三島由紀夫と磯部浅一

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三島由紀夫と磯部浅一

(2・26事件)

三島由紀夫に『文化防衛論』があります。ここに収載されている「『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」は2・26事件の首謀者の一人であった磯部浅一の『獄中手記』に関する論考です。

この2・26事件は昭和11年、1936年に発生しました。陸軍の青年将校などが、大蔵大臣高橋是清・内大臣斎藤実・教育総監渡辺錠太郎らに加え、岡田啓介首相の身代わりで秘書だった松尾伝蔵も殺害しました。この他、警察関係者も5名亡くなっています。

鈴木貫太郎は重傷を負いましたが、一命は取り留め、終戦前には総理大臣となりました。負傷者はこのほか警察官にも数名ありました。また前内大臣の牧野伸顕は湯河原に居て、ここにも反乱軍兵士が押し掛けましたが、逃げて無事でした。2・26事件とは要するに、陸軍の青年将校らによる失敗したクーデターでした。

この事件は、天皇の強い意思によって鎮圧されました。そもそもが憲法停止など、過激な思想などを信奉した首謀者らによって起こされた事件です。天皇の指示の前に、なぜ軍の幹部が徹底鎮圧を行わなかったのか、このことが当時の陸軍を象徴していると思います。

磯部浅一は当時、元一等主計でしたが、反乱罪で死刑となりました。この磯部浅一の『獄中手記』について、三島由紀夫は何を書いたのか、そこを整理したいと思います。

 

(磯部浅一『獄中手記』)

磯部浅一は獄中で何を語ったのでしょうか。彼のコメントからそのポイントを探ってみます。テキストは中公文庫2016年2月25日、2・26事件の前日の日付で出版された『獄中手記』を用います。

「渡辺は同志将校を弾圧したばかりではなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しそうな人物の筆頭だ。天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」(P36)

これは渡辺錠太郎・教育総監の殺害理由の一つに、天皇機関説を支持していたことがあるということです。帝国憲法はいわゆる国家法人説を基礎としています。天皇機関説はこの国家法人説から発しています。

尾佐竹猛は『日本憲政史の研究』において、伊藤博文の国家法人説に関する所見を引用した後、「この説はどの程度迄伊藤の頭に這入ったかは疑問であるが、兎も角、機関説輸入の最も早き一人として伊藤を数ふることが出来る」そう述べているほどです。

この国家法人説をかいつまんで言えば、天皇が国家の内にいるか外にいるかの問題です。国家法人説については、君主つまり天皇は国家の内に位置づけられます。国家機関の長であるから、天皇機関説ということです。国家を超越したものではありません。

磯部浅一は天皇機関説排撃の立場ですから、この点で、彼が反帝国憲法論者だったことが分かります。

「日本改造方案<法案>大綱は絶対の真理だ、一点一画の毀却<棄却>を許さぬ」(P107)

北一輝の著した『日本改造法案大綱』のことを指しています。磯部浅一は北一輝と西田税を信奉していました。ですから「大綱は絶対の真理だ」となるわけです。

この北一輝の『日本改造法案大綱』は、憲法停止、三年間の戒厳令、私有財産限度・私有地限度、華族制廃止、国家の生産的組織など、GHQの日本占領政策に似ていると、よくいわれますが、そういった項目が記されています。

北一輝は本名を北輝次郎といいました。輝次郎の名で自費出版したのが明治39年『国体論及び純正社会主義』でした。この中に彼の教育勅語観が表現されていますので、引用してみます。

「天皇が如何に倫理学の知識に明らかに歴史哲学につきて一派の見解を持するとも、吾人は国家の前に有する権利によりて教育勅語の外に独立すべし。天皇が倫理学説の制定権を有し、歴史哲学の公定機関なりとは大日本帝国に存在せざる所の者にして、妄想によりて書きたる眩影を指して天皇なりと誤るべからず」(P620)

「天皇が倫理学説の制定権を有し」に誤りがあります。ポイントは教育勅語の「皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」の解釈です。この「徳」はいわゆる「徳目」ではありません。「しらす」という無私の意義を含む天皇の統治、井上毅の言葉でいうと「君治の徳」つまり「君徳」です。『井上毅伝』がその証拠です。

「徳目」を制定した、などとは教育勅語にありません。国のはじめから「君治の徳」を承け継いできた、そう記されています。この「君徳」は我が国の「法」であり、惟神の道(かんながらのみち)であり、英国でいうコモン・ローということです。

これはまたあとで触れたいと思いますが、実はこの「天皇が倫理学説の制定権を有し」という見解は丸山眞男なども同じでした。丸山の「超国家主義の論理と心理」から引用します。

「第一回帝国議会の招集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占決定者たることの公然たる宣言であったといっていい」

「君治の徳」つまり天皇の無私の統治は「しらす」に象徴され、領有とか専制の意味では「うしはく」といわれます。「うし」は「大人」「領主」で「はく」は沓を「履く」で、領主が身につけて、つまり私物化して統治する、そういうイメージでよいと思います。

「故に、教育勅語の中に在る『皇祖皇宗徳を建つること深厚なり』の語が、ルヰ十四世の専制を想望する今の復古的革命主義者の見解に合せず、古今の天皇皆ルヰ十四世の如き専制権を振ひしと解すとも亦等しく彼らの自由たるべし」(国体論P620)

この文言の間違いも、先ほどの説明から明らかです。これらから、北一輝は教育勅語を曲解していると断定できます。教育勅語は渙発されてすぐ、那珂通世や井上哲次郎らによって誤解されました。それは今日まで訂正されていませんが、北一輝も同じように誤った解釈をしていたことは明らかです。

ところで帝国憲法と教育勅語は井上毅が深く関与していたことは、周知の事実です。ですから北一輝が教育勅語を誤解していたことは、帝国憲法も伊藤博文『憲法義解』とは異なる解釈をしていたと、考えざるを得ないということです。万世一系を批判する件も、根拠が希薄で説得力がありません。西田税については、その「無眼私論」などからすると、北一輝とほぼ同じですので省略します。

 

(磯部浅一の詔勅解釈)

「公判中に吾人は右の論法を以て裁判官に迫った、所が彼等はロンドン条約も又七、一五も統帥権干犯にあらず、と云って逃げるのだ」(P91)

統帥権干犯問題です。磯部浅一はロンドン海軍軍縮条約の締結について、統帥権を干犯したと述べてます。また、七、一五は教育総監・真崎甚三郎の更迭です。

すでに語り尽くされていますが、国際条約の締結は天皇大権の範囲です。また軍事に関しては軍政と軍令があります。統帥権とはこの軍令に関するものですから、軍縮条約の締結が統帥権干犯であるとは、憲法解釈の逸脱も甚だしいと思います。『憲法義解』や美濃部達吉『憲法撮要』にその詳細が記されています。

「北、西田両氏の如き真正の士と同志青年の様な真個の愛国者をなぜ、現人神であらせられる天皇陛下が御見分になることが出来ぬのでしょうか」(P127)

これも歴史の事実を無視しているか、誤解している文章です。天皇が自らを「神」と宣言された文章は、歴史上ひとつもありません。現人神=天皇は誤りです。文武天皇即位の宣命などを読むと、その誤解が分かります。

昭和21年元旦のいわゆる「人間宣言」ですが、この草案に深く関与した当時の侍従次長・木下道雄は「現御神止」は「しろしめす」の副詞であると明言しています。これは本居宣長や小中村義象にも明らかです。

「あきつみかみと おおやしまぐに しろしめす すめらが・・」ですね。この天皇の統治、「しろしめす」の副詞として「あきつみかみと」が用いられています。「私心なく、祖先の叡智にしたがって」と言う意味です。磯部浅一はこれを解読できず、単純に天皇=現御神=現人神と連想したと考えて妥当であると思います。

磯部は信奉する北一輝を引用して次のように語っています。

「神の如き権威を以て「日本民族は主権の原始的意義統治権の上の最高の統治権が国際的に復活して、各国家を統治する最高国家の出現を覚悟すべし」と云って居る所は、正に我建国の理想たる八紘一宇の大精神を、現日本に実現せんとする高い愛国心のあらわれであるのです」(P139)

世界に君臨する日本ということですが、この八紘一宇が教育勅語の誤った解釈から出ている認識は見られません。そもそも北一輝も磯部浅一も教育勅語を曲解しています。教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の「中外」を「国の内外」と解釈しているのは明らかですが、この「中外」は「宮廷の内外」あるいは「朝廷と民間」です。「国の内外」ではありません。

これについては『元田永孚文書』や『井上毅伝』が有効な資料です。総じて磯部浅一は、国典への理解が不足していると考えて間違いないと思います。「中外」は仁明天皇紀などに多く用いられています。

以上のことから、磯部浅一の言説を客観的に分析してみたいと思います。

まず、帝国憲法や教育勅語に天皇=現人神はありません。繰り返しますが、これは伊藤博文『憲法義解』そして『元田永孚文書』『井上毅伝』に明らかです。

磯部浅一は天皇を現人神と記しましたから、これは誤りです。

次は天皇機関説についてです。これも磯部は否定しました。しかし先ほど挙げた資料などから、帝国憲法が国家法人説を基礎にしている、つまり天皇機関説であることは明白です。

これに対するものが天皇親政論であり、それは専制政治に通じますから、帝国憲法第4条などにはっきり反するものであると、そう断言できます。その第4条は「天皇は国の元首にして、統治権を総攬し、此の憲法の條規に依り之を行う」というものです。

磯部の教育勅語解釈についても検証が必要です。彼は「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」と解釈しました。北一輝の解釈を批判していませんから、そう考えてよいと思います。

また、八紘一宇についても疑問を感じていません。この田中智学が造語したといわれる八紘一宇は、教育勅語の曲解から生まれたものでした。「之を中外に施して悖らず」を「皇道を四海に宣布」というように、彼もこの「中外」を「国の内外」と誤りました。この根拠は先に述べた通りです。

以上のように、これだけ根本的な項目について曲解があれば、それを基礎にした彼の論は、まさに謬論というしかありません。

 

(三島由紀夫「『道義的革命』の論理」)

最初に、この中で触れている橋川文三の論文について、簡単にお話しします。彼は「昭和超国家主義の諸相」を書きましたが、この「超国家主義」は丸山眞男のそれではなく、したがってGHQが「神道指令」で定めたものとも異なっています。

ですから橋川文三が、丸山眞男がテーマにした超国家主義を批判しても意味がありません。実際にその内容は前提があやふやで、彼独自の定義に基づいた内容です。

一方丸山眞男論文は、その評価は別として、対象としたテーマはまさしくGHQが「神道指令」で定義した超国家主義を論じていますから、これは検証が可能です。したがってここではこれ以上橋川論文には言及しません。詳細はインターネットサイトー「みことのり」を読むーの「丸山眞男・超国家主義論のカラクリ」に公開しています。

三島由紀夫はこう述べています。

「明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、・・」(P69)

三島は「現代アメリカの「自由と民主主義」の使命感を見よ」(P70)と書いてますが、これがアメリカの道義ということは分かります。しかし我が国の道義が何であるか、わかりやすい説明はありません。

「二二・六事件の悲劇は、方式として北一輝を採用しつつ、理念として国体を戴いた、その折衷性にあった。折衷の原因がここにあったということは、同時に、彼らの挫折の真の美しさを語るものである」(河出文庫「二・二六事件と私」P255)

難解な文章が続きます。この「道義的革命」の具体的説明はありません。野口武彦『三島由紀夫と北一輝』も参考までに読んでみましたが、やはり説得力のある説明はありませんでした。

北の『国体論及び純正社会主義』には次のような文章があります。
「今日の天皇は国家の特権ある一分子として国家の目的と利益の下に活動する国家機関の一なり」(P501)

北一輝は天皇機関説でした。天皇を特別な存在とせず、国家の中に包含して社会の変革を実施する、そういうことだと思います。共通しているのは社会の変革ですが、これに対し、磯部らは天皇を現人神として祀り上げることで、自分たちの理想を実現しようとした、ということだと思います。

磯部等は天皇機関説を排撃しました。これは北一輝と異なります。三島由紀夫は「二二・六事件は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた」(P70)と記しています。「天皇御一人をゾルレンと認め」とありますから、この当為は、行為をなすのは、天皇ということでしょう。

そして「大御心に待つ」と三島は書いています。つまりクーデターの後、天皇がこれを認める、そういう期待を持つこと、その意味だと思います。それが「道義的革命」である、天皇から統治権を簒奪するものではない、そういう意味と考えて少し整理がつきます。

 

(三島由紀夫の詔勅解釈)

「明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、・・」(P69)

「擬制」というのは、明治憲法と教育勅語について述べたと考えることも可能です。言い換えれば、政治と道徳がひとつになった天皇制、そういう見方です。

そうすると、ここにある八紘一宇も一つのポイントになります。言論の世界では「斯道論」というのがありました。この場合、具体的には教育勅語の「斯の道」です。

「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」

たしかに明治憲法と教育勅語は順接の関係です。したがって、もし道義国家という言葉の具体的な内容を探すとしたら、やはり「斯の道」に求めるしかありません。

「斯の道」の解釈はいろいろ云われてきましたが、これは教育勅語の「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に」から「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までのすべてとしてよいと思います。

なかでも昭和戦前の論者が特に好んで用いたのが「肇国」と「樹徳」でした。これから「建国の精神」を「中外に施して悖らず」、「皇道を四海に宣布」という風に拡大解釈したわけです。

八紘一宇は道徳的なもの、そういわれたりします。しかし具体的にはよく分かりません。教育勅語の徳目を世界に拡大することが、三百万人以上の犠牲者を出した、あの戦争の目的であるとは考えられません。

大東亜共栄圏構想とは、天皇を戴く日本がアジアの盟主となる、そういうものでした。その構造は、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』が解明したように、天皇の御稜威による大共産主義圏でした。自由主義国と戦い、ソ連に仲介を求めたことが、わかりやすいその証拠です。

さて、三島由紀夫の教育勅語解釈とはどのようなものであったのか。直接的に著されたものがあるかどうか、私には分りません。ただ、何の疑いもなく八紘一宇を引用したり、北一輝や丸山眞男を、教育勅語解釈の点から批判していないところを見ると、やはり彼らと同じような解釈だったと考えて妥当です。

いま、三島由紀夫『文化防衛論』(1969年新潮社)から、三島が丸山眞男を引用した部分を確認してみます

「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」と書いたとき、氏が否定精神によってかくも透徹的に描破した無類の機構は、敗戦による政治的変革下に完全に破壊されたように見えたのであった」(P54)

これは、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を論じたものです。しかし丸山眞男が教育勅語を曲解していた分析は見られません。この曲解は八紘一宇につながり、昭和戦前における日本人の精神史を形成したほどです。

GHQ日本占領も、このテーマで読み解くと「神道指令」「人間宣言」「公職追放」も、その発表の経緯がよく理解できます。

この丸山論文について、私のHP―「みことのり」を読む―から核心部分を引用します。

「かくていまや超国家主義の描く世界像は漸くその全貌を露わにするに至った。中心的実体からの距離が価値の規準になるという国内的論理を世界に向って拡大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生れる」

上記の文章に関し、丸山眞男は「第一部 追記および補註」において、ある図を引用している。昭和8年に毎日新聞社が陸軍省と協力して製作した映画「非常時日本」からのものである。

上の図は、<皇道は>→<時間的には>→<悠久永続性>となり、一方<空間的には>→<拡大発展性>となって、それを守るのが<皇軍の使命>となっているとの図である。

この論文は発表後すぐに広い反響を呼んだと本人は記しているが、評価が定まってから図を引用して分かりやすく説明した魂胆は見え透いている。

そしてこの図は、筆者が、丸山眞男の解釈に副って、教育勅語の第三段落「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」を図式化したものである。

この二つの図の相似性は疑うべくもないだろう。

丸山の引用は何のことはない、その図の基となっている教育勅語が国会で排除・失効確認決議がなされ、世間からは忘れられていたからである。

ただし、ここに大きな誤りがある。

この「中外」は「国の内外」ではない。「宮廷の内外」「中央と地方」であり、意訳をすれば「国中」である。その内容は当サイトの「教育勅語」や「国家神道」に記してある通りである。しかし丸山眞男はこれを曲解している。

以上で引用を終わります。

ポイントは「中心的実体からの距離が価値の規準になるという国内的論理を世界に向って拡大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生れる」この部分です。「世界」云々は「中外」の曲解から始まりました。丸山には生涯これが解りませんでした。

三島由紀夫には、この教育勅語解釈の徹底批判がないために、彼の文章は非常に分かりにくいものとなっています。文芸作品は別として、自身の見解を述べるや論文やエッセイなら、確実な根拠が必要です。

「彼はその肉体の不死の信念を、現人神信仰からこそ学んだにちがいないからである」(P85)

この現人神という発想ないしは信仰。少なくとも昭和戦前の現人神信仰は、文部省「国体の本義」から分かるように、宣命にある「現御神と」の曲解であることは間違いありません。これも先に述べましたが、本居宣長や木下道雄らにその詳細があります。また津田左右吉らは、天皇現人神論でしたが、文献にそうして祀った事実は見られないと、彼らの矛盾ですが、はっきりそう述べています。

ここで「『道義的革命』の論理」を整理してみます。

まず三島由紀夫は磯部浅一の『獄中手記』を採り上げました。その磯部は北一輝の信奉者でした。北一輝は北輝次郎の名で『国体論及び純正社会主義』を書いています。

その中にある北輝次郎の教育勅語解釈は、伝統的な曲解に満ちています。繰り返しますと、樹徳深厚の「徳」を「徳目」と解釈しました。だから、「天皇が倫理学説の制定権を有し」となっています。この「徳」は「君徳」つまり「君治の徳」ですから、倫理学云々は関係ありません。

また、北は帝国憲法第一条の「万世一系の天皇」についても、誤解があるように思います。彼の天皇はあくまで今上陛下といういわば個体であって、歴史的御位の天皇ではありません。天皇の統治は「しらす」という無私のご精神、つまり惟神の道、我が国の「法」いわばコモン・ローに遵って行われます。北にはこの視点がありません。

少しややこしくなりますが、天皇機関説は、天皇は国家の中にあるということです。国家を超越する存在として天皇を位置づけません。これで憲法が有効に機能します。天皇が国家の外なら、どのような憲法でも無視することが可能です。

北一輝も磯部浅一も、天皇を社会の改革のために利用しようとしたことは明白です。さきほど述べたように、その方法には違いがありました。三島由紀夫が磯部の2・26事件を「道義的革命」とした理由が、「大御心に待つ」、これで理解できます。

結局のところ、三島由紀夫「『道義的革命』の論理」は磯部浅一『獄中手記』を基にし、磯部は北一輝『日本改造法案大綱』(北輝次郎)『国体論及び純正社会主義』を基礎にしています。そしてこの北一輝は、教育勅語を曲解し、それゆえ明治憲法の理解も伊藤博文や井上毅のそれとは異なっていました。

つまり三島由紀夫は、磯部や北の著作をベースにして、彼らの教育勅語解釈の誤り、天皇現人神という謬論、これらを批判することなく論を展開したというしかありません。「『道義的革命』の論理」が分かりにくいのは、これらのことによると思います。

少なくともこの2点は、GHQ日本占領期や日本国憲法などの問題点解明に欠かせないポイントです。その意味でこの「『道義的革命』の論理」は、昭和戦前の象徴的な2・26事件の思想分析を欠いた論考である、そう言って、言い過ぎではなと思います。

 

(三島由紀夫の小説と論考)

三島由紀夫の『英霊の聲』は小説です。つくり話です。したがって読み手には自由な解釈が許されます。しかし「二・二六事件と私」は小説ではありません。読み手はその根拠の正否を問うことも可能です。

「昭和の歴史は敗戦によって完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきていた。これは文士たると否とを問わず、生の自然な欲求と思われる」(「二・二六事件と私」P256)

かつて尾崎士郎が同じように思い、『天皇機関説』を書きました。「この動揺する時代の動きを把握するために「天皇機関説」に重点を置いたことは此処に昭和の動乱を認識するための、もっとも大きな鍵があると信じたからである」

昭和10年の天皇機関説問題、昭和11年の二・二六事件、そして国体明徴運動から昭和12年文部省「国体の本義」まで、歴史は連続しています。この後は八紘一宇を唱え、我が国は対米戦争に突入し、敗戦となりました。

さて問題はGHQ日本占領です。「神道指令」「人間宣言」そして憲法は改正されて日本国憲法となりました。この歴史を一貫して流れているのが、私見では「詔勅解釈」の問題だと思います。

昭和戦前の天皇=現人神(現御神)論、天皇親政論。これらは国典解釈、詔勅解釈の誤りから発生しました。これが天皇機関説問題となり、さらには八紘一宇まで拡大しました。

しかし日本国憲法の前文と第98条によって、詔勅は「効力を有しない」とされました。以後、今日に至るまで、詔勅研究は発展していません。教育勅語や即位の宣命が、未だに誤解され続けているのが、その証明です。

三島由紀夫はさらに続けてこう述べています。

「そのとき、どうしても引っかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのずから、二・二六事件まで、一すじの影を投げ、影を辿って「英霊の聲」を書かずにはいられない地点へ、私自身を追い込んだ」(「二・二六事件と私」P257)

これを読む限り、三島由紀夫は「人間宣言」の真意を、理解していなかったと考えて妥当です。文武天皇即位の宣命など、一つも出てきません。戦後における我が最高レベルで世界的作家の三島由紀夫。しかしこの小説ではない「『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」は、残念ながら歴史の検証を欠いたものでしかありません。

三島は磯部浅一という過激な思想を有した人間の、心情の解明には成功したかもしれません。しかし一方で、昭和史の重要な歴史用語である「現人神・現御神」「八紘一宇」などについての分析をしませんでした。加えて丸山眞男論文の核心部分を徹底批判しませんでした。これも天才文芸家・三島由紀夫の一面です。

『英霊の聲』は昭和41年6月に発表されました。「人間宣言」を解説した木下道雄「昭和二十一年元旦の詔書について」(『宮中見聞録』)は昭和42年元旦に出版されています

証拠もなく、確認のできないことではありますが、木下道雄は『英霊の聲』を読んだ上でこの「昭和二十一年元旦の詔書について」を書かれたのではないかと、考えたくなります。

木下道雄は東京帝大法科卒ですから、三島由紀夫はその後輩です。木下道雄は当時、侍従次長として「昭和二十一年元旦の詔書」いわゆる「人間宣言」に深く関与しました。これがもし逆の順番で公開されていたら、どうなっていたかは分りません。

以上はたんなる憶測です。ただ、三島由紀夫が教育勅語をはじめとする詔勅の解釈に取り組むことがなかった、これはまことに残念としか言いようがありません。

「三島由紀夫と磯部浅一」、お聴きの方の中には、驚かれた人もあるかもしれません。しかし詔勅研究の衰退は事実であり、木下道雄のような人はいなくなりました。今日の昭和史はここを語りませんから、歴史の因果関係がどうしても分りません。結局のところ、昭和史がエピソードの寄せ集めになっているのは、やむを得ないことだと思います。

最後になりました。今回伝えきれなかったことについて、私のHP―「みことのり」を読む―に関連した内容が掲載されていますので、ご参考にしていただければと思います。

―2016年―