靖国判決の欺瞞

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津地鎮祭裁判

日本国憲法の第20条や第89条はいわゆる政教分離条項といわれるものである。歴史の流れからして、これはポツダム宣言第10条にはじまり、人権指令や神道指令の延長線上にあると考えてよいだろう。なかでも神道指令は未だに大きな影響を与え続けている。

しかしこの神道指令にいう国家神道なるものは、実は神道とは無関係であり、教育勅語の誤った解釈を基とする超国家主義であったことはまだ一般には知られていない。その詳細は当サイトの「国家神道」に述べたところであるが、この事実が看過されてきた結果、我が国の政教関係裁判は混迷の中にある。

戦後60有余年経った今日、靖国神社公式参拝をはじめとする政教関係論争は最高裁においても合憲・違憲の正反対の判決が出ている状態である。裁判の判決文とそれへの反論もどこかすれ違っている。いったい裁判所は、識者たちは、何をどのように議論してきたのだろう。

津地鎮祭裁判は昭和40年1月、三重県津市が総合体育館の建設にあたって地鎮祭を行ったことが発端であった。これについて憲法の政教分離に反するのではないかとの訴訟がなされたのである。

第一審の津地裁は合憲、名古屋高裁では違憲、昭和52年7月の最高裁では合憲の判断が下されたものである。ただし、最高裁では15人中10人が合憲、裁判長を含む5人が違憲と判断した。

この名古屋高裁での違憲判決について、識者たちは様々な批判を行った。なかでも「政教関係を正す会」が出版した昭和47年12月『法と宗教』―いま一つの公害を追う―は違憲判断にたいする反論をまとめたもので、当時の政教論争がよくわかる。今日の政教論争にも通じるものであり、分析に値する。

津地方裁判所における一審判決は、建設工事における起工式はこの世上の慣例に基づいて主催者たる津市が私の儀式として行ったもの、として合憲判断を下したのである。

これにたいし名古屋高裁は、神社神道固有の式次第(宗教的作法)に則って行われた本件地鎮祭は、宗教的行為というべきであって未だ習俗的行事とはいえないものといわなければならない、として違憲判断を下したのである。

この違憲判断にたいする反論のポイントを整理する。

 

『法と宗教』を読む

(1)大石義雄京都大学名誉教授
「いわゆる国家神道、神社神道なるものは、単なる個人宗教ではないということである。しかるに、これを個人宗教と全く同視し、政教分離の形式論で判断するようなことは、全然、歴史的な国家神道、神社神道の意味を無視したものであり、占領軍の日本民族精神破壊の思想に通ずるものである」

この文章からすると、神社神道と国家神道は同じものであるが、「歴史的な国家神道、神社神道の意味」についてはやや疑問が残る。「国家神道、神社神道といわれるものは、ことばをかえていえば、祖先崇拝の精神であり、個人の安心のよりどころとしての神の信仰との問題とは別のものである」としているが、GHQが神道指令に示したものとは異なる国家神道である。これでは名古屋高裁の判決文とは論議する対象が違うものとなる。

神道指令から要約すると、「天皇・国民、そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国他民族に及ぼす」という過激なる国家主義つまり超国家主義思想の要素を含む国家指定の宗教ないし祭祀、それが国家神道だとされたのである。

大石名誉教授の国家神道はこの定義について触れていない。GHQは祖先崇拝より超国家主義を問題にしたのである。

ポツダム宣言第6条や第10条から人権指令、そして神道指令があって日本国憲法の第20条や第89条がある。全体としてこれらがすべて独立したものととらえるには無理があるだろう。やはりGHQの一貫した姿勢があるというべきである。連合国の、中でも米国の占領方針が日本の物的武装解除と精神的武装解除にあったことは当時の新聞報道等により明白だからである。

大石名誉教授は「憲法をつくらせた占領軍の解釈はどのようなものであったにせよ、これとは関係なく、日本の歴史と伝統に即して憲法を解釈しなければならない」と語っている。

この考え方は憲法を解釈するうえで妥当なものであるが、国家神道なる語をそれぞれが独自に定義をしたのでは収拾がつかないのではないか。対象の異なる議論ではそもそも議論にならないだろう。

名古屋高裁の判決文においては、「国家神道の解体は、国民自らの手によってなされたものではなく、敗戦後占領軍の覚書という形で、その監督下に外部的要因によってなされたものであるが、さきに述べた戦前の国家神道の下における特殊な宗教事情に対する反省」が憲法の政教分離条項となっているとの認識である。

したがってこの国家神道の正体を議論せずして政教分離を語るとなれば、ズレがますます大きくなることは必然だろう。

判決文が占領軍の意識にあるというなら、占領軍の国家神道にたいする定義の正否を堂々と論じて反論なのではないか。それができていないこの反論は、反論というよりは憤慨というような程度のものであり、説得力に欠けている。憲法解釈は語義もさることながら、やはり制定の由来を考慮せず、文章だけで判断しては誤りを生ずることもあるのではないか。

大石名誉教授のいう名古屋高裁の「伊藤(伊藤淳吉裁判長:筆者注)判決は占領裁判」はそのとおりである。ならば「日本的思考による法解釈」を言う前に、占領軍の思考分析が先にあってしかるべきではないか。

彼らは国家神道には世界征服思想があり、その主な聖典は教育勅語だと断定したのである。昭和25年に邦訳が出版されたD・C・ホルトム『日本と天皇と神道』と神道指令を熟読すればそれは明らかである。

したがって彼らが教育勅語のどの部分を以て世界征服思想としたのか、この分析が必要なはずである。そしてそれが神道とどのような関係にあったのか。

名古屋判決は、神道指令にいう国家神道を解明せずに判断したことから占領裁判と同じようになったのである。GHQのいう国家神道を追及すれば、その定義を正しく特定することができ、大石名誉教授のいう「日本的思考による裁判」が実現できたのではないか。

大石名誉教授のこの論考は、情緒的には正しい反論であったとしても、やはり学問的なち密さに不満の残る言説であったことは否めない。

(2)小野祖教国学院大学教授
「そもそも伊藤裁判長の誤りは、わが日本国憲法と神道指令とが、全然別個の、関係のないものだという事を知らないところに原因がある」

神道指令は国家と「宗教」の分離であり、日本国憲法は国家と「教会」の分離であるいうことの主張である。そして宗教的活動の外にある宗教的行為までを厳格な政教分離論で論ずるべきではないという主張である。

たしかに宗教的行為云々は常識的な判断である。神道指令を起草したバンス自身がのちに、宗教と国家の分離を目的とすると書いたことが誤りであることを知った、と述べているが、小野祖教教授自身は、神道指令で最も重要な国家神道については一言も触れていない。

小野教授には昭和49年『象徴天皇―日本人の原点から見る象徴・国体・政体・現御神・天皇の祭祀権』がある。同書には現御神について重要な文章が掲載されている。

バンスから執拗に明御神観を聞かれて、「神道には、絶対神なんかはない。明御神と云っても、無限に多数なる神の中の一人である。相対的な神でしかない」と答えているのである。

そして「私は「現御神」という信仰は、上代の生き神信仰であると理解している」と独自の定義を述べている。

しかし学者であるからには、宣命に語られている「現御神大八嶋国所知天皇(あきつみかみとおはやしまくにしろしめすすめら)」を丁寧に正確に解説すべきではなかったのか。

当サイトの「人間宣言」に仔細を述べたが、本居宣長『続紀歴朝詔詞解』などに明らかなように、「現御神と」とは「現御神のお立場で」という意味であり、私心を交えず、という意味の天皇の統治を表す言葉である。天皇=現御神ではない。

天皇が現御神であると宣言された宣命等はひとつも存在しない。木下道雄『宮中見聞録』には「現御神と」は「しろしめす」の副詞だと断定している。

『象徴天皇』には昭和25年「神社神道百問百答」が掲載されている。

「天皇は現御神というのは何故いけないのですか」に対し、「天皇は世界中で最高の特別な権威をもつものと宣伝し、天皇による世界支配の思想を生む根拠になると見られるからです。現御神の考えは日本国家、日本元首の優越を云いはり、侵略戦争に誘導する軍国主義や超国家主義に利用され易い考えで危険なものと見られている訳です」と答えている。

これは誤解の上に立つ文章であると言わざるを得ない。天皇は即ち現御神であるとの認識がその誤解である。

これら多くの我が国知識人の誤解を基に、GHQは天皇(そして日本)による世界支配の思想をイメージし、軍国主義や超国家主義に利用され易い考えで危険なものと考えたのである。その詳細は当サイト「国家神道」に述べた。

現御神は宣命等において、「現御神止(と)」と用いられている。この「と」は「山と積まれた薪」や「自然と治る病気」などの「と」に近い用法である。

「山と」は「積まれた」の副詞であり、「自然と」は「治る」の副詞である。「現御神と」が「しろしめす」の副詞であることと同じことである。天皇=現御神ではない。

また宣命等の公式発言と文芸上の象徴的な表現を区別する必要がある。川上哲治が打撃の神様といわれたからといって、宗教でいうような川上哲治=神ではないことと同じである。

GHQのスタッフは独自に現御神を定義したわけではない。あくまで日本人の現御神に関する解釈を基盤に置いていたと言えるだろう。

『宮中見聞録』は昭和43年の出版である。小野祖教をはじめとする学者の現御神観は木下道雄や本居宣長をまったく参考にしていないことがわかる。つまり『日本書紀』『続日本紀』の宣命を正しく解釈していなかったということである。

GHQのスタッフだったウッダードは大変重要なことを、次のように述べている。

「日本の政治学者や思想家は、日本の「国体」にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)一九三〇年代および一九四〇年代初期に極端な超国家主義者と軍国主義者が「国体」について行った解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された「国体」の教義および実践活動、に限られる」(『天皇と神道』)。

バンスと親しかったと語る小野祖教教授は、上記のようなGHQの認識は把握していたはずである。しかし回答を読む限り、ウッダードを除くGHQスタッフの認識を代弁しているとしか考えられない。

そして軍国主義もさることながら超国家主義が何であったのか、検討された文章は見当たらない。したがって教育勅語についても、「暗々のうちに、「超国家主義」「軍国主義」を、天皇の教勅の形で植えつけようとする危険な文書と見做していたと考えて間違あるまい」としているのである。

やはりGHQが教育勅語のどの部分を問題視したかは語られていない。おそらく小野祖教教授自身、教育勅語を誤解していたと考えて間違いないだろう。井上毅や元田永孚が起草した教育勅語に、天皇が世界征服思想という超国家主義を植え付けるなどという文言は存在しないからである。

小野教授は誤った教育勅語解釈をもとにした文部省『国体の本義』などを鵜呑みにしていた可能性がある。GHQの認識を疑わなかったことがそれを表わしていると考えてよいだろう。

主な聖典は教育勅語であるとされたGHQのいう国家神道は、その聖典を解読することなくして解明は無理としか考えられない。

小野祖教教授の現御神観と教育勅語解釈は誤解の中にあるといっても間違いではないだろう。したがって、国家の宗教的行為は政教分離で判断すべきものではないとの説には賛同できるが、やはり政教関係の根本にある神道指令を正しく分析できていないことは事実である。

(3)勝部真長お茶の水女子大教授
「ところが終戦の年の十二月十五日、占領軍総司令部から「国家神道の禁止」の指令がでて、神社の国教的地位を否定し、公費をもってまかなうことを禁じた。その禁止理由としてマッカーサー元帥は「日本の天皇は、その祖先あるいは特殊な期限の故に、他国の元首より優越し、日本人は同じ理由により、他国民よりまさり、日本の島は神聖な起源の故に、他国よりすぐれているとの教義が、日本の神道には織りこまれている」からだ、と述べた」

「公費をもってまかなう」は、明治39年法律第24号「官幣国社経費に関する法律」以降の神社行政を指していると考えられる。

しかしこの実態は葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』にあるように、この法律は神社にたいする宗教的収入の抑制だったとする見方もある。神社に何もさせないのが現実の姿だったのではないか。ただ著名な官幣国社などは、戦後、経済的には格段と有利になったとある。

また、日露戦争に勝利したことが上記の法律制定となったことも看過できないことだろう。『神社局時代を語る』において、水野錬太郎(神社局長経験者)は次のように語っている。

「明治三十七八年の戦役は実に曠古の大戦にして陸に海に未曽有の大勝を収めて終結するや、之を陛下の御稜威、歴代神霊の加護によるものとして上下一般に敬神崇祖の念大いに昂り、・・・」

やはり以上のような大戦後の状況から、明治39年に以前からの懸案事項であった法律が制定されたのである。この時代に生き、戦った現身の日本人だけが国を護ったのではない、歴代神霊の加護があった。そう考えた当時の国民感情には、単純な設計主義的合理主義とは正反対の日本人らしい保守主義的な面がよく出ているのではないか。

明治15年には神官教導職の兼補は禁止とされ、官国弊社の神官は非宗教家とされた。また同33年には神社局・宗教局が設置されて、神社は非宗教とされていたのである。

したがって明治39年の法律制定は、神道の国教化というよりは、むしろ国民感情からの道徳的な背景が強かったともいえるのではないか。

ところで勝部教授の神道指令に関する文章には決定的な点が抜けている。

「天皇・国民、そして国土が特殊なる起源を持ち、それらが他国に優るという理由から日本の支配を他国他民族に及ぼす」という超国家主義思想を国家神道は含んでいると断定されたのである。「日本の支配を他国他民族に及ぼす」が問題なのである。なぜかこの点を完璧に外している。

これではGHQが解体・除去しようとした超国家主義思想そのものが把握できないのではないか。勝部教授のまとめでは、マッカーサーのいう(国家)神道の教義は、いわば日本という自国の自慢だけであって、別段咎められるものではない。

問題は神道指令にある「日本の支配を他国他民族に及ぼす」である。この神道にあるとされた超国家主義を除いては、神道指令・国家神道は解明できないのではないか。

「その翌年一月一日の詔書で、天皇のいわゆる神格否定宣言があった」と記しているが、勝部教授の現御神観も小野祖教教授と同じである。

日本語のカミはゴッドの意味ではなく、人間的なものである、と宣命等の正しい解釈をまったく無視した言説となっている。これでは、現御神止を文脈から解釈する姿勢に欠けている、と言わざるを得ない。

戦後の我が国における「批判主義・悲観主義」や、その結果としての無責任なアナーキズム・ニヒリズムを批判しているところは、さすがに倫理思想史の専門家である。しかし判決文への反論としては、ほとんど説得力のないものとしか言いようがない。

(4)葦津珍彦神社新報社社友
「国民多数の良識によって、一教会一教派のみの信条ではなく国民一般の承認するところは、非宗教として是認するの外にないということになる」

神社神道そのものを非宗教とは論ぜられないが、それは一部の信仰者による宗教的セクト要素も存在しているからであるとしている。ただ、全体として公的信条とか国民道徳といわれるものは、非宗教的のものとして取り扱われて差し支えない、との見解である。

日露戦争後の我が国の状況を考えると、神社神道は「公的信条とか国民道徳」的なものであって、それは非宗教として取り扱われて差し支えない、という見方は充分説得力がある。

ただ昭和62年『国家神道とは何だったのか』では、国家神道は神道の範囲にないということを論じた葦津珍彦であるが、この時点では国家神道に言及していない。

(5)渋川謙一神社本庁教学部長
(地鎮祭問題の行政実例について)
「従って行政実例は、一貫して厳重に禁止したのではなくして、国民良識の前に一歩一歩その解釈を緩和し、本来の姿に近付いて来たというのが歴史的事実である」

神道指令を中心としたGHQの宗教政策が、当初の厳格な実施から緩和された状況を実例で示している。したがって名古屋高裁の判決はこの歴史事実を考慮していないとの反論である。

これも異論のないところだろう。ただし、なぜGHQがその政策を緩やかなものとしたかの検証はやや弱い。公葬の禁止はあっても、松平恒雄参議院議長の葬儀は昭和24年に公葬で実施されている。

神道指令からこの公葬までの間には、昭和23年の「教育勅語の排除」もあった。これも検討項目だと思うが、これにはまったく触れていない。

神道指令がわが国の実情に合っていないというより、神社や神道の儀式に超国家主義を見いだせなかったことが原因ではなかったか。ここの解明がなぜされなかったのだろう。もともと神道指令は我が国の実情など考慮していなかったことは明らかなはずだからである。

(6)上記の批判のほかに、小野義峯京都教育大学助教授は「暫定的な非常措置の結果として日本国憲法が成立した」として、それは形式憲法であり我が国の根本的な実質憲法(貫史憲法)が優先する、と主張している。したがって我が国「古来の伝統的な習俗や「公序良俗」を否認するような規定が存在することするならば、その規定こそ無効なものとして取扱わなければならない」としている。

これらは大石義雄名誉教授が憲法を「日本の歴史と伝統に即して憲法を解釈しなければならない」と語ったことに通じている。

そして伝統を否認するなら「その規定こそ無効なものとして取扱わなければならない」と明言したことは、より論旨が明快である。ただ日本国憲法全体に及ぶこの考え方が、本件のような裁判に反映されるにはまだまだ議論が必要な状況にあったように思われれる。

「上告理由」

名古屋高裁の違憲判決にたいする上告理由書には、上に引用した批判がほぼ網羅されていると言ってよいだろう。上告理由書の内容はつぎのようなものである。

第一点、「地鎮祭は社会の一般的慣行として是認されている習俗的行事である」
第二点、「原判決は憲法20条の解釈、適用を誤っている」、宗教的儀式行事は「宗教的活動」に該当しない。
第三点、「原判決の「政教分離」に関する判断は違法である」、政教分離とは「国家と宗教」の分離ではなく「国家と教会」の分離を意味している。

名古屋高裁の判決は、神社神道は宗教であり本件地鎮祭は習俗的行為ではない、というものであった。また政教分離の原則は、国家と宗教との結合により国家を破壊し、宗教を堕落せしめる危険を防止することを目的とする、という解釈であった。

結局、本件地鎮祭は特定の宗教的活動であるとして、違憲判断を下したのである。

上告理由書の内容は、我が国おいてはごく常識的なものであって、名古屋高裁の判決文はやはり世間一般にはなじまないように思われる。しかし上告理由書が深く追求していない判決文の項目に、「日本国憲法20条の趣旨、沿革」そして「いわゆる神道指令について」がある。

後者には「戦前の国家神道の下における特殊な宗教事情に対する反省が、日本国憲法20条の政教分離主義の制定を自発的かつ積極的に支持する原因になっていると考えるべき」だと記されている。

上告理由書は「この判決の立論は、実は昭和20年の占領軍による、いわゆる「神道指令」がそのように命じたものを、そのまま継承踏襲しているに過ぎない」とし、それはあくまでGHQの考えであって、行政実例は「次第に国民意識の実情に調和するように、緩和修正されている」ことを主張している。

しかし、『法と宗教』に掲載されている批判や上告理由書の内容には、名古屋高裁の裁判官が判決の基礎とした「日本国憲法20条の趣旨、沿革」や「いわゆる神道指令について」に述べられている事実を追及した文章は見当たらない。

判決を下すにあたっては、これらが重要な根拠として語られているのだから、その根拠が事実に基づいたものかどうかが論じられなかったことは、誠に不思議であるというよりない。

ただ先に引用した小野祖教教授の現御神観や大石義雄名誉教授の国家神道観では、名古屋高裁の「日本国憲法20条の趣旨、沿革」そして「いわゆる神道指令について」への正しい批判は不可能である。

天皇=現御神や国家神道は日本人の誤った詔勅解釈が基である。ここが把握できていない限り、伊藤判決に決定的な批判などあり得るはずがない。そしてこれらの項目には他の識者もこれといった適切な評価を下していないのである。

 

愛媛玉串料訴訟判決

『最高裁への批判』を読む

この訴訟は、昭和56年から同61年にかけて、愛媛県が靖国神社又は護国神社の挙行した例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し玉串料、献灯料又は供物料を県の公金から支出したことが憲法第20条3項、第89条に違反するとされた事例である。当判決は最高裁によって平成9年4月に下された。

「政教関係を正す会」は、平成9年7月、『最高裁への批判』―愛媛玉串料訴訟判決に接して―を出版した。津地鎮祭裁判の名古屋高裁判決を批判した『法と宗教』から25年経っている。論者は新しくなっているが、その論調はどうだろうか。

佐伯彰一(東京大学名誉教授)
「最高裁・汝モカ!」というタイトルで、裁判官に対し「憲法読ミノ、文化知ラズ!」と憤慨している。ただ判決文を追究したものにはなっていない。

小田村四郎拓殖大学総長
「国家意識を喪失した最高裁」として「従来良識の府とされて来た最高裁判所の大半の裁判官までが、戦後日本の病弊に汚染されてしまったことを示し、深憂に堪へない」と語っている。

たしかに戦後日本人の国家意識は希薄だといわれている。その点は多くの賛同者を得るとは思うが、判決文に対する効果的な批判は見られない。裁判官の資質より判決文の正否を論ずることの方が政教裁判、我が国の政教論争のためには必要だったのではないか。

小林昭三早稲田大学名誉教授
「国家神道とされたものが否定されて、靖国神社は一宗教法人になった」と述べているが、国家神道にたいする認識が希薄であるというしかない。憲法学の専門家として、日本国憲法から神道指令を追究し、国家神道なるものの正体を論じてはじめてこの判決文の有効な批判が可能となるのである。

江藤淳(文芸評論家)
「明治に国家神道になって、神宮等がなくなって国宝館になってしまった、そういう行きがかりがある」としているが、これも国家神道という言葉にたいして無頓着過ぎるのではないか。神道指令について深く検証していないことがよくわかる表現である。

津地鎮祭裁判の名古屋高裁判決と同様に、本件の最高裁判決もやはり国家神道復活阻止が根底にあると考えてほぼ間違いない。したがって、国家神道そのものが何であるかを徹底追及しなければ裁判官の認識が正しいこととなる。

こうして何ら事実の根拠も提示されないまま、国家神道の概念が創られてゆく。これでは判決文に対抗できるはずもない。

小堀桂一郎明星大学教授
タイトルは「占領はまだ続いている」である。「政教分離規定については、まづ第一にそれが我国本来の宗教事情を無視した、仮空の理念に由来する輸入品の原則であること」としているのは重要なコメントであり、日本国憲法の関係条項にたいする冷静な判断である。

ただ、判決文にある「明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害が生じたことにかんがみ」について、「大嘘である」としているが具体的な論述はなされていない。

「右のような種々の弊害」について判決文には、大日本帝国憲法が保障していた信教の自由は制限付きであって、「国家神道については事実上国教的な地位が与えられ」、一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた、と記されている。この根拠について、歴史事実からの反論がないのである。

津地鎮祭裁判の名古屋高裁判決では「信教の自由の制限」「国家神道」「厳しい迫害」について、治安維持法、宗教団体法、警察犯処罰令の下で「安寧秩序を紊し、臣民たるの義務に背き、国家神道の体制に反するということで厳しい取締、禁圧を受け」とあった。

法令の下で「安寧秩序を紊し、臣民たるの義務に背」けば罰せられるのは当然である。そして戦前には「国家神道の体制に反する」などはありえないから、これは捏造された文章である。

国家神道はあくまでGHQが神道指令に定義したものである。文言はともかく、これらの基本的な考え方を踏襲した本判決文は、国家神道の概念について、まったく検証された形跡の見当たらないものである。

加地伸行大阪大学教授
「国はいつも宗教活動をしているではないか」と厳格な政教分離主義を批判している。これは多くの論者に通じるものだろう。宗教活動の定義は多岐にわたるが、国家や人間の行為から宗教的行為をなくすことはありえないことであるから、常識的な発言である。

「靖国神社が選ぶべき最後の道」として、「靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑とは一体化すべきである」と主張している。しかしもともと異なる二つを一体化する根拠は明確でない。

鎧橋倫生(一宗教学徒)
「あたかもわが日本国民が主体的に「政教分離」を導入したかのように論じる姿勢そのものが、歴史事実を踏まえて問題を解決しようとする真摯な努力の欠如を露呈している」とは、他の論者にも見れられる見解である。ただしGHQが発した神道指令を徹底検証する姿勢が欠けていることは違憲判決を下した裁判官と同じである。

大原康男国学院大学日本文化研究所教授
「司法界における国家神道観の問題性などに関しては、それぞれの専門家にお任せするとして、・・」は、政教関係を論ずる識者として異様な発言と言わざるを得ない。

判決文は「明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害が生じたことにかんがみ」としているのだから、やはり国家神道を特定しないで議論は不可能である。

そして「広い視野に立って政教分離のありようを提示した津地鎮祭訴訟判決とは対照的とさえ思える無責任な姿勢が本判決から露わに見てとれる」と最高裁における津地鎮祭裁判の「目的効果基準」を評価している。

たしかに「目的効果基準」は有効な基準であるが、この批判も「国家神道については事実上国教的な地位が与えられ」の根拠を追及していないことは他の批判と同じである。

高乗正臣平成国際大学教授
「本判決は、本来限定分離を導くべき目的効果基準に立ちながら、憲法規定の文言と社会生活の実態を離れて偏った形式論をとり、厳格ないし完全分離の結論に至るという矛盾に満ちたものになっている」

この批判も他の論者と同様で、内容としてはこの通りでも、判決文への批判としては物足りない。判決文の「信教の自由と政教分離の原則について」の正否を追及しない限り、裁判官の認識を正すことは無理だろう。

長谷川三千子埼玉大学教授
「若き裁判官諸氏に告ぐ」として、「日本国憲法の制定過程は原理的に許されざるものであるといふ認識が、まづ何よりも必要であらう」との批判は、『法と宗教』の小野義峯京都教育大学助教授の見解に近い。たしかに日本国憲法の制定過程には議論がある。しかしこれもやや即効性に欠ける批判であることには変わりない。

「今回の判決の補足意見においては、「国家神道」といふ言葉が、どの場合にも完全に否定的な意味合ひをもって語られてゐる。しかし、神道が「国教的な」かたちで営まれるといふことは、宗教としての逸脱などでは決してない。むしろ、それこそが神道としての健全なあり方なのである」

国家神道という言葉は、GHQの神道指令にある定義を基にして語られるべきである。特にGHQは国家神道の教義に世界征服思想があると断定したのである。判決文は神道指令に忠実なものであり、この批判は神道指令と異なる国家神道観によって語られているものであるから、そもそも有効な批判とはなり得ないだろう。

まずは神道指令にいう国家神道の定義について、その正否を議論することが必要なのではないか。この批判はあまりにも情緒的に過ぎるものであり、裁判官の基本的な認識を事実をもって正すものとはなっていない。

百地 章日本大学教授
「「目的効果基準」を維持しつつ、他方では玉串料等の支出の合憲性について極めて厳格に解釈しており、明らかに自己矛盾したもの」との批判である。目的効果基準はやはり裁判官の主観的な判断が入り込む余地があるだろう。充分な凡例がない限り、ブレが出るのは止むを得ない。

高橋史朗明星大学教授
「「総合的に」「総じて」という言葉が、具体的に認定できないのに「結論」を正当化するための詭弁として使われている点に私たちは注目する必要があろう」というのは正論である。しかし具体的に認定できない事実を、なぜ問わないのだろう。

高橋史朗『検証・戦後教育』は我が国の戦後教育50年を描いたものである。同書では占領軍の国体破壊政策の三本柱を、神道指令・人間宣言・教育勅語としてあげているが、いずれもその正しい解釈には及んでいない。

「ここでいう「超国家主義の影響力」とは、日本人の中に生きている天皇崇拝を中心とする国家神道や教育勅語を指していた」とあるが、この文章はGHQの文書からするとかなり乖離している。

GHQのいう国家神道は教育勅語を聖典とし、世界征服の思想を含むものであった。天皇崇拝そのものが超国家主義に通ずるわけではない。したがって国家神道と教育勅語を解明しない限り、GHQの文言も超国家主義も意味不明のままとなるのである。

他の論者と同じように、国家神道なる言葉の定義をGHQの文書によらず、あいまいなまま用いては的確な批判とはならないだろう。またGHQのいう超国家主義は軍国主義のみならず世界征服思想をも含むことを看過しているのではないか。日本軍解体ののち、軍人勅諭は放置されたが教育勅語が否定された意味をどう考えるのだろう。

阪本是丸国学院大学教授
「そもそも当時は「国家神道」という明確な概念と実体があり、それに対して国家が「国教的地位」を付与したなどという事実が認められるでしょうか」「ではいったい、その「国家神道」を信仰する信者とはどのような人たちであり、どの程度の信者数を持っていたのでしょう」

上記は本書の判決文批判のうちで最も正鵠を射ているものである。国家神道を専門的に研究している学者の批判である。裁判官が事実を提示しないままGHQ神道指令のいう国家神道なる用語を安易に用いていることは、大いに批判の対象となるものである。

しかしながら本書の9年後、平成18年出版の阪本是丸編『国家神道再考』においても国家神道の正体は特定されていない。したがって、この時点では当然のことであるが、判決文を徹底的に批判するには至っていない。問題提起としては非常に重要な、根本的なものを含んだ批判であっただけに、その後においても国家神道の事実が把握されていなことは残念なことである。

 

判決文の共通認識

あいまいな歴史事実

津地鎮祭裁判における名古屋高裁の判決文に「信教の自由と政教分離との関係」という項目がある。そこにある表現には実にあいまいで不可解なものがある。

「昭和20年(一九四五年)の敗戦に至るまで約八〇年間、神社は国教的地位を保持し、旧憲法の信教の自由に関する規定は空文化された」

この文章には根拠が示されていない。昭和20年までの約八〇年間だから、明治維新まで遡ることになる。しかし法令上に神社あるいは神道について国教と定めたものは存在しない。国教「的」とは法令上の規定がないことの表れだろう。ただ裁判所がそう言い切るには参考になる文章があるとしか考えられない。

「そしてさらに明治維新政府の宗教政策は、神道を中心とするということまで発展した。(中略)そしてかようないわゆる国家神道は単なる宗教ではないとして、キリスト教や仏教と区別され、国民はめいめいの信仰のいかんに拘らず神社には崇敬の誠をつくすべきものとされたのである。この状態は明治維新からこの度の終戦まで約八十年間続いた」

引用したこの文章は『岸本英夫集』第五巻―戦後の宗教と社会―「神道とは何か」昭和24年8月にある。岸本英夫は当時、東京大学助教授で宗教学の専門家である。GHQの宗教政策を担当した民間情報教育局の顧問ともいうべき役割を果たした。のちに『天皇と神道』を著したウッダードのいう日本人助言者の一人であった。

「国家神道は、二十数年前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした」

これは村上重良『国家神道』にある。おそらくは岸本英夫の文章を参考にしていると考えられる。GHQの国家神道に対する定義とは関係のないことも、まったく同じである。そして国家神道や国家の制度に根拠がないことも同様である。

GHQは国家神道の教義に世界征服思想があると判断したのである。少なくとも明治維新以降80年間のすべてに、神道ないし神社に世界征服の思想を見つけられるだろうか。公的な文書でいえば、昭和12年文部省『国体の本義』にそれがあることは確認できる。

そしてGHQの文書からすると教育勅語以前に世界征服思想は存在しない。岸本英夫・村上重良、そして裁判官らから80年間の世界征服思想を、根拠を以って語られたことがない。結局、これらはGHQのいう国家神道を特定する文書にはなり得ないものである。

「岸本博士は、どちらかというとGHQの側から活動した人」と評したのは『法と宗教』における渋川謙一神社本庁教学部長である。たしかに岸本英夫も根拠を示さず、GHQの受け売りのような文章を残している。

「明治初年以来、国家神道という制度の存在は、日本の宗教における異様な風景であった。明治憲法は、その第二十八条において、信教の自由をはっきり保証していた。しかも、一方では、国民全体が国家神道の行事に参加することを強制していた」(『戦後宗教回想録』岸本英夫「序」)。

『帝国議会貴族院委員会速記録』の明治44年2月には男爵高木兼寛の問に答えて、内務省神社局長井上友一は「靖国神社の祭典の如きも、或る学校では参拝とするが、或る学校は参拝しないと云ふ風に、一定の参拝の法で出来て居らぬと云ふやうなことがあります」と語っている。つまり「国民全体が国家神道の行事に参加することを強制していた」事実はないことになる。

また、およそ宗教学者として「国家神道という制度」と語るのは如何なものか。明治憲法の第二章は臣民権利義務について記されているが、それらは「法律の定る所」とある。

国家の制度なら法令が必要なことは自明の理であって、いったいこの法令の定めのない「国家神道という制度」をどう証明しうるというのだろう。

名古屋高裁はさらに、「その間に制定された治安維持法、宗教団体法、警察犯処罰令等の下で、大本教、ひとのみち教団(現在のPL教団)、創価教育学会(現在の創価学会)、法華宗、日本キリスト教団、ホーリネス教派などは、安寧秩序を紊し、臣民たるの義務に背き、国家神道の体制に反するということで厳しい取締、禁圧を受け、各宗教は神社を中心とする国体観念に従属せしめられた」としている。

名古屋高裁の判決文のみならず合憲と判断された最高裁においても、「憲法における政教分離原則」として同じようなことが語られている。

「国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあって、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった」

ところが最高裁の判決文にも「事実上国教的な地位」については、やはりその根拠は示されていない。また、一部の宗教団体に対する厳しい迫害とあるが、あくまで「安寧秩序を紊し、臣民の義務に背いた」ことによる法的措置であることは前述のとおりである。国体破壊の過激思想団体も同様に受けた法的措置である。

岸本英夫は『戦後宗教回想録』「序」において、「どれほど多くの新興の宗教団体が、官憲の弾圧の手によって、その息の根をとめるような目にあわされたことか。その当時は、新しくおこった教団が勢いを加えてくると、社会の安寧秩序を害したというような言いがかりをつけられたものである」と述べている。

いわゆる宗教弾圧が本当に厳しい世の中であれば、新しい教団は起こるはずもなく、勢いが加わることもないのではないか。また、名古屋高裁の「国家神道の体制に反するということで厳しい取締、禁圧を受け」についても疑問が残る。戦前に「国家神道の体制に反する」という言葉は存在しない。

そもそも国家神道なる用語はGHQが神道指令に示したものであって、戦前の我が国には存在しなかったものである。国体神道や国家的神道などという言葉があっても、GHQのいう世界征服の思想を含んでいなければ国家神道とは異なるものである。

裁判所が戦前の我が国おける政教関係について、国家神道その他を何の根拠も示さず判決文に記しているのは岸本英夫の著作からの影響だけではないだろう。少なくとも最高裁判所が下す判断には複数の参考文書があると考えて妥当なのではないか。

津地鎮祭裁判の最高裁は合憲の判断であった。その合憲とした判決にたいし、藤川益三裁判長の反対意見があって矢内原忠雄「近代日本における宗教と民主主義」から多くの引用をしたと記されている。この論文は矢内原忠雄全集第18巻に収載されているが、以下のような文章がある。

「かくして事実上神社に国教的地位を認めながら、ただ諸外国に対する関係上、信教自由の原則に抵触せざらしめるため、神社は宗教にあらずとの解釈を下したのである」

「宗教団体法により、教団に属せざる教会は単立教会として、地方長官の認可を受けて法人となることが認められた。法人たる手続きを取らざる教会または集会もあった。併しこれらの教団外の諸教会はほとんどすべてが政府の弾圧を被り、燈台社、ホーリネス派、セブンスディ・アドベンチスト派、救世軍等は解散を命ぜられ、或ひは牧師信徒の拘留検挙があった」

「事実上神社に国教的地位」はキリスト者・矢内原忠雄の見解であり、感想文であると考えて妥当であるが、学者である以上「国教的地位」と述べるには何らかの参考文書がなければここまで断定できなかったのではないか。「政府の弾圧」についても同様である。この論文は昭和24年4月の発表であるが、矢内原が参考にした文書とは何か。

 

文部省「新教育指針」

昭和21年5月、文部省は初等・中学校教師用として「新教育指針」を発表した。これがGHQ民間情報教育局の強い圧力の下で書かれたことはよく知られている。そしてそこには次のような文章が記されていた。

「しかるに極端な国家主義は自分の国だけがりっぱな国であると思い、自国の国の思想や文化を最もすぐれたものとしてほこる。この点においてそれは「国すい主義」とも呼ばれる。そしてついには、自分の国の政策を他の国々にも及ぼし、他の国々を支配することがよいことであるとまで考えるようになる」

この文章は神道指令にある「軍国主義的乃至過激なる国家主義的イデオロギー」の解説と意味は同じである。あるいは神道指令の文章を平易に書き直したものといってもよい。

「すなわち日本の天皇は―御みずから神性を否定せられたにもかかわらず、これまでの国民は―「現人神」と信じ他国の元首に優っていると考えた。また日本の国民も神が生んだものであり、日本の軍隊は「神兵」であって、他の国民を導いたり救ったりするものであり、日本の国土も神が生んだ「神州」であって永久に滅びることはない、というように説かれ、ついに「八紘為宇」の言葉の如く、日本の指導のもとに全世界が一家のようになることが人類の理想であると教えられるに至った」

ポツダム宣言を受諾してから9カ月しか経っていない時点での文章である。文部省は「はしがき」において、はじめ省外の権威者数氏をわずらわして草案を得たのであるが、マッカーサー司令部と相談の結果、書き改めて出すことにした、と断わりがある。一言でいうと、GHQの強い圧力の下で書いたということだろう。神道指令とあまりにもその内容が酷似しているからである。

「日本においても憲法によって信教の自由が保障せられ、仏教もキリスト教も宗派神道十三派も、国家によって平等に取り扱われ、国民はいずれを信じても、信じなくても、まったく自由とされている。しかるに国家神道(神社神道)だけは、法令上これらと区別せられて、いわゆる宗教ではないとせられながら、実際上は宗教たる性質をそなえ、しかも国民の宗教として国家と深く結びつき、国民にその信仰が強いられた」

神社がただその施設を公的な行事に使用されたことは事実である。しかし、そもそも神社参拝は国民的習俗であって、他の、教義を普及する目的の宗派とは区別されて当然だろう。この根拠のない「実際上は宗教たる性質をそなえ、しかも国民の宗教として国家と深く結びつき、国民にその信仰が強いられた」は矢内原論文にも影響を与えたのではないか。

「とくに戦時中は、神道の教義が軍国主義及び極端な国家主義の思想と結びつけて説かれ、神社参拝が戦意を高めたり勝利を祈ったりするために行われた。そして神社神道以外の宗教(例えばキリスト教の如き)を、あたかも国事に有害であるかのように取り扱う人々すらあった」

神道に教義は存在しないから、軍国主義や極端なる国家主義とは関係がない。それにそもそも戦勝祈願のための神社参拝を咎められる道理はない。またキリスト教などの取り扱いに問題があったとしても、それはその人々が問題であって、国家にも神社にも責はない。この文章は「神道の教義」にたいする客観的な検証を欠いており、事実に基づかない捏造と考えて妥当だろう。

判決文と酷似の論文

政治と宗教に関する公的な文章で、最も具体的なものは上にあげた昭和21年5月の文部省「新教育指針」である。これは神道指令と酷似している。神道指令、あるいは「新教育指針」の影響を受けたと考えてもおかしくない矢内原忠雄の「近代日本における宗教と民主主義」は昭和24年4月である。これらはすべてGHQの占領下において発表されたものである。

岸本英夫の「神道とは何か」は昭和24年に書かれ、「嵐の中の神社神道」(『戦後宗教回想録』収載)は昭和38年の出版である。そして神道指令・「新教育指針」・「近代日本における宗教と民主主義」のすべてを吸収して捏造したような村上重良『国家神道』が昭和45年に出版されている。

津地鎮祭裁判の名古屋高裁判決は昭和46年5月であったから、裁判官がこれらを参考にしていたことは充分可能性があるし、最高裁の証拠には村上重良『国家神道』があげられている。そしてこれらのいずれもが事実を根拠としない文章で綴られているのである。

「政教関係を正す会」の津地鎮祭裁判における名古屋高裁判決批判や、愛媛玉ぐし料裁判の最高裁判決批判に足りないものは神道指令の解明と裁判官の国家神道観に対する批判である。裁判官は文字通り国家神道の復活阻止が前提にあるから、「政教関係を正す会」の良識が通用しない場合があるのである。

しかし、事実を基としないこれらの著作について、「政教関係を正す会」の批判は徹底的な追及をしていない。渋川謙一神社本庁教学部長が「岸本博士は、どちらかというとGHQの側から活動した人」と評しただけで、他の論者らは裁判官や彼らが参考にしたと思われる国家神道に関する言説を容認しているかのようである。

上に引用したいくつかの文書に、学者とは思えないような安易な国家神道という用語の使用がある。事実で検証することの不可能な国家神道を前提に議論はできないのではないか。「政教関係を正す会」の論者に、なぜ、阪本是丸教授以外にそのことを問題視する人がいないのだろうか。

・文部省「新教育指針」昭和21年
・矢内原忠雄「近代日本における宗教と民主主義」昭和24年
・岸本英夫「神道とは何か」昭和24年・『戦後宗教回想録』「序」「嵐の中の神社神道」昭和38年
・村上重良『国家神道』昭和45年

ここにあげた著作以外に、裁判官は国家神道について根拠を示すことができるだろうか。これまでの政教関係裁判の判決文には少なくとも示されたことはない。判決を批判するなら、まずもってこれらの著作を徹底検証する必要があるだろう。事実に基づかないこれらの著作を根拠としている判決文の空しさが明らかにされるはずである。

「政教関係を正す会」の情緒的な面からの批判はまったく正論である。日本国憲法の解釈に対する見解も、常識で考えれば反論など出るようなものではない。

ただ、神道指令の国家神道に関する解明には足りないものがあると言わざるを得ない。「国家神道」に述べたとおり、国家神道とは日本人が教育勅語を誤って解釈し、それをGHQが鵜呑みにして定義をしたものである。

平成22年1月20日、最高裁は北海道砂川市が市有地を神社の敷地として無償で提供した行為について、憲法違反だと判断した。

「憲法八十九条が、過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み、個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に、(制度として)保障したとされる趣旨及び経緯を考えるとき、・・・」(裁判所HP)

「信教の自由を保障しながら、神社神道につき財政的支援を含めて事実上国教的取扱いをなし、・・・」(同)

これらの文章はすべて過去の判決文のコピーである。元々の参考文献にある事実を検証しないで引用または参考にしたものである。そしてこの判決についても、ここを問題にした識者らの批判は見当たらず、やはり情緒的な批判に止まっている。もはや裁判所の国家神道観は角質化していると思って間違いがない。

愛媛玉串料訴訟の判決について、阪本是丸国学院大学教授だけはたしかに裁判官の国家神道観に疑問を投げかけている。ただし、これまでのところ教育勅語と国家神道についての有効な研究成果は公開されていない。

資料は出そろっているのだから、もうそろそろ教育勅語解釈の誤りを正し、神道指令が何であったのかを解明し、日本国憲法の運用を我が国の歴史と伝統に沿ったものにする必要があるのではないか。

国家のために命を捧げた戦場の兵士に対し、国民に敬意を払う権利と義務があることはビッテル神父のいう通りである。私たちがこの権利と義務を行使するためには、情緒的な言説だけではなく、国家神道の真実を明らかにしなければならない。

もうこれ以上同じアプローチで靖国神社擁護論を展開するだけでは、永遠に国民の権利と義務を行使できない国家となるのではないか。

―終わり―2010年