国家神道

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神道指令の国家神道

国家神道研究

国家神道というものの正体が分からないままに今日に至っている。その国家神道とは、あくまで昭和20年12月15日のGHQ神道指令にある国家神道である。つまりGHQの定義による。

ポツダム宣言・神道指令を経て日本国憲法第20条そして第89条が制定された。なかでも神道指令は国家神道というものを定義して国家行政と神道を厳格に分離させようとしたものである。

しかしこの国家神道なるものの正体はあいまいであり、国家の神社行政の中には、つまり神社関係法令のなかには神社は非宗教とするものしか見当たらない。むろん教義もない。法令をあげると次のようなものである。

教義がなく法令上も国家神道を特定できるものがない状態で、国家神道という言葉のみが様々に用いられている。

葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』は神道人としての見解であるが、一言でいえば国家神道なるものは神道の範囲内にはなかった、というものである。次の文章が簡潔にそれを表わしている。

帝国政府の官制上、神社神道-戦後の用語では国家神道-の最高機関である神祇院は、非宗教であるのみでなく、思想論争などには全く関与しない、非イデオロギーに徹していたといい得る。これが明治以来のいわゆる国家神道の真相である

では国家神道を定義したGHQ神道指令はどうだろうか。神道指令とは「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」というものである。

「神道の教理並に信仰を歪曲して日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する為に意図された軍国主義並に過激なる国家主義的宣伝に利用するが如きことの再び起ることを防止する

ここでは神道の教理は明らかにされていない。ただ次の文言は少し具体的に述べている。

「「軍国主義的」乃至過激なる国家主義的「イデオロギー」なる語は日本の支配を以下に掲ぐる理由のもとに他国民乃至他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し或は正当化する教へ、信仰、理論を包含するものである」

ここにある「主義」が国家神道の思想ということだろう。しかし特殊なる起源という古伝説は、古い国ならどの国にもあって不思議はない。そしてこれらがなぜ「過激なる国家主義的イデオロギー」となったのかは説明されていない。

このGHQ神道指令にある国家神道を、事実に基づいて定義をした著作は見当たらない。国家神道についての著作で代表的なものは前述の葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』と村上重良『国家神道』である。

あとはこの二冊の系統本かこれらに対する批判本しか見つけられない。そして国家神道の正体を、事実に基づいて明確に説明できた著作は一冊も存在しないと断定し得る。

村上重良『国家神道』に次の文章がある。

「国家神道は、近代天皇制の国家権力の宗教的基礎であり、国家神道の教義は、帝国憲法と教育勅語によって完成した」

伊藤博文『憲法義解』のどこを読んでも、国家神道の教義をもとに帝国憲法が制定されたとは書いていない。また教育勅語は徳育に関する明治天皇のお言葉であって、草案作成者井上毅のいわゆる起草七原則にも国家神道の教義は出てこない。

そして少なくとも大日本帝国憲法や教育勅語の制定された明治22・23年までに、国家神道の教義があったとする事実に基づく著作は発表されていない。

「ファシズムの時期における国家神道の軍事的侵略的教義の展開は、国家神道の本質の顕在化であった」

しかしながら国家神道の軍事的侵略的教義について、その所在は示されていない。民間の思想家に軍事的侵略的教義を語る者はいたかもしれなが、それと国家とは関係ない。また神道と軍事的侵略的教義の関係も見出せない。村上重良『国家神道』は事実に基づかない言説に満ちている。

だがたしかに文部省『国体の本義』には現御神(明神)・現人神としての天皇が述べられていた。この神がかり的な文章は、ではどう解読すれば良いのだろうか。

明治維新から終戦までの我が国の神社行政を研究した著作はあるが、GHQ神道指令にいう国家神道の研究とは違うようである。いわば我が国の近現代神社行政史ともいうべきものである。

国家神道という項目はあっても、ここから神道指令の国家神道を解明することにはどの著作も成功していない。また葦津珍彦や村上重良らの著作を批判したものも出版されているが、論を論じたものがほとんどで、神道指令にいう国家神道の正体は一向に明らかにされていない。

そして我が国では日本国憲法第20条と第89条を政教分離条項などとして不毛な議論をしているのが実態である。その基となった神道指令の国家神道を明らかにせずして、まともな議論ができるはずはない。一体なぜこれほど永く国家神道研究の成果があがらなかったのだろうか。

福岡判決の疑問

平成16年4月7日、福岡地方裁判所は国及び小泉純一郎総理大臣を被告とするいわゆる靖国訴訟において、その判決を言渡した。この判決文にはいくつかの疑問があると言わざるを得ない。

判決文の認定事実、「靖国神社の沿革及び性格」には次のような文章がある。

「(オ)国家神道に対しては事実上国教的な地位が与えられ、キリスト教系の学校生徒が神社に参拝することを事実上強制されるなど、他の宗教に対する迫害が加えられた」

文中に「事実上」とあるのは法令上には無いということを自覚していると読んでよいだろう。前述のように専門家でも国家神道を特定する法令は見つけられないはずである。

したがって「事実上」の意味は、法を拡大解釈した現場担当役人による個別の過剰行為等を指しているとしか考えられない。それらの行為から国家神道の概念を語ることは、聞く者に誤解を生じさせるだろう。

また帝国憲法第28条「日本国民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す」を条件付きというのは度が過ぎる。安寧秩序を妨げても良い、とするなら条項は必要ない。

この文章は事実に基づかず、誤った国家神道本で得た知識の上に立ったものである。国家神道を定義するなら、法令・教義等を明らかにすべきである。

「(カ)昭和21年2月2日には、神祇院官制をはじめ、神社関係の全法令が廃止され、国家神道は制度上も消滅し、・・・靖国神社は・・・単立の宗教法人となった」

この文章についても同様である。神祇院を設置し神官職の督励を目指した神祇院官制は昭和15年のことである。そしてその神祇院は『官国幣社特殊神事調』『神社本義』等を発行したが、他にはさしたる成果もないまま廃止となったことは周知の事実である。

この昭和15年の法令のみを以って国家神道云々は無理がある。葦津珍彦のいうとおり、神祇院は非宗教である。また、「国家神道は制度上も消滅」したというならその制度を、少なくとも明治以降の法令上の事実を根拠として語るべきだろう。

原告らの主張はともかく、被告らがこれらのことについて一つも反論していないことに疑問が残る。つまり国が、この事実に立脚しない国家神道の概念を認めているということになるからである。

認定事実に誤りがあれば、この判決は有効とは言えないものとなる。訴えた者、訴えられた者、そして裁く者の言分すべてが事実に立脚していないとしたら、この判決は無効となってもおかしくないものである。

GHQの国家神道観

D・C・ホルトム

GHQの国家神道観はD・C・ホルトム『日本と天皇と神道』(昭和25年)、W・P・ウッダード『天皇と神道』(昭和63年)が参考になる。

『日本と天皇と神道』

「他国の国民、特にいまや急速に日本の制圧と威力の支配の下に狩り立てられている極東諸国の国民にとって何よりも意味深いことは、この宗教的祭祀が神から授かった使命を担うという気持ちをもっていることである。これが国家神道である」

ホルトムのこの著作は昭和25年に日本語訳として出版されたものである。そしてこの本の主要な部分を占める原著は昭和18年に出版されていたとある。GHQへの影響力は最も大きい著作だったはずである。

ただホルトムが日本国家主義というものと神道を綯い交ぜにしていることはやむを得ないだろう。今日に至っても整理のついていない事柄だから、この時点で「国家神道」を読み解くことは至難の業である。

「すなはち彼らによれば、万世一系の皇室は神より出たものであるとの歴史的事実と、神に祀られている祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫に変らぬ加護を垂れていることと、日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚とが、日本国家主義の本質的な基礎だというのである」

この著作中にある数々の引用文は名前が違うだけでその内容はほとんど同じものである。そして必ずしも良質な言説とはいえないものが多いのである。

ただ大正から昭和戦前の言説を集めれば、上記のような文章にはなるだろう。皮相的にはこのとおりと言っても良い。しかし「世界の民を救うという神聖な使命」はどこから来たのだろう。

当サイトの「人間宣言」にも述べたところであるが、この加藤玄智の説は謬論である。現在確認できるものでは明治26年発行久米幹文著『続日本紀宣命略解』あたりから現御神=天皇、という説が出てくる。本居宣長『続紀歴朝詔詞解』を解読できず、宣命にある「現御神止」の「止(と)」の意味が説明できなくなってしまったのである。

原因は「しらす」という天皇統治の妙(たえ)なる日本語の意味が分からなくなったことにあることは、同じく「人間宣言」に述べたところである。加藤玄智の「あきつ神」論は事実に基づいていない。

「まことに、日本の国体は世界に冠たる強みと優秀さとを持つとの主張は、その当然の帰結として、日本国民以外の国民は、日本の勢力の下に置かれてこそはじめて恵まれた国民となるとの思想が生まれて来なければならないわけである」

帝国主義の時代にあって、勢力拡大の途上にある国家なら上記のようなことも語られるだろう。国家戦力が必ずしも宗教的なことに関係して議論されるとは限らないし、むしろ経済的な要素が優るとも考えられる。

さすがに知識人の皮相的な言説を集めただけでも、教育勅語に行きつくのは当然といえば当然である。文部省『国体の本義』は昭和12年であって、ここに至るまでの文書では教育勅語が気になるということは間違っていない。

大日本帝国憲法に「世界の民を救うという神聖な使命」は述べられていないから、残る国家の文書としては教育勅語となるのだろう。

ただホルトムの教育勅語に対する見方は専門性を欠いていると言わざるを得ない。教育勅語渙発時の文部大臣は芳川顕正であり『勅語衍義』には叙を寄せている。その芳川顕正の「教育勅語は四つの徳を基としている。仁義忠孝がこれである」を引用して教育勅語を儒教を手本とした道徳と読み解いているのである。

教育勅語の官定解釈あるいは公定註釈書といわれた井上哲次郎『勅語衍義』が、正しく教育勅語を解説できなかったことは当サイト「教育勅語」に述べた。

そして教育勅語が儒教主義などではないことは、教育勅語草案作成者である井上毅「梧陰存稿」にある。『勅語衍義』は明治天皇がその稿本にご不満であり、修正もされないまま井上哲次郎の私著として出版されたものである。そして井上毅は文部大臣として『勅語衍義』を小学校修身書「検定不許」としたのである。その仔細も「教育勅語」に示してある。

さらに『日本と天皇と神道』には見落とせない文章がある。

「もっとも日本の儒教には一大修正が加えられた。儒教は元来無能な統治者を追出し、人民の選択によって新しい統治者を迎えることを認めている。ところが天皇主権神授説を基礎とする日本の国体は、この儒教の教をもって天皇に対する叛逆および神性の冒涜なりと断ずるとともに、侵すべからざる、また他をもって変えることのできない万世一系の天皇をもって、国家の中枢機関と定めている」

支那の易姓革命と我が国の万世一系との比較から、「日本の儒教には一大修正が加えられた」というのである。この文章は幾重にも誤解が重なっているので分かりにくい。

芳川顕正は教育勅語の内容を徳目のみと捉えて仁義忠孝を語っているのである。しかし教育勅語に語られているのは徳目だけではない。「しらす」という意義の君徳がはじめに語られているのである。また仁義忠孝などは儒教の占有物にあらず、は井上毅の述べたところである。

またホルトムのいう天皇主権神授説というのも誤りである。大日本帝国憲法に「主権」の文字はなく、神授説も我が国には存在しない。

ただ教育勅語が儒教に基づくという誤り、天皇主権神授説という誤解、これらはホルトムだけではない。ホルトムが参考にした我が国著作の執筆者たちがそもそも教育勅語を正しく解釈できなかったのである。

ホルトムは教育勅語の「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に」について、皇祖は初代天皇以前の祖先と神武天皇を指し、皇宗とは第二代から今上天皇までを指すとしている。

このことから天照大神に直接触れているとし、それが教育勅語に宗教的文書としての性格を与えるものであり、そのため教育勅語は国家神道の主要な聖典となるのだと述べている。まるで加藤玄智の受け売りである。

この皇祖皇宗について、井上毅は「梧陰存稿」において明確に皇祖を神武天皇とし皇宗を第二代から先帝までとしている。天照大神は「天しらす神」であり、「国しらす神」ではないということである。

明治の末には井上哲次郎らによる「教育と宗教の衝突」議論や加藤弘之らの国家観論争があった。ホルトムはそれらを参考に、いわゆる国家主義者たちによる教育勅語とキリスト教とは相容れないものだとする議論から教育勅語を捉えていた感がある。

もともと井上哲次郎はその著『勅語衍義』でわかるように、教育勅語を曲解していた。加藤玄智も同様である。それらを批判的に読むためには国典の理解が必要である。しかしホルトムの著作からすると、そのあたりには限界が感じられる。

ホルトムが日本国家主義をより分かりやすく把握し、教育勅語を重要視せざるを得なくなった基には文部省『国体の本義』がある。同書には「惟神の国体に醇化」「教育に関する勅語」「皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業」「国体に基づく大道」がはじめに語られている。

ホルトムは次のように述べている。

「日本文部省は一九三七年(昭和十二年)『国体の本義』と題するすばらしい本を刊行した。この本はいわゆる精神的基礎という観点から、日本国家を研究したものである。これは日本国家主義の宗教的基礎について、政府自身の古典見解を披瀝したものである。本書はわれわれがいま前に掲げた詔勅よりももっと徹底したものであって、祭祀と政治と教育との間の三重の相互関係を確立するものである」

そうしてホルトムは、日本の著作家たちが挙げている日本国家主義の本質的な基礎として、先に引用した文章を書いたのである。論点を整理すると次のとおりである。

  1. 万世一系の皇室は神より出たものであるとの歴史的事実
  2. 祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫に変らぬ加護を垂れていること
  3. 日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚

これらは神道指令の「日本の支配を以下に掲ぐる理由のもとに他国民乃至他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し或は正当化する教へ、信仰、理論」にある三つの内容にほぼ類似している。

日本の天皇・国民・領土が特殊なる起源を持つ故に他国に優るという主義、といったものであるが、これにほぼ等しい。神道指令にいう国家神道はやはり『日本と天皇と神道』を無視しては解明できない。

W・P・ウッダード

ウッダードの『天皇と神道』は副題に「GHQの宗教政策」とあるように、国家神道なるものを解体しようと実行した当時の経緯をまとめ、昭和47年に出版されたものである。邦訳は昭和63年。

しかしここに国家神道の具体的定義は見当たらない。同書の価値はまさにそこにある。

「国体のカルトは、政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステムであった。天皇と国家とは一つの不可分な有機的・形而上学的存在であり、天皇は伝統的な宗教的概念が過激派によって宗教的、政治的絶対の地位に転用された、すこぶる特異な意味での「神聖な存在」であるという考え方が、その中心思想になっていた」

この文章で国体のカルトは分からない。儀礼と行事はあっても政府によって強制された教説・教義が見当たらないからである。そして天皇と国家の来歴はもともと神秘的なものであるから、ここは特別問題になるところではないだろう。

「神聖な存在」とは大日本帝国憲法第三条(天皇は神聖にして侵すべからず)よりは、加藤玄智や『国体の本義』にある、天皇=現御神・現人神からの連想だろう。

「それは国民道徳と愛国主義のカルトであって、「民族的優越感を基礎として、新しく調合された民族主義の宗教」であった」

これはホルトムらの言説を包含した見方であって、古来の日本にないものが新たに創造されたと見る考え方である。ただ過激派が誰で、いつ頃「新しく調合」されたかは明らかにしていない。

この『天皇と神道』で理解できることは、GHQの民間情報教育局(CIE)が明確に国家神道を定義することに成功していなかったということである。

「ともあれ、11月の末近くに行われた話合いの際に、明治天皇の「教育勅語」が話題にのぼった。ヘンダーソンが、一方では超国家主義および軍国主義を排除し、また一方では日本の教育を民主化する責任を担うアメリカ軍の士官としての立場からこの問題をみると、問題は「教育勅語」自体にあるのではなかった。彼個人の意見としては、文書自体は差し支えないものであった」

CIE教育課長のヘンダーソンは前田多門文部大臣とは旧知の間柄であった。前田多門の教育勅語解釈は『勅語衍義』にほぼ同じである。内容を徳目としか捉えていない。その影響があったのかもしれないが、ヘンダーソンからすると、どう考えても教育勅語はいわば儒教的な倫理綱領である。英語訳を読んでいたとしても、おかしなところは見つけられなかっただろう。

「ヘンダーソンにとって困るのは、学校でのそれの取扱いかた、とくに大勢の生徒を集めてその前で勅語を奉読する儀式であった。彼は、この儀式が「天皇の神格の教義を教え込む」という意図に出たものであることは疑いないと考えたのである」

日本および日本人が二度とアメリカに立ち向かうことのないよう、軍隊と日本人の精神を解体する必要がある。民主化という名前の下でその解体を行うには天皇の神格化は残してはならないものだったろう。ホルトムらが国家神道の聖典とした教育勅語はこの観点から問題だとしたのである。

また『天皇と神道』によれば、CIEの宗教課長であったバンスは新しい教育勅語について以下のように整理をしていた。

「(一)いかなる日本人にあっても、他人に向かって日本が膨張しなければならぬ使命を持つとか、あるいは、a祖先や家系ないしは独自の起源のために、天皇および国民が比類のない優越性を有し、bいわゆる神による独自の創造のために日本列島が他の国々よりも優れている、という理由によってその支配を他の諸国および国民におよぼす試みが正当化されると主張することは、愛国心の表現でもなければ天皇あるいは日本国家への奉仕にもならないことを明らかにすること」

これを読む限り特別なものではない。ホルトムや他のスタッフたちの感想をもとにまとめただけのようである。

「(二)神道の理論、学説、著述、あるいは教義を根拠として、日本がその他の諸国および諸国民に支配をおよぼす試みを正当化してきた人びと、あるいはそのような使命があると主張した人びと、ないしは歴代の天皇の詔勅、とりわけ1890(明治23)年の「教育勅語」をそのような使命の天皇による裁可の表現だと解釈した人びとは、すべて天皇および日本国家に迷惑をかけたものであることを明らかにすること」

明治の教育勅語に替えて新しい教育勅語の渙発という案があったことは周知の事実である。ところで前田多門を父にもつ神谷美恵子の「文部省日記」(『遍歴』に収載)に非常に重要な文章がある。安倍能成文部大臣とダイクCIE局長との対談メモである。

安倍大臣
新しい教育勅語とはどういうことをお考えなのか。

ダイク
教育勅語としては、すでに明治大帝のものがあり、これは偉大な文書であると思うが、軍国主義者たちはこれを誤用した。また彼らに誤用されうるような点がこの勅語にはある。たとえば「之を中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、あやまり伝えた

安倍大臣はこれに対し、「之を中外に施してもとらず」の真意を説明できず、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」は問題になり得る、と答えている。しかしダイクはそのことに興味を示していない。ここに解明すべきポイントがある。「日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝する」とはどういう意味か。そしてなぜここに神道が出てくるのだろう。

「中外」の誤解

「之を中外に施して悖らず」

ホルトムやウッダートらの著作からすると、彼らのいう国家神道の聖典は教育勅語だというのであるから、これを検証せずして神道指令は理解できない。

教育勅語は道徳紊乱を正すために渙発された明治天皇のお言葉である。それをなぜ国家神道の聖典だというのだろう。

ダイクの語る教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の「中外」が、官定解釈といわれた井上哲次郎『勅語衍義』以降、つまり最初から誤解されてきたことは当サイトの「教育勅語異聞」に述べたところである。この場合の「中外」は「国の内外」ではない。「宮廷の内と外」「朝廷と民間」が正しい解釈である。

明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮あらせられた。それについて元田永孚は「古稀之記」に次のように記している。

「12月29日同僚相議して曰(いわく)、勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是(これ)誠に天下の幸、速(すみやか)に中外に公布せられ施政の方鍼を定めるべしと。余、佐々木と二人右大臣の邸を訪ひ面謁を乞ひ、明年政始の時に於て勤倹の詔を公布せられんことを懇請す」

そして翌明治12年3月、「興国の本は勤倹にあり。祖宗実に勤倹を以て国を建つ。」という内容の「利用厚生の詔」が渙発されたのである。これは内容のとおり国民に勤倹を促すものであるから、「中外に公布」は「宮廷の内と外」つまり「全国(民)に対し公的に広める」である。教育勅語の「中外」と同じであり、外国は関係がない。

この「之を中外に施して悖らず」をめぐっては様々な文章が残されている。

大久保芳太郎著『教育勅語通證』(明治32年)
「之ヲ中外ニ施シテ悖ラスは皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所の道は内地に施行するもまたは外国に施設するも悖戻することなくなり」

これは日清戦争後の出版であるが、前後の文脈から「之」は「斯の道」であり「忠孝の道」としているから徳目について語っていると考えてよいだろう。この徳目は普遍的である、と述べていると解釈できる。誤解は訂正されていないものの、「日本の影響を世界に及ぼす」ことは感じられない。

田中巴之助『勅語玄義』(明治38年)
「天壌無窮の皇運が、すでに世界統一といふことに邁進すべき使命天運を有して居るのである(中略)「之を中外に施して悖らず」とは、姑らく消極的部面から温順に世界統一の洪謨をお示し遊ばされたもので、其必然的気運の命ずる所、必ず積極的意義の忠孝徳化が、快活霊妙なる力となッて、世界を信服せしめねばならぬ筈である」

田中巴之助は「八紘一宇」を造語したといわれている田中智学である。筆者が参考にしたものは第2版であって、これが日露戦争中から書かれていたか、戦後に書かれたかは確認できない。いずれにしても気分は世界に向かっている。「世界統一の天業」では霊的統一主義などという言葉も用いている。

堂屋敷竹次郎著『実践教育勅語真髄』(明治44年)
「此中外に施して悖らざる大道を世界に宣布せよとなり、此大道を以て中外を征服せよとなり、嗚呼世界統一は、天神が日本国に下し給ひたる唯一の使命たるを、炳々晃々として疑ふ可からず」

『実践教育勅語真髄』は日清日露戦争の後、日韓併合の翌年に出版されており、沢柳政太郎東北大学総長の序文や井上円了文博の題辞がある。したがってこの時期の一般的な教育勅語の解説書だとみて妥当だろう。

「我国の世界を統一せんとするは、一に此美麗なる忠孝仁義の大道を知らざる不孝者をして、幸福なる天神の目的に副はしめんとの至慈至誠心に外ならざる也」

各国と日本との世界統一の根本精神の差異を述べているのであるが、中外に施して悖らざる大道を世界に宣布、という意識ははっきりしている。

そしてこの明治44年には井上哲次郎の「教育勅語に関する所感」がある。「日本は仏蘭西と非常に違って教育勅語といふやうな聖典があるのであって」と述べ、「さうして又日清戦争日露戦争といふ二大戦争の前に此勅語が発布されて居りまするが此二大戦争に依って教育勅語の御精神は充分に実現されていると思ふ」と語っているのである。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」が実現されているということだろう。

徳富蘇峰「大正の青年と帝国の前途」(大正5年)『近代日本思想大系8』
「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承せずして、之を島国的に曲解し、之を積極的に拝戴せずして、之を消極的に僻受し、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋がずして、之を偏屈、固陋なる旧式の忠孝主義に語訳し、(中略)大和民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却て寥々世に聞ゆるなきが如かりしは、寧ろ甚大の恨事と云はずして何ぞや」

「帝国的に奉承」「大和民族を世界に膨張せしむる」という言葉は扇動的であるが、これもこの時代の雰囲気を表わしているだろう。

田中智学『明治天皇勅教物がたり』(昭和5年)
「既に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。トいふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依って「国ヲ肇メ徳ヲ樹テ」られたのである。(中略)此三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

さらに教育勅語の「斯の道」を解説して、日本書紀から引用し、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱によって「建国の目的」を語っている。

「故(か)れ蒙(くら)くして以て正を養ひ、此の西の偏(ほとり)を治(しら)せり。皇祖皇考(みおや)、乃神乃聖(かみひじり)にまして、慶(よろこび)を積み暉(ひかり)を重ね、多(さは)に年所(としのついで)を歴(へ)たまへり」(神武天皇・天業恢弘東征の詔)

肇国の古伝承が「現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざること」(本居宣長)として、教育勅語の基にあることは井上毅「梧陰存稿」に明らかである。ただしそれは、「しらす」という意義の君徳と臣民の徳目を、我が国体の精華・教育の淵源として諭されるためのものであった。

しかし田中智学の「斯の道」は「天地の公道」「世界の正義」で「世界的大真理」となっている。これらは「古今に謬らず中外に悖らざる天地の公道だと喝破せられたのは、即ち神武天皇のご主張たる「人類同善世界一家」の皇猷(こうゆう)を直写せられた世界的大宣言と拝すべきであらう」にあるとおり、「中外に施して悖らず」の誤解が推進力となっている。

また田中智学の「徳を樹つること深厚なり」の「徳」の解説も物足りない。「しらす」が一言も解説されていないからである。「世界的大真理」は井上毅のいわゆる起草七原則からはあり得ない。そして昭和17年の『思想国防の神髄』では「日本は武国なり、武を以て国土経営の精神を為し、民衆指導の目標と為して建鼎せられたる国也」と述べているのである。

荒木貞夫『昭和日本の使命』(昭和7年)
「我建国の真精神と、日本国民としての大理想の、渾然たる融和合一の示現とも称すべき『皇道』は、その本質に於て、四海に宣布し、宇内に拡充すべきものである」

「日本は、日本だけの平和と繁栄を守るだけで満足すべきではなく、更に東亜の天地にその理想を展べ、更に更に広くこれを世界に及ぼさねばならぬ。この大理想は、皇祖神武天皇東夷御親征の大事業を畢へさせ給ひ、大和の橿原に・・・」

「明治、大正の両時代を通じて、漸次に興隆したる、国民的意気を紹述して、更にこれを建国の大精神と合致せしめ以て皇道を四海に宣布する、これが昭和日本の真使命である」

昭和7年の2月に出版された同書は4月には第80版となっている。全国に流布したと考えてよいだろう。満州事変の原因に支那の日本軽侮があるとして、武を用いることも降魔の剣を揮うことに外ならない、とも述べている。ほとんど田中智学とかわらない。

文部省『国体の本義』(昭和12年)
「我等が世界に貢献することは、ただ日本人たるの道を弥々発揮することによってのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、惟れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である」

『国体の本義』にある天皇御親政と天皇=現人神が大日本帝国憲法に違背したものであることは、当サイト「人間宣言」に仔細を述べた。大日本帝国憲法と教育勅語に対する誤解がこの『国体の本義』に輻湊しているといってもよい。

桐生悠々「世界大なる日本精神」(昭和13年)『日本平和論大系9』
「我には我に独自な、しかも「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らざる」万古不易にして、世界大なる日本精神が存在するのに、何の必要あってか、ドイツの全体主義、名は全体主義であっても、実は非全体主義なる、しかも北方ゲルマン民族の興隆にのみ重きを置き、他の民族を排するが如き思想を、無批判的に、その儘輸入して、これに臣従するの理由があろう」

いろいろな考え方があっても、教育勅語の「中外」の解釈はみな誤っている。桐生悠々はおそらく最も多く「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」を引用したのではないかと思われるが、「中外」の誤解は他の著作者たちと同じである。

東亜聯盟同志会「昭和維新論」(昭和18年)『超国家主義』(現代日本思想大系第31)
「皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠古の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承けて今日に至った」

「八紘一宇とは、この日本国体が世界大に拡大する姿をいうのである。すなわち御稜威の下、道義をもって世界が統一せられることであって、換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給うことにほかならない」

東亜聯盟同志会の指導者は石原莞爾であって、この論調は彼の『最終戦争論』と同じものである。皇国日本の国体は万邦にその比を絶する、ということはその通りとしても、その「日本国体が世界大に拡大する」というような表現はホルトムが指摘する日本国家主義の本質的な基礎にほとんど同じである。「中外に施して悖らず」がその基盤にある。

林銑十郎『興亜の理念』(昭和18年)
「日本を結び、日本を統べます君であると同時に広くは世界を結び、統べます君である。ここに日本が八紘一宇の世界結びの中核体であることが自からはっきりとしてくるのである」

これらの言説も基は「之を中外に施して悖らず」にあるだろう。

神祇院『神社本義』(昭和19年)
「この万世易ることなき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇より無窮に通じ、中外に施して悖ることなき道こそは、惟神の大道である」

「まことに天地の栄えゆく御代に生れあひ、天業恢弘の大御業に奉仕し得ることは、みたみわれらの無上の光栄であって、かくして皇国永遠の隆昌を期することができ、万邦をして各々その所を得しめ、あまねく神威を諸民族に光被せしめることによって、皇国の世界的使命は達成せられるのである」

GHQ神道指令にいう過激なる国家主義を概括したような『神社本義』となっている。さしたる成果もないまま廃止となった神祇院である。しかし惟神の大道を中外に施して悖らず、皇国の世界的使命は神威を諸民族に光被せしめることとして、GHQに過激なる国家主義があたかも神道と関係があるかのような言質を与えたのは痛恨事としか言いようがない。

鈴木貫太郎総理大臣(施政方針演説)(昭和20年6月9日)『日本国会百年史』
「万邦をして各々其の所を得しめ、侵略なく搾取なく、四海同胞として人類の道義を明らかにし、其の文化を進むることは、実に我が皇室の肇国以来のご本旨であられるのであります。米英両国の非道は遂に此の古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる国是の遂行を、不能に陥れるに至ったものであります。即ち、帝国の戦争は実に人類正義の大道に基づくものでありまして、断乎戦い抜くばかりであります」

「古今に通じて謬らず、中外に施施して悖らざる国是」は誤解の上に立ったものであるから、その具体的な内容は、本当のところはよく分からない。

明治維新から日清日露戦争に勝利して、日韓併合まで50年も経っていない。すでに1等国の仲間入りを果たしている。我国の来歴を想えば由緒正しい肇国の古伝承がある。明治大帝は、之を中外に施して悖らず、と勅語に仰せられた。こう解釈して神州不滅が当然のこととなったのではないか。

先の戦争へのそれぞれの思惑は異なったものがあるにしても、思想傾向を問わず、様々な人たちの言説に「之を中外に施して悖らず」がある。「肇国の大義を諸民族に施して悖らず」と同義であった。「中外に施して悖らざる国是」だから「聖戦」とされたのである。

「中外」解釈の誤りは当初から今日まで訂正されていない。しかし教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈できる根拠は、実はひとつも明示されたことがないというのが歴史の事実である。教育勅語についてGHQが疑問とした部分がここにある。

GHQの教育勅語観

何が問題か

再びD・C・ホルトムである。彼には昭和20年9月22日付「日本の学校における神社神道についてのD・C・ホルトム博士の勧告」というのがある。

「教育勅語の奉読を取り巻く入念な儀式は排除されるべきである。教育勅語は、修正されていない儒教道徳だけでなく民主主義や国際主義の文言によって補完する、という見方で調査されるべきである」(『続・現代史資料10』:訳は筆者)

この原文には ordinary Confucian ethics とある。これは「一般的な儒教の原則」というよりは「修正されていない儒教道徳」と訳して、前述のホルトムの「日本の儒教には一大修正が加えられた」が理解できる。

井上哲次郎・加藤玄智らの影響を受けたホルトムは教育勅語をやはり全体としては儒教に沿ったものだと理解していた。しかし易姓革命の国の道徳に万世一系が語られている。「一大修正」としなければ矛盾する、とホルトムは考えたのではないか。

ホルトムの日本国家主義の理解は日本人の著作から皮相的な文言を引用して並べただけのものであって、その本質に迫るものではない。なぜ「世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚」(「日本国家の宗教的基礎」)が生じたかは分析されていない。

「天皇を神と見なし」(同)もその歴史的経緯は一切語られていない。要するに日本人著作者の誤りの上に立った研究成果がホルトムの『日本と天皇と神道』である。

CIEのなかで教育勅語に最も敏感だった一人が婦人教育担当のドノヴァンだった。彼女には昭和21年6月の「1890年の勅語について」という覚書がある。

「(クライマックス)斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所、之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず-この文章は当初、世界征服の思想はなかったと思われるが、何にも増して、彼らを救世主願望で奮起させ熱烈な愛国者とし、皇道精神の世界拡張をかきたてたのである」(『続・現代史資料10』:訳は筆者)

昭和20年12月に教育勅語の議論があり、すぐに行動がとられるべきだとの強い意見があったにもかかわらず、他の業務が忙しくて何の行動もとれなかったと記している。

しかし本当は教育勅語の英語版を読んだ限りでは、何が問題なのかわからなかったのではないか。「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」の英語訳は infallible for all ages and    true in all place であった。誤った解釈からの翻訳であるから、この後半部分もそれが反映されている。ドノヴァンにしてみれば、もし徳目に普遍性があるとしても世界征服思想とは直接関連しない。

ドノヴァンはダイクCIE局長と同様、教育勅語のこの第三段落を特に重視した。儒教道徳が世界征服の思想とは、超国家主義侵略思想とは思えない。しかし日本人の信ずる「斯の道」が「徳目」というより「肇国の大義、神威」であり、「之」を「諸民族に光被」するという意味なら、「之を中外に施して悖らず」の文章は問題である。ドノヴァンがこう考えたとしても無理はないだろう。

ダイクと安倍能成文部大臣との対談メモには肝心な部分での齟齬がある。ダイクが「之を中外に施して悖らず」を問題にしても、安倍大臣はその意味が理解できない。ドノヴァンのようなセンスを欠いていたというのが実態だろう。

「古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道」(『国体の本義』)

「支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業」(『臣民の道』)

「中外に施して悖ることなき道こそは、惟神の大道である(中略)あまねく神威を諸民族に光被せしめることによって、皇国の世界的使命は達成せられる」(『神社本義』)

「古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる国是」(鈴木貫太郎総理大臣)

国家機関や国家の要人の言説を並べただけでも、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」を基礎としていることは明らかである。そしてこれらはホルトムのいう「国家主義を再確認した聖典は教育勅語」との見方を支持するように見える。

「日本がそのいわゆる東亜の『聖戦』に国家の総力を挙げて戦っていることの根柢には、日本が救世主たるの使命を持っているとの信念が横たわっている」(『日本と天皇と神道』)

「国家神道のイデオロギーで一番悪かった点は、領土拡張の思想的な地盤となり、侵略の運動がそこから起って来たからである。ことに神道の宣伝が、「古事記」の神話を用い、日本の使命は国を全世界に拡げようという根本ができたからである。例えば、皇室は天照大神から続いた現人神にあらせられる、また国民は神道の神々の子孫であり、「八紘一宇」の主義を宣伝し、各国は兄弟とならねばならないといったが、その真の意味は日本を中心とする世界征服にあった」(竹前栄治『日本占領 GHQ高官の証言』付録)

国家神道の正体

神がかり的表現

GHQが神道指令に国家神道と述べたものの教義は、日本の超国家主義・過激なる国家主義である。そして過激なる国家主義を表現したものには教育勅語の「之を中外に施して悖らず」が共通の基盤として存在する。

「教育勅語」に述べたとおり、教育勅語の「斯の道」の解釈には変遷がある。渙発当初からしばらくは「斯の道」は忠孝等の「徳目」であった。それが日露戦争以降は「世界統一」などの要素が加わってくる。そして大正から終戦までは「建国の精神」「八紘一宇」による「世界統一」が「斯の道」であり「皇国の道」となったのである。

「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」とも言われ、我が国の「世界史的使命」とまでなったのである。一言でいうとまさにそのことが「皇運扶翼」であった。

教育勅語の「斯の道」とは、本来は「しらす」という意義の君徳とそれに対する臣民の忠孝等の徳目実践である。それゆえ「子孫臣民の倶に遵守すべき所」と続いているのである。したがってこの日露戦争以降に確認できる「斯の道」の解釈の変遷は、誤ったものの変遷だったと言えるのである。

また「中外」は「国の内外」ではない。「宮廷の内と外」、文脈から解釈すれば「全国民」である。したがって「中外に施して悖らず」とは「全国民に示して(教えて)道理に背かない」という意味である(「教育勅語」)。

「国内だけでなく、外国でとり行っても」は致命的な誤解であった。

教育勅語渙発直後の明治23年11月7日の新聞「日本」は説明不足であった。「中外」は「宮廷の内と外」つまり「全国(民)」という意味であることを明確に示すべきだったろう。誤解を生じさせた可能性があるといわれても仕方がない。そして井上哲次郎『勅語衍義』が誤解を決定的にした。

「斯の道」が「肇国の精神の顕現」となれば、記紀の文言が引用されるのは当然の成り行きである。昭和戦前の国家主義的といわれるものの文章に神がかり的な文言が多いのはこのためである。

ルーズベルトにに与ふる書  市丸海軍少将(靖国神社遊就館)
「畏くも日本天皇は、皇祖皇宗の大詔に明なる如く、養正(正義)、重暉(ちょうき)(明智)、積慶(せっけい)(仁慈)を三綱とする、八紘一宇の文字により表現せらるる皇謨(こうぼ)に基き、地球上のあらゆる人類は其の分に従ひ、其の郷土に於て、その生を享有せしめ、以て恒久的世界平和の確立を唯一念願さらるるに外ならず」

田中智学『明治天皇勅教物がたり』にほぼ類似した文章であるが、この文章を正確に読むには、やはり教育勅語の「斯の道」の解釈の変遷と「中外」の誤解を知る必要があるだろう。「肇国の精神の顕現」となれば神武天皇・天業恢弘東征の詔が引用されるのである。ちなみに市丸少将が田中智学の国柱会のメンバーだったことは、よく知られているところである。

竹山道雄『昭和の精神史』はこの時代を語って説得力のある好著である。このなかでグルー大使の興味ある話が紹介されている。

「日本人は事実を知ることを許されていないのだから、この点は割引して考うべきかも知れないが、長い年月自由主義を標榜してきた早稲田大学の総長ともあろう理知的で学究的な人が、どうして次のようなたわごとを書くことができるのか、いささか了解に苦しむ」というものである。そしてそのたわごとと言われたものを孫引きすると次のとおりである。 ―過日の近衛声明に力説されたように、現闘争における日本の目的は、些々たる領土獲得ではない。これはむしろ中国の独立を防衛し、中国の主権を尊重しつつ、東亜に新秩序を建設せんとするにある。この堂々たる使命を達成せんとして、日本は歴史上最大の戦争を敢てせざるをえなかった。世界のいずくにかかる崇高なる理想をもって戦われる戦争の実例が見出されるか?これこそ正しく聖戦と呼ばるべきである―

しかし竹山道雄が引用したこの文章も驚くには至らない。大正6年10月、西田幾多郎は『思潮』において「日本的趣味が真に芸術的となるには日本人の私有物ではなくて公のものとならねばならぬ。古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる公道の一部でなければならぬ。(中略)我が国の文化に対して、唐人も高麗人も大和心になりぬべしという自信をもってみたい」、と「日本的ということについて」で述べているからである。

また昭和18年にまとめられたとされている「世界新秩序の原理」は具体性を欠いているが、「我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居る」として、「今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与へられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に倣ふに至るであらう」と結んでいる。

井上哲次郎は昭和17年、『釈明 教育勅語衍義』において「我が日本には「惟神大道」が行はれて来て居って、而して今回の支那事変だの、大東亜戦争だの、いろいろに戦争が展開されて、大きな世界的関係を有するに至って、益々日本が一種云ふべからざる神秘的な権威を有することが明かになって来たのは、「惟神大道」の然らしめるところであると吾々は信じて疑はない」と言い切っている。

国家機関や軍人、政治家のみならず、学者・言論人も総じて神がかり的な発言をなしたものが多い。そしてその心情的な基礎には教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の誤った解釈が厳然たる事実として存在する。

国家神道とは

最初に述べたとおり、我が国の法令上に国家神道を特定できるものは存在しない。むろん教義もない。したがってGHQが日本軍とともに解体しようとした日本人の精神基盤を国家神道という枠組みで考えようとしたことには複雑な経緯があるはずである。

GHQの占領方針は、再び日本が米国や世界の脅威とならないために日本の「物的武装解除」と「精神的武装解除」をすることにあった。「物的武装解除」=「軍隊の解体」は―その是非は別として―眼に見えるものである。しかし「精神的武装解除」については占領する側もされる側もよく分からなかったのが実態ではなかったか。

GHQのスタッフに、国家神道の聖典とされた教育勅語の「徳目」を批判した重要文書は見当たらない。当然のことながら、戦争を境に「徳目」の評価が逆転するなど普通に考えればあり得ないことだろう。教育勅語(の徳目)を絶賛したセオドア・ルーズベルトの道徳観が否定されたとも聞いたことがない。彼らが否定したのは教育勅語の「世界征服」という超国家主義的解釈である。

日本人の様々な著作から判断して、天皇を現御神・現人神とする信仰があり、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」が過激なる国家主義のもとになっている。「之」や「斯の道」のすべては解読できないが、教育勅語の超国家主義的解釈が存在する。GHQがこう考えたとしても無理はないだろう。

「「教育勅語」は、『国体の本義』などの解説書によって公的解釈をつけられて、他国にたいする日本の優越を主張し、日本国が神聖な使命を負っていることを説くものとして利用されたのである」(『天皇と神道』)

GHQ神道指令にいう国家神道は日本の過激なる国家主義、超国家主義を解明しない限りその正体は分からない。「八紘を一宇とする肇国の大精神」(東條英機宣誓供述書)を「過激なる」国家主義とするか否かは、ここでは論じない。ここで論じているのは、GHQがこれを国家神道の教義と考えたことはほぼ間違いない、ということである。

GHQの占領下にあった当時の我が国が、彼らの主張をそのまま受け入れざるを得なかった事情は理解しなければならないだろう。ただ戦後六十有余年経った今日でも教育勅語の解釈は訂正されていない。結果的にGHQの神道指令を是認していることになっているのである。これこそ我が国近現代史の最大痛恨事ではないだろうか。

GHQ神道指令にいう国家神道の教義とは、教育勅語と宣命の誤った解釈から発生した(彼らの謂う)日本の過激なる国家主義である。したがって国家神道と神道とは関係がない。

「「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区別される独立の現象であった。それは、神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、このことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない。そうだったら、連合国軍最高司令官は、神道を全面的に廃絶しなければならなかったはずである」(『天皇と神道』)

結び

ポツダム宣言・人権指令・神道指令、そして日本国憲法第20条と第89条にまで発展したGHQの宗教政策であるが、憲法改正はCIE(民間情報教育局)の任務ではなかったようである。しかしバンスは最終草案完成まで民政局の討論に加わっている(『天皇と神道』)。バンスはもちろんGHQには教育勅語解釈の誤りも宣命解釈の誤りも剔抉できない。したがっていわゆる人間宣言についても正確な解釈はできていない。その状態で日本国憲法草案はつくられたのである。

しかし何より問題なのは、日本人の誰一人として教育勅語や新日本建設に関する詔書の真意を語る者がいなかったことである。GHQの占領下にあって、未曽有の制約があっただけではない。どちらについても、誤った解釈を疑わなかったのである。

ウッダードによれば、神道についてバンスに影響を与えたのはホルトムだけではない。姉崎正治博士、加藤玄智博士、宮地直一博士、岸本英夫博士らも同様に大きな影響を及ぼしたとある。彼らの著作や現在までの状況を考えると、教育勅語と現御神に関する宣命を正しく解釈していた博士は一人もいない。ウッダードの『天皇と神道』にそれは明らかである。

村上重良著『国家神道』は国家神道の教義は教育勅語で完成したとし、ホルトムは国家神道のもとには国家主義がありその聖典は教育勅語であるとした。いずれも事実に基づいていない。GHQのいう国家神道を連想させる文言は日露戦争以前の教育勅語解釈には見当たらない。最初から誤解された教育勅語ではあるが、「斯の道」の変遷と「中外」の誤解が相俟って出来たのが、国家神道の教義といえば教義である。神道そのものとは関係がない。

このことが理解されていれば日本国憲法施行から今日まで何らかの議論になったはずである。終戦直後の侍従次長木下道雄は「新日本建設に関する詔書について一言」として明確なメッセージを残してくれている(『宮中見聞録』)。しかしその真意を語る者はなく、未だにあの詔書を人間宣言と謂って憚らない。教育勅語についても誤った解釈を訂正しようとしない。上にあげた宗教学関係の学者たちについて云えば、彼らが井上毅『梧陰存稿』や本居宣長『続紀歴朝詔詞解』を理解していなかったことは疑う余地がない。

我が国の政教問題は泥沼化して今日に至っている。日本国憲法第20条と第89条の基となった神道指令にある国家神道の正体が不明なままの議論だからである。事実に立脚していないこれまでの靖国論議はすべて無効なのではないか。政教問題を論ずるにはまずこのGHQ神道指令にある国家神道の定義を正すことが優先されるべきではないか。

昭和21年5月GHQの強力な圧力の下、文部省は「新教育指針」において「国家神道(神社神道)だけは・・・実際上は宗教たる性質をそなえ、しかも国民の宗教として国家と深く結びつき・・・神社神道以外の宗教(例えばキリスト教の如き)を、あたかも国事に有害であるかのように取り扱う人々すらあった」と書かされた。「実際上」ならその違法・逸脱行為者を問題とすべきであり、神道に責を負わせるべきものではないはずである。

昭和24年4月、矢内原忠雄東大教授は「近代日本における宗教と民主主義」において、「事実上神社に国教的地位を認めながら・・・」と述べ、「日本の民主主義化のためには、国民の間に真正の基督教信仰が広く且つ深く植えつけられねばならない」と記している。

昭和52年7月、「津地鎮祭裁判」における最高裁判決の追加反対意見(違憲判断)にはこの矢内原論文を引用したことが明記されている。帝国憲法は制限付きの治教の自由であったとして、「事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立」していたとある。書いたのが矢内原忠雄と同じキリスト教徒の藤林益三裁判長であったことはよく知られているところである。

平成9年4月、「愛媛玉ぐし料訴訟」における最高裁大法廷の判決文には、帝国憲法の信教の自由は制限付きであった、と前置きをして次のように記されていた。「国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた」。

平成16年の「福岡靖国判決」にもこの「事実上の国教」は採用され、「国家と神道は密接に結びつき、事実上国教的な地位を与えられ、これに対する信仰が強制され、また、一部の宗教団体に対して厳しい迫害が加えられた」、としてほとんど同じ文面で用いられている。

平成22年1月「北海道砂川市政教分離訴訟」の最高裁判決においては―事実根拠が提示できないせいか―国家神道は二つの「補足意見」に用いられている。「過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み」政教分離を制度として保障したのが憲法第89条の趣旨だというのがその一つである。もう一つは、帝国憲法が信教の自由を保障しながら「神社神道につき財政的支援を含めて事実上国教的取扱いをなし」たとして、日本国憲法第20条と第89条の背景を語っている。

以上の判決文にある「事実上の国教」について、国家神道について、検証し得る根拠は一つも示されたことがない。これが我が国の政教分離裁判における判決文の実態である。平成16年の「福岡靖国判決」における被告は小泉純一郎総理大臣と国の代表者野澤太三法務大臣であった。なぜ福岡地裁にたいし「事実上の国教」や国家神道の客観的根拠を求めなかったのか。このままでは「歴史の刷り込み」で誤りが角質化してゆくばかりではないか。

やはり国家神道を事実に基づいて定義をすることが必要である。「教育勅語と宣命解釈の誤り」というキーを挿入すれば、GHQのいう国家神道の教義は一瞬にして雲散霧消する。この手続きを経た上で神道指令を克服し、国家としての祭祀の在り方を議論することが正しい政教論争となるのではないか。

GHQ占領憲法といわれる日本国憲法の第98条にしたがって、教育勅語は他の教育に関する諸詔勅とともに排除された。したがって歴史的文献となった詔勅の解釈を正しても、ただそれだけという可能性がある。しかし政教分離裁判における国家神道の定義について、教育勅語の事実に立脚した解釈として採用されたなら、客観的で公的な解釈として後世に伝えられるのではないか。鬱陶しい政教分離訴訟ではあっても「奇貨居くべし」の「奇貨」となる可能性がある。

それにしても1世紀以上にわたって教育勅語の誤った解釈を放置してきた我が国である。誤った解釈の上塗りのような雑文はいまでも時々目にするが、教育勅語の事実に立脚した解釈を目指す研究は見つけられない。そして未だに国民道徳協会の口語訳文を垂れ流している惨状がある。このオウン・ゴールにたいする無責任さは一体どうしたものだろう。またいわゆる「人間宣言」と謂うことに対し、宣命解釈を基礎とする立場からの批判も語られることがない。

(明治天皇)
わがしれる野にも山にもしげらせよ神ながらなる道をしへぐさ(註:しれる←しる←しらす)

参考資料は県立図書館等にそろっている。漢文調の文体を毛嫌いさえしなければ、誰にでも検証のできるものである。

詔勅解釈の誤りを正し、神道指令の真実を明らかにすべき秋である。このことはまさしく現代に生きる私たちに課せられた最も大きい義務なのではないか。

―終わり―2009年