ポツダム宣言と教育勅語

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ポツダム宣言第6項(1/5)

(飲み友)
やあ、久しぶり。あっという間に梅雨入りだ。その後はどうかね?

(私)
お久しぶり。まあ、とにかくビールで乾杯だ。(お願いします!ビールとお湯割り。うん、芋にしてください。それと枝豆・板わさ)

(飲み友)
では、乾杯!どうもどうも。

(私)
どうもどうも。相変わらずね、あの戦争にこだわっている。

(飲み友)
そういえば、ポツダム宣言のことで何かいってたね、以前・・。

(私)
うん、ポツダム宣言を受諾した我が国は昭和20年9月2日、ミズーリ艦上において、降伏文書に調印した。ここから約6年半にわたるGHQの日本占領がはじまったんだが・・。

(飲み友)
その歴史の事実だけは、右も左も共通だよね、認識は。

(私)
ただね、ポ宣言を「受諾」したからにはその内容が理解されていると思っていた。それがどうも違うらしい。

(飲み友)
ポツダム宣言はたしか13項目だったね。その第6項目からの8項目が日本に対する「条件」。

(私)
まあ時代が時代だから、いわゆる国体護持、天皇の存続が大きな問題だったのはよくわかる。そして「無条件降伏」でなかったことは、すぐに理解されていたと思う。

(飲み友)
各項目の内容はそもそも理念だけで、具体的なことはなかったのじゃないのかね。

(私)
だから日本側で様々な憶測がなされたことも、あるいはあったのかもしれない。ただね、その第6項からして誰ひとり根拠を以て説明していない。日本が「世界征服」を企てたという見方。

(飲み友)
「世界征服の挙に出づるの過誤」とあったね。WORLD CONQUEST。それにしても気宇壮大だ。兵站が続かなく餓死者も多かった戦争で、「世界征服」とは実に違和感がある。

 

グルーとドーマン(2/5)

(私)
実はね、ポツダム宣言の草稿はドーマンが書いたとされている。彼は戦前の駐日首席公使で、その時の大使はグルーだった。グルーは帰国後に米国務次官となり、ドーマンはその特別補佐官に任命された。二人の日本に対する見方はほぼ同じだったとみてよいだろう。

(飲み友)
GHQの日本占領はたしかに度を超していた。ありゃあ、ポツダム宣言違反ではないのかね。(野菜天と冷奴ふたつ!)

(私)
それでだ。ポ宣言受諾の前、草稿段階にもどってみたい。さまざまな研究はあるが、飯塚滋雄「ポツダム宣言の真意」は興味深い。

(飲み友)
どんなことが書いてあるの?

(私)
うん、とにかくポツダム宣言の第6項の原文。グルーの指示でドーマンが書いたものだが、この原文、まあ草稿だが、発表されたポ宣言とほぼ同じというか全く同じ。

(飲み友)
つまり「世界征服」はドーマンの文章ということ?

(私)
ああ、そういうことになる。話はそれるが、『昭和史の天皇 3』に興味深い文章がある。うん読売新聞社の本だ。昭和49年。

(飲み友)
思い出した。たしか全30巻。

(私)
その第3巻にね、戦後になってドーマンと会った人の話がある。太田三郎という人で終戦当時は外務省調査局の第三課長兼内閣情報局の情報官。戦後は横須賀市長となり、その後は運輸審議委員にもなった。

(飲み友)
ドーマンとの関係は?

(私)
うん、太田三郎がロンドンの大使館にいた頃、ドーマンは米国大使館の一等書記官だったらしい。日本の大使は松平恒雄。その頃知り合ったらしい。

(飲み友)
ドーマンは何て?

(私)
太田三郎によると、「ドゥーマンのいうところによりますと、開戦直後のころは、天皇制に対するアメリカの世論は、きわめてきびしいものでした。天皇制は宗教であって、その国家神道は、宗教の自由に反し、日本の軍国主義につながり、国民に強要している。 ーこれは俗耳にはいりやすい意見ですが、日本の実情を知らないアメリカ人の圧倒的な考え方であって、・・」ということらしい。

(飲み友)
そいつは驚きだ。お主がいつも言ってるD・C・ホルトムと同じじゃないか。『日本と天皇と神道』の。

(私)
さすがだね。そうなんだ、まったく同じと言ってもいい。ホルトムは初版が昭和18年で米国の日本関係者にはよく読まれた可能性がある。1950年のバーロウ『Shinto』もホルトムの受け売りに近い。

(飲み友)
それでポツダム宣言第6項の「世界征服」がイメージできる。

 

三枝茂智とポツダム宣言(3/5)

(私)
三枝茂智は日本国憲法を批判したことでその名前がある。井上孚麿そして菅原裕らとともに日本国憲法無効論だ。その三枝茂智はポ宣言と日本国憲法が異なることを見事に検証した。そしてグルーを「海外の清麻呂」だと称賛した。

(飲み友)
日本を救ったということか。すごい評価だね。

(私)
だからポツダム宣言そのものは、いわば天皇の制度が維持され、新しい政治体制は日本国民の選択によると。敗戦国に対してこれほどありがたい話は無い、ということになる。

(飲み友)
しかし実際にGHQが占領中に行った政策は過激に過ぎた。結局はGHQが何もかも強引に推し進めた感じがある。むろん、それに迎合した日本の要人がいたということになるけれども・・。

(私)
たしかにスイスにいた日本人らは、ポ宣言に wieder つまり復活という言葉を読んでいたという。再びとか復活だよね。だから早く受諾すべきだと考えたのもこの根拠があった。

(飲み友)
結局のところ、日本をよく知るグルーとドーマンの書いたポツダム宣言の草稿。むろん関係者が協議して完成させたものだし、陸軍長官のスティムソンの影響も大きいと言われる。この内容は日本に寛容だった。しかしGHQはそれをはるかに超えたものを我が国に要請した、そういうことか。

(私)
三枝茂智『真説・日本国憲法の由来』はポ宣言と日本国憲法の違いを分析したユニークな本だ。ただ三枝茂智は戦前、海軍の高木惣吉のブレーンだった。いわゆる第二昭和研究会。

(飲み友)
そうすると、やっぱり国家社会主義者か、まずは思想的には共産主義系か。

(私)
まあ、高木惣吉からすると、いわゆるアカだったかもしれない。それはともかく、三枝茂智はその時代のことを明確に反省していないようだ。つまり日本国憲法を否定するなら大日本帝国憲法の肯定となってよい。ならば帝国憲法に反する文部省「国体の本義」を徹底批判して整合性がある。しかしそれは見られない。

(飲み友)
そしてもし「国体の本義」を否定出来たら、教育勅語の正しい解釈に及んだはずだ、そういうことになる。そこが日本国憲法否定論者でも説得力を欠くところだな。

 

ポツダム宣言と教育勅語(4/5)

(私)
グルーとドーマンは戦前の日本をよく知っていた。特にその良い面を理解してくれた。それがポ宣言の revival やドイツ語の wieder となった。「民主主義的傾向の復活」。

(飲み友)
しかし終戦前の米国人の日本観は、彼らと違っていた。それでもグルーとドーマンは精一杯のことをしてくれた。ただ日本側は国体護持と無条件降伏か条件降伏かが重要な問題だった。ポ宣言の各条項を吟味する余裕がなかったのだろう。

(私)
少し整理しよう。いきなりだが、日本人は教育勅語を曲解していた。それをホルトムは鵜呑みにして米本国でも一般的となった。グルーらは日本を救おうとポ宣言の草稿を書いた。それは降伏する日本にとっては本当に寛容なものだった。ただ、いかにグルーやドーマンとはいえ、教育勅語の曲解はわからない。ここだけはホルトムと同じだった。それが、残念だが第6項の「世界征服」となった。「之を中外に施して悖らず」の誤解。

(飲み友)
ホルトムから先はしょうがないとしても、やはり問題は日本人の曲解だな、「中外」の。本来は「宮廷の内外」つまり「国中」だが、これを「国の内外」と曲解した。そこから「之を中外に施して悖らず」が「皇道を四海に宣布」となり「世界征服」と受け取られた。

(私)
結局はそういうことになる。その日本人の教育勅語の曲解は今日も変わらない。だから神道指令も公職追放令も本当のところは解明されていない。

(飲み友)
それと、いわゆる「人間宣言」も。

(私)
ああ、その通り。公職追放令にはポツダム宣言第6項の実現、そう書いてある。だから「世界征服」を解明しないとはじまらない。

(飲み友)
それにしても、太田三郎が聞いたドーマンの言葉は重いなあ。天皇、宗教それも彼らのいう国家神道、これは宗教の自由に反するとし、加えて軍国主義。グルーらは我が国に好意的だったが、GHQの政策は米国人一般の認識に基づいていた、そう言えるんじゃないか。

(私)
GHQの日本占領について、グルーが娘にあてた手紙が『昭和史の天皇 3』にある。「マッカーサーは多くのアドバイスを欲しないだろう」。そして支配者として日本には来たくなかったようだ。

(飲み友)
グルーが国務次官補でドーマンは特別補佐官。国務長官はバーンズか。

(私)
ドーマンは「バーンズは共に語るに足りぬ男だ」と言っている。アメリカの「国務長官がつとまる人物じゃあない」とも。ところでドーマンは大阪生まれで、九段の暁星小学校から奈良の郡山中学校で学んでいる。

(飲み友)
何にしても、被占領期の研究は進まないなあ。ポツダム宣言・人権指令・神道指令・「人間宣言」等々。これらを貫いているのは教育勅語の曲解。「世界征服」。

(私)
まったくだ。しかし今、古代史や中世史が少しずつ明らかとなってきているように、今後に期待するしかない。

(飲み友)
そんな将来まで解明されないのかね、占領史は。

 

教育勅語の排除と占領方針の転換(5/5)

(私)
昭和23年10月、米国家安全保障会議から「アメリカの対日政策に関する勧告」が出た。つまり占領政策の転換だった。

(飲み友)
ソ連の問題。

(私)
うん、そしてその文章「対日講和条約の手続き,および内容をめぐり明らかになった関係諸国間の見解の相違,ならびにソ連による侵略的共産主義勢力の膨張政策によって引き起こされた深刻な国際情勢に照らし」

(飲み友)
主な占領政策が終わったということも言える。追放もほぼ終了している。

(私)
我が国の戦後を見ると、昭和23年の秋までの政策が未だに影響を及ぼしている。まあ十分占領の成果があったんじゃないか。悔しいけど。

(飲み友)
そういえば、公葬。内務文部次官名による「公葬禁止」の通達が出されたのは、昭和21年11月1日。 政教分離の見地から、というのがその理由とされていた。それが24年には参議院葬が行われている。

(私)
さっき出た松平恒雄。元参議院議長だった。考えてみるとこれはソ連とは関係がない。やはり概ね占領政策が達成できた、ということかな。

(飲み友)
教育勅語の排除が決議されたのは昭和23年6月、このへんで終わりか。軍隊は解体されたしいわゆる超国家主義の教育勅語は排除となった。占領方針が達成されたってわけだ。

(私)
そう考えても大きな間違いではないような気がする。

(飲み友)
「勧告」には「追放」の項目もある。その終了と国際状況の変化とが重なって占領方針の転換となった。なるほど。やはり教育勅語の歴史を徹底してほしいね、少なくとも研究者には。

(私)
占領研究が古代史とは言わないまでも、中世史くらいになってくれば、可能性はあるだろう。ははは、遠い話だが。

(飲み友)
やれやれ。

―2014年―