西田幾多郎「世界新秩序の原理」の構造

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西田幾多郎「世界新秩序の原理」の構造

すでに戦後も70年が過ぎました。今回は昭和史の論者らが、戦前から被占領期における特徴的な事柄について、どの様な評価をしているか、その辺りをお話ししたいと思います。西田幾多郎「世界新秩序の原理」の検証です。

いまここに、『占領下日本』(2009年)そして『戦後日本の「独立」』(2013年)があります。いずれも筑摩書房から発行されました。昭和史関連の著述が多い、半藤一利・竹内修司・保阪正康・松本健一という方々の座談会記録です。これらを参考に、今日の「昭和史」を眺めてみたいと思います。

「世界新秩序の原理」

少し前になりますが、友人から薦められたビデオがありました。NHK戦後史証言「日本人は何を考えてきたのか」というもので、その回は「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」西田幾多郎がテーマでした。

前半は、いわゆる「純粋経験」などの哲学用語が飛び交う観念的な内容です。正直なところあまり興味は沸きませんでした。しかし後半に入って、西田が現実政治に踏み込んで、昭和18年に「世界新秩序の原理」を書いたあたりから、私はモニターに釘付けとなりました。西田の「世界新秩序の原理」から引用します。

「我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである」(『西田幾多郎全集』第十二巻、岩波書店、1979年、430頁)

西田の哲学を検証しようとする生物学者の福岡伸一教授は考えます。要約すると、なぜ西田は現実政治に踏み込み、「日本が東亜の盟主」にならねばならぬ、そう語ったのか。番組はいよいよ核心に迫ってきました。福岡教授の極めて真摯な疑問は、番組の緊張感を一気に高めてゆきます。

しかし同席の学者先生方からは何一つ説得力のある説明はありません。出てくるのはすべて憶説、というようなものでした。番組は最後まで、福岡教授の納得する客観的な根拠を持った回答を示しませんでした。ビデオに登場した他の論者たちも、「世界新秩序の原理」の本質とはまったく関係のない談話に終始しました。

そこで私はもう一度、ビデオを戻してみました。西田の生い立ちから帝国大学、現在の東京大学の哲学科で学んだと紹介がありました。西田はその哲学科の選科にいました。番組のナレーションでは、選科にいたことから差別的に見られていた、そう語っています。これは西田がエッセイに書いていたことです。

しかしそれ以外のことは話題にもなりませんでした。私は、この番組はここで失敗したな、そう思いました。西田が選科に入ったのは明治24年です。教授に井上哲次郎がいました。大きなポイントはここだったと思いますが、番組では触れませんでした。

昭和史論者の「世界新秩序の原理」

さて『戦後日本の「独立」』です。この第六章のタイトルは「西田幾多郎全集の売り切れ」です。同書によれば、昭和22年、岩波書店の前には『西田幾多郎全集』第一巻を求めて長蛇の列ができたそうです。西田は昭和20年6月に他界していましたが、「哲学ブーム」と称されたとあります。

「西田幾多郎全集の売り切れ」は24頁分ありますが、「世界新秩序の原理」の本文に割かれたのはほぼ5頁です。

 

ここまでは「世界新秩序の原理」の内容確認です。

「世界新秩序の原理」を書いた西田は昭和18年、すでに70歳を超え京都帝国大学名誉教授でした。その西田がなぜ時代に迎合したのか、この座談会記録からは読み取れません。またなぜ国策研究会は西田にこの文章をお願いしたのか。これも語られていません。なぜでしょうか。

この「西田幾多郎全集の売り切れ」もNHK「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」と同様、西田の「世界新秩序の原理」について、説得力のある解説はありませんでした。

教育勅語の文脈

「世界新秩序の原理」への疑問を解くために、彼の「日本的といふことに就て」から引用します。
「或る一日本人の趣味が真に芸術的となるには日本人の私有物ではなく公のものとならねばならぬ。古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる公道の一部でなければならぬ」(『西田幾太郎全集』第十三巻、岩波書店、1979年、118頁)

この「古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる」云々は教育勅語からきています。そして西田の「中外」は文脈から「国の内外」で用いられています。

教育勅語は明治23年10月30日に渙発されました。半ば官定解釈とも云われた井上哲次郎『勅語衍義』は明治24年の発行です。洋行帰りで新進気鋭、日本人としてはじめて帝国大学の哲学教授となった井上哲次郎。西田幾多郎は、のちの文章からして『勅語衍義』を読んでいたと推測できます。

要するに西田は井上哲次郎の影響を受け、教育勅語もその文脈で解釈していた、そう言っていいのではないかと思います。西田の文章を読めば読むほど、そのことが明らかになります。

「われわれはますます特有の文化を発展し、ますます日本的となるとともに、この文化をして世界文化の一要素として欠くべからざるものとしたい。すべての因習的独断をすてて、赤裸々にこれを批評し研究し、われらの心の底から湧き出る芸術的良心をもって、我が国の文化に対して、唐人も高麗人も大和心になりぬべしという自信をもってみたい」(前掲同書、120頁)

「世界文化の一要素」からなぜ「唐人も高麗人も大和心になりぬべし」となるのか、この論理の飛躍は非常に難解です。しかし「世界新秩序の原理」にある文章で、この意味がわかってきます。

「皇室は過去未来を含む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである」(前掲『西田幾多郎全集』第十二巻、430頁)

「皇室は過去未来を含む絶対現在」であり、「皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所」を「我国体の精華」と述べています。これは教育勅語の「我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、・・我が国体の精華にして」であり、「之を古今に通じて謬らず」に対応しています。そしてこのすぐ後につながる文章です。

「我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである」(同)

「我国の皇道」は教育勅語の「斯の道」です。「斯の道は、実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所」の「斯の道」です。そして「八紘為宇の世界形成の原理」は、教育勅語の最後段、「之を中外に施して悖らず」に重なります。むろんこの「中外」は「国の内外」と曲解された「中外」です。

八紘為宇は八紘一宇であり、教育勅語の「中外」を誤って解釈してそのエンジンとなったことは、何回も述べてきました。「中外」が「宮廷の内外」「中央と地方」つまり「国中」と正しく解釈されていれば、こうした誤解はなかっただろうと思います。

いま、このことを前回と同様に図に示したいと思います。西田の論理と、曲解された教育勅語の構造に、ほとんど差異のないことがわかります。

 

西田幾多郎「世界新秩序の原理」の構造
皇道は 時間的には過去未来を含む絶対現在・国体の精華世界新秩序の原理
(之を古今に通じて謬らず)
(八紘為宇の原理)
空間的には皇室を中心として一つの歴史的世界を形成
(之を中外に施して悖らず)


教育勅語の構造
斯の道は   時間的には  之を古今に通じて謬らず 
 それらを守るのが  皇運扶翼 
 空間的には  之を中外に施して悖らず 

 

『戦後日本の「独立」』では、「八紘一宇と東亜新秩序は結びつかなくてよかったものを、結びつけてしまった」(半藤一利)と語られていますが、「世界新秩序の原理」に含まれる教育勅語曲解の構造に思いが及んでいない、そう評価するしかありません。

時間的と空間的

西田幾多郎は、明治3年生まれで、帝大へ入った明治24年は21歳です。飛ぶ鳥を落とす勢いの教授だった井上哲次郎から、西田が受けた影響は少なくないと思います。井上哲次郎『勅語衍義』から直接の曲解を読むのはなかなか難儀です。

しかしその後の文章を慎重に読むと、彼による「中外」曲解の事実が鮮明に現れます。

ところで昭和15年7月に閣議決定された「基本国策要綱」です。その「根本方針」には次のような文言があります。
「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り・・」

「肇国の大精神」はやはり教育勅語の「斯の道」だと解するしかありません。「我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり」です。そうして臣民が「克く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世々厥(そ)の美を済(な)せるは」我が国体の精華です。

国体の精華は「之を古今に通じて謬らず」につながります。そして「皇国を核心とし・・大東亜の新秩序を建設」は「之を中外に施して悖らず」がその基礎になっていると考えて妥当です。

第1回で引用した鈴木貫太郎首相の演説をもう一度確認します。
「米英両国の非道は遂に此の古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる国是の遂行を、不能に陥れるに至ったものであります」

どう読んでも「肇国の大精神」と教育勅語の「斯の道」、つまり鈴木首相のいう「中外に施して悖らざる国是」は重なります。西田の「世界新秩序の原理」と「基本国策要綱」、これらの精神は同じだと考えて妥当です。ただやや違和感を感じたのか、西田は「道徳的使命」をその文章で主張しています。しかしそのトーンは現実から乖離してひ弱です。

「私の世界的世界形成主義と云うのは、国家主義とか民族主義とか云うものに反するものではない。世界的世界形成には民族が根柢とならなければならない。而してそれが世界的世界形成的なるかぎり国家である。個人は、かかる意味に於ての国家の一員として、道徳的使命を有するのである」(前掲『西田幾多郎全集』第十二巻、433頁)

この時代に語られた国家と世界は、国家=肇国・国体の精華、比類なき歴史の日本(時間)、そして「中外に施して悖らない国是」=皇道・天皇の統治という大東亜の建設、世界的使命(空間)という構造に収斂します。「時間的」と「空間的」です。

エピソード史観

以上のことから、西田幾多郎の精神の根本には、井上哲次郎などの解釈を基とする教育勅語があったと考えて自然です。しかしNHK戦後史証言「日本人は何を考えてきたのか」「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」、そしてこの『戦後日本の「独立」』でも、教育勅語にはまったく触れていません。

西田の文章から、なぜ教育勅語解釈の問題が検証されなかったのか。神道に関する著作でGHQのスッタフに最も大きな影響を与えたD・C・ホルトムは、教育勅語を「近代日本の歴史の生んだもっとも有名で重要な文書」と評価しました。やはり我が国では詔勅研究が蔑ろにされている、そんな印象を持たざるを得ませんでした。

『占領下日本』と『戦後日本の「独立」』。この4人の昭和史論者による座談会は、歴史の事柄に関する豊富なエピソードに満ちています。また半藤一利、保阪正康著の昭和史本は図書館でも相当なボリュームになっています。

しかしこの「西田幾多郎全集の売り切れ」では、西田が時代に対して迎合した、そう語っていますが、その理由は述べられていません。また国策研究会がなぜ西田にこの文章を書かせたのか。その回答は、いくら読んでも確認できません。

座談会での発言記録は、編集上、無制限ではないと思います。そこで保阪正康『昭和史入門』(文春新書、2007年)を読んでみました。同書は全五章で、そのうち第一章から第三章までが昭和戦前とGHQ占領期を対象としています。コンパクトな入門書ですから、最も重要な歴史事項が述べられていると考えたわけです。

ところが教育勅語はまったく出てきません。文部省『国体の本義』や基本国策要綱が語られても、教育勅語の曲解という事実と突き合わさなければ、これらの文章は解読できません。また「太平洋戦争にはこうした矛盾、疑問、それに空虚な精神論があり」(91頁)とありますが、その空虚な精神論の生成過程及びその推進力についは、示されていません。

豊富な昭和史のエピソードは、歴史を検証する上でたいへん有効です。ただ、誰ひとり教育勅語の曲解に気づかず、あるいは気づいていても発言できなかったあの時代。この解明こそ、昭和の精神史を語る大きな意義の一つだと思いますが、教育勅語は話題にありません。

「超国家主義の論理と心理」

ところで、前回は丸山真男「超国家主義の論理と心理」でした。その論考の構造は、教育勅語の誤った解釈をもとに組み立てられたもの、その分析でした。NHK戦後史証言には、さらに「民主主義を求めて~政治学者 丸山眞男~」があると教えられ、そのビデオも注意深く観てみました。丸山真男は現在、NHKでどう評価されているでしょうか。

「超国家主義の論理と心理」はこの番組の前半に出てきます。しかし論考の構造分析や教育勅語の曲解などはまったく語られません。むろん神道指令も出てきません。最後まで注意深く観ましたが、それらは語られませんでした。

そして『戦後日本の「独立」』。この第一章は「丸山眞男「超国家主義の論理と心理」の衝撃」です。

この章は全部で23頁です。むろん、丸山真男の超国家主義という用語が、神道指令の「ウルトラ・ナショナリズム」の日本語訳であることは確認されています。

また橋川文三の「昭和超国家主義の諸相」なども紹介されています。その内容は前回述べた通りですが、いずれにしても、超国家主義に関する問題意識は、やはり相当高いと感じます。

しかしながら、「超国家主義の論理と心理」がどのような構造で組み立てられているか、その分析はありません。教育勅語は二回出てきますが、前回お話ししたような、教育勅語と丸山論考における構造の近似性は語られていません。

当然ですが、丸山による教育勅語の「徳」や「中外」の曲解も議論されていません。そして何より超国家主義を表現するスローガンとされた「八紘一宇」について、何の分析もありません。

この件もまた、半藤一利『あの戦争と日本人』(文藝春秋、2011年)で確認してみます。田中智学の「日本ヲシテ宇内ヲ統一セシメザルベカラズ」「只侵略ノ為ニ祈レヨ」を引用して、著者は次のように語っています。

「この拡大主義的な宗教が、田中智学によって天皇絶対主義と結びついた。おりしも時代は、明治四十三年の大逆事件のあとで国が根幹から揺れはじめていたし、日露戦争に勝って鼻高々となり、世論はだんだんに大国主義になりつつありました。そんな日本社会の大きな流れの中、「八紘一宇」という造語を使いながら、田中智学は日本人にとっての皇室の重要性と世界統一への道をさかんに説いたわけです」(137頁)

やはり田中智学がなぜそう説いたのか、説明はありません。そして一民間人のこの考え方やスローガンの「八紘一宇」が、なぜ政府の公式文書に採用されたのか、これも説明がありません。同書の「八紘一宇と日本人」の本文は29頁ありますが、教育勅語は一度も出てきません。したがって歴史事実の因果関係を理解することは、まず不可能です。

昭和史のキーワード

昭和史、特に戦前戦中とGHQの占領期は、当時の日本人の精神史を考える上で最も重要です。統帥権干犯論、五・一五事件、天皇機関説事件、二・二六事件、国体明徴運動、文部省『国体の本義』『臣民の道』等は様々な評価がなされ、昭和史におけるその位置も分かってきました。 

しかしながらポツダム宣言第6項、神道指令、「人間宣言」、公職追放令などは根拠を以てその文章が説明されたことはありません。なぜ連合国は日本の「世界征服」と言ったのか。

そしてなぜ神道と国家を分離せしめたのか。「人間宣言」はなぜ正しく読まれないのか。なぜ当時は「神憑り的表現」が多かったのか。

これらの表現への批判は溢れています。上からの押し付けは語られます。しかしなぜ国民がそれを受け入れたのか。昭和史の論者らは語りません。次回はこれらのキーワードを中心に、昭和史の論者らの見解を見てみようと思います。戦後約70年の現在でも、昭和の精神史に、解明されていない大きな部分があると思うからです。

 

【質疑応答】

問1 西田幾多郎「世界新秩序の原理」の文体と、基本国策要綱のそれが類似していることはわかりました。しかしこれが偶然なのか、他にも類似のものがあるのかどうか。

回答 個人のものは省略します。政府あるいは文部省などの文章から引用してみます。

『国体の本義』(文部省、1937年)
「我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である」(156頁)

『臣民の道』(教学局、1941年)
「ここに我が国の東亜に於ける指導的地位は愈々不抜のものとなり、八紘を掩いて宇となす我が肇国の精神こそ、世界新秩序建設の基本理念たるべきことが愈々明確になったのである」(19頁)

どちらも基本は「皇国の道」「肇国の精神」などの「時間的」と、「世界に貢献」「国民の使命」「世界新秩序の建設」の「空間的」です。これらは教育勅語の「之を古今に通じて謬らず(時間的)、これを中外に施して悖らず(空間的)」に対比すると、その構造が明らかになると思います。

問2 「肇国の大義」や「世界的世界形成」などの文言が、当時の人にとってなぜ奇異に感じなかったのでしょうか。

回答 先ほどもお話しした通り、教育勅語の解説書はすべて、すべてと断言してよいと思いますが、「中外」を「国の内外」と解釈しています。現在でもそれは同じです。つまり国民に疑う余地を与えないほど、この曲解が浸透していた、そう言ってよいと思います。

明治の時代に、教育勅語の外国語訳がつくられました。「之を古今に通じて謬らず、「之を中外に施して悖らず」の英語訳は infallible for all ages and true in all places でした。これに関与したのが、金子堅太郎、菊池大麓、神田乃武、新渡戸稲造です。錚々たるメンバーです。

しかし日本語での解釈に誤りがあり、英語にもそのまま訳されて、誤解を生むもととなりました。こういう事情ですから、一般国民が教育勅語の解釈に疑問をもつことなど、まったくなかったと考えて妥当ではないでしょうか。

問3 西田幾多郎が教育勅語の文脈から八紘為宇を文章に表現したという説明でした。「唐人も高麗人も大和心になりぬべし」だけで、そう判断してよいのでしょうか。

回答 西田は昭和15年2月、「日本文化の問題」をまとめました。この「序」には「一昨年の春、京大の月曜講義に於て話した所のもの」とあります。その中から象徴的な文章を引用します。いずれも『西田幾多郎全集』(第十二巻)です。

「世界は空間的・時間的に自己自身を形成し行くのである。ヨーロッパ歴史は空間的世界から時間的へと一つの世界となって来った。我国の歴史に於て含まれて居る世界的なるものは、時間的から空間的へと云ひ得るであらう。我国の歴史に於ては、主体的なるものは、万世不易の皇室を時間的・空間的なる場所として、之に包まれた。皇室は時間的に世界であった」(338頁)

「我国の国民思想の根柢には、肇国の事実があった、唯歴史的事実と云ふものがあった。而して我々は之を軸として一つの歴史的世界を形成して来たと云ふことができる。皇室と云ふものが矛盾的自己同一的な世界として、過去未来を含む永遠の今として、我々が何処までもそこからそこへと云ふのが、万民輔翼の思想でなければならない。故に我国民の道徳と云ふのは、歴史的世界の建設と云ふことでなければならない」(340頁)

「日本は縦の世界であった。日本精神は日本歴史の建設にあった。併し今日の日本はもはや東洋の一孤島の日本ではない、閉ぢられた社会ではない。世界の日本である、世界に面して立つ日本である。日本形成の原理は即ち世界形成の原理とならなければならない」(341頁)

「我々は我々の歴史発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによって、世界に貢献せなければならない。それが皇道の発揮と云ふことであり、八紘一宇の真の意義でなければならない」(同)

これらをまとめると、世界に比類なき歴史をもつ日本、その基は皇道にあり、それは「中外」に施して悖らない、となります。教育勅語の「肇国」「国体の精華」「斯の道」「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」がその基礎にあって、これらの文章が成立したと考えて妥当ではないでしょうか。

NHKのビデオでは、なぜ西田が「日本が東亜の盟主」とならねばならぬ、そう説いたのか、これに対する回答はありませんでした。やはり教育勅語の「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」の「中外」を「国の内外」と曲解したことが、その原因にあると思います。まさしく「日本形成の原理は即ち世界形成の原理」が、このことを直接表現していると思います。

問4 国策研究会あるいは海軍の高木惣吉などが西田にアプローチしたというのはどういうことでしょうか。西田はなぜ引き受けたのでしょうか。

回答 まず、「唐人も高麗人も大和心になりぬべし」の「日本的といふことに就て」を書いたのは大正6年です。そして「日本文化の問題」を語ったのは昭和13年春、それをまとめたのが昭和15年でした。つまり大東亜共栄圏構想の原理として、これらの文章が都合のいいものであることを、国策研究会のメンバーは知っていたと思います。

また西田にしても、教育勅語、この場合は曲解された教育勅語ですが、その文脈からして大東亜共栄圏構想は自らの論理に合致すると考えていた、そう推測してよいと思います。ただ軍人のいう「世界形成の原理」に文化や道徳を追加して強調したかった、これがその文面から読み取れるのではないでしょうか。それが「世界新秩序の原理」にある「畏くも万邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る」に確認できると思います。

以上から、西田が「時代に迎合」した、あるいは「軍部に迎合」はあまり適切ではないと思います。もしそうなら、「世界新秩序の原理」以前の文章を、どう解釈すればいいでしょうか。西田には「学問的方法」なる文章もありました。「昭和十二年の秋、日比谷に於ての講演の要領」と記されています。

「然るに今の日本はもはや世界歴史の舞台から孤立した日本ではない。我々は世界歴史の舞台に立って居るのである。我々の現在は世界歴史的現在であるのである。云はば、これまでの日本精神は比較的に直線的であった。併しこれからは何処でも空間的とならなければならない。我々の歴史的精神の底から(我々の心の底から)、世界的原理が生み出されなければならない。皇道は世界的とならなければならない」(386頁)

さらに西田幾多郎は、この「世界新秩序の原理」の後にも、重要な文章を書いています。同じ第十二巻にある「哲学論文集第四補遺」からです。

昭和十九年二月
「皇室を中心としての我国の肇国には、天地開闢即肇国として歴史的世界形成の意義があるのである。故に万世一系、天壌無窮である。神国といふ信念の起る所以である。詔に現人神としての神の言葉を聞くと云ふことができる。そこに理性的に法と道徳とが基礎附けられるのである。八紘為宇の語も、そこから云はれねばならない」(409頁)

「我国では天皇は過去未来を含んだ絶対現在の中心であるのである。故に単に家長的ではなくして、現神と云はれるのである。我国体を神国的と云ふのは、神秘的といふ意義ではなくして、却って歴史的世界形成的として、勝義に於て合理的なるが故である。

我国の国体がその成立発展の歴史に於て、右の如く歴史的世界形成の創造的形態として、内に世界形成原理を蔵するが故に、今日それから東亜的世界形成の原理も出て来るのである。八紘為宇と云ふことも、此から考へられねばならない」(419頁)

西田の「迎合」でこれらの文章を説明できるでしょうか。「迎合」にしては積極的な文章です。西田の信念が溢れています。やはり「迎合」とか、戦争状態に「不満を持ちながらも、後追いしてしまった」というビデオの識者による解説では説得力がありません。西田の論理と現実の政治状況が合致していた、これが最も説得力のある説明となるのではないでしょうか。

問5 井上哲次郎の名前が時々出てきました。結局どんな思想の持ち主だったのでしょうか。

回答 西田幾多郎も和辻哲郎も井上哲次郎に学んでいます。昭和9年・井上哲次郎「日本精神の本質」(『井上哲次郎集』第6巻、クレス出版、2003年)から引用します。

「日本に於て「神ながらの道」を指導原理となして世界に働きかけ、世界の人類をして悉く「神ながらの道」に帰せしめ、畢竟、世界的神国を実現せずんば止まずといふのが日本民族の指導原理で、是によって日本民族は其の全体の行動に統一あらしめることが始めて可能であると思ふ」(63頁)

「幸に明神として上に、天皇が在しますからには之を中心として臣民は悉く其の持って生れて来た神性を発揮することは日本のみに止まらず、進んで満州・支那・露西亜は固より世界各国に及ぼすのでなければならぬ」(114頁)

「歴代の天皇は「明津神」であらせられる。また「あらみ神」とも申し上げる。即ち人にして神、神にして人、神人合一の御方であらせられる」(336頁)

井上哲次郎が書いた『勅語衍義』は、井上毅文部大臣によって、限定的ですが、検定不許とされました。内容が高度に過ぎるということも然ることながら、要らぬ解説をして肝心なことを語っていない、これが本当のところではないかと思います。

問6 司馬遼太郎は『「昭和」という国家』で、「魔法使いが杖をポンとたたいた」と語っています。それと教育勅語の問題は、何か関係があるのでしょうか。

回答 そのことも含めて、次回にまたこの話題の続きを行うことにします。

―終わり―2016年