継嗣令(女帝子亦同)の解釈

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皇室典範有識者会議・報告書より

「有識者会議」の参考人意見

ところで、またぞろ「女性宮家」創設の話が出てきました。数十年後に備えて皇統護持の方策を検討しておくことは賢明なことかと思いますが、何か恐ろしい思惑が動いているような気がします。

そこで私も平成17年11月24日付「皇室典範有識者会議報告書」を改めて読んでみました。

「親等の遠い皇族男子より、天皇に親等の最も近い内親王がまず皇位に即く方が自然の感情にも合致し正当であるのではないか、直系・近親を重んずる観点から女性天皇を可能にすべきである。」

ずいぶん勝手な論理であり、歴史の事実にも反することが記されています。そしてまた驚いたのは参考人等の認識でした。

「養老令」の「継嗣令」にある註についてです。「養老令」は757年、孝謙天皇(女性天皇)の時代に施行されたものです。

その第1条は「凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同)」。天皇の兄弟と皇子は皆親王と為す、ということです。

そしてこの小文字の註として記されている(女帝子亦同)の解釈をめぐって、信じられないようなやり取りが記録されています。

参考人中、三名の先生方の発言記録です。肩書きはすべて報告書に記載されているものです。

八木秀次高崎経済大学助教授(平成17年5月31日)
「このように皇統が一貫して男系で継承されているということについて、一部で異論が提出されております。 すなわち、皇統は男系女系の双系主義という見解でございます。
その際に根拠とされるものが『養老令』の「凡皇兄弟皇子、皆為親王。女帝子亦同」という規定でございます。しかしながら、ここで言う女帝の子は、具体的に想定された人物がおります。
すなわち、第35代皇極天皇の前夫、高向王との間の皇子、漢皇子のことでありまして、後に母宮が高向王の没後、舒明天皇の皇后になり、舒明天皇崩御後、皇極天皇として即位したので、そのお子さんであります漢皇子は女帝の子、すなわち皇極天皇の子どもではありますけれども、もともと男系の男子でありますので親王ということになります。
したがって、この規定は双系主義の根拠になり得ません。この点、江戸時代から河村秀根、小中村清矩、池辺義象ら国学者、国文学者が繰り返し指摘しているところでございます。 」

高森明勅拓殖大学客員教授(平成17年6月8日)
「それから、第2点目といたしまして、これはさまざまな議論がおありのところかもしれませんが、形式上明治初期まで存続しました養老令に女系の継承を認める規定があった。
これは継嗣令、皇兄弟子条。天皇の御兄弟、お子様は親王という称号が与えられるという規定がございまして、その際、女帝の子もやはり親王であるという本注が付いてあるわけでございます。
これによりまして、女帝と親王ないし王が結婚された場合、その親王ないし王の子どもであれば、その子は王でなければならないわけです。ところが、女帝との間に生まれた場合は王とはしないで親王とするということでありますから、その女帝との血統によって、その子を位置づけているということでございます。「女帝の子」と。 」

所功京都産業大学教授(平成17年6月8日)
「先生方御承知のとおり、過去8人10代にわたる女帝がおられましたことに関して大事だと思われますのは、8世紀初頭に完成した「大宝令」に「継嗣令」という篇目がございます。
これは「養老令」もほぼ同文だということが確認されております。それを見ますと、冒頭に「およそ皇兄弟と皇子、皆、親王と為す」とあり、そこにもともと注が付いておりまして、それに「女帝の子も亦同じ」とあります。その後にまた本文がありまして、「以外は並びに諸王と為す」という条文がございます。
この本文と、それに付けられた原注から、私どもが考えられますことは、天皇たり得るのは、男性を通常の本則としながらも、非常の補則として「女帝」の存在を容認していたということであります。 」

三名の先生方は(女帝子亦同)を、「女帝」の子もまた同じである、と解釈されています。

この見解に対して異を唱えたのは中川八洋筑波大学教授でした。著書において、「養老令は、〝女系天皇の排除〟を自明とした皇位継承法である」(『皇統断絶』)とし、「継嗣令は、平安時代に入るやまったく無視され、事実上の死文になった」(『女性天皇は皇統廃絶』)のである、と記しています。

そして「「女帝」という和製漢語が、701年(筆者註:大宝令)までにつくられていたと証明されない限り、継嗣令の「女帝子・・」を、「女帝(じょてい)・・」とは万が一にも読んではならない」(同)と述べ、小中村清矩と同様に解釈した池辺義象でも「この註をもって高森のように〝女系〟が想定されていたなどと短絡的な推定は決してしてはならぬと、厳しく警告している」(同)と記しています。

「女(ひめみこ)も帝(天皇、すめらみこと)の子(こ)また同じ(に親王とせよ)」(『女性天皇は皇統廃絶』)これが中川教授の解釈であり、妥当性があるように思いますし、検証に値すると思います。

これまでの「継嗣令」解釈

私は先ず、参考人の八木秀次氏が挙げられている河村秀根、小中村清矩、池辺義象の論考について調べてみました。

池辺義象は『日本法制史』(明治45年)において次のように述べています。

「按(かんがふる)に、大宝継嗣令に「女帝子亦同」と云ふ本註あるより、或は我国にても女帝ある時は、皇夫を容るることを認むるかと疑ふ者あらむ、但しこは女帝が未だ皇位に上らざりし以前に生ませられたる子ある場合を指したるものなり、女帝は素より一時、便宜上在位の事なるが故に、欧羅巴諸国に行はるる皇夫制などを引きて論ずべきにあらざるなり」

また、小中村清矩の『陽春盧雑考』(明治31年)「女帝論」は次のとおりです。

「其の中に「女帝子亦同」とあるは、女帝がまだ位に即かれず、皇女でおいでなされ、皇族中へ御縁付で、御子が出来て有たを、御即位の後、其の御子の事を云ったのでありますが、ちょっとみると、女帝中に御配偶がある様で、紛はしい事であります、尚ほ実際古典に拠って、此の事の有ったことを申さば、皇極天皇が、皇女で御いでの時に、用明帝の御孫の高向王に御縁付きになって、漢皇子を御生みになり、高向王がなくなられて、舒明帝の后におなりなされ、後に帝位におつきなされたという事実があります」

「一体令の本註の文が奇しいので、女帝の子は有るべき訳でないから、令中の難儀となって居りましたのは、尾張の河村秀根といふ人で、此の人が講令備考といふものを書いたので、人が気が付きました、この本は写本で、極く少ないものであります」

「先づ斯様な事も有りますから、講令備考を見たことの無く、令ばかり見た人は、女帝に御配偶でもあった様に思ふかも知れません、其の義解に、「謂拠嫁四世以上所生」とあるは、天皇の御子が一世、御孫が二世、曾孫が三世、玄孫が四世で、五世になると皇親でない事になりますから、其の縁の絶えぬまでの御子でなければ、親王にはせぬと云ふのであります、此の令につきて、或は疑を起すおかたもあらうと存じ、此の御話しを一段致すことであります」

これまでを読んでみると、やはり河村秀根らの「講令備考」を眺めてみる必要があります。

「秀興按漢皇子所謂女帝之子也」(『続々群書類従』第6「講令備考」)

これが河村秀根の兄・秀穎(秀興)の解釈であって、小中村清矩が解説しているものの出所です。「漢皇子(あやのみこ)がいわゆる女帝の子である」というものです。とても多角的な論考とは言えません。参考人等の論旨はすべてこの河村秀穎の受け売りであることは明白です。

「公式令」との整合性

私は歴代天皇の「みことのり」、いわゆる詔勅の解釈を研究していますが、大宝令・養老令の時代に渙発された「継嗣令」に関連する詔勅から様々なものが見えてきます。

その前に先ず、「養老令」の中には「公式令」というのがあり、ここに「平出(へいしゅつ)」「闕字(けつじ)」という文書規定があることを確認しておく必要があります。公式文書における尊称の扱いです。

「平出」とは、例えば、「我が
皇祖皇宗」というように、たとえば「皇祖」を用いる場合、改行して文頭におく、というものです。

「平出」対象
皇祖、皇祖妣、皇考、皇妣、先帝、天子、天皇、皇帝、陛下、至尊、太上天皇、天皇の諡、太皇太后、皇太后、皇后、

また「闕字」は、「我が 皇太子」と一字空けて用いるものです。

「闕字」対象
大社 陵号 乗輿 車駕 詔書 勅旨 明詔 聖化 天恩 慈旨 中宮 御 闕庭 朝庭 東宮 皇太子 殿下

これらの中に「女帝」はありません。当時、天皇に男性女性の区別がなかったというなら、この註は必要ありません。また「女帝」論者からは、それがなぜ「平出」「闕字」対象となっていないのか、説明がありません。

冠位制や位階制あるいは他の「令」との整合性

別な見方をしてみます。我が国には冠位制や位階制がありました。

ここで重要なことは、天智天皇の時代までは対象者の区分が示されていなかったことです。それが天武天皇の冠位12階では「諸王」が、冠位48階では「諸臣」がその対象者とされました。

そして文武天皇の大宝元年(701年)には対象者が「親王」「諸王」「諸臣」となり、冠位は改められ位階を30階と整理されました。

文武天皇の大宝元年(701年)七月には
「皇大妃、内親王と女王、嬪(ひん)との封、各(おのおの)差(しな)有り」と記載されています。

ここに至って、はっきり「内親王」と「女王」が区別されています。それまでは「諸王」と「諸臣」が対象者で、少なくとも「内親王」の定義は見当たりません。

大宝令と養老令はほぼ同じ、とされていますから、食封(じきふ・古代における俸禄の一つ)などの基準としても<継嗣令>が用いられた、と考えて妥当性があると思います。

身分による対象者の区別が定められても、そもそも身分の基準がなければ条文の適用はできません。

以上のような条文の対象者として「内親王」「女王」があります。そして「内親王」「女王」は「継嗣令」の基準(「註」)によって定められており、そこではじめてその条文の適用が明確になる、と考えてよいと思います。

日本国民を定義する「国籍法」があって「国民の権利及び義務」の「国民」が法的に定められている、これと同じです。

つまり、「女帝子亦同」は「ひめみこ(女・姫女・皇女)も帝の子は、(皇子に)また同じ」と解釈して、他の「令」の対象者が明らかになります。逆に、「女帝の子」として読んでも、他の令文を正しく解釈することは不可能で、むしろ「内親王」「女王」の基準が定まらず、諸規定を適用できないことになります。

「内親王」「女王」は「日本書紀」持統天皇の5年(691年)正月に「親王・諸臣・内親王・女王・内命婦等」とありますが、大宝令から遡及しての修飾の可能性があるので、確かではありません。しかし前述の文武天皇大宝元年(701年)の「禄令」に基づく食封、またその他の「令」は、「継嗣令」があって、はじめて整合性があると考えて無理はないと思います。

「継嗣令(全4条)」の第4条は「凡そ王、親王を娶(ま)き、臣、五世の王を娶(ま)くこと聴(ゆる)せ。唯し五世の王は、親王を娶(ま)くこと得じ。」(『律令』より)です。これは皇親の婚姻関係を規定したものです。

『律令』の解説には「諸王は内親王以下、五世王は諸女王以下、諸臣は五世王以下を、それぞれ娶ることができる。」とあります。これを「皇女」の側から解釈すると、四世王以上が結婚の対象とされています。五世王以下は「皇女」の対象外ということです。したがって、これは明らかに「女系」の否定となっています。

この第4条は、実は蔭位制(おんいのせい)とも関係があります。唐制では科挙=試験制度が主で蔭位は従とされました。しかし我が国では蔭位制が主とされました。高位にある人たちの子孫が優遇されたのです。

そして「皇女」が「諸臣」との婚姻で出来た子の場合を考えると、その叙位に混乱が生じる、との懸念があって婚姻の制限がなされたと思います。また当然、「皇女」の尊貴性の保持は考慮されたでしょう。

天平宝字三年(759年)六月、光明皇太后は淳仁天皇へ伝えられました。「然るに今は君として坐して御宇(あめのしたしらしめ)す事日月重なりぬ。是を以て先考を追ひて皇とし、親母を大夫人とし、兄弟姉妹を親王とせよ」光明皇太后は聖武天皇の后であり、藤原不比等の女(むすめ)でした。

光明皇太后の措置は「凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同)」に副ったものだと思います。天武天皇の孫である大炊王が淳仁天皇となりましたので、天皇の父である舎人親王をのちに崇道尽敬皇帝とし、母の当麻夫人を大夫人(おほみおや)とし、兄弟姉妹を親王としました。

この「兄弟姉妹を親王とせよ」は、「継嗣令」第一条の註(女帝子亦同)の解釈が「女(ひめみこ=皇女)も帝の子は、また(皇子と)同じにせよ」であることを裏付けています。淳仁天皇の御子はいなかった(記されていない)ので、子女の措置はないものの、「姉妹」でその意味が判明します。

淳仁天皇の「姉妹」が親王(内親王)の対象となったことは、本文のみでは理解できず、やはり註があって理解可能です。こう解釈して矛盾が無いし、「女帝の子」と解釈できる歴史の事実は存在しません。

反証法に堪えうる解釈

  1. 養老令の「公式令」「平出」「闕字」条項に「女帝」がなぜ定められていないのか
  2. 養老令あるいは大宝令の「後宮職員令」「家令職員令」「禄令」そして「衣服令」などにおける「内親王」「女王」の規定はどこに定められているか
  3. 「継嗣令」第4条との整合性はどこにあるか
  4. 淳仁天皇の「兄弟姉妹を親王とせよ」の「姉妹」を対象とする根拠は何か

出来る範囲で調べてみましたが、以上のうち、①および②④はこれまで充分に議論されていないように思います。①と②と④について八方探しましたが、日本法制史や「続日本紀」の研究者らのコメントは見つけられませんでした。公開されている資料をご存じであれば教えていただき、ぜひ読んでみたいと思います。

さらに、喪葬令の第8です。これは「親王一品条」というものですが、親王から五位までの葬儀に関する定めが記されています。この最後の註は「女亦准此」です。つまり女性にもこの条文を適用せよということです。この「女(ひめみこ)」は内親王を含む女性一般です。

これに対し、「継嗣令」の註は「女帝子亦同」となっています。これは親王に対する内親王を規定したものですから、「女亦同」では説明が足りません。そこで、女性一般とは区別する意味で「帝子=みかどのこ」を追加して「女も(帝の子は)亦同じ」とされ「女帝子亦同」となったと解して無理がありません。

さらに決定的なのは「延喜式」の「斎宮」です。
「凡そ寮の官人公事(くじ)によりて入京せんには、駅馬に乗るを聴せ。五位に四疋、八位以上に三疋、初位以下に二疋(女もまた同じくせよ)
この(女もまた同じくせよ)の原文は「女亦同」です。つまり「女性職員も亦同じ」の意味となります。註は本文の補足です。本文が男性に関するものですから、註で女性への適用を記したと思います。継嗣令も「男帝」とあれば、「女帝」も考えられます。しかし本文は親王の規程です。内親王に関しては註で補足した、そういうことで無理がありません。

「継嗣令」の註が、参考人等のような解釈となった理由はわかりませんが、先人の解釈をただ踏襲しただけで、何ら検証がなされていないのではないかと勘繰りたくもなります。

そして「皇室典範有識者会議報告書」における参考人らの言説が、如何に杜撰なものであるかは、これで明らかだと思います。これらの質問に答えることで、そしてその回答に妥当性が認められて、はじめて参考人らの言説は有効性をもつ、というべきだと思います。

これらの質問に根拠をもって回答できなければ、歴史的御位としての天皇、あるいは皇位継承を議論しても、ただイデオロギーの主張に終始するのではないでしょうか。歴史を検証する姿勢こそ、皇位継承論議に最も必要なものではないかと思います。

カール・R・ポパーは、一つでもその仮説に反する事実があれば、その仮説は誤りである、と語っています。いくらそれを支持する説が多くても、一つの反する事実がそれを否定する、ということだと思います。いわゆる反証法です。参考人らの「継嗣令」解釈は、この反証法に堪えられるでしょうか。これまでのところ、まったくそうした根拠づけは提示されたことがないように思います。

「女」を「ひめみこ」とする解釈には、少なくともこれに反する事実は存在しません。「女帝」は「公式令」の文書規定になく、他の「令」を解釈するにあたって、「継嗣令」の註にある「女」を「ひめみこ」と読んで「内親王」「女王」の基準が明瞭となり、各条文の適用が理解できます。

「女帝子亦同」を「女帝の子」と読む根拠はこれまで示されていません。この註は明らかに「内親王」の規定です。漢皇子のことにはまったく言及していません。

ついでですが、河村秀根(1723-1792)は子息の益根とともに『書紀集解』『続紀集解』を著しました。引用漢籍を明らかにしながら解説したものです。ただその解説は曲解が多く、また彼は「日本」という国号を嫌いました。本来なら『日本書紀集解』あるいは『日本紀集解』でしょう。孝徳天皇紀の「日本」は竄入(ざんにゅう・誤って入り込んだ)だと解説する有様です。

河村秀根は河村たかし現名古屋市長のご先祖だといわれていますが、引用漢籍はともかく、『書紀集解』の解説は反日的な文言が多く感じられます。本居宣長とほぼ同世代の人ですが、宣長大人の足元にも及びません。

皇位継承について、今後どのような議論になるかは想像がつきません。しかしどの場合でも、根拠のある国典解釈を行ったうえで、議論は為されるべきだと思います。明治皇室典範には「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」とありますが、あまりにも国典を無視した論議としか思えず、勝手ながら、敢えてお手紙した次第です。簡潔明瞭に程遠い長文となってしまいました。お許しを願います。頓首。

今後ますますのご健筆を、衷心よりお祈り申し上げます。

(S氏への手紙から)―2012年