知識人の怠慢

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「産経ニュース東京」2014.11.11 22:00

「日本は謝り続けないといけないのでしょうか? 内田樹の「ぽかぽか相談室」」

 

知識人の怠慢(1)

(飲み友)
あっという間に熱燗の季節になった。ま、ゆっくりやろう。ところで、前の戦争についてだが・・。日本は誤り続けねばならぬとする論者にはウンザリするね。

(私)
その通り、ウンザリだ。ただそのコメントに重大が欠陥があることは指摘すべきだろうな。歴史の事実から言って。

(飲み友)
産経ニュースの内田樹氏は「こんなに負けた国はないぐらい負けた」という。

(私)
うん。たしかに敵国からは日本に対する無条件降伏の声もあったくらいだから、それ自体は、妥当な見解ではある。

(飲み友)
しかし「底抜け」になるまでの戦争継続とは何だったのか。この検証が戦後知識人の最大テーマの一つだったはずじゃないのかね?

(私)
「戦争指導部」批判だね。

(飲み友)
しかしこの「戦争指導部」と統帥権干犯論から日米開戦に至る「戦争指導部」とは同じだろうか。

(私)
さすがだね。私もそこが問題だと思う。

(飲み友)
いつも御主が言ってるように、昭和戦前は帝国憲法蹂躙派の時代だ。ならば帝国憲法遵守派と帝国憲法蹂躙派が居たということになる。

(私)
やはり、昭和戦前の歴史を帝国憲法との対比でみる必要があると思う。

(飲み友)
ではまず、統帥権干犯論からはじめてもらおうか。

 

昭和戦前と帝国憲法(昭和5年から10年)

(私)
じゃあ、まず『昭和天皇独白録』にその根拠が示されているので、要約する。
「倫敦会議、帷幄上奏問題(昭和5年)」
末次信正軍令部次長はご進講の際、政府の意向と異なる軍縮反対の意見を述べた。この件はのちに末次から加藤寛治軍令部長へ報告された。それで軍令部の意見が図らずも天聴に達したので、加藤は直接天皇に辞表を提出した。海軍大臣を経由しないこの行為は「間違っている」と天皇は断言されている。それで天皇は辞表を財部彪海軍大臣へ下げたが、財部は天皇にたいし、「辞表はどうか出さなかった事にして頂き度い」と云った。 「当時海軍省と軍令部と意見が相反してゐたので、財部としてはこの際断然軍令部長を更迭して終へばよかったのを、ぐづぐづしてゐたから事が紛糾したのである」

(飲み友)
つまり天皇は、統帥権干犯論をもとに軍縮反対を主張する勢力に対して否定的だったことが読みとれるというわけだね。統帥権干犯論は帝国憲法に違背していたということだ。美濃部達吉『憲法撮要』からもそう言える。

(私)
次は「上海事件(昭和7年)」
『昭和天皇独白録』によれば、昭和7年3月3日、上海での戦闘は停止した。これは天皇が参謀総長を経由せず、直接白川義則大将に命じて実現したんだよ。3月3日の国際連盟総会までの停戦は、天皇が親補式において白川に指示したとされている。停戦となり「国際連盟の衝突をさけしめたる功績を思ふ」として詠まれたのが次の一首。
「をとめらの ひなまつる日に いくさをば とどめしいさを おもひてにけり」

(飲み友)
ああ、昭和史の大きなポイントだな。天皇が事件の拡大を防止しようとされた事実は、拡大を願う勢力の存在を明確にするな。この時点での「戦争指導者」の多くと、天皇は明らかに異なっている。

(私)
さらに大きなポイントが「天皇機関説と天皇現神説(昭和10年)」
「私は国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支へないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝へさした事がある」

(飲み友)
明確な天皇機関説支持。そういえば、竹山道雄だったか、「統帥権的天皇制」と「機関説的天皇制」。ただ後者はわかるが、竹山道雄は「統帥権的天皇制」を「一君万民の軍国的社会主義体制であり、これは社会的不正を攻撃したり外地侵略をしたりした」と説明している。これはちょっと・・。

(私)
たしかにここは難しい。ただこれは天皇を主体として考えるのではなく、国家の要人たちが憲法をどう運用したかということだろうね。

(飲み友)
憲法自体は同じだから、解釈・運用の問題だな、たしかに。

(私)
また当然ながら、帝国憲法が天皇機関説で解釈して問題ないことは、『憲法義解』や『伊藤博文伝』から明らかだ。しかし当時における「戦争指導者」の一人であった真崎甚三郎教育総監は天皇機関説を排撃した。これを金子堅太郎などが後押しして国体明徴運動となり、2・26事件につながってくる。

 

昭和戦前と帝国憲法(昭和11年から12年)

(飲み友)
その2・26事件が昭和11年。つまり天皇機関説排撃の後。そういえば主犯格の磯部浅一がこう語っている。
「渡邊は同志将校を弾圧したばかりでなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」

(私)
岡田貞寛『父と私の二・二六事件』だね。そこに引用されている磯部の「行動記」。結局、教育総監だった渡辺錠太郎は天皇機関説に肯定的だった。それで狙われたと考えて妥当性がある。

(飲み友)
事実として鎮圧されたのは天皇だったから、2・26事件は天皇機関説排撃とともに反帝国憲法ということになる。まあ、それ以前に2・26はいわば軍人によるクーデターだ。肯定できない。
そして現御神問題。

(私)
『昭和天皇独白録』から、
「又現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云った事がある」

(飲み友)
御主の調査では、およそ国典に天皇=現御神は存在しない。それは帝国憲法にも教育勅語にも存在しない。また天皇がご自信を「神」と宣言せられた文章は一つもないというだったね。

(私)
その通り。今回採り上げた内田樹氏を含め、戦後においてこれを解明した知識人は一人もいない。著書でこれを解明したのは木下道雄の『宮中見聞録』と拙著『日米の錯誤・神道指令』の二冊だけ。

(飲み友)
木下道雄は当時の侍従次長で、いわゆる「人間宣言」の当事者だ。これを書き遺してくれたことに、日本人として本当に感謝しなければならないな。それゆえ御主の解明に根拠があると断言できる。

(私)
そうだね。『宮中見聞録』は戦後における名著の一冊だと思う。

(飲み友)
国典に用いられている現御神は「現御神止」であり、必ず「止=と」が付けられている。「現御神と天(あめ)の下しろしめす天皇(すめら)」そしてこの「現御神止」は「しろしめす」の副詞である。現御神=天皇ではない。その意味は「私心なく、祖先の叡智に遵って」ということである。これは文武天皇即位の宣命等に明らかである。そういうことだった。

(私)
実はこの天皇機関説排撃と天皇現神説は、昭和12年文部省『国体の本義』となって流布された。天皇機関説排撃と天皇現神説のいずれもが帝国憲法に反するものであったことは、以上のことから検証できる。だから天皇が反乱軍を鎮圧されたことは当然のことと理解できるということになる。

(飲み友)
昭和天皇は本当に憲法遵守だったと、ますます考えさせられるなあ。

(私)
さて「支那事変(昭和12年)」
「私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云ってゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をここでも取り逃がした」
どうも陸海軍間、そして陸軍内部でも方向が一定でない。このあたりもあの戦争のポイントだろうね。

(飲み友)
さらに、こう書いてある。
「又この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼はそれでは辞表を出すと云ふ、彼がゐなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となった」

(私)
ここはやはりソ連についての見解の相違があると思う。三国同盟は結局のところ反英米だけれども、親ソか反ソかでその意義が異なってくる。

(飲み友)
うーん。これはやや難解だ。(すいません!冷たい水を二つ!)

 

昭和戦前と帝国憲法(昭和13年から16年の対米開戦まで)

(私)
昭和13年、近衛内閣は「国民政府を対手とせず」としていわゆる泥沼の「日中戦争」にのめり込んで行く。

(飲み友)
あれは本当に戦争継続を志向したとしか思えない。

(私)
そして昭和14年にはノモンハン事件。

(飲み友)
昭和15年は第二次近衛内閣で「基本国策要項」。この年に日独尹三国同盟が締結された。ところで翌年に締結した日ソ中立条約を考えると、さっきの話に戻るが、三国同盟は「反英米・親ソ」が確認できる。

(私)
そういうことだね。『昭和天皇独白録』をもう一度見てみよう。「米内内閣と陸軍(昭和15年)」だ。
「日独同盟論を抑へる意味で米内を総理大臣に任命した」

(飲み友)
しかし陸海軍間の問題から、米内内閣は倒された。畑俊六陸相が陸軍の総意から辞表を提出し、その後、軍部大臣現役制において陸軍が大臣を出さなかったから。

(私)
軍人が政治に深く関与するとこうなるというパターンとなった。

(飲み友)
「三国同盟は十五年九月に成立したが、その后十六年十二月、日米開戦后出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」
ホントに害だったなあ。

(私)
天皇が三国同盟に反対だったことは、当時の駐日米国大使ジョセフ・グルーの日記にも記されているらしい。『滞日十年』かな。それと出典は記されてないが、『昭和天皇独白録』の「注」には天皇から近衛首相への言葉が紹介されている。

(飲み友)
これを読むと何とも言えない気持ちになる。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である」
この時点での陸軍、そして及川古志郎海軍大臣も同盟論に賛成している。これも天皇と当時の「戦争指導者」の考えが異なっていた事実だなあ。

(私)
そして昭和16年の南部仏印進駐で対米開戦はほぼ確実となった。

(飲み友)
戦争をするのに必要な石油を、その相手となる米国から、当時最も多く輸入していたという事実は信じられない。『昭和天皇独白録』にある。
「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである」

(私)
南部仏印進駐は対日経済封鎖となって、結局は対米戦争、連合国との戦争に至る。これはどう考えても欧米諸国をアジアから追い出す戦略だから、大戦争となるのは避けられない。

(飲み友)
たしかにフィリピン独立のためのジョーンズ法などはすでに成立しており、南部仏印進駐が日本の覇権のためだと言われてもやむを得ない面がある。これでは日米交渉など成功するわけがない。

(私)
そうだね。結局、昭和16年12月8日の対米開戦。

(飲み友)
そして「完敗」。さてこれを遡って検証すると、どうなるか。

 

内田樹氏の怠慢

(私)
産経ニュースにある内田樹氏のコメント。これには「負けすぎた」ことへの疑問が示されていない。「負け過ぎ」を望んだ勢力がいたのではないか、そういう検証に目をつぶっている。

(飲み友)
そういえば、敗戦革命なんていう言葉。日本を敗戦せしめて共産主義革命を達成する。ざっくり考えるとそういう連中がいたとしても不自然ではない。

(私)
そのあたりは三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』や中川八洋『近衛文麿とルーズベルト』に詳しい。まずこの点からすると、内田樹氏のコメントには最重要ポイントの一つが欠けていると言わざるを得ない。

(飲み友)
それと、日本人による東京裁判も必要だったな。結局あの戦争が何だったのか。誰が何を志向したのか。

(私)
そして第2点目。内田樹氏はこう語っている。
「日本の場合、戦争責任の追及をしたのは外国人たちでしたし、軍国主義を罵倒したのは日本国民でした」

(飲み友)
たしかに政治判断を誤った国家の要人が整理されていないと思うな。ただ内田樹氏自身、この「軍国主義」に対する分析をしていない。いったいこの「主義」とは何なのか。軍事費の多い国は現在でもある。しかし必ずしも「軍国主義」とは言われない。

(私)
昭和17年2月に米国で出版された『敵国日本』。著者のヒュー・バイアスが語ったところとGHQの占領方針は酷似している。それと参考になるのがヒリス・ローリィの『帝国日本陸軍』、これは昭和18年3月の出版。

(飲み友)
そういえば、駐日米国大使だったジョセフ・グルーのシカゴ演説。この演説に両者が引用されていると言ってたね。

(私)
うん。彼らは日本にいて当時における政治状況をよく知っている。そして彼らの言説から「軍国主義」を分析することができると思う。

(飲み友)
結局は「八紘一宇」に教育勅語曲解のエンジン。これだな、やはり。「主義」というんだから。軍事費は補助的な話だ。

(私)
まあ、今回の内田樹氏のコメントのような短いものでも、ここは語ってほしい。ただ教育勅語の曲解そのものが理解されている必要があるけどね。

(飲み友)
「戦争被害を受けた国に謝罪するときに云々」、この戦争被害に対する謝罪というなら、戦勝国・敗戦国を問わないだろう。この辺も分かりにくい。

(私)
それとドイツとの関係。
「ドイツの大統領なんて見て下さいよ。ヨーロッパ中どこに行っても謝罪し続けですよ」

(飲み友)
これは「「ナチスがひどいことをして申し訳ありません」ととにかく謝る」と内田樹氏が言ってるように、ナチスの蛮行を謝っているのであって、ドイツ人すべてが悪かったとは言っていない。

(私)
そうだね。東京裁判の連合国。ナチスと同じようなことがあったのではないかと、共同謀議などを持ち上げた。

(飲み友)
しかしどう見てもそれを証明するものがない。そもそも訴状の「侵略戦争」も分からない。

(私)
「八紘一宇」について、弁護人だった菅原裕や清瀬一郎は裁判官を説得したと記している。しかし明治4年までのことは判決文にあるが、昭和戦前のそれには言及していない。

(飲み友)
「八紘一宇」が明治4年?

(私)
まあ、日本人側が執拗にこの件を語るので、一応認めたかたちにしたようだ。しかしすでに神道指令で用語は禁止されているし。現実は明治4年の廃藩置県までしか判決文にはないようだ。

(飲み友)
うーん。そうなると東京裁判での日本人の「八紘一宇」解釈が、その後の現代史の解明を遅らせているということになる。

(私)
教育勅語の曲解がそこになければ「八紘一宇」の分析・解明は無理。歴史の事実だね。

(飲み友)
内田樹氏コメントのピーク。
「日本人の仕事は旧植民地の人に会ったら、とりあえず「いろいろすみませんでした」とさくっと謝ること」

(私)
まったく知識人としての冷静・沈着さが見られない。やはり昭和戦前の日本に何があったのか。そしてGHQ日本占領。その政策の根拠は何か。それをまず解明することだろうな。

(飲み友)
ほんとに話にならん。なぜこうも我が国の人文系学者ってのはダメなのかねえ。さあ、愚痴っても仕方がないから、これを飲み干して今日はこれまでとするか。

―終わり―2014年