女の事件簿・大正昭和戦前

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女の事件簿・大正昭和戦前

大正昭和戦前。昭和史は張作霖爆殺事件から語られることが多いと思います。『昭和天皇実録』も最初はこの昭和3年の事件です。

このあと、満州事変や5・15事件、そして天皇機関説事件から2・26事件が続きます。対米開戦が昭和16年で、その後昭和20年8月に終戦となり、GHQの日本占領を経て、昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が締結されました。

日露戦争とこの大東亜・太平洋戦争の間にある大正時代は、戦間期とも呼ばれています。大正デモクラシーとか憲政擁護運動などで知られている大正期は、また演劇や音楽の面でも今日まで大きな影響を残しています。

とくに、大正時代は女性の時代でもありました。女性のニュースが新聞に多く採り上げられました。明治という軛から解放された、そういうことかもしれません。今回は大正昭和期における、特徴的な女性の事件を、この時代の世相として眺めてみたいと思います。

 

(芳川鎌子)

大正6年3月7日夜、芳川鎌子が倉持陸輔と千葉駅付近で列車に飛び込みました。いわゆる心中事件です。鎌子26歳、倉持23歳でした。話題になったこの芳川鎌子の父は、芳川顕正。教育勅語渙発時の文部大臣で枢密院副議長を歴任しました。

父・顕正の長男次男は亡くなっていました。鎌子はその四女で、婿養子に子爵曽祢荒助(荒助は伊藤博文のあとの韓国統監)の次男寛治、長女に明子がおりました。倉持陸輔は芳川家のお抱え運転手です。

倉持は車輪にはじかれて線路外へ、鎌子は左こめかみを粉砕されて人事不省となり、倉持は五寸余の白鞘の短刀を自らノドに刺し十五間先で即死しました。このことがあって父・顕正は枢密院副議長を辞任しましたが、二年後には枢密院の顧問官として復帰しました。

事件後、鎌子と寛治は離婚、鎌子は除籍処分となりました。府下の下渋谷へ幽閉されましたが7年10月、今度は倉持の同僚運転手だった出沢佐太郎と家出をしました。入籍はしませんでしたが、仕送りは途絶え、大正10年4月横浜で死没したと伝えられています。

この芳川顕正は妾を囲っていたことでも、世に知られていました。「妻妾同居」と記されています。暴露したのは黒岩涙香の『蓄妾の実例』です。最初はタブロイド版の日刊新聞『萬朝報』で、現在では現代教養文庫の文庫版が出版されています。

 

(松井須磨子)

次に松井須磨子です。大変な売れっ子女優でした。須磨子は明治19年長野県の松代、清野村の生まれです。

明治36年、17歳で結婚も一年で離婚し、その後、明治41年に前沢誠助と再婚しました。前沢は東京俳優養成所の日本史の講師で、彼が須磨子を売り込んだと云われています。

明治42年、須磨子は鼻を高くする手術を受けて、坪内逍遥の「文芸協会」付属の演劇研究所へ入りました。坪内逍遥と島村抱月は、当時の新しい演劇のリーダーでした。

須磨子が大成功したのは島村抱月演出による「人形の家」のノラの役でした。しかし、須磨子が抱月に妻子を捨てさせたとして、坪内逍遥は文芸協会を解散、抱月と須磨子は大正2年、劇団「芸術座」をつくりました。

大正3年、トルストイ「復活」での須磨子が歌う「カチューシャ」は一世を風靡して、須磨子は大女優となりました。

カチューシャかわいや別れのつらさ せめて淡雪とけぬ間と
神に願いを(ララ)かけましょか

ところが大正7年11月5日、牛込芸術倶楽部の一室で抱月は急逝します。新聞には「噫、抱月居士 昨夜の葬儀 倒れるまでに 須磨子の慟哭」とありました。

翌大正8年1月5日、須磨子は抱月の後を追い、芸術倶楽部の楽屋において「ひじりめん」のしごきで縊死したと報道されました。

 

(中山晋平と大正の音楽)

抱月は早稲田大学教授で、五人の子息がありました。インタビューに答えて、島村抱月夫人イチ子は「死ぬる事の出来る人は、幸せです」と語ったそうです。

話は変わりますが、この「カチューシャの唄」の作曲は東京音楽学校に学んだ中山晋平です。その他「ゴンドラの唄」「東京行進曲」「てるてる坊主」等々、多くのヒット曲を残した天才作曲家ですが、実は「ヨナ抜き」でもよく知られています。

明治になって、西洋音楽が日本に入ってきました。ドレミファソラシドですね。この4番目の音と7番目の音、つまりファとシを除いたのが「ヨナ抜き」です。正確にはヨネ抜き長音階というそうです。このミとラを半音下げた短音階もありました。

ヨナ抜きでは千昌夫の「北国の春」が有名です。「白樺、青空、南風」、メロディーがすんなり入ってきます。

中山晋平はこの「ヨナ抜き」の曲をたくさん作っています。「船頭小唄」その他、いまでも私たちの感性に訴えてきます。

この中山晋平、実は島村抱月の書生でした。抱月と須磨子の件は中山晋平の「備忘録」にその詳細が書かれていましたが、公開されたのは晋平の没後です。イチ子夫人と二人の間にあって、大変苦労したと伝わっています。

 

(レコードという媒体)

ところで、中山晋平や野口雨情らは後世に残る名曲を多く創り出しました。松井須磨子らの演劇もその普及に一役買いましたが、大きかったのはやはり蓄音機だったと思います。

エジソンが発明したのは円筒式の録音技術です。これに対し、ベルリナーの平円盤式が現れました。両者は競合しましたが、結局は平円盤方式の流れとなりました。後のレコードです。

流れは平円盤式となりましたが、日本コロンビアを遡るとエジソンに、一方、日本ビクターを遡るとベルリナーにたどり着きます。蓄音機が世に出ることになって、日本蓄音機商会はじめ、多くの会社が蓄音機産業に参入しました。

この日本蓄音機商会のディレクターだった森垣二郎、この人と中山晋平・野口雨情が民謡調査の旅に出ました。松井須磨子が他界した大正8年の夏のことです。

これが一つのエポックで、中山晋平は日本の伝統的な旋律を強く感じたのかもしれません。以後はヒット曲の連続といっても言い過ぎではないほど、沢山の記憶に残る曲を書きました。

 

(白蓮事件)

さて大正10年です。白蓮事件がありました。「10月22日東京朝日新聞」「炭坑王の夫を捨てて、新しい愛人の許へ」

白蓮35歳、夫・伊藤伝右衛門61歳、白蓮の愛人・宮崎龍介は28歳でした。この宮崎龍介の父は、孫文を支援した宮崎滔天です。

そして翌23日の新聞には白蓮の「絶縁状」が公開されました。

絶縁状(大阪毎日・10月23日)
「もはや今日は私の良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。すなわち虚偽を去り真実に就く時が参りました。よってこの手紙により、私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に、永久の別れを告げます」
「二伸
私の宝石類を書留郵便で返送致します」

東京朝日新聞の社会部長原田譲二によれば、他社を圧倒したこれらの記事について、社長村山龍平から「特賞百円」が贈られ 、部員一同で祝杯をあげたが、政治部からの批判もあった(『平和の失速』八 P146  児島ゆずる)といいます。

白蓮の歌
「十五過ぎ泪の色も紅うなりてわれたらちねを怨みまつりし」
「殊さらに黒き花などかざしたる己が十六の涙の日記」

若くして嫁いだ、現実には嫁がされた少女の想いが表現されています。

「冷やかに枯木の如き偽りを人の道とし云ふべしやなほ」
「一を二と読むすべ知らず知らざれば知恵足らぬ子とかろしめらるる」
「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身」

この辺りになると、もはや悲壮感さえ感じられます。

この白蓮事件は世の人々に衝撃を与えました。華族に生まれ、炭坑王と再婚し、年下の男と恋仲になり、夫を捨てる。まさに女性の強い意志の表現です。大正時代らしい事件だったと思います。

加えて、白蓮の父は柳原前光です。幕末・明治の公家で、妹の柳原愛子は大正天皇の生母となりましたから、大正天皇の伯父という関係です。ですから大正天皇は白蓮の従兄という関係です。

白蓮、本名燁子(あきこ)の母は芸妓だった奥津りょうという人です。この16歳の芸妓おりょうをめぐって、伊藤博文と柳原前光が落籍を競ったというエピソードもあるようです。

そしてこのおりょうの父は、新見豊前守正興、幕末の外国奉行でした。万延元年に日米修好通商条約の批准のため、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗り込んだ遣米使節の正史です。

明治維新となって、武家は凋落を余儀なくされました。そして世が世であれば、というような女性が芸妓となりました。明治新政府の要人と関係の深い芸妓は少なくありません。ただ、武家に生まれ維新後に芸妓となった女性が多いことを考えると、なるほどと、感じないわけでもありません。

 

(大正末期から昭和初期の世情)

大正12年9月1日、関東大地震が起きました。またこの混乱の中で、先ほどお話しした、甘粕事件が起きました。無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝らが憲兵隊の甘粕雅彦大尉らによって殺害された事件です。

帝都の復興は進みましたが、時代が昭和となって、不景気がやってきました。第一次大戦の戦争景気はなくなり、震災手形の整理問題が新たに発生したからです。

大震災の被害地の会社などを救済するために、政府は手形の決済期間を延長する措置をとりました。そして決済できない手形は日本銀行が再割引をし、損失が出れば一億円を限度として政府が補償しました。

しかし日銀の再割引手形は4億円を超え、財界の徹底整理が必要となりました。これらのことから、日本は不景気の時代となりました。

 

(鈴木商店の鈴木ヨネ)

昭和2年、鈴木商店が事実上の業務停止を余儀なくされました。大正6年、鈴木商店は年商15億円を越えて、三井物産を抜きトップとなっています。当時、天下三分の計といって、鈴木商店は三井三菱と肩を並べていました。

鈴木商店はもと川越藩の下級士族の次男、鈴木岩治郎がはじめた商店です。岩治郎は最初菓子職人となりましたが、養育を放棄した父母と兄が頼ってきます。

岩治郎は目ぼしいものすべてを譲り、長崎へ行きましたが、関西の大阪辰巳屋という砂糖商で実力を発揮します。そして主人の没後、その神戸支店を譲り受け、カネタツ鈴木商店と称しました。

この鈴木岩治郎と結婚したのがヨネで、ヨネは再婚でしたが、明治10年のことでした。ところが明治27年、岩治郎は他界します。鈴木商店を継続するか否か。社員は固唾を呑んで見守っていました。以下は荒井とみよ『事業への理想と情熱』からの引用です。

岩治郎没後三十五日の法要の席、「お家はんのお考えを」と促されたヨネは、「店は続けたい」と答え、次のように語りました。

「二十年にも充たない結婚生活であったが、ここでわたしはほんとうに生きた。気難しい男であった、理不尽に癇癪を起こされたこともあった。周囲の人々も甘いばかりではなかった。厳しい仕うちもあった。死を思った日さえある。しかしわたしは逃げたくなかった。商売の修羅場を生きている男の鼓動を聞くのが好きだったから。夫とともに私も闘っていたから。今、鈴木商店ののれんを降ろすことは、夫の野望も葬ることである。夫を二度葬ることはできない」

そしてヨネは金子直吉、柳田富士松という二人の大番頭にすべてをまかせ、鈴木商店を盛り上げました。年商が増えてもよねの姿勢は一貫していたといわれています。

「怠らず巡る時計のはりを見ておのが怠けの恥しき哉」『波の音』

しかし昭和に入っては、不況に勝てず、とうとう業務を停止することになりました。

昭和2年、台湾銀行の鈴木商店への貸付は全貸付の7割に達し、結局、鈴木商店は台湾銀行からの融資を停止されました。番頭の直吉は元社員の再就職に奔走しました。傘下には帝人、豊年石油、神戸製鋼、播磨造船などがありました。

ただ鈴木商店には債権者会議はなく、破産宣告もありませんでした。その後、整理会社鈴木は「日商」となり、昭和40年には日商岩井となったということです。ほぼ30年でこれだけの規模になった鈴木商店。鈴木ヨネという女性は、やはり歴史に残る人だったと、考えていいと思います。

 

(沢村貞子)

昭和戦前では沢村貞子が一人の象徴的な女性です。兄に役者の沢村国太郎、その妻は「日本映画の父」といわれた牧野省三の四女でマキノ智子、その子に長門裕之、津川雅彦がいます。二人からすると、沢村貞子は叔母さんです。そして弟は俳優の加藤大介です。

沢村貞子は大正10年、東京府立第一高等女学校、現在の白鴎高校に入学し、大正15年には日本女子大師範家政学部へ入りました。ところが教師の道を捨てて、役者を志します。

まず、築地小劇場の山本安英に手紙を書き、それで演劇の世界へ入りました。戦後の山本安英は「夕鶴」の「つう」の役で有名です。築地小劇場は創設者の一人だった小山内薫の死後、左派の新築地劇団と劇団築地小劇場に分裂しました。

山本安英や沢村貞子は新築地劇団に参加しました。そして昭和5年、日本女子大を退学します。翌6年には左翼劇場のプロレタリア演芸団に土方与志の指名で入団します。

そこで日本プロレタリア演劇同盟の杉本良吉が、沢村貞子に今村重雄との結婚を進めます。「君、<赤い恋>をよんだろうね」

杉本良吉はまた杉本エロ吉とも呼ばれていたそうです。ところでこのソビエトの作家、コロンタイ女史の「赤い恋」は階級的恋愛小説あるいは階級的同志愛として、当時大いに読まれた小説でした。ソビエト版女性の自立というところでしょうか。

昭和7年3月、沢村貞子は検挙されます。いわゆるコップ弾圧でした。コップとは日本プロレタリア文化同盟の略称です。

沢村貞子は非合法の共産青年同盟に入っていたので、検挙されたのですが、勧誘されて「意外だっただけに、うれしかった。感激した」と、当時を振り返っています。

日本プロレタリア文化同盟のメンバー約400名が実質上共産党指導下の「地上運動」体として入党している疑いで一斉検挙となった訳ですが、沢村貞子は演芸団メザマシ隊に属しており、「革命はいつおきるだろうか」そう考えていたそうです。

結局、警察に二ヶ月、未決に十ヶ月半の拘束を受けましたが、上申書で保釈されました。その後、アジトで非合法出版物である共産党の「赤旗」の配布を任務としました。

昭和8年6月、再逮捕のあと拘置され、懲役三年、執行猶予五年の判決を受けました。そして通算1年8ヶ月の留置・拘置所暮らしを経験しました。

2・26事件の時、沢村貞子は「とうとう、こんな形で日本の一画がくずれてきたのかと、胸が熱くなった」と思ったそうですから、スジ金入りの思想家だったと評価して間違いないと思います。

 

(不良華族事件)

この昭和8年には、不良華族事件というのもありました。先にお話をした白蓮、彼女の兄は柳原義光でした。彼らの父は柳原前光、その妹は大正天皇の生母となった柳原愛子(なるこ)です。

柳原前光の子が義光、母の異なる妹に白蓮。その義光の娘に徳子がいました。白蓮の姪にあたります。

徳子は吉井勇と結婚しました。吉井勇は「いのち短し恋せよ乙女」で有名な「ゴンドラの唄」の作詞をした詩人です。勇の祖父は維新の功で伯爵となった吉井友実です。爵位は吉井勇が継いでいました。

華族の夫人数人が、ダンスホールの教師・小島幸吉と浮き名を流したのが、華族不良事件です。その中を取り持ったのが吉井徳子ということでした。この事件には斎藤茂吉夫人の輝子も連座して話題となりました。

以後、茂吉と輝子は別居しますが、原因はこの事件だった可能性も否定できません。さらに、近藤廉治夫人の泰子の名もありました。泰子は樺山愛輔の長女で、妹にのちの白州正子がいます。近藤夫婦は華族でしたが、爵位がなかったので除族という処分を受けました。

 

(岡田嘉子)

岡田嘉子は昭和47年、実に34年ぶりにモスクワから帰国しました。亡き夫滝口新太郎の遺骨も一緒です。滝口は松竹の俳優でしたが、抑留されたシベリアで岡田嘉子の放送を聴いたのが縁で一緒になりました。

岡田嘉子には華々しい男性遍歴がありました。まず早稲田の学生で俳優の服部義治。二人の間には博という子供もできました。「舞台協会」の恩師、山田隆弥もその一人です。そして俳優・演出の竹内良一、さらには演出家の杉本良吉です。

昭和13年1月、岡田嘉子と杉本良吉は樺太からソ連に越境しました。二人は捕らえられ、杉本は翌年銃殺刑となりました。岡田嘉子は10年間の自由剥奪でしたが、モスクワで日本語放送のアナウンサーとなりました。

ところでこの杉本良吉は、日本プロレタリア演劇同盟の頃、沢村貞子に今村重雄との結婚を勧めた人でした。妻もいたようですが、日本では駆け落ち事件として報道されました。

昭和47年の帰国を支援したのは、当時の東京都知事美濃部亮吉らの社会主義者たちでした。岡田嘉子は平成年2月、モスクワでその生涯を閉じました。

 

(渡辺和子)

さきほど、沢村貞子のところで2・26事件が出てきました。昭和11年2月26日です。陸軍の一部将校らによる反乱でした。

斎藤実内大臣や高橋是清蔵相そして岡田啓介首相の秘書だった松尾伝蔵、それに教育総監の渡辺錠太郎が犠牲となりました。この渡辺錠太郎のお嬢さんが渡辺和子さんです。現在はノートルダム清心学園の理事長です。

渡辺和子さんは旭川生まれです。当時、渡辺錠太郎は陸軍の中将で旭川第七師団の師団長でした。この旭川に関することについて、こんな話が残っています。

旭川市の中心部に常磐公園があります。公園にある碑には「常磐」と記されています。常陸と磐城、常磐道の「常磐」ですね。ところがその付近には常盤、女優の常盤貴子さんの「常盤」という地名があります。

この碑は渡辺師団長の揮毫したものですが、一説には間違って常磐とかいあた。また一説には、何か師団長に想うところがあったのではないか、そう考える人もいるようです。

さてこの渡辺和子さんは、2・26事件の時は9歳でした。父は目の前で反乱軍兵士による43発の銃弾を受けて、その場で亡くなりました。想像を絶する恐怖と悲しみを感じられたと思います。

 

(渡辺錠太郎が標的とされた理由)

この渡辺錠太郎について、コラムニストの山本夏彦がある大きな雑誌に、殺された理由は紙幅が尽きたから話せないと書きました。そうしたら、渡辺錠太郎の子孫から「自分もよく知らない、教えてくれ」と電話があったと記しています。

資料がさほど公開されていなかった時代の話かと思いますが、山本夏彦は教育総監の人事問題と天皇機関説を、その理由として挙げました。

天皇機関説というのは国家法人法に基づいています。つまり君主は国家の外に在るか内に在るか、その議論でした。外に在れば憲法遵守は要りませんし、独裁の基にもなり得ます。

明治憲法の第4条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とありますから、当然天皇は国家の内の存在です。天皇機関説ということです。

渡辺錠太郎はこの天皇機関説を擁護する側でした。そもそも伊藤博文『憲法義解』が天皇機関説ですから、とくにおかしいことはありません。しかしこれを2・26事件の首謀者は批判しました。

その一人、磯部浅一は次のように語っています。
「渡邊は同志将校を弾圧したばかりでなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」

結局、昭和戦前というのは、統帥権干犯論もそうですが、帝国憲法を踏みにじった時代でした。この件については、また改めてお話しをする機会があると思います。

 

(神谷美恵子)

最後に、神谷美恵子です。昭和54年に他界しましたが、のちに美智子皇后の相談役と称された人です。彼女は精神科のお医者さんでしたが、GHQ日本占領の初期、英語に堪能ということで、文部大臣となった父・前田多門の手伝いを買って出ました。

昭和戦前と云っても、戦闘は終わっていましたが、この場合は帝国憲法下の日本、そういう時代です。そのGHQ日本占領の時期に、神谷美恵子が遺した「文部省日記」は、当時の最も重要な日記と考えて間違いないと思います。

神谷美恵子は安倍能成文部大臣に請われてその補佐をしていました。安倍大臣は公職追放となった前田多門の後任です。当時のGHQ民間情報教育局局長はケン・ダイクでした。

このダイク局長と安倍大臣の第二回対談記録には、たいへん重要な内容が記されています。話題は教育勅語です。ダイクは次のように述べました。

「教育勅語としては、すでに明治大帝のものがあり、これは偉大な文書であると思うが、軍国主義者たちはこれを誤用した。また彼らに誤用されうるような点がこの勅語にはある。たとえば「之を中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、あやまり伝えた」

これに対し安倍大臣はその意味を理解せず、「「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」は問題になり得る」と的外れなやり取りに終始しました。非常に大事なコメントを聞き誤った、そういってよいと思います。

この教育勅語にある「之を中外に施して悖らず」が、「皇道を四海に宣布」となって八紘一宇となりました。この対談から分析を進めれば、ポツダム宣言や神道指令そして公職追放令を解明できたと思います。

以上については、これも改めてお話しする機会があると思います。とにかく、神谷美恵子の「文部省日記」を解明しなければ、戦前もGHQ占領も何も、歴史の闇となったままだろうと思います。

その意味で、神谷美恵子はGHQ日本占領期を語る場合、最も重要な人物として挙げられるべき人物に相違ありません。

―終わり―2016年