金子堅太郎・昭和の大罪

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金子堅太郎・昭和の大罪

憲法蹂躙時代

「戦前戦中まっ暗史観」は社会主義者が言いふらしたとは山本夏彦の弁である。

「社会主義者は戦争中は牢屋にいた、転向して牢屋にいない者も常に「特高」に監視されていた。彼らにしてみれば、さぞまっ暗だったでしょう」と述べ、「大衆はお尋ね者ではないから、その日その日を泣いたり笑ったりすること今日の如く暮らしてました」と『誰か「戦前」を知らないか』に語っている。

向田邦子も「私たち戦時中の女学生は、明日の命も知れないのに、箸がころんでもおかしいと笑い転げていた」(同)と書いていたと紹介して味方にしている。

しかし本当にそうだろうか。少なくとも戦前は憲法(大日本帝国憲法)が蹂躙された時代といってよいのではないか。

そんな時代が暗かったと考えるのは社会主義者だけではないのではないか。正式な手続きをせずに憲法の解釈を枉げ、文部省が中心となってその恣意的な誤った解釈を国民に押し付けた時代が戦前戦中である。

山本翁は『誰か「戦前」を知らないか』の「あとがき」において、「戦前戦中まっ暗史観」は為にするウソだと思っている、と記している。

ただ、同著には不思議なことに、昭和戦前を象徴する統帥権干犯問題も天皇機関説排撃も出てこない。これからすると、山本翁の「戦前」は「戦前の娯楽」と受け取るべきだろう。そう思って読むなら一興である。

小説家・尾崎士郎に昭和26年『天皇機関説』がある。その最後に「凡例」があって、つぎのように記されている。

「昭和10年から20年にわたる10年間は日本歴史の上に民族の悲劇を決定的な方向にみちびいた時代である。(中略)私はこの歴史的悲劇に文学者としての純粋な感性によって直面しようと試みた。この動蕩たる時代の動きを把握するために「天皇機関説」に重点を置いたことは此処に昭和の動乱を認識するための、もっとも大きな鍵があると信じたからである」

尾崎士郎のこの文章は、あの複雑な世間や時代というものを捉えようとする真摯な大人の態度を表しているのではないか。もともとは国家社会主義者を目指したと言われる尾崎士郎ではあるが、若い頃のその幼稚さは措いて、やはり文学者らしい追究であるとみるべきだろう。

また、「新聞はほとんど連日機関説の論戦で埋まり・・・」とある。とにかく国会で騒然たる議論になったのだから、否が応でも目につく話題ではあったはずである。

あの山本翁が『誰か「戦前」を知らないか』において、まったく天皇機関説や統帥権問題を語っていないのは合点がゆかない。

向田邦子は昭和4年生まれである。昭和初期の憲法問題の意味がわからないのはやむを得ない。しかし山本翁は大正4年生まれである。天皇機関説排撃の昭和10年にはすでに成人していた。

山本青年が何か重要な問題が起きていると考えなかったとしたら、これはいささか世間に疎いといわれても仕方がないだろう。新聞を目にしてさえいたら記憶にあるはずである。

世間を震撼させた2・26事件はこの延長線上にあったし、これらは昭和戦前からはずせないテーマである。カフェーやバーの隆盛はともかく、統帥権干犯問題・天皇機関説排撃・2・26事件・国体明徴運動等を欠いて昭和戦前を云々すれば、これまた誤解のもとになるのではないか。

 

天皇機関説事件

昭和10年2月18日、貴族院に於いて男爵菊池武夫が美濃部達吉の著書を批判し、「皇国の国体を破壊するようなもの」だと発言した。これに対し2月25日、貴族院本会議において美濃部達吉が「一身上の弁明」としてその天皇機関説を説明した。

菊池男爵が美濃部を「学匪」と断言したことに美濃部が「堪え難い侮辱」として反論したのである。そうして天皇機関説は政治問題となったのである。

一体この天皇機関説とは何か。美濃部達吉の『憲法撮要』『逐条憲法精義』と伊藤博文『憲法義解』から引用して比較してみる。

「国の元首と謂ふは尚国の最高機関と謂ふに同じく、国を人体に比すれば天皇は其の首脳の地位に在ますを謂ふ」(『憲法撮要』)

「君主主権といひ国民主権といふは、言ひ換ふれば、君主又は国民の何れが国家の最高機関であるかを言ひ表はすものに外ならぬので、即ち此の意義に於いての『主権』とは、正確に言へば最高機関といふと同意義である」(『逐条憲法精義』)

『憲法義解』は大日本帝国憲法の逐条解説で最も重要なものである。帝国憲法を起草した井上毅の筆になると言われているが、井上毅の憲法草案初稿に関する逐条説明とその内容がほぼ一致していることを考えれば、これは間違いないだろう。

その『憲法義解』にある憲法第4條の逐条解説には、至尊について「人身の四支百骸ありて、而して精神の経絡は総て皆其の本源を首脳に取るが如きなり」と解説している。『憲法撮要』はこれに近い。

また『憲法義解』第4条の(附記)には「憲法は即ち国家の各部機関に向て適当なる定分を与へ、其の経絡機能を有(たも)たしむる者にして、君主は憲法の条規に依りて其の天職を行ふ者なり」とある。この解説からすると君主が国家の最高機関と解釈しても全く違和感はない。

天皇機関説は美濃部達吉によれば、国家を「一つの法人と観念する」考え方であり、その内容は上に引用したとおりである。上の『憲法義解』の解説と比較するとほぼ同じ意味である。したがって少なくとも天皇機関説は『憲法義解』に違背するものではない。国家に関する考え方についての齟齬は認められないからである。

一方、天皇機関説に相対する天皇主権説はよく理解できない。「統治の主体が天皇にあらずして国家にありとか民にありとか云う」のはドイツの考え方だと菊池男爵は述べるのだが、美濃部は「統治の主体が天皇にあらず」とは言っていないし、なにより天皇主権説と『憲法義解』との整合性が問題である。

陸軍の教育総監であった真崎甚三郎は天皇機関説排撃に熱心だったが、部内に訓示したものを読むと次のようなことかと推測できる。その訓示とは「恭しく惟みるに神聖極を垂れ列聖相承け神国に君臨し給ふ天祖の神勅炳として日月の如く万世一系の天皇かしこくも現人神として国家統治の主体に在すこと疑を容れず」というものであった(『現代史資料4』)。

つまりこれから判断すると以下のようなことをポイントとして挙げることができるのではないか。(1)天皇は現人神である。(2)天皇を以て国家の機関となすの説は「我が国体の本義に関して吾人の信念と根源において相容れざるもの」である。(3)そしてその信念とは神勅主義である。以上であるが、この「国体」はあいまいでよくわからない。

『憲法義解』を参考に大日本帝国憲法を読んでも、天皇を現人神とする考え方はどこにも見当たらない。また『憲法義解』の前文と帝国憲法全76条の解説のうち少なくとも9箇条の条文について「機関」という言葉が用いられている。国家の組織をあらわす言葉としての意味であるから別段おかしなことではない。

美濃部達吉は国の元首を国の最高機関とし、「国を人体に比すれば天皇は其の首脳の地位」にあると述べたに過ぎない。保健機関は国などの組織の一つであるし、呼吸器官は人体を構成する一つである。したがってこの美濃部の表現はまったく問題となるようなものではない。

天皇機関説を排撃する者の意見は真崎甚三郎教育総監の訓示によく表現されているが、美濃部達吉の著作を熟読したものではない。執拗な攻撃をする議員らの意見はまた、徳富蘇峰のつぎの意見にも通じている。

「記者は未だ美濃部博士の法政に対する著作を読まない。(中略)記者はいかなる意味に於いてするも天皇機関説の味方ではない。いやしくも日本の国史の一頁にても読みたらんには、かかる意見に与することは絶対に不可能だ。その解釈はしばらく措き、第一天皇機関などと云うその言葉さえも、記者はこれを口にすることを、日本臣民として謹慎すべきものと信じている」

つまり、ひとつの憲法学説を説明する用語としての天皇機関という言葉そのものを否定しているのである。このことは天皇機関説排撃運動において特徴的なことである。攻撃対象は学説よりも言葉である。

学問的な純然たる憲法論議なら貴族院や衆議院で問題にすることはあまり馴染まないのではないか。岡田啓介総理大臣がいうように、「「ここで学説の議論はしたくはない」(「読売新聞昭和10年2月28日」)というのは納得できる。

しかし言葉尻を問題にしただけなら、この論争があれだけ大騒ぎになった事実はやはり異様である。

宮沢俊義はその著『天皇機関説事件』において、本来の機関説は「法人」という概念を使って国家が説明されるから、「それは法現象の認識の問題であり、法の解釈の問題ではない」として、それは科学学説であって解釈学説と区別された性格を有する、としている。

また「機関説を説くといわれた憲法学者たちが、みずからの学説を機関説と名のったことはないようであるが、かれらは、機関説の主唱者と批判されたときに、機関説の下に、科学学説としての機関説を理解していた」(『天皇機関説事件』)とある。

結局のところ地動説や進化論が道徳と無関係なように、「日本臣民の守るべき道徳規範―国体規範―に反するというようなことは、ゆめにも思わなかった」(同)というのが現実だった。

そして宮沢俊義は、政府は天皇機関説を「学説として科学的に正確でない、という理由で、それを禁止したのではないことに注意する必要がある」(同)としている。

そして「このときの天皇機関説に対する政府の評価が、単なる道徳的評価だったと見るのも、正確ではない。そこでは、国体規範にもとづく道徳的評価は、同時にひとつの政治的評価でもあった」(同)と総括した。

 

統帥権干犯問題

憲法解釈の問題として天皇機関説排撃の前、昭和5年には統帥権干犯問題があった。ロンドン海軍軍縮条約に関する憲法解釈の問題である。

大正11年のワシントン海軍軍縮条約は主力艦の制限であったが、ロンドンのそれは補助艦の制限条約であった。我が国の保有比率を対米比7割弱とするものである。

この軍縮条約批准をめぐって政府に対し、兵力量を陛下の承認なしに決めたのは「統帥権干犯」だと野党や枢密院が問題にしたのである。帝国憲法第12条は「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」とあり、「議会の干渉を須(ま)たざるべきなり」と解説されていた。

帝国憲法第11条は「天皇は陸海軍を統帥す」であるが、美濃部によれば軍令と軍政は区別があり、「軍令権の作用としては唯既に出動を命ぜられたる軍隊の行動に付きて之を指揮統帥するに止まる」(『憲法撮要』)ということである。

また帝国憲法第12条に関して、「軍隊の組織に関しては国の予算に影響を及ぼすべき組織の大綱と予算に関係なき内部の組織とを分つことを要す」として、組織の大綱を定めることは「軍編制の大権に属し」、内部の組織を定めることは「軍令権に依りて行わるることを得べし」としている。

憲法は国内法の性格を有するとともに、国際条約などにおける国家の代表者を規定していることを考えると、国際法の性格も有しているというのは当然だろう。そうすると帝国憲法第13条も考慮しないと第12条は正しく解釈できない。その第13条は「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」である。

『憲法義解』では「条約を締結するの事は総て至尊の大権に属し、議会の参賛を假らず」である。そして「本条の掲ぐる所は専ら議会の関渉に由らずして天皇其の大臣の輔翼に依り外交事務を行ふを謂ふなり」と解説している。

ロンドン海軍軍縮条約などはこの憲法第13条に基づくものだから、軍令権云々に束縛されるものではないだろう。条約は成立したし、昭和天皇はこの条約に猛反対だった加藤寛治軍令部長を海軍大臣が「更迭して終へばよかった」のをぐづぐづしていたから事が紛糾したのである、と戦後に語られた(『昭和天皇独白録』)。

つまり昭和天皇はロンドン海軍軍縮条約について、統帥権干犯などとは考えて居られなかったということである。加藤軍令部長の憲法解釈にはいったいどんな根拠があったのだろう。『続・現代史資料5』には加藤寛治の日記が掲載されている。ポイントを拾ってみる。

昭和4年12月11日、加藤海軍大将が金子堅太郎枢密顧問官(当時は子爵)と会見したことが彼の日記に記されている。「金子子爵と会見、会心の国家談を為す。子爵の意思全然吾に一致す」、金子と加藤は最初から意気投合している。

昭和5年2月14日、「熊崎を金子子爵葉山邸に出す」とある。ロンドン海軍軍縮会議はこの年の1月にはじまっている。憲法第12条の解釈について金子堅太郎の見解を求めたことは充分に考えられる。

同年3月22日、「米大使金子子爵に日米妥協案成立を暗示し、子爵を驚かす」。米大使はウィリアム・リチャード・キャッスルである。翌日には「加藤隆義を葉山金子邸に出す」。やはり憲法解釈や軍縮会議の内容について加藤大将が金子堅太郎を頼りにしていたと考えてよいだろう。

同年3月24日、「之は23日の事」として、「金子子爵逗子より来京、史料編纂会にて「カッスル」の面談申込に付下相談をせらる。午後4時「キ」と会はれしに、意外にも話は既に進み過ぎて協定纏る大確信に驚けりと。要するに「キ」と幣原と内通ありしものならん」と記している。幣原は幣原喜重郎外務大臣である。

同年3月31日、「連日苦悶自決を思ふ事あり」、ロンドン条約に反対の加藤はここまで記している。そして4月10日、「骸骨を乞ふ書を認む」として辞表を書いた。5月19日の日記には「辞表を渡す」とある。6月10日の日記は記されていないが、後任の谷口尚真大将は6月11日に就任している。

同年5月28日、「財部と会見、第12条が軍務大臣と軍令部長の共同輔翼事項たる事を誓ふ」、財部彪は海軍大臣であり、ロンドン海軍軍縮会議では若槻礼次郎とともに全権であった。加藤大将の日記には憲法第13条に言及していないし、第12条の編制大権や常備兵額についても計画と予算の区別がついていない。

もちろん第11条の統帥大権と第12条の編制大権について、憲法発布までに様々な議論があったことは稲田正次『明治憲法成立史』に詳しい。

そして『憲法義解』の稿本には「兵制は元首の執る所の特別の大権たり但し其の需要に於ける予算の方法及大臣の責任は固より他の行政の事務に例し異なることなかるべきなり」とされていたと『明治憲法成立史』にある。これは美濃部達吉の解釈に等しいものである。

それにしてもロンドン海軍軍縮条約の内容に猛烈に反対し、軍令部長を辞することになった加藤寛治大将である。やはり憲法解釈に関する確固たる根拠がなければできない行動であったことは間違いない。いったい彼はその根拠をどこに見出したのだろう。

 

金子堅太郎の憲法

(金子子爵陳述)

金子堅太郎の(金子子爵陳述)とされている昭和5年9月17日「統帥権と帷幄上奏」が『現代史資料5』にある。

「憲法第11条は大元帥として陸海の軍を統帥するものにして同第12条は天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定むとあれども是は国務にして政府に於て定むべきものとの説に左右せられたるが如し是れ全く憲法の精神を誤解したるより生じたる議論なり」

これは「或る学者が当時頻りに唱道する所説」だとしている。そして浜口首相が議会に於いて、「兵力量即常備兵額に付ては軍部の意見を斟酌して政府に於て之を決定したりと答弁したり」と述べたその論拠がここにあるというのである。

むろん或る学者とは美濃部達吉らを指していることは明白である。美濃部は昭和9年『中央公論』の11月号において「陸軍省発表の国防論を読む」を発表した。「たたかひは創造の父。文化の母である」に始まる「国防の本義と其強化の提唱」を、戦争賛美として批判したのである。

その美濃部の帝国憲法第11条・12条・13条の解釈は前述の『憲法撮要』『逐条憲法精義』にあるとおりである。軍令権と軍制権を区別し、外交大権は天皇が国家を代表するというものであり国務大臣の輔弼をもって行われることは勿論であるとしている。

ロンドン海軍軍縮条約に不満だった側からみれば、美濃部の憲法学説は許し難いものだったといってよいのではないか。

金子堅太郎は帝国憲法の一起草者らしく、憲法の原案は第12条(天皇は陸海軍を統帥す)(陸海軍の編制は勅令を以て之を定む)であったことを述べ、その第一項と第二項がそれぞれ第11条と第12条に修正され、最終的に第12条は(天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む)に決定したと説明している。

そして伊藤博文はその説明において、「常備兵額は編制中に包含せざるが為之を明記して後日の争議を絶つの意なり」とし「本邦に於ては之を天皇の大権に帰して国会に其権を与へざるの意なり故に明に之を本条に示す」と述べたという。

西南戦争からまだ12年しか経っていない。テロリズムに近いようなものを含む民権運動も盛んである。軍令権と軍政権を天皇の大権に帰したことは賢明であり当然だろう。議会の安定性も不明である。武器を所有する組織を天皇の大権の外にして、世は治まらない。

金子は「天皇の大権の下に国家重要の機関二つあり」としている。「一は国務輔弼の内閣にして他の一は国防用兵を掌る参謀本部、海軍軍令部なり」である。

そして「此の二つの機関が両立対峙したる結果、或は軍部は国防及用兵の事を計画し帷幄上奏に依り親裁を経たる後之を内閣総理大臣に移牒し其遂行を要求する場合ありて内閣と衝突し終に内閣と軍部との確執を惹起するやも計り難し」と認識していた。

それゆえ「是を以て陸海軍大臣武官制度を設け軍人たる大臣は常に参謀総長軍令部長と協調し軍事の機務に付ては意見の一致を得て帷幄上奏をなす慣例を実行し来りたり」そして「是れ文武の二機関が分立対峙したるにも係らず円満協調して軍務を遂行することは泰西立憲君主国に見ること能はざる良慣例なり」と述べている。

以上は数十年来の慣例であって「政府に於て兵力量を決定したることなく若し之れありとせば憲法の精神に背き又天皇の大権を干犯するものと断定せざるを得ざるなり」と言い切っている。

しかし前述したように、『憲法義解』の稿本には「兵制は元首の執る所の特別の大権たり但し其の需要に於ける予算の方法及大臣の責任は固より他の行政の事務に例し異なることなかるべきなり」とされていたのだから、金子の憲法認識とはズレがある。

金子は憲法第13条には言及しておらず、国際条約と第12条との関係は論じていない。あくまで「統帥権」と「帷幄上奏」であって、国内に止まる話である。

憲法第12条が第13条に優先するとしたら、「政治に拘らず」とした軍人勅諭に違背する。したがってこの金子子爵陳述のような内容を根拠にして、ロンドン海軍軍縮条約は統帥権干犯である、というのは恣意的な解釈であり整合性を欠いていると言わざるを得ない。

 

金子堅太郎の書翰

金子堅太郎の上記のような憲法認識は昭和5年になって突如できたものではない。金子堅太郎から加藤寛治大将(軍令部長)にあてた数通の書翰からそれが窺える(『続・現代史資料5』)。

昭和4年12月13日
「昨日は態(わざ)と御来訪殊ニ有益なる御高説を拝聴し、倫敦会議ニ対し前途之曙光を発見するの感を懐き、又帰荘後御恵与之秘書を熟読し益々人意を強からしめ、憂国之念大ニ軽減致候」と加藤軍令部長に同感の意を表している。

そしてワシントン会議の轍を踏まず我が主張を貫徹し、「之を実現するは全く海軍軍人之一致団結ニ有之候」として海軍を鼓舞している。海軍の政治介入を促しているのである。

金子堅太郎が米大使キャッスルらの情報をその都度加藤軍令部長に伝えていた証拠となる書翰も『続・現代史資料5』にある。

個人的にはともかく、軍縮条約は外交に関することであるから軍令部を鼓舞して政治介入を促すことは、枢密顧問官金子堅太郎の立場からしておかしなことだと言われても止むを得ないだろう。

昭和5年3月17日
「今朝之新聞ニ依れは、先般も内話致候通り外務省ニ而(て)弱根を吐き海軍省と意見を異にする由」として、やはり政府批判をしている。

 昭和5年5月31日
「元帥参議官会同之結果ハ兼而御垂示之通りニ相成欣喜ニ不堪候。是れ憲法之精神ニテ何人も干犯すること能はさる所ニ有之候」として、内容は定かではないが、軍幹部における憲法第12条の解釈に異論のないことだけは表現されているのではないか。

昭和5年7月4日
「御退職前後之情況は上泉、内田両氏より詳細承り候。男子は其言容れさる時は其職ニ殉すること古来日本武士之特性也。今回之御態度は実ニ感服之至ニ不堪候」と、おそらくは6月10日に辞職した加藤大将への賛辞を記している。

昭和5年8月1日
「扨(さて)倫敦条約も弥(いよいよ)枢密院ニ御下附相成、近日精査委員会も被開候事と存候。就而(ついて)ハ左之件々内々御垂示被下度願上候」として「第一、全権ニ御下附相成候三大原則ハ軍令部より帷幄上奏したるものなる乎」「第二、是は内閣ニ而起草決定したるものなる乎」を問う文面となっている。

今回の会議に必要なので、差し支えなければ内密に教えてほしいと書いているのである。ここでも憲法第13条はまったく考慮されていない。

昭和8年2月19日
「陳(のぶれ)は統帥権ニ関する重要極秘之決定御送附被下一覧、大ニ安神仕候」と認めている。これは参謀総長及び海軍軍令部長と陸海軍大臣の、「兵力量ノ決定ニ就テ」とするいわば憲法第12条についての合意確認ともいうべき、昭和8年1月23日のメモについてのことである。

それは「固より政治特に外交、財政とも密接なる連繋を保たしむへきものなるか故に其大権発動の最後的決定前の手続に於ては政府と十分の協調を保持し慎重審議すへきは勿論にして両者に杆格を見るへきものにあらす」というものであり、あくまで担当大臣と統帥部に関するものであった。天皇の外交大権に触れたものではないので、軍縮条約など国際条約との関係を解決するものではない。

このあとも金子堅太郎がワシントン・ロンドン両条約の破棄についての手紙を加藤大将に認めていることが『続・現代史資料5』に残されている。彼らの親交が継続されているということがわかる文面である。

 

金子堅太郎と天皇機関説排撃

枢密院においてロンドン海軍条約審査員会の第一回が開かれたのは昭和5年8月18日であった。委員長は伊東巳代治であり委員には金子堅太郎がいた。

関静雄『ロンドン海軍条約成立史』によれば、伊東委員長は「条約締結までにとった政府の処置には、相当問責すべき重大な過誤があるとも言われています」と挨拶した。

その後、政府と枢密院の対立となった審査会の経緯は同書に詳しい。そして最終的には、条約批准に「無条件賛成」ということで伊東委員長は豹変したのである。条約批准の審査は憲法解釈の問題でもあるから、帝国憲法起草者の一人であった伊東巳代治の動きも、その憲法解釈とともに疑問が残る。

この統帥権干犯問題ののち、やはり美濃部達吉らの憲法解釈を不服として持ち上がったのが天皇機関説排撃である。

先に述べたように、当初、天皇機関説排撃は「機関」というような言葉の使用が問題とされていた。それが結局は天皇を現人神とし、天皇親政が国体であるという天皇主権説と対立したのである。しかしこの天皇主権説は帝国憲法には存在しないものであるから、それが議論になった理由があるはずである。

統帥権干犯問題で金子堅太郎が加藤軍令部長と情報交換をし、金子流の憲法論を伝えていたことは先に述べた。そしてこの天皇機関説排撃についても金子堅太郎は政府の要人にたいし、自らの「意見書」を示しているのである。

飯田直輝「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号)は金子と天皇機関説をテーマにした稀有な論文である。未だ翻刻されていない金子堅太郎の「日記」などをもとに当時の金子がどんなふうに国体明徴運動にかかわったかを追究している。

それによれば昭和10年4月1日、岡田啓介首相・松田源治文相に「意見書」を手交し、加藤寛治大将には郵送している。また、同7日には同じものを林銑十郎陸相・大角岑生海相・真崎甚三郎教育総監にも送付している。美濃部達吉の三著書が発売禁止処分となったのは同9日である。

この「意見書」は『続・現代史資料5』に収載されている。ポイントは美濃部達吉の『逐条憲法精義』の序文解釈にある。

その序文によればとして、その一、「国体を理由として現在の憲法的制限に於ける君権の万能を主張するか如きは全然憲法の精神を誤るものである」。その二、「立憲政治の精神に付ての理解の足らぬことである」との文章に憤慨している。

美濃部は従来の憲法学説のうち、いわゆる天皇主権説について述べているのであり、『憲法義解』について語っているのではない。したがって金子は伊藤博文・井上毅・伊東巳代治らの名をあげているが、ここは誤解があるのではないか。『憲法義解』に天皇主権説は存在しない。

美濃部の序文には、『憲法義解』について、権威はあるが説明が簡単でかつ学術上の根拠を欠き、その当否を疑うべきものが少なくない、としている。『憲法義解』は学術書というより説明書であるから学術的研究書を加えることはおかしくない。

また極めて簡約な法規の解釈については、「各条の文字に示されて居るものの外、その背後に存する歴史的基礎及び理論的基礎が之と対等の価値あることを信じ、歴史と理論とに依りて文字の足らざるを補ひ、その誤れるを正し、始めて其の正当なる解釈を期待し得べきことを信じて居る」とその研究方法を述べている。

ただ「文字の足らざるを補ひ」はともかく、(条文の)「その誤れるを正し」はやや過激な感じのする文章である。これは誤解を生む可能性がある。

序文のその一で美濃部は、国体の倫理的事実と現在の憲法的制度を区別している。憲法に君権の万能はなく、君権説の主張は「常に官僚的専制政治の主張に帰するもの」だとしている。これが従来の天皇主権説といわれる憲法学説に影響をあたえているとの判断だろう。

その二についても美濃部は憲法起草者について語っているのではない。やはり国体観念に基づく誤解についてのものである。金子は勘違いをしているのではないか。

最後にその三があって、「凡て成文法規の文字はその起草者の思想の表現であって起草者の誤解又は疎漏はその文字に錯誤又は不備を生ぜしむることを免れない」である。起草者の文字の使用に錯誤や不備といわれて金子は黙っておられない、と考えるのは当然である。ここもやや美濃部の過ぎた表現である。

美濃部は『憲法義解』から乖離した憲法学説を批判したのであるが、起草者の文字の使用云々は慎重さを欠いていると言わざるを得ない。丁寧に用語の解説をすれば済むことだからである。

金子堅太郎の天皇機関説排撃は、彼自身の誤った憲法解釈と美濃部達吉の真意を誤解したこと、そして美濃部の余計でありかつ過激な文言に原因があるように思われる。

 

金子堅太郎の大罪

それにしても金子堅太郎の憲法解釈は、井上毅のそれとは重要なところで異なるものがあると言わざるを得ない。『金子堅太郎自叙伝』の第二集には「天皇機関説の排撃」が掲載されている。

「余は政府の当局者に対し、勅令を以て確定したる大学令第一条帝国大学は国家須要の学術を教授云々の明文を示し、天皇機関説を承認せば警察官も或る意味に於て国家の機関である故に天皇と警察官とを同一視あるの嫌あるにあらずや、然らば天皇機関説は日本の国家に須要ならざるのみならず、天皇の大権を干犯するものではないか、是れ明らかに日本の国体に背き皇室の尊厳を汚し奉るものである」

天皇と警察官を同一視するなどの考え方は『憲法義解』にもなく、「機関」という言葉が価値観を含まず、客観的なものであったことは先に述べた。金子堅太郎のこの解釈は井上毅らと憲法起草の仕事をした人間とは思えない。あるいはそもそも井上毅などの考え方を理解していなかったのだろうか。

「一体、金子とか伊東巳代治とかいう連中は、憲法制定の場合に直接枢機に参した者ではない。ただ憲法取調に洋行した時に独墺の学者の講義について通訳の任に当ったのは、巳代治一人の功といってもよい。金子の如きは、ただ英語をよくする者が他になかったために、いろいろ参考に英書を調べてもらったぐらいのことで、憲法の制定の時に本当の意味において働かれた功労者は、井上毅の如き人で、或はフランスのボアソナード、或はドイツのグナイスト、この三人が主になってやったのである」

以上は原田熊雄『西園寺公と政局』にある西園寺公望の言葉である。稲田正次『明治憲法成立史』によれば、井上毅はロェスエルやモッセなどとも頻繁にやり取りをしていた様子がよくわかる。

憲法の制定に関し、むろん伊藤博文は別格としても、この西園寺の言葉は、金子堅太郎や伊東巳代治の昭和戦前における憲法問題への対処を考えると、たいへん正鵠を射た言葉であるように思われる。

上に述べたような事実があったとしても、政府の要人は、起草者として唯一の生き残りである金子に一目置かざるを得なかったとともに、機関説排撃の側は金子の論が相当強力な根拠となったのではないか。

金子のとった行動を考慮しなければ、昭和戦前の精神史は解明しきれない。憲法解釈の内容は別として、起草者の生き残りである金子が自身のステージを用意させることに執着していたことは、飯田直輝「金子堅太郎と国体明徴問題」にもあるとおりである。

金子堅太郎は明治の大功労者であり、数々の要職をこなし伯爵となった人である。しかし同時に教育勅語と帝国憲法を曲解した張本人でもある。

金子の憲法解釈が統帥権干犯論において軍人の政治介入をあおり、天皇機関説排撃はやがて国体明徴運動となって、天皇は現人神となり天皇親政を是とする昭和戦前の憲法蹂躙時代につながったのである。

『政治論略』においてエドマンド・バークの英国保守主義を紹介し、帝国憲法の起草に参画し、現在では明治のバークとまでいわれている金子堅太郎である。しかし昭和の金子は井上毅の筆になる『憲法義解』を否定する側に回り、政府を追い詰め、軍部そして国民を誤った方向に導いたのである。

宮沢俊義はのちに『天皇機関説事件』において、なぜ金子の「帝国憲法制定の精神」が国体明徴に役立つと考えられたか分からない、と記している。能天気も甚だしい。憲法制定の由来や教育勅語の世界的評価は彼のオハコであった。しかしそれらの本文に国を誤る致命的な錯誤があったのである。

金子堅太郎は昭和17年5月16日、89歳で他界し、従一位大勲位菊花大綬章を賜った。しかし今日、近現代史における金子堅太郎の功罪を考えてみると、後者のほうがはるかに上回っているのではないか。

金子堅太郎らの教育勅語「中外」の誤解からGHQは神道指令なるものを発し、国家と神道を分離せしめた。そしてそれが今日の政教問題に及んでいる。その悪影響はこのままだと遠く将来まで残る可能性がある。

統帥権干犯論と天皇機関説排撃について、もし条文に瑕疵があったとすれば、帝国憲法悪玉論にまで発展する。しかし先にみたとおり、それこそ憲法を蹂躙した結果だったのである。金子らの解釈は帝国憲法を葬るに十分な理由とされたと言うべきである。

昭和戦前を象徴する二つの憲法論議の強力な推進者に金子堅太郎がいた。世をあげて国体明徴を叫ぶ時代となり、『憲法義解』に忠実だった政府の要人は2・26事件でテロリストの餌食となった。その後の我が国が歩んだ悲劇的な道とは、尾崎士郎が書いたところである。これは金子堅太郎の大罪ではないか。

行政処分となった美濃部達吉は、「伊藤公の憲法義解は一体どうなるのだろう」と語り、字句の不穏当は改定するに吝かではないが、「学説は断じてまげるわけにはゆかぬ」と断言した(東京日日新聞)。気骨あふれる学者の態度であった。

―終わり―2010年