人間宣言

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人間宣言と木下道雄

『宮中見聞録』

終戦直後に侍従次長となった木下道雄に『宮中見聞録』がある。引用されることの多い著作ではあるが、不思議なことに「昭和二十一年元旦に発せられた新日本建設に関する詔書について一言」を語ったものは見つけられない。

我が国ではこの「新日本建設に関する詔書」を未だに「人間宣言」といって憚らないが、『宮中見聞録』を読めばあの詔書が「人間宣言」などではないことは明らかである。また木下道雄の『側近日誌』にも仔細がある。これらはなぜ正しく読まれることがないのだろうか。

「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」

あの詔書の現御神に関する有名な件である。この部分を引用して「人間宣言」とする著作が多い。当時は藤樫準二『陛下の〝人間〟宣言』(昭和21年)の影響もあったのかもしれない。

天皇の「人間宣言」と謂うのだからそれ以前は天皇を現御神((あきつみかみ)あるいは現人神(あらひとがみ)と認識していたとのことである。天皇=現御神である。

しかしこの詔書に深く関与した木下道雄はもともと天皇=現御神ではなかったと明言している。したがってあの詔書は「人間宣言」などではあり得ないはずである。しかし昭和12年文部省編集の『国体の本義』では天皇=現御神となっている。

「かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のままに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」(『国体の本義』「聖徳」(天皇))

どのように読んでも天皇=現御神(現人神)である。

木下道雄はこの現御神が多く見られる奈良朝頃の宣命について、「いずれも、現御神、現神、明神の字の下に必ず「と」をつけてよむことになっている」と記している。

「これは「として」の意味で、「神の、み心を心として」天(あめ)の下しろしめす天皇という、至って慎み深い、祈りをこめた天皇御自身の自称であった。アキツミカミは「しろしめす」を形容する副詞として使われているのであって、「天皇(すめら)」を形容する形容詞ではないのである。」と明確に述べている。天皇=現御神(現人神)ではない。

したがって、『国体の本義』をはじめとする戦前の天皇=現御神観を否定したのがあの詔書だという主張といってよいものである。

『宮中見聞録』は昭和43年の発行である。これだけ分かりやすく述べてくれているのに、なぜ今日まで人々は「人間宣言」などと謂うのだろう。木下道雄のいう「現御神と」、正確には「現御神止」であるが、この「止(と)」の意味が理解されていないのではないか。木下道雄は『側近日誌』にこうも述べている。

「よって、予は改めて考え直し、左の文を作った。(凡そ民族には其の民族特有の神話伝説の存するありと雖朕を以て現神とし爾等臣民を以て神の裔とし依って以て他民族に臨み其の優越を誇り世界を支配すべき運命を有するが如く思惟するは誤れるの甚だしきものたるを覚らざるべからず)これは民族の神話伝説を尊重し、これについて別段議論せず、只この神話伝説をかざして他民族に優越感をもって臨むのを誤りとしたのである。」

「人間宣言」に言及した著作は数えきれないほどあると言っても過言ではない。しかし詔書が発せられるまでの経緯を詳述したものはあっても、その解釈に踏み込んだものは見当たらない。

GHQのダイクやヘンダースン、学習院院長山梨勝之進、GHQとのパイプ役だった英語教師ブライス、幣原首相や石渡宮内相、そして前田多門文部大臣、木下道雄がどのように関与したかを克明に語る著作があるだけである。現御神の件を正確に解説したものは見つけられない。

木下道雄の『宮中見聞録』『側近日誌』以降、今日に至るまで同じことをくりかえしているのだから、「現御神止」の意味そのものが理解されていないと言ってよいだろう。

吉田茂について、木下道雄は『側近日誌』に「大臣は現神という言葉も知らぬ程国体については低能である。これは驚くべきことなり」と記している。また政府内でのメモには現御神にルビが振ってあったという。国典への関心がよほど薄かったと見える。

宣命の「あきつみかみ」

「あきつみかみ」が多く用いられているのは『続日本紀』である。そしてその宣命の解説をしたものに本居宣長『続紀歴朝詔詞解』がある。天皇の宣言には詔書と勅書があって、臨時の大事が詔で尋常の小事が勅であったと池辺義象『皇室』にある。これらは「公式令」に確認できる。

「現御神止大八嶋国所知天皇大命良麻止詔大命乎(あきつみかみとおほやしまくにしろしめすすめらがおほみことらまとのりたまふおほみことを)」

『続紀歴朝詔詞解』の第一詔冒頭である。この解説はつぎのようになっている。

「現御神止は、阿伎都美加微登(あきつみかみと)と訓べし、此訓の事、出雲国造神壽後釈にいへり、明御神明津神なども書り、止は、爾弖(にて)といはむがごとし、第五詔には、現御神止坐而(まして)とも有、皇止坐父止坐(すめらとますちちとます)なども、皇にて坐父にて坐也、此言は、天皇は、世に現(うつ)しく坐(まし)ます御神にして、天(あめ)の下をしろしめすよし也」

現御神に「止」がついた「あきつみかみと」を、「天皇は現御神にして天の下をしろしめすよし也」の意であると解説している。ここはやや誤解を生みそうな文章で、少し慎重に読む必要がある。

原文は「現御神と大八嶋国しろしめす天皇」である。「現御神にして大八嶋国をしろしめす天皇」である。「現御神止」と天皇の間には必ず「しろしめす(所知・御)」がはいっている。したがって「現御神にして大八嶋国をしろしめす」、その天皇の大命を、ということになる。

「景行紀雄略紀に、現人神(あらびとがみ)とあるも、同じ意也、又万葉に、遠神吾大神(とほつかみわごおおきみ)と申し、又天皇の御うへの事には、神ながら云々と申すも、神にてましますままにといふ意也、そもそも後世に至りて、天皇を畏れ奉らざる者も、出来たりしは、世ノ人の心、漢意にうつりて、現御神にまします御事を、わすれたるが故也、あなかしこあなかしこ。」

現御神は現人神と同じであり、「天皇の御うへの事には、神ながら云々と申すも、神にてましますままにといふ意也」とある。

また本居宣長『直毘霊』には「天つ神の御心を大御心として、何わざも、己命(おのれみこと)の御心もてさかしだち賜はずて、ただ神代の古事(ふること)のままに、おこなひたまひ治め賜ひて」と述べている。そしてもっとも分かりやすいのはこれにつづく次の文章である。

「現御神と大八洲国しろしめすと申すも、其ノ御世々々の天皇の御政(みおさめ)、やがて神の御政なる意なり、万葉集の歌などに、神随云々とあるも同じこころぞ」

「現御神と大八洲国しろしめすと申すも、」と読点があって、「現御神と」は「しろしめす」の副詞であることが明らかとなっている。「現御神と」=「神随(かむながら)」とするのが妥当な解釈である。したがって天皇=神随ではないから天皇=現御神でもない。

また『続紀歴朝詔詞解』の大神安守の序はつぎの通りである。

「弥継々爾生坐流日之御子之(いやつぎつぎにあれませるひのみこの)。現御神登神随所知(あきつみかみとかむながらしろしめす)。此御食国能大政事者皆(このみをすくにのおほきまつりごとはみな)。於高天原而(たかまのはらにして)。遠津神皇祖之神量々賜祁牟(とほつかむろぎのかむはかりはかりたまひけむ)」

つまり「現御神と神ながらしろしめす」で読点(この場合は句点となっているが)がある。「現御神と」のあとに「しろしめす」がつづいている。「現御神と」は「しろしめす」の副詞として用いられている。現御神天皇ではない。

ただ宣命には例外的なものも存在する。

「現神と坐す倭根子天皇我が皇(あきつみかみとますやまとねこすめらみことわがおほきみ)」

桓武天皇・即位の宣命であるが、これは先帝を奉っての御言葉である。そしてその先帝であられた光仁天皇も「明神と大八洲しろしめす和根子天皇」(皇太子を立て給ふの宣命)だったのである。

「朕、明神の祐を得て、忝く聖哲の緒を承け(あれ、あきつみかみのたすけをえて、かたじけなくひじりのおほみわざをうけ)

孝明天皇・賀茂社に大嘗祭を奉告し給ふの宣命である。明神は統仁親王(孝明天皇)を皇太子に定められた仁孝天皇と考えられる。これも先帝を奉ってのものである。

「明神にます我が天皇(あきつみかみにますあがすめらみこと)」

明治天皇・英国皇族の来朝を労ひ給ふの宣命である。今上天皇に対して「明神にます」は珍しい宣命であるが、やはり「明神として(しろしめす)我が天皇」の「しろしめす」が省略されたものと考えてよいのではないか。

明治天皇・即位の宣命も「現神と大八洲国所知(しろしめ)す天皇」である。そしてこれは臣下が「我が天皇」と語ったもので、天皇の「みことのり」ではない。

いずれにしても天皇が御自身を現御神であると宣言された宣命は、歴史上ひとつも見つけられない。

本居宣長の『古事記伝』における「かみ」は「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり」であり、「一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人もあるぞかし」である。

広く言えば「鳥獣木草のたぐひ海山」まで含む。これらから天皇=現御神であるとして、どんな説明が可能だろうか。

「現御神と」の「止(と)」は、上接の語と一体となって副詞を構成していると考えて理解ができるのである。必ず「しろしめす」を修飾する副詞として用いられているのである。

様々な解釈

現御神をめぐる解釈には様々なものがある。そして『続紀歴朝詔詞解』が根拠を以て否定されていないにもかかわらず、これに反する解釈が平然と語られている。

ただ本居宣長に関連する著作には誤解を生みそうなものも少なくない。例えば『玉鉾百首(たまほこのももうた)』に次のようなものがある。

「物みなはかはりゆけどもあきつ神わが大君の御代はとこしへ」

「○もの皆とは、世の中にあらゆる、萬の物皆といふなり。○あきつ神は、現神とかきて、御代々々の天皇を申す。天皇は、すなはち神にてましませば、現在の神とまうすことにて、わが大君と申す詞に、かうふらせいふ詞なり。古き宣命の詞に、現神御宇天皇詔旨云々などあり。○とこしへは、いつまでもかはらぬことなり。○一首の意、萬の物皆は、世を経てうつろひ変りゆけども、わが天皇の皇統は、常しへに、かはらせ給ふことなしとよめるなり。」

この本居宣長のうたを解説した『玉鉾百首解』の著者は稲掛大平、後に宣長の養子となった本居大平である。「現神とかきて、御代々々の天皇を申す」だから現神=天皇である。

ただ現神御宇天皇詔旨云々を引用しているので、この解釈は宣長の『直毘霊』や『続紀歴朝詔詞解』『くず花』に矛盾している。宣長は万世一系の皇国と「君を滅し国を奪ひし聖人」の国、つまり易姓革命の国である支那とのコントラストを明瞭に描いたのである。

前者は「君の私といふ事はなき也」であり後者は「君の私といふ事もあるならん」(『くず花』)である。

大君の御代はとこしへ、これはやはり相当難解な表現であるが、「君の私といふ事はなき也」がとこしへを永遠に実現するのは、皇国の統治、つまり「あきつ神」として「しろしめす」ことによるとうたっていると解釈すべきだろう。

皇統は当然であるが、天皇の「しろしめす」御代が語られるべきだったのではないか。この次の歌と比較するとそのことがよく分かる。

「くにぐにの君はかはれど高光るわが日の御子の御代はかはらず」

これは万世一系の治まる御代そのものへの賛歌である。宣長が古伝承に発見した「天皇のしろしめす国」の歌である。国・御代を欠いては解説として物足りない。宣長が大平のあきつ神解釈についてどのように考えていたかはわからない。

大平はもっとも宣長に近いところで指導を受けていたとはいえ、「しろしめす」という妙(たえ)なる言葉のとらえ方は師に及ばないとみるのが妥当だろう。

時代は変わって『祝詞講義』を著した江戸末期の鈴木重胤である。

「天照坐(あまてらします)大御神の御子の継々天津日嗣(あまつひつぎ)と神随天下所知食す(かんながらあめのしたしろしめす)掛巻も甚も可畏(かしこ)き皇御孫命(すめみまのみこと)の明御神と天下を摂合(ふさねあわ)せ統御(すべま)す御事は・・」

摂合すは、とりまとめる、の意である。この文章でも「明御神と天下を摂合せ統御す御事」とあるから「明御神と」は「摂合せ統御す」の副詞である。この「明御神と」は宣長と同じ解釈である。しかし同著のなかで鈴木重胤は景行天皇紀雄略天皇紀に触れてこんなことも記している。

「天皇は現国を統御む為に神の御所より人身に現れ坐る神と云意にて申させ給へる者なり」

延喜式祝詞講義十五之巻にあるものであるが、これも誤解されそうな文章である。宣長を引用しているが、宣長のように「止(と)」の説明がない。「あきつみかみと」として副詞を構成しているとの意識は感じ取れない。この表現は天皇=明御神に近いものである。

池辺義象は明治から大正期の国文学者である。小中村清矩の養子、小中村義象として明治憲法起草者の一人井上毅の助手格として務めた人である。彼の著書『皇室』には次のような文章がある。

「「明神御宇」とはあきつみかみと、あめのしたしろしめすと訓ず、あきは現にて天皇は現在の神として天下を統治したまふといふ義、これは蓋し我が上古以来、詔旨には必ず唱へ来った詞とおもふ、この古来よりの詞をここに漢文に訳して「明神御宇」とせられたことであらう」

この「明神御宇」の「 」は原文そのままである。あきらかに明神御宇であって、明神天皇ではない。「あきつみかみと、あめのしたしろしめす」であるから副詞としての用い方である。これは井上毅の解釈と同様のものであると容易に想像できる。

明治時代にこの池辺義象の解釈が一般的であったかどうかは定かではない。『皇室』は大正2年の発行であるがこれ以前に解釈の混迷があったといってもよいかもしれない。

小中村(池辺)義象が代表者である第一高等学校国文学科が編纂した『高等国文』巻八(明治29年)と高津鍬三郎他による『改正高等国文』巻四(明治32年)の比較が有効だろう。

『高等国文』巻八、宣命・文武天皇即位の詔
「現御神と、大八洲国しろしめす、天皇が大命らまと詔り給ふ大命を、うこなはれる皇子等、王等、臣等、百官人等、天下の公民諸聞こしめさへと詔る。

『改正高等国文』巻四、宣命・文武天皇即位の詔 「現御神と大八洲国しろしめす天皇が大命らまと詔り給ふ大命を、うこなはれる皇子等、王等、臣等、百官人等、天下の公民、諸聞こしめさへと宣る]

このあとの文章に関してはほぼ同じであるが、なぜかこの最初の文の読点だけが違っている。これは印刷ミスとは思えない重要な違いである。

前者の「現御神と、大八洲国しろしめす、天皇が大命らまと詔り給う大命を」というのは小中村(池辺)義象のいう「明神御宇」の説明に適したものである。一方後者の「現御神と大八洲国しろしめす天皇が大命らまと詔り給ふ大命を」は「明神御宇」の説明に適したものとは言えないのではないか。

『改正高等国文』編纂者に「明神御宇」の意識がなかったことも考えられる。『皇室』は大正2年の発行であるが、現在確認できるものに明治26年発行久米幹文著『続日本紀宣命略解』がある。続日本紀第一詔の文武天皇即位の宣命にある「現御神」「随神」については次のような解説となっている。

「現御神は目の前におはします神といふ義にて天皇を申すなり」
「随神とは神にておはしますままにといふ義なり」

これを読む限り、現御神=天皇である。文脈における「現御神止」はまったく解説されていない。

現御神の概念説明はこれでよいとしても、「止(と)」が上接の語と一体となって副詞を構成していることの解説がなければ文章解読には至らない。「随神とは神にておはしますままに、天の下しろしめすといふ義なり」であれば本居宣長の解釈と同じであるが、著者にその意識はみられない。

これでは「明神御宇」が理解されていないと判断してよいだろう。そしてこの神の説明もない。明治26年の発行だから『改正高等国文』にあるいは影響を与えたことも考えられなくはない。

また、明治期における祝詞の解説書には現御神=天皇が多くみられる。これは神道の儀式におけるものだから崇め奉ることも何ら不思議ではない。天皇の政治的な宣言、あるいは命令としての宣命とは区別して考えるべきだろう。しかし同じ文言が異なる意味にとらえられていることはやや理解し難い。

久保季茲編『祝詞略解補』(明治26年)
○現御神 講義云現御神と称奉ることは掛巻も甚も畏き天皇命は天ツ神の御子とましまして顕国に現はれ坐る大御神と申し奉る意ばへなり

これは鈴木重胤『祝詞講義』そのものである。

桂上枝『祝詞約解』(明治18年)
現御神止 天皇は今明らかに世におはしまして御神と崇み畏みてアキツミカミと云也

これは『出雲国造神壽後釈』にある賀茂真淵の解釈とまったく同じである。

春山頼母『祝詞式講義』(明治25年)
アキツミカミは、現神の義にて、神等は、大概目に見えぬものなれど、天皇は目に見えてまします故に、現に目に見えてまします神といふ義にて、かく申せるなり止の助辞の下に、座してなどの言を省きて含ませたり

これも現神=天皇であって、「しろしめす」に及んでいない。

戦前の宣命解釈

本居宣長・池辺義象らの宣命解釈は大正から昭和に入ってどんな風になったのだろう。

1)和辻哲郎『和辻哲郎全集別巻二』「わが国体について」(大正2年2月8日学習院での講演メモと思われている)。
ここでは万世一系を論じて、この伝統は遡って行けば神話につき当り、「この伝統の源は、天皇を神とする信仰である」と述べている。

この講演では国体と政体を区別して、「政体は社会力の変遷によって変化した、又変化し得る。しかし国体は絶対不動にして動かすべからず」といい、「例えば大化の改新以来土地国有を実行し、貴族及資本家の特権を制限し、殆ど国家社会主義と呼んでもいい様な施設をしたのも、我国体の精華である」と語っている。

この講演の趣旨は「わが国体が社会主義思想と相容れぬものでないこと」を説くものであったとある。それはともかく、天皇=神ということに疑問を呈することはない。

2)津田左右吉『津田左右吉全集第一巻 日本古典の研究』「神代と人代」(大正八年『古事記及日本書紀の新研究』がもとだと解説がある)
「天皇に神性があるといふ思想が、上代に存在したことは、天皇に「現つ神」(出雲国造神賀詞、続紀に見える多くの宣命)または「現人神」(景行紀ヤマトタケルの命のエミシ征討の條、雄略紀四年の條)といふ称呼のあるのでも知られる。これは、宣命の「現つ神と大八島国しろしめす」といふ語によって明かに示されている如く、政治的君主としての天皇の地位の称呼ではあるが、その地位に宗教的意義が伴っている、或は宗教的のはたらきがある、とせられていたために、かういはれていたのであらう。」

天皇の地位の称呼だから、現つ神=天皇である。宣命の「現御神止」が「しろしめす」の副詞であるとする意識はまったくない。しかし天皇が神であるとしても、その意味は津田左右吉自身において判然としないのである。

天皇=神であっても、宗教的崇拝がないというのだから自身もまとめようがないのだろう。宣命の「現御神止」を正しく解読できなくてただただ冗長な論となっている。

3)折口信夫『折口信夫全集1』「国文学の発生(第四稿)」(昭和2年)
「「現御神止大八洲国所知食須大倭根子天皇云々」といふ讃詞は、天子の神聖な資格を示す語として」とあるから、天皇=現御神である。

また折口信夫は「万葉集講義」において、「知らす」の語釈をして次のように述べている。
「知るの敬相。しるは、聞く・見るが、感覚から領有の意義を持つ場合がある如く、此はしるの内容を延長して、占有する・支配する意に用いた。唯、うしはくと対照的に考へ過ぎるのは悪い。」

これは本居宣長『くず花』にある「君の私といふ事はなき也」に矛盾する。私があって占有・支配があるのである。「うしはくと対照的に考へ過ぎるのは悪い」といっても、その根拠は示されていない。「天子の神聖な資格」の具体的な説明もない。

田中義能『古事記祝詞宣命講義』(昭和3年)
文武天皇・即位の宣命の、現神云々の注は、「天皇は世に現しく坐ます御神にて天下を統べ給ふにて申す」である。賀茂真淵や鈴木重胤と同じような表現である。

この最初の「にて」は今でいう格助詞の「で」と同じだと考えられ、現神は天皇を説明するものとなっている。いわゆる連体修飾語ととって良いのではないか。つまり現神=天皇である。

「現人にて神と坐しまして大八洲を統べ治めらるる天皇の勅命たる大御言を」は本文であるが、伝統的な表現の模倣であって、どう読んでも「現人にて神と坐しまして」が「統べ治めらるる」の副詞だとする意識は見られないし、その意味も語られていない。

御巫清勇『宣命詳釈』(昭和10年) [現御神止] あきつは明之義、現在の意。人の体として世に現はれ居給ふ神。現在に坐します神。現身の神。天皇の尊称で、あきつ神・現人神・現御神も同じ。「と」は「として」「と坐して」の意。大方、神は形隠れ坐して顕には見えず所謂隠身に坐すに対して、御身の現はれ見え給ふ神をいふ。

天皇の尊称とあるから天皇=現御神である。また「しろしめす」につながる説明はなく、現御神止が副詞であることの意識は見られない。

金子武雄『続日本紀宣命講』(昭和16年)
「○現つ御神と 「あき」は、「あきらか・あきらむ」などの語源であり、明・現・顕などの意を有ち、「つ」は天都神・天津日嗣、遠都神祖などのそれであり、上の語を受けて下の語に連なり、一つの体言をつくる働きを有つ。現つ御神とは、明かに現はれてをられる御神の意であり、天皇がそれであらせられるのである。「あらひとがみ」とも申し上げる。次に「と」は「として」の意」

「現つ御神と」の語釈であるが、結局は「現御神」そのものの概念説明となっており、「と」がついていることの解説はない。そして「しろしめす」には言及していない。

大正から昭和戦前における一部の憲法学者が、大日本帝国憲法の天皇条項を枉げて解釈していたことはすでに指摘されているところである。やはりこれらの誤った続日本紀等の宣命解釈が影響していないとは言えないだろう。

戦後の現御神

池辺義象を除いて、戦前まではたしかに『続日本紀』の宣命解釈では天皇=現御神であった。ただ現御神そのものの概念説明はあっても、「現御神止」の具体的な説明は見当たらない。

そしてまた天皇=現御神であらせられると述べながら、神であらせられることの意味を説明したものも見つけられない。昭和21年元旦の「新日本建設に関する詔書」、いわゆる天皇の「人間宣言」以降、図書館に並んでいる日本の歴史本はどのように「あきつみかみ」を捉えてきたのだろうか。

1)井上清『日本の歴史 上』(1963年岩波書店)
「大化の改新とその後の法制の整備によって、ここにはじめて、日本社会にも・・・国家形態がつくられた。この国家において、天皇は、国土創造の神の子孫であり、アキツミカミ(明御神・現御神)すなわち『人間として現われている神』といわれる神的な権威であり、同時に全国土も人民も天皇の所有とする、最高の専制権力者であった」

天皇=明御神・現御神であり、本居宣長のいう「君の私といふ事はなき也」に対して正反対の考え方である。そして神的な権威や専制権力を歴史事実に沿って説明ができているわけでもない。

2)直木孝次郎『日本の歴史 2』-古代国家の成立-(1973年小学館)
「宮廷の貴族たちが天皇を神とたたえるのにたいし、天皇みずからも自分を神と称した。たとえば天武十二年正月にくだした詔勅のはじめに、天皇はみずから、『明神と(して)大八洲(を)御す日本根子天皇』と称している」

やはり天皇=明神である。ただし「天皇みずから自分を神と称した」事実は挙げられていないし、天武天皇の詔勅も解読出来ていない。宣命解釈の誤りは戦前の学者と同じである。

3)上山春平『日本思想大系 月報56』「律令と天皇制」(1976年岩波書店)
「中国の皇帝が、天子によって君主としての資格の当否を判定されるたてまえになっているのにたいして、日本の天皇は、天神の化身としての「現神」(宣命には「現神」とあるが、公式令の詔書式には「明神」とある)というたてまえとなっている、と言うことができる」

天つ神の化身だから天皇=現神である。「天神の化身としての」現神を証明する文書は挙げられていないと同時に、この誤った解釈も戦前のそれと変わらない。

4)佐竹昭広(ほか)『新日本古典文学大系 12・13』(1990年岩波書店)
「アキツミカミは、現世に姿をあらわしている神の意。トは、としての意」

「あきつみかみ」の概念説明は伝統的なものであるが、結局「現御神止」の説明は不十分である。また、『新日本古典文学大系 13』には稲垣耕二「続日本紀における宣命」というのがあって、「人でありながら同時に神である存在として、天皇が讃えられたのである」と説明している。

宣命のなかで天皇を「あきつみかみ」と讃えたものは例外的なものである。そしてなお且、その讃えられた天皇はすべて「明神と大八洲国しろしめす天皇」であらせられたのである。宣命に天皇=現御神は存在しない。

5)小島憲之ほか『新編日本古典文学全集4』「日本書紀3」(1998年小学館)
「明神御宇日本天皇の詔旨とのたまはく 注・この世の神として世界を統治する日本天皇が仰せられるには、の意」

注は西宮一民である。まさしく直訳であって、「明神と」が「統治する」と「天皇」のどちらを修飾しているか分からない。普通に読めばこれは明神=天皇である。少なくとも「明神と」が「統治する」の副詞だと主張してこれまでの解釈を正したものではない。

6)熊谷公男『日本の歴史3』「大王から天皇へ」(2001年講談社)
「宣命では「現神(明神)御宇天皇」あるいは「神ながら念しめす」といった表現が頻繁に用いられ、「現神」としての天皇の意思であることが強調された。つまり宣命は、〝神〟としての天皇のことばを臣下に伝えるものとして案出されたのである(中略)こうして天武の隔絶した神的権威はみごとなまでに制度化され、現神「天皇」の支配する「日本」が誕生するのである」

これまで述べたように、「現神」天皇という表現は宣命に存在しない。「明神御宇」天皇である。引用した宣命も「現神御宇天皇」であって、「現神」天皇ではない。「しろしめす」を離れて「現御神止」が語られたことはない。

「「シラス」はシル<知る>の尊敬語で、あるものを排他的に領有するというのが原義で、対象を一方的、無条件に支配する、という隔絶した、絶対的な支配権を意味した」

これは本居宣長らの解釈あるいは歴史の事実とまったく相反するものである。おそらくはこの「知らす」の解釈に難があって、「現御神止」の枉げた解釈が伝えられていることは想像に難くないだろう。

「しらす」と「うしはく」

大正8年4月、明治聖徳記念学会は「本会に於ける『しらす』『うしはく』二語の研究開始に就きて」という題目で例会を開催した。その主な記録が『明治聖徳記念学会紀要第十三巻』にある。

「故井上毅氏が、彼の梧陰存稿中に於て述べられた如き違いが此二語に認められないのでは無かろうかと云ふ疑問を有して居りました」こう語った宗教学者加藤玄智の提唱によるものである。

「古典にうしはくといふことと、知らすといふことと二の言葉を両々向き合せて用ゐ、又其のうしはくといひ知らすといふ作用言の主格に玉と石との違めあるを見れば、猶争うことのあるべきやは。若し其の差別なかりせば、此の一條の文章をば何と解釈し得べき

これは井上毅「梧陰存稿」にある「言霊」に記されているものである。その「梧陰存稿」に深く関与した小中村義象は「梧陰存稿の奥に書きつく」において、「本居宣長はいかばかりの書をよみたりしか、彼人の著書をよむごとに敬服にたへず、真に国学の大人なり」と語った井上毅の言葉を書き残している。やはり宣長『古事記伝』の影響が大きいことは否めないだろう。

「汝がうしはける葦原の中つ国は、吾が御子のしろしめさむ国と言よさし賜へり」

『古事記伝』には「宇志波祁流(うしはける)は、主として其ノ処を我物と領居(しりを)るを云、但天皇の天ノ下所知食(しろしめす)ことなどを、宇志波伎坐(うしはきます)と申せる例は、さらに無ければ、似たることながら、所知食などと云とは、差別(たがひ)あることと聞えたり」とある。

これらから井上毅が前述のような「うしはく」と「知らす」の違いを感動をこめて「言霊」に記したことは明らかだろう。井上毅はさらに次のように述べている。

「故に支那欧羅巴にては一人の豪傑ありて起こり、多くの土地を占領し、一の政府を立てて支配したる征服の結果といふを以て国家の釈義となるべきも、御国の天日嗣の大御業の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすといふ意義より成立たるものなり。かかれば御国の国家成立の原理は君民の約束にあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」

井上毅が述べた二語の違いとは以上のようなことである。この件について、まず哲学者井上哲次郎が講演した。タイトルは「我国体の特色を論じ『しらす』『うしはく』に及ぶ」というものであった。

それは、我が国体を論じて、1)自然的国体 2)一元的国体 3)人道的国体 4)統一的国体 5)精神的国体であり、その上で「知らせ」は「仁政を施せといふことに解釈して差支ない」という内容であった。

また「うしはく」については「占領と訳して一向差支ないのであります」とも述べている。神勅には皇統一系、統治者は皇孫、加えてこの仁政があり、それが「国体神道」であるとも付け加えている。

これに対し神道学者河野省三は、古典の用例からシラスは馭、御、奄有の意義を拒否しておらず井上毅の比較論は正鵠を射ていない説であるとした。

白鳥庫吉は言語学上からして、シル(知る)・シマ(島)・シム(占)・スム(住む)・シク(敷く)は同じであるとし、シラスの語義は支配の義であって、安藤正次と同様に「シラス」と「ウシハク」は同一義とする論を展開した。

井上毅のいういわば「天皇に私事なし」と井上哲次郎の「仁政」とはニュアンスが異なる。それでも河野省三や白鳥庫吉らの見解は彼らとまったく別なゾーンにあると考えて妥当だろう。

この会では田中治五平が「『しらす』の語義研究と『よさす』の辞義」という興味ある話をしている。

「「而して『よさし』の儘によさされた事柄を実行して行くことをば『しらす』といふのだと斯ふ思ふのであります。だから此『よさし』といふことなしにやって行く時には其処に初めて『うしはく』といふことが起こって来る」

これは、委任が「しらす」の条件であり、委任がない時に「うしはく」となると述べていると考えて良いのではないか。「しらす」という言葉の理解に大きな意味を持つ発言である。

結論を言えば、国体神道云々は別として、井上哲次郎がもっとも井上毅を擁護した。歴史事実から考えてこの二語に違いがなければ我が国の国体というものを理解できないということであった。

井上哲次郎はさらに加藤玄智らの諸説について、天皇に「うしはく」がひとつもないことを理解しておらず、語義論だけで矮小な理解にとどめてはならないと批判したのである。

これはこれで正しい。しかし『勅語衍義』を書いた井上哲次郎が教育勅語にある「樹徳深厚」の「徳」を、「しらす」と重ねて講究できなかったのは、彼の限界としか言いようがない。

「しらす」という深遠なる政治哲学について、その神髄に到達した解説はこれまでにない。しかし先人たちが遠く深い外堀を埋めてくれている。これによってイメージを膨らませる以外にない。

そこで本居宣長や井上毅らの言説から引用し、誤解を恐れずに、「しらす」と「うしはく」を筆者なりに比較してみる。

「しらす」からの連想 「うしはく」からの連想
天照大御神の授け給える皇統であって
・「君の私といふ事はなき也」→君権制限
領有するという意であるから
・「君の私といふ事もあるならん」→専制
・事依し(委任)から天皇大権はあっても
・天皇主権はない→天皇不親政
・天皇大権を天皇主権と同義とし
・君主に絶対性を付与する→天皇親政
・天皇に主権がないから絶対主権は存在しない・君主主権は倒されて国民(独裁)主権になり得る
・立憲君主制的・絶対君主制的
・万世一系であり、君民の義と秩序がある・易姓革命を是認し、世は乱れ治まらない
歴史的連続性を重視することから
・旧慣(祖先の叡智)尊重主義
歴史的連続性は重視されないことから
・設計主義的合理主義
・歴史法学的立場・人定法主義的立場
・属性尊重主義(家族・共同体・伝統・文化) ・還元主義(属性否定・唯物的)
・民は自由・民は服従

まだまだ比較は可能かもしれないが、とうてい委曲を尽くすには程遠い。言挙げはたしかに詮無きことではある。しかし歴史事実を顧みないで、この二語を同義だと加藤玄智らは主張したのである。このことは彼らの国典理解の限界を示すものではないか。

「かの、神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく、異国の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知べきなり」

これは本居宣長『玉くしげ』からの引用である。我が国の歴史事実から鑑みて古伝承は虚偽ではないと知る、ということである。この「現に違はせ給はざるを以て」は重要な言葉であるが、このことがなぜか無視され、まったく逆に理解されてきた。

「その固陋の思想とは何であるかというと(中略)その根本の考は、いわゆる記紀の神代や上代の部分を歴史的事実を記したものとして信奉するところにある。もっとも神代については、必ずしもモトオリ・ノリナガ(本居宣長)の如く『古事記』の記載をすべて文字のままに事実として信ずるには限らず、それに何らかの・・・」と述べたのは「日本歴史の研究に於ける科学的態度」の津田左右吉である。

宣長の言説と正反対である。おそらく宣長のいわゆる古道論を理解できなかった日本思想史研究の村岡典嗣等の影響だろうと推測できる。

折口信夫は文武天皇・即位の宣命について、「其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になってしまふ、といふ信仰上の言葉である」(「大嘗祭の本義」)と本居宣長や井上毅らのとらえ方とまったく正反対の論をなしている。

そもそもいわゆる神勅というものは、我が国の在り様が詳細に決定されている、などとというものではない。我が国の歴史を辿ると、日本という国がまさに今日まで古伝承にあるとおりに顕現されていることに感動する、そういうことを本居宣長は言っているのである。だから「神代の正しき伝説(つたへごと)」(『直毘霊』)を思い、「幸にかかるめでたき御国に生(あ)れ」(『くづばな』)ることに感謝するのである。

不可解な言説

現御神については不可解な言説が少なくない。津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」において、「「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の呼称なのである」と記している。

この論文は昭和21年4月号の『世界』に発表されたとある。戦前の認識と変わりない。つまり終戦前後の言論制約の有無に関係なく、宣命解釈そのものの誤りが正されていないのである。「現つ神」は天皇の地位の呼称などということは宣命にない。また津田左右吉の現御神論では肝心の「現御神止」が説明されていない。

和辻哲郎『日本倫理思想史 上』の序は昭和26年となっているが、「それは形式的に「あきつみかみ」と言い起すばかりでなく、天皇の「位」についての神話的伝統そのものを問題としている」と記している。これも戦前とまったく同じである。宣命解釈の誤りである。

「あきつみかみ」を天皇の「位」とする宣命は存在しない。したがってこの和辻論考は現御神の概念説明ではあっても、文脈から「現御神止」を解読していないというべきである。

津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」と和辻哲郎『国民統合の象徴』「国民全体性の表現者」は、GHQの占領下における皇室擁護論として評価されたものである。たしかにあの時期を考えると意義のある貴重な論文である。

しかし両者の現御神観、宣命の現御神解釈は以上のとおりである。これらが後の論者の誤った認識や恣意的な表現の根拠になったことも否めないのではないか。

大正期に加藤玄智が『我が国体と神道』において、天皇は昔から「あきつ神」(眼に見える神)「あらひと神」(人間の姿をした神)および「あらみ神」(人間の姿をした大神)と呼ばれて来た、などと語った誤りと変わりない。

天皇の宣言や宣命に天皇=現御神は存在しない。万葉集の類は文芸の世界のものであって、宣命とは厳然と区別されるべきである。「あらみ神と呼ばれて来た」ことは文芸上の事実ではあっても、宣命解釈の誤りを放置しては学問的価値がないのみならず、天皇および歴史書の曲解となるのではないか。

折口信夫は昭和21年「天子非即神論」を発表し、「「あら人神」と似た語に、「あきつ神」というのがあり、此場合に、明らかに天子のお身をおさしして居るばかりか、天子御自身の発言であることも、確かであるから、「あら人神」の類ではない」と分かりにくい説明を述べた。

「天子御自身の発言」とは宣命のことだろうから、この誤りを訂正しない限り論旨はまとまるはずがない。

「今よくよく反省して見ると、「あきつ神」は、「日本国」「天の下」「大八洲国」をお治めになる資格である。その資格は神の資格である。人にしてその聖なる資格を持つ者として大日本国・天の下・大八洲国に臨むと言ふ、御資格の継承を宣り給ふのが、詔書の様式であった」

「あきつ神」は資格ではない。折口信夫がどのように表現を変えても宣命解釈の誤りは改められることはない。「大君は神にしませば」などの臣下のうたと宣命を区別できていないことは他の論者と同様に学問的ではない。

「天地のあるきはみ、月日の照す限リは、いく万代を経ても、動き坐サぬ大君に坐り。故(かれ)古語にも、当代(ソノヨ)の天皇をしも神と申して、実(まこと)に神にし坐せば、善悪(よしあし)き御うへの論(あげつら)ひをすてて、ひたぶるに畏み敬ひ奉仕(まつろふ)ぞ、まことの道には有ける」

本居宣長『直毘霊』にある文章であるが、古語とは万葉集である。天皇の「現御神止=随神(として)」統治なされるかたちと、臣下の天皇に対する「畏み敬い奉仕(まつろう)」べき姿が見事に表現されている。

折口信夫の「知らす」解釈や宣命の「現御神止」の解釈は、ことごとく宣長のそれとは反対の方向である。そしてその根拠が明確に示されたものも見当たらないのである。

さらに不可解な発言はCIEとのやり取りがあった神道学者小野祖教である。GHQ民間情報教育局のウィリアム・バンスからその明御神観を執拗に問われて次のように答えている。小野祖教『象徴天皇―日本人の原点から見る』から引用する。

たしかに明御神そのものは絶対神ではないだろう。しかし現御神の概念だけでなく、宣命にある「現御神止」の意味が説明されて本当の回答だったのではないか。

神道指令を起草したバンスはD・C・ホルトムらの著作で文部省『国体の本義』を研究していたのであるから、その「祭祀」にある現御神が宣命解釈の誤りからのものであることを説明できなくては学者の務めを果たしたとは言えないのではないか。

昭和25年「神社神道百問百答」として次のような問答があったことも記されている。

「問 天皇は現御神といふのは何故いけないのですか。
答 天皇は世界中で最高の特別な権威をもつものと宣伝し、天皇による世界支配の思想を生む根拠になると見られるからです。現御神の考へは日本国家、日本元首の優越を云ひはり、侵略戦争に誘導する軍国主義や超国家主義に利用され易い考で危険なものと見られてゐる訳です。本来は誤ってゐなくても、利用される恐れのある点が問題なのでせう」

「本来は誤っていない」としているから、天皇=現御神である。この問いに対しこの回答では正しい宣命の解釈とは乖離するばかりである。

そして「私は「現御神」といふ信仰は、上代の生き神信仰であると理解してゐる」と述べ、(今では、多く神がかりである)としている。この理解も誤解を呼ぶものでしかない。信仰上のことと宣命の区別がついていない。そして「現御神止」の「止」にはまったく意識が見られない。

宗教行政・政教問題に詳しい大原康男も英文「人間宣言」の致命的な誤訳として、「天皇を以て現御神とし」を「天皇を以て絶対神とし」とでも訳すべきだったと、その著『天皇-その論の変遷と皇室制度』に述べている。

これは小野祖教と同様の論である。日本人の伝統的な、天皇を「現身を持った神」とみる思想ということから解説している。しかし民が天皇を尊ぶことと、天皇が公式に宣言するものとは別である。

『続日本紀』も挙げているが、「現御神(止)」の説明がない。肝腎要の解説を欠いていることからすれば、「現御神(止)」が「しろしめす」の副詞であることを理解していないと勘繰られてもやむを得ないだろう。

我が国の近代政教関係史を専門とする神道学者新田均は、「この木下の修正が認められて、『人間宣言』の文言は『天皇を以て現御神とし』となったわけだが、当時、『神の子孫』と『現人神』の間に意味の差がなかったとすれば、この修正の意図は理解できない」(『「現人神」と「国家神道」』)と述べている。

つまり木下道雄の『側近日誌』も『宮中見聞録』も正しく解読できていない告白ではないかと思われる。

またこの著作は宣命と教育勅語の解釈の誤りに言及していない「現人神と国家神道」論となっているので、それぞれの正体も特定できずじまいである。新田均は木下道雄の「修正の意図」にこそ大きな意義のあることを理解できていない。

結 び

「現御神止」とは「天皇の、私心なく、旧慣を尊重し、神々の御心(祖先の叡智)に随って」という意味をもつ副詞であり、「しろしめす」を修飾するといってほぼ間違いない。

したがって「現御神と大八洲国しろしめす」は、いわば天皇の統治姿勢を表現したものと解釈するのが妥当である。天皇の地位や尊称ではない。

宣命の中に天皇自らが、天皇=現御神と宣言されたものは一つも見つけられない。また津田左右吉が述べているように、記紀はもとより他の文献においても天皇が宗教的崇拝の対象となったことはないというのが歴史の事実である。

津田左右吉自身は宣命を正しく解釈できず、本居宣長の解説を曲解したために、このもっとも重要な事実を軽視せざるを得ず「現つ神」は「知識人の思想」などとする謬説をなしたのである。

「うしはく」については、もちろん「しらす」と「うしはく」で述べたような連想はやや誇張が過ぎるかもしれない。領有する、だけの意味で十分だろう。ただ「しらす」の理解のために対義語的に記してみたのである。

「しらす」はいくらその時代々々の言葉で語っても語り尽くせない妙(たえ)なる言葉である。

「御国の御先祖御伝来の御家法は、国を知らすといふ言葉に存在して居るといふことを考へなければならん。此の国を知り、国を知らすといふことは、各国に例のないこと、各国に比較を取る見合せにする言葉がない。今、国を知らすといふことを本語の侭に、支那の人、西洋の人に聞かせたならば、支那の人、西洋の人は、其の意味を了解することは出来ない。何となれば、支那の人、西洋の人には、国を知り、国を知らすといふことの意想が初より其の脳髄の中に存じないからである。是が私の申す、言霊の幸ふ御国のあらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申す所のものである」

これが井上毅が「言霊」に書き残した「知らす」である。

「かくいへば人は難じていはむ、太古の人にさばかり高尚なる思想あるべきにあらず、今の人の考へを以て付会したるならむと、否々然らず」

前述した「しらす」と「うしはく」の二語の違いについての前段である。「神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざること」を知るのである。神勅に具体的なすべてがあるのではない。天皇統治の来歴を思うと、「知らす」という言葉のもつ深遠さが分かるということなのである。

井上哲次郎は前述した大正8年の明治聖徳記念学会例会の約30年前、教育勅語の解説書『勅語衍義』において痛恨の曲解をした哲学者である。

洋行帰りの新進気鋭であったが、教育勅語の「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が「君治の徳=しらす」であることを理解できなかったのである。「徳」を忠孝等の「徳目」だと考えたのである。『勅語衍義』に「しらす」の解説が一つもないのはその証拠である。

井上哲次郎は30年経って「しらす」を語った。そして昭和17年、井上哲次郎は84歳にして『釈明 教育勅語衍義』において、不十分ながらも「斯の道」は「随神の大道」であると論じたのである。

だが、残念なことに教育勅語最後段の「之を中外に施して悖らず」の「中外」を「宮廷の内外」と解釈できず、「国の内外」として、あくまで普遍道徳に固執した。この皇道宣布が世界征服思想と受け取られ、GHQ「神道指令」において過激なる国家主義とされたのである。GHQのいう国家神道の正体である。

井上哲次郎が「抜群の物識りというだけ」の評価は妥当なところだろう。

景行天皇紀や雄略天皇紀の「現人神」は、「神」の字は同じでも宣命の「現御神と」とは別ものである。加えて会話の相手は国津神・嶋津神であり、一言主神である。みな神である。これを云々するのは歴史や宣命解釈とは別のゾーンである。

昭和前期は大日本帝国憲法と教育勅語に違背した時代であった。天皇御親政を唱えた『国体の本義』が象徴的である。また昭和20年6月の帝国議会では鈴木貫太郎首相でさえ、教育勅語の曲解をそのままに「中外に施して悖らざる国是」と述べたのである。

教育勅語やいわゆる人間宣言から永い月日が経って、今日までその解釈の訂正は行われていない。明治大帝の御遺徳を穢し、昭和天皇の「神格とかそういうことは二の問題」の真意を理解しようともしない。

国語国文学者は政治哲学に興味が薄く、同様に政治学者は国典に関心が薄い。歴史学者は事実を等閑視して自らのイデオロギーを語る傾向が強い。総合的な国典研究が急務なのではないか。

(明治天皇)絶えたりとおもふ道にもいつしかとしをりする人あらはれにけり(しをり=枝折・栞=道しるべ)

本居宣長・井上毅(小中村義象)・木下道雄らはまさしく「しをりする人」たちであったと言える。あの詔書を「人間宣言」と謂うは誤りである。あなかしこ。

―終わり―2009年