読書日記(2009年4-6月)

2009年6月27日 花あらし 阿刀田高 ☺☺☺

阿刀田さんの短編は印象派ともいえる。絶品だと思ったのが最後の花あらし、夫に先立たれた妻の純愛物語。笑顔がすてきだった夫が40そこそこで先立ってしまう。桜が好きだといった夫の言葉通り、八王子の先にある夫の実家のそばにある山を訪れた妻の目に入ったのは全山桜が満開で夫の笑顔に見えた景色、どんでん返しも引っかけもない作品だが印象に残る。白い蟹はロマノフ王朝の最後にまつわるアスタナシア伝説を題材にしたお話。こちらは至る所に最後の印象を作り出すために仕掛けに仕掛けてある。横浜にある美術館学芸員の主人公彩子、パリ留学中に知り合ったロシア人ライサを頼ってエカテリンブルグの修道院を訪問、途中車でひいてしまった動物の血の色、食べてはき出したカニサラダ大きな蜘蛛と白指蟹。こうした伏線を最後の落ちにつなげている、阿刀田魔術である。

2009年6月26日 昭和史(戦前編) 半藤一利 ☺☺☺☺☺

丸の内の慶応大学特別講座として2003年4―12月語られた15回の講義内容を本にしたもの。昭和の太平洋戦争敗戦までの歴史は、ペリー開国要求から日露戦争までかけて築いてきた国富を20年かけて灰燼にするまでの歴史である、という解説である。

<対華21箇条要求>
1915年日本は清国にたいし特殊権益要求を21箇条にして出した。これに対して中国内で起きた運動が五四運動、芥川龍之介は新聞社の特派員として中国を訪問、シナ遊記としてその時の様子を「中国民衆がいかに日本人を嫌い、反日運動をやっているか、その様子を具体的に」記述している。中国での国作りが出来ていないこのころから排日運動が盛んであり、日本に与えた満州の権益を返せと言う声が強くなっていたというのが大正から昭和初めにかけての状況だった。

<日英同盟廃棄>
1921年日英同盟が廃棄されることになるきっかけが、主艦船比率を日英米で5:5:3にするというワシントン海軍軍縮条約、この締結前にアメリカの外交作戦の結果日英同盟が廃棄されたことが、軍縮条約とともにその後の外交政策に大きく影響してきた。

<張作霖事件>
満州某重大事件、と呼ばれた日本軍による張作霖の暗殺。昭和天皇はこの事件に怒り田中義一首相を辞任させてしまう。軍部としては天皇のそばにろくな側近がいないからこうなる、として西園寺や牧野伸顕らを「君側の奸」と呼んだ。この時の重臣達への恨みを含む空気が226事件を引き起こす原因となってしまったとも昭和天皇は日記に記している。またこの反省から天皇としては内閣の上奏する内容は個人として反対であっても裁可を与えることを決意した。元老の西園寺さんから注意されたのではないかと推測している。これは立憲君主制では重要なことという西園寺さんの考えからであるが、この後の歴史にも影響を与える。

<統帥権干犯問題>
ワシントン海軍軍縮条約締結には海軍は反対、閣議決定により条約批准を行うことを決める。国会での議論で犬養毅、鳩山一郎が「軍備は海軍省の権限ではなく、天皇が統帥権を持つ軍令部が持つものであり、その承認なくして海軍省が決めることは統帥権干犯である」と主張した。理論的に支えたのが北一輝。これを司馬遼太郎さんは魔法の杖と表現、このあと統帥権に関する事柄には首相もだれも口を出せないことになってしまった。昭和史スタートを切るにあたっての不幸、ウォール街の株価暴落を受けて日本がこの不況をどう乗り切るかとあわせて満州事変につながってしまう。

<満州事変>
石原完爾は張作霖事件で辞職した河本大作のあと旅順に赴任、「満蒙問題私見」を発表、日米対等たり得るためには「満州は日本の生命線」と構想、新聞がこれを後押しした。こうした新聞などマスコミによる後押しの場合「生命線、二十億の国費、十万同胞の血」などのキャッチフレーズが重要だった。関東軍は満鉄爆破を捏造、「君側の奸」といわれた勢力も、これを制止できなかった。これを後押ししたのが朝日新聞と東京日々新聞(今の毎日新聞)、それまでは慎重だった論調が一日にして逆転、各社報道合戦を通して部数を伸ばした。若槻礼次郎首相はなんとか事変縮小を図るが、朝鮮にいた日本軍が国境を越えて参戦したと聞くや「それでは仕方がない」となって、満州事変対応が内閣の方針となってしまった。天皇は内閣決議を翻さないと決めているので、昭和天皇は本心反対ながら陸軍の思うとおりの筋書きで満州事変拡大につながった。昭和7年3月には満州国建設、半藤はこの瞬間が「昭和がダメになった瞬間だ」という。

<上海事変>
板垣と石原は上海領事館付き武官であった田中隆吉中佐に上海で事件を捏造すること命じ、東洋のマタハリ川島芳子を使って中国人による日蓮宗の僧侶殺害事件を捏造した。最初から陸軍の謀略であったことを知った昭和天皇は元陸相の白川義則に上海事変不拡大を命じた。国際社会はこの不拡大方針を評価するが、陸軍には不満が募った。

<二・二六事件>
松本清張の「二・二六事件」では「事件以降は軍部が絶えず事件再発防止をちらつかせて政財界言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業界財閥を軍が抱え国民を戦争へと引きずり込んだ」。事件後発足した広田弘毅内閣は重大なことを3つ決めて実行してしまった。1. 軍大臣現役武官制導入 2. 日独防共協定 3. 北守南進の政策 これらの結果、米英との衝突へとつながっていった。有名な安部定事件はこのころ起こっていて、人々は偉い人たちが沢山殺される世の中に嫌気がさしながら、日常生活では安部定事件のことを話題にしていた。

<ノモンハン事件>
1939年、満州とモンゴルの国境にあるノモンハンで国境侵犯事件があり、日ソが戦った。この戦いで日本の第23師団2万人のうち7割が死傷、師団が消滅する被害を被った。ソ連軍はこの時最新鋭の戦車、重砲、飛行機を投入、結果として日本軍58925人のうち戦死7720人、戦傷8664人、ソ連蒙古軍も死傷者24992人という被害であった。この時思い知ったことは火力戦能力の差は大きくソ連とは戦うべきではないと言うこと。この後は一貫して南進北守政策が進められることになった。この時の反省はその後も活かされることなくサイパン島敗戦でも「陸軍装備が悪いことが本当によく分かった」と服部作戦部長は言ったという。日米英の装備差、軍事力差は戦争前から分かっていたこと、日本人は過去からなにも学んでいない、というのが著者の指摘。

<三国同盟>
ドイツの欧州戦線での好調をみていた陸軍は三国同盟に積極的だったが、三国同盟により英米との対立が深まるとみていた海軍は反対、米内・井上・山本の海軍トリオは吉田海軍大臣とともに反対論戦をはった。優柔不断な近衛首相は決めかねていたが、ドイツが欧州戦線で頑張っている限りアメリカは日本に手出しできないだろう、という甘い読みと、陸軍との予算配分交渉で有利に立ちたいという海軍の思いもあり最後は賛成してしまう。山本五十六はこのことを顧みて「内乱では国は亡びない、戦争で亡びるもの。内乱を避けるため戦争にかけるとは主客転倒だ」と語ったという。昭和天皇も同じ思いだったようだ。

<北部仏印進駐>
欧州戦線でドイツにやられているフランスが傀儡政府をもっていた仏領インドシナの北部にこの隙にと侵攻を始め、米英物資の中国への侵入を食い止めたかった陸軍は北部仏領インドシナに進駐した。この際、平和理の進駐を計画していた参謀本部にたいし、現地日本軍は銃火を交えることで進駐、統帥権の乱れから国際社会からの信を失ってしまう。日本は三国同盟締結、北部仏印進駐で万が一に備えたつもりが、逆にそれが米英に戦争を始めるきっかけを与える結果となった。前年の昭和14年、アメリカは日米通商航海条約を破棄通知しており、くず鉄の全面禁輸とともに、東南アジアの石油が日本の生命線となっていた。

<日ソ中立条約>
昭和16年4月スターリンと話し合った松岡洋右は話し合いに合意、日ソは中立条約を締結した。スターリンとしてはドイツとの戦争を前にして、日本と中立を約束しておきたかった。日本としても北の脅威を抑え南進に徹するために必要な条約だった。こうした松岡の働きを日本国民は万歳三唱でむかえた。

<御前会議>
昭和16年第1回目の御前会議、天皇は発言しない決まり。第2回が9月6日、第3回が11月5日、第4回が12月1日、これで対英米開戦が決められた。決議内容は次の通り。「帝国は大東亜共栄圏を建設、シナ事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進め、また情勢の推移に応じ北方問題を解決す。本目的達成のため対英米開戦を辞せず」これが7月2日の決議内容、この時点で太平洋戦争開戦は決められていた。内大臣の木戸は日記にこう記している。「油は二年量としても戦争すれば1年半しか持たない。陸軍は一年くらいのことであり、とうてい米国に対して必勝の戦いをなすことは出来ない」2年以上は持たない戦争に、負けると分かっていて突入するしかなかったのだ。海軍が考えていた開戦の条件は、日米海軍比率が10:7の時点、建造力はアメリカが上なので時間がたつほどにその比率は不利になる。昭和16年12月が10:7になるときだというのだ。これより後は海も荒れて開戦が難しくなる、というのも理由にあった。つまり、野村吉三郎による7月以降12月までの外交交渉は表面面のお芝居だったのだ。

<ヤルタ会談>
昭和20年4月にはルーズベルト、スターリン、チャーチルによる会議がもたれ、ドイツ降伏を前提にした日本の扱いが協議された。ルーズベルトはソ連に太平洋戦線への参戦を要望、樺太と千島列島の権利をソ連に返す約束で参戦を約束、ドイツ降伏の3ヶ月後を参戦の時と決めていた。ソ連は4月に日ソ中立条約破棄を通知、5月7日ドイツ降伏の三ヶ月後である8月9日に満州に攻め入った。ソ連は自国都合により当初は8月末に参入と決めていたが、8月6日の広島原爆投下を見て、急いで参戦、ポツダム宣言受諾の8月14日以降も攻撃を続け、満州にいた日本軍と一般人57万4538人が捕虜としてシベリア送り、引き上げてきたのは47万2942人、10万人以上がシベリアで死んだことになる。満州には150万人の日本人がいたとされ、引き上げたのが満州から104万7千人、関東州から22万6千人とされていて、死亡は18万694人とされている。このときソ連はアメリカに北海道の南半分の管理を要求したがアメリカが拒否、朝鮮やドイツのようになることを日本は免れた。

<昭和史5つの反省>
1. 国民的熱狂を作ってはいけない。理性は熱狂に流されてしまう。
2. 危機におよび日本人は抽象的概念を好み、具体的、理性的な方法を検討しない。物事は自分の好都合の方向に動くと想定してしまう。
3. 日本型タコツボ社会での小集団主義の弊害。エリートはエリート集団内での情報しか信用せず、内部論理で判断してしまう。
4. 問題への対症療法で、すぐに成果を求める短兵急な発想がある。その場を取り繕うような判断をする、それが連続して起こってしまうのは複眼的思考がないためである。
5. 国際社会での位置づけを客観的に把握しない。ポツダム宣言受諾ごにも必要な手付きがあることを認識しなかったため多くの日本人がシベリアに抑留された。主観的思考の結果である。

2009年6月24日 日本そば―味と粋にこだわる雑学 ☺☺

うまいそば屋の見つけ方とか、二八そばというのはそば粉8対つなぎ2という説と、一杯十六文という説、八文のそばを二杯とか何とかいう話を紹介している。その日の最初の客の場合に、そば湯は出てくるのか、とか、そばがきがあればその店は信頼できる、とか、生そばと書いている暖簾がでていれば十割そばのはずだが、どうしたら見分けられるのかなどなど。暇だったら読んでみたらどうか、という本。

2009年6月23日 石油の支配者 浜田和幸 ☺☺☺

昨年の原油高は、なぜおきたのか、最高値は1バレル147ドル、そして今は60ドル、この乱高下は尋常ではない。膨大な投機マネーが原油先物市場になだれ込み、価格をつり上げていた、実需に見合う価格ではなかったことが分かる。

原油高の「犯人」は誰だったのか、著者は、原油を人質にとった「マーケット・テロリズム」といえるような前代未聞の状況だとして、その主役が、先進国の商品先物を買う機関投資家であり、具体的には投資銀行やヘッジファンド、年金ファンド、大学基金、財団、富裕層の個人、政府系ファンドなどであるという。

著者の指摘の要点は次の通り。
・石油には二重価格が存在しており、日本はどの国よりも高い値段で買わされている。
・原油市場を高騰させた資金に金利が安い、円キャリー資金が使われている。
・石油は化石燃料であり、そのうち枯渇するというピークオイル説とは別に、地球内部で無機物質から作られているという学説がある。
・CO2排出権取引市場はエンロンの陰謀であった。

そして現在では、「新セブンシスターズ」と呼ばれるロシア、イラン、サウジアラビア、中国、マレーシア、ブラジル、ベネズエラの政府系石油会社が原油市場に大きな影響力を持ちはじめているということが、重要である、と指摘している。セブンシスターズといえば、欧米の石油メジャー七社をさしていたが、これらの新興国の影響力、政治的観点から、とくに中国とロシアの動向からは目が離せないと著者は述べている。

2009年6月22日 ブラック・ドッグ ジョン・クリード 

英国推理作家協会賞受賞作家だというので読んでみたが、これはついていけない。ベルファストで打ち上げられた、50年前の水兵の認識票、50年前に海に沈んだ水兵の標識と人骨が打ち上げられ、元英国秘密情報部員ジャック・バレンタインは調査、数千トンの弾薬や放射性廃棄物が、海溝に投棄されたことを知った。検死審問にきていた記者が、ジャックに隠蔽工作が行われていることを告げようとした時、狙撃されてしまう。残した言葉は「ブラック・キャット」だった。終盤でネタが明かされるが、無理があって、一気に読めるが良かったとは言い難い。

2009年6月20日 あとの祭り 指の値段 渡辺淳一 ☺☺

週刊新潮に2004−2005年に連載された「あとの祭り」というエッセイ集。なんということはない内容だが、面白かったものをいくつか。金持ちの75歳の男性がいて奥様を亡くし独身、再婚の話がいくつもあるが決断できない。どうも相手がお金目当てのように見えるから、という理由。これに比べると婚外恋愛、いわゆる不倫は財産や結婚ができなくても一心に相手のことを思うから、これこそ純愛であると、これが渡辺さんの主張、一理ある。チャールズ皇太子がカミラさんと再婚、世の中の評判はよくないが渡辺さんは絶賛、30年よく続いたものだというのがその理由。カミラさんは73年に陸軍将校と結婚二児をもうけたが95年に離婚。チャールズ皇太子は81年にダイアナさんと結婚したが96年に離婚、ダイアナさんは翌年事故死。ダイアナさんは生前「3人で結婚したようなもの」と言っていたとか、チャールズ皇太子はずっとカミラさんが好きだったのだ。この愛を貫いたから絶賛、というのが渡辺評。売れっ子の作家はいいね、この程度のエッセイでも結構な収入になるのだから。

2009年6月19日 代行返上 幸田真音 ☺☺☺

大手の五稜信託銀行で、年金基金のコンサル河野が主人公。大企業が自社の年金基金の国の年金部分の代行返上が始まっている。厚生年金基金を持っている企業の年金は基礎年金の上に企業の厚生年金、さらに企業独自の付加給付年金の3階建てになっている。厚生年金の部分は本来国が行う年金処理の代行を企業が行っていて、その代行部分を国に返す、というのが代行返上。年金の運用を年5.5%でできるという前提で設計されていた制度なので、金利が高いうちはうまく回っていたが、低金利では回らず、運用利回りが5.5%に届かない部分は企業が負担する必要が出てきて、それではたまらない、過去の社員の勤務した部分が債務となって企業の経理を圧迫する、という過去勤務債務問題から、国に返上することが多くの企業で行われたのが2003年。著者はそんなことになったら、年金の現金化の必要が出てきて株式市場で株価が暴落するのではないか、というのが執筆のきっかけだったといっている。

主人公の河野は代行返上による市場への売り圧力を緩和するスキーム作成に着手するが、そこにヘッジファンドが立ちはだかる。一方、代行返上に向けて伝統ある企業の年金基金で地道に働く人々が努力している。物語は河野と妻由子のすれ違い、小規模証券会社の経営者とその娘理美、河野の高校時代の友人多田がヘッジファンドのマネージャとして登場、勧善懲悪の単純なストーリーではあるが、代行返上で引き起こされる金融市場のリスクを解説する。社会保険庁の杜撰な保険情報処理、ハゲタカのような外資系ファンド、遅れた企業年金基金担当者という図式は単純だが分かりやすいともいえる。すっと読める。

2009年6月17日 強欲資本主義ウォール街の自爆 神谷秀樹 ☺☺☺☺

お金の儲け方ばかりを勉強しMBAを取得、経営学を修めたビジネスマンは、人間として大事なこと、職業人としての倫理やなにが幸せなのかについて何も学んでいないのではないか、というのが神谷(みたに)さんの指摘。合法であれば手段を選ばない金儲けは破綻すると主張していて、それは今現実のものになろうとしているが、こうしたバブルとその破裂は「強欲」がある限りなくならないとも指摘、これを「強欲資本主義」と称していずれ終わりを告げるときがくると説いている。神谷さんももともとは住友銀行入行後、ゴールドマン・サックス証券に移籍、米国で投資銀行「ロバーツ・ミタニLLC」を経営する強欲の当事者とも言える人物、その著者がインサイダーとしてウォール街は自爆すると表現。欧州系のマーチャントバンクが投資銀行へそして金儲けのためなら何でもやる今の投資銀行のように変身してきたかを解説、ゴールドマンサックスをそれらの象徴的存在と指摘している。

アメリカは物作りができない国になってしまった象徴としてGMを例示、CEOワゴナーの2008年5月に日経ビジネスに掲載されたインタビューでの言葉を紹介している。「企業としての至上命題は株主への利益の還元であり、収益性やキャッシュフローが非常に大切です。当社は昨年米国でレンタカー向けの販売を大幅に削減しました、採算が合わなかったからです」自動車会社の命題は消費者が必要とする車を作ることであり、顧客のために働くことが至上命題のはず、と神谷さんは指摘している。これに対するトヨタ経営者の言葉を紹介。「われわれが欲しいのは顧客なのです。顧客を増やすためには顧客のためになる新しい技術が必要なのです。そのためにはどんなにお金をかけても良いと思っています」神谷さんはこれがGMとトヨタの今の企業差を表していると言う。GEも2008年5月に不採算という理由で家電部門を売却すると発表、アメリカ企業は儲からない物作りから手を引いて、採算の良い金融機能に絞ろうとしている、これがアメリカの危機だという。その金融機関の考えていることは「今日のもうけは僕のもの、明日の損は君のもの」という自己中心的なもの、リーマンショックで目が覚めることを祈る、としている。

ウォール街のファンドの報酬体型はどうなっているのか。一般にプライベート・エクイティ・ファンドでは、運用総額の2%プラス、キャピタルゲインの20%という契約、できるだけ短期で利益を上げて売り抜けることを考える。10年20年かけて事業を作り上げることを考えているようなマネージャーはいない、ということ。法律さえ守っていれば、社会貢献や経営者倫理などには全く興味もなく、ひたすら利潤を目指しているという、お金だけに価値があるとの考え方である。

所得格差にも問題があると指摘、倒産したリーマンブラザーズのトップ、ファルドCEOが得ていたボーナスは4000万ドル、一方で失業者は6%を超えていて、健康保険や予防施主さえ受けられない子供達がいるアメリカという国は病んでいると言わざるを得ないと神谷さんは言う。こうしたアメリカの病理を1987年時点で指摘していた日本人が下村博士、池田内閣時代に「所得倍増論」を構想した経済学者で指摘事項は次の通り。
@消費好きのアメリカ人とレーガン減税は虚構の経済政策。
A日本商品はアメリカの異常膨張に吸い込まれ繁栄しているかのように見えるが、異常膨張に合わせて設備投資すると過剰投資となる。
B財政赤字を減らすには大幅な歳出削減と増税以外に道はない。
Cアメリカの要求に合わせた日本の内需拡大論は日本経済を破滅させる。
Dドル崩壊の危険性は常にあり、日本はすでに何兆円も損をしている。
E日米は縮小均衡から再出発するべきである。世界同時不況を覚悟するしか解決の道はない。

当時、この下村博士の主張に耳を貸す人はおらず、前川レポートにつながり日本バブルは90年代初めに崩壊、「小泉・竹中時代」にはさらなる強欲主義が日本を席巻し、そして今アメリカ金融経済は崩壊、日本も大きな影響を受ける結果となっている、と神谷さんはいう。これからは内需振興や輸出振興、特にアメリカの浪費を前提とした輸出は多くを望めず、資源価格は上昇傾向、地球温暖化問題もある。大きな赤字を抱える日本としてはこれ以上の財政出動にも限界があり、下村博士指摘の通り、ゼロ成長を現実のものとして受け止める必要がある。日本人は物づくりや日本人が大切にしてきた価値観、「もったいない」「足を知る」に立ち返るべきである、という主張である。デフタパートナーズの原丈人さんの「公益資本主義」での主張と重なる部分も多い。強欲資本主義の真ん中にいる著者の主張だけに説得力もある。

2009年6月16日 マグマ 真山仁 ☺☺☺

ハゲタカの間山さんの地熱発電会社のターンアラウンドを描いたマグマ、ハゲタカよりずっと読後感が良い。これは主人公の、外資系ファンドのゴールドバーグ・キャピタルに勤める野上妙子の人間力だと思う。野上はGC東京支店長の待田から、地熱発電を研究運営する日本地熱開発(地開)の再建を任される。野上は地開の安藤社長や研究責任者の御室から地熱発電の潜在力と将来性を説明され、会社再建に努力する。野上は上司の待田、元上司の大北など、GCの先輩社員に尊敬を感じながらも、会社の姿勢や先輩の拝金主義に疑問も持つ。きわめて正常な神経の持ち主なのだが、GCの社員である以上、会社を再建させて転売する、というターンアラウンドビジネスマンであることには変わりはなく、時に非情な台詞も口に出す。日本地熱開発の安藤元社長は政治家である安藤大志郎の孫であり、地熱発電が大きく成長しなかった理由について次のように解説する。「地熱停滞の最大の理由は、電力会社が原発という神の火を手に入れ、後戻りできなくなったことである」そして、政府環境庁が電力会社と組んで地熱発電を阻み、さらに国立公園保護や温泉地保護を切り札にしていることを説明している。「日本の場合、二つの大きな障害が、大型地熱発電所建設を阻んでいる。一つは、有力な地熱エリアが国立公園内にあること、もう一つは温泉街との兼ね合いである」 これは本当なのだろうか。入念たる取材と関係者ヒアリングの後の記述であろうと推察する。環境問題に注目が集まり、ポスト京都議定書が間近に迫る、今後調べてみたいテーマである。

2009年6月15日 幕末史 半藤一利 ☺☺☺☺☺

1853年アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航、開国を要求してから1877年西南戦争が勃発、西郷隆盛が死に、相前後して大久保利通、木戸孝允が死亡するまでを慶応大学丸の内キャンパス特別講義として20回、講談風に語ったのを本にしたというもの。これを聴講した方達は楽しかっただろうな、と思える内容。巻末に年表がついているので見ると歴史や小説で知っている事柄が並んでいるだけなのが、これが半藤さんの講談にかかると西郷や大久保など登場人物に血と魂が宿り、その時の登場人物の志や思い、無念さやうれしさが伝わってきます。開国を受け入れるかどうか、という判断を当時の幕府は容易にできないので時間稼ぎをしようとするが、したたかなアメリカはイギリスが中国でやったアヘン戦争のことをちらつかせ、そのことを既に知っていた幕府のインテリ達をびびらせています。幕府は何も決められない、「ないないずくしの歌」が紹介されていて、「鎖国は破りたくない、ご威光も落としたくない、外国人と応対できる老中がいない、軍備が足りない、戦う勇気もない、御体裁も失いたくない、だから老中達は決心できない」町民達はこうはやし立てて喜んでいたとか。こうしたペリー艦隊などの来航は、勝海舟に海軍の重要性を気がつかせます。

こうした騒然とした攘夷と開国両論に揺れる幕末に大権力を握ったのが井伊直弼、大老となり安政の大獄が始まります。井伊は桜田門外の変で殺され攘夷論の沸騰へとつながっていきます。こうしたことが起こる前、1855年には長崎に海軍伝習所が作られて4年間で閉鎖されたのですが、その4年間で各藩から集められた優秀な青年武士には、藩より大きい国家という概念が理解されたこと、西洋の合理主義が教えられたこと、そして上級下級の武士が切磋琢磨した結果、能力が高いものが良い結果を残すことが体感されたこと、こういう成果を残したのだと半藤さんは言います。ここで学んだ武士達が中心になって日米修好条約の批准のためにワシントンに行く必要が出た際に咸臨丸の日本人だけでアメリカまで行こう、という主張が生まれたとか。実際には危ないのでアメリカの艦船と一緒に行ったらしいのですが、興味深い観察です。

公武合体のためいやいや降嫁しなければならなかった皇女和宮。行列を作って京都から江戸まで行くのですが、由比にサッタという地名があるのでわざわざ中仙道を通った、その際一日に進む距離は五里。京都から江戸まで25日くらいかけてゆっくりと行ったそうです。さらに、二里四方は煙止め、火はたいてはいけないとのおふれが出て人々はお湯も沸かせなかったとか。板橋に「縁切り榎」という木があったので伐採するわけにも行かないので、そのためにバイパスを造ったとか。降嫁の条件として、「公武一体、攘夷の徹底、大赦(一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)」があって、自由の身になったこうしたメンバーが明治維新を進めたと紹介。幕末史は藤村の「夜明け前」と同時代、「夜明け前」が幕末から明治にかけての木曾地方を描き、主人公は、馬籠宿の本陣の家系に生まれた青山半蔵で藤村の父がモデルとなっています。「夜明け前」には中仙道を通る和宮行列の様子が描写されていますが、その他にも半蔵が尊皇攘夷に心を引かれる話、後に出てくる新撰組の武田耕雲斎率いる水戸浪士天狗党が、水戸から京を目指して上って行く話、慶喜が追いつめられて大坂から江戸に逃げて帰った話、生麦事件などが出てきます。ハラキリがフランス人にとって衝撃的だった逸話もありました。

島津久光が登場、江戸城に乗り込むと、大砲の威力を背景に「五大老(島津、毛利、山内、前田、伊達)の設置、攘夷断行、慶喜を将軍家茂の後見役に、春嶽を政治総裁にせよ」と当時の幕閣にせまります。これに成功した帰り道におきたのが生麦事件、結果として27万両もの賠償金を幕府はイギリスに払います。この後もたびたび無礼者ということで殺人をした尻ぬぐいのためにお金をはらい、外国と戦争をした結果賠償金を払わされています。四国艦隊と長州が戦った時には300万ドルを要求され50万ドルX6年払いで支払ったという話もあります。攘夷論はこうした中でますます高まりますが、尊皇攘夷、と言われる尊皇の部分というのは相当後から付け足された概念で、最初は攘夷だけだったとか。

新撰組はよく小説や映画には取り上げられますが、こうした歴史の中での意味はほとんどないと見られています。池田屋事件は明治維新を4―5年遅らせたという説もありますが、半藤さんは逆に2―3年早めたと主張。池田屋事件が蛤御門の変をおこし、長州藩がここでこてんぱんにやられたので維新は早まった、という説明です。その後高杉晋作の活躍で長州が再び表舞台にでてきて開国論へとつながります。薩摩と長州はながく敵対していましたが、中岡慎太郎、坂本龍馬、小松帯刀、桂小五郎、西郷隆盛などの働きで薩摩名義による武器輸入を実現させ、薩長同盟の基礎を築きます。この時立ち合った薩摩の西郷38歳、小松31歳、桂33歳、坂本30歳、中岡29歳にすぎないのです。このとき武器輸入をしたのがイギリス人商人グラバーで、龍馬が結成した亀山社中、のちの海援隊が活躍しました。開国の決断をした天皇は孝明天皇、その決意を促したのは慶喜の大演説だったとか。こうして明治維新へと向かいますが、1867年には高杉晋作(享年29歳)も坂本龍馬(享年33歳)も死んでしまいます。辞世の句は有名な「面白き、こともなき世を面白く、住みなすものは心成りけり」。ところで龍馬が土佐の船夕顔丸で後藤象二郎に授けた知恵が「船中八策」、聞いた後藤象二郎はすっかり感心してそれを山内容堂に、そしてそれを慶喜に提案したと言われています。1. 大政奉還 2. 上下議院制 3. 人材登用 4. 外国との条約 5. 憲法制定 6. 海軍設立 7. 近衛兵の設置 8. 為替と金銀交換レート設定 龍馬が如何に進んだ考えを持っていたか分かります。

王政復古といわれる最初の明治政府の幹部達は誰だったのか。総裁 有栖川宮熾仁親王 議定 正親町三条実愛など公家達+徳川慶勝、松平春嶽、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義。 参与 岩倉具視、大原重徳、橋本実梁その他尾張藩士3名、越後藩士3名、広島藩士3名、土佐藩士3名、薩摩藩士3名。これらに加えて小御所会議では薩摩から大久保利通、西郷隆盛、土佐から後藤象二郎、神山左多衛、越前の中根雪江、酒井十の丞、尾張と広島から2―3名などとなっています。こうしたメンバーで会津と桑名を御所から追っ払い、鳥羽伏見の戦いへと突入、慶喜は朝敵となってしまうのです。その後、西軍と東軍に分かれて西軍が新政府軍、東軍は幕府軍となるのですが、追いつめられた慶喜は京都から大坂に逃げさらに一人江戸まで逃げ帰ります。幕府代表勝海舟と西軍西郷隆盛の話し合いにより江戸城への無血入城がなされて、朝敵慶喜の命は助けられます。

五箇条のご誓文についても、最終版になるまでの経緯を紹介しています。
第一版 由利公正 第二版 福岡孝弟 第三版 木戸孝允 そして最終版が明治天皇に提示されたということ。この五箇条のご誓文、内容的には民主国家を目指そうというもの、将軍など作らず万機公論に決すべし、としています。内容としては龍馬の船中八策からの発展形ですね。

この後は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵制導入となるのですが、こうした荒療治を西郷隆盛が結構独断でやってしまう。というのは岩倉使節団が1年半いない間には大きな改革はしないこと、との約束があったのです。しかし西郷さんは岩倉使節団が出た後の大久保、岩倉、木戸、伊藤など重鎮が留守中に、大隈重信、板垣退助等と主に大改革とも言える施策を実行しています。まず、朝敵の大赦、徳川慶喜、会津の松平容保、桑名の松平定敬、老中の板倉勝静、榎本武揚などを軒並み赦免。そして徴兵令です。@近衛兵創設 A廃藩置県による各藩主からの兵権奪取 B徴兵制 C兵器製造独立 D陸海軍学校創設 こうした流れになります。徴兵制に旧武士階級は反発したと言います。戦いのプロたる武士は失業させておいて全国から百姓などの素人を集めてどうするのか、という言い分。山県有朋と西郷さんは徴兵制施行を強行、国家の枠組みとして徴兵制がこれを機に組み入れられました。そして学校制、鉄道開業、諸外国とのコミュニケーション向上のための太陽暦採用、国立銀行設置、地租改正などあれよあれよという間もない改革実施だったようです。

廃藩置県は先の西軍と東軍の戦い、つまり朝敵側と新政府軍に分かれて戦ったしこりをそのまま引きづり、今でも県名と県庁所在地名が異なる17県のうち、14県は朝敵側だとのこと、このオペレーションをしたのは井上馨、この差別は昭和の軍隊まで引きずっていたとのことです。対米戦争直前の薩長土肥強硬派、永野修軍令部総長(土佐)、海軍次官、軍務局長、人事局長が長州、戦争指導班長、軍令部情報部長などが薩摩と薩長閥の佐官級クラスがそろい踏みだった。終戦の手じまいをしたのが朝敵とされた鈴木貫太郎(関宿藩)、米内光政(南部藩)、井上成美(仙台藩)これらの人たちが汗をかいたとされています。明治30年時点の陸軍大将は全員薩長出身、陸軍中将は長州12、薩摩13、土佐2、福岡4、東京1、陸軍少将は長州40、薩摩26、土佐6、福岡4、熊本1、石川4、東京2。相当明快な薩長閥が形成されて太平洋戦争突入まで行ったことが分かります。そういえば総理大臣の出身地をみても山口県が8名でトップ、地域ブロックでもると、明治維新の震源地であった中四国・九州が多く、幕府側の抵抗拠点があった北海道・東北、関東以北は、比較的少ないという傾向が見うけられ、ここまで影響が残っているとも言えます。

考えてみると明治維新というのは若手の武士達が攘夷、開国の狭間にあって、国家大変革が必至との認識を持って行動した、その結果、武士という特権階級はなくなり、国民という概念を持つ一つの国として生まれ変わったのです。藩の利益、自分の階級や立場の維持などに拘泥しない若者達だからなしえたこととも思えます。幕末の日本人平均寿命は40歳弱だったらしいので、今の半分、今の40歳代が当時の20歳後半から30歳代だと考えても良いかもしれません。それにしても日本の今のリーダー達の多くが60歳代であること考えれば、国が変わるときには若い力が重要になるわけです。

そしてこの後西郷の征韓論と政府軍との戦いへと進みます。征韓論賛成派は岩倉使節団の留守だったメンバーが中心、反対派は使節団メンバーとなっていて、対立軸は明確なようです。こうした中、江藤新平佐賀征韓論派に担がれて政府に処刑、西南戦争で西郷さん(享年51歳)も木戸孝允(享年45歳)も死にます。西南戦争の翌年、大久保(享年49歳)は暗殺され、残ったのは大物は伊藤と山県です、明治元年の時には伊藤28歳、山県31歳、10年たって伊藤38歳、山県41歳、彼らが明治政府を背負って立ったのです。山県はこの時参謀本部を陸軍省から独立、統帥権はこの時政府から独立していて、明治憲法発布より前のことです。統帥権干犯問題が太平洋戦争前に出てきますが、今から見れば何が問題なのかとも思えるこの話、根本は山県有朋が明治の始めの国の形として決めたもの、この形は太平洋戦争終了まで続いたのです。この後、「坂の上の雲」の時代へと入っていき、国は殖産興業、富国強兵へと舵を切っていきます。1853年のペリー来航から新政府の枠組みができるまで、という幕末史、前後の流れと人と人との関係がよく分かります。まさに歴史は人と人が同じ時代に出会って作られているのです。

2009年6月14日 小説 ザ・ゼネコン 高杉良 ☺☺

1988年バブル破裂前夜のゼネコン業界に取引銀行から出向した山本を主人公に、ゼネコンのビジネスを描いている。ちょっと古くさい感じがするのは致し方ないか。東和建設は準ゼネコン、社長の和田征一郎はワンマン、山本は和田社長に気に入られ秘書的な役割を与えられ、ブレーンとして信頼を受ける。ゼネコンの問題は政界癒着、談合、裏世界との取引、山本は1年という短い出向期間に社長の側近としてこれらをかいま見る。バブル崩壊直前の危うい好況が崩壊を予想されるような記述が見受けられるが物語は山本の出向解除で終わり、バブル崩壊はその先の話である。出向解除の理由が、和田社長の息子の処遇に関する意見の違い。直言居士山本はできのよくない和田社長の息子の面倒をみるように頼まれるがいい返事をせず、社長の甥が新入社員として入ってこようとすると歓迎しようとして、和田社長から会社を追い出される形となる。物語のリズムやテンポがのんびりしていてはらはらどきどきしない。結論はわかっているようなそんなお話。

2009年6月13日 麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか 岩田健太郎 ☺☺☺☺

アメリカ116人vs日本27万8000人、2001年に麻疹に罹った人の数である、著者によると原因はハッキリしている。96年に3種混合(MMR)ワクチンの副反応により死者が出たため責任追及をおそれた厚生労働省の担当者がワクチン接種を定期接種から任意接種に変更、2006年までの10年間接種せずに過ごした人から発症者がでたとのこと。厚生労働省は副反応がでやすいおたふく風邪(Mumps)ワクチンをはずしたMRワクチンの定期接種を再開したことのこと。役所では2−3年で担当課長補佐は異動するため、責任者は誰なのか、という問いには「責任者は変わったためわかりません」という答えになるとのことで、責任者はいつも不在である。日本は先進国で唯一麻疹が流行し、エイズが増え、結核が減らない国であり、ワクチン行政がアメリカより20年遅れている国であるとのこと。アメリカで接種されていて日本で接種が義務化されていないものに、Hib(インフルエンザ菌:インフルエンザウイルスとは別物)、肺炎球菌(Prevnar)、ロタ、A,B肝炎、DTaP(大人向け百日咳)などがある。インフルエンザ桿菌は小児で細菌性髄膜炎や急性喉頭蓋炎の原因になり、どちらも非常に重篤な病気であり、小児科の臨床をやっている医師の多くは日本でもはやくHibワクチン義務化にと思っているそうである。実際にH1N1が流行してみて、日本とアメリカなどの対応を比べてみると、日本の対応のちぐはぐさがよくわかった。ワクチン問題だけではなく、日本での防疫、公衆衛生の概念など本当に遅れていると感じる。

2009年6月11日 愉楽の園 宮本輝 ☺☺☺

タイのバンコックを舞台にした、日本人女性 惠子とタイ人で裕福で王家の家系にも繋がる家庭育ちの男性サンスーン。二人は妻を亡くした男と、パートナーにと別れて傷心旅行でバンコクを訪れた女性としてバンコックで偶然出会い、そのまま3年、夫婦とは成らないまでも家を買って週に何度かを一緒に過ごす間柄になっている。サンスーンは惠子と正式に結婚したがっているが、惠子には迷いがある。日本から世界を旅してバンコックにたどり着いたという野口が惠子の前に現れ、惠子の心は揺らぐ。サンスーンは政界進出を期に、惠子と正式に結婚したいと考えプロポーズする。惠子は煮え切らないが、3年も住んでいて読み書きもできないタイ語を勉強する決心をして、サンスーンには内緒で学ぶ。ある日、惠子がタイ語を話すのを聞いたサンスーンはそのことが、プロポーズへの答えだと解釈する。政界進出と同時に本の出版ももくろむサンスーン、だが、本当の執筆者は別にいることを惠子は知る。本の出版を祝うパーティ席上、二人の結婚を披露するサンスーン。惠子は、野口とのこと、本の秘密などが頭の中を駆けめぐり、サンスーンの期待には添えないことを決意する。ここで物語は終わるのだが、サンスーンの表面面の良さを描きながら、政治家としてのサンスーンの裏側を予見させる描写もあり、途中からは惠子がサンスーンを裏切るのだと見えてくる。野口は惠子に惹かれながらも、二人が結ばれることはないとも考えている。ある時、二人は結ばれるが、、それは一時の惠子の気の迷いと野口は感じている。あーでもない、こーでもない、という女心とも思えるが、自分がサンスーンであったならばとうに見切りをつけるような展開だと感じるがどうだろうか、惠子がそんなに魅力的な女性だとも思えない。宮本輝らしい舞台設定でありストーリー展開である、とも言えるが、みんなが中途半端で読後感は良くない。

2009年6月10日 家庭と幸福の戦後史 三浦展 ☺☺☺☺

日本の「幸福」観はアメリカの「幸福」観を20年遅れて追いかけてきて、今行き詰まっている。アメリカのそれは20年前に行き詰まり、エンロンやワールドコムの経営倫理破綻が企業破綻を招いたことに続いて、利益追求をしてきたリーマンが破綻、そしてアメリカ労働者を支えてきた代表企業GM、クライスラーも破綻した。アメリカは経済自体も破綻状態になった。

20世紀はアメリカの世紀とも言える。20世紀初めにフォード、GMが誕生、製造業モデルがスタート、大恐慌で一時停滞するが、その後1939年に開催されたNY万国博が一つの転換点であった。NY万博では大規模郊外型住宅とそこに住む家族、という理想的ライフスタイルが提示され、職場であるダウンタウンには車で通勤する、郊外と町中はハイウエイで繋がっている、という理想絵図が展示された。GM館では“フューチャラマ”と名付けられた未来絵図がミニチュアで飾られ来場者の目を奪った。「GMがあなたの未来のアメリカへの旅にご招待します。1960年の世界です」というナレーションで来場者がみせられたのはハイウエイと地平線、緑豊かな自然の風景と未来の高速道路だった。家電メーカーの“ウェスティングハウス”はインディアナからNY万博を見物にきた、という設定の“ミドルトン一家万博に行く”という映画を制作、両親と息子、娘に祖母から成る家族を一つの理想的家庭として描いた。NY万博は郊外に住む4―5人家族から成る平均的なアメリカ家庭が理想的姿として示された場所となった。第二次世界大戦がはさまったが、その後1950年代にはその理想を実現するような宅地開発がなされ、シカゴのパークフォレスト、LAのウエストチェスター、NYのロングアイランドなどが開発された。GM館でみせられた“フューチャラマ”の実現である。こうした生活をTVは番組としても取り上げた。「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」「陽気なネルソン一家」いずれも郊外に住む中流家庭が主人公、庭付きの郊外一軒家が住まいであった。

「台所戦争」と呼ばれる論争があったのは1959年、モスクワで開催された「アメリカ展」でのこと。アメリカから参加したニクソンが当時のフルシチョフ書記長に自慢した。「ここに展示されているような電気製品やレジャー用品、そしてそれらを入れる住宅をすべての階級のアメリカ国民が手に入れることができる」これに対しフルシチョフはこう答えた。「わが国でもこの程度の住宅と設備なら新築であれば装備されている。それよりもアメリカでは貧乏な人は道ばたで寝て暮らすしかないでしょう、ソ連に生まれた人ならば誰でもこうした暮らしができるのですよ」 これが台所戦争の中身、不毛な議論、ともいえるが当時は二大大国の真剣なつばぜり合いだった。

アメリカはこのころ実際消費文明の頂点に立っていた。男性にとっては家庭は成功の証であり、成功を消費財の蓄積によって示した。女性にとっては家事労働を電化製品が軽減し、持ち家を得ることは主婦としての満足に繋がった。1956年にはインターステイト高速道路建設費用として1000億ドルが計上、6万Kmのハイウエイの9割を国家予算でまかなった。第二次世界大戦前まではアメリカでも実用性を重んじること、禁欲の美徳が唱えられていたが、こうした消費生活には良心の呵責を感じていたアメリカ人も多かった。しかし「消費は家族のため」という考え方に古き良きアメリカ人の気まずさも埋もれてしまった。

実際、アメリカでは1954年から1964年まで年間400万人の子供が生まれるベビーブームとなり、離婚率も1946―1958年減少を続けた。典型的な家族は郊外に住み子供を二人持つ中流家庭となり、消費の王様として子供が登場した。ベビーブーム世代の子供達は生まれながらにして豊かな環境に囲まれ、古くからの生活の知恵は古くさいものとして葬り去られてしまった。

しかしこうした中、アメリカ人女性の間にはじわじわと問題が巣くっていた。「これが私の人生なの?」1955年には存在しなかった鎮静剤の消費、58年には46万2000ポンド、59年には115万ポンドにも達した。50年代の主婦には4つのB、booze(酒)、bowling(遊び)、bridge(ゲーム)、boredness(退屈)があると言われた時代であった。1954年に登場したエルビスプレスリーはこうした典型的なアメリカ家庭から見ると存在自体が不道徳、大人からは敵視されたが、郊外の保守的価値観に反発を感じていた高校生からは絶対的支持を得た。50年代の若者の価値観の変化はベトナム戦争に対する反体制ムーブメントからロックの祭典「ウッドストック」へと繋がっていった。こうした意識変化はTV番組にも表れた。「奥様は魔女」「かわいい魔女ジニー」「アダムスのお化け一家」、いずれも舞台設定は一昔前の郊外型一軒家なのに、登場するのは魔女であったりお化け、現実逃避のドラマで、子供の不良化や両親の離婚など、現実の家族の問題を隠蔽する手法がとられたのだと分析されている。

さて、日本では50年代のアメリカの家庭を理想像として、しかし現実問題として限られた住宅地でどうするか、と考えられたのが集合住宅としての団地、1955年に設立された住宅公団、1960年代から増えてきた2DKである。当時の日本人は、家庭の理想として、冷蔵庫には大きな牛乳瓶やハムやチーズの固まり、新鮮な野菜やカラフルなゼリー、ガレージには車があって、庭には緑の芝生、白い柵の塀にバラの絡まる門がある、という「パパは何でも知っている」ででてくるドラマの世界を夢見た。日本での核家族化は55年から75年にかけて急速に進行、住宅地を郊外である埼玉、千葉、神奈川に求めた、まさに20年遅れでアメリカの郊外化が日本でも進行した。OLという呼び方は63年に女性週刊誌が始めたそうであるが、意味としては50年代のアメリカ同様、主として働く男性の補助的役割であった。アメリカでの理想的家族像が39年のNY万博から50年代に定義されたように、日本でも64年の東京五輪前後に夫婦と子供二人を標準世帯と考えるような、配偶者税控除や家族手当の考え方、住宅資金貸付制度などの形が完成してきた。父親は残業してでも収入を得ながら女性は家事育児を担当し、子供が学校に上がる頃には郊外に持ち家を建てて、子供達は学歴を求めて受験勉強に励む、という標準的家庭が設定されたのがこのころである。住むだけならば賃貸住宅でも良いはずなのに、なぜ持ち家なのか。金融公庫による住宅融資制度、福利厚生としての企業社内融資、住宅手当、これらは働く人たちに目標を与え、働く意欲を継続して欲しい、という戦略であり、国と会社がアメリカを手本とした長期戦略であった、と著者の三浦は分析している。

1973年の三菱地所のCM、「3Cのある3LDK」。今の人はご存じないかも知れないが、3Cとはカラーテレビ、車、クーラーであり、アメリカでの消費は美徳で郊外に持ち家、という延長線上にある幸せ観である。こうした大衆消費の前提には工業力の発展と、生産性向上による第二次産業から第三次産業への人口シフトが起こる。アメリカでは1960年に第三次産業比率が54.5%、日本では1980年に55.3%とほぼこちらも20年遅れでシフトが起こっている。アメリカで60―70年代に起こった価値観の変化からくる社会の歪みは、日本ではバブル崩壊後の90年代におきていると三浦は見ている。それは95年のオウム事件であり、97年の小学生惨殺事件が象徴する90年代におきた一連の中高生による事件群であり、それらの多くは郊外型の住宅地でおきている。こうした郊外型事件の共通点を著者は次のようにまとめている。
@共同性の欠如:地域の結束力が希薄。
A働く姿が見えない:地元で働く人たちがおらず、住宅地は寝る場所。
B世間がない:親戚や近所という子供達にとっての「世間」がない。
C均質性:誰もが同じような生活をする中で、人との違いを目立たせない子供が増加。
D生活空間が合理的にすぎる:子供達は部屋にこもる、息苦しい私有空間。
これらはアメリカでの理想的な生活と価値観、私有財産を殖やすことが幸せ、というところに起源があるのではないか、というのが著者の主張である。アメリカは資本家と労働者は対立するものではなく、生産者主体の社会を消費者主体にしようとした、日本はそれに追随した、と言う解釈である。そしてその消費者社会の生産工場である「郊外」が日本でも崩壊しようとしている、という警鐘である。

この指摘に回答はもちろんない。だからアメリカ型の幸福感は間違いだった、ということではないし、日本はこれからこうなるという予測もないが、今何かが問題になりそうだ、子供達の将来はどうなるのだろう、ということを考えるきっかけ、ヒントになる。「下流社会」で登場した三浦さん、と思っていたら以前からこういう視点からも評論もしていることに注目したい。

2009年6月5日 牙をむく都会 逢坂剛 ☺☺☺

逢坂剛の現代調査研究所岡坂神策シリーズ第6作。週間読売に1998年12月から2000年3月まで連載された小説。週間読売の読者層50歳代と想定したのか、10年前なので今なら60歳代、1940年代生まれで、逢坂剛と同世代。逢坂自身の趣味である映画、それも古い有名ではないものの蘊蓄を傾けたいという、何とも読みようによっては嫌みな小説になる。しかし、そこは逢坂、品よくまとまっていると思う。居酒屋やレストランが出てくるが実在するモノが多く興味深い。映画のうんちくと併せて逢坂お得意のスペイン内乱、この二つを岡坂がイベントとして引き受けるという設定。岡坂はひとりでイベント企画からライターまでこなす便利屋。彼のもとに大手広告代理店からハリウッド・クラッシック映画祭の企画と新聞社の友人からスペイン内戦シンボジウムへの協力依頼が同時にある。この二つの企画内容は得意分野だけに力が入る岡坂。阿久津と名乗る老人と出会い、思わぬトラブルに巻き込まれる。それは半世紀も昔、ソ連強制収容所にまつわる密約だった。岡坂は神保町に事務所を開き。広告業界に身をおき、スペイン内戦に詳しく、映画(特に西部劇)が大好きという、逢坂の分身。少し世代が違うので、僕が知っているビリーワイルダーとかジョンフォードなどよりもマイナーな人の作品が登場。映画祭の出品作は駅馬車ではなくてラッセルラウス監督の必殺の一弾であったり、ヒッチコック作品はすべてビデオショップにあるという理由から選ばれない。逢坂の趣味は登場する俳優・女優たちの名前でわかる。ジーン・ネグレスコ、スージー・パーカー、ジョーン・フォーティーン、一番のお気に入りエバ・バルトーク。カディスの赤い星のようなはらはらどきどき波瀾万丈はないものの、落ち着いた展開で興味深く読めるが、書かれたのが10年前にしては少々古くさいにおいがするのは、インターネットと携帯電話のせいなのか、逢坂がこのツールを今では使いこなせているのだろうか。少なくともこの本を書いた時点ではまだまだだったと感じられる。

2009年6月4日 女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか? 三浦展 ☺☺

15ー22歳の女子の2割がキャバクラ嬢になりたい、という調査結果に衝撃。全国の15ー22歳約2000人女性を対象にした「ジェネレーションZ調査」から明らかになった事実を分析。格差の拡大、非正規雇用の増加、地域社会の解体、両親離婚の増加、風俗・芸能職業に対する抵抗感低下などの社会背景から若者の価値観の転換を指摘。かまやつ女とは正反対とも思えるキャバクラ嬢、しかし、その背景となるものには共通点ばかりが目につく。決してキャバクラ嬢になりたいということではなく、ローカル地方には仕事が少なく、両親の仲もよくない、学歴も高卒、ここは地道な職業を選んで地元で朽ち果てるよりも、一発東京で稼ぎたい、それも風俗ではなくて、という消去法からきた選択。いずれの状況も著者が「下流社会」で指摘してきた事柄、ミリオネーゼもふつうのOLも、ギャルもすべては下流社会の影響を受けている、というわけである。悲しい状況だ。

2009年6月3日 平成女子図鑑―格差時代の変容 三浦展 ☺☺

20歳前後の女性を対象として調査した結果を分析、収入と自ら働く積極性などからかまやつ女系、ギャル系、お嫁系、ミリオネーゼ系の四つに分け、ファッションなどの観点から特徴と格差を研究した。特に近年かまやつ女が増えていると指摘、背景には両親の経済的課題、パートナーたる男性の経済的問題、経済格差からくる自らの学歴問題、女性らしさよりも自立を選ぶ傾向などを調査結果からあぶり出している。

いったいどのような女がかまやつ女なのか、本文より、「最近、二十歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子は皆無で、たいてい色落ちしたジーンズかなにかをはいている」「体型は、やや太めの子が多いようだ。体型に自信がないから、体を隠す格好をしているのかなと思わせる」「そして姿勢が悪い。背骨がしゃんと伸びていない。やや猫背気味の子が多い。後ろから見ると、肩の線が落ちている。力が入っていない」「表情にも緊張感がない。口元にはしまりがない。体全体がゆるゆるで、だぼだばなのである。全体にたれている。たれパンダみたいな感じである」

確かに、町にあふれる若い女性のファッションと特徴を捉えているようだ。同じ著者の「女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?」こちらと現象は異なるようだが、原因となる家庭や経済の状況は共通だと感じている。決して喜ばしい状況ではない。

2009年6月2日 厚生労働省崩壊-「天然痘テロ」に日本が襲われる日 木村盛世 ☺☺☺

結構感動しました。厚生労働省内部告発の暴露本かとも思いましたが、読むきっかけは参議院での参考人招致、5月25日だったか、テレビでも紹介されていた、H1N1新型インフルエンザの成田空港での検疫官による水際防疫が有効だったのかどうか、という民主党議員による質問に、厚生労働省の現役検疫担当官として登場、歯に衣着せぬ発言で、次の3つを今回の検疫の問題点としてあげたこと。「毎日防護服を着けて検疫官が飛び回っている姿はパフォーマンス、利用された」「検疫では国が主体となる検疫法に基づいて動くが、国内に入ると感染症法で、地方自治体の主導。今回の事態はH5N1だという前提で準備してきた厚生労働省は想定外だったのではないか」「医系技官による十分な議論がされないまま、検疫偏重が起こった」

本の前半は、厚生労働省がいかにダメな組織であるか、後半はこのままでは日本は例えば「天然痘ウイルスによるテロ」にも脆弱性を示す、何とかしなくてはいけない、という訴えでした。筆者は医者の娘、尊敬する父の後を追うように医師を目指し、米国留学の後厚生労働省からの医系技官としての採用要請に応えてキャリア扱いとして2001年に職員となった。その後、アメリカ仕込みの直言を繰り返して、本人によるとどんどん左遷されて空港検疫官にまでなってしまった。2009年3月発刊なので、H1N1新型インフルエンザ流行直前というタイミング、まさに抜群の時機を得た結果となった。民主党が参考人招致しようとして、厚生労働省の局長がなんとしても招致を阻止しようとした理由がよくわかる。

講談社が出版、タイトルは激しくてキワモノとも思えるが、中身はなかなか説得力がある。木村さんは「捨て身」というか、厚生労働省職員としての立場にこれっぽちも未練がないので潔い印象がある。田中真紀子さんの「外務省は伏魔殿」は有名になったが、木村さんの「厚生労働省は内部のボロを国民から隠す省」というのも至言、社会保険庁、血液製剤問題、すべて同根だと思える。この際、徹底的にやってほしいが、民主党は衆議院選挙を目前に控え、候補者選びの際、ほうっておけるか。政治家になってしまうなら、この本の出版さえ民主党の差し金ではないかと疑ってしまう。高市早苗が「アズ・ア・タックスペイヤー」出版で自民党議員になったように。

2009年5月31日 新選組読本 浅田次郎 ☺☺☺

いつも感じるが、小説家はうらやましい職業である。渡辺淳一が似たような小説を一杯書いて、映画になって女優さんと祇園で食事をしている写真があって、札幌の渡辺淳一記念館に飾ってあるが、それを見てそう思った。この本、取材のためということで、輪違屋を訪問、太夫の仮視(ケシ)の式の実演を目の前で見ている写真がある、これはうらやましい。輪違屋は観光客にはオープンして居らず、ましてやこのような儀式は見ることは及ばない。壬生義士伝と輪違屋糸里というすばらしい長編小説を書ける作家だからという特権。壬生義士伝のテレビ版には自らも出演したとか、これも作家冥利に尽きる話。新撰組ファンという黒鉄ヒロシ、江夏豊らとの対談、新撰組が頓所にした八木家の今の頭領八木喜久男さんとのインタビュー、壬生義士伝制作のための取材旅行、黒岩重吾、縄田一男による書評、映画「壬生義士伝」の出演者によるコメント、浅田次郎の生い立ち、そして最後に二つの本の登場人物紹介と、浅田次郎ファンなら是非呼んでみたい内容。新撰組を知りたいなら子母沢寛の新撰組始末記、遺聞、物語この三部作が一番最初に読むべき本であり、その次が司馬遼太郎の燃えよ剣、そして黒鉄ヒロシの新撰組であるとか。ディープな浅田ファンになれること請け合い。そういえば、新撰組、浅田次郎は新選組と書いている。

2009年5月30日 セカンドウインドII 川西蘭 ☺☺☺☺

自転車小説、と言ってしまえばみもふたもないが、結構おもしろく読める。ツールドフランスを一度でも見たことがある人は知っているが、ロードレースはチームで走る。主人公の溝口洋はI巻では中学生、このII巻では南雲高等学院の二年生になっている。前途洋々の自転車特待生で入学し、一年生の時の寮での同室者浅月翠とウマがあったが、その翠は二年生から英国へ留学、同室者は取っつきにくい後藤。一緒に入った岳はヒルクライマーとして精一杯努力しているが、洋はなぜか気が乗ってこない。同室者の後藤が疎ましく、翠が懐かしい。スランプの時にカナダからの留学生が一ヶ月滞在、彼らとのつきあいの中でロードバイク以外の面白さも味わう。そして、二年生の秋のレースではチームの正選手に戻っていく、という流れ。自転車乗りには、なかなか引き込まれるような記述があって、この川西さん、相当ロードレースのこと調べているなと思う。「セカンドウインド」というタイトルからしてちょっと凝っている。自転車に乗らない人にとっては単なる青春スポーツもの、自転車乗りにはスポーツドリンク(?)のような読み心地の良さを残す。

2009年5月29日 サーソ 荻史朗 ☺☺

殺し屋 破崎、そしてもう一人の初老の男、井坂。冒頭は狙撃のシーン、その後は瀬戸内の都市尾道での出来事、ここから物語が始まり、誰が誰を追っているのか最後までわからない。プロの中のプロは破崎、彼にからむ高見親子、佐々木、刑事伊藤、いずれもトラブルに巻き込まれる。ヤクザもの、警察もの、殺しのサスペンス、こうしたお話が好きな人には面白いかも。

2009年5月28日 文明崩壊 ジャレド・ダイアモンド ☺☺☺☺

「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの」の著者ジャレド・ダイアモンドは、過去の文明崩壊の分析から現在社会の問題を分類すると12のグループに分けられるとしており、関係を整理すると図のようになります。

これらの問題は相互にからみ合っており、相互に問題を複雑化させているのではないか、というのが著者の主張です。私たちはこれら12の問題をいっぺんに解決しなければならない、そのためには「長期的な企て」と「根本的な価値観の見直し」が必要だと著者は述べています。

これらの多くは「地球環境問題」として語られていることではないでしょうか。地球環境問題と言えばCO2削減、温室効果ガス削減が必要とされていますが、崩壊するに至った多くの文明は上記12の問題のいずれかを原因としていたと著者はしており、人類の生存を危うくする問題が「地球環境問題」だとすると、12の問題はすべて「地球環境問題」だとも言えるでしょう。

著者ジャレド・ダイアモンドは前作「銃・病原菌・鉄」でピュリッツァー賞を獲得していますが、前作では文明の発展には生態系や感染症への耐性、住んでいた地形の特徴などの環境要因が大きく影響したことを指摘しています。その著者が2005年に発刊したのが「文明崩壊」、過去の文明崩壊を分析した後に、現代の世界で4つの地域を取材、文明崩壊の原因が既に存在することを論証して警告を発しています。

<イースター島> 「モアイ」と言われている石像で有名、作られた目的も謎ですが、どのように制作して運搬されたのか、今では多くのことが分かっているそうです。運搬に使われた台座を放射炭素法測定すると、1000年ごろから1600年ごろまで作成されていた、日本でいえば、平安時代から江戸時代の直前までです。いまは荒れ果てて高い樹木がないこの島は、当時背の高い樹木と低木の茂みからなる亜熱帯性雨林の島だった、とのこと。このように巨大な石像を作り並べることができた文明がなぜ滅んでしまったのか、著者は次の3つの理由を示します。「森林破壊」「奴隷狩り」「疫病」。「森林破壊」はイースター島民自身によって行われ、「奴隷狩り」と「疫病」はヨーロッパ人がもたらしたものであるとのこと。これに対して成功例として「江戸時代の日本」があげられています。江戸時代の日本は人口増からの住宅建造により木材需要は急激に増加、徳川幕府はこの事態に対応するためトップダウンで対応、森林伐採の規制による需要抑制と、植林を行い、文明崩壊の危機を回避することに成功した、とのこと。

イースター島と同様、ポリネシアに位置するピトケアン諸島、北アメリカの先住文明アナサジ族、メキシコのユカタン半島に栄えたマヤ文明、そして北欧のヴァイキングとノルウェー領グリーンランドを取り上げています。ピトケアン諸島では繁栄による人口増によって資源を食いつぶしてしまった結果食料不足に陥り、崩壊してしまう。アナサジ族は600年ごろから5世紀以上にわたって繁栄した、北アメリカの先住民族。ここでの問題は地下水への依存と森林破壊だった。ここでも人口が増え、資源が枯渇した結果この土地を遺棄してしまいます。有名なマヤ遺跡、崩壊の理由は、ここでも人口増による資源不足、森林破壊と土地の浸食、土地をめぐっての争い、気候変動、王と貴族との政策失敗などで、最盛時には300万人が暮らしていた帝国は、16世紀にスペイン人がやってきたときには、3万人の人口しかおらず、侵略者に抵抗する力はもはやなかったとされています。

次は現代の世界ルワンダ、ドミニカとハイチ、中国、オーストラリアの4カ所です。いずれの地域にも環境と人為的な複雑に入り組んだ問題を抱えています。多かれ少なかれ世界のその他の地域でも起こっていることばかりなのでで、世界中に広がってしまうことが懸念されます。

<ルワンダ>この国で1994年に起こった大量虐殺では、80万人のツチ族が殺害されたと推定されています。ルワンダは適度な降雨量に恵まれ、高地であるがゆえに人類のアフリカのサバンナへ進出を阻んでいた疫病であるマラリアと眠り病を引き起こすトリパノソーマの伝搬虫ツェツェバエを寄せつけない好条件の自然環境をもっています。そのため、欧州からの独立後人口はさらに増加、耕作可能な土地は開墾されつくしましたが、人口増加には追いつかず、土地は細分化され、若者は結婚して家を離れても自分の土地を持つことは不可能になりました。狭い土地、人口増加などによって貧困は加速、貧困の差が目立ちはじめ、土地を持てず飢えた若者たちによる、暴力と窃盗の発生率も上昇、暴動の素地が築かれていきました。フツ族とツチ族との民族間の憎悪、貧富の差による憎しみ、旱魃などの悪条件も重なって、ちょっとしたきっかけで争乱状態が起こる状態になっていたというのです。1994年4月6日、当時のルワンダ大統領ハビャリマナが首都キガリの空港に大統領専用機で到着したところをミサイルが撃墜、これがきっかけになにフツ族の過激派がフツ族の穏健派とツチ族を殺害、ルワンダの大虐殺が始まりました。

<ドミニカとハイチ> この二つの国はカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島を共有していて、東側3分の2がドミニカ、西側3分の1がハイチです。現在のドミニカ共和国、森林が国土の28%を占めるのに対し、ハイチ1%、これは為政者による政策の差異による結果。Google MAPの航空写真で見ても緑の植生がはっきりと分かるくらいの違いがあります。

<中国> この国の環境問題は、6項目に集約できるとのこと。大気、水、土壌、動植物棲息地の破壊、生物多様性の喪失、巨大プロジェクト。オリンピックで有名になりましたが、中国の都市部での大気汚染は深刻、人体に害がないというレベルを数倍上回っています。増え続ける自動車台数と石炭による発電が原因とされています。河川と地下水源は、工場からの廃水と農業などの肥料や堆肥の流出によって汚染、水質の低下に水量の減少で汚染は深刻な状態です。土壌の浸食による被害は深刻で、黄河中流域では70%が浸食され影響は農耕地面積の減少につながり、中国の食料確保に大きな問題が生じているとのこと。中国は森林に乏しい国のひとつで、森林は国土の16%(日本は74%)。現在中国では世界最大の開発計画が進行中、有名な三峡ダムのほか、南北導水計画なども進行中で、これらは将来環境汚染を引き起こす可能性もある。中国での問題はその人口と土地面積の大きさからして、世界中に影響を及ぼすところにある、というのが著者の主張です。

<オーストラリア> 顕著な問題は、土壌に関するものです。イギリス人は3種類の動物、ヒツジとウサギとキツネを持ち込みました。ヒツジは輸出品としてオーストラリアに経済的利益をもたらしましたが、ウサギとキツネはオーストラリアの土地で繁殖、ヒツジや牛の食料になる牧草を食い荒らし、土地をやせた土壌に変えてしまったというのです。キツネは、在来種であった哺乳類を絶滅させる原因になりました。

環境問題懐疑派は次のような主張をします。「科学技術が進歩するのでそのうちに解決できるのではないか」、「資源を使い果たしたら、別の資源に切り替えればいい」、「食糧は実は余っていて、必要な場所に運ぶ手段を見つければいいだけだ」、本当にそうなのでしょうか。

科学技術は人類に利便性を与えてくれましたが、同時に問題も発生させてきました。自然界になかったものの出現は地球環境にとってはすべて裏表がある、プラスとマイナスがあると考えて方が良いと言うこと、人間が便利になるように工夫すればするほど地球には負荷がかかっていると言うことを私たちは認識する必要があります。水素自動車や燃料電池は、排気ガス、という面ではプラス、しかし、結局は舗装道路を前提とした人類の移動は地球に負荷を与え続けるはずです。食糧問題については、食料移送はそれ自体が地球に負荷をかけ、発展途上国民の食料を増やすために先進国の住民が廃棄分も含めた食べる量を減らす、“Food Mileage”の考え方、そして生活レベルを落とす覚悟が必要だということです。人口問題では、地球が受容できると言われている人口をすでに超えていると主張する学者もいます。「文明崩壊」は過去の文明崩壊事例を紹介し、現在地球上で進行している崩壊の兆しを分析、このままでは地球全体がイースター島やマヤ文明のような結末をむかえると警告しているのです。今から100年のレンジで、地球に住む人類が人口を減らしてもみんなが消費できる資源を一定量以下に留めることができるか、それとも人口を減らすことに失敗して、全人類平均しての生活レベルを落とすのか、それが地球環境問題の本質です。

2009年5月27日 海に沈む太陽 梁 石日 ☺☺☺

画家の黒田征太郎をモデルに描いたという物語。主人公輝雅は相当な破天荒ぶり、妾の子供として生まれ育った輝雄、太平洋戦争から戦後の混乱期が青春だった輝雅は貧しさと村社会の狭さから飛び出して、米軍のLST(上陸用舟艇)に乗って船乗りになる。軍事物資を積んで東南アジア各地を航海し、ヴェトナム戦争前夜、激戦のハイフォン港へフランス軍の救助に向かう。LSTでの生活が続くのかと思ったら、大阪でヤクザまがいの世界に浸り、結婚してまともな社会生活を送ろうとするが上手くいかない。船を降りたあと、様々な職業を経験する輝雅は、「画家として大成したい、ニューヨークへ行きたい」という思い出いっぱいだった。アメリカに行っても、だまされたり助けられたりで波瀾万丈な生活を送る。戦中、戦後の日本の状況を背景に、独力で運命を切り開いていく主人公輝雄はパワフル、こんな日本人は今いるのか。

2009年5月26日 みんなの進化論 デイヴィッド スローン ウィルソン ☺☺

アメリカでは進化論は教えられているが、人間が霊長類の子孫だということをどうしても信じられない、冷静に捉えられない人たちがいることから、出版されたのではないかという進化論の一般化。日経ビジネスの書評に紹介されていたので買ったのだが、まあ、それほどではない。「利己的遺伝子」や「そんな馬鹿な!」などに比べればインパクトは少ない。

1. 願い事は慎重に:良く卵を産むニワトリとそうでないニワトリがいる。10羽ずつ飼っているニワトリ小屋があって、最も良く卵を産むニワトリの子供のみを残していくやり方と、最も良く卵を産む10羽のグループの子供を残していくやり方では、後者の方がトータルでみた卵の産出量は圧倒的に多くなる。

2. 幽霊とダンス:脂肪、糖分、塩分に目がない理由は、数百万年の人類史上、そうした成分が常に不足状態にあったことを示す。現代社会ではそういう不足はないが、遺伝上の幽霊がそうした行動に人類をかりたてている。少ない体重で出産した子供は肥満になりやすい、というのもそうした幽霊ダンス。

3. 専門家に教える:進化論の仮説立証では、難しい理論体系を知らずとも、検証可能である。つわり、アレルギーがなぜ存在するのかという疑問に、進化論的に有意義であるはずと言う仮説。胎児が器官を発育させる時期に毒物接種を防ぐ意義があるのがつわり、アレルギーは滅菌状態が昔に比べて進む社会では、反比例して自然社会には存在しない物質も増えてくる。免疫機構は外部からの毒物を攻撃するのが使命だが、攻撃対象物が滅菌で減少、同時に今まで自然界にはない物質を体が取り込む、そのため自らの器官を誤って攻撃してしまう、これがアレルギー。これは、生物学者でも医学者でもない大学生の進化論学士論文でも立証可能。

4. 翼の生えた心:蜂は社会的動物。甘い水のありかをダンスで仲間に知らせる。同じ距離に甘い水ともっと甘い水を置いて実験した場合、蜂たちはもっと甘い水により多くたどり着ける。理由は、ダンスの時間の長さで甘さを示すから。こうした集団としての知恵はどのようにして生まれたか、社会性をもった昆虫は、そうでない昆虫より種の数で圧倒的に少ないものの、生物数では拮抗するほど繁栄している。利己的であると言われる遺伝子が、生物レベルでは利他的行動をとり、集団として繁栄するという事例。

5. 最初の笑い:進化論から見ると説明が難しいものに、自殺、同性愛、養子縁組、芸術などがあるが笑いも説明が難しいものの一つ。笑いは人類に近いボノボで確認されているが、生物の中では人類だけが獲得している形質。集団であることは進化論的に優位であることから、笑いにより集団の一員としての確認をする意味が笑いにはある。

6. なくてはならない芸術:進化論からみて芸術はなぜ必要か。軍隊で行進する、そうすると自分が大きな集団の一員となったことが感じられ、戦士としての価値が高まる。舞踏や音楽はこのような戦いに向けた戦意発揚の意義が大きい。蜂も蟻もダンスをして戦意高揚しているのではないか。

7. どうして動くの:昆虫では社会性を持つ種は数千、人類は社会性をDNA遺伝(種を増やす)ではなく、文化継承として広めた、これを社会性の分水嶺を超えると表現する。

8. ダーウィンの大聖堂:宗教がある理由を進化論で説明すると、それは集団で成し遂げられることの方が個人でよりも大きいから。集団形成の手段として宗教はあり、細胞が集まって体をつくり、蜂が集まってコロニーを形成するようなものである。宗教に芸術的要素が多いのは、芸術と宗教は進化論的に共通目的をもつから。

9. そこに誰かいるかい:種をまたがる交尾は少なく、子をなしても長生きするものはいない。これは如何に多くの失敗が新たな種を生み出すときにあったかの証明である。確立した種は多くの失敗の上に成り立っている。

途中の数章、最後の数章は退屈。昆虫の社会性と昆虫生物量にしめる社会性昆虫の割合は半数以上、そして人類は社会性を得た単一の種である、という示唆、これは重要。社会性を持つ分水嶺を超えた生き物、幽霊とダンスする生き物などいくつかの魅力的な表現があるのは確か。おもしろい章とそうでもない章の差は大きい。

2009年5月25日 廃用身 久坂部羊 ☺☺☺

本の中に本がある、という体裁。前半は医師 漆原の遺稿、後半はその遺稿を出版しようとする矢倉の漆原に続く妻菊子の自殺にまつわる解説と本の出版までの顛末、そしてこの本自体が小説として本の中に入っているというマジック。「廃用身」とは、脳梗塞などの麻痺で回復の見込みがない手足のこと、本の主である漆原医師は、勤務先の高齢者向けデイケア・クリニックで、老人の「廃用身」つまり麻痺した手足を切断する「Aケア」という療法に取り組む。Aケアによって、本人のQOL(生活の質)が向上し、体が軽くなって介護が軽減されるという効果が期待できる。さらに、不要な手足に運ばれていた血液が脳に行くので痴呆症状の軽減や言語機能の復活も期待できると。

神戸で老人ケアセンターと老人医療のクリニック「異人坂クリニック」を開いている医師の漆原は、人格者で老人の気持ち介護者の気持ちを大変よく理解する温厚な性格、毎日の診療、医療を通して介護の難しさ、苦しさを体感する漆原はそれらの人々を苦痛から開放させてあげたいと考えていた。物語の中で紹介される逸話、老化予防の「かきくけこ」を。か=感動 き=興味 く=工夫 け=健康 こ=恋。これは明るい話、作中様々に語られるのは、希望のもてない介護現場の本当の姿。「介護する人の85%は女性で、半数が“老老介護”。介護疲れからくる老人虐待や殺人、独居老人の餓死がすでに起きている。少子高齢化が進めばさらに悲惨な事態になる。現在の介護保険ではとても追いつかない。思い切った手段が必要だ」 漆原は「いらないものは排除してしまえばよい」と考えて、廃用身を切断するという画期的な療法を思いつく、「Aケア」である。動かなくなった廃用身を切断(Amputation)して、患者の体重を軽くするというもの。「Aケア」は漆原にとっても老人たちにとってもショッキングな療法、なんとかショックを和らげたいと名付けたのがAケア。廃用身のせいで床ずれができてしまったり、廃用身が邪魔をして体の他の部分が上手く動かせなかったりしている老人達。Aケアを施すことで、患者自身への負担と介護スタッフへの負担を軽減させたいと考える。廃用身は自由に動かないだけでなく、日常生活を妨げ、苦痛をもたらすため、廃用身の切断は、最初は抵抗感を示していた老人らも、成功事例を見るにつれ受け入れ始め、好評に。切断により身体の残った部分が活性化し、手を使って歩いたり、脳への血流が良くなり痴ほうが治ったりする事例も出る。廃用身を切断することによって体が軽くなった老人達を介護する介護者の負担も軽減され、Aケアと名づけられたその療法は次第にクリニックのスタッフ、患者達にも受け入れられるようになった。患者の同意を前提として手術は次々と行われ、多くの患者は不自由な手や足がなくなることで動きが良くなり、介護や苦痛、痴呆などから来る鬱からも開放され元気になっていく。クリニックで手足を切断した老人達が十三人にも及んでいた。ここまでが漆原による遺稿。

後半は編集者注として、編集者矢倉が解説した本の発刊までの物語。漆原が施したAケアをマスコミがかぎつけ、老人の手足を切断する残虐な行為、老人虐待だと報道される。今までになかった療法であり、画期的な効用もある新療法と信じ、老人達の為になると考えて施してきたAケアであった。漆原への報道バッシングが進む中、彼は自分の奥底にあった嗜虐性、凶暴性に気づき追い詰められて、結局自殺してしまう。それを知った漆原の妻菊子は遺児の槇を必死で育てようとするがやはりマスコミ報道に傷ついて自殺、槙だけは生き残る。そして矢倉は遺稿の出版にこぎ着ける。

久坂部氏は1955年堺市生まれ。大阪大医学部卒業後、神戸の病院、老人デイケア施設に勤務、現在は在宅医療クリニックに勤めている。小説は本作がデビュー作。

この小説、前半の漆原の手記、そして出版させたいと考える編集者矢倉との共同の作品という構成で書かれていて、最初読み始めたときにはノンフィクションだと思えるほどの現実感。後半は編集者矢倉の視点、矢倉は漆原の生い立ちや友人たちの証言から漆原の心の中に迫る。漆原の理解者だった矢倉は、漆原に対して放たれたマスコミ報道の矢、誹謗中傷、根拠の無い非難などを紹介しながらも、漆原とその妻菊子のまわりに起こったことを淡々と描いていく。廃用身を切断するとことは、老人たちを社会における廃用身とすることにつながるのではないか。しかし、高齢化とそれを介護する若者が少子化により相対的に減っていくのは現実、高齢化が進む日本の将来像を想像するのは怖ろしい、という問題提起の小説。
 

2009年5月24日 日本の10大新宗教 島田裕巳 ☺☺☺

邪宗門という小説、大学時代に読んだ、出口ナオと王仁三郎の物語。宗教、日常あまり意識することのない存在だが、事件を起こされると気にせざるを得ない。日本に22万ある教団のうち、「教団の規模、現在、あるいは過去における教団の社会的影響力、さらには時代性を考慮して」代表的な13教団(10大新宗教でも同系列の宗教は一括りにしている)を選択。それぞれの成り立ちから、分派、社会的事件などをまとめたのが本書。オウム真理教、統一教会、エホバの証人、幸福の科学は入っていない。そもそも新宗教というのは新興宗教と何か違うのか、これは言いかたが違うだけ。差別的ニュアンスがないので新宗教が適切。既成の宗教もできたときには新宗教だった。歴史があり社会に定着したものは既成宗教、仏教はバラモン教から、キリスト教もユダヤ教から生まれた新宗教。日本人は生まれたときから、知らずに宗教的儀式やお祭りに参加する。日本では神仏混淆が道鏡や玄ム、空海の時代から組み合わさった特殊な形態に属している。意識はしないので神道でもないし、仏教でもないから無宗教だと思っているだけ。外国人に”What is your religion?"と聞かれたら「仏教徒」と答えておいた方が相手には分かりがいいと思う。聞く理由はパーティへの招待者に失礼がないように聞く場合が多いから。

この本に淡々とまとめられた10大新宗教の特徴
天理教(てんりきょう)
金光教、黒住教と同じく幕末維新期に誕生。教祖は中山みき。奈良県天理市に行くと、びっくりするような都道府県別の宿舎が建ち並ぶ。全国からの訪問信者を受け入れる施設群。神道と仏教の両方の影響がある、妊婦を助けるおまじないが活動の原点で、戦前は新宗教のなかで最大規模だった。

大本教(おおもときょう)
金光教に影響を受けた出口ナオが開祖。その後養子にきた出口王仁三郎が中興の祖。国常立命(くにとこたちのみこと)は、天理教など神道系宗教に共通した「神」。戦前は「皇道大本」、戦後の一時期は「愛善苑」を名乗る。新宗教の中でも特に反権力の立場の人達から評価が高く、庶民以外にも、知識人、軍人にも人気があった。

生長の家(せいちょうのいえ)
創立者谷口雅春は元大本の信者。天皇信仰。宗教活動は雑誌の出版を主体とする。海外(特にブラジル)の信者数の多さが特徴。谷口雅春が神からの啓示をうけ創立、雑誌による布教活動が特徴、昭和天皇を崇拝していたため、亡くなった後は力が衰える。

天照皇大神宮教(てんしようこうたいしんぐうきょう)
教祖の北村サヨによるナニワ節を思わせる歌による説法が特徴的。サヨは戦前は生長の家の信者で、サヨの腹に宇宙を支配する神が宿り社会批判を始めたのがキッカケ、踊りながら社会を批判するという活動をしていた「踊る宗教」として話題になる。山口県田布施が本部。戦後の裁判で2年の懲役となった岸に対して、サヨは、「2年行ってこい、そうしたら総理大臣にしてつこうてやる」と言ったとか。海外にも進出、現在は中規模の新宗教として活動。

璽宇(じう)
長岡良子(ながこ)が璽光尊を名乗る。北村サヨは「第二の璽光尊」とも呼ばれた。有力信者に囲碁の名人呉清源、双葉山、平凡社創業者などがいた。国粋主義の傾向があり、戦後マッカーサーを訪問して話題となり復員軍人らに支持されるが、取り締まりが厳しくなり、各地を転々とする。大本系と、真言密教系霊能者の長岡良子の2つのグループがある。天照皇大神宮教と同様に、神道と仏教の混交した宗教、創立者の死後は勢いがなくなった。

霊友会(れいゆうかい)
久保角太郎とその兄嫁である小谷喜美により発足、男女が教祖である点は立正佼成会と同様で、大元を作ったのは西田無学。「総戒名」「霊鑑」「青教巻」などは、立正佼成会や、霊友会に受け継がれている。1971年に喜美が亡くなると久保の息子の久保継成が会長に就任。東大印度哲学科博士課程修了の継成は、修行によって神憑りができるようになったとされ、「インナートリップ路線」を掲げ若者の「自分探し」に目を点け若者の信者を獲得、支持を拡大した。

立正佼成会(りっしょうこうせいかい)
東京都杉並区和田が本拠地。霊友会から分派、創価学会と同様、日蓮・法華系の教団。創立者である庭野日敬(にわのにっきょう)、長沼妙佼(ながぬまみょうこう)は、霊友会と同様男女の教祖で、妙佼は以前は天理教信者。高度経済成長時代に地方から都市部に来た未組織の労働者を中心に大きくなる。先祖供養と姓名判断、教祖の霊感、法座が不況の武器であり、法座は十人ぐらいで悩みを相談したりする会、独自の宗教用語を駆使するという特徴がある。

創価学会(そうかがっかい)
創立者である牧口常三郎は小学校の校長だった。創立当初は「創価教育学会」、日蓮正宗を信仰し現世利益を特徴とする。二代目の戸田城聖は、小学校の代用教員から「時修学館」という学習塾で成功、受験参考書もベストセラーになっている。出版、食品など実業家としての才能とひとの心をつかむ能力に長けていた。このあと名称を「創価学会」に改め、信者は飛躍的に拡大した。三代目会長の池田大作は、敗戦直後に入信し、戸田の作った出版社や、小口金融で頭角をあらわし、戸田が亡くなった後、32歳の若さで会長に就任。「仏法は勝負」など勝ち負けを強調する。会長をはじめ会員は、『三国志』『水滸伝』を好む。積極的な布教活動である折伏(しゃくぶく)で否定的なイメージをもつ人が多く、
公明党との密接な関わりからも警戒されやすい。また、他の宗教の儀式などに参加してはいけないなどの排他性が強い。学会員の数が多く、信者間のつき合いだけで大きくなり、結婚も学会員同士でするケースが多いことから、もはや創価学会は「民族である」という指摘、至言である。

世界救世教(せかいきゅうせいきょう)
・開祖の岡田茂吉は元大本の信者で浅草の露天商の生まれ。「手かざし」は大本からくるものだが、世界救世教が手法をシステム化各宗派に広がっている。箱根美術館やMOA(Mokichi Okada Association)美術館などの美術への関心は大本教の王仁三郎の影響。自然農法・有機農法の運動の先駆者。1955年に岡田が亡くなると、数々の分派ができた。

神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)
「あなたの健康と幸せを祈らせてください」の3分間の手かざしが有名。創立者は小山美秀子は、東京自由学園で学び、やがて岡田茂吉の直弟子となる。二代目の小山荘吉は、美秀子の長男、海外での信者獲得に貢献した。三代目の小山弘子は荘吉の妹で、街頭の手かざしなどさらに教団の勢力拡大したが、若者の学業や、仕事放棄などにより社会的批判を受けた。

真光系教団(まひかりけいきょうだん)
世界真光文明教団や崇教真光をまとめて指す。創立者の岡田光玉は元世界救世教の有力信者で布教師、陸軍士官学校に入学、陸軍中佐時代に胸椎カリエスと腎臓結石を患い予備役に編入、その後実業界に転じるが空襲により事業は頓挫。1953年に多田建設に取締役顧問として入社、実業家としての活動を続けながら宗教活動を展開する。1963年に世界真光文明教団に名称を改める。1974年に光玉が73歳で亡くなると内紛が起こり、光玉の養女であった岡田恵珠が「崇教真光」を名乗るようになった。今日のスピリチャルブームの先駆けとなったともいえるが、抜けるのも簡単であるため、組織の永続性を保つのが難しい。

世界救世教、神慈秀明会、真光系教団、いずれも「手かざし」で布教活動を行っている。手かざしは誰でも習得が比較的容易で複雑な教義も必要としないので、教団から独立しやすく分派が生まれやすく、統合も多い。

PL教団(ぴーえるきょうだん)
宗教団体ではアルファベットだけでは認可されないため正式名称はパーフェクト・リバティー教団、毎年8月1日に行われる花火が有名だが、これは教祖の「自分が死んだら嘆かず花火でもあげてくれ」という遺志からきている。打ち上げられる花火の数は30万発ともいわれ、ラストの8千発は一挙に連続して打ち上げられる。PLの花火を経験するとほかの花火での感動が難しくなるほどとまで解説。宗教系の高校は野球が強く名前を覚えてもらうことが布教活動の第一歩となっているが、そのなかでも高校野球ではPLがいちばん強い。創立は戦前、開祖である御木徳一は松山の商人の家の生まれだったが、徳光教の信者となり、1931年扶桑教ひとのみち教団を立ち上げる。ひとのみち教団は大きく発展し中国や韓国にも進出し各地に拠点が作られた。しかし百万人を超える信者を獲得するようになると、国はその動向を危険視するようになり教団は解散させられた。徳一は厳しい取調べ後の保釈中に死亡、息子の徳近が懲役4年の有罪、敗戦によって不敬罪が消滅するまで、囚われの身となっていたが、1945年に出所、パーマネント・リバティー教団と改称して、その後すぐにパーフェクト・リバティー教団に改められた。教義に「人生は芸術である」というものがあり、病気への取り組みとしては近代医学をみとめ病院なども所有している。

真如苑(しんにょえん)
1980年代半ばに、沢口靖子、高橋恵子、鈴木蘭々、松本伊代、大場久美子など若い女性芸能人などの入信で話題になる。「接心」と呼ばれる修行は霊的な開発を目的としたもので、教団独自の秘技として注目された。創価学会、立正佼成会に次ぐ第三位の規模(90万人の信者)を誇る。真言密教系で現世利益の実現を求める。京都の真言宗醍醐寺派の総本山、醍醐寺と密接な関係を持つ。信者は信徒カードという磁気カードをもっていて、世直しや、終末の予言などがない過激でないのが特徴。宗教1対1のカウンセリングのような「接心(せっしん)」という修行があり、「接心」はシャーマニズムというよりカウンセリングに近いもので、受付の雰囲気など日常的な感覚で、勧誘では創価学会のような積極性はみられない。

GLA(じーえるえー総合本部)
GLAはGod Light Associationの略、現在の規模は小さいが教祖の高橋信次は他宗教などに今も熱烈なファンを持つ。霊が降りるというとき古代エジプトやアトランティスの人物を降ろす。10大新宗教の中でもっとも現代的で、スピリチュアルブームやカウンセリングに近い雰囲気。白装束集団の教祖はここの元信者である可能性がたかく、創立者には古代エジプトや中国など外国の霊が下ることがあった。オカルトが好きな人達の集まりがもとで、現在は亡くなった人の言葉を伝える江原氏のような活動をおこなっている。「スピリチュアルブーム」や「カウンセリング」の延長のような現代的なものを中心とした教団は熱狂性に欠けるので大きく伸びることはなさそうだ、というのが筆者の見立て。

信者の総数は日本の人口の2倍を超えるという話もある、いったい信者管理システムはどうなっているのか、気になる。お布施管理や教義などのe-Learningなども必要ではないか。信者だけのSNSやイントラネットなんかもあったら便利である。10大新宗教にコンピュータシステムの提案したら聞いてくれるかな。

2009年5月23日 空海の企て 密教儀礼と国のかたち 山折哲雄 ☺☺☺☺

「そのとき歴史は動いた」真言院設立の日までの空海の生き様、という風情の空海論。

最初の書き出しは、ダビンチコードと空海コードを比較、昭和天皇、美智子妃、雅子妃、女系天皇後継問題と、どんどん脱線していく。天皇へのアドバイザーとしての空海は平安の昭和天皇の小泉信三だったなどという説も披露、しばらく脱線は続く。そしていよいよの本論。平安時代の8世紀、護持僧として天皇の健康と安全を司り、国家鎮護を祈る加持祈祷で密教を国家として押し進めさせることに成功した空海。空海は謎の人物である、自伝によれば、788年15歳で上京、母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について学問をはじめて、生まれた讃岐の国を出、奈良の都の大学に入ったのは当時としては遅くて18歳の時。在学中に一人の沙門に出会う。虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法を教えられて以来、大学を飛び出す。阿波の大滝嶽、土佐の室戸崎で求聞持法を修めて、さらに吉野金峰山、伊予の石排山などでも修行した。この間の体験によって24歳にして東洋の三大教義である儒教・道教・仏教の比較論「三教指帰(さんごうしいき)」を著した。この中で空海は仏教を一番上位においている。804年4月出家得度し、東大寺戒壇院において具足戒を受け空海と号した。同じ年の7月長く中断されていた遣唐船が派遣され、遣唐大使藤原損野麻呂に従って空海は留学僧として乗船した、これは31歳の時で、かれは第16次遣唐使船に留学僧として乗り組んでいるが、18歳で大学に入り、中退して30歳を過ぎて遣唐使船に乗りこむまでの10年間、どこで何をしていたのか、当初は優等生であった最澄が行く予定であったのが、一介の修行僧空海が行けたのがなぜか、留学後最澄のように通訳もつけず、言葉に苦労することなく2年という短期間の研修、受戒で特別扱いされた、いずれも謎である。

空海の企ては、天皇を頂点にいただいた国の形の中に、密教の儀式と教えを組み込むこと、という。密教の即身成仏の思想を国家との「入我我入」として結びつけ、宮内大内裏の心臓部に密教道場の真言院を設立、天皇と国家の鎮護を祈祷できる体制を作った。これらを「密教コード」と呼ぶ。空海はどのようにして天皇に取り入って宮内祭祀を国家統治の仕組みとして組み入れることに成功したのか。 「ダヴィンチ・コード」にならい「空海コード」を論じる。中国から持ち帰った曼荼羅ー金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅を活用したのだと解説。玄ム、道鏡、空海の共通点をあげて、密教は奈良と平安という時代だからこそ国家の仕組みとして入り込めたのだとの歴史観を展開。密教コードの導入で元々あった道の存在との二元体制を確立、宮廷祭祀に神道と密教という二つの宗教儀式を組み込むことで国のかたちを生み出したと主張している。空海は天皇即位の際の大嘗祭と、毎年11月に行われる新嘗祭に着目、それぞれが執り行われる場所の中点に真言院を建てたというのだ。また、道鏡の時代の反省から神仏混淆が避けられてきたことに対して、そうではないのだ、という主張を通す必要が空海にはあった。もう一つは護持僧、玄ム、道鏡が天皇の看護僧としてあまりに力を持ってしまっていた、この反省から、護持僧という制度を持ち込む。護持僧は清涼殿に伺候して天皇の心身の問題を夜を徹しても加持祈祷し振り払う役割。護持僧の最初は最澄、次が空海だった。そして摂政・関白という天皇の代理人、アドバイザーの仕組み。これこそ象徴天皇の始まりそのものである。律令制度の中では摂政も関白も例外措置、「令外(りょうげ)の官」。摂政関白の仕組みを牛耳ったのは藤原氏、娘を天皇に嫁がせて皇子を生んだら、摂政関白となる、逆に皇子が生まれなければそうはならない、これが藤原家が摂政関白からはずれた原因ともなった。平安時代は350年の長きにわたって平和な時代だった、それはこうした密教コードのおかげ、空海の企ての結果だというのだ。

空海は即身成仏によって宗教的人格の完成をなし、832年8月高野山での万灯万華法会、835年正月以来行われることが恒例となった宮中真言院における後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)など、空海の働きで始まった国家的儀式は数多くある。921年弘法大師の名をおくられている。空海が生きたのは天皇でいえば、光仁、桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明の6代、その仁明天皇の承和元年という最晩年になって宮中に真言院の設立にこぎ着ける。空海の企ては、象徴天皇を頂点にいただく国体、現在にも連綿とつながっている。

2009年5月20日 封印 黒川博行 ☺☺☺

網膜剥離でボクサーの道を閉ざされた日本ライト級が主人公の酒井宏樹。勝敗は17勝2敗。若くして引退し、その後はパチンコ屋の釘師をしている。ボクサーの道をたたれた後、拾い上げてくれた恩人津村のおかげで、パチンコの釘師として生活している。津村が酒井に言ったせりふは「おまへの右腕はわしが封印した。」 パチンコ屋を巡る許認可にかんするヤクザからの嫌がらせが、事件の発端。パチンコ屋、警察、消防を巻き込んだ嫌がらせで、大がかりなバックがあることを酒井は感じ取る。津村には一人娘の理恵がいるが、親子としての仲は最悪、理恵はなぜか昔から知っている酒井に好意を持っている。酒井としてはそれほどでもないというかかえって重荷と感じていた。ある日、パチンコ屋の騒音対策という目的で、パチンコ屋の代理人として津村は真功文化研究所を訪れた。研究所長の尾沢は明らかにやくざ、口調こそ柔らかいがバックに大きな仕掛けを津村も感じる。津村が社長をつとめ酒井が専務を務める津村商会は消防署や警察を使った締め付けに苦しめられる。酒井は伊島というヤクザから、先日たまたま町で出会った元同僚水口から預かったブツを返せ、と凄まれる。一方、津村は失踪してしまう。元より酒井としてはそんなものを預かっていないので持っていないと否定するが、伊島は信用しない。身の危険を感じた酒井は、偶然会った水口を捜すが、社長の津村の行方が分からない。理恵と酒井はヤクザに追われながらも、独自で捜査を開始、事件の背景を知るために大阪を走り回る。黒川博行独特の会話と軽妙なテンポで物語は進む。警察は黒川小説のいつものように腐敗しきっている。酒井の今までの人生、物語に織り込むようにして、昔のボクサーとしての挫折、津村との出逢いが描かれる。酒井のキャラクターはちょっと格好良すぎる気もするが、理恵との絡みなども含めて軽い気持ちで読める、楽しんで読める作品。巻末の解説を書いているのは、酒井弘樹、黒川博行の元編集者、名前を借て描いたハードボイルド娯楽作。「疫病神」シリーズのファンであれば、楽しく読めるはず。

2009年5月19日 神無き月十番目の夜 飯嶋和一 ☺☺☺☺☺

関ヶ原の戦いから2年、徳川家が三河から当時の江戸に進出、関東平野から東北へもその勢力を伸ばし、日本全国を統一的に統治する力を備え始めた頃、関ヶ原の戦いで西軍とみなされていた常陸国の佐竹家は出羽国の秋田へ移封される。佐竹家の新しい領地は常陸の国当時の半分以下となり、家臣の多くは浪人となる。常陸と奥羽の国境にある地域には、佐竹家の属する農業をしながら戦いには参加する郷士たちが住む地区があった。伊達家勢力の南下から身を守る意味で、その地域の村々では米は四公六民で分け、収穫する6割を自分達で使い、残りを収めるという自治権を認められていた。村人達は騎馬を中心にした屈強な戦力でもあった。

その地区にある小生瀬村でリーダー的存在で月居騎馬戦士の一人、石橋藤九郎は武勇の誉れ高く、その昔、芦名氏を滅ぼし、二階堂氏を攻める伊達政宗の武将白石宗実率いる騎馬軍団を撃退し、藤九郎自身も初陣ながら敵騎馬を三人も倒す快挙により、藤九郎はこの地、小生瀬村で尊敬と信頼を得ようになっていた。

戦乱の時代の終わりが近づき、佐竹家が常陸を去る事になると、徳川家康の五男で、甲斐の名門武田家を継いだ、武田信吉が佐竹家の領地を受け継ぐ事になる。同じ年の七月、家康の全国支配の確立のために行われてきた、年貢のための検地が小生瀬の地にも入ることになった。この地の肝煎に任命されたのは藤九郎、時期としては検地には不適切と思えるお盆の真っ最中で、田には水が張られていて稲が育ち始めている時期。徳川家が全国を統治するまず最初が石高管理とその地方武士たちへの分配である。検地という目的のために、青々と稲が茂った田は、検地役人に踏みにじられ、測量という名目のために滅茶苦茶にされる。年に一度の若衆たちの楽しみ、男女が出会える場として伝統的にこの時期に行われてきた村祭も行えことになってしまう。今までの2割り増しにも測定される厳しい検地と、年貢の割り当てに村人たちの不満は高まる。

戦乱の世ではない、農民として生きぬくことが大事だと、肝煎りとして藤九郎は、検地役人からの申し出を受け入れていく。しかし、唯一、村の聖域にして神が降りるという御田のみは、侍から隠し検地からもヨソモノの進入からも守り抜く決心をする。自らの命をかけ村人の誇りと命を守りたいという藤九郎の覚悟とは逆行する形で現実は進んでいく。

村の聖域と村人の生命はなんとしても守りたい。この最低限の希望と、そんなことには関係したくない官僚的な侍、支配者と被支配者の対立ではあるが、日本という国を武力で制圧するという徳川家の支配欲が末端の藩組織と武士たちにも浸透していて、農民を米製造機とでも考えているかのような行動をとらせる。江戸時代300年続く農民支配の始まりである。

悲劇のきっかけとなったのは、一人の若衆の言動、浅はかでしかない。登場人物たちの描写はいきいきと描かれていて、後に起こる悲劇を鮮やかに際だたせる。武田家の内政を担当する芹沢信重と、徳川家の関東での内政を任されている伊奈備前守との指示によって、小生瀬村で自治的独立が認められ一部年貢の免除までも認められいた地区も徳川家の領土となり、容赦ない年貢の取り立てを受ける事になる。田を先祖代々大切に守り、米や収穫物、身を守るすべ、独立の精神、神や伝統仏などを大切にする村人達に対し、徳川の手先である武田家から派遣された役人達は、容赦なく青アオと稲の生えた田を容赦なく踏み荒らし、検地を行う。大事な田を荒らされ怒りに燃える村人達をなだめるが、藤九郎の怒りもある沸騰点に達していた。

最初に結末が示されている。常陸の山里、小生瀬の地へ派遣された大藤嘉衛門は、自分が育った村に帰ったのだが、悪夢を見ているようだった。鼻を突く血の臭い、無人の宿場。その村の住民約300人が忽然と姿を消し、「カノハタ」と呼ばれる村の聖域で、おびただしい数の惨殺死体が発見される。

物語は小生瀬でのそれまでの出来事を振り返りながら展開する。ここで十数年前に遡って紹介されるのが冒頭の経緯。

月居騎馬衆のこの地では、戦国時代でも戦さがない間は、戦時に向け備えをすることが重要と考えられ、他の農民より軽い年貢と自治権を与えられていた。この物語は、戦国時代よりも以前から独立地区として扱われてきた常陸の国の北部、小生瀬と呼ばれる山村が、家康検地を巡るいざこざで村人すべてが虐殺されることになった経緯を、その地に育った人々の目を通して綴った歴史小説である。著者はこの物語を書くに当たって相当入念な調査と現地取材をしたと思われる。その地域での習わし、年中行事、人の誕生から成長、結婚、出産なども含めた細かな取材によって当時の習俗が描かれ、物語の臨場感が高まる。女性も子供も村人全員惨殺というジェノサイドが描かれ、殺された村人たちの日々の暮らしから独立的な自治権を持ってきた精神文化をも描写されているので、藤九郎が若衆の辰蔵に殺されてしまう場面や、そのほかの村民たちが殺されてしまう場面でも、殺されてしまう悔しさや官僚的な幕府の手先たちへの恨みの気持ちが読者にも伝わり感動が得られる。この筆者の物語、雷電、始祖鳥いずれも同じような語り口だ。読み手は物語のはじめから少しずつ与えられている主人公たちにかんする生い立ちや考え方、境遇などの情報と、その後に描写される物語が、読みながらシナプスがつながるように連携してくる。

世界中の支配者は、被支配者を支配者の考え方や文化、価値観、言語までも押しつけるのが常、この物語でも、為政者の権力を末端まで徹底するための手段は均一的な管理と文化支配だ。支配者が被支配者の聖域やしきたりは認めない。武力を背景に押し付けることによって支配者としての権力を誇示する。小生瀬の住民にとって聖地である「サンリン」も「カノハタ」も、幕府から検地にやってきた役人にとっては単なる谷や山林でしかなく、聖なる田圃「御田」も検地逃れの隠田でしかない。

肝煎の藤九郎がなんとかしようとすればするほど深みにはまり、密告者や予期せぬ若衆の反発も、小生瀬が持っていた自立心が生み出したもの。10月は神も居なくなる、月居という地名も「無慈悲な夜の女王」であり象徴的、幕府方、小生瀬村方、多くの登場人物を描き、戦国から江戸時代への移り変わりを舞台にして描いた、読みごたえある歴史小説である。

2009年5月18日 二十世紀から何を学ぶか 寺島実朗 ☺☺☺☺

1900年、夏目漱石が英国留学の途中立ち寄ったシンガポールで目にしたのは、日本から貧しい娘達が売られていった先の姿、山崎朋子著「サンダカン八番娼館」で描かれたような光景で、今からは想像もできない日本の現状を漱石はその時目にしたと日記に記しています、日本は大変貧しかったのです。

明治維新から三十数年、このころの日本は列強との不平等条約を解消し、その後、1904年の日露戦争に向かうのですが、日露戦争での参謀 秋山真之は次のように言っています。「吾人一生の安きを偸(ぬす)めば、帝国の一生危うし」富国強兵、殖産興業を国是とする日本国家への個人の責任感を表す「坂の上の雲」の心意気です。当時の日本人を代表する心の高ぶりではないでしょうか。同じ頃、欧米を訪問して先進文明を見て学んだ日本人が書いた英語で日本人の心について説明するような多くの著作があります。「代表的日本人」内村鑑三、「武士道」新渡戸稲造、「東洋の理想」「茶の本」岡倉天心、「日露紛争」朝河貫一など1900年をはさんで多くの日本紹介本が英語で発刊されています。海外駐在を経験すると、日本について考えること、自己確認をしたくなる気持ちが湧いてくるものですが、明治の先達も圧倒的に先に行っている西欧諸国を訪問して日本的価値を語りたくなったのではないかと、「二十世紀から何を学ぶか」の寺島実朗さんは解説しています。

その時から約100年がたった今、日本人は世界にどんなメッセージを発信しているのでしょう。欧米の人が日本というと今でも「サムライ、腹切り、フジヤマ、芸者」を思いつくのは、1900年の頃、欧米を興行して回った川上音二郎の演し物の影響であると分析したのも寺島さん。20世紀後半には日本製品の世界進出で、日本の印象には「ニンテンドー、ソニー、キッコマン(スシ)、キャノン」が加わり、21世紀には「アニメ、カラオケ、北野、中田」とモノから文化に移行しているような気がします。欧米諸国で「日本年」が企画されることがありますが、その際紹介されるモノは、仏像・浮世絵、歌舞伎・狂言、黒澤・北野、宮崎・押井、大江・ばなななど圧倒的に文化モノであって、生活に根付いているとも言えるスシやカラオケはもはや日本製品とも意識されていないのかもしれません。

一方、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、そして中国と東南アジアへの進出を皮切りに、日本は米中英仏蘭と対立、第二次世界大戦により侵略によって得た多くの植民地を失いました。(しかし、もし今でもそれらを支配していたとしたら、IRAやイスラエルのようなテロにさらされる毎日になっているかもしれません)敗戦後の六十数年間、日本は米国との条約によって一定の安定を得て経済的成長を成し遂げてきました。一人あたりのGDPはその間に4倍にもなり、団塊の世代近辺の方は特にこの間の生活レベルの向上が実感できると思います。しかし今、日本が立ち向かっているのは、米国型資本主義の行き詰まりをきっかけとした「グローバル対応=米国対応」という価値観の転換だと思います。100年前、明治の先達が立ち向かった時のキャッチフレーズが「欧米列強に追いつけ」だったとすると、「世界での日本の役割を考える」というのが現在のテーマ。米国、EU、台頭するBRICs諸国とバランスを取りながら、中東の資源大国、東南アジア諸国などともコミュニケーションを図り、主張すべきを主張して貢献すべきをなす、日本としての再立国なのかもしれません。

米国型資本主義の行き詰まりがきっかけになり、覇権問題も浮上しています。19世紀、米国は3回しか戦争をしていません。1812年英国との独立を巡る戦争、1846年メキシコとの戦争、1898年スペインとの戦争、戦争による死者数は100年で合計4400人だったそうです。1893年のシカゴ万博では「軍事力を抑制し隣国を圧迫せず相互の安全を保ちながら国際関係を紛糾させる条約を締結しないこと」と参加各国に「平和実現のための趣意書」を送っているということ「二十世紀から何を学ぶか」は紹介しています。その米国、20世紀には第一次、第二次世界大戦以降、戦闘爆撃をした国の数はベトナム、グレナダ、リビヤ、アフガニスタン、イラクなど19にも上っており、死者数は43万人、「自由のための戦い」によって平和は実現されたのでしょうか。9.11での死者は2982人、イラク戦争での米国人兵士の死者数はそれを遙かに超え、19世紀に死んだ米国人兵士の数をも2009年4月時点で超えようとしています。

寺島さんは「二十世紀から何を学ぶか」の中で次のように主張しています。「日本企業はグローバル対応の名のもとに、米国型競争志向・市場至上資本主義に走り、金融派生商品や証券化などでマネーゲームの片棒を担いできたのではないか。『売り抜く資本主義から育てる資本主義へ』『儲けるだけの資本主義から節度ある資本主義へ』『格差の資本主義から中間層を育てる資本主義へ』が必要だ。」この本が書かれたのは2007年5月、リーマンショックの1年以上前のこと。米国と対立するのではなく、お互いに足りない部分を補完するという原ジョージさん主張の「公益資本主義」「アメリカを助けるのは日本ですよと教えるのが自分の仕事」と同様の見識ではないでしょうか。

米国発の基準や制度が、経営者へのストックオプション提供は経営者に短期利益志向に傾かせるため弊害が大きかった、などと今時の経済危機の煽りを受けて米国で見直しが進み、同時に危機に陥った米国企業を救うため、時価会計の見直しなどがされている現状を見ると、日本は米国との二国間関係中心で短期利益志向の価値観から、EUやBRICs諸国その他諸国との関係も重視した、複数国関係主義(マルチラテラリズム)に移行する必要があると感じます。世界では人口爆発が問題ですが、日本では少子化が課題、経済貢献以外にも、環境問題、人口爆発問題に対応するための省エネ技術の提供や移民受け入れ、「足を知る」教え、「もったいない」精神など世界に貢献できることがたくさんあると思います。100年に一度の経済危機というなら、100年前よりも日本企業は進歩しているのかと自省してみる視座と、目指す社会の姿を描ける歴史観が必要であり、100年後の子孫のため、国も企業も目先の経済変動に惑わされない、100年の歴史観を踏まえたマルチラテラリズム外交、複数視点経営が重要になってきたのだと思います。
 

2009年5月16日 新しい資本主義  原 丈人 ☺☺☺☺

「21世紀の国富論」に続く原さんによる著書。アメリカ型資本主義の限界、日本の可能性、コンピュータからPUCへ、そしてBracなどNGO活動を通した世界への貢献、公益資本主義の提案と、情報をアップデートしながらも21世紀の国富論での主張をなぞるような展開。感心するのはご自分の会社「デフタパートナーズ」や国連活動などを通して、ここに書いてあることを実践していること。PUC関連ベンチャー企業への投資、国連アドバイザー、日本政府にもアドバイザーとして参画、BracなどNGOをとおしたLDC(最貧国)支援などご自分で実行している、ここが口先だけの評論家とは違うところ。IFX関連のベンチャー企業への投資では一緒に1年間以上議論したこと思い出す。原さんの主張をかいつまんでまとめてみる 。

第1章 金融資本主義の何が間違っていたのか
金融というのはあらゆる産業を支援する仕組みであって、それ自身が産業の中心にはなり得ないもの、その金融業が主人公のような顔をして架空の土台の上に築かれたものが崩れた、これが今の金融ショック。IRR(内部投資収益率)やROE(株主資本利益率)という指標があり投資家にとっては重要な指標。IRRは投資に対してどれだけのリターンがあるかを示すが、同じリターンを得られるなら10年より5年、さらに3年、1年という風になるべく短期の方が投資効率がいいとされる。一見もっともなようだが、研究開発に多額の投資が必要な長期的なリスクを持ったビジネスよりも短期で儲かる仕事をした方がいい、ということになる。ROE、株主の投資に対してどれだけのリターンがあったかを示すが、経営者としては資産を圧縮して財務諸表を良く見せることで株価を上げて、短期で儲けてストックオプションの権利が行使できるように努力する。アメリカ的成功の尺度はすべてお金、単純といえば単純だが、賢い人は金融でもうけ、額に汗して働きたくはない、という風土を生み出す。金融工学というものは「完全競争」「参入障壁ゼロ」「売り手と書いての情報は等しい」などというあり得ない前提の上に理論構築されており、実験室に入れるべきもの。金融で一儲けというアクティビストを食い止める仕組みを作ることができるはず。アクティビストは短期の株保有者であることが多いので、配当など株主権行使は5年以上の株保有者に限るとすればいい。さらに5年以上株式を保有する株主だけを対象とする市場を作ることも一つの方法。基幹産業の端境期には過剰流動性が起こりやすい。繊維、鉄鋼、自動車、ITときた産業が今端境期にさしかかっているのではないか。金融派生商品を駆使するようなファンドは、1の実態しかないものを100回も右から左に動かして差益と手数料までとるような奴隷商人のような存在、金融資本主義とIT産業の先にある新時代に向けての資本主義を見据える必要がある。

第2章 「大減税」で繁栄する日本
内燃機関が機関車や自動車、船舶、飛行機などを生み出し、それらを使った輸送や物流などのサービス産業を生んだ。このケースでは内燃機関がコア技術だった。IT産業ではTCP/IPというのが一つのコア技術であろう。このIT産業はもうほとんどアメリカに先を越されていて、日本で今からこの分野で新産業を起こそうというのは筋が悪い。Web2.0というのもコア技術ではなく、技術の使い方の一つであって、日本の経済拡大に寄与できるようなジャンルではない。日本は投資を呼び込めるようなビジネス環境の整備が必要で、法人税、住民税、消費税、所得税、贈与税、相続税を先進国の中で最低に設定して投資を呼び込むべきである。さらに投資減税を導入すべき。中長期の技術開発のための先行投資は単年度償却を可能とする、投資家には税額控除を与えるなど。アメリカのベンチャースピリットは今、地に落ちてしまっている。短期的リターンだけを気にするファンドマネージャがほとんどであり、時価会計、減損会計が大手を振っているので新しい価値を創造しようとする開発者に不利益、新技術が成長しにくくなっている。そして9/11以降のアメリカでは移民政策が変わっていまい、優秀な才能を持った外国人を受け入れなくなっている。そしてMS社やOracle社などの過去の成功が自縄自縛の原因、OSやDBの更新でお金を儲けているだけの会社には新しい技術など生まれない。

第3章 コンピュータはもはや足枷
今のコンピュータは速く計算するために特化、定型化された大量データを処理するのは得意だが、アナログで非定型な情報は扱いにくい。ヒトゲノムの解読はいくら高速のマシンがあってもこのままでは前には進まない。それをささえるものとして 情報の属性情報を無制限に増やしていけるIFX 理論 (インデックス・ファブリック理論) からPUCを支える基礎技術がうまれることを期待している。またコンピュータはコミュニケーション用には作られていない。人のコミュニケーションには人の五感をもっと容易くうまく活用できるようなインタフェースや通信技術が必要。今後はPUC(使っていることを意識しなくてもいい、どこにでも存在できる、コミュニケーション)が主役になる。貧富の差、学力の差が大きすぎる中国やインドは日本の敵ではない、日本は日本の強みを発揮できる技術と産業を開発する必要がある。

第4章 途上国援助の画期的実践
日本人によるおもしろくて、採算も取れる活動は、最新テクノロジーを活用して「貧困」国を助けること。同じ資本や技術を投入するなら経済効率ではなく、世界の人たちが日本の技術と支援を期待する、必要とされる国になることを考えることが重要。教育、医療サービスにデータ圧縮技術や大量データ電送技術を組み合わせて提供する、こうしたことは日本でしかできない貢献。スピルリナという食用になる藻を生産して食用にする技術なども興味深い。グラミン銀行で有名になったマイクロクレジットも貢献できる対象である。こうした活動をNGOや国連組織を通じて行う、国連旗の下での民間による支援が日本という国ができることである。

第5章 公益資本主義の経営へ
市場万能・株主至上というアメリカ型資本主義の弊害を廃し、会社の事業を通じて公益に貢献する、こういう公益資本主義を提唱する。世の中への貢献こそが企業活動の価値なのである。市場万能主義は正しくない。自由でありさえすればいいということはなく、法律、規制、伝統習慣、倫理観などこうした制限や価値観を持った上での自由である。また、エネルギーと食料は市場万能主義に任せてはいけないジャンル。クリーンエネルギーの利用拡大や飢餓の撲滅など、政治や企業の意志を働かせていかなければならない。

日本こそがアメリカや世界を助けられる国ですよ、ということをアメリカ人と世界に訴えていきたいという著者の原さん、応援したい。
 

2009年5月16日 始祖鳥記 飯嶋和一 ☺☺☺☺☺

ある朝、紙屋藤助の家を同心らが取り囲んだ。城下では空を飛ぶ鵺が世間を騒がせていた。「イツマデ、イツマデ」と鳴いて政治をあざ笑う鵺、その居場所が突き止められた時だった。紙屋には主の藤助の甥兄弟が身を寄せていた。兄は周吾、本名を幸吉、弟は弥作、年は二十九と二十七。

天明年間、備前岡山に腕のいい建具屋がいた。銀で支払いを受けられる仕事人、二十代だった彼の腕は備前では一二を争うものであり、学問優れ、一目置かれる存在だった。その名は紙屋の幸吉。幼い頃から幸吉は絵に手先の器用さにおいて天才的であり、その才能を知ったのは旅回りの砂絵師だった。幸吉には鳥寄せにも才能を見せて、雀や鶺鴒、頬白などを手の平にのせるいう技を持っていた。幸吉の父瀬兵衛が死んだため叔父である傘屋萬蔵に引き取られていた。弟弥作も岡山の母親の実家に養子に出されていた。岡山の紙屋藤助は幸吉を自分の所に呼び寄せた。幸吉と弥作の兄弟は紙屋で表具師としての腕を上げ、世間の評判は高まっていた。そうした中でも幸吉は何事も金銭の高で物事をはかる人間たちを嫌っていた。傘屋で暮らすようになって、竹や紙、糸などが自由に手に入る環境で、幸吉は様々な種類の凧を作ることに喜びを見いだしていた。本業である建具師としてその名を知られ、凧作りにも熱を入れていた。凧がうまく上がるように工夫をするうち、この凧に乗って空を飛べないだろうかという思いに心を奪われていく。幸吉は鳥を捕まえては解剖、羽根の面積と体重に法則があることを発見する。鳥の体の仕組みについても独学で学び、人間の力でどんなに工夫したところで飛べないという結論を得た。人が空を飛ぶためには凧で風に乗って滑空すること、思い切って飛んでみることができるかどうかだと考えるに至った。彼は蔵の屋根から凧を背負って飛び降り、川を越えて葦原まで到達、人が初めて空を飛んだのはこの瞬間だった。

備前では、奇妙な噂が立ち始める。巨大な翼の鳥が、毎夜空を飛び回っているという噂だ。そしてそれは怪鳥の鵺だと噂が広がっていった。天明の大飢饉の時代、備前に飢餓はなかったが、民の暮らしを無視し、武士の都合でお気に入りの商人をさばらせている藩の政治には、民衆の不満が募っていた。鵺は「イツマデ、イツマデ」、「いつまでこんな政治が続くのだ」と啼いているのだ、と人々は語り合っていた。藩に直接抗議する手段を持たないものたちにとって、この鵺の鳴き声は、自分たちの声だった。そして、空飛ぶ建具職人幸吉は捕らえられた。藩として不穏な噂が広がるのを避けるためにはどうしても噂の元を探りとらえなければ面目が立たないのであった。取調べを受けた幸吉は、なぜ民衆をあおったのかと聞かれ、自分は単に空を飛ぼうとしただけ、藩政を批判したわけでないことがわかった。しかし、世を騒がした罪で、財産は没収、備前を追放された。

建具師幸吉が牢屋から出た時、牢屋の前の道は人々で満ちあふれていた。藩政で疲弊し面白くもない世の中で、一人勇敢に空を飛び、鵺として藩の悪政を糾弾したヒーローを見るために人々は集まっていたのだった。幸吉の姿を見て「天晴れ紙屋」という掛け声が溢れた。その後、空飛ぶ建具師の噂は、命をかけて池田藩を糾弾し捕らえられ、人々の「天晴れ紙屋」という叫びによって処刑されてしまったという噂になって、備前から全国津々浦々を駆け巡った。。

天明三年の飢饉は未曾有のものだった。北の地方では数十万といわれる死者を出したが、この時死んだのは民百姓ばかりだった。武士階級で餓死したものなどいない、民衆を顧みない悪政の結果である。江戸の塩問屋でも、四軒の問屋だけが莫大な下り塩を独占していた。幕府は、大坂から廻送されている下り塩の扱いすべてを江戸の四軒の問屋で独占させ、塩の値段を安定させる政策をとっていたのだ。おまけに四軒問屋の塩は粗悪であり、値段は安くなかった。侍どもが四軒問屋と結託していることは明らかだった。巴屋伊兵衛この行徳にも飢饉の悪い影響が出るのは時間の問題であると感じていた。このままでは、飢饉はこの地にも影響を及ぼすに違いない、何とかして、糞侍や悪徳問屋どもに一矢を報いてやらねばならない。今行動しなければ、自分だけでなく、この行徳の地で座して死を待つしかない。伊兵衛には一つの思いつきがあった。地方から塩を買い込んでも、通常は四軒問屋を通さなければいけないが、江戸城に送る御用塩という御旗を立てた船なら、直接行徳に乗り付けられるはずだ。問題は、どこから原料の塩を手に入れるか、江戸四軒問屋は尾張までの船をおさえている。それより西国の塩田から運ぶとすれば、難所遠州灘を越えなければいけない。あの遠州灘を越えられる船乗りはほとんどいない。彼は、東海道をたどり、京、大坂を歩き回ったが、こんな危ない話に応じる廻船問屋はいなかった。上方まで廻船問屋を探しにきて、江戸四軒問屋の影響と力が上方の廻船問屋にまで力が及んでいるのを知る。

そうした中で巴屋は摂州兵庫に行き着き、巨大な帆柱をもつ、新造の弁財船に出会い、その船の船頭・福部屋源太郎、楫取(かじとり)杢平を知る。廻船問屋でも塩問屋と同じような問題があることを知った。公儀の認めた商いのみに商売ルートと商権を握られて、それ以外の問屋は入り込めない仕組みになっていた。天明三年に起きた大飢饉は武士を守る仕組みによって起きたことは明らかだった。天災による凶作が原因のように見える、しかし南部藩、弘前藩は餓死者の山と言うのに、江戸や大阪は米で溢れていた。三人に一人が餓死したという津軽藩はなんと四十万俵を超える米を大坂や江戸に送っていたのを源太郎は知っていた。意志の強さと知性、行動力を感じさせる源太郎に、塩問屋伊兵衛は全てを打ち明けるが、源太郎は伊兵衛の話すこの途方もない計画に、まだ半信半疑だった。出立の朝、巴屋伊兵衛は源太郎に三百両の為替手形を渡し、この船の帆柱にふさわしい丈夫な帆を買って欲しいと話す。塩の買い付けのために持ってきた金だが、それには利用できない、無駄にするくらいなら、この立派な船のために有効に使って欲しい。

そして、決断のつかない源太郎の耳に、岡山の鵺騒ぎの噂が入ってきた。「イツマデ、イツマデ」と藩を批判した空飛ぶ建具師の話が伝わってくる。岡山城下の若い建具師、もしかしたら、幼馴染の幸吉ではないか。こんなとんでもないことをやれるとしたら、幸吉だけだ。空を飛んで世間を騒がせたのは、源太郎も知っている幸吉だった。銀払いの建具師といえば豪商や大名に取り入れば一生安楽に暮らせるはず、その建具師が鵺のように空を飛んでは藩の悪政を批判したというのが噂。世の中には凄いやつがいる、見上げた根性の男がいる、それに比べて自分はなんと不甲斐ないことか。幸吉の噂をひさしぶりに聞いて、源太郎は目が覚める思いだった。丈夫な帆は手に入れた。遠州灘を乗り切れる楫取もいる。あとは俺が塩を買い込み、船出するだけだ。自分は江戸の問屋、そして公儀とぶつかるのを逃げていた、そう思うと踏ん切りがついた。塩問屋の巴屋伊兵衛と知り合ったのは天の声かもしれない、巴屋伊兵衛の所に塩を運ぼう、そう決心できた。

伊兵衛が提案し、源太郎が実現させた江戸打越の塩を大量に輸送することにより、行徳は古積塩の産地として再びよみがえって、四軒問屋の粗悪な塩は駆逐されていった。そして、この源太郎の江戸打越輸送に尾張の国知多廻船世話人も賛同、巴屋伊兵衛の依頼で源太郎が開発した江戸直輸送ルートを通して知多の木綿も運送されるようになった。さらには、塩と木綿以外の商品の輸送にも使われ、幕府や役人から便宜が図られた問屋にと、一部の商人とつるんで行われていた経済政策を揺るがすビジネスとして拡大していった。

備前岡山を追放された建具師幸吉は、一時、この源太郎の船に乗り込み、水夫として働いていた。やがて船を降りて駿河府中に落ち着き、備前屋幸吉として時計修理師、入れ歯作りで暮らしを立てることになる。町での暮らし平凡な町民として目立たなく過ごして余生を送るはずだった。しかしそんな生活が幸吉には息苦しかった。源太郎の弁財船で外洋を航海している時、死は常に生の隣り合わせであることは、ごく自然な感覚だった。船の生活では竜神が目覚める時、人間なんて呆気なく消えてしまう存在だった。死んでしまえば、全てが消えてしまう。町頭の三階屋仁右衛門はそんな幸吉を、備前にゆかりのある人間だろうとしか思っていなかった。幸吉との関わりが出来たのは、自分の時計を修理してもらってからである。親しくなって仁右衛門は幸吉に凧を作ってくれないかと頼み込んだ。端午の節句、この町を挙げて揚げる凧である。仁右衛門は幸吉の前身を知らなかったが、頼まれた幸吉は忘れようとしていたものが、体の中から湧き上がってくるのがわかった。自分には遣り残したことが一つだけある。幸吉は人間の体重を持ち上げて空を飛ぶには、十分な面積の凧を背に、十分な高さの崖から強い風を受けて飛び立つことが必要なことを知っていた。文化元年(1804年)元旦の夕刻、骨の長さが十六尺という巨大な凧を背負った幸吉は60メートルの崖に向かって風を待っていた。次第に風が強くなり、その風に向かって幸吉は走り出し、宙に飛び出し、風に身を任せた。

『雷電本紀』と同じように、信念を持って生きた人物の生涯を描いている。淡々と、しかし人物像を浮かび上がらせる筆致である。読み終わった後のこの感覚は何だろうか。重厚な棒を飲み込んだような、背骨に長い心棒を入れられたような感覚、人の一生を描いてみせられて読者は「なんとすごい人物がいたものだ」ということとともに、その時代の背景、問題、人々の苦しみ、圧政のひどさ、そうした中での人々のたくましさと弱さ、多種多様な歴史を知ることになる。主人公は幸吉なのか伊兵衛なのか、それとも源太郎なのか、はたまた楫取(かじとり)杢平なのか、それぞれの人物像は細かに描かれているので、読者は人と人の出会いの不思議と運命も感じる。人の運不運は人との出会いでもあるし、時代との出会いでもある。それは運不運ではなくて、それぞれがそれぞれの人に与えられた生きる道であることも読者は感じる。今年の就職活動をしている学生は不運だ、とかいう話、何とかしてあげたい気持ちもあるが、それは今年の学生たちに与えられた生きる道、この本を読めばそういう考え方もできるのではないか。何社エントリーシートを提出しても最終面接までたどり着けない学生さん、この本を薦めます。

2009年5月13日 広重の東海道五拾三次旅景色 ☺☺☺☺

両国の江戸博物館で手塚治虫展をやっているので見に行き、そのときに同時に開催されていたのが「広重 東海道五十三次展」、帰りにミュージアムショップで購入したのがこの本。初めて知ったこと、広重の五十三次、なんと16種類もあること、この本ではもっとも有名でできがいいとされている保永堂版、行書版、隷書版の3種類を掲載している。展示会では五十三次、55枚の絵を見ていて、家に帰ってじっくり見直して解説もしっかり読む、いろいろなことを知ることができる。48番目の関宿、この町にある関神社のお祭りでは16台の山車が町の中を引き回されるが、町の道の幅ぎりぎりに作られており、これが「関の山」の語源、へええ。52番目の石部宿、ここには銅がとれた金山があった、物堅くて融通が利かない男は石部金吉、ここからきているとか。

絵によくでて着る風俗に伊勢参り、子供が親にも内緒でくる抜け参り、大名行列、巡礼、虚無僧、金比羅参り、常夜灯、飯盛り女、関札などなど、このような江戸時代の文化風俗を沢山書き込んでいる。また、スポンサーの名前、自分の屋号などをあるときにはさりげなく、ある時は堂々と登場させていることにも驚きだ。この出版社の古地図シリーズはいくつか持っているがいずれも大変楽しめる。

2009年5月11日 雪ひらく 小池真理子 ☺☺☺

女、渡辺淳一ですねえ、女性の、というか女の欲望を綺麗に描くとこうなる、という小品集。

「おき火」会社の社長の妻、桐子。体が弱くて寝込んだりしているが、夫からの求めには不思議と応じる。夫が出張でいないときには夜寝るときに妄想をふくらませるが、外見的には貞淑な妻。夫の会社が雇った運転手は蓮見、妻と子供がいる。夫の送り迎えにくるときにも必要なこと以上には口もきかないが、半年前くらいからほとんど本人同士しか気づかない視線を感じるようになるが、言葉は交わさない。ある時、夫が北海道出張の最中に脳梗塞で倒れる。飛行機が苦手な桐子、蓮見が同行して飛行機で札幌へ、「おまじない」として蓮見は離陸時に桐子の手に手を重なるが、それでおしまい。さらに半年後、伊豆の温泉に夫婦で骨休み、夫が風呂に入っている間に、蓮見が仕事の荷物を届けに訪問、とっさのことに迎えにでた桐子に接吻、思わず受け入れてしまう。そんな蓮見、それ以降もそんなことがあったのかどうかも感じさせないようなそぶり。そのうち、蓮見の妻がガンとわかり、運転手を辞めることに。桐子は、再び妄想の世界に沈む。

「最後の男」10歳違いの姉妹、姉は奔放な恋に若い頃から明け暮れ、今は53歳。妹は正反対、真剣な恋とは無関係、姉の天真爛漫な性格をうらやみ、自分にはないものを感じている。そんな何人もの男とおつきあいした姉が今つきあっているのは13歳年下のゴージロー、妹としては好きにはなれないタイプ。そんな姉から突然電話を受けるが、その会話が最後となり、姉は劇症肝炎で死ぬ。そのことをゴージローからの電話で知らされる妹、呆然とする。遺骨を焼いて骨を拾うとき、ゴージローが言う。「お姉さんの心を拾いたい」、この一言で妹はゴージローに友情を感じてしまう。

「仄暗い部屋」作家沢木と4年間つきあって別れたばかりの美枝子、34歳の時に離婚した43歳、今は洋裁店を自営、末村という妻子持ちと交際中。末村の前につきあったのは年下の亘、亘とのつきあいを思い出しながら今日も自宅にきた末村と夕食をともにしている。夕食の後にはお決まりのコースになるのだが、この美枝子の住む部屋は暗い。美枝子が年をとればとるほど暗くなってくるのではないかと末村からはいわれていて、その通りだと美枝子も思っている。この末村もそのうち自分からは離れていってしまうんだろうと美枝子は思っている。

「雪ひらく」聡子は4年間つきあっていた作家の沢木と分かれたばかり、年末で実家に帰ってきている。実家にいるのは画家の父、70歳で最初の妻には先立たれ、若い光子と実質上の夫婦になっている。光子はやり手の江戸っ子、東京で店をやっていたが、画家とつきあうようになり、その近所でのみ屋を開店、結構繁盛している。この画家の父と光子の関係が面白い。聡子は光子の店で写真家の勇作と知り合う。大晦日の11時、勇作から誘いの電話、雪の中を二人でドライブに出かける。

小池真理子が描く女性の欲望は「情念」とか「不倫」とは異なる。もっときれいな「したいのでしているの」というさらりとした本能を描いている。このあたり、渡辺淳一の男女不倫よりはずっと軽い感じではある。しかし、女の業、という言葉、男には欲望よりも深い、ということを小池真理子は言いたいのか、女の欲は終わりがないことを切々と読者に訴えているように感じる。一方、最後の男の妹や雪ひらくの光子のような女の業とは異なる女性も登場させて、もう一つの女を際だたせている。朝の通勤電車で読んでから仕事にかかると、一日頭を桐子が離れない、ということにもなりかねないので、帰りの通勤電車で読むことをお勧めする。

2009年5月9日 孤独の賭け 五味川純平 浅田次郎 ☺☺☺☺

このお話、時代背景が重要、1960年代の東京、ストーリーにはあまり出てこないが東京には都電が走っていただろうし、東京オリンピックを前に高速道路や地下鉄の工事も始まっていただろう。戦後のどさくさで土地で一儲けした金貸し東野の話も、ビール一本が一坪の土地などという途方もない話で当時の雰囲気を感じられなければただのホラ話にも聞こえる。百子の生い立ちや叔父夫婦への恨みの深さも、その貧困を体感できなければ理解できないかもしれない。金貸しの東野の手下、氷室が言うジョーク「総理大臣ではないですが、私はウソは申しません」、50歳以下の読者には何がジョークなのかも分からない。時の総理大臣は佐藤栄作 いや違った池田勇人、この人の常套句だったこと、懐かしく思い出す。

「孤独の賭け」は、千種梯二郎と乾百子という二人を中心に物語が進む、結構展開は早いのが特徴。洋裁店の縫い子である乾百子の両親と兄は叔父夫婦に騙され土地家屋を奪われたうえ貧困を苦にして死んでいった。取り残され一人になった百子は、叔父夫婦への復讐を胸に、洋裁店ボヌールの縫い子になった。百子には、いつか自分で洋裁店をもち、お金を稼ぎ叔父夫婦に復讐を果たした上で世の中をのし上がっていきたいという野望があった。自分が雇われている洋裁店の経営が火の車であり、担保として差し押さえられるという情報を得た百子は、それは自分のすべてを賭ける好機だと考えた。

もうひとりの登場人物は、実業家の千種梯二郎。「大衆に娯楽を」というのが千種のキャッチフレーズだが、今聞いても奇抜なアイデアとは思えない。この時代だからこそ娯楽はお金持ちのものであり、庶民は裕次郎や小林旭がヨットで遊んだり、ちょっと後の大橋巨泉がゴルフで加山雄三がスキーで遊ぶのを見て夢を見ている時代であった。だからこそ「娯楽を大衆に」というキャッチが受ける。キャバレーなどの娯楽産業で無一文からのしあがってきた彼は、世界的な歓楽境を作ろうと膨大な夢を持ち、東日コンツェルン会長赤松やその幹部大垣、さらに高利貸東野などに取り入って、「新世界」という日本最大の娯楽施設の建設にあと一歩というところまで来ていた。こうした政治家や金貸しは千種の利用価値をビジネス的に計算し、儲けられると思う間は利用するが、いったんその計算がマイナスに出ると叩き落そうとする。

百子はある夜、千種に出会う。肉感的な体と美貌の百子にはその武器を使う頭脳と度胸があった。実業家である千種に百子はその日のうちに自分を担保にして借金を申し込む。千種は百子たぐいまれな個性に惹かれ言われるままに250万円を投じて、借金に苦しむボヌールの乗っ取りに荷担、店を百子に預けた。さらにバー「アロハ」も百子の才覚に任せてみることにした。また、千種は、叔父夫婦に騙し取られた百子の生家を300万円を投じて買い取り、百子に与えて叔父一家への復讐を叶えてやった。

復讐を実現した百子は、洋裁店とバー経営に事業欲を燃やした。手に入れた洋裁店を元にしてもう一つのボヌール(バー)のマダムになった百子はさらに大きな世界へと飛び出していった。名声を得る為全国デザイン・コンテストに応募、奇抜な演出で有名人になった。しかし百子は、いつまでも千種の世話になるのを嫌い、千種の友人北沢から紹介された証券マン布井を利用し金を貯め、さらに生家の土地をも売りはらった。

千種は新しい娯楽の大構想を実現させようとしていたが、資本家大垣がそのアイデアを横取りしたことが新聞の載ってわかる。千種も金策に走るが、金融の引締で、経営は挫折し、東野も赤松や大垣も、そんな千種を見離した。最後に千種は百子のところに顔を出す。「150万円貸してくれないか、中川京子に渡したい」「そんな金は貸せない」と百子は断る。千種はとぼとぼとボヌールを後にする。

お金、資本、土地を持っている大垣、赤松のような資本家と、千種や百子のように裸一貫から立ち上がろうとする野心家、そしてその他の登場人物のように自分の分に合った生活で満足する大勢の人間たち、1960年代という今から40年も前の話であり、時代は異なるが、現在でもこうした構造は変わらないので話の現実感は大いに感じられる。それにしても、百子、何という大胆で魅力的、そして生き抜く力を持った女性だろう。モデルはいるのだろうか。孤独の賭に百子は勝ったのだろうか、それともまだこれから先があるのだろうか。五味川純平、女性も男性も生き生きとそのキャラクターを描いていて一気に読める、滅多に出会えない面白い小説である。

2009年5月8日 天切り松闇がたり第四巻 浅田次郎 ☺☺☺

天切り松とは松蔵のこと、その昔盗みに入ったところが東郷元帥の部屋、説教されて元帥にその名をもらった。元帥は病み疲れた瞼を静かにおろした。「名もない盗ッ人に勲章を奪われるわけにはいくまい。俺がおはんに二ツ名をくれちゃる。天切りの技を使う松蔵ならば、天切り松でよかろう。以後、そのように名乗られよ」軍神から頂いた名前なら、安吉親分も文句はあるまいと考えた松蔵、「ありがとうござんす、天切り松の二ツ名、しっかりと胸に括らしていただきやす」

松蔵の仕事は屋敷の屋根瓦を外して忍び込む盗賊。物語は、年老いた松蔵が拘置所語りはじめると、警察官や看守たちが集まってきて皆その話に聞き入る、これが闇語り。親分は目細の安、安 吉、強いやつにはひじ鉄を食らわすが、一銭の儲けにもならない人助けをして、子分たちもそれに巻き込むという人情派、彼らはすりの一味である。メンバーは安吉親分と松蔵の他には、常兄ィ、どこで仕入れたのか底知れない知性の持ち主。栄二兄ィ、とにかく格好いい、二つ名は黄不動。おこん姉さん、美しく凛々しい女すり。そして虎兄ィ、男の中の男。

天切り松シリーズの第4巻、昭和の時代になって、安吉一家も様変わり、舞台は大正から、関東大震災から復興した、モガとモボが闊歩する街に様変わっていく昭和初期の東京・銀座。時代は重苦しく、日本は戦争を起こし中国大陸に進出していました。安吉親分にも老いが押し寄せている。このシリーズの基本にあるのは人情、目細の安吉親分一家の面々は、世のため人のためにとんでもない盗みをしたり、奇想天外な騙しを展開していく。松蔵の師匠「黄不動」は結核に、死の予感を漂わせている。昔はパシリだった松蔵は、黄不動の兄貴の跡目を継いだ頃、目細一家は世の道理と人情を貫く仕事を目論む。

第一話 昭和侠盗伝 寅兄ィが面倒を見ていた戦争未亡人の子供に召集令状がきたことに憤慨した松蔵、振袖おこんと書生常兄ィとともに勲章を狙う、それもとびきりのものを。爆弾三勇士と軍神を両天秤に、国家に対する松蔵たちの“屁のつっぱり”に人々や読者までも仰天する。この話の中で、松蔵が“天切り松”を名乗る逸話が語られる。

第二話 日輪の刺客 二・二六事件の半年前に起こった陸軍相沢中佐による永田軍務局長斬殺事件、ひょんなことで安吉親分が助けた田舎ものは、永田軍務局長斬殺決行直前の皇道派強硬派の相沢三郎中佐だった。松蔵は相沢の知られざる一面を語る。

第三話 惜別の譜 たまたま知り合ったという縁を感じ、死刑が決まった相沢中佐の妻米子が抜け弁天一家の助けを借りて夫との最後の別れを果たす。彼女に託された遺書にある「和以」の真意とは。「日輪の刺客」の後日譚であはるが、相沢中佐と米子の愛の物語。

第四話 王妃のワルツ  関東軍によって画策された満州国の皇帝溥儀の弟溥傑と嵯峨侯爵家の姫との婚姻、事件に関わっていく松蔵たちを描く。「黄不動の栄治」ファンの嵯峨侯爵家のお嬢様、政略結婚のため愛新覚羅溥傑にお嫁に行かされる彼女の独身最後の願いを託された松蔵と病み上がり栄治が活躍する。

第五話 尾張町暮色 おこんを主人公にしたお話。銀座三丁目の松屋で銀ブラを楽しむおこんが遭遇したのは、かって妹分だったフラッパァのお銀こと銀子。第一銀行の行員と幸せな結婚をしてカタギになったはずの彼女がここにいるのか。銀子は震災の前年足を洗ってから十年経って金に困ってつい手を出し、おこんに助けられる。

第1巻から3巻までとは少々異なる味付けだが、これも天切り松の世界、人情話を語らせれば天下一品、浅田次郎の面目躍如の逸品。
 

2009年5月7日 雷電本紀  飯嶋和一 ☺☺☺☺☺

天明六年、湯島天神裏から出た火は神田、日本橋一帯を燃やしつくして深川仲町まで被害がおよんでいた。鍋などの鉄物を扱う鍵屋助五郎は、神田明神へ産土神参りに出かけた帰り道、火事の焼跡で、頼まれるままに赤子を抱き病魔払いをしている大男を見かけた。その光景は二十二才の助五郎の頭に残った。それから4年後、勧進相撲は谷風と小野川両大関の時代、しかし両大関よりも雲州松江藩お抱えの相撲取りが話題になっていた。どの相撲人とも似ず、化け物じみた強さだとという相撲取りは月代も剃っていない雷電為五郎だった。雷電の相撲を見た助五郎は、雷電が他の力士とまったく異なることを知る。助五郎は4年前に見た光景を思い出していた。今噂の雲州雷電は、どんな者でも赤子を差し出すと、喜んで抱き上げてくれるという。赤子に貴賤などあるかと昨今の相撲人とは思えぬことを口走るらしい。それとかつて見た光景が重なり合わさった。助五郎が雷電に化粧まわしを贈ったことをきっかけにして、二人は親しくなってゆく。助五郎は雷電が噂のような粗暴者ではなく教養があることに気づく。

江戸末期に没した力士雷電為右衛門、生涯十敗しかしたことのない伝説の相撲人である。先代雷電の名を持つ為五郎と混同されがちだという。寛政二年冬以来文化七年冬までの21年、江戸大相撲において254勝10敗2引き分け14預り、5無勝負。21年の現役生活でたった10度しか敗れなかったという相撲人である。彼は貧困にあえぐ庶民の希望の星であり、さまざまな伝説を残した。雷電は、恵まれた体と類稀な膂力で、馴れ合いの横行する相撲界に挑んで行く。彼は阿修羅のような形相で、相手力士を力でねじ伏せ、突き飛ばし土俵にたたきつけてゆく。前半の上信大一揆に関する話、そして晩年の報土寺の鐘の再建に関する話と二つのヤマがある。

天明三年、浅間山が大噴火、浅間山は鳴動し灰が降り注ぎ、百姓は飢餓に襲われていた。予言者は、巨大坊の生まれ変わりが浅間を鎮めると言う。人々はまだ子どもと言っていい太郎吉(後の雷電)こそが、巨大坊の生まれ変わりだと信じていた。陰暦八月一日の八朔、小諸八幡の祭礼相撲に太郎吉が出ることになった。太郎吉は相撲嫌いであったが、太郎吉にしてみれば浅間の大噴火以来、相撲どころではなく、迷惑な話であった。この祭礼相撲が終わったあと、上州一体に不穏な空気が流れ始めた。異常気象に加え、浅間山の大噴火、天災であるが、凶作と浅間山の大噴火を喜ぶ者が大勢いた。凶作になればなるほど米の値は上がる。上州一帯の者達はどうにもならないほど追いつめられていた。

こうした背景を背負って太郎吉は浦風林右衛門の弟子になって江戸に出てきた。同じ部屋の中には太郎吉の相手になる者がいないため、林右衛門は大関の谷風に頼んで太郎吉に稽古をつけてもらうことにした。谷風は太郎吉が林右衛門の現役時代に似ていることを感じた。実はこの時谷風は、相撲が腐敗しており、星の貸し借りや情実を土俵に持ち込み、金銭による星の売買まで横行しているということに心を痛めていた。力士は大名のおかかえで、八百長試合が横行、相撲は腐敗していた。しまりのない目鼻立ちでデカイだけと外見はよろしくないが運動神経はバツグンで強く、常に精一杯力をぶつける取り組みは、腐敗しきっていた相撲界をひっくり返す可能性があると谷風は思う。強いばかりではなく、情味あふれ、誠実で正直な性格は誰からも好かれ人気を博した。

人気の出た雷電はある時、弟子一人を連れ、飢饉の村を回る。生きる気力すら失い、徹底的に打ちのめされた人々を前に、雷電はぶつかり稽古を申し出る。村の少年は全力で雷電に向かうが、雷電は容赦しない。手心を加えず少年を叩きのめし、突き飛ばす。鬼のように立ちはだかる雷電に、意識朦朧としながらも少年はぶつかって行く。その姿に村人達は立ち上がり、必死に少年を応援する。自分達の声が少年に力を与えるようにと、そしてついに、少年が雷電を押し出す。次の朝、雷電は時ならぬ鬨の声で目覚める。無気力だった村人達が、手製の弓矢や竹槍を持ち、兎や鹿を追う声だった。やがて、飢餓の村に宴が始まる。古今最強と言われる雷電が一文にもならない疫病退治のために飢餓に苦しむ村村をたづね、赤子を差し出す母親がいると抱き上げては病魔払いをし、人買いに売られて故郷にもどることのなかった人々への鎮魂のために、誰もいない石舞台で力足をふむ、こうした雷電の誠実さを示すエピソードが紹介される。

寛政五年、老中松平定信が失脚、この頃には雷電為右衛門が勝のは当たり前という状況になっていた。この時に行われた勧進大相撲に千田川吉五郎という大兵の相撲人が現れた。雷電同様雲州のお抱え力士である千田川の相撲も従来の相撲びいきからは眉をひそめられていた。その千田川が鍵屋に突如現れた。雷電に聞いた医師の話が耳に残っていて、紹介してもらいたいということだった。千田川も、雷電同様の赤子の厄災祓いをするなど似ている部分があった。助五郎は千田川とも雷電同様のつきあいをするようになった。寛政九年には大関雷電、関脇千田川、小結鳴滝、前頭筆頭に稲妻らが並び、雲州力士がその強さを誇示していた。まさに雷電王朝はゆるぎないものとなっていた。こうしたときに報土寺の鐘の再建の話がでて、雷電も力を貸すが寺社奉行の横やりが入る。

著者は雷電が生まれた境遇や村を出た背景を描きながら弱きものを助けて権力に立ち向かう雷電の姿を克明にこれでもかと描く。書かれた雷電の心を読者は想像する、想像は冒頭から紹介されている幾つものエピソードでシナプスがつながるようにリンクが張られて、雷電のキャラクターが頭の中で結像する。こうして強い印象が残る。あとがきによると、「始祖鳥紀」の主人公となる鳥人幸吉を調べている時に雷電の資料に行き当たったという、この著者の本、一冊一冊が重い、そして読み応えがある、読書好きには必読書としたい。

2009年5月6日 新撰組血風録 司馬遼太郎 ☺☺☺☺

新撰組のメンバー近藤、土方をはじめ沖田、篠原泰之進、伊東甲子太郎、芹沢鴨、武田観柳斎、山崎蒸、加納惣三郎、鹿内薫、井上源三郎、谷三十郎、富山弥兵衛、大林兵庫をそれぞれ主人公にして15編の異聞集にしてみた、という小品集。新選組は幕府を守るための人切り集団であり、池田屋事件では京都に潜伏する佐幕派にとっての過激派である長州の尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締まりにあたっていた。新撰組の中の規律を守るための厳しい戒律や、平から伍長や10あったという組頭、副長、参謀、局長という階級をこしらえてモラルを維持していた。お話の中では組の戒律に違反したということで切腹や斬殺される組員が沢山いたかのように描かれている。僕の京都の母は今でも新撰組のことを良くは言わないが、これは新撰組実在当時からのことで、京都の人たちはそれを今でも言い伝えているということ。長州のお侍はかくまっても人きり集団である新撰組には陰でイケズをする、ということ。京都以外の人たちが新撰組をなにかスター扱いすることを苦々しく思っている京都人は多いということを京都への観光客は知っていた方がいい。

血風録ではそれぞれの組員の人間性に迫るような話題が提供される。刀にかける近藤や沖田、斉藤、土方の考え方(虎徹、菊一文字)、女性に接する機会がなかった沖田の女性観と近藤、土方の沖田への思いやり(沖田総司の恋)、などが面白く紹介される。薩摩藩と長州藩の幕末における立場と考え方の相違と関係の経緯が良くわかるように描かれていて幕末の歴史の勉強にもなる。話の中にはその他の組頭であった、斉藤一、永倉新八、藤堂平助、鈴木三樹三郎、原田左之助なども登場するので、さながら新撰組オールスターキャストである。新撰組メンバーにも思想性はあったと思うが、国を守る、という抽象的なレベルなのか、この際、国を開いて諸外国の先進技術を入れて国を発展させようという開国派の考えを聞いて理解しようとしていたのか、それとも侍になれない階級の郷士たちの吹きだまりにすぎなかったのか、そのあたりは良くわからない。時代背景から貧乏な生活があって同情もできるが、浪人生活がいやで腕に覚えがあるメンバーが集まって人を切っては京都で威張っていただけ、という気がしてならない。新撰組は僕も好きになれない。

2009年5月5日 ジャガイモの世界史 伊藤章治 ☺☺☺

ジャガイモが新大陸でどのように食べられ、それがヨーロッパを経由して世界中に広がっていくプロセスを紹介、その過程で歴史にどんな影響を与えたかを解説している。

話は、オホーツク海から始まる。北海道常呂郡佐呂間町字栃木、足尾鉱山の過剰開発によって起こった洪水で田畑を奪われた結果、北海道のこの場所に入植した。熊笹の原生林を開拓、栃木とは比べものにならない厳しい気候と酸性度の強い土地でも、ジャガイモはよく育った。入植後の1913年、大雪による凶作が栃木地区を襲うが、ジャガイモが飢饉を救う。1945年終戦を迎えた時、食糧難でも手間がかからないジャガイモ栽培がブームに、栃木地区でも農地の半分をジャガイモ畑にした。足尾鉱山は栃木の農民を北海道に追いやり、移住した農民はジャガイモで命をつないだ。

ジャガイモ発祥の地は、アンデス山脈の中央、ペルーとボリビアにまたがる標高3800m級の高原地帯、ティティカカ湖周辺だといわれている。ティティカカ湖の周辺では現在でもさまざま種類のジャガイモが栽培され、ジャガイモの祖先とみられる種類も存在する。1533年、インカ帝国はスペイン人によって滅ぼされ、スペイン人はポトシ銀山などで産する膨大な銀や黄金などを奪って本国に送ったが、その時ジャガイモもヨーロッパへと渡る。ジャガイモ普及の道筋はおぼろげな輪郭しか分かっていない。ジャガイモはその後も飢饉や戦争のたびに多くの人々の命をつなぎ、この後世界中の食糧供給に貢献する。米国でのジャガイモの本格栽培は、アイルランドからの移民の手で行われたとみられ、ジャガイモは「地球を一周した食物」といわれた。寒冷地でも栽培可能というのがジャガイモの繁殖の力である。それが普及に大いに役立った。アンデスの4000メートル級の高地で生まれたジャガイモは、北ヨーロッパなどの寒冷地でも豊かな収穫をもたらしたし、地下に大きなイモを作るので鳥などに食い荒らされることもなかった。生産性の高さも普及を後押し、「同じ面積の耕地で、ジャガイモは小麦の三倍の生産量がある」とアダムスミスにも高く評価された。

ジャガイモというと、アイルランドの飢饉の話が有名である。英国による支配は、アイルランド人を南部、東部の豊かな農地から追い出し、石ころだらけの西部の地へと押し出されていた。16世紀にもたらされたといわれるジャガイモは、岩だらけのやせた土地でもよく育ったが、そこにジャガイモ飢饉が襲いかかる。アメリカで起こった「ジャガイモ疫病」は、あっという間にアイルランドに上陸、惨事の背景には、栽培されていたジャガイモのこの病気に対する抵抗性が弱かったこと、そしてアイルランドの気候変動があったという。なぜアイルランドの被害は餓死者100万人と、ほかの地域よりもずば抜けて大きかったのか。他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物も栽培していたために飢饉を回避できた、しかしジャガイモに頼り切っていたアイルランドでは、ジャガイモ疫病による大飢饉から逃れようがなかった。産業革命時代には「貧者のパン」と言われたジャガイモ、産業革命の時代、労働者の衣食住はきわめて劣悪であった。わずかな賃金でも買えて、調理も簡単なジャガイモは労働者の味方、ジャガイモの重要性を見抜き、普及を訴えた一人がアダム・スミスであった。第二次大戦後になってもベルリン中心部の公園にはジャガイモが植えられた。ドイツの市民農園も同じ時期ほとんどがジャガイモ畑となり、人々を飢えから救ったという。ソビエト崩壊で食糧品が高騰したロシアでも、人々は別荘でジャガイモを栽培して危機をしのいだ。

日本では1600年頃、オランダ船によって、インドネシアのジャカルタから長崎港に輸入されたジャワ芋が日本にジャガイモが登場した最初で、ジャカルタがジャカトラと当時呼ばれていたため、ジャカトライモと呼ばれ、そこからジャガイモの名がついたというのが定説である。輸出が急速に伸びるのは明治三十年代からで、香港、ウラジオストク、中国、朝鮮などへの輸出も増加、明治四十年代には全国の輸出ジャガイモの約4割が長崎港から積み出されるようになった。ジャガイモは南米アンデスの高地を原産地とする寒冷作物、生育適温は10〜23度とされている。それを長崎という温暖地で栽培するにはには品種改良や病害虫対策が不可欠だった。長崎県総合農林試験場では温暖地向けで二期作の可能な品種作りを目指した。ここの農林試験場で開発された温暖地向けジャガイモは、今では千葉県から沖縄県にまで広がった。「男爵」は日本のジャガイモを代表する品種である。この「男爵」を日本にもたらしたのは函館船渠(現函館ドック)専務などを務めた男爵川田龍吉である。川田龍吉は1856年、川田小一郎の長男として高知に生まれた。小一郎は同じく土佐郷士出身で後に三菱会社を興す岩崎弥太郎と出会い、意気投合、弥太郎が大阪に開いた英語塾で龍吉に英語を学ばせる。小一郎は龍吉に英国への造船留学を命じる。龍吉の留学先は造船の本番場、スコットランドのグラスゴー。龍吉は留学から6年目、グラスゴーの書店で運命の出会いをする、その相手は書店の店員で敬虔なクリスチャンのジニー・イーディーである。異国で示しされた親切をきっかけに、二人はたちまち恋に落ち、手紙をやり取りし、休日などによく、グラスゴーの街角で焼きジャガイモを食べた。だが、二人の恋は実らなかった。結婚を固く約束して帰国した龍吉だったが、父親の小一郎は頑としてそれを認めなかった。帰国後の川田龍吉は、三菱製鉄所の技師として活躍、グラスゴーで学んだ技術を後進に伝えた後、日本郵船を経て、横浜ドックの初代社長となり、我が国初の石造りドックを完成させている。1906年函館船渠会社の専務となった龍吉は、函館郊外の七飯村農地を購入、英、米の種苗業者に11種類の種イモを注文した。その中のひとつの品種は、淡い紫色の花をつけ、株を引き抜くと丸い大きなジャガイモが鈴なりについていた。これが「アイリッシュ・コブラー」と呼ばれる品種で、北海道の気候、風土にぴったりと合った。このジャガイモはたちまち全国へと広がっていく。そして川田龍吉男爵にちなんで「男爵(イモ)」と呼ばれるようになるのである。

ジャガイモに最初に接したスペイン人、中南米の現地人がジャガイモを「パパ」と呼んでいたのを聞き、そのまま本国に伝えた。しかしパパはローマ法王(papa)」、恐れ多いため、それに近い発音の「パタタ(patata)」となったといわれる。英語の「ポテイトウ(potato)」もここからきている。

日本の食糧自給率は39%といわれる。流行りだして世界を巻き込むといわれるインフルエンザが長期間世界流行(パンデミック)したら食料輸入はどうなるのだろうかと心配になる。このジャガイモ、日本がパンデミックで食糧不足になったとき再び主役になるときがくるのだろうか。

2009年5月4日 疾走 重松清 ☺☺☺☺

暗らーいお話、とても暗い。大人しい大工の父と専業主婦の母、秀才の長男と優しい次男シュウジが主人公、「浜」と呼ばれる街にシュウジは家族と暮らしていた。シュウジの故郷は干拓地の「沖」を挟んだ埋め立て地ではない「浜」にあり、古くからある「浜」の人たちは「沖」の人たちを差別していた。シュウジを絶えず「おまえ」と呼び続けて話は進んでいくが、これはシュウジの故郷にある教会の神父・宮原によって淡々とした口調で語られている。この神父の宮原も非常に重い過去の罪の影をひきずりながら信仰の人生を歩んでいる。

「沖」の外れのバラックには、荒くれ者の前科を持った極道「鬼ケン」と情婦のアカネが住んでいた。酒に酔っていつも荒れている鬼ケンのことを村の人たちは恐れて嫌っていた。シュウジが新しく買って貰った野球のグローブが嬉しくて自転車で駆け回っていたとき、鬼ケンと出会った。鬼ケンの軽トラはいつも何かを振り払うように爆走していることで有名であり、農道で100km/h出していることもいつものことだった。シュウジのグローブが自転車から落ちたと気がついたときには遅く、探し回っても見つからなかった。ボコボコになった軽トラに乗った鬼ケンが通りかかったのはシュウジが呆然と泣いている時だった。「どないしたんや」鬼ケンの関西なまりの言葉はシュウジには優しかった。鬼ケンはシュウジの自転車に近づいてギアがすり減っていることを知って、「浜」の子供であることを聞いてから送って行ってやるといった。怖い鬼ケンを前にしても、必要以上の言葉や悲鳴を発しないし、泣きもしないシュウジ。鬼ケンに「肝っ玉すわってるな」と言われる。鬼ケンの軽トラからクラクションの鋭い音、若い女も乗っていた。シュウジは軽トラに乗せられ、鬼ケンと女の卑猥なやりとりを耳にして、シュウジの目も気にせずアカネの艶めかしく若い肢体をまさぐる鬼ケンの姿を見て“性”に目覚める。鬼ケンはそれからすぐに死んだ。狂ったように軽トラを飛ばして『アホどもが』という言葉を口癖のように語っていた豪胆な極道の鬼ケンは、その年が暮れるのを待たずに、両手両足の爪をはがされ徹底的に痛めつけられた哀れな死体となって発見されたのだ。抗争に巻き込まれたとかいう話を聞いたが確かなことは解らない。「鬼ケン」が変死を遂げたことを知りシュウジはひとりで泣いた。

「浜」と「沖」両方が一つの中学校に来るようになった。中学生になったシュウジは「沖」によく行く。「沖」にある教会に興味を抱き、通い始める。小学校6年の時には、シュウジは「浜」の県営住宅に住む徹夫と仲が良かったが、お調子者で陽気な性格だけど臆病な徹夫は小学校で馬鹿にされていじめにあっていた。宮原が神父を務める「沖」の教会に通わなくなってからシュウジと友人の徹夫との関係は修復不可能な形で破綻したが、小学6年だったシュウジと徹夫がエリに初めて会ったのもその教会だった。中学生になると徹夫はいじめられなくなり、ひょうきんな性格を生かしてクラスの人気者に、自宅の料理屋「みよし」にリゾート開発の地上げにきた極道の青稜会の連中がくるようになって、徹夫は次第に意地悪で陰湿な性格に変貌、不良グループの中で幅を効かせるようになる。好景気になって「沖」の開発話が持ち上がり、地上げが行われた。

入学式の日に校則違反のポニーテールで登校してきたエリは、教師に迎合することなく同級生に合わせることもなくクールにいつもひとりで過ごしていた。エリは家庭でも学校でもいつもひとりだった。毎日中学校で仲間外れにされ罵倒を浴びせられ教科書や持ち物に嫌がらせをされて「ひとり」になったシュウジの心の支えが、「ひとり」であることに何の不安も迷いも卑屈さも見せないエリの存在だった。エリの「ひとり」は筋金入り、彼女には友人もいなければ家族もいなかった。シュウジも入っていた陸上部でアスリートとしての能力を磨いていたエリはリゾート開発の土建業者のトラックに引かれて二度と走れない体になった。それでもエリは涙を見せることなく松葉杖を使って淡々と走る練習をしようとしていた。

「沖」にリゾートの開発計画が持ち上がり、怪しげな男が出入りし始めた時、教会にも立ち退きの地上げ屋が現れる。シュウジの家族が崩壊するきっかけを作ったのは、地元一の進学校に進み歪んだエリート意識を持ったシュウイチだった。学歴がない父母を馬鹿にして家庭に君臨した兄のシュウイチだったが、優秀な生徒が集まる高校では勉強についていけず仲間はずれにされて成績も急速に下落した。「沖」で起きた兄シュウイチの絡んだ事件をきっかけにして、それまで仲の良かったシュウジと徹夫の関係は険悪なものとなり、シュウジは徹夫の率いる不良グループからいじめを受けるようになる。このころシュウイチがカンニングで停学処分を受けたことをきっかけに壊れ始め、家族もおかしくなっていく。傲慢な自尊心をコントロールできないために生活が荒廃したシュウイチは、ひきこもって独り言ばかりを言って、結局一家を破滅させる事件を起こす。家族は晩ごはんにも一緒に食卓を囲まず一人で食べる父。村八分、学校でのいじめ、耐え切れず家を出てしまった父親、それでもできのいい兄にしか眼を向けず酒におぼれる母親。中学生の少年は逃げることもできず耐え続ける。

シュウジはエリに恋をする。エリは学校生活や他人の前では一切の弱気や甘えを断ち切った『孤高』を保ち続けていたが、他人に見せない内面の奥深い部分ではいつも『孤独』が渦巻いており、生きるか死ぬかというぎりぎりのラインで懊悩する日々を送っていた。だが、兄が全てを壊してしまった。ここの地方では放火した人間は「赤犬」と呼ばれる。村八分よりも酷い一族郎党を排斥するように町全体が動く。シュウジの唯一の心の支えだったエリは中学1年の終わりに東京に引越していき、兄シュウイチの事件で村八分状態にあったシュウジの父親は出稼ぎに行くと嘘をついて失踪した。「沖」の新興開発の地上げを請け負う極道の幹部の女としてアカネは久々に戻っているが、鬼ケンと全くタイプが違うヤクザの新田の妻になっている。シュウジは圧倒的な孤独と絶望の闇から抜け出すために、アカネの柔らかな肉体とつながりエリの強い精神とつながろうとするが、極道の新田から地獄のような暴力とセックスの責め苦を味わわされ、知りたくなかったエリのつらい過去を聞かされることになる。シュウジは級友がいなくなり、独りぼっちになってしまう。恋の相手であるエリも立ち退きで東京へ行ってしまう。母親は化粧品の販売で身を立てようとするが騙されギャンブルに沈んでいき、とうとう家に寄り付かなくなっていく。シュウジは自分を物心両面で支えてくれる家族をあっという間に剥奪されて学校でも家庭でも文字通りひとりになってしまった。シュウジは何も考えず、何も感じず、一切の希望を捨てた『穴ぼこのような暗い目』をして、エリの住む東京を目指して故郷を捨てる。

10歳以上も年齢の離れた大人の女性であるアカネは、自滅した母親を代替するような存在であり、性的な欲求を初めて抱いた女でもあった。堅気の中年サラリーマンにしか見えない極道の新田は、嫉妬深さと執拗な攻撃性を併せ持つサディスト、鬼ケンとは異質の男だった。新田、アカネ、シュウジの関係の中で激昂した新田がシュウジを執拗にいたぶる。本書にはアカネとエリという二人の女性が登場するが、包容力のある年上のアカネとクールな同級生エリは年齢もタイプも全く違う。アカネはセックスを楽しみ自らの宿命を受けいれている。一方のエリはシュウジの前では何事にも動じない心の強さを見せる。シュウジのアカネとエリに対する態度は全く違っている。二人は少年がどのようにして友達と女性を知っていくかの象徴的存在であろう。シュウジが愛した二人の女性、シュウジは殺人に二度も手を染める、しかしいずれの殺人も愛した二人の女性アカネとエリのためであり、シュウジにとって価値があるものもアカネとエリだけだった。恐れを知らない「鬼ケン」はあるべき父親像、「アカネ」こそがあってほしい母親像、恋人の理想像が「エリ」、これが疾走のフレームワークであろう。

2009年5月3日 サウダージ 垣根涼介 ☺☺☺

「ワイルド・ソウル」で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞を取った垣根涼介の第三作、「ヒートアイランド」「ギャングスター・ レッスン」の姉妹編。アキや桃井が加わる前のメンバーであった関根和明、本名高木耕一という日系ブラジル人。戦後のブラジルの移民である両
親の間に生まれた耕一は、幼少時代を日系移民の悲哀の中で過ごし、日本に来てからも自分と同じ日系人にもブラジル人にも差別を受けながら極貧の生活の中に育つ。日本へ帰ってきてからの耕一は、裏金を狙う強盗のグループの一人となり、裏金強奪のプロフェッショナルとして育成す
べく、情報収集や身分の作り方、銃器の扱い方等様々な訓練の途中、他人をあくまで信頼できない耕一をみていた柿沢に、「お前には欠けているものがある」と見放されてしまう。

耕一はふとしたきっかけで、コカインの大口取引があるらしいという情報をつかんだ。DDのために大金を獲ようと、耕一はかつて自分を捨てた仲間、柿沢に接触、麻薬取引に絡む1億6000万の案件を持ち込んだ。耕一は、コロンビア人の出稼ぎ売春婦DDと出会い、金のためなら何でもする女、精神のバランスを欠きおまけにアタマも悪いと知りながらも、DDに惹かれ、引き回されている。そのDDと一緒に彼女の故郷コロンビアへ帰るための金を手にしたいのだという。リーダーの柿沢は耕一過去と、心の闇に不安を抱きつつも仲間に入れる事を決めて作戦を決行する。

主人公の耕一、付き合っているコロンビア人DDとのセックスシーンは濃厚というか、ちょっと行き過ぎではないかと思う。しかし彼女たちの出稼ぎルートや日本での生活状況の悲惨さ、こうした日本の現状を冷酷に描写、このあたりは実際、的を射ていて、僕が15年前にロンドンから成田へのフライトで隣に座ったコロンビア人女性を思い出させる。コロンビアのイバゲというところの出身、英語も日本語もだめ、片言の英語で日本は「Golden Country」だといっていた。友達を頼って東京にきた、これから働いてお金を貯めるのだといっていた。パスポートによるとそのとき28歳、DDまではいかなくても、彼女を取り巻く状況は近いものがあるのではないだろうか。

結局、DDとの将来のためと考えて一発逆転をねらった最後ともいえる仕事で、DDが原因となって致命傷を負う。DDが大切にしている故郷の家族のために、自分命と引き替えに得ることになる報酬でDDへの想いを伝え、猛スピードで国会議事堂の正門トに突っ込んでいく耕一。「シェガ・ジ・サウダージ」 というのがラスト、二度と会えぬ人や土地への思慕。DDのキャラクターや耕一のブラジルでの過去、日本への移民のおかれた状況など印象に残る作品。

2009年5月2日 サウスバウンド 奥田英朗 ☺☺☺

上原二郎は中野に住む小学六年生、学校帰りに繁華街で友達と寄り道したり、クラスメートの女子の誕生日会に呼ばれてのぼせたり、銭湯の女湯を覗いたりと、普通にどこにでもいる都会の子供。二郎には父である一郎が理解できない存在、働いている気配を見せない父親である。一郎は誰からも普通の人ではないと言われる。ある日一郎の仲間というアキラおじちゃんが家に居候を始め、父親の逸話が二郎に教えられる。父親はフリーライターを名乗っているが、カストロとツーショットで写真を撮ったことがあるとか、沖縄米軍基地で戦闘機を燃やしただの、沖縄では大昔の英雄の末裔だという噂もある。「納税が国民の義務だというなら国民やめちゃおう」などと過激なことを言う、文字通りの元過激派にして琉球空手の達人という話。一郎は一部の人たちには尊敬される伝説の闘士であり、また公安からは今もなお怖れられている要注意人物であることを何となく知るようになっても、二郎としてはたいして父親の評価は変わらない。一郎は、二郎は学校へも行く必要はないと豪語、家庭訪問に来た若い女性教師には「あんた天皇制には賛成か」と詰めより、警察を相手に大立ち回りのあげく「国家の犬どもが」と罵倒。二郎や家族はそのような父親にいつも生活を振り回されている。二郎の一番の悩みは、脅しをかけてくる不良中学生カツ、この不良に対してはどうやって対決すべきか、ということであった。

母のさくらは実は四谷の老舗呉服店の娘、昔は「御茶ノ水のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、父と同じ反体制活動をしていたという経歴の持ち主。今はは喫茶店を切り盛りして、稼ぎのない一郎と家族を支えているのだが、実はさくらには逮捕歴がある。姉の洋子は職場の上司と不倫中であり、一般的な意味では結構変わった家族である。小学四年生の妹の桃子のみが「まとも」。そんな中、父親の一郎は、国民年金の督促のおばちゃんと戦ったり、学校に「修学旅行の積立金が高すぎる、おかしい」と訴えに行ったりして、二郎は困惑する。二郎は不良のカツに何度も「急所がひょいと持ち上がる」ような目に遭うが、最後には友達と協力、カツをやっつける。

さくらが、ある朝大事な話があるという。「我が家は、沖縄の西表島に引っ越すことにしました」。この一言で二郎たち親子は沖縄の西表島に移住することになる。二郎は友だちに満足な別れを告げる間もなく、姉の洋子を東京に残し、翌日には沖縄へ。石垣島の有力者のつてで、西表島の廃屋で暮らし始める。会社をやめた姉もやってきて同居をすることになる。そして一家が住みついた土地は、東京のリゾート開発会社が既に買収済みであることが発覚。この後半の西表島での一郎の活躍はなかなかである。そしてさくらもさすが元活動家という腹の座った面を見せる。

サウスバウンド、南へ向かって、最後に一郎とさくらは西表島より南の波照間島、いや多分沖縄信仰である「ニライカナイ」を目指して旅立つ。「ニライカナイ」は、海の彼方、海の底、地の底にあると信じられてきた楽園。南に、というのは既成概念に縛られない新しい所、という意味で使われている。南といえば、情熱・活力の象徴であり、暖かさ・明るさ、絶頂・頂点・ピークの象徴でもある。一郎とさくらが目指すところ、それは情熱をもって生きた時代を今も生きたい、というサウスバウンドなのか。

2009年5月1日 私は別人 シドニー・シェルダン ☺☺☺

アメリカっぽいお話でした。ハリウッドやラスベガスを舞台にしたスターの成功と失意の最後、それを主人公たちの生涯にわたって描いています。主人公は二人、一人はトビー・テンプル、コメディアンとして全米一になった大スター、もう一人はトビーの妻になるジル・テンプル。トビーは小さい頃から物まねが上手な誰からも好かれる好男子、ハリウッドからラスベガスで幸運のきっかけをつかみます。ジルはトビーがスターになってからハリウッドに出てきて下積みの苦労を重ねた中でトビーに出会う機会を幸運につなげます。二人は結婚、トビーはスター街道をばく進、ジルは大スターの妻として絶好調の時期を過ごします。ある時、トビーが脳溢血、一気に奈落の底に。ジルの献身的な介護とリハビリで奇跡的にトビーは回復、芸能界に復活します。ジルの献身的なリハビリは世間に紹介され、スターと献身的な尊敬されるスターの妻という黄金コンビとしてよみがえるのです。再び、大スタートビーと今やもう一人のスターとして取り扱われるジル、世界公演を回る最後の地モスクワで、ジルの昔の恋人デイビッドとの再会、ジルの心は動きますが、今は大スターの妻、この夜、トビーは再度の脳溢血、再起不能の体になります。二度目の奇跡はないと直感したジルはデイビッドとの新生活を夢に見ますが、そうはいきません。しかし、夢を見たいジルはトビーを計画的に殺してしまいますが、世の中は悲劇のヒロインとしてジルを扱います。デイビッドとの結婚をするという、その新婚旅行に出かける船旅の出発の時、ジルが意地悪をしたエイジェントが現れて二人の船出の邪魔をして、まんまと罠にかかったデイビッドはジルを捨てて船を下り、失意のジルは自殺してしまう、こういうお話。成功物語の後の悲劇、面白いといえば面白いですが、安っぽいともいえます。シドニー・シェルダン、一冊読めば他のもだいたい想像がつく、という作家ではないでしょうか。種類は違いますが、ハーレクインロマンスもこの手のシリーズかもしれません。「面白いけれども安っぽい」、まあ、そんなに貶すこともないかもしれませんネ 。

2009年4月30日 アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス著 小尾芙佐訳 ☺☺☺☺

主人公チャーリーは多少知的障害を持っている32歳、IQは68。パン屋のドナーさんのところで働かせてもらっているが、両親に捨てられたことも覚えていない。何をやっても人並みにできないので他の店員は彼をからかってちょっかいを出したりしていた。チャーリーはお人好しなので、自分が笑われていても、人が笑うのはそれが自分に対する嘲笑であっても楽しいこと。人が自分を見て笑いが巻きおこれば、チャーリーにとっては友達の証、その人たちは自分のことが好きなのだと信じることができた。大学の教授から、チャーリーに頭が良くなる手術を受けないか、という申し出がある。いつももっと頭が良くなりたいと思っているチャーリー、他の人たちと同じように本を読んだり書いたり、数学ができるようになることを望んでいた彼にとっては願ってもない申し出だった。

脳の外科手術の実験で、知恵遅れの彼は天才へ、チャーリイ自身が書いた報告が彼の知能の進歩を示します。原文ではどうなのかわかりませんが、日本語では漢字や句読点の使い方、文法など幼稚で読むのにも苦労する文章が、徐々に読みやすくなり、手術から時間が経つにつれて、高度なものへと進化していきます。チャーリー自身の変貌を報告書が示します。しかし、知能の向上がチャーリーにもたらしたものは、手術前に期待していたものとは全く違っていた。チャーリーの知能はさらに進んで、手術を施した教授たちをも凌駕するようになった。チャーリーは、知識の量に反比例するような疎外感を感じるようになる。頭が良くなればもっとたくさんの友達ができる、ひとりぼっちではなくなる、そう信じていた彼は、普通の人では一生かかっても得られないほどの知識を得たが、たくさんの友達は得られなかった。チャーリーのあまりの変化にに誰もが笑いを失い、彼を手術した教授たちも、チャーリーに劣等感を抱くようになってしまった。さらにチャーリーは今まで感じたことのなかった憎しみや驕りといった感情を抱き、多くの人間は賢いわけではない、ということに腹が立つ。彼と同じ手術を受けたネズミのアルジャーノンだけはチャーリーの悲しみと憎しみを理解してくれた。

アルジャーノンはチャーリーと同じように知能を向上させたけれど、段々情緒不安定になり、行動は凶暴になり死んでしまう。チャーリーは自分をそこに見出してしまう。チャーリーが天才になり、その後退行していくときの心の動き、心理、それらの描写が読者にそれぞれの思索の時間ときっかけを与えてくれる。とても印象に残る本です。

2009年4月28日 ただマイヨ・ジョーヌのためでなく ランス・アームストロング ☺☺☺☺

ツール・ド・フランス、聞いたことがある方も多いと思いますが、毎年7月にフランスを中心に行われる自転車レース、1999年から7年連続で総合優勝したのがアメリカ人のランス、彼が睾丸癌に罹って回復し、7連覇するまでの物語、感動します。ガンにかかって回復するだけでも感動するだろうし、ツール・ド・フランスで優勝するだけでも大感激だと思うのですが、回復率2割の睾丸癌と闘って回復、その後の自転車レースへの復帰と連勝につなげる、これはサラリーマンや自営業にかかわらず聞いてみたい話ではないか。アメリカ人の成功物語ではないか、という意見もあると思いますが、それはその通り、成功者の自伝です。しかし、この話に勇 気づけられ自分も何とかできると思える人は多いのではないでしょうか。欧州と米国の文化の違いを受容する米国人の心理やパートナーとの別離など、日本人からみるとわかりにくいアメリカ人の心理にふれることができる描写もあります。自転車に興味がある方、ガンに罹っていて治療中の方、サラリーマンで限界を感じている方、お勧めしますよ。

2009年4月27日 わたしの京都 渡辺淳一 ☺☺☺

昭和26年、高校の修学旅行で京都に初めて行ったときの思い出、琵琶湖の明るさと春の京都の桜の華やかさ、これで千年の都京都の魅力にとらわれた話、札幌の4月といえばまだまだ山には雪、里にも残雪が残っているのに、京都では桜が満開、この差はなんだ、という気づき。壬生義士伝で新撰組の南部藩出身の吉村貫一郎が京都の桜をみて、「南部の辛夷は北に向いて咲く、だがらづえーんだ」という科白を思い出す。渡辺さんが北大の教養課程を終えて、大学専門課程へ進むのに京大を受験するために京都にきて財布をなくし、1ヶ月も安宿に泊まってついでに京都観光をした話も、渡辺さんの人柄が京都の宿のおばちゃんの好意につながった、ということが読者にはわかる。京都ことばには「否定語」がない、という話。京都の人は他人にものを取ってもらうときに「ちょっとそこのもん取ってくれはらしまへんやろか」などというが、くれはる、という丁寧語にしまへんという否定形を挟んでやろか、という疑問型で相手の気持ちを聞く形にして、取ってください、というお願いをする。京都弁には命令形もないことに僕も気がつく。渡辺さんが35歳の時に知り合った祇園の芸妓に多くのことを教わったという話、これも渡辺さんの小説ににじみ出てきていると感じる。東京のクラブは客の数で課金するが、京都の御茶屋は付いた芸者の数と時間でお線香代として課金される、という話、請求書を送るにしてもふと庭に落ちていた落ち葉を入れてくるのは祇園のお茶屋、コンピュータで出力された紙を送ってくるのは薄野のクラブ、請求書送付にかかっている費用は変わらずとも、払う方からすれば祇園に先に振り込む、こうした多くのトピックスで著者がいかに京都に関心を持ち続けていたかを訴えている。京都出身の僕としては面はゆい部分も多いが、その通りですよ、ともいいたくなる僕は、渡辺さんからすれば典型的な京都人でしょう。

2009年4月27日 海の稜線 黒川博行 ☺☺☺

東京から研修に一年期限で大阪に来たキャリア警部補 萩原と、ブンこと私立大学出の文田巡査部長が本物語りのメイン。関西と東京の掛け合い漫才であるが、真剣勝負は東京のキャリアの圧勝、しかし、刑事部長総長の娘でほとんど登場しないがマドンナである伶子をモノにするのはブン、名を捨てて実を取ったのか。関西出身の僕としては逆の設定で行ってほしかった。例えば、京大出でキャリアの警部補が大阪に研修、そこに東京の私立大出身の巡査部長がいて、事件は京大出が見事に解決するが、京都のマドンナは東京出身が攫ってしまう、という、こちらの方が面白くないかな。とにかく、黒川さんの関西弁対東京弁の掛け合いは、ブンと総長の関西弁同士の掛け合いとともに、ボケとつっこみの応酬につぐ応酬で楽しめる。そうか、ここで気がついた。普通のレベルの東京出身者が大阪にきてもこの激しいボケとつっこみの応酬にはついて行けない、キャリアの萩原だったからこそ意識せずとも対抗できたということか。黒川さん、そこまで考えていたか。一艘船主の話、船の保険金の話、どのくらいの時間で499トンの船は沈むのかという話、いずれも単なる取材だけでかける内容なのか、おもしろい推理トリックと併せて興味深い。

2009年4月25日 輪違屋糸里 浅田次郎 ☺☺☺☺

この本と「壬生義士伝」を読んで、京都の壬生に散在する八木家跡地、輪違屋、角屋、島原大門跡、壬生寺などを見て回ったこと思い出します。芹沢鴨が暗殺された部屋に案内されたとき、ほかの見学者たちは説明者に従って屋敷を反時計回りに見学、僕は一人で反対周りをしていました。説明者が鴨居の向こうで「この刀傷が芹沢鴨のつけたもの」とか言っているので「どれどれ」とかいいながら触ったら鴨居の向こう側でこちらをみていた他の見学者たちが一斉に「何をするの」という顔で僕を見つめる、何か悪いことでもしたのかと鴨居の反対側に回ると「刀傷には絶対にふれないでください」と墨守されているではないですか。ちょっと恥ずかしい思い出です。

この本の題名、輪違屋とは京都島原の置屋、糸里は輪違屋にいる天神と呼ばれる芸妓です。島原の芸妓は禿(かむろ)と呼ばれる使い走り、そして半夜、鹿恋、天神と出世します。そして島原の芸妓の最高位を「太夫」(たいう)と呼び朝廷から正五位の位を授けられたそうです。島原では自分の置屋の太夫を「こっちのたいう=こったい」と呼んでいたという話もありました。島原の天神・糸里と吉栄、菱屋の妾お梅、前川のお勝、八木のおまさ、この5人の女と新選組の隊士たちが幕末の京都に起こる様々な出来事に絡み合って描かれています。将軍護衛の名目で集められた壬生浪士達。時間がたつごとに狼藉が目立つようになり、京都の町衆からも好かれず、芹沢が島原の花魁を斬殺したことから、その花魁を姉のように慕っていた糸里は、壬生浪士達の内部抗争に巻き込まれて行きます。

本書の主人公は実は芹沢鴨、従来芹沢は酒乱で乱暴者という印象で良い人物に描かれたことはありませんが、本作品での芹沢は教養があり剣が強く国の将来を憂う立派な武士。一方、土方は陰険な策謀家、自分に惚れている糸里を芹沢暗殺の策謀に利用できる男。近藤・土方・沖田といったメンバーは百姓や足軽上がりの人物として描かれます。近藤は石頭で武士になりたいと願いながらもなりきれない男、永倉は正義漢でいいやつ。芹沢の愛人のお梅も、菱屋の愛人と蔑まれながらも傾きかけた店を立て直すいい女、一途な彼女に魅力を感じる読者は多いのではないでしょうか。

新撰組については結局あまり詳しいことはわかっていないことが多く、こうした物語を書く立場からすると自由度が多い、つまり話を作れるということらしい。この本では芹沢暗殺とは守護職松平容保が近藤・土方らに課した踏み絵。百姓や足軽上がりの人間が侍になるには剣の腕が立つ本物の侍を斬って初めて侍になれるというもの。

土方を慕う糸里や平山の子を身籠った吉栄らを使い、土方や沖田らは、芹沢一派の暗殺を計画し実行する。土方は芹沢らを暗殺した後、利用した糸里と吉栄までも殺そうとするのですが、糸里が毅然とした態度で吉栄を守り、土方も糸里の前に手が出せなかった。その後、吉栄は糸里の生まれ故郷で子供を産む。土方と決別した糸里は花魁となり、吉栄とその子の行く末を会津の殿様に約束させる。愛する人とともに生きる事ができなかった糸里の思いを、もう一人の吉栄が受け取り、生まれた子供をしっかりと育てていく決意をする。この終章はしっかりと生き抜く覚悟を決めた二人の女の強さがすばらしく描かれていたと思います。

2009年4月25日 翳りゆく夏 赤井三尋 ☺☺☺

江戸川乱歩賞受賞作品。20年前に起こった誘拐事件、犯人は身代金を奪取したのだが警察の追跡を受けて事故を起こして死んだため、誘拐された赤ん坊の行方も分からない。その犯人には比呂子という娘がいた。比呂子はその後親戚に引き取られ、実の子供同様に育てられ、成人して東西新聞社の就職試験を優秀な成績で合格した。その時、週刊秀峰に「誘拐犯の娘を記者にする大東西の公正と良識」という記事が載った。東西新聞の入社が内定している比呂子は、20年前に横須賀で起きた誘拐事件の犯人の娘であった。雑誌に記事が出たことで、比呂子は東西新聞の内定を断ろうとしていた。人事厚生局長の武藤や、社長の杉野がこれを押し留めようとした。

この記事を出した週刊秀峰の意図を疑うとともに加害者家族への二次的社会的制裁に問題を感じる東西新聞社の上層部は、事件当時謎を残しながらも被疑者死亡のまま終決とされてしまったこの事件を洗いなおす事にした。担当を命じられたのは梶、彼は今は人事厚生局長となった武藤とともに20年前、横須賀支局で事件の取材に当たっていた。梶は当時事件を担当していた退職刑事の元を訪れ、事件の詳細を再確認する。事件では横須賀市内の総合病院で乳児が行方不明になった。そして病院長のもとに五千万円の身代金を要求した脅迫状が届く。犯人は警察の裏をかき、身代金を手にするが、少しの気のゆるみから警察に追われることになり、追跡の末共犯者の女性とともに事故死、誘拐された乳児も行方不明になったのだった。

梶は当時の関係者から事件についての詳細を知るに従って疑問を抱く。比呂子の父親は本当に犯人だったのか。梶は一つ一つのできごとを丹念に洗い出していったとき、今まで見えなかった真実が見えてきた。全体構想や挿入されるプロットの一つ一つがとてもよく練られ、考えられた作品。登場人物の心理状態も細かく描写されていて、なにげない言葉に埋め込まれた事件の真実への伏線も良い。新聞社が会社を挙げて誘拐犯の娘を社会的差別と偏見から守り、そのことを記事にした週刊誌の編集長を追いつめる。新聞社はその娘を日本での好奇心だらけのの目に晒さないため、ワシントン支局勤務にして入社を実現させる。加害者家族への差別は理不尽だとして敢然と戦うマスコミを描いている。社長がそこまで新人人事に口を出すのかと疑う方もいるかもしれないが、そんなことは作品上大きな問題ではない、そういう正義感ある社長がいるかもしれないのである。

2009年4月25日 ハゲタカ 真山仁 ☺☺☺☺

真山さんがセミナーなどで語るのは「本当にそうなのかをいつも疑え」常識と言われていることを疑う、ニュースや新聞で報道されていることでも、いろいろな角度からものを見てみることが重要。社会での出来事を単一価値観でしかとらえられないということは大きな間違いに向かって国全体が進んでしまう危険性を孕んでいる。「ハゲタカは日本を食い物にする悪者」ということ、日本の企業が倒産するのも、日本企業の株が買収されるのも、日本で失業者が増えたのも、格差社会になってしまったことも、ハゲタカファンドが格安で日本企業を買いあさったせいだ。日本の経営者は自分の責任をハゲタカファンドに転嫁して責任逃れをしていないか、などという趣旨。この本「ハゲタカ」はこうした著者の主張から生まれたのか。

ニューヨークでジャズピアニストを目指していた、鷲津(この名字もハゲタカからきているのか)は企業買収のプロ、「ケネス・クラリス・リバプール」のアルバート・クラリスに見込まれてニューヨークの投資会社の社長に転身。日本ではバブル経済絶頂期であった。その後バブル崩壊後の日本で、破綻寸前の銀行から債権を買いとって、瀕死状態の企業を次から次へと買収する。一方、4年前に割腹自殺を遂げた、花井淳平のことも調べていた。大蔵省と当時の取引先の銀行に騙されたという花井には、いったいなにがあったのか。バブルの崩壊後、証券会社や銀行が破綻した背景を盛り込み、破綻寸前企業をむさぼるハゲタカファンドを描く、元新聞記者の真山仁の「ハゲタカ」が本書である。

1997年、大手都市銀行「三葉銀行」総合企画部の不良債権処理チーム資産流動化開発室室長芝野健夫は、不良債権を一括して売却処理する「バルクセール」の責任者として、「ホライゾン・キャピタル」代表取締役として日本に送り込まれた鷲津と出会う。ニューヨーク駐在経験が長い柴野は企業再生のプロではあるが、政治家や反社会的勢力と癒着して債権を隠したまま処理する会社上層部のやり方に不満を感じていた。栃木県の名門リゾートホテル「ミカド」を経営する松平家の長女貴子は父親で経営者である重久の反対を押し切ってスイスのホテル経営を学ぶ大学に留学、帰国後も「ミカド」に戻らず外資系ホテルで実績を上げていた。しかし、バブル崩壊と放漫経営で「ミカド」は二進も三進もいかない状態になっていた。鷲津、芝野、貴子の三人の「人間ドラマ」が描かれる。

1997年から2004年という間に多くの国民が深く知ることなく進んでいた不良債権処理や企業破綻と再生、企業買収の描写に引き込まれてしまう。ハゲタカがやっていることは日本を食い物にすることなのか、「それは本当なのかを疑う」という真山さんの指摘通りの描写です。一族で私欲を貪って経営しているオーナー企業があって、経営が行き詰っているのにもかかわらず、贅沢三昧をしている人間にはその経営責任を取らせるということも描かれます。続編の「ハゲタカ2」とあわせてお薦めです。
 

2009年4月25日 プラハの春 春江一也 ☺☺☺☺☺

著者が外交官として実際に赴任した、チェコスロバキアでの体験をもとに書いた小説「プラハの春」。現地では日本人は第三者、特に外交官という立場では客観的な事件として出来事をとらえることができたのだと思うが、物語は「プラハの春事件」とは利害関係のない堀江亮介という外交官の視点で書かれており、事件の進行を第三者的視点から見るという形で読むことができる。実際に赴任していたという経験が生きていて、非常に細かく歴史的背景が書かれている。「プラハの春」は1968年、チェコスロバキアで起きた自由を求める民衆運動。自由を勝ち取ったかに見えた「プラハの春」が、ソ連軍という共産主義国家に蹂躙される様子を、日本大使館勤務だった外交官の著者の体験をもとに主人公の堀江が語る。彼が愛する東ドイツ人女性カテリーナは、大学教師の反体制活動家。プラハの街に押し寄せるソ連の軍隊、しかし、プラハの町は奇跡的に中世の街並みを保っています。物語に出てくるレストラン、ホテル、ビアホールなどが、今も健在であることを知るとうれしくなる。「プラハの春」の続編、「ベルリンの秋」「ウィーンの冬」もおすすめ。

2009年4月24日 平成宗教20年史 島田裕巳 ☺☺☺☺

何と言っても、「創価学会は必ずしも宗教組織というよりもむしろ民族に近い」というご指摘、これは至言です。初めからいうと、オウム真理教、幸福の科学、統一教会、創価学会、法輪功、真如苑、パナウェーブ、スピリチュアル・ブームなどという宗教が取り上げられている。酒鬼薔薇聖斗と西鉄バスジャック、秋葉原トラック突入事件、これらはオウム真理教事件を幼心に刻まれた同世代が時をまたがって犯した事件、という分析にも目から鱗でした。創価学会は日蓮正宗と喧嘩別れ、以後日蓮正宗側には創価学会の金が入らなくなり、創価学会側は法事や法要、葬式ができなくなった、戒名を廃止、以後友人葬になったこと、生長の家、ブラジルでは信者250万を越えている、こういう話は知りませんでした。「日本の10大新興宗教」の続編として存在感ありますな。

2009年4月23日 日銀券 幸田真音 ☺☺☺

物語は、経済学者の中井が英国の友人に誘われて南アフリカに旅をして、旅先で若い女性に出会うところから始まる。2003年に日銀の政策審議会委員になった中井、その後に史上初の女性副総裁として登場する芦川笙子はなんと南アフリカで出会った女性だった。この60歳を超えた中井と39歳の芦川笙子とのアフェアを絡めた経済小説なのだが、中井と笙子の恋物語が嘘くさくて、この小説には要らないのではないかと感じた読者は多いのではないか。物語には短資会社のディラーである三上とその部下も登場させ、先輩が後輩に教える形で短資市場の状況を読者に説明している。長引く異常なゼロ金利状態、日銀による量的緩和政策が危うい前提に立っていることを理解しながらも、緩和政策をやめられない日銀とその状況のなかで危機感さえも薄れてきた短資ディーラーの状況も解説する。その後2005年に笙子が仕掛ける、日銀による金利引き上げ、金融引締め、その後に続くドル安、米国債暴落、日本国債の外人買い、というお話。初老の日銀委員と39歳の美人副総裁の恋物語などというへんてこな挿話は絡めずに、日銀の内部からみた日本経済の危機的状況を中心に物語を進めた方がすっきりとした小説になったのではないかと思う。

2009年4月18日 シマノ 世界を制した自転車パーツ 山口和幸 ☺☺☺☺

シマノの「デュラエース」、自転車乗りならまあ誰でも知っている自転車パーツの最高級品、実はジュラルミン+エースの造語だったことが紹介されています。1999年、シマノは自転車レース「ツール・ド・フランス」を制しました。「デュラエース」搭載車が初優勝を遂げたのです。その後ツール・ド・フランスを4連覇しました。ランスアームストロング用のペダル、ツール・ド・フランスでの勝利、冷間鍛造、つまり熱を加えず金属を室温で、金型を用いて圧縮成型する技術、ギアチェンジをするときにスムーズにギアが変わる発見、緻密で積極的な海外戦略などシマノが日本メーカから世界のシマノに飛躍する歴史が紹介されています。このシマノもはじまりは、堺の小さな町工場でした。シマノがヨーロッパでの自転車ロードレースを意識して、デュラエースを発売したのは72年。自転車業界で初めて、変速機、ブレーキ、クランクなどを一つのコンポーネントセットとして設計、発売しました。僕の大学の同じクラスのH.K君がシマノに就職した、ということも思い出します。そういえばうちの学科は金属材料を専攻する人が多く、H.K君はひょっとしたらジュラルミンを研究していたのか。僕も卒論のテーマはチタン銅合金の疲労特性、先読みできていればシマノに入れていただき、チタン製のコンポーネントを開発するチームに、と妄想が広がります、これが77年。僕がロードレーサーを初めて買ったのは78年、当時デュラエースは買えなかったので、Shimano600というコンポーネントにしてもらい、とにかくDura-Aceというシールを自転車に貼ってもらいたかったので、クランクだけはDura-Aceにしたのを思い出します。そのシマノ、1979年には空気抵抗が少ないことをうたい文句にした「デュラエースAX」を発売するのですが、ペダルが壊れたりして返品が殺到、経営が傾く危機に見舞われました。1981年には開発が独善的だったとの反省から営業企画部を立ち上げ、お客様の声を聞き市場のニーズを探ることで巻き返しを図ります。

ブレーキとシフトレバーが一つになったSTI、ライバルサンツアーとの競り合い、シマノレーシングチームの存在、アトランタオリンピックを目指した戦い、などなど、技術者魂とでもいう逸話がいっぱい紹介されています。

シマノの技術者は、。イタリアのコンポーネントメーカーでヨーロッパではシェア占状態の名門、カンパニヨーロが実は大好きな技術者たちがそれに負けないものを日本で作ろうと考えているのです。自分が考えた技術に自信があるなら堂々と主張する文化、がシマノを発展させてきたのでしょう。本当にエンドユーザが求めているものが売れるもの、営業が「これは売れそうだ」という話を鵜呑みにしてはいけないんだ、という技術者魂がある。好きなことを仕事にするのが技術者にとっては最高の生き甲斐になる、シマノというのはそういう会社なんですね。
 

2009年4月17日 オリガ・モリソヴナの反語法 米原万里 ☺☺☺☺☺

米原さんの小説ですが、実体験に基づいたお話なのだと思います。物語は1960年のプラハで始まります。父親の仕事の都合で現地のソビエト学校に通う志摩が主人公。物語の舞台はプラハのソビエト大使館付属普通学校。「私」がこの学校の舞踊教師の人生を追っていきます。全体の状況は「嘘つきアーニャ」と同じです。「シーマチカ」と友人たちが呼んでいる日本人女性「ヒロセ志摩」の視点から語られます。語られる対象はこの学校の舞踊教師、自称年齢50歳、結婚歴5回、優雅で、ファッショナブルで、クラシックバレーから各国の民謡、タタール女の踊り、ベトナム舞踊、ツイスト、チャールストンも踊ってしまうチェコ国籍のオリガ・モリソヴナです。オリガ・モリソヴナとはソビエト学校の舞踊の先生の名前で、相当なお年なはずなのに引き締まった体で、何よりも彼女の特徴は褒めたらその裏返しであり、それは痛烈な罵倒だということ。この先生のダンスの授業、先生の「罵倒」から始まります。子供たちはみな、先生が「すばらしい、天才的」と言うのは「うすのろで全くだめ」の意味だと知っています。学校では「反対の内容を述べることによって逆に自分の考えを相手に強く認識させる表現法」即ち「反語法」を駆使し恐れられているのですが、モリソヴナ先生は生徒には畏敬の念をもたれた強い印象を与えた先生でもありました。大きな口に真っ赤な口紅、染めた金髪はライオンのたてがみ、マニキュアをつけた長い爪からは血が滴り落ちてきそうな、派手なモリソヴナ先生の指導した学芸会の踊りは大好評、その反語法とともにこの学校にとっては欠かせない存在でした。

舞台は1992年2月のモスクワに飛びます。東京でバレリーナになる夢を捨ててロシア語通訳をしながら息子の竜馬を育てた志摩は、30数年ぶりでソ連邦が崩壊した翌年モスクワに出かけ、エストラーダ劇場のロビーで、この劇場の前身で、1936年まで続いていたモスクワ・ミュージック・ホールの展示写真のなかにモリソヴナ先生を見つけます。先生はディアナという芸名でした。ここから志摩の調査が始まります。彼女はプラハ時代の学友カーチャを探しだして、二人でモリソヴナの秘められた過去の謎を解くためにモスクワ市内を訪ね歩きます。現在のモスクワ・エストラーダ劇場のプリマであるナターシャもこの調査に加わります。残された時間は、志摩のビザが切れるまでの4日間という設定。

モリソヴナ先生の友人でありソビエト学校のフランス語教師エリオノーラ・ミハイロノヴナがソ連スターリン体制の時代に辛酸なめにあい、如何に生き延びてきたか、物語ですのでフィクションですが、チェコに実際に暮らしていた米原さんが体験したスターリン体制下の現実は、家族の一人にでも疑がかかるとその他の家族や係累まで逮捕されラーゲリに入れられ拷問されるという苛酷な歴史と重ね合わせ、モリゾブナ等がそうしたその時代の体制の被害者であったことが語られています。

プラハ時代の志摩は転入してきたレオニードに夢中になったのですが、彼を目の前から奪ったのは、転入してきたジーナでした。ジーナは東洋人の顔をしているがすばらしいバレーを踊ります。不思議なことに、モリソヴナ先生も、古風で美しいフランス語とロシア語を話すエレオノーラ・ミハイロブナ先生の二人とも、このジーナを「私の娘」と呼んでおり、ジーナはこの二人に「ママ」とよびかけている。そして3人は一緒に住んでいるのです。

オリガ・モリソヴナには謎がたくさんありました。彼女はソビエトから派遣された教師ですが、強烈な個性を持ったオリガ・モリソヴナが、どうして党機関の審査をパスできたのか。そして、時々見つけてしまったフランス語教師のエレオノーラ・ミハイロヴナとの密談。「アルジェリア」という言葉への過敏な反応、「バイコヌール」という言葉を聞いたときに弱々しい悲鳴とともに失神したエレオノーラ・ミハイロヴナ。それをそばで見たときのオリガ・モリソヴナの表情。この二人の先生の過去が少しずつわかってきます。二人は刑を終え逃げ延びたのがチェコのプラハ。そこで二人はソビエト学校の教師となり、志摩やカーチャと出会うことになったのです。

謎を解くカギはエストラーダ劇場にあったのです。ナターシャがこの劇場の当時の衣装係マリヤ・イワノヴナを見つけ出した。劇場で踊っていたダンサー ディアナの本名はバルカニヤ・ソロモヴナ・グットマン、通称バラであった、と彼女は言います。名前が違うとは予期していませんでした。調査は最初から大きな壁にぶつかります。志摩の語学者としてのカンが救いなり、話は意外な発展をします。「バラの母親はフランス人で『本国で喰いっぱぐれてロシアに流れてきた』というマリヤの一言から、志摩はモリソヴナ、すなわちバラのロシア語がフランス訛りであったことを確認したのです。ロシア語では限りなく豊富な罵倒語があって、移民の子供であるためにこの手の言葉を使いこなせなかった先生が、それを補うために、彼女特有の反語法を使用していた、という事実まで分かってきます。

バラは、ミュージックホールの閉鎖後、ボリショイ劇場のキャラクターダンサーになっていましたが、1937年ロシアの内務人民委員部に逮捕されました。彼女は、同棲していたピアニストのリョーシャに愛想をつかして、以前からバラに熱を上げていたマルティネクというチェコの外交官と1ヵ月後にチェコで結婚することとし、マルティネクは彼女を残して帰国します。バラは彼を停車場で見送った直後駅頭で逮捕されたのでした。嫉妬したリョーシャが密告したのです。

バラは、中央アジアのバイコヌールのラーゲルに送られ、8年の厳しい年月を生き抜いたことを、志摩たちはつきとめました。ラーゲル生き残りの女性たち、舞台のディアナを忘れていない人々、そして、スターリンの「粛清」を追及・糾弾し、被害者の救援をつづけているボランティア団体「メモリアル」など多くの人々の協力の結果でした。「メモリアル」には、「バルカニヤ・ソロノヴナ・グットマンは1938年1月21日に銃殺された」という記録がありました。不思議なことに、ラーゲルの囚人、そして同時に医師として生き抜いたとき、バラの名前はバルカニヤ・ソロノヴナとしてでなく、オリガ・モリソヴナに変わっていたのです。

バラより少し遅れて彼女の腹違いの妹も別件で逮捕されてこのブトゥイルカ監獄に一時収容されていたこともわかります。姉妹は監獄の中で再会、妹は、自分は夫に連座して逮捕されただけであるから流刑ですむのですが、スパイ罪の姉は死刑を宣告されることを予知していました。ここで二人は「変身」するのです。妹は消化器専門の医者でしたが、胃ガンに蝕まれており、職業柄自分の死期の近いのを知っていました。彼女は、どうせ死ぬなら、姉に成りすまして銃殺される運命を選ぶことを決意し、自分と名前を交換しよう、とバラに申し出ます。この妹の名前こそオリガ・モリソヴナだったのです。姉は躊躇しながらもこれに同意、妹はブートヴォ監獄に送られて銃殺され、バラは妹の名前で中央アジアに流刑となったのです。

バラはやオリガ・モリソヴナに変身したからには、中央アジアの収容所でも医師として行動しなければなりませんでした。彼女もまた、軍医だった父の遺言に従って一時医学校に入学して勉強したという経歴があったのです。その後ダンスへの情熱が、彼女に医学校の中退と舞台への道を選ばせていたのでした。バラは、医学校時代の知識を生かして医師 オリガ・モリソヴナ・フェトとして、8年間の刑期中、収容所の中で罪無くして囚われた人々のために献身的に働いたのでした。

収容所の医師オリガ・モリソヴナが実はバラであることに気が付いた女性が収容所に2人いました。彼女たちはこの秘密を誰にも話しませんでした。しかし、うちの一人、ガリーナ・エヴゲニエヴナは、ソ連崩壊後、アルジェリアと囚人たちが名づけていたこのカザフスタンの収容所の経験を雑誌に発表したのです。しかし、彼女はこの記事の中でも、この「入れ替わり」のことだけについては書きませんでした。

最後に彼女らは、志摩の「恋敵」であったジーナを探し出します。ジーナは同じくスターリンの「粛清」の犠牲になった両親たちの子供を収容していた孤児院に入れられていたのですが、エレオノーラ・ミハイロブナ先生と、オリガ・モリソヴナ先生の二人によって助け出されたものであることが判明します。彼らがどのようにしてソ連からプラハに逃れ、国籍までチェコ国籍に変えられたのかという経過も明らかになりました。すべてはバラと結婚するはずであったチェコの外交官の助けによるものでした。そして最後にジーナは、志摩が片思いとしてあきらめていたレオニードが本当に好きだったのは、ほかならぬ志摩であったことも話してくれます。

「オリガ・モリソヴナの全てが反語法だったのだと思えてきます。喜劇を演じているかのような衣装や化粧や言動は、その裏のむごたらしい悲劇を訴えていたのでしょうか。『えっ、もう一度言ってごらん、そこの天才少年!ぼくの考えでは・・・だって!!フン、七面鳥もね、考えがあったらしいんだ。でもね結局はスープの出汁になっちまったんだ。分かった!?』 オリガ・モリソヴナの反語法は、悲劇を乗り越えるための手段であったのだ。」 米原さんは、スターリン時代の人権を踏みにじる苛酷な歴史を暴きながら、それにも耐えてその悲劇を乗り越えるために生きてきた女性の強さを描いてくれました。モリソヴナは言います。「ああ神様! これぞ神様が与えて下さった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな才能はじめてお目にかかるよ! あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」

米原さんはすでに亡くなり、新しいエッセイや小説は期待できないのですが、この本のような語り口、米原さんに大いに影響を受けた人たちが、米原さんのような批判精神、反骨精神、直截な語り口のいい面を引き継いでくれることを期待してやみません。すばらしい小説、本当に心に残しておかなくてはならない歴史の話です。

2009年4月16日 うたかた 渡辺淳一 ☺☺☺

不倫小説ですね、このように男性に都合のよい状況があるのでしょうか。いったい誰が読者層だと想定しているのか。30-40歳代の男性なら、「このような状況になりたいものだ」と想像するかもしれませんが、50歳になった男性なら、このような状況はないことはわかるはず。30-40代女性は、「このような女神のような女性がいるわけがない」と考えるのではないかと思いますが、意外にも30-40代女性が読者層なのかもしれないと感じます。おすすめはしませんよ、しかし、ちょっと覗いてみたくなるような世界かもしれません。

2009年4月13日 疫病と世界史 ウイリアム・H・マクニール ☺☺☺☺☺

私たちが世界の歴史、として教わってきたことにはXX人・XX民族の支配や征服などがたくさんあるが、それらを人間という器の大きなマクロな征服と位置づけ、ウイルスや病原菌・寄生虫などを原因とした感染症などによる罹患・病死などによる滅亡をミクロ支配、としている。この視点で見ると、マクロ支配の裏側にはミクロ支配の果たした役割が非常に大きい、という指摘を狩猟時代にさかのぼって例を挙げながら論証しようとしている。

古くは森林から草原に進出しようとしていた人類を阻んでいたのはツエツエ蝿が媒介する睡眠病、原因となるのはトリパノソーマという病原体。火や武器を手にした人類が平原に住むカモシカやバッファローを狙って草原に出ることは、ライオンや虎にはもはや阻止できなかったはずだが、実際には一定のバランスを持って、人類を森に閉じこめていた、そのバランスをとっていたのがツエツエ蝿だった。現在でもサバンナに生息する有蹄類が存続できた理由をこのように説明している。

また、数万年前から1万年前までかけて起こった氷河期から間氷期への移行に際して、人類は衣服をつけることで熱帯から温帯、寒帯までも住居可能地域にした。このためそれ以前までは保たれていた生物同士の平衡状態が崩れてしまった。生物学的進化時間である数百万年ではなく、数千年、という人類の世界への分散は人類以外の数多くの種の絶滅を意味していた。この結果、感染症という意味でも世界拡散が起こった。

これ以降、人類は食の確保のために農業を営み定住するようになるが、ここに新たな感染症への暴露が生まれた。同じ水を飲み、同じ種類の寄生虫に寄生されることによる風土病の誕生である。時期としては中国、インド、メソポタミア、エジプトなどの文明で、ここからさらにユーラシア大陸全体への人類拡散が始まる。文明の拡大が東西には早く、南北には時間がかかる理由の一つが感染症との戦いだった、という指摘もある。気候の違いによる農作物や食料の開発と併せて歴史家が本来指摘すべき点であるが軽視されているという。中国黄河文明が揚子江地方に拡大するのに5−6世紀かかった理由の大きな要因が中国南部揚子江地方の風土病だった、という指摘もある。

感染症は多くの人の集積地での方がより多様な交雑が起こって、免疫を得るという面では人類は感染症への耐性を持つ、つまり都会人のほうが田舎の人より感染症に強い傾向がああるという。欧州人が北米、南米大陸に来たときに武力で原住民たるインディオたちを征服したのか、という問いには、都会人である欧州人は多くの感染症に免疫を持ち、田舎人であるインディオは彼らにとって新しい感染症の麻疹、発疹チフス、天然痘などの猛威にひとたまりもなかったという。感染症での痛手によって戦意を喪失したインディオたちは、征服者の宗教にもひとたまりもなかった。つまり元々信じていた神の代理人たちが感染症で次々に死んでいく一方で、征服者の伝道師たちは元気である、この事実を目にした人たちが征服者たちの宗教に鞍替えしない理由を見つけるのは難しかったはずという指摘。

近世になってもコレラ、ハンセン病、結核、黄熱病、マラリアなどなど、その原因と予防法が分かってきたのはホンの最近のこと。地球人口急増は産業革命以降、などといわれているが、それは感染症対策が出来てきて以降であるという。ガンやエイズなどにもそのうちに対処法ができると考えられるが、インフルエンザのように、ウイルスが容易に変異することで、多くの感染者を出す可能性があるウイルスが悪性に変異して劇症化することによる人類への影響は未知である、という点も指摘。公衆衛生の発達とワクチンや医薬品の開発で人類人口は未曾有の増加を示しているが、食料調達という意味ではもはや限界を超えている。感染症という観点からも、限界を超えた人口密集を世界各地に広げている現状が、新たな感染症に対して非常に脆弱性を高めている、という指摘は傾聴に値する。

1976年に発刊された本が文庫になって2007年に出されたのがこの本、一冊1200円、上下で2400円という文庫本にあるまじき高額であるが、すごい本、新型インフルエンザに関心がある方、人類の歴史について視点を広げたい方、読んでみて欲しい。
 

2009年4月13日 エンゾ・早川の体型大全 エンゾ・早川 ☺☺☺

自転車乗りなら聞いたことがある人も多い、エンゾ・早川、茅ヶ崎でサイクルショップをやっているらしい。自転車に乗っていると、競輪とか短距離ダッシュ専門でなければ足や腹回りは細くなり、無駄なお肉はなくなっていくものですが、それを自転車という言葉をできるだけ使わず自慢げに話すとこうなる、という本かな。やせたいので自転車を始めました、という人も最近はいると聞きますが、プールで泳ぐときに、ゴルフの後お風呂にはいるときに恥ずかしくないように自転車を始めました、という話も聞きます。「自転車は最良の薬」ということわざがドイツにはあるということも聞きますので、やはり自転車に乗ることは健康にいい、ということ。エンゾ・早川さんはそれを理論に頼らす、しかしご自身の学校時代の専攻を小出ししながら、経験に基づく主張と価値観の披瀝で読者を説得しようとしている模様、1300円ですから、安くも高くもない値段設定です。健康のために自転車にでも乗ろうかな、と考えている人がまさにそのタイミングで読めば「自転車を買おう」と決意できる本、として推薦します。

2009年4月11日 「分ける」こと「わかる」こと 坂本賢三 ☺☺☺

第1章 「わかれ」の論理 —— 分類と統一
第2章 「わかり」の論理 —— 認識と理解
第3章 「わけ」の論理 —— カテゴリーと範疇
第4章 「ことわけ」の論理 —— 抽象と階層組織
第5章 「わかる」の論理 —— 意義と目的

人間は何事も体系化したいという願望をもっている。自分で分かるためにはまず「分け」る必要がある。ごちゃごちゃとして理解できないものでも、理解できているもの、既ににわかっているものに分けることによってわかるようにする。ただ無闇に分けただけではだめで、分けたものが組み合わさってできていたのだと、元のものが組み上げられる形で「分け」なければならない。「分ける」ことは既存知識に位置づけられることなのであり、分類することである。分類はわかるために必要なことなのだ。

インターネットによって、GoogleやYahooなどの情報検索サービスが誰でもできるようになった結果、知識を獲得することが簡単になったように思える。しかしそこで検索されることは、分類やカテゴライズというプロセスを抜きにした、単なる作業結果だけであることを認識、理解する必要がある。

人間に関係するあらゆるものを分かろうとするために、世界中で昔からさまざまな分類法が試みられてきた。「カテゴリー」というものである。西洋ではアリストテレスの「10のカテゴリー」から、カントの純粋悟性のカテゴリー、シェリングのモナスに還元されるカテゴリー、そしてヘーゲルのカテゴリー間の相互関係が新しいカテゴリーを発展的に生み出すという弁証法的カテゴリー論と、物事をなんとか理解するためのフレームワークをどのように決めるかという話なのだが、本当にいろいろなカテゴリーの考え方があるものだ。アジアでも、釈迦の教えである仏教をどのように並べるかということが仏教においては重要なことであり、「教相判釈」と言われている。「大乗起心論」における体、用、相の分類は、日本思想に重大なな影響を与えている「華厳思想」の重要要素であり、「連歌」をはじめ私たち日本人の考え方の底まで浸透していると考えられる。坂本さんの主張で面白いのは、東西の分類方法を単純に並べて考えているのではなく、共通性を取り出し、概念は結局は同じであると見抜いているところ。そして分けることの論理として三つの教訓をあげている。
1. カテゴリー、分類は物事を理解するために人間がつくった枠組みであり、存在の区別でない。
2. カテゴリーを作成する場合には、「その他」や「雑」という項目を作ることは有用。
3. 「わかる」とは、そのカテゴリーがわかるということであり、「分かり合う」とは、相手の分類の方法がお互いに分かり合うことである。
この本は論理的思考が必要な方、ロジカルシンキングのための必読書、オススメ。
 

2009年4月6日 「頭がいい」とは、文脈力である。 斉藤孝 ☺☺☺

著者はいいます。「記憶力というものは年とともに衰えてくるなどといわれているが、40から50歳代の人間でも集中すれば、中高生よりも覚えるのが早くなることがある。子どもはその気になるとじっと集中し、素直に口に出して言って覚えるから記憶する。子供にはこんなことも繰り返す素直さがあるから、覚える。スポーツでもうまい人を見ただけではうまくはならないように、文章でも声に出し、頭の中で映像化したり、自分の声と頭の映像を結びつけることで覚えることができる。どんな教科も言語で表されており、全ての能力は国語力である。」

僕の会社の大先輩に、毎週月曜日になると呼びつけて週末に読んだ本について細かく説明する方がいました。結構細かく説明を受けるので大体中身がわかります。その人は何のために毎週毎週それをやっていたのか、記憶するためだったんですねえ。人に話せば覚えますから。一歩進めて、本を読んでいるときから「月曜日にはあいつに説明するからちゃんと頭に入れよう」と考えながら読むのだそうで、読み方からして気合いが入っています。

斉藤さんによると「記憶力が人間の生活環境を快適にし、仕事を進めるためにも重要な役割を果たす。人は、自らの経験をもとに進化してきた、経験によって『こうなったときはこうするといい』とか『こうした時はこれがうまくいくこつ』というように成功ケースと失敗ケースを記憶していくことで、仕事もスムーズに進む。アイデアというのは99%、過去の経験値や実績あるもののアレンジであり、経験値の多い人、記憶力のいい人ほど良いアイデアが浮ぶ。普通の人でもアイデアが浮ぶが、これをなかなか形にできないし、気をつけていなければ何を思いついたのかも忘れてしまう。文字はこのアイデアを外部記憶として補うものであり、文字に残さない人は脳が老化する。また声に出すことで、自分の声と文字や映像をリンクさせることができ、記憶を自分のものにすることができる。聞いた話について自分で説明できない人は聞いていないのと同じ、どんな名文を読んでもそれを人に話せないのではできないというのは読んでいないのと同じ。」

確かに、自分の経験とあわせてみてもハラ落ちがする話、僕も英語を勉強していた頃2年間、毎朝1時間くらいかけて英語新聞を音読していた期間がありました。効果があったかどうかはよくわかりませんが、自分の声と記事内容が自分の目と耳から二重奏で入ってくるので、記憶が確かになる、かもしれないと思ったものです。

斉藤さんは「頭のいい」状態を、段階に分けることで、そのレベルを次のように定義しています。
Dランク 「意味は理解できなくても覚え、再生することができる力」→丸暗記
Cランク 「記憶に基づいて自分で再構築できる力」→要約
Bランク 「知識や情報を自在に組み合わせて、自分自身で新たなアイデアを出せるの能力」→思いつき
Aランク 「新しい意味を見いだせる力」→コンセプトの創造

Aランクまではいかなくとも、Bランクまでは誰でも訓練で鍛えることができると、方法論を展開。書き言葉で「話す」練習をすること。書くように話すことを心がけ、最初の一語を最後にどうやって着地させるかを考えながら話すだけでも、相当、脳味噌が鍛えられるとのこと。

「たとえば」は文脈を散らし、「つまり」は要約、具体と抽象を往復できる力、これも文脈を作っていくときの一つの工夫です。つまり、言葉の意味を考えて適切に使い、場の雰囲気や前後左右の文脈を捉える力が頭の良さであり、それを鍛えることが大切。
「文脈力」とは、
・連なる意味をつかまえる力
・正しく意味を読み取る力
・場の空気を読み取る力
これが「文脈力」であり、「頭がいい」ということであるとまとめています。

三色ボールペンの効用。
青 客観的に見て「まぁ大事」と思ったところ誰が見てもある程度大事だというところに引く。赤線と違って多く引きすぎても構わないので、気楽な気持ちで引きましょう。青線を引いたあとに、赤線を引きなおすのもOK。

赤 客観的に見て「すごく大事」だと思ったところ自分の独りよがりではなく、誰が見てもここが最重要という箇所に引く。赤線の部分だけを読んでいけば、文章の内容がおおまかに分かります。赤線はむやみに多く引きすぎず、本当に重要な部分に限定しましょう。

緑 話の要点でなくても、自分が「おもしろい」と思ったところ一般的には大事ではないかもしれないけれど、自分の好みでおもしろいと思ったところに自由に引く。論理的に重要かどうかより、感覚優先で引くと赤・青にはない味が出る。

この3色ボールペン読書には僕は抵抗がある。「本は大事にして読みなさい」と教わったから。人と一緒に読むのが本、線を引いたり、折り目を付けてはいけません、という教えは身に付いていますので、これはちょっとね。

「頭がいい」とは「能力」ではなく、「状態」だと著者はいいます。何かのできごとがある、あるものに触れた時に、それまで別々のものとして無関係に記憶されていた知識と知識の間に新しい関係や意味を見出してゆく力が文脈力。そのような文脈を作り出して行ける状態を脳が活性化している状態としている。誰でも経験している状態だが、頻度を増やすことで、その人なりに頭が良くなれるということ。このような話を例を出して、仕事や生活、スポーツなどの色々な場面を想定して「頭がいい」とはどんな状態かが説明されて行くので素直に納得できる、読みやすい本である。

2009年4月5日 「退化」の進化学 犬塚則久 ☺☺☺☺

サブタイトルの「ヒトにのこる進化の足跡」という内容を記述、人体に残る退化器官と痕跡器官から、人の進化の道筋を追う。
ヒトの体には原始的な痕跡も、進化の先端と思われる形質も同居していて、それが人それぞれ違うという、体の至る所に残る痕跡器官を例を紹介。退化とは、器官が小さくなったり、数が減ったり、形が単純化することで、わかりやすいのは蛇の足。蛇は足を失ったが、それは蛇が劣った存在になったことではなく、環境に適応していった結果として足をなくした。つまり、退化とは進化の逆ではなく、進化の一部である、という具合。退化器官では個体変異がとても大きいとのことで、たとえば手首に浮き出る腱(長掌筋の腱)を持たない人は3〜6%もいるのだとか。

例えば、親知らずや足の小指は退化器官であり、男性の乳首は痕跡器官という。人間に残る進化の跡の例、舌にのこる「二枚舌」の痕跡、男にもある「子宮」、サメの顎が退化した耳小骨、サメ肌から生まれた歯などなど。生物の進化遺産が人間の身体じゅうに存在する。使われなくなった機能は失われていくが、機能視点で見るとこの変異は退化。しかし、必要性のない機能をなくしてシンプルさを維持したり、エネルギー効率を良くしたりすることは進化。そういう事例がたくさん出ていて面白い。「耳が動く」ことや、「親知らずが4本生える」ことは旧人類であることを示している。「副乳は祖先帰り」という節がある。女性の方が多いが男性にもあるという。哺乳類に祖先を持つ典型的な証拠であるという。人間は胎児の時代に五対の乳腺原基が表れ、これが消え損なうと副乳になるという。ヒトは発生初期は魚類そっくりで、成長と共に系統発生をなぞらった個体発生を見せる。反復説と言う。子宮が2つある女性の話もある。泌尿生殖器系は左右対称に2器出来るのが原則で、腎臓、尿管、精巣、卵巣何れも2器ある。子宮も元来2器だったが、進化と共に融合して一つになった。二対ある人は先祖返りの例。進化論では骨の研究が重要、首の長いキリンの頸椎とヒトの頸椎の数はほ乳類だから同じ7個だという話、魚の格好をするに進化してきたクジラにも頸椎7個がある。ヤツメウナギには顎骨がないのは食物をすくい取る生活だからだが、顎骨はサメになって初めて出現して噛めるようになった。鰓骨の先頭が変化した軟骨構造という。軟骨は周囲を覆いだした皮骨にだんだん取って代わられ、結局追い出されて、ヒトでは耳の中で鼓膜の振動を三半規管に伝えるテコの役割を担う退化器官に変わってしまったという。耳の穴はエラの穴で、胎児の時代には4対あり、その最先端だけが耳に化けるのだそうだ。また、発情期の消失は、人類進化における最高に重要な発展だという。発情期が無くなって子育て期間を延長できるようになり、雌雄関係が雄と雌との発情関係から永続的関係になったとある。その後交尾行動が繁殖目的以外に使われだした、とのこと興味深い。

こうした、人の体の中にある進化の歴史、おもしろいし話の種にもなる。

2009年4月4日 黒幕 昭和闇の支配者 一巻 大下英治 ☺☺☺

ロッキード事件で起訴され有罪になった児玉誉士夫の一生を事件や出来事から紹介する。著者の大下英治、「三越の女帝・竹久みちの野望と金脈」という雑誌記事が反響を呼び、三越の岡田茂社長退陣する三越事件のきっかけともなった。週刊文春から独立し作家に転身したという経歴。松田聖子、江副浩正、土井たか子、安倍晋太郎、都はるみ、武部勤、美空ひばりなどなど政界財界芸能界の人物像を描いている。児玉は戦前から軍部とつながりを持ち上海に作った児玉機関で軍用物資を調達して政治家とのつながりも作った。戦後は鳩山一郎や大野伴睦など自由党政治家とのパイプを持ち続け、政界に金を供給しながら裏のフィクサーとして人脈をベースに政治を操り続けた。安保反対の運動が日本を席巻したときにはアイゼンハウワー来日を前にした国務長官ハガチー来日の際、全国の右翼とやくざ博徒などを組織化、左翼陣営への対抗勢力として東京に配置したが、樺美智子さんの死により来日自体が中止になったため、児玉の貢献は雲散霧消した。昭和30年代の次期戦闘機選定やロッキード事件など、事件の陰には児玉がいる、とも言われた。読売の渡辺恒三、日本テレビの氏家社長、力道山や稲川会の稲川組長、中曽根康弘、田中角栄、小佐野賢治、笹川良一、横井英樹などとの交流や対立をすべて児玉の視点から描写している。直接聞いた話というよりも、関係した人々から見聞きしたり取材した内容を中心に書いているが、同時代に生きている人からの証言だけに迫力がある。日本の国を思って動いている児玉を書いているが、これは本当なのか、作り話なのかは不明、全部嘘ではなく、国の将来を憂いての行動が多かった、という話は信用できそうに思える。いずれにしても、児玉が右から左に動かした巨額の金に絡んだ政治家は多かったのではないか。ロッキード事件として日本人が聞いている話はほとんどロッキード社副社長コーチャンの証言、日本側のANA若狭社長や商社幹部は何も語らず死んでいっている。児玉も何も語らず昭和59年あの世に行ってしまった。児玉御殿が建っていた場所は、脱税したとされる判決により請求された追徴金支払いのため処分され、今はそのことも知らない住民が住むマンションになっているという。闇の昭和史である。

2009年4月1日 切絵図・現代図で歩く もち歩き 江戸東京散歩 ☺☺☺☺

この本ほど楽しませてもらった本は少ない。東京の現代図の裏面に江戸時代の地図が載っていて、地図には江戸時代の名所、寺社などが載っているというもの、本の大きさがB5版なので本当に手軽に持ち歩ける。例えば日本橋周辺では、1.千葉周作 2.玉池イナリ 3.郡代屋敷 4.囚獄 5.常盤橋御門 6.金座 7.樽籐左衛門 8.時の鐘 9.一石橋 10.日本橋 11.安針町 12.玄冶店 13.佐藤捨蔵 14.山伏井戸 15.小野治郎右衛門 16.堀田備中守 という具合で、3.の郡代屋敷は現在では日本橋女学館になっていることがわかる。こうした記述が東京新宿を西の端として東は隅田川、南は品川、北は王子、巣鴨などの範囲をカバーしているので、江戸名所歩きのガイドとしてこれほど良い本はない。カメラを片手に切り絵図を持って、GPSを持って歩けば撮った写真、歩いた軌跡と写真の時刻による場所の特定ができて、Kashmirに保存すれば、軌跡地図、写真、GPSデータが残るので、どこをどう歩いたのか後からいくらでも見ることができる。「江戸開府400年記念保存版」となっているが、保存しない人は買わないだろうと思うので、出版社の人文社もけったいなキャッチコピーを考えたものだ。町歩きが好きな方、古地図ファン、写真好きなどにはお勧めの1600円です。

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