続「女帝問答」

表紙に戻る

続「女帝」問答(1/3)

(私)
先日はどうも。ところで、前回教えてもらった「公式令」から他の「令」も眺めてみたよ。

(飲み友)
うん。その前にね、位階制の話をしようか。(今日も寒いから、熱燗!)

(私)
冠位12階などだね。

(飲み友)
我が国には位階制があった。最初は推古天皇11年(603年)の冠位12階。大化4年(648年)には冠位13階が、同5年(649年)には冠位19階が施行された。天智天皇3年(663年)には26階の冠位が、天武天皇14年(685年)には冠位12階と冠位48階が定められた。

(私)
ずいぶん細分化された。

(飲み友)
ここで重要なことは、それまで対象者の区分は示されていなかった、ということなんだよ。それが天武天皇の冠位12階では諸王が、冠位48階は諸臣がその対象者とされた。そして文武天皇の大宝元年(701年)には対象者が「親王」「諸王」「諸臣」となり、冠位は30階と整理されたんだよ。

(私)
ちょっと待ってよ。そういえば、「日本書紀」は奈良時代に完成で、のちの修飾があるから鵜呑みにはできないが、文武天皇に「内親王」が出て来るね。

(飲み友)
文武天皇の大宝元年(701年)七月には
「皇大妃、内親王と女王、嬪(ひん)との封、各(おのおの)差(しな)有り」と記載されている。

(私)
ここでははっきり「内親王」と「女王」が区別されている。

(飲み友)
うん、これまでは「諸王」と「諸臣」が対象者で、少なくとも「内親王」の定義は見当たらない。大宝令と養老令はほぼ同じ、とされているから、食封(じきふ・古代における俸禄の一つ)などの基準としても「継嗣令」が用いられた、と考えて妥当性があると思うね。

(私)
なるほど。「令」において身分による対象者の区別が定められても、そもそも身分の基準がなければ条文の適用はできない。

(飲み友)
「禄令」のほか、「後宮職員令」や「家令職員令」そして「衣服令」などにも「内親王」「女王」がある。これらは「継嗣令」の基準によってはじめてその適用が明確になる、と考えていいと思うよ。

 

続「女帝」問答(2/3)

(私)
それにしては、平成17年の「皇室典範有識者会議・報告書」にある参考人等の意見は「女帝」と主張していた。

(飲み友)
まあ、学者は先行研究から入るから、先入観でそれから出られない。

(私)
それにしても歴史家だけでなく、法制史の専門家も一体どうなっているんだろう。

(飲み友)
奈良時代は仏教の時代でもあるし、いわゆる「女帝」―この時代の公式文書用語ではないけどね―の時代でもある。道鏡事件など、もう少しで「革命」が起きたのに、というアナーキストの学者が多いんじゃないかと思いたくもなるなあ。

(私)
学者村で何を言おうが、まあいいとしても、「有識者会議」で疑問もなく受け入れるとは何ということか。そもそもあの会議が悪質なことは世間の言う通りだが。

(飲み友)
天皇、つまり皇統というものが歴史的御位であるという意識が無さ過ぎる。

(私)
結局、例の「継嗣令」の註「女帝子亦同」は「ひめみこ(女・姫女・皇女)も帝の子は(皇子に)また同じ」と解釈して、これに反する事実は見当たらないし、逆に、「女帝の子」として読んでも、他の令文を正しく解釈することは不可能で、むしろ「内親王」「女王」の基準が定まらず、諸規定を適用できない、ということだね。

(飲み友)
そういうことだ。「内親王」「女王」は「日本書紀」持統天皇の5年正月に「親王・諸臣・内親王・女王・内命婦等」とあるが、貴殿もいうとおり、大宝令からの修飾の可能性があるので、確かではない。しかし前述の文武天皇大宝元年の食封、またその他の「令」は「継嗣令」があって、はじめて整合性があると考えて無理がない。

(私)
それに、「継嗣令」の他の条文を読んでも「女帝」でないことは明らかだ。また第4条によれば、「皇女」は「親王」から四世王までに嫁ぐことは許されるが、それ以下は認められない。これには蔭位制(おんいのせい)とも関係があるのだろう。

(飲み友)
唐制では科挙=試験制度が主で蔭位は従だったと云われる。これと逆に我が国では蔭位制が主とされた。「皇女」が「諸臣」と結婚した場合の子を考えると叙位の範囲に混乱が出る。また当然「皇女」の婚姻制限は尊貴性を大事にしたのではないかと思う。

(私)
つまりこの面からも「女系」の否定となっている。御子はすべて「男系」となる。

(飲み友)
だからこの条文だけで、それも文言だけで判断してはならないってことだよね。他の「令」や関連する条文の理解が必要だ。

 

続「女帝」問答(3/3)

(私)
整理をすると、

  1. 養老令の「公式令」「平出」「闕字」条項に「女帝」が定められていない理由
  2. 養老令あるいは大宝令の「禄令」「後宮職員」「家令職員令」そして「衣服令」における「内親王」「女王」の規定は「継嗣令」の註を「女帝子亦同」は「ひめみこ(女・姫女・皇女)も帝の子は(皇子に)また同じ」と読まずして、その適用が可能かどうか。
  3. 「継嗣令」の註を「女帝」と読んで、他の令との関連が見出せないのはなぜか

たしかに以上の3点はこれまで議論されていないように思う。「女帝」論者はこれに根拠のある回答をすべきだね。

(飲み友)
議論されていない理由はわからないが、ただ「皇室典範有識者会議報告書」における参考人らの言説が、如何に杜撰なものであるかは、これで明らかだと思う。この3つの質問に答えることで、そしてその回答に妥当性が認められて、はじめて参考人らの言説は有効性をもつ、というべきだと思うね。

(私)
カール・R・ポパーは、一つでもその仮説に反する事実があれば、その仮説は誤りである、と語っている。

(飲み友)
いくらそれを支持する説が多くても、一つの反する事実でそれは否定される、ということだね。いわゆる反証法だ。参考人らの「継嗣令」解釈は、この反証法に堪えられるだろうか。これまでのところ、まったくそうした根拠づけは読んだことがない。

(私)
「女」を「ひめみこ」とする解釈には、少なくともこれに反する事実は存在しない。「女帝」は「公式令」の文書規定になく、他の「令」を解釈するにあたって、「継嗣令」の註にある「女」を「ひめみこ」と読んで「内親王」「女王」の基準が明瞭となり、その適用が理解できる。

(飲み友)
そうだね、したがって「女帝子亦同」を「女帝の子」と読む根拠はない。これは明らかに「内親王」の規定であって、漢皇子のことにはまったく言及していない、というのが結論だ。

(私)
今後どのような議論になるかは想像がつかない。しかしどの場合でも、根拠のある国典解釈をしたうえで、議論は為されるべきだと思うね。明治皇室典範には「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」とあるが、あまりにも国典を無視した議論にはウンザリだ。(さあ、雪になる前に、帰ろうか)

―終わり―2012年