女性宮家論と「みことのり」

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女性宮家論

―ところで、皇室典範に関する内閣官房の報告書、いわゆる「論点整理」について、詔勅研究ということから見て納得しかねるものがある、ということでしたが。

(雉鳴)
皇室典範の議論には、幾つか腑に落ちないものがあります。律令時代の文書を誤って解釈しているのではないか、ということ。また今日に至るまで曲解されてきた詔勅―上諭なども含みますが―それらの誤った解釈が様々な問題を複雑にしている、そう思います。

 

「皇族の降下に関する施行準則」について

―皇室典範についてですが、大正9年に「皇族の降下に関する施行準則」が制定されました。公布はされませんでしたが。平成17年と今回の「論点整理」のいずれの参考資料にもその解説と図が添付されています。それによれば、大正天皇から9世10世で皇統は廃絶のような誤解を与えるように思いますが。

(雉鳴)
まず整理をしますと、皇室典範は明治22年2月21日に制定され明治40年に「増補」されました。将来における皇室経済への配慮からここに臣籍降下が記されたということです。永世皇族主義の部分修正といわれています。

大正7年の「増補」は、梨本宮方子女王と李王世子との婚約が大正5年に成立して、朝鮮王公族の法的地位を明確にする意味で必要な修正でした。併合後における皇族女子と朝鮮の王公族との婚姻などは当初想定されていなかったからです。

問題は大正9年の「皇族の降下に関する施行準則」です。これは明治40年「増補」の「施行準則」です。現実に進まない臣籍降下に対する内規とされました。

大正9年3月17日に枢密院での詳細説明があり、5月19日に裁可されました。これは国立公文書館のサイトで確認が可能ですが、仰るとおり、内規ですから公布はされていません。

―この解説と図は、所功教授の『皇室典範と女性宮家』にある資料を転載したものですが。

(雉鳴)
その説明を抜粋します。

図―天皇 ①皇子 ②皇孫 ③皇曾孫 ④皇玄孫 ⑤◎ ⑥◎ ⑦◎ ⑧◎ ⑨◇ ⑩▼

〔施行準則の原則〕

・親王(皇子~皇玄孫)は皇籍離脱をしない。
・王(5世以下の皇孫)のうち、 ◎ は施行準則によっては皇籍離脱をしない方、
◇は皇籍離脱をする方、▼は誕生した時から皇族でない方。

―たしかに誤解を生む表現です。

(雉鳴)
まず[施行準則の原則]の説明ですが、この図では大正天皇から9世で皇籍離脱、10世は誕生時から臣籍です。皇統は廃絶、と誤解させるような図になっています。

これは大正天皇がご存命でかつ9・10世がおられることが条件です。平均寿命からはあり得ない想定で、不必要な図だと思います。順調に皇位継承が行われ、大正天皇の8世が即位された時点で、9世10世の男子は親王となりますから、この図は誤解のもとにしかなりません。

―「施行準則」が皇統廃絶の論理、といわれても仕方のない説明です。

(雉鳴)
そもそもこの「施行準則」の考え方に問題があるのではないでしょうか。明治40年「増補」制定の際には様々な議論がありました。原田一明「明治四十年皇室典範「増補」考」にその詳細があります。

明治40年「増補」は全8条ですが、第1条から6条までが臣籍降下関連で第7条8条は、条文を引用すると「皇族と人民とに渉る事項」です。

皇族と人民にトラブルが生じた場合の、皇族に適用される規程と人民のそれを定めたものです。トラブルがあれば人民は民法に依りますが、皇族に不利あるとき皇族は皇室典範の定めるところに依るとされたのです。

―「皇族と人民とに渉る事項」ですから公布しないとフェアではない、ということですね。

(雉鳴)
そういうことだと思います。制定の姿勢ですが、「増補」にかかわった伊東巳代治でさえ「専ら我国の旧慣古制を査覈し、之を日進の時会に照応して、最も適切妥当の定制を樹てざるべからず」と言っています。

―伊東巳代治でさえ、とはどういうことですか。

(雉鳴)
伊東巳代治・金子堅太郎の功績は大なるものがありますが、同時にいずれも今日まで影響を与えている致命的な失策をした事実があります。これはまた別の機会にしましょう。

―明治皇室典範は、実は皇室の家法ということから公布されませんでした。それがこの「増補」から公布されました。もっとも、『帝国憲法・皇室典範義解』は明治22年6月1日には出版されてはいましたが。

(雉鳴)
もともと公布すべしという議論はありました。尾崎三良―三条実美の側近ですが―などは「典範は・・臣民に公布し臣民をして皆遵守奉戴する所を確知せしむべし」と柳原前光をとおして井上毅へ主張したとされています。

「皇族と人民とに渉る事項」もそうですが、いわゆる国法一元論、宮中事務と国家の事務は区別すべきでない、とする意見があったことは事実です。これらは原田氏の論考にあります。

―旧慣古制とはどういうことでしょうか。

(雉鳴)
我が国には律令格式がありました。「格式」とは「律令」の補助法令でありその施行細則です。『類聚三代格』の叙に以下のような文章があります。

現代語で要約しますと「格はその時を考慮して制を立てるものであり、式は法令の不足を補い、落ちているものを拾う、いわゆる「拾遺補闕」ということである」。

当然ですが、皇室典範は、新旧ともその第一章の名のとおり、皇位継承の法そのものです。ですから「増補」がこれを覆すことは到底あり得ませんし、まして「施行準則」が皇室典範の本文を逸脱することはあり得ません。皇室典範>増補>施行準則です。

―GHQ占領期に皇籍離脱された11宮家の方々も、この「施行準則」が実行されていれば必然的に臣籍となり、宮家は廃絶となっていたという見方が「報告書」にあります。これなどはまったく「増補」の意味を理解していないと思います。

(雉鳴)
そうですね。言うまでもなく明治40年の「増補」は「祖宗の丕基を永遠に鞏固にする所以の良図を惟ひ」制定されました。「増補」公布の際の上諭に示されています。

皇位継承のための法が、その補助法令である「増補」の、さらにその「施行準則」によって皇統廃絶の論理となる、そんなことはあり得ません。それでは上諭がまったく理解不能となります。

―律令格式はどのように運用されていたのですか。

(雉鳴)
たとえば757年の勅令。選限(位階をあげる年限)を二年短くした706年の「格(補助法令)」をやめ新令を発して元通りに復活させました。推定できることは、701年の大宝令を706年の「格」で修正し、それを757年の新令つまり養老令で元に戻した、ということです。

我が国の「法」の範囲内であれば「格」で時の事情に対応させていたという事実です。ですから皇位継承を確実にするため、旧皇族の方々の復帰と皇室経済法の改正を否定する理由はどこにもない、ということです。

―「格」は元の本文を変えない、そういうことですね。

(雉鳴)
はい、本文は変えません。本文の考え方を有効にするための補助法令ですから。

―いずれにしても、「施行準則」で皇統が絶えるなど考えられません。

(雉鳴)
明治40年の「増補」や大正9年の「施行準則」は皇位継承の不安定が予測される場合、当然のことながら廃止されるべき補助法令です。そもそも皇位継承法が皇位廃絶法となるなど噴飯ものです。

―この「施行準則」は昭和21年12月27日「皇族ノ降下ニ関スル施行準則ハ之ヲ廃止ス」となって現・皇室典範の公布前に廃止となりました。その前の昭和21年12月18日枢密院「皇室典範増補中改正の件外三件審査報告」についてです。明治40年の「増補」の対象者に「内親王・女王」を加えることについての審査でした。

(雉鳴)
「内親王・女王」は降嫁以外に臣籍降下の途がなかったからです。この審査は終戦後の国情変化への対応だったといわれています。混乱する当時の世情が伝わってきます。そして現・皇室典範が制定されたのは翌22年1月16日でした。

―やはりこの「報告書」の参考資料、「施行準則」の説明は大きな誤解のもとであることに違いありません。

(雉鳴)
そうですね。皇室経済への懸念から検討されたものですから、その第6条「皇族の臣籍に入りたる者は皇族に複することを得ず」はあくまで「増補」の趣旨を徹底するためでした。ここを針小棒大に語るのも如何なものかと思います。本末転倒です。

 

「継嗣令」の解釈

―ところで、皇室典範に関する内閣官房の報告書、平成17年と同24年の報告書ですが、律令時代の文書について誤った解釈がある、ということでしたが。

(雉鳴)
その大きなものが「継嗣令」第一条の註の解釈です。「女帝子亦同」を「女帝の子」とする人たちがいます。しかし養老令には「公式令」という文書規定があります。「平出」条項と「闕(欠)字」条項です。

「皇祖」「天皇」をはじめ15の用語は敬意を表して「平出」、つまり行を変えて文頭に書く、というものです。岩波文庫『憲法義解』の巻末にありますが、大日本帝国憲法の御告文がそうなっています。

「闕字」は「また 皇太子殿下は」というように一字空けて敬意を表します。これには「皇太子」「中宮」など17の用語が定められています。しかしいずれにも「女帝」はありません。

―「継嗣令」については平成17年の「報告書」にもありました。古代は双系主義だったとすることの根拠のひとつとされていました。「女帝」という言葉はなかったのですか。

(雉鳴)
「女帝」があるのは「古記」というもので、民間の解説書である『令集解』に記載されています。先行研究から確認すると「古記」では橘諸兄を右大臣としています。右大臣になったのは天平10年正月です。また「田令」では天平10年8月19日の「山陽道諸国の借賃停止」が反映されていません。

したがって、どうやらこの間に編纂された可能性が強いとわかります。このことから天平年間に、学者のごく一部だとは思いますが、「女帝」が用いられていた可能性は否定できません。しかし公式文書で用いられることはありませんでした。「公式令」にないことがそれを証明しています。

―「公式令」は杓子定規に守られていたのでしょうか。

(雉鳴)
「公式令」が重要視されていたことは『続日本紀』にある長屋王の記事が参考になります。聖武天皇は母・藤原宮子を大夫人と称する勅を発せられました。

長屋王は「公式令」には皇太夫人とあるから勅に依れば「皇」の字を失い、「公式令」に依れば勅に違うことになる、どうしたらよいでしょうか、と言いました。

そこで天皇は重ねて勅を発し、文書には皇太夫人そして口頭では大御祖(おほみおや)としたのです。「公式令」をめぐって勅が重ねて発せられるほどでした。

―すぐに勅で訂正されたのは極めて珍しいことです。ところでこの註の目的はどんなものだったのでしょうか。

(雉鳴)
養老令にある「禄令」「後宮職員令」「家令職員令」そして「衣服令」の条文あるいは註に「内親王」や「女王」があります。これらは条文の適用対象者を示しています。

しかし「内親王」「女王」の規定は「継嗣令」以外に見当たりません。日本国憲法第10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」ですが、これがあって条文の対象者が定まります。

「継嗣令」第一条はこの意味でも重要で、他の条文の対象者を特定しています。「女帝の子」ではたとえば「禄令」(食封条)の「内親王」の特定ができません。

―なるほど。そういえば、最初の親王宣下といわれる淳仁天皇の「兄弟姉妹を親王とせよ」も、そのとおり兄弟は「親王」姉妹は「内親王」になっている。

(雉鳴)
その通りです。淳仁天皇の詔に太皇太后―藤原光明子ですね―から「兄弟姉妹を親王とせよ」と仰せがあったというのがあります。この「姉妹」を対象とする根拠が実は「継嗣令」にあります。

天皇の「みこ」は親王そして「ひめみこ」も同様に「内親王」とする規定です。「女帝の子」では「内親王」が導き出せません。

―明治皇室典範第32条では「天皇支系より入て大統を承くるときは皇兄弟姉妹の王女王たる者に特に親王内親王の号を宣賜す」と明確に規定されました。「継嗣令」の他の条文はどうですか。

(雉鳴)
「継嗣令」第4条は内親王の婚姻制限で4世王以上がその対象とされています。ここは何人もの方々が批判されているように、4世王以上は男系男子ですから「女系」とは無縁です。

―整理をすると、以下のような質問に答えられなければ「女帝の子」と読むことは出来ない、となりますね。

①養老令の「公式令」「平出」「闕字」条項に「女帝」が定められていない理由
② 養老令あるいは大宝令の「後宮職員令」「家令職員令」「禄令」そして「衣服令」などにおける「内親王」「女王」の規定はどこに定められているか
③「継嗣令」第4条との整合性はどこにあるか
④淳仁天皇の「兄弟姉妹を親王とせよ」の「姉妹」を対象とする根拠は何か

(雉鳴)
そう思います。同じ養老令の「喪葬令」(親王一品条)には「親王には・・を聴(ゆる)す」註に(女亦准此・ひめみこもまたこれにならへ)とあります。(女亦同)とおなじ意味ですが、この「女」に皇女を特定する「帝子・みかどのこ」とのちに註が加えられて(女帝子亦同)となった、こう推測しても無理はないと思います。

ですからこれらの質問に根拠のある回答ができて、はじめて「女帝の子」と読んで妥当性があることになります。それがない限り、この註を双系主義などの根拠とするのは、国典を冒涜するものでしかないと思います。

 

政教関係条項と詔勅

―平成24年の「論点整理」には他にも参考資料が添付されています。

(雉鳴)
気になる参考資料はその3です。天皇の御公務は①祭祀、②国事行為、③象徴行為である、とされています。憲法の政教関係条項や判例からして―一般論ですが―公務員の宗教への関与は禁止とされています。皇籍離脱をされた方々の国家公務員化は、その点が整理されているかどうか、わかりません。

―たしかにその問題はまだ解決されていません。慎重に議論がなされねばなりません。ただ、それと詔勅とどんな関係があるのでしょうか。

(雉鳴)
憲法の政教関係条項、第20条や89条の前にGHQの神道指令がありました。しかし戦後の我が国ではこの神道指令の解明が進みませんでした。今日でも活発な議論がなされていません。

―神道指令は、その名の通り神道と国家の分離でした。結局のところ指令にいう国家神道が解明されていない、そういうことになりますが。

(雉鳴)
昭和20年の秋、GHQに靖国神社焼却案がありました。困ったマッカーサーはローマ法王使節代理のビッテル神父にキリスト教団体の意見を聴きました。

ビッテル神父は、靖国神社は残し排すべきは国家神道という制度だと答えたそうです。GHQは、教育勅語が国家神道の聖典だと考えていましたから、結局のところ教育勅語は排除となりました。排除の国会決議を示唆したわけです。

―民政局次長・ケーディスがウィリアムズ国会課長に言わせた件ですね。

(雉鳴)
参議院になっていた文部大臣経験者の田中耕太郎はそう言われて「それはグッド・アイディア」と応えたそうです。

―しかし教育勅語が国家神道の聖典とはどういうことでしょう。

(雉鳴)
米国の対日占領方針は、日本が二度と米国や世界の脅威とならないことを確実にする、そういうものでした。そのためGHQは日本軍の解体と過激なる国家主義、つまり超国家主義の排除を目標としました。

軍隊は解体となりましたが、超国家主義の思想は世界征服思想ですから教育勅語の排除となりました。

―教育勅語と超国家主義ですか。

(雉鳴)
当然ですが、GHQは「親に孝に」以下の徳目は問題にしていません。問題は「之を中外に施してもとらず」でした。民間情報教育局長・ダイクが明言しています。日本人はこれを「誤り伝えた」と。

つまり「皇道を四海に宣布」などの文言がこの「之を中外に」から出たと断定したのです。部下のドノヴァンはこの文言を教育勅語のクライマックスとして、世界征服の思想、と把握しました。

―しかし、そもそも教育勅語に世界征服思想とは・・。

(雉鳴)
はい、教育勅語に世界征服思想などありません。維新以降の急激な欧米化による道徳紊乱を正すために渙発されたのが教育勅語であって、世界征服などまったく関係ありません。「一旦緩急あれば・・」は当たり前の国防意識です。

問題はこの「中外」です。井上哲次郎をはじめみな「国の内外」と解釈しました。そして教育勅語の普遍性を強調します。しかし教育勅語の「之」は皇祖皇宗の遺訓です。

「古今に通じて謬らず」は「我が国の歴史に照らして誤りがなく」であり、「中外」は「宮廷の内外」「中央と地方」つまり「国中」です。

古今と中外。我が国の歴史と国中、これでX軸Y軸です。したがって「之を中外に施してもとらず」の意味は「これを国中(の国民)に示して間違いがない」ということです。

これは拙著『日米の錯誤・神道指令』に詳細を書きましたが、この解釈は私の説でも論でもありません。『明治天皇紀』『元田永孚文書』『井上毅伝』の数ページを読めば、誰にでも確認が可能です。ただし、漢文調の文章を厭わなければ、という条件付きですが。

―日本人が教育勅語を曲解した。それを鵜呑みにしてGHQは神道指令で神道と国家を分離せしめた。そして日本国憲法の第20条や89条に反映されて今日の政教論争に至っている。

(雉鳴)
それを否定する歴史の事実は見当たりません。しかし戦後の今日まで、教育勅語解釈の歴史を検証しませんでしたから、神道指令も分析できなかったのだと思います。

―宮内庁などの官僚には日本国憲法の政教分離原則といって、宮中祭祀を簡略化しているという話もあります。もし国家神道が教育勅語解釈のあやまりに源を発するとしたら、神道と国家神道は無関係ということになる。

(雉鳴)
無関係です。むろん、神社などの施設を利用して教育勅語の奉読が行われましたから、その意味では関係はあるでしょう。

しかし教育勅語を明治天皇の勅語として、文献史料に忠実に解釈すれば、国家神道は瞬時にして雲散霧消します。政教関係裁判あるいは靖国神社問題などは振り出しに戻るでしょう。

「事実上の国教」だとか「国家神道への反省」など、判断の根拠になり得ないのです。これらの捏造された文言の出処もはっきりしています。

―『国家神道は何だったのか』の葦津珍彦翁に聞かせたい話です。珍彦翁は神社行政史を丹念に語って、国家神道は神道に見当たらないことを実証しました。

(雉鳴)
さすが名著です。GHQが定義をした国家神道ですから、神社行政史にないと云われて、当然ですが、その分析力に驚きます。GHQ文書と教育勅語解釈の検証から、ここに決定的な深い関係があることを否定するのは、どんなイデオロギーの持ち主でも無理ではないかと思います。

―内閣官房参与の園部逸夫氏は、愛媛玉ぐし料訴訟における最高裁裁判官として違憲の判断をしています。判決文には国家神道云々もありました。

(雉鳴)
国家神道を検証することなく、捏造された国家神道観に基づいて判決が下されたことは歴史の汚点となるでしょう。園部裁判官の意見は憲法第89条違反の一点張りでしたが、判決文にある他の裁判官の、根拠を欠いた国家神道観には、裁判官としての責任があるはずです。

ところで我が国の国家神道研究者には、GHQがその聖典と断定した教育勅語解釈の検証をタブーとする何かがあるのでしょうか、これは謎としか思えません。GHQ文書も公開されていますから、もう少し歴史の事実をもとにした研究を進めてほしいと思います。

―まさに国家神道の歴史的検証が急がれます。ところで昭和史を語る場合、統帥権干犯論・5・15事件・天皇機関説排撃・2・26事件・国体明徴運動など、どうも昭和天皇の望まざる方向にばかり進みました。

(雉鳴)
それらはすべて帝国憲法に違背したものだと思います。GHQは戦前のすべてをまとめて否定しましたが、そこに錯誤があったと思います。帝国憲法と教育勅語は順接で結ばれています。

しかしいま挙げられた昭和戦前の事件とか国体明徴運動の延長線上で発行された、文部省「国体の本義」などは帝国憲法・教育勅語とは逆接の関係です。

これまで昭和史の論者たちは「国体の本義」を教育勅語の再解釈、と考えていました。GHQも同じです。それで昭和の精神史解明があいまいになっていました。教育勅語と「国体の本義」は決定的に異なる内容となっています。

もちろん教育勅語は公開された文書ですから、解釈は読み手に委ねられました。ただ語義を曲解しては明治大帝の勅語にはならないと思います。残念なことに、未だに「国の内外」と解釈し教育勅語に普遍性があるとして、まるでそこに世界征服思想があったかのような解釈を垂れ流している状況には、目を覆いたくなります。

いや、徳目の普遍性のみをいっているのだ、という弁明が聞こえそうですが、GHQが問題にしたのは徳目ではありません。「之を中外に施してもとらず」です。

文部大臣となった井上毅が井上哲次郎の解説書を、限定的ですが「検定不許」としたのは難解に過ぎるという理由でしたが、この処分からすると内容そのものに不満だった、こう考えて無理はありません。明治大帝もその稿本にご不満でした。

―「国体の本義」でも「之を中外に施してもとらず」は「国の内外」ですか。

(雉鳴)
解釈は「国の内外」です。また、教育勅語と決定的に異なるのは天皇についてです。これも研究されていないように思います。だからいわゆる「人間宣言」も正しく解釈されていないのではないか、そう思います。

 

「人間宣言」と詔勅解釈

(雉鳴)
「国体の本義」では天皇=現御神です。また天皇親政を基本としています。しかし帝国憲法や教育勅語には天皇が現御神であるとか、天皇親政が基本だなどとは記されていません。「事依さし」つまりご委任が天皇統治の要素の一つですから、天皇親政から天皇独裁となるようなことはあり得ません。

―天皇=現御神ではなかったとすると、いわゆる「人間宣言」は・・。

(雉鳴)
「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」は、天皇の神格否定ということになっています。しかし歴史上、天皇がご自身を現御神と宣言されたものはひとつもありません。

この詔書の草案に深く関与した一人が、当時侍従次長だった木下道雄です。その著書に『側近日誌』『宮中見聞録』があります。それらを読めば「人間宣言」の現御神の部分は、宣命解釈の誤りを訂正されたものだ、ということがわかります。

―宣命解釈の誤り、ですか。

(雉鳴)
木下道雄が「新日本建設に関する詔書について一言」に記していますが、近世から、たとえば文武天皇即位の宣命などが誤って解釈されてきた、とあります。

その宣命には「現御神と大八嶋国しろしめす天皇」とあります。この「現御神と」の「と」について解説していますが、「現御神と」は「しろしめす」を修飾するもので副詞であると明言しています。

―天皇=現御神ではないと。

(雉鳴)
天皇=現御神ではありません。本居宣長は「と」を「として」と説明しています。「現御神として」「現御神のお立場で」ということだと思います。

「現御神と天下しろしめすと申すも、・・」との表現が「現御神と」を「しろしめす」の副詞として用いている証拠です。たとえば「山と薪を積んだ主人」の場合、山=主人ではありません。「山と」は「積んだ」を修飾しています。これと同じことです。

―「しろしめす」がまた難解です。一言でいえば「無私の御精神」で、ということでしょうか。

(雉鳴)
明治憲法の解説書である『憲法義解』に「君主の徳は八洲臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非ざることを示されたり」とあります。仰るとおり「無私の御精神」そのものといってよいと思います。

現御神には必ず「と」を付けて読み、「しろしめす」が伴ってその意味がわかります。国典に「現御神天皇」や「明神天皇」はありません。

井上毅は「言霊」に「しらす」の詳細を記していますが、「現御神と大八嶋国しろしめす天皇」を現代文にすると「私心なく、祖先の叡智に随ってこの国をご統治なさっている天皇」というようなことになると思います。

―いつ頃から天皇=現御神となったのですか。

(雉鳴)
はっきりしたことは分かりません。ただ本居宣長の没後の門人といわれた伴信友などは天皇=現御神です。相当慎重な人だったようですが、肝心な部分を読み誤ったと思います。

本居宣長に天皇=現御神はありません。幕末の鈴木重胤はややあいまいな表現でどっちつかずでした。知る限り、本居宣長・池辺義象―そしておそらくは井上毅―木下道雄へと伝わった文武天皇即位の宣命の解釈が、文脈上正しいと思います。

津田左右吉や石井良助の理解も天皇=現御神でしたが、前者は(天皇が)「宗教的崇拝の対象となっていられたようなことは、少しも記されていない」とし、後者も同様に「このような思想が現われていることの稀なのに驚く」と告白しています。

そもそも天皇=現御神ではないのですから、そういった事実がないのは当然です。ただ二人の告白は学者としてたいへん正直だと思います。和辻哲郎は「尊貴性」で説明しましたが、この見解も以上のことから歴史の事実に違背しています。

―「人間宣言」は昭和21年、毎日新聞の記者だった藤樫準二の『陛下の"人間"宣言 』で用いられました。やはり一般的には、戦前は天皇=現御神、現人神と考えられていたということでしょう。

(雉鳴)
それはその通りです。ただ昭和史を論ずる人たちや歴史の研究者らが、たとえば文武天皇即位の宣命を曲解している情況は如何なものかと思います。これではその詔書の真意が伝わらないのではないでしょうか。

このことも、戦前における天皇のイメージを歪めますし、天皇=現御神から天皇制絶対体制などと誤って語られてきたこともあるのではないでしょうか。古代史から近現代史の著作で、この本居宣長から木下道雄に伝わった解釈を検証したものは、どうも見当たらないように思います。

―現御神と絶対神の「God」とは異なるのだという論考はありました。

(雉鳴)
それもひとつの見解だとは思いますが、国典の文脈上、それでは意味を理解できないと思います。「しろしめす」と一緒に説明されるべきもので、「神」概念そのものとは異なるものです。天皇の統治、これが語られることによって、はじめて「現御神と」が理解できます。文脈上も乱れが生じません。

―そう云えば、昭和天皇は後水尾天皇や徳川家康に触れて、側近が天皇や家康を現御神としたことに対する批判を木下道雄侍従次長に話されたとあります。

(雉鳴)
藤樫準二『陛下の"人間"宣言 』は昭和21年ですが、『宮中見聞録』は昭和43年に出版されました。ですからそれ以降の「人間宣言」に関する著作に木下道雄の説明を紹介しないのは、なぜか分かりません。

『側近日誌』は平成2年の出版で、この詔に至る詳細が記載されています。しかし編者もこの「現御神止」を解説していません。意味が解らなかったといってよいと思います。

詔勅研究はGHQ占領下で禁止されますが、日本国憲法第98条で効力を有さない、とされているせいか、今日でも研究されていないのではないかと思います。ですから文武天皇即位の宣命などを枉げて解釈したままなのだと思います。

―『側近日誌』を発掘したのは、女性宮家創設論の高橋紘教授でした。たしかに「現御神止」の解説はありません。教育勅語を曲解し「人間宣言」を正しく解釈しない。これらは詔勅解釈の研究を怠ってきたのが原因であると。

(雉鳴)
そう思います。解釈は自由ですが、少なくとも曲解や誤解は正すべきである、詔勅を研究する者として、そう強く思います。

 

双系主義の誤りと詔勅

(雉鳴)
いわゆる双系主義といいますか、詔勅のなかに男系と断定されていないものがあるという説も読みました。これも不思議でなりません。

―天壌無窮の神勅。「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」

(雉鳴)
はい。この「吾が子孫の王たるべき地なり」の「子孫」は男系を特定していない、という説です。たしかに「子孫」だけを読めばその通りでしょう。しかし続く「就でまして治らせ」が重要です。

―「しらす」ですね。

(雉鳴)
「しらす」は先ほどの『憲法義解』から、「無私の御精神」による天皇の統治です。無私は恣意性を排除します。皇位継承の法から恣意性を排除するのは男系です。女系で恣意性の排除が不可能なのは皇婿の問題があるからです。

たしかに外祖父として権勢を振るった例は少なくありません。しかしあくまで君臣は区別されました。

―「しらす」「無私のご統治」「万世一系」つまり男系男子が天壌無窮の神勅にあると。

(雉鳴)
神勅は古伝説にある「みことのり」です。本居宣長は「かの、神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく」といっています。

我が国の歴史をさかのぼると、そこにはありがたい古伝説があって、我が国の歴史は、まさにその通りに顕現されている、そう感動したのではないでしょうか。神勅ありき、の反対です。この一文こそ、宣長がいわば歴史法学的立場にあった、そのことを示しているのではないでしょうか。

―そうすると、仮に神勅ありきで構わないとして、双系派の「しらす」論を聞いてみたい。女系で「しらす」はどうなるのかと。

(雉鳴)
おそらく、無私は皇位に就かれた方が実現すべきことだ、そう説明するかもしれません。一言でいえば支那の有徳君主思想です。それはいわば獲得形質といいますか、徳を身につければだれでも君主になる資格がある、ということです。だから皇位を争って国は治まらない。易姓革命の国となるわけです。

無私は歴史と伝統に随いますが、有徳君主思想では独裁になります。覬覦―皇位を狙うということですね―これが絶えないからです。

―天皇という概念がまるで違ってきます。双系派の「しらす」論は是非聞いてみたいところです。

(雉鳴)
もうひとつ不思議なのは、元明天皇即位の宣命にある「改むまじき常の典」いわゆる「不改常典」の解釈です。

―天智天皇が立てられたとされている「不改常典」。

(雉鳴)
「不改常典」を持ち出して男系・女系を語るのは適切ではないと思います。岩橋小弥太の嫡系ないし直系主義による皇位継承説が最も妥当性がありますが、諸説あって定説はないとされています。

詔勅研究の立場からすると、皇位継承をめぐる争いだった壬申の乱、この時、元明天皇は11歳の少女でした。父・天智天皇の崩御、異母兄と叔父の争い。元明天皇にとって、とてつもなく恐ろしく悲しい出来事だったはずです。

ですから「不改常典」は皇位継承に関する「元明天皇における壬申の乱教訓説」だとも考えられます。研究者たちが文武天皇即位の詔に「不改常典」がないことを疑問視しますが、なくて当然です。

しかしこの解釈は歴史家の著作には見られませんし、今のところ私一人の説でしかありませんから、今後の研究にまたねばなりません。いずれにせよ定説がないものを付会して語るのは如何なものかと思います。持説を論ずるのは自由だとしても、少なくとも文献等に確認できず、反証に堪えられない解釈は、皇室典範論議に要らないと思います。

―もう一つは和気清麻呂の「大神の託宣」、これも男系男子とは特定していないと。

(雉鳴)
たしかに「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ」。「皇緒」は皇太子であって男系の特定はありません。称徳天皇は聖武天皇の遺詔を守らず淳仁天皇も廃帝としました。すでに天武系の皇子・皇女はすべて皇位継承候補者から外されていたと考えてよいと思います。

そして結果として天皇崩御のあと天智天皇の孫・光仁天皇の即位となりました。「女帝」の候補者など、どこにも出てきません。光仁天皇擁立に関連した藤原永手らに「女帝」はまったく出てきませんし、これと対立して長親王の子らを推した勢力にも「女帝」は出てきません。少なくとも、当時の高官らが託宣の意味を双系ととらえていた証拠は見当たりません。

―天壌無窮の神勅、元明天皇即位の詔にある「不改常典」そして和気清麻呂の「大神の託宣」などから双系主義を導き出す。しかし少なくともそう検証し得る根拠がないということになります。

(雉鳴)
付け加えますと、「不改常典」は平安時代以降も用いられました。しかし正確にその意味が伝わったのは聖武天皇までで、孝謙天皇から先は形骸化したものとなったのではないでしょうか。詔書式にある「現御神止」が次第に形骸化したことと同じ運命を辿ったと思います。「現御神止」について、木下道雄が「近世に至って、この解釈法に乱れを生じ」と書き残してくれたことは大変ありがたいことだと思います。

―女性宮家創設論に古代史ですから、煙に巻かれます。様々な観点からの詔勅解釈が大事だということがわかりました。

(雉鳴)
井上光貞も「古代の女帝」を書きましたが、最後に「女帝」という語がいつから用いられたのか、という疑問を記しています。津田左右吉や石井良助らは天=現御神の認識でしたが、天皇が宗教的崇拝対象だったことを示すものは記されていない、と書き加えています。

これらは学者として非常に真摯な姿勢であると、私は思います。やはり事実を根拠として歴史を解釈する、この姿勢が重要なのではないかとつくづく思います。皇室典範論議は歴史と伝統に精通された方々に委ねられると思いますが、詔勅を研究している者としては、根拠のない詔勅解釈からの議論は、やはり改めてほしいとつくづく思います。

―終わり―2012年