教育勅語

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教育勅語

教育勅語は渙発直後から誤って解釈されてきた。明治大帝や草案作成者の井上毅・元田永孚らが意図していたものとは異なる解釈で今日に至っている。

典型的な曲解は、国民道徳協会なるものの口語訳文である。むろん公開された文書の解釈は読み手に委ねられる。しかしこの誤った解釈こそ今日まで大きな影響を及ぼしているものである。

稿本を天覧に供した井上哲次郎『勅語衍義(ちょくご・えんぎ)』はその解説書であるが、教育勅語渙発時の文部大臣芳川顕正が嘱付したものであり、自身も叙を寄せている。

それゆえこの解説書は半ば官定解釈とも言われるようになった。いったい彼らは教育勅語をどう解釈し、何を間違えたのだろう。

この誤った解釈が問題となったのはGHQの占領下であった。日本人による教育勅語の誤った解釈を鵜呑みにして、GHQは神道指令を発したのである。

今日の不毛な政教論争は、神道指令の延長線上にある日本国憲法第20条3項や同89条をめぐっての論争である。つまり教育勅語の誤解の上にある。

GHQは教育勅語の「之を中外に施して悖らず」を世界征服の思想だと断言した。神道指令との関係は当サイトの「国家神道」に述べたが、この教育勅語の解釈を解明しない限り、日本の近現代史研究は大きな謎を残したままとなるだろう。

 

『勅語衍義』の事実

参考文献

教育勅語は明治23年10月30日、教育に関する勅語として渙発され、GHQの占領下にあった昭和23年6月19日、衆参両議院においてその排除・失効確認決議がなされたものである。

教育勅語の成立についてはいくつかの詳細な研究がある。しかしその中で本文の解釈に言及したものは思いのほか少ない。そしてその少ない著作の基本的な解釈はおしなべて同じである。

明治24年9月に出版された『勅語衍義』は教育勅語の解説書である。井上哲次郎著、中村正直閲で勅語渙発時の文部大臣芳川顕正が叙を寄せている。

これが後に官定解釈といわれたものであり、今日までの解釈はすべてこの『勅語衍義』を基にしているといっても間違いではない。『勅語衍義』は平成15年に出版された『井上哲次郎集第一巻』にも収められている。

教育勅語の関係文書はいろいろ存在するが、なかでも草案作成の中心人物であった井上毅の残した文書はもっとも重要なものである。「梧陰存稿」「梧陰文庫」が『井上毅伝』に収載されている。また『明治天皇紀』には『勅語衍義』に関する見落とせない内容が記されている。

教育勅語の草稿段階から完成までの推敲の流れは、海後宗臣『教育勅語成立史』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』などに仔細がある。

元田永孚は教育勅語渙発に最も貢献した人物ともいえるが、勅語渙発の翌明治24年1月に他界している。それゆえ元田の『勅語衍義』に関する重要な文書は見つけられないし、そもそも存在しない可能性が高い。

 

いくつかの謎

この『勅語衍義』にはいくつかの謎が存在する。

(一)『明治天皇紀』

(ア)『勅語衍義』は時の文部大臣芳川顕正によって「之れを検定して教科書と為し、倫理修身の正課に充てんとす」る目的で起草されたものであることが記されている。しかし、天覧に供したあと、結局は井上哲次郎の私著として発行されている。

(イ)「告げしめて曰く、斯の書修正の如くせば可ならん、然れども尚簡にして意を盡さざるものあらば、又毅と熟議して更に修正せよ」と天皇は仰せられている。毅とは井上毅のことである。

(二)『井上毅伝』

(ア)(小橋某に答える書)には教育勅語について、「注釈など無い方がマシでしょう」(原文は漢文)という文面がある。

(イ)また後に文部大臣となった井上毅は「修身教科書意見」において、天覧に供した『勅語衍義』を「高尚に過ぎる」という理由で大胆にも小学校修身書「検定不許」としている。

以上の記述をこれらの著作から時系列で整理すると次のようなことになる。

  1. 明治23年9月、教育勅語渙発時の文部大臣芳川顕正は碩学の士に勅諭衍義を書かせ、これを検定して教科書とするつもりであった。
  2. 芳川顕正は教育勅語渙発後、帝国大学文科大学教授井上哲次郎に衍義書を嘱付した。
  3. 芳川顕正は明治24年4月、できあがった勅語衍義案を上奏した。
  4. 天皇は修正案のようにすればよく、意を尽くしていないのなら井上毅と熟議して更に修正せよと仰せられた。
  5. 明治24年5月、芳川顕正は同書を井上哲次郎の私著として出版することを上奏した。
  6. 明治24年9月、『勅語衍義』の初版が発行された。
  7. 明治26年7月、文部大臣井上毅は『勅語衍義』を小学校修身書検定不許とした。

以上から『勅語衍義』にいくつかの謎があることはこれで明白である。

  1. 天覧に供したものを内容が高尚過ぎるとはいえ「検定不許」は相当に厳しい扱いである。すくなくともここに井上毅のそれにたいする評価が歴然と存在する。ほかにも解説書はあるのだから敢えて「検定不許」の必要はない。採用する方は程度にあったものを選択すればよいことである。
  2. 天皇の「毅と熟議せよ」は井上毅の修正案が充分反映されていないことへのご不満と考えて妥当だろう。ご不満の部分とはどこか。
  3. 当初芳川文部大臣は検定を受け教科書とするつもりであったが、結局『勅語衍義』は井上哲次郎の私著として出版された。この変更は天覧のあと、井上毅と熟議をせず、「修正の如くせば可ならん」のにそれを実行しなかったためであることは容易に想像できる。

天皇は勅語衍義案にご不満があり、井上毅は出版された『勅語衍義』に否定的だった。これが歴史の示す事実である。この事実について「重要な事実」としてその理由をあげ、検証した論考は見つけられない。

 

二つの『勅語衍義』

『勅語衍義』について井上哲次郎は後に、当時の有識者や草案作成者井上毅にも参考意見をもらったと述べている。しかし結局は事実として井上毅による小学校修身書「検定不許」となっている。ここに何があったのだろうか。

「勅語衍義(井上毅修正本)」というのがある。平成19年3月、『国学院大学日本文化研究所紀要』において、斎藤智朗によるその資料の翻刻が発表された。

この原文には井上毅のその後の態度にそぐわないものが少なくない。案の定、この原文は他筆になるものであって、それに井上毅が手を入れたと解説にある。

これは翻刻の作業者ゆえの貴重な解説である。また井上毅の『勅語衍義』稿本への修正意見の多くが、稿本の前半部分に集中している事実が確認されている。

明治天皇が「簡にして意を盡さざるものあらば」と仰せられた部分と、井上毅が他筆による原文に手を加えている部分はほぼ同じであって、この稿本前半部分であると推察できる。

教育勅語のいわゆる第一段落に関する解説の部分である。徳目を述べられた教育勅語の第二段落に関しては、井上毅の修正意見はわずかであって、その基本的な解釈にはほとんど影響を与えるようなものではない。したがってこの推察はほぼ妥当な見方だろう。

 

教育勅語第一段落

朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を済せるは此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す

この第一段落、第一行目に関する『勅語衍義』の解説は次のとおりである。

「太古の時に当り、瓊瓊杵命、天祖天照大御神の詔を奉じ、降臨せられてより、列聖相承け、神武天皇に至り、遂に奸を討じ逆を誅し、以て四海を統一し、始めて政を行い民を治め、以て我が大日本帝国を立て給ふ。
因りて我邦は神武天皇の即位を以て国の紀元と定む。神武天皇の即位より今日に至るまで、皇統連綿、実に二千五百五十余年の久しきを経て、皇威益々振ふ。
是れ海外に絶えて比類なきことにて、我邦の超然万国の間に秀づる所以なり。然れども是れ元と皇祖皇宗の徳を樹つること極めて深厚なるにあらざるよりは、安んぞ能く此の如く其れ盛なるを得んや。」

これに対し井上毅の(修正本)はやや異なる文面である。

「神武天皇皇国を肇め民を治め、我が大日本帝国を定めたまへるの後、歴世相承け、以て今日に至るまで、皇統連綿、実に二千五百五十余年の久しきを経て、皇威益々振ひ、皇徳益々顕はる、是れ海外に絶えて比類なきことにして、我邦の超然万国に秀づる所なり、蓋皇祖皇宗の徳沢深厚なるにあらざるよりは、安ぞ能く此の如く其れ盛なるを得んや。」

井上毅が皇祖を神武天皇とし、皇宗を歴代天皇としたことは「梧陰存稿」(小橋某に答える書)に明記されている。これは井上毅が総理大臣山縣有朋に示した起草七原則ともいうべきものに沿った考えである。

その中には敬天尊神などの語を避ける、あるいは宗旨、つまり特定の宗派がよろこんだり怒ったりしないものということがあげられている。また井上毅の(小橋某に答える書)に、記紀には天照大神は天知らす神となし、とある。

このことは、天皇のお言葉である勅語をめぐっての神代に関する論争の防止、これが目的だったのではないかと思われる。ただそれ自体は教育勅語の基本的な解釈には決定的な問題ではない。

重要なことは井上毅に「皇祖皇宗の徳沢」があって井上哲次郎にはないことである。

井上哲次郎のいう「皇祖皇宗の徳を樹つること極めて深厚なる」は、教育勅語の単なる引用であり解説にはなっていない。

井上毅はこの第一段落の修正意見として次のような文章を残している。これは部分的には平成2年に出版された『日本近代思想大系6 教育の体系』において引用されているが、出典が記されていなかったものである。

それが、平成20年3月、国学院大学日本文化研究所の編集で出版された『井上毅伝史料篇補遺第2』のなかに「梧陰文庫Ⅱ-四五九」として公開されたのである。

「我が臣民の一段は勅語即ち皇祖皇宗の対-股(むきあい)-文にして、臣民の祖先の忠孝の風ありしことを宣べるなり、故に維新の攘夷諸士を此の例に引くは古今の別を混するの嫌あり、削るべし、何故なれば云々以下九行暁るべきなり迄削るべし、何となれば行文冗長の失あるのみならず、其の君道を論ずる処、全く勅語の本文に関係なし、是れ衍義の体に非ず」

井上哲次郎の出版された『勅語衍義』に読むと、維新の諸士については井上毅の意見を汲んでいるが、「何故なれば・・」以下の文章については、井上毅の意見を反映させていないことが確認できる。

「何故なれば、国君の臣民を愛撫するは、慈善の心に出で、臣民の君夫に忠孝なるは、恩義を忘れざるに出づ。臣民にして恩義を忘れんか、禽獣に若かず。国君にして慈善の心なからんか、未だ其天職を尽したりと謂うべからず。此れに由りて之れを観れば、我邦の屹然として東洋諸国の間に卓越するは、主として君臣父子の関係、其宜しきを得るに因ることを知るべく、又教育の基本とすべきこと、亦此れに外ならざるを暁るべきなり。」

つまり井上毅は、「徳を樹つること深厚なり」の皇祖皇宗の「徳」と臣民の「忠孝」が対になっていること、これは我が国の歴史を貫いて変わっていないことを主張しているのである。

そして「国君にして慈善の心なからんか、未だ其天職を尽したりと謂うべからず」は教育勅語の解説になっていないと批判しているのである。たしかに勅語は天皇のお言葉であるから、その解説として国君として云々は余分なものだろう。

以上の事実から二つの『勅語衍義』には「徳を樹つること深厚なり」の「徳」に決定的な違いがあるとする仮説が成立する。教育勅語の解釈において看過できない事実である。

 

井上毅の教育勅語

七原則

教育勅語の草案作成にあたって、井上毅が起草七原則ともいうべきものを山縣有朋総理大臣に認めたことは前述したとおりである。その七項目はつぎのとおりである。

非常に慎重な内容の原則であるが、「畏天敬神ノ心」を主張した元老院議官中村正直の草案を批判した井上毅の姿勢がよく表れている。

そしてこれらからは強い「恣意性の排除」が見られ、いわゆる理論を避け、歴史事実に基づいたものにしたかったのではないかと考えても間違いではないだろう。

教育勅語の草稿を収集した著作では、「朕惟うに皇祖皇宗・・・教育の淵源亦実に此に存す」の第一段落は草稿段階からさほど変化していなことがあげられている。

その第一段落でもっとも重要なところは次の文言である。

「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」

井上毅が「本居宣長はいかばかりの書をよみたりしか、彼人の著書をよむごとに敬服にたへず」と述べたことを、助手格の小中村義象が「梧陰存稿の奥に書きつく」に記している。

その本居宣長の『直毘霊』にはこんな文章がある。

「いはゆる仁義礼譲孝悌忠信のたぐひ、皆人の必ズあるべきわざなれば、あるべき限リは、教ヘをからざれども、おのづからよく知リてなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき国を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必ズ有ルべきかぎりを過ギて、なほきびしく教へたてむとせる強事(シヒゴト)なれば、まことの道にかなはず」

また『くず花下つ巻』では、礼儀忠孝の類、今は教ヘをまたずして、人々よくすることの如くなりぬるは、云々という問いに対して、「異国聖人の道いまだ入リ来らざりし以前は、殊に礼儀忠孝の道も全くして、世はいとよく治まりし事は、難者はしらずや」と答えている。

仁義礼譲孝悌忠信などの徳目は人として当然備わっているもので、異国(支那)聖人の道が伝わる以前から我が国はよく治まっていたのだということである。

「礼儀忠孝等の類は、必万人皆しらでは叶はぬ事」であるから「かの諸匠諸芸などの如く、その職の人のみ知て可(ヨ)きたぐひと、一つに心得あやまれるもの也」とも述べている。

仁義礼譲孝悌忠信などは、理論理屈で打ち立てるものではないということだろう。

教育勅語が渙発された翌月の明治23年11月7日、陸羯南の新聞「日本」は井上毅の「倫理と生理学との関係」を掲載した。重野安繹文学博士が帝国大学の勅語拝読会において、是を儒教主義と云ふも不可なかるべし、と語った後に次のような矛盾することを述べたことが原因である。

「抑(そもそも)儒教は支那に起り所謂五倫五常の名目を設け、精微に其道理を攻究し人事の儀則を立てたれば、我先皇之を採用し玉ひ二千年来其教を遂行せしに因り、一たび倫理の事に説き及べば皆儒教主義なりと人々心得るは本末を誤れりと謂はざるを得ず云々]

重野安繹がこのような撞着矛盾の説をなすのは儒者であり且つ官吏であるからか、と記者は結んでいる。そして新聞「日本」は「博学明識を以て朝野に勢力を有する某氏」である井上毅から「倫理と生理学との関係」を示され掲載に及んだのである。その内容は、倫理は儒教の占有物ではないというものであった。

「倫理は普通人類の当に講明す可き所にして、之を古今に通じ、之を中外に施して、遁れんと欲して遁るること能はず、避けんと欲して避くること能はざるものなり、誰か倫理を以て儒教一家の主義と云ふや・・・世人が倫理を以て、儒教主義の特産に帰せんとするを笑ふ者なり」

井上毅は前述の七原則にあるとおり、勅語に関する論争を避けるために草案作成と同時進行でこの「倫理と生理学との関係」を書きとめていたと思われる。「之を古今に通じ、之を中外に施して」という教育勅語の最後段の文言が用いられているからである。

以上のことを考えると、「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が儒教の徳目ではあり得ないことは明白である。

重野安繹が「我先皇之を採用し玉ひ」といっても「皆人の必ずあるべきわざ」であるし、倫理は儒教の占有物ではないのである。また、皇祖皇宗が徳を樹てられたとしても、仁義礼譲孝悌忠信などというものではないことも同様である。それらは歴史の事実として存在しない。

 

井上毅の「徳」

井上毅「梧陰存稿」には「言霊」があって、ここに重要な文章がある。

故に支那欧羅巴にては一人の豪傑ありて起こり、多くの土地を占領し、一の政府を立てて支配したる征服の結果といふを以て国家の釈義となるべきも、御国の天日嗣の大御業の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすといふ意義より成立たるものなり。かかれば御国の国家成立の原理は君民の約束にあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ

我が国の国家成立の原理は君民の約束ではなく、天皇の「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意義の君徳である。したがって、国家の始は君徳に基づくという一句は日本国家学開巻第一に説くべき定論であるということである。これはつぎの古伝承に関係がある。

「汝がうしはける葦原の中つ国は、吾が御子のしろしめさむ国と言よさし賜へり」

大日本帝国憲法の起草者の一人であった井上毅は、国典研究の中で『古事記』のこの文言に大きく注目した。「うしはくといひ知らすといふ作用言の主格に玉と石との差めあるを見れば猶争うことのあるべきやは、若し其の差別なかりせば此の一條の文章をば何と解釈し得べき」と強調しているのである。

「うしはくとしらす」については当サイトの「人間宣言」に子細を述べたところであるが、この「しろしめす」は天皇の統治姿勢を示す言葉とも言うべきものである。

我が国の来歴を思い伝統や慣習を重視する立場で憲法を考えていた井上毅は、この「しろしめす」という言葉への感動を「言霊」に書き残している。「しろしめす」は「私という事」のない天皇の統治姿勢を示すものであり、奄有や占有に相対するものである。

「支那の人、西洋の人は、其の意味を了解することは出来ない、何となれば、支那の人、、西洋の人には、国を知り、国を知らすといふことの意想が初より其の脳髄の中に存じないからである。是が私の申す、言霊の幸ふ御国のあらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申す所のものである」

井上毅の憲法草案第一条は「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」であったといわれている。「しらす」にこれほど着目したのは本居宣長以来といっても過言ではないだろう。

そしてそれは「かの、神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく、異国の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知べきなり」と述べた本居宣長『玉くしげ』と同じ心情だったと言えるのではないか。

そもそもいわゆる神勅というものは、我が国の在り様が詳細に決定されている、などとというものではない。我が国の歴史を辿ると、日本という国がまさに今日まで古伝承にあるとおりに顕現されていることに感動する、そういうことを本居宣長は言っているのである。

だから「神代の正しき伝説(つたへごと)」(『直毘霊』)を思い、「幸にかかるめでたき御国に生(あ)れ」(『くづばな』)ることに感謝するのである。井上毅の見出したものとほぼ同じである。

「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」

「皇祖皇宗の徳沢深厚なるにあらざるよりは、安ぞ能く此の如く其れ盛なるを得んや」は井上毅の「勅語衍義(修正本)」である。この徳沢深厚の「徳」が五倫五常の「徳目」であるとする根拠は存在しない。

そして皇祖皇宗がそれらの「徳目」を樹立せられたという根拠も存在しない。あるのは「国家の始は君徳に基づくという一句は日本国家学開巻第一に説くべき定論」とするものなどである。そしてその君徳とは「天皇の「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意義」の君徳である。

稲田正次『明治憲法成立史 下』には「初稿第一条の説明」というのが掲載されている。

「蓋祖宗の国に於けるは其君治の天賦を重んじ国民を愛撫するを以て心となし玉へり。謂はゆる国を治らすとは以て全国王土の義を明にせらるのみならず、又君治の徳は国民を統治するに在て一人一家に亨奉するの私事に非ざることを示されたり。此れ亦憲法各章の拠て以て其根本を取る所なり」

これは孫引きであるが、『憲法義解』にある第一条の解説もほぼ同様な文章である。これらの基礎が井上毅の筆になるものであることは明らかにされているところである。

「我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を済せるは此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す」

「徳を樹つること深厚なり」につづく文章である。井上毅はこの文章について「我が臣民の一段は勅語即ち皇祖皇宗の対-股(むきあい)-文」と述べている。

つまり、「歴代天皇の「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意義の有難い君徳、それに臣民が億兆心を一にして忠孝を実践してきたことが世世その美をなし、国体の精華となっているのであって、教育の淵源はまさしくここにあると述べられているのである。

一方、井上哲次郎『勅語衍義』には「しらす」「しろしめす」の解説はひとつも見られない。明治45年の『国民道徳概論』においても「しらす」の解説はない。

井上哲次郎が「しらす」を熱心に語ったのは『勅語衍義』から約30年後の大正8年、明治聖徳記念学会における講演である。少なくとも井上哲次郎は、『勅語衍義』執筆の時点において、この「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「君徳=しらすという意義」に理解できなかったのである。

その稿本を天覧に供したとはいえ、天皇はご不満であり、井上毅は文部大臣として『勅語衍義』を「小学校修身書検定不許」としている。限定的な範囲ではあるが、究めて厳しい措置である。

井上毅は本居宣長同様、古伝承にある「しろしめす」を発見して、「徳沢深厚」という意義を「徳を樹つること深厚なり」の草案に込めたのである。

それを井上哲次郎は「何故なれば、国君の臣民を愛撫するは、慈善の心に出で、臣民の君夫に忠孝なるは、恩義を忘れざるに出づ。臣民にして恩義を忘れんか、禽獣に若かず。国君にして慈善の心なからんか、未だ其天職を尽したりと謂うべからず」と解説したのである。勅語の解説にふさわしくない事がよく分かる。

当時、この「しろしめす」という意義を「徳を樹つること深厚なり」の「徳」であるとはっきり認識した教育勅語の解説書は見当たらない。

明治天皇と井上毅を除くと小中村義象が理解していたと思われるが、ここに触れた著作を目にしたことはない。

また元田永孚についても同様であるが、元田は儒者であるから第二段落の徳目が明記されたことで満足だったと考えてもよいのではないか。

いずれにせよ現在でも、官定解釈あるいは公定註釈書といわれた『勅語衍義』の影響が大きいことは変わっていない。

 

誤りの構造

「斯の道」の範囲

教育勅語の第一段落「徳を樹つること深厚なり」の「徳」は、仁義礼譲孝悌忠信などではなく、君治の徳の「徳」である。この解釈に反する事実は存在しない。

仮にこの「徳」を仁義礼譲孝悌忠信と解釈しても、これを支持する事実は見当たらない。あるのは事実に立脚しない思いこみの論説ばかりである。

「爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し・・・」で始まる第二段落は、第一段落で確認された君徳に対する臣民の忠孝をさらに分かりやすく述べられたものである。

いわゆる五倫五常の類である。そして井上毅の勅語衍義稿本への修正意見には、この第二段落に関するもので決定的なものは記されていない。

第三段落は「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして・・・咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」である。ここにある「斯の道」がどの範囲を受けているかは後の議論にもあったことである。

しかしどの議論でも「斯の道」の範囲が正しく示されたことはない。その原因はやはり第一段落の「徳」の解釈にある。

「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を、第二段落にあるいわゆる五倫五常だと解釈すれば「斯の道」は第二段落の「爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し・・・皇運を扶翼すべし」となる。

しかし第一段落の「徳」が「しろしめす」という意義の君徳だとすれば、「斯の道」は第一段落から第二段落までのすべてを受けると考えて妥当である。

前者からでは「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所・・・」の「倶に」の意味が特定できない。

「爾臣民・・・」に始まる第二段落は臣民の遵守すべき徳目である。皇統を承け継ぐのが子孫であるから臣民の徳目を「倶に」では意味が通じない。第一段落の「徳」に意識のない解釈である。

後者からは皇祖皇宗から伝わる「しろしめす」という天皇統治の妙(たえ)なるお言葉と、それに対する臣民の忠孝の姿と捉えているので、「倶に」の持つ意味が明瞭になる。

子孫臣民がそれぞれの「君徳」と「徳目」を遵守することが「倶に」の意味ととらえて妥当である。

 

「中外」の意味

いまひとつ教育勅語の解釈を誤らせた原因の一つは、第三段落にある「之を中外に施して悖らず」の「中外」の語義にある。

明治は欧米化の時代である。国学や儒学は停滞していた時期である。

「中外」を解説した当時の『広益熟字典』は「日本と外国のこと」であるし、『新撰字解』でも「我が国と外国」だけである。『言海』に「中外」はなく、大正二年の『大字典』では教育勅語を例文にとって、やはり日本と外国の意味のみである。

「中外」は『管子』に「中外不通」と用いられている。「後宮」の女性と「外朝」の男性が交われば宮廷の秩序が乱れることから、それを禁止する意味で「中外普通」とされたのである。

また「宮廷の内と外」のほかに、「中央と地方」そして「朝廷と民間」の意味がある。

『管子』「君臣 下」は井上毅や元田永孚が読んでいた可能性が十分にある。なぜなら明治14年「大臣・参議及び各省の卿等に下されし勅語」には「惟うに維新以来、中外草創の事業、施行方に半ばなる者あり」とあって、この「中外」は文脈から「朝野」と読み替えて妥当だからである。

また明治十一年八月三十日から同年十一月九日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮あらせられた。

それは勤倹を旨とするものであって、侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請した。「十二月二十九日同僚相議して、曰勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是誠に天下の幸、速に中外に公布せられ施教の方鍼を定めらるべし」(『元田永孚文書』)。

そして文章についての様々な議論の後、明治十二年三月、「興国の本は勤倹にあり。祖宗実に勤倹を以て国を建つ。」という内容の「利用厚生の勅語」が渙発されたのである。国民に勤倹を促すものであるから、「中外に公布」は「全国(民)に対し公的に広める」である。

外国はまったく関係がないし、教育勅語にある「中外に施して」の「中外」がこれと異なるとする根拠はどこにも存在しない。

大隈重信と共に立憲改進党を組織し、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立した小野梓に「若我自当」がある。「若し我れ自ら当らば」は明治十四年の政変と言われる年に記されたものである。

憲法を制定して、いわば人民を「無政府の不幸より救済」する、そのための政治戦術を述べたものである。最後の一策として小野梓は次のように書き残している。

「聖上還御の前に当て間を請ふて天皇に謁見し、憲法制定の今日に止むべからざる所以を具状し、更に内閣外に就て憲法制定論の賛成者を求め、中外の声援に依て其制定の議を断行する、是れ也。(中略)即ち在廷官吏の鏘々たるもの及び在野負望の士にして其影嚮を内閣の議に及ぼすに足るべきものを求むるを謂ふ也。(中略)是を以て今我党に於て朝野の賛成者を求むるの策最も之が巧妙を尽し、厳に後患を予備せざるを得ず」

「中外の声援」は明らかに「宮廷の内外」である。「朝野の賛成者」と整合する。また小野梓には「勤王論」もあって、幕府について語っているところでは「中外皆な関東の人士を以て之を制し」と記している。「中外」は「中央と地方」つまり「全国」である。

小野梓は明治十年に太政官少書記官となり翌十一年には元老院少書記官を拝命している。やはり宮中に近い環境にいたことが、「宮廷の内外」「朝廷と民間」「中央と地方」を正しく「中外」と表現した要因として考えられるのではないか。

教育勅語渙発の翌月、明治23年11月23日に出版された奥山千代松著・内藤耻叟閲『教育基本勅語釈義』ではすでに「これを我国に行ふてよろしきのみにあらず」と解説し、古今中外に施して害がないとしている。

しかしこの「中外」を「日本と外国」と解釈する根拠は存在しない。むしろ「日本と外国」と解釈することに反する事実が存在する。

「斯の道は実に祖宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に守るべき所、凡そ古今の異同と風気の変遷とを問はず、以て上下に伝へて謬らず、以て中外に施して悖らざるべし」

これは初稿としてよく引用されるものである。この「以て上下に伝へて謬らず、以て中外に施して悖らざるべし」の「上下」と「中外」は曲礼にある「君臣上下、父子兄弟、礼に非ざれば定まらず」、あるいは易経にある「君臣有りて、然る後に上下有り。上下有りて、然る後に礼義錯く所有り」から解釈されるのが妥当である。

天皇のお言葉である勅語に用いるので「君臣と上下」を「中外と上下」としたことは容易に推測できるのである。

福沢諭吉『文明論の概略』は明治8年であるが、ここにも典型的な文章がある。

「開闢以来君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別と言ひしもの、今日にいたりては本国の義となり、本国の由緒となり、内外の名分となり、内外の差別となりて、幾倍の重大を増したるにあらずや」

この上下と教育勅語の草稿にある上下は同じ意味である。もちろん「上下」には「今と昔」という意味もある。しかし稲田正次『教育勅語成立過程の研究』にある明治23年8月10日頃の草稿とされているものには、「以て上下に推して謬らず・・・」とある。文脈からして君臣上下の上下以外に解釈することには無理がある。

したがって、この初稿は「中外」を「国の内外」「我が国と外国」と解釈することに反する事実である。またこの草稿を初稿とするか否かは別として、海後宗臣『教育勅語成立史』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』に写真資料として掲載されている。動かない事実である。

「斯の道」が第一段落の「徳=君徳(しらすという意義)」と臣民の遵守すべき「徳目」の両方を含んでいることは先に述べたところである。したがって「斯の道」すなわち「之」は「君徳」と「徳目」である。

それらを「我が国だけでなく、外国でとり行っても」とする根拠は存在しない。井上毅が「君徳」を外国に施すと想定していた事実は見当たらないし、起草七原則や「梧陰存稿」などにも存在しない。

「八紘一宇」を世に広めた田中智学に『明治天皇勅教物がたり』(昭和5年)がある。「君徳が反映しての民性」と語ってはいるが、「しらす」は一言も語られていない。田中智学の「中外」はあくまで「国中と国外」である。

そうして「斯道(このみち)」は決して一国一民族の上のものではなく、中外に悖らざると喝破せられたのは、「神武天皇のご主張たる「人類同善世界一家」の皇猷(こうゆう)を直写せられた世界的大宣言と拝すべきであらう」と述べるのである。

これはある種の超国家主義的思想と教育勅語「中外」の誤った解釈が重なって出来た、田中智学独特のイデオロギーと考えるのが正しいのではないか。

「八紘一宇」は明治30年代に田中智学が造語したとされているが、その時期が明治24年の『勅語衍義』以後であり、さらに日清戦争以後であることは偶然ではないだろう。

井上毅に「世界的大宣言」を連想させるものは見当たらない。数々の草稿にはその片鱗さえも見つけられない。『明治天皇勅教物がたり』は『勅語衍義』を燃料として発展させたひとつの観念論ともいうべきものであって、事実に立脚した解釈の上に立つものではない。

 

新聞「日本」

誤解を生じさせるような文言は、前述した陸羯南の新聞「日本」に掲載された井上毅「倫理と生理学との関係」にもある。

新聞「日本」は「其の結論」として、「倫理は普通人類の当に講明す可き所にして、之を古今に通じ、之を中外に施して、遁れんと欲して遁るること能はず、避けんと欲して避くること能はざるものなり」と記したのである。

一読では「之を古今に通じ、之を中外に施して」の主語を特定しにくい。「之」は「倫理」であり、「施して」の目的語であるが、漢文調のこの文章は慎重に読む必要がある。まず「通し」は「伝達して」「伝えて」の意味が妥当である。また「施して」は「敷衍して=広め述べて」であるが、井上毅の想いを忖度すると「示して」のニュアンスと読み取れる。

「倫理は普通人類のまさに講明すべきところにして、教育勅語に天皇が、斯の道は歴代天皇が昔から今日まで伝えられてきて誤りがなく、之を全国(民)に示して道理に反しないものであった、とお諭しになられたように、私たち国民はそのことから逃れようとして逃れられるものではなく、避けようとしても避けることのできないものである」と読むべきだろう。あくまで「之を古今に通じ、之を中外に施して」は教育勅語の天皇のお言葉である。

したがって、「倫理は普通人類の当に講明すべきところ」から普遍性を導きだして、「之を古今に通じ、之を中外に施して」の主語を国民とするのは誤りである。

天皇以外の国民や第三者が主語なら「之古今に通じ」となるのが普通である。「之古今に通じ」られたのは代々の天皇なのである。井上毅が教育勅語の文章を引用した上で、あえて主語を替えることはあり得ないと考えるのが妥当である。

新聞「日本」には「倫理と生理学との関係」、『井上毅伝』資料篇第三には「五倫と生理との関係」がある。後者はやや文章が簡潔化されたものである。

「故に五倫は人とし人たるものの世に生活する為に必履み行ふべき道にして、古今に通じ中外に施して、遁れむとして遁るること能はず避けむとして避けること能はざるものなり、誰か五倫を儒教一家の主義といふか・・・世人が倫理を以て儒教主義の特産に帰し、己れは五倫の教の為に立つものの如く心得るを笑ふ者なり」

やはり一読では「古今に通じ中外に施して」の主語を特定しにくいものと言わざるを得ない。しかし同様の文章を比較すれば主語は明確になる。

新聞「日本」とほぼ同じものであるが、これらの原文と思われるものが平成20年3月、『井上毅伝』資料篇補遺第二に「倫理ト生理学トノ関係」(梧陰文庫B―三〇二五)として収載された。基本的にこの文章は原文の吟味から正しい解釈を導き出すべきである。

上記のように天皇のお言葉であるから、この「中外」はやはり「宮廷の内と外」「朝廷と民間」つまり全国民が正しい解釈である。

この場合の「之」は「斯ノ道」であるが、「君徳」と「徳目」のうちの「徳目」つまり倫理について、それは儒教主義の占有物ではないとすることを目的として書かれたものである。

これは起草七原則の③哲学理論は反対論を呼ぶので避ける⑤漢学の口吻と洋学の気習とも吐露しない、に関連する。「之」や「斯ノ道」の全体を語ったものではない。

そしてなによりこの「倫理と生理学との関係」には、皇祖皇宗が徳目としての徳を樹てられたとは一言も述べられていない。これは「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とする解釈に反する事実である。

陸羯南はそのフランス語の実力を買われ、井上毅のもとで『奢是吾敵論』の翻訳に協力したといわれている。井上毅の考え方を十分理解していたことはほぼ間違いないだろう。

明治23年11月3日の新聞「日本」の記事「斯道論」では「斯の道は古今に通じて謬らず中外に施して替らず、上み 天皇より以て下も匹夫匹婦に至る迄皆な共に其の道として之を奉ずるに足る、国体の精華教育の淵源豈に斯の道を措きて他に求る所あらんや」と述べている。

「中外」に外国はイメージされていない。ただこのあとの明治23年11月7日の新聞「日本」は、これについてやや淡白な印象がある。もう少し丁寧な解説が必要だったのではないか。

陸羯南が取材した「倫理と生理学との関係」は日本近現代史上における貴重な文書である。羯南にとって、「君臣」や「中外」は自明の理だったのだろうか。少し惜しい気がする。

また井上哲次郎「勅語衍義稿本」を修正した井上毅「勅語衍義(修正本)」にもいくつか紛らわしい文章があるが、いずれも決定的なものではない。

 

日本固有の道

「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とし、「斯の道」をその「徳目」の実践のみとすることに根拠がなく、それに反する事実が存在することは述べたとおりである。

「徳」は「君徳」であり、「斯の道」は「君徳」と臣民の「徳目」の両方を包含するので「朕爾臣民と倶に」とある「倶に」の意味が明瞭になるのである。

したがって「之を中外に施して悖らず」に外国はまったく意識されておらず、この「中外」は「宮廷の内と外」、つまり文脈上は広い意味の「全国民」とするのが正しい解釈である。

草稿段階の「爾臣民、宜しく本末の序を明らかにし内外の弁を審かにして、教育の標準を愆ることなかるべし」(「六修正」)にあるように、「内外の弁を審かにして」(我が国と外国の区別を明らかにして)の意思も明確である。「中外」を「国の内外」と解釈し、普遍性を強調すると矛盾が生じてくる。

しかしそれでも我が国固有の道は、特殊即一般であるとして、普遍性をもつものであるとの言説がある。

井上哲次郎は『東洋文化と支那の将来』において、「『教育勅語』に「斯ノ道」とあるのも決して儒教の道を意味されたものでなくして、日本固有の道である。日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即ち宇宙の根本原理である。宇宙の根本原理は普遍妥当性のもので、何も日本に限ったものではない。然しながら、それが日本といふ特殊の境遇を透して行はれる時に「惟神の道」又は「敷島の道」となり、日本固有とも云ふべき性質を帯びて来る」と語っている。

教育勅語の「斯の道」が我が国固有のものであるとしても、それが世界遍在の道で即ち宇宙の根本原理とは分かりにくい。

もともと教育勅語は維新以来の急激な欧米化の中で、道徳の紊乱が問題とされ、明治23年2月の地方長官会議における「徳育涵養の義につき建議」等を経て渙発されたものである。そしてその建議の文章は次のとおりである。

「我国には我国固有の倫理の教あり。故に我国徳育の主義を定めんと欲すれば、宜く此固有の倫理に基き其教を立つべきのみ・・・冀くば今日猶狂瀾頽波の勢を挽回し以て我国固有の元気を維持することを得べし」

この文章からは「宇宙の根本原理」が期待されていたとは考えられない。井上哲次郎『東洋文化と支那の将来』は昭和14年刊で東亜新秩序建設が叫ばれていた頃である。

日清日露戦争に勝利してこの頃は我が国の「世界史的使命」が語られた頃である。それらを考慮しても「日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即ち宇宙の根本原理」はまったく恣意的な解釈と言わざるを得ない。

教育勅語の「斯の道」が宇宙の根本原理であるとは明治天皇の周辺や井上毅の著作にはひとつも見当たらない。井上毅の起草七原則といわれるものに③哲学理論は反対論を呼ぶので避ける、とあって、むろん教育勅語の本文に哲学理論は存在しない。

井上毅から元田永孚への書簡に、(教育勅語の)「斯の道の下、実に、の一字不可欠」は漢文による表記のことであるが、「斯の道は実に皇祖皇宗の遺訓にして」は「斯の道」が歴史の「事実」であることの強調である。哲理哲学ではない。

教育勅語にはこの「宇宙の根本原理」や「世界的大宣言」が語られる根拠は全くないと言わざるを得ない。これらは「中外」の誤った解釈をもとに付会された井上哲次郎の謬見である。

 

誤りの角質化

教育勅語の外国語訳

教育勅語は海外での評価も高かったと伝聞されて今日に至っている。しかし実際にどの部分がどのように評価されたかを検証する必要があるだろう。平田諭治『教育勅語国際関係史の研究』に鋭い指摘がある。

「このように末松は、・・・第一段落および第三段落に関しては全くペンディングするか、その主旨を略述する程度であった。・・・金子堅太郎の場合にも共通していたに相違ない」

末松とは末松謙澄であり、他には菊池大麓・神田乃武・新渡戸稲造、そして時の文部大臣牧野伸顕に英語訳をつくるよう促した金子堅太郎ら錚錚たる人たちが教育勅語の外国語訳に参画している。

しかし当初、彼らが海外で主張したのは「徳目」部分が主だったのである。ここに『勅語衍義』の影響と彼らの教育勅語観が如実に表れていると言ってよいだろう。

そして「ここには資本主義的道徳のごくごく陳腐な表現以外には何もない・・・」と難じるのである

これは世界産業労働者組合の述べたものであるが、資本主義云々はともかく、キリスト教徒の彼らにとって第二段落の徳目は特別のものではなかったはずである。高い評価を受けたことは事実であるが、上記のような冷ややかな受け止め方とのコントラストはどうだろう。日露戦争後の我が国要人に対するリップサービスと、主張の中身が主に徳目だったことは無視できない事実である。

「教育勅語のインターナショナルな装いは実行力の乏しいものでもあったといえる」

『教育勅語国際関係史の研究』の出版は平成9年である。それまでの教育勅語の海外に於ける評価については、『金子堅太郎著作集』にあるセオドア・ルーズベルト大統領等の話に代表されるようなものが語り草となっていたのである。

『教育勅語国際関係史の研究』にある事実は貴重であり、また後の教育勅語の朝鮮や台湾統治における位置づけの考察も、教育勅語の解釈に関して非常に興味深いものがある。

「もともと教育勅語にインターナショナル云々は存在しない。丁寧に追及すればその事実がないことに行き着くのである」

教育勅語は日露戦争後の海外で高い評価を受け、朝鮮・台湾統治では様々な議論を呼び起こし、終戦後はGHQの圧力などにより排除・失効確認決議がなされている。

明治23年(1890年)からわずか58年後の昭和23年(1948年)にはまるで正反対の評価となったのである。しかし第二次大戦を境に、欧米とくに米国の一般的な倫理観に大きな変化があったとも報告されたことがない。

したがって、いわゆる五倫という範囲のみで教育勅語を考えた場合、この事実には納得しがたいものがある。終戦直後の我が国知識人やGHQの議論にも様々な齟齬がある。やはり渙発から排除まで、教育勅語の捉え方に大きな変化があったと見なければ、これらの事実の持つ意味は明らかにならないだろう。

 

金子堅太郎の誤解

誤解を角質化したもののひとつに金子堅太郎の講演やその記録がある。教育勅語渙発40周年記念や50周年記念におけるそれである。それぞれ昭和5年と昭和15年である。

昭和5年11月3日  金子堅太郎  明治節における全国向けラジオ放送 講演速記

「或日、井上氏は私を訪問して、起草したる教育勅語の草案を見せて、此中に「中外ニ施シテ悖ラス」といふ一句があるが、是は御承知の通り支那人又は漢学者が中外に施して悖らずと云ふやうなる句は常に用ゐ来って居るから、或は帝威を中外に輝かすとか、又国威を中外に宣揚するとか云ふことは、漢文を起草する時には常に慣用して居るから、さまで世人の注意を惹くまいと思ふけれども、此教育勅語は陛下の御言葉であって是が若し翻訳されて、欧米諸国に知れ渡った時に、茲にある中外に施して悖らずと云ふ文句が若し欧米の教育の方針に矛盾すると云ふやうなことがあっては是は由々敷き一大事であって、吾々起草者は、陛下に対し恐懼の至りであるから、君に相談する、君は米国で永らく彼の国の教育を受けられたが為に、此草案全部を熟読して、是が果たして欧米の教育の方針に矛盾せざるや否やを研究して戴きたいと言ふて、其草案をみせられました」

そして金子堅太郎は、少しも世界の道徳に背かない、これを御沙汰になって中外に施しても少しの悖るところが無い、と答えたとある。

ここに井上毅の相談あるいは質問と金子堅太郎の回答にズレがあると言わざるを得ない。むろん40年前のことであるから、正確に言葉が再現されているかどうかの問題はある。

しかし井上毅が「教育の方針」に関する相談をしたことはその通りだろう。起草七原則には①君主は臣民の心の自由に干渉しない、がある。前年には大日本帝国憲法が発布されており、その第28条は信教の自由条項である。

「本心の自由は人の内部に存する者にして、固より国法の干渉する区域の外に在り」(伊藤博文『憲法義解』)であるし、道徳についてはキリスト教なら教会が担っているとの判断があったはずである。

君主のお言葉が政事命令と受け取られ、欧米諸国の教育の方針からしてそこに矛盾がないかどうか、というのが井上毅の相談あるいは質問だったのではないか。

金子堅太郎は伊藤博文のもとで井上毅、伊藤巳代治らとともに、大日本帝国憲法の起草に貢献した明治の賢人である。帝国憲法でいえば第28条に関連し、各国政府は「法律上一般に各人に対し信教の自由を予へざるはあらず」(『憲法義解』)であるから金子堅太郎に相談したというのが実情だろう。

教育勅語は国務大臣の副署がなく、井上毅が文部省に下付されず学習院か教育会へ臨御のついでに下付せらるかたちを望んでいた事実を考えれば、徳目が海外で通用するか否かではなく、君主のお言葉が政事上の命令となるか否かを相談したと考えて妥当である。

金子堅太郎は昭和15年の記念放送で「教育勅語の中に、是々の箇条は耶蘇の教義に悖ると云ふ者があった時には由々しき大事だから」と井上毅から相談を受けたと述べている。

しかし、いわゆる五倫は人として当然のことと「五倫と生理との関係」等にあるから、井上毅の考え方と金子堅太郎の受け取り方には基本的な矛盾があると言わざるを得ない。

 

「斯の道」の変遷

明治末期から大正期

教育勅語は渙発から排除・失効まで同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。

明治38年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして彼らは教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

教育勅語発布30年記念が大正9年、豊島師範学校で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

教育勅語渙発の契機のひとつである地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられない。杉浦重剛の話は「中外」の誤解が生んだものとしか考えられない。

注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「「皇国ノ道」とは教育勅語の「斯ノ道」であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには「斯ノ道」の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、「皇国ノ道」は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

そして徳富蘇峰は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋がずして(中略)大和民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却て寥々世に聞ゆるなきが如かりしは、寧ろ甚大の恨事と云はずして何ぞや」

下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。

これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我国固有の道は普遍的なものであると述べていた識者たちである。

ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜った頃には、幾多の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきであると井上哲次郎などは語ったのである。

台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対して様々な意見のあったことが記されている。

「別に新たなる勅語を要すといふは教育勅語の「古今に通じて謬らず中外に施して悖らず」に背馳するものにして教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は代表的な意見のひとつである。

しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば「徳」や「中外」の誤った解釈が訂正されていただろうからである。

 

昭和初期から終戦まで

先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。ここで特徴的なものは田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているものである。

「八紘一宇」の語、そのものは用いていないが神武天皇・天業恢弘東征の詔から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。トいふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依って「国ヲ肇メ徳ヲ樹テ」られたのである。(中略)此三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。そして昭和初期から終戦まで、一言でいえば、「斯の道」は「皇道」に発展した。

「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠古の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承けて今日に至った」

「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる「養正」の道義をもってする世界維新の大皇謨、天皇親帥の下大和民族の大進軍なり」

「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て彌々天壌無窮の皇道を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である

「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為すを以て目的とす」

「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣に基きて国民道徳の実践を指導し忠良なる皇国臣民たるの徳性を養ひ皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす国運の隆昌文化の発展が肇国の精神の顕現なる所以を会得せしむると共に諸外国との歴史的関係を明にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし

この頃強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。

一言でいうとまさに「皇運扶翼」のみである。

「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか。そしてここに至るまでには、信じがたい痛恨の協議会も文部省によって開催されていた記録が残されている。

 

痛恨の協議会

昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂の参考に供するため「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。

協議会は7回に及び概ね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄・紀平正美・近藤寿治・宇野哲人ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。

そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

その協議会において、和辻哲郎は、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これ迄の文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるには余程重要な理由がなくてはならぬ、と述べた。

またそういう理由が見つかったとすれば、在来の如き解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見の中には特に解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、と議論を封じ込めるような発言を行ったのである。

結局「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。

紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。

「しらす」について、井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。

ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。そして全体として『勅語衍義』や重野安繹・末松謙澄あるいは今泉定助らの解説書に拘束されて、教育勅語そのものを明治天皇のお言葉として解釈していないものとなったのである。

「徳」と「中外」の解釈に誤りのある協議会であるから、その議事要録の内容は全く不毛で謬見に満ちている。

当時の我が国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括られたのである。

 

戦後の教育勅語

奇妙な話

GHQの占領下にあった我が国の、当時の教育勅語に関する話には奇妙なものがある。代表的なものは文部大臣にもなった田中耕太郎が教育勅語を擁護したとする話である。

田中耕太郎『教育と政治』「教育勅語論議」(昭和21年3月)

「教育勅語には個人道徳、家庭道徳、社会道徳、国家道徳の諸規範が相当網羅的に盛られている。それは儒教仏教基督教の倫理とも共通している。「中外に施して悖らず」とは此の普遍性の事実を示したものであり、一部国粋主義者の解説したように、日本的原理の世界への拡張ではない。又「一旦緩急」云々は好戦的思想を現しているものではなく、其の犠牲奉仕の精神は何時の世にも何れの社会に於ても強調せられなければならない。其処には謙虚さこそあれ、何等軍国主義的過激国家主義的要素も存しない」

普通に読めばたしかに教育勅語擁護論である。しかし田中耕太郎には到底擁護論者ということを肯定するわけにはいかない事実が残されている。

田中耕太郎は「米国教育使節団に協力すべき日本側教育委員会」の委員であったが、その昭和21年2月の報告書では六つの意見のうちの第一に「教育勅語に関する意見」があって、新しい教育勅語を提唱しているからである。

意見を要約すると、新しい詔書を賜りたいとして、①教育勅語は文体を含め時代に適さざるものになった、②生徒教職員等のみならず一般国民にも呼びかけたもうもの、③徳目の列挙を避ける、③普遍的道徳、個人と人類の価値を認める、とするものであった。

むろん田中耕太郎以外の委員の主張もあるだろう。しかし田中耕太郎の一連の行動には彼を擁護論者とすることに反する明らかな事実がある。

教育勅語は国家・社会・家族・個人・国家の順であるが、田中耕太郎の優先順位は個人・家族・社会・国家である。これは個人から次第に大きな共同体へと並べただけと解釈するのはやや分析が甘いのではないか。

田中耕太郎が尽力した教育基本法の第一条(教育の目的)は「人格の完成」であり、個人が優先している。上記の報告書にも個人と人類の価値、というのがある。国家が軽視されていると言われても仕方がないだろう。

また彼の『教育基本法の理論』では次のように述べているのである

「要するに人格の完成は、完成された人格の標的なしには考えられない。そうして完成された人格は、経験的人間には求められない。それは結局超人間的世界すなわち宗教に求めるよりほかはないのである」

政教分離が大きなテーマのひとつだった時代にあって、「人格の完成」ということが新憲法の精神の下で堂々と述べられたことを考えると、当時の政教分離が国家と神道の分離のみを目的としていたことがよく分かる。

人格の完成を宗教に求めるということは同じキリスト者であった南原繁らも支持していたことである。これは多くの日本人には理解できないものであり、教育基本法により事実上我が国の公立学校における道徳教育は消滅した。

象徴的なのは、本質的に田中耕太郎は自然法論者であり、教育勅語は歴史法学的立場で書かれているということである。教育基本法と教育勅語の拠って立つところはまったく別なのである。

そして田中耕太郎の語った教育勅語は「徳目」である。第二段落のみである。もともと忠孝以下の徳目は擁護云々の話にはならない当然のものである。

問題は第一段落と第三段落にある。「肇国の大義」を「中外に施して悖らず」としたところが問題とされたのである。終戦直後の議論では教育勅語の「斯の道」の定義があいまいなまま、徳目と捉えた者は排除を語らず、軍国主義・過激なる国家主義と捉えた者はこれを否定したのである。

竹前栄治『日本占領』にあるGHQ民政局次長であったケーディスの談話によれば、GHQ民政局が田中耕太郎文相に示唆して国会で廃止決議をさせたことがあるという。

田中文相もこの民政局の示唆について、「それはグッド・アイディア」と言って反対しなかったとある。田中耕太郎が文相だったのは昭和21年5月22日から昭和22年1月31日までである。

教育勅語の排除・失効確認決議は昭和23年6月19日であるから、この話は田中耕太郎が参議院の文教委員会・委員長になっていた時代のことだろう。

この間、実際に文部省は昭和21年10月8日の通牒ですでに教育勅語の奉読を禁止していた。田中耕太郎文部大臣の時代であった。

 

貴重な機会

終戦直後の価値の混乱はやはり異常であった。昭和20年9月15日発行の小川菊松『日米会話手帳』が大ベストセラーとなった時代である。

幕末から明治初期の英語学校ブームに近く、急激な欧米化は開国後も終戦後も同様である。したがってこの時期の教育勅語論議は、詰るところその存廃をめぐる論議だったと言えるだろう。

ただ昭和22年3月19日の第92回帝国議会貴族院本会議における佐々木惣一議員の質問は教育勅語解釈の本質に迫る貴重なものであった。

「一体君主国の君主たる一個人が、人間の道徳に関する、即ち道徳的行動、 人間の心術を規定するやうな、さう云ふやうなことが至当であるかどうかと云ふことは、実は非常な問題となったことがあるのであります」

これは井上毅の起草七原則ともいういべきものの、①君主は臣民の心の自由に干渉しない、に関する重要な内容である。

「此の問題は今日殆ど何人も忘れて居るが、兎に角さう云ふことが問題となったのでありますが、而も其の内容は兎に角重大なものとありまして、嘗てイギリスからも我が国に於ける教育勅語と云ふものの非常な効果のあったと云ふことを著眼しまして、特に教育勅語の説明をする者を派遣して呉れと云ふ要求があって、確か沢柳政太郎博士であったかと思ひますが、その方がおいでになって、特に教育勅語のことを説明したと云ふやうなことでありまして、・・」

日露戦争後に欧米で教育勅語の評価が高かったことは先に述べたとおりである。そしてその評価された部分が第二段落であったことも『教育勅語国際関係史の研究』や『金子堅太郎著作集』にあるとおりである。

しかし佐々木惣一の質問は徳目の内容に触れていない。まさに教育勅語が①君主は臣民の心の自由に干渉しない、に抵触するか否かの話であって、井上毅が金子堅太郎に相談した内容と同じことを質問したのである。

「そこで内容其のものの問題は非常に重要視されて居るが、併しながら兎に角ああ云ふやうな君主が一個人の自己の道徳観を以て、国民一般の道徳観を律することが出来るかどうかと云ふことは、実に問題であったのであります。それは今日はさう云ふ問題は忘れられて居るが如くなってしまって居るのでありますが、兎に角さう云ふ実は、極めて内容とは別の点から申しましても、非常に重要なもんでありまするからして(後略)」

結局この段階では教育基本法との関係で教育勅語がどうなるのかという質問になったのであるが、「之を中外に施して悖らず」の誤った解釈を正すまでには至らなかった。

そして高橋誠一郎大臣は、「個人」「人格の完成」「普遍性」を語り、教育勅語の学校に於ける奉読を廃止し、しかしながら敢えて之を廃止するという考えは存しないと答えたのである。

この後、教育勅語は新憲法や民主主義に沿わないものとしてほぼ合意され、佐々木惣一のような議論はなくなっている。ここを追及すれば「之を中外に施して悖らず」の「中外」が「国の内外」ではなく、「宮廷の内外」「朝廷と民間」広く言えば「全国民」であり、「之を全国民に示して(教えて)悖ることがない」と正しく解釈できたはずである。

結局のところ、教育勅語の解釈をめぐる終戦直後の最も貴重な機会を失ったといえる。そして排除・失効確認決議から今日まで、教育勅語解釈の誤りを解明した著作は、拙著(※)を除きひとつも見当たらない。

※『繙読「教育勅語」』―曲解された二文字「中外」―2007年

 

結び

井上毅の「梧陰存稿」は現在『井上毅伝』に収められているが、明治28年にはすでに初版が出ている。井上哲次郎や宗教学者加藤玄智らが読んでいたことは『明治聖徳記念学会紀要第十三巻』に明らかである。

大正8年、「言霊」にある「うしはくとしらす」についての議論があったからである。しかし教育勅語の「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が「しらす」という意義の君徳であることは認識されていない。

昭和14年の記録では『勅語衍義』を含めて教育勅語の解説書は306種類記録されている(『続・現代史資料9』)。そして今日まで教育勅語を引用し解説したものは数えきれない。

ところがそれらの中で、これまでの「徳」と「中外」の誤った解釈を正したものは見当たらない。原因の一つには「しらす」が理解できず、「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が「しらす」という意義の君徳であることを理解できなかった可能性というものがあるだろう。

また教育勅語を解説した著作者たちは、「中外」という言葉について「国の内外」「日本と外国」という意味しか知らなかった可能性が高い。そしてなにより教育の淵源について、真に理解していたとは考えにくい。キリスト者柏木義円の次の意見に対し、井上哲次郎などは明確に答えていないからである。

「唯衆論定らざるものは如何なる意味を以て如何なる精神を以て此道徳を実践せんか、何の教が最も此道徳を行ふに勢力あるか等の点にして専ら哲学的宗教的精神的の点に在りしなり、勅語は嘗て此等の点に向て判定を下したるものに非ざるなり」

この『明治宗教文学集(二)』「勅語と基督教」にある文章には教育勅語の解釈、あるいは徳育の本質に関する重要な鍵がある。個々の徳目を云々しているのではなく、何のために、何を実現するために勅語の徳目を実践するのかということに、教育勅語は判定を下していないというのである。

「人格の完成」について田中耕太郎は、その標的は宗教に求めるしかない、と述べたのである。その意味と柏木義円の言わんとするところはほぼ同じである。

しかし彼らは教育勅語の第一段落を理解していないと言わざるを得ない。第一段落はまさしくここを明らかに宣べられたものなのである。「我が臣民の一段は勅語即ち皇祖皇宗の対-股(むきあい)-文」ということがそのことを示している。「しらす」という意義の君徳と臣民の忠孝があって、世世厥の美を済せるは此れ我が国体の精華、と宣べられているからである。

井上毅は「言霊」に次のように語っている。

「国を知らすといふことを本語の侭に、支那の人、西洋の人に聞かせたならば、支那の人、西洋の人は、其の意味を了解することは出来ない。何となれば、支那の人、西洋の人には、国を知り、国を知らすといふことの意想が初より其の脳髄の中に存じないからである。是が私の申す、言霊の幸ふ御国のあらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申す所のものである」

我が国の歴史を概観すると、民の自由はその言葉を強く意識することなく実現されてきたといってよいだろう。福沢諭吉が「リベルチ」をどう訳すかで苦労した話は周知の事実である。

幕末のころの自由は「我がまま」であり、禅では「自由解脱」など、とらわれない境地の表現だったようである。政治目的のひとつである自由とは違っている。我が国にはこの自由獲得の歴史などあてはまらない。

国体の精華という言葉は自由で秩序ある民と国家の歴史というニュアンスがあるといってもよいだろう。いわゆる専制の政ではない。「しろしめす」という妙(たえ)なる天皇統治が今日まで存続していることがそのことを示す事実である。

専制の政で建国以来永く存続している国家は見当たらない。価値相対主義者がこれを現状肯定と皮肉っても意味をなさない。歴史の事実だと井上毅は考えて、「知らす」という言葉に「有難い価値」を見出したのである。教育の淵源亦実に此に存す、の「実に」がよく伝わってくる。

「知らす」という言葉は支那・西洋の人たちの脳髄になく、それゆえ理解できないというのだから、西洋の学術が隆盛な明治にあってはなかなか理解されなかったこともよく分かる。否、今日まで国学は停滞している。

「人間宣言」にも述べたところであるが、未だに昭和21年元旦の詔書を人間宣言と呼んでいることがその証明である。明治後半から枉げられてきた宣命解釈の訂正が行われていないのが実態である。

木村匡『森先生伝』に井上毅の皇典講究所講演四というのがある。森有礼を語って実は井上毅の言葉で、ヨーロッパでは宗旨があって少年の精神を確かむるが故にその結果を得て居るが、我が国の採るべきことでない、「御国の国体、万世一系の一事である。此事より外に教育の基とすべきものはない」と述べている。また『井上毅伝史料篇第二』には見落とせない文章がある。

「明治23年10月30日の勅語は日星の義金玉の文にして更に注釈を添ふるが如きは飜て煩涜の恐なしとせず」

おそらくはほとんどの解説書が無用、というより教育勅語を正しく理解していない、と井上毅は思っていたと考えて無理はない。『勅語衍義』をめぐる様々な事実は、その解説に誤りがなければ存在しないものである。

そして教育勅語解釈の誤りがなぜ100年以上も正されなかったかは、本当のところは謎である。

天覧に供した『勅語衍義』とはいえ、天皇はご不満であり井上毅は―限定的ではあるが―検定不許としたのである。『井上毅伝』は昭和44年までに史料篇第一から第三が出版されている。また、教育勅語については昭和56年『教育勅語成立史の研究』に草稿の数々も資料として明らかにされている。これだけ資料があってその解釈が正されなかった原因は、やはりほとんどが「しらす」の理解にあると考えてもよいのではないか。あとは教育、とりわけ徳育の淵源についての理解不足だろう。

教育勅語の誤った解釈は、それ自体訂正されなければならない。この誤りは今日に大きな大きな影響を及ぼしている。我が国の政教問題と徳育問題である。さらには近現代の時代精神の解明にも関連しているだろう。このまま放置しては将来においても禍根を残すことになる。そして何より明治大帝の御遺徳を誤った解釈で穢してはならないのである。

きぎすなく焼野の小野(をぬ)の古小道(ふるをみち)もとの心を知る人ぞなき  -良寛-

―終わり―2009年

 

(参考)「教育勅語」

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ時シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ