国の政府メンバーは、この南極にもかかわらず、すべてを政治的に利用しようとするため、すべての情報を迅速に共有することや、その結果を共同で分析することが阻害される。そのため一層人類の危機が目前に迫る。シベリアのバイカル湖近辺で温暖化による表層氷の溶解により先史時代の人類の死骸が発見され、さらなる緊張が走る。原因は未知の細菌なのか、温暖化により融け出した昆虫やウイルスなのか、ストッダートのチームメンバーは自らの危険も顧みない活躍を見せるがやはり政治家の暗躍が足を引っ張る。問題の全解明はできずにストッダートと結ばれた女性の妊娠が、人類へのさらなる病原体の侵入を予見させる結末を見せる。新型インフルエンザ対策を進めている官公庁メンバーや自民党PTメンバーなどにも 読んでもらいたい。

2009年1月7日 三たびの海峡 帚木 蓬生 ☺☺☺☺☺

太平洋戦争末期、17歳の河時根が九州の炭鉱に強制連行されるところから始まる。強制連行や日本の朝鮮支配、民族差別を扱う作品はいくつかあると思うが、日本人が朝鮮人の視点で描くというところがユニークで、 朝鮮民族の義憤ということに傾斜しすぎることなく、歴史を踏まえ、両国の人々が偏見を理解し乗り越えた上で人間性を発揮する必要がある、というのが著者の訴えたいことではないか。労務主任・山本三次ら日本人の監視員担当メンバーは時根が労働させられている炭鉱で、リンチを服従の道具とし、 何人かの朝鮮人もまた陰湿に捕虜をいじめる。一年たつころには仲間は100人から80人に減り、必死の思いで脱走、近くの朝鮮人部落に救いを求める。同胞の口利きで飯場に身を隠し、ある日本人女性と親しくなる。終戦後、日本人女性は妊娠、祖国に帰るが、朝鮮人社会にも日本人との家族は受け入れられなかった。実の兄から絶縁を告げられ、路頭に迷う時根らを助けてくれたのは、部落で差別されていた白丁の老人だけ。老人の家で妻は出産。そのうちに妻は子供と共に日本から来た彼女の父親らに連れ戻されてしまう。時根はその後、日本語を使わず、日本との縁を絶ち 韓国でスーパーの経営者となる。日本に連れ戻された妻は子を立派に育て上げて、亡くなっている。ある時、日本で一緒につらい時を過ごした同胞から、山本三次が市長となり、ボタ山をつぶし、再開発を計画していると聞き、日本に渡る。教師となった息子・時郎との対面、山本市長の悪業の追及と汚職での逮捕、仲間が地下に葬られているボタ山で、今でも山本の部下である元朝鮮人労務に、思いをぶつける。この小説は創作であるが、朝鮮人連行や捕虜としての強制労働は歴史上の事実、日本人は広島 ・長崎の犠牲者であると同時に朝鮮、中国での残虐行為、拉致と強制労働の加害者であったこと忘れてはいけない。

2009年1月5日 春の夢 宮本輝 ☺☺☺

大学生 哲之の視点からの一年間の青春物語。最初からきっと結ばれるだろうと想像できる、良い感じの恋人陽子がいる。母親と別居していることや、死んだ父親の借金取り立てをしつこくせまるヤクザから逃れるため、片町沿線と思しき生駒山麓の町にあるアパートに引っ越ししているのだが、悲壮感は薄く、近い将来の幸せを予感させる幕開き。陽子の心変わりに対する疑念、ホテルのアルバイトで内紛に巻き込まれたりする展開はあるものの、最後はハッピーエンド。ストーリーの柱になるのが、文字通り柱に偶然、釘で突き刺してしまったトカゲ。アパートに引越しした夜、真っ暗闇の中でトカゲを釘で刺してしまい、そのトカゲがいつまでも生きているので餌をやって飼う、ありそうにない設定であるが、このトカゲを使って歎異抄を持ち出して生と死を語る。大学生が生と死を語るので、逼迫感はないが、大学生の時にこのようなことを自分は考えていたか、と言われると記憶にはない。トカゲが出てきて気持ち悪い、という方もいるとは思うが、僕の読後感はすがすがしい。

2009年1月2日 深海のYrr フランク・シェッツィング ☺☺☺☺

最初の異変は世界各地で起こる。ペルーの漁師が魚群に溺死させられる、ノルウェー海では新種のゴカイがメタンハイドレート層を掘っているのが発見、カナダではホエールウォッチングの船がクジラやオルカの群れに襲われ、世界で毒クラゲが大量発生、海難事故が続発、フランスではロブスターに潜む病原体による死者が出る。そして、北海での大規模な地滑りによる大津波でヨーロッパ北部の都市は壊滅してしまう、このあたりの記述の迫力は結構リアルなものがあり、映画にすることをすでに想定しているのではないかと感じる。米海岸でもカニの大群がもたらした病原体により人々がパニックを起こすが、これらすべては海で起こっている。ノルウェーの生物学者ヨハンソン、カナダの生物学者オリヴィエラ、海洋ジャーナリストのウィーヴァー、SETI研究者クロウ、カナダ先住民のクジラ研究者アナワク、など科学者が原因解明のために集められ、米軍女性司令官リーをリーダーにして緊急対応策を練る。科学者たちはこれらの騒動を引き起こしている海洋生物が異常な行動を取った原因として共通のゼラチン状物質を持っていることを発見、一連の事態の原因について、「地球の海には人類とは異なる進化をたどった知性生物が住んでおり、今起きている異変はその生物による警告、攻撃」という仮説を立てる。空母に乗り込み科学者達はグリーンランド海に向かう。リーダーのリーや米国CIAは事態を別の視点から捉え裏工作を進める。知性体Yrrとのコミュニケーションの可能性を探るが、Yrrからの攻撃により空母は沈没寸前。ヨハンソンはリーを道連れに自爆、ウィーヴァーはフェロモン物質を深海のYrrに届る。多くの登場人物が出てきて、主役である人物も死んでいって、リーダーが実は狂気をはらんでいたり、やはり映画化を意識したエンタテインメント志向。作者自身が4年もの歳月をかけて行ったという膨大な取材により、物語で起こる様々な事象が裏付けされている点が妙にリアリティを感じさせる。謝辞として挙げられた人々には、バイオテクノロジーの科学研究員や、生物学研究所の博士、海洋学、生物学、船体構造力学などを専門とする大学教授が名を連ね、関連するサイエンスとしては地球科学・海洋生物・海洋大循環・プレートテクトニクス・遺伝子工学・地球外知的文明・石油資源産業・海洋科学技術など、多岐に渡っていて、著者の科学的裏付けに対する執着を感じる。著者は普段ニュースでも取り上げられる環境問題の重要性を訴え、地球温暖化や環境問題が海に対しても考えるべきポイントがあることを読者は気づかされる。上中下巻からなる大作だが、読者は次々に起こる事件に引き込まれるように読んでしまい、ドイツでベストセラーになったのも頷ける。著者はフランク・シェッツィング、1957年生まれのドイツ人。広告代理店でクリエイターとして活躍していた経歴をもつ。作家としてのデビューは38歳。本著作は4年を取材に費やして書き上げた傑作娯楽SF長編である。サイエンス小説好きには是非おすすめする。

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