異聞草紙27(by 佐藤雉鳴さとうちめい

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平成27年12月24日

武田清子『天皇観の相剋』は1978年(昭和53年)で、毎日出版文化賞を受賞した。1945年前後における連合国の天皇観を調査したものである。

「天皇制廃止論は、日本における天皇制は、超国家主義や国体明徴思想をささえてきたところの、天皇を神(現人神)とみなす神話的国家観や歴史観、および、国家神道の中核をなすものだという判断に基づいていた」

この基礎に立って、米国、英国、中国、カナダ、オーストラリアそしてソ連などが「天皇の戦後」をどう考えていたか。これが主な内容となっている。

さて、上に引用した部分。果たして同書には「超国家主義」「国体明徴思想」「国家神道」について、それが何であるか、解説は記されていない。当サイトから言えば、これらの解説に教育勅語の曲解は欠かせない。

この「超国家主義」「国体明徴思想」「国家神道」の生成過程やその推進力を分析・解明して、はじめて学術的意義がある。毎日出版文化賞の傾向がわかる一冊ではあるが。

 

平成27年12月14日

元禄15年12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。元禄の世は太平の世であったから、南北朝の動乱を描いた『太平記』が人気だったと読んだことがある。「治にいて乱を好む」といったところだろうか。

ところでこの『太平記』。この物語では武士の負けに「戦死」と「降伏」のあることがわかる。そして「戦死」には「討死」と「自害」。「降伏」には「捕虜」と「寝返り」がある。ただ「捕虜」は結局打ち首。つまり「寝返り」以外は「戦死」している。

武士の名誉のために、勇敢な闘士であったと伝えよと、これのみ告げて「討死」あるいは「自害」する。ただし武士が守るべき共同体のことは語られていない。誰のために、何のために闘ったのか。

鎌倉幕府への不満から後醍醐天皇は立ち上がった。しかし物語は幕府・北條から離反した足利軍と後醍醐天皇を擁護する新田・楠軍の争いを描く「軍記」となっている。要するに武士の勢力争い。

『太平記』における武士の心情は、実は、ポツダム宣言受諾の検討にも影響したのではないかと思う。楠公精神として。昭和天皇はポ宣言受諾で国民が救われるとし、陸軍大臣などは受諾で国家は滅亡と判断した。陸軍大臣には守るべき共同体が語られていない。

 

平成27年12月8日

1890年は明治23年で10月には教育勅語が渙発された。同年の9月、明治天皇への答礼のため親書を携えてきたトルコのエルトゥールル号は、横浜からの帰国途中、和歌山県の串本沖で座礁した。この救助に当たったのが大島村の住民だった。

映画「海難1890」は、この大島村の人々の献身的な救助と、その95年後のトルコ政府によるイラン・イラク戦争時の日本人救出を描いたものである。いわば日本とトルコの親交物語。

この映画を見ると、若者を含めた島の人々の倫理観は素晴らしい。やはり教育勅語が渙発された背景は、東京などの都会における過度の欧米化だったと考えていいのかもしれない。

イラン・イラク戦争の勃発でテヘラン在住の日本人は出国ができない状況だった。日本の航空会社は帰路に不安があるとして在テヘランの日本人を見捨てるかたちとなった。その日本人をトルコ政府が救ってくれた。

「海難1890」は、映画としては月並みな構成ではあるものの、物語性からするともう少し話題になってもいいような気がする。

 

平成27年12月1日

『ライシャワーの日本史』その6。いわゆる「人間宣言」について。
「天皇は一九四六年の元日、自分が決して「神」ではないことを国民に宣言し、みずから新憲法への下準備を整えた。もっとも天皇は、それまでももちろん、西欧人の意識するような「神格」の持ち主とみなされてきたわけではない」

「西欧人の意識するような「神格」」がどのようなものかは説明がない。また天皇がその「持ち主とみなされてきたわけではない」という文章は難解である。日本人の認識がどこかで変化したということだろうか。もしそうだとしたらそれは何時だったのか。

むろん、以上の問いへの回答はない。やはり現御神や現人神がどのような概念で、我が国の国典におけるその位置がどのようなものだったのか、これを解明しない限り、正確なコメントは無理だったと言える。

ライシャワーは1910年の日本生まれである。終戦前には知日家として対日政策案の策定にも参加していた。1945年は35歳。後年の日本史における認識を考えると、グルーやドーマンらとは雲泥の差があったのではないか。

グルーは皇室外交、ライシャワーは学者外交そしてマンスフィールドの議員外交と言われる。面白い表現ではあるが、『ライシャワーの日本史』はその認識において、相当奇異な感じがしてならない。

 

平成27年12月1日

『ライシャワーの日本史』その5。公職追放に触れて。
「それよりもっと重要だったのは、いわゆるパージ処分であった。日本の海外制覇に何らかの責任ありとみなされた者は、すべて政府の公職と社会的に影響の大きい地位に就くことを禁止された」

この認識はさすがというほかない。公職追放令にはポツダム宣言の第6項を実現するため、とあるから「世界征服思想」の持ち主を追放するということであった。

我が国の論者はここを解読しないから、「世界征服思想」の解明にも至っていないのが現実である。GHQのいう「世界征服思想」の表現は八紘一宇であり、その基礎は教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の曲解にある。

以上のことは当サイトの主たるテーマの一つであるが、有効な資料が公開されても世間では解明が進まない。詔勅を研究しない弊害といえる。

ただ公職追放はサンフランシスコ講和条約とともに廃止された。追放された側に自らの「世界征服思想」を追究した者がいなかった事実も講究されてよい。

 

平成27年12月1日

『ライシャワーの日本史』その4。天皇機関説事件について。
「一九三五年、美濃部は大学の職を追われただけでなく、貴族院の議席も奪われ、著書は発禁となった。この手の政府みずからによる公的なマッカーシズム(反共運動)も、民間の超国家主義者によるマッカーシズムの前には色あせた存在だった」

この文章は何かの間違いではないと思わせる。しかし前後を読んでもこの文章に説明はない。つまり天皇機関説の美濃部達吉を反共運動から追放した、こう解釈して間違いない。もっと言えば、美濃部達吉=共産主義者との認識となる。

『帝国憲法義解』を尊重していた美濃部が共産主義者とはあり得ない見解だろう。これは超国家主義対共産主義の構図から出たものだと推測できる。要するに超国家主義の理解にポイントがあるということになる。

たとえば橋川文三の「超国家主義」。GHQが神道指令で「過激なる国家主義」としたのが「超国家主義」であり、丸山眞男もそれをテーマとした。しかし橋川のそれは、主に大正から昭和戦前の民間における過激思想だった。

この根本的な違いは神道指令にあるいわば「世界征服思想」。橋川の対象にはこれが存在しない。単に過激を理由とする誤りであり、「超国家主義」を歴史用語として把握していないのがその原因である。

 

平成27年12月1日

『ライシャワーの日本史』その3。明治憲法について。「新憲法には天皇は「神聖にして侵すべからず」と謳い上げ、天皇が唯一絶対の統治者であり、少なくとも理論上は全権が天皇に委ねられることを定めた」

明治憲法の「天皇は神聖にして侵すべからず」はいわゆる「君主無答責」を表現したもの。ゆえに「天皇が唯一絶対の統治者」は誤解を招く。天皇も我が国の「法」、西欧でいう「コモン・ロー」によって統治されるのであり、だから「惟神の道」と言われるのである。

つまりこの認識は本居宣長に対するものが基礎となっている可能性が高い。その文章はやや曖昧だが、「天皇親政の正当性」を、宣長とは異なると批判できなかったからである。

また明治憲法が「少なくとも理論上は全権が天皇に委ねられることを定めた」ものでないことも『帝国憲法義解』に明らかである。「大権」と「全権」は異なる意味と解するのが妥当。「輔弼」や詔勅などにおける大臣の「副署」がその証拠。

ライシャワーの帝国憲法観は、昭和戦前の日本を見る目にも強い影響を及ぼしている。典型的なのが天皇機関説事件である。

 

平成27年12月1日

『ライシャワーの日本史』その2。時代は飛んで江戸。本居宣長が登場する。
「宣長の門人は「国学」といわれる運動の中で尊皇思想の復活を信奉し、天皇親政の正当性を信じるようにさえなっていくのである」

この表現は、正しいと言えば正しく、誤っていると言えば誤っている。まず、前半の「尊皇思想の復活を信奉」はその通り。ただ後半の「天皇親政の正当性」は宣長の学問には存在しない。

『古事記』にある「ながうしはける葦原の中つ国は、あが御子の知らす国と言依さしたまひき」。この「しらす」と「うしはく」を見事に読み解いたのが宣長である。ひと言でいえば、公的(な統治)と私的(な統治)の違いである。

これからすると、天皇親政は天皇絶対制を連想させ、「しらす」とは異なる概念となる。また「言依さし=委任」も意味が不明となってくる。ただ前半に「宣長の門人」とあるところは微妙と言わざるを得ない。

事実でいえば、宣長とその門人、とくに没後の門人といわれる伴信友や平田篤胤などとはその根本が違う。宣長を曲解した彼らを語れば、この文章は正しいということになるが、むろんそれはひと言もない。

 

平成27年12月1日

駐日米国大使だったエドウィン・O・ライシャワーは、後に明治学院神学部教授となったオーガスト・カール・ライシャワーの次男として東京芝の明治学院宣教師宅で生まれた。1961年から1966年までの駐日大使で、まさに60年安保後の大使である。

そのライシャワーには、1986年に出版された『ライシャワーの日本史』がある。非核三原則に関わる記述があって、当時は話題になった。要するに、米国による核の持ち込みに関する日米の了解があったという件である。

いま改めてこの『日本史』を読むと、その歴史認識に奇異な感じがしないでもない。まず、蒙古襲来に関してである。
「東アジアでモンゴルの支配下に入っていないのは日本だけになったのである」

蒙古襲来の原因の一つに、元と南宋の関係がある。当初、南宋は元の支配下にはなかった。当時は南宋と日本が日宋貿易でつながっていたから、それを断つことが元の南宋戦略として選択された。これは服部英雄『蒙古襲来』に詳しい。

加えて、黒色火薬の原料の一つである硫黄が日宋貿易での重要品目だったことも語られていない。これは日本人の研究を鵜呑みにした結果だと推測できる。そしてこのことが、彼の大東亜戦争の評価にも影響を与えていると考えられる。

 

平成27年11月28日

南原繁は昭和20年12月から同26年まで、東京大学の総長だった。のちに全面講和を唱え、吉田茂に曲学阿世の徒と揶揄された人である。「教育の革新」に注力し、被占領期に制定された教育基本法にも深く関与した。

政治的な選択も然ることながら、南原繁はキリスト教徒だったからその戦前の国家と神道をどう認識していたか、気になるところではある。

「人間宣言」について。「すなわち、天皇は「現人神」としての神格を否定せられ、天皇と国民との結合の紐帯は、いまや一に人間としての相互の信頼と愛敬である。これは日本神学と神道的教義からの天皇御自身の解放、その人間性の独立の宣言である」

いわゆる「人間宣言」に現人神は用いられていない。現御神である。木下道雄は、近世以降「現御神止」を誤って解釈し、天皇=現御神となり、それが天皇の神格化につながったと説明した。これからすると、南原は「人間宣言」を正しく解読していないことになる。

また、「日本において、神道が国家宗教として、また狂信的な国家主義の一種として、その勢威を逞しうした時代は終った」とも語っている。我が国に国家の宗教、いわゆる国家神道は法令に存在しないから、これも事実を枉げている。この当時のインテリらしい捏造というよりない。

 

平成27年11月14日

日米開戦について。
チャーチル首相「日本がアメリカに攻撃をしかけ、そのことによってアメリカをして一意専心に、そして、全国民一致して戦争に突入せしめるにいたったということは恵みであった。この出来事以上に大きな幸運が英帝国にもたらされたことは実に稀である」

「ハル・ノート」はハリーホワイトの起草とされている。しかしコーデル・ハル米国務長官に結果として圧力となったのはチャーチル首相だった。厳しい対独戦争を強いられている英国。アジアの植民地まで充分な態勢はつくれない。日米開戦はチャーチルにとって願うところだった。

クレーギー卿は戦前の駐日英国大使。その日本観は米国大使グルーにほぼ近かった。それゆえ英国による日本に対する重要な示唆を本国に期待した。しかしこれが「対日融和策」としてチャーチルから猛烈な批判を受けた。むろん日本がその案で納得した可能性は高くないがクレーギーも日本の真の友人だった。

IPRは太平洋問題調査会。ここのメンバーだったビッソン、ラティモア、ノーマンらを読むとため息が出る。いったい彼らは日本の何を見たのか。米国大使のグルーや英国大使のクレーギーらとは雲泥の差がある。ノーマンらに近いのが丸山真男であり武田清子たち。彼らの昭和史や政教関係の論考は、歴史の事実に基づかない大きな欠陥がある。

 

平成27年11月8日

『昭和天皇実録』にいくつもの関連本が出版されている。ただほとんどが感想文で、新たな知見は見つけられそうにない。まず戦前の天皇現人神論について、木下道雄『宮中見聞録』を基礎にしてその経緯を解説したものがない。

当サイトでは、いわゆる「人間宣言」がどのようなものだったのか、木下道雄本から追究した。文武天皇即位の宣命にある「現御神止」の解読である。およそ六国史に天皇がご自身を「神」と宣言されたものはひとつも存在しない。「現御神止」を「しろしめす」の副詞として用いているという木下道雄論は、歴史の事実からも立証できる。

また昭和天皇が対米開戦前、ローマ法王庁に対し和平を考慮して外交関係をつくるよう側近に指示されていた件について。識者の中には、この和平工作について、昭和天皇があまり熱心ではなかったと評価する向きがある。

しかし当サイトにも紹介しているように(平成23年5月19日)、その詳細はキグリー『バチカン発・和平工作電』にある。また元バチカン公使の原田健の回想が東京新聞の1971年4月6日に掲載されている。熱心でなかったのは外務省だろう。

さらにキリスト教問題。昭和天皇はGHQ日本占領の期間中、かなりのキリスト者と面会されている。識者は改宗の可能性にも言及しているが、講和条約後はその話題が消えている。やはりこれは、欧米、特に米国を知るための接近だったと考える方が納得しやすい。「神道を捨てる」などあり得ないからである。

 

平成27年10月28日

蒙古襲来。実は亀山天皇(在位1260年―1274年)の詔に「可令作載仁王会呪願文」(『史料大成』)がある。森清人は「載仁王をして会呪願文を作らしむべし」と解釈した。しかし載仁王の存在は確認できない。また当時は仁王会が盛んだった。

この詔は異国からの侵攻に対し国家の安泰を祈るものである。「仁王会」は鎮護国家のために「仁王般若波羅蜜経」を講ずる法会。また「呪願文」が一般的で「会呪願文」は勘違いと思われる。「可令作」は「つくらしむべし」で、問題は「載」となる。

「載」は「行う」「施行」の意味がある。したがって文意としては「仁王会の開催と、呪願文をつくらしむべし」で大きな間違いはないだろう。ただ文法として正確なところは分らない。「作載」は「作範」で「作範仁王会呪願文」、「仁王会をして呪願文(のお手本)をつくらしむ」の可能性もある。

ところで蒙古襲来の原因に日宋貿易があるという。元帝国は南宋を取り込みたかった。しかし日宋間では莫大な金額の貿易が行われており、火薬の原料となる硫黄は日本から南宋へ輸出されていた。南宋攻略が日本侵攻の原因とされる一つの理由だという。

思えば源平の争いは重農主義と重商主義の問題。平清盛の福原遷都も瀬戸内海経由の日宋貿易の推進と考えて妥当性がある。清盛の父・忠盛こそ院宣を用いて日宋貿易に関する大宰府の介入を排除しようとしたエピソードの持ち主である。

 

平成27年10月18日

10月12日の宮崎日日新聞。中国の民間博物館が「平和の塔」、つまり戦前には八紘之基柱(あめつちのもとはしら)とされ「八紘一宇」と銘のあった塔について、その礎石の3個返還を求めてきたという。いずれも南京のものとある。

礎石には朝鮮半島のものも含まれているようだが、「八紘一宇」が目指した領域内の石が使用されているという。「八紘一宇」の文字は昭和21年、GHQによって撤去させられたが、その後、昭和40年には復元されたらしい。

宮崎県が、民間の博物館からの要請にどう応えるかは大変興味深い。反省すべき「侵略」の歴史を残すために礎石は外せないという意見。そもそも外国の一民間博物館からの要請には応える義務はないという意見。返還すればという意見。

すぐにはどうということもないようだが、これを機会に「八紘一宇」とは何だったのか、この検証を始めては如何かと思う。以下は新聞記事の写し。

平和の塔、石材返して 中国住民、宮崎県へ要求方針 宮崎日日新聞 10月12日(月)12時5分配信
麒麟が彫刻された石=宮崎市・平和台公園の「平和の塔」
宮崎市・平和台公園の「平和の塔」の石材について、中国南京市の民間博物館長らが「南京産の3個を返還してほしい」と管理者である宮崎県に求める準備を進めている。
県都市計画課によると、県への返還要求は初めて。世界各国から集められた1700個以上の石材の出所や本県に運ばれた経緯について同課は「記録が残っていない」として対応を協議中で、専門家からは「県による調査や検証も必要」と指摘する声もある。

 

平成27年10月4日

当サイトは教育勅語の「中外」が曲解されてきた歴史、この解明からはじまって、詔勅の解釈を検証して今日に至っている。古代の詔勅や「人間宣言」までその解釈には誤りが多い。

さて昭和13年12月、文部省の教育審議会が開催された。内容は八紘一宇。歴史学者の三上参次が質問に立った。
「日本語を研究しつつある所の外国人が曾て私に向って、八紘一宇と云ふことは日本が現在支那大陸に向って取りつつある所の侵略と云ふ文字と似寄ったものであるかと云ふ意味の質問を受けたこともあるのであります、私考へますのに、教育に関する勅語の中に「之を古今に通して謬らす之を中外に施して悖らす」ー「之を古今に通して謬らす」と云ふやうな意味の程度ならば洵に結構なことでありますが、此処にありますやうな「八紘一宇の肇国精神を顕現すべき」と云ふことに付きましては稍々どうも穏やかでないのじゃないかと思ふのであります、是は唯私の杞憂に過ぎないかも知れませぬけれど、私はこの「八紘一宇の」と云ふ五字を削って、唯「肇国精神」と云ふだけにしまして、其の下を世界に顕現すると云ふやうな趣旨にしますと八紘一宇と云ふ意味は其の中に明白に含まれて居るのでありまして、さうすれば世界の人に向って、日本が或は野心を包蔵して居るのではないかと云ふやうな痛くない腹を探られることがなくて済みは しないかと思はれますので、文字の末ではありますけれども、其のことを一寸一言伺ひ且意見を述べた訳であります」

これに対し、答弁したのは荒木貞夫文部大臣。
「肇国の精神を弘めると云ふ根本精神に於ては聊かも変りがないので、之を古今に通じて謬らす之を中外に施して悖らず、一貫して行はれて居るのではないか・・」
「飽迄も教育勅語の御精神、肇国の御精神が発露せられた八紘一宇の此の精神を貫徹して行くやうに致すと云ふことが、殊に吾々教育に従事する者と致しましては教育上必要ではないかと考へるのであります」

さらに山田孝雄委員が意見を述べた。
「「八紘一宇」と云ふ言葉は、申上げる迄もなく吾々の知って居りまする古典では、神武天皇の御詔勅に用ひてあるのであります」

八紘一宇に価値観を含めて造語したのは智学田中巴之助である。この価値観と神武天皇紀は異なっている。この説明のない山田孝雄説は、やはり取るに足りない。

 

平成27年10月2日

白洲正子の父は樺山愛輔。またその父は明治の海軍大臣樺山資紀。愛輔は昭和9年2月、東京ゴルフの副会長となった。名誉会長は朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)で、場所はもと膝折と称されていた。

乗馬の膝が折れて、戦に負けたという武士の伝説もあることから、朝香宮にちなんで膝折は朝霞となった。その東京ゴルフ倶楽部では若者に対抗できないとして、60歳以上のスーパー・シニア会があった。

この懇親会に米国大使・グルーが飛び入りして撮った写真が残されている。ある年の大会表には米国大使杯とも記されているから、ゴルフに対するその熱心さがわかる。

この東京ゴルフ倶楽部は駒沢からの移転だが、朝霞の土地を探したのは白石多士良で、小松製作所の初代社長、白石基礎工業の創設者でもある。永代橋の基礎は彼の技術によるところが多いと云う。吉田茂の甥でもあった。

ところで、血盟団同志・小沼正に暗殺された井上準之助。日本銀行総裁で大蔵大臣も経験した。東京ゴルフ倶楽部の設立に最も功があったとされている。忙しい時ほどゴルフをするのだと語っていたという。

 

平成27年9月23日

原作や昭和42年版の映画「日本のいちばん長い日」の児玉飛行場。ここから8月15日未明、あるいは16日にも出撃したという伝説ができた。むろんこれらは捏造で、出撃の事実は存在しない。

この事実がなかったことは、当サイトの8月31日に書いた北沢文武『児玉飛行場哀史』(2000年)ではじめて知った。その根拠が『児玉飛行場跡記念誌』(1984年)の東山修二「「児玉飛行場の終焉」に想う」だった。

偶々この記念誌を閲覧する機会があった。それによると、児玉飛行場にいた第98戦隊の宇木素通戦隊長の手記に、出撃の事実がなかったことを東山氏は発見した。東山氏は児玉から福岡県の大刀洗飛行場に転戦した振武隊の元特攻隊長だった。

ところが朝日新聞浦和支局が出版した『昭和史の中の埼玉』(1975年)に本多康宏「徹底抗戦を叫ぶ航空隊」があった。そして「「攻撃中止」に泣く」というのが掲載されている。本多氏は鳥取県出身で第98戦隊の兵長だった人である。

つまり、三船敏郎が阿南陸相を演じた最初の映画は1967年だったが、8年後に児玉飛行場の件は否定された。1984年の記念誌と2000年の『児玉飛行場哀史』における宇木戦隊長へのインタビューは、むしろダメ押しに近いというのが事実のようだ。

 

平成27年9月11日

明治6年、習志野原は明治天皇によって命名された。その後に習志野と称されて今日に至っている。実は、相武台は昭和天皇の命名である。これは現在、小田急小田原線に「相武台前駅」、JR東日本の相模線に「相武台下駅」としてその名が残っている。

そもそも相武台は陸軍士官学校に付けられた名称。市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍予科士官学校は「振武台」で、陸軍航空士官学校は「修武台」であり、これは埼玉県の入間にあった。

この「振武台」「修武台」は現在、記念館として残っているが、駅名にないせいか、知名度は一般に高くない。そもそも「振武台」の朝霞には東京ゴルフ倶楽部のコースがあった、

はじめは駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部であるが、周辺の地価が高騰して朝霞に移転してきた。開場は昭和7年5月。バンカーで知られているアリソンが設計した。

この東京ゴルフ倶楽部の名誉会員で、足繁く通っていたのが駐日米国大使・グルー。このことは当サイトの8月24日に記してある。

 

平成27年9月6日

埼玉県にあった児玉飛行場は熊谷陸軍飛行学校の分教場だった。分教場は各地にあったが、よく知られているところでは長野県上田市の上田飛行場がある。

ところでこの児玉飛行場には、いわゆる学徒出陣で入隊した俳優の根上淳もいた。ペギー葉山との共著『代々木上原めおと坂』には児玉飛行場の食堂で開催された音楽会のことが記されている。

細野絢子という声楽家の弟が同じ場所にいることを知った隊員が、何とか音楽会をと開催したとある。すばらしい音楽会だったと根上淳は思い出を語ったが、彼はそもそも音楽に縁が深い。

根上淳の本名は森不二雄、その父は森乙である。読みは「もり オットー」。東京音楽大学のヴァイオリン教授。その父、つまり根上淳の祖父はオーストリア人のルドルフ・ディトリッヒ、お雇い外国人で東京音楽学校で西洋音楽の教授だった。

実際のところ根上淳は胸を病んで入院し、出撃はしなかった。そして出身校である法政大学の多摩キャンパスに同級生らと平和の祈念碑を建てたという。その構内にはポツダム宣言受諾を連合国に伝えた通信所の碑も残されている。

 

平成27年8月31日

「日本のいちばん長い日」にはどうも違和感がある。ポツダム宣言受諾と、それを阻止し徹底抗戦を唱える者たちの「物語」だが、歴史の事実としてはどうか。

最後の段階に、児玉飛行場(埼玉県)からの最後の特攻が描かれている。8月16日に出撃した、その設定である。これはおそらく、8月15日の零時過ぎから午前一時過ぎまでにあった熊谷空襲からの連想だろう。

その空襲から熊谷の人たちは、ポツダム宣言の受諾を、あり得ないことだと思ったという。陸軍熊谷飛行学校の分教場だった児玉飛行場には第27飛行団の飛行第98戦隊があった。だから徹底抗戦で出撃、これは「物語」としての流れで不自然ではない。

しかし1967年版の映画を、疑問視した人々がいた。極め付けは北沢文武『児玉飛行場哀史』(2000年)。戦隊長の宇木素道(少佐)にインタビューし、実際には出撃しなかったとの証言を得た。また飛行団の野中俊雄(大佐)司令官は命令していないという。

またそもそも米国の言う「無条件降伏か日本の壊滅か」に対し日本側は「無条件降伏すなわち日本の壊滅」と考えた。この齟齬を完璧に洞察された昭和天皇の「詔書」をもう少し深く掘り下げるべきだったろう。

 

平成27年8月24日

やはり「日本のいちばん長い日」。昭和20年8月15日のいわゆる宮城クーデターは田中静壱司令官の東部軍に鎮圧された。畑中健二少佐や関係したとされる近衛師団参謀の古賀少佐らはその日のうちに自害した。

ただ関係者の一人だった窪田兼三少佐はなお徹底抗戦を唱え、川口放送所占拠事件に関与した。これも東部軍に鎮圧されたが田中静壱司令官はその日の夜、拳銃で自害した。大将ゆえの想いが遺書に記されていた。

宮城クーデターには竹下中佐も関与していた。陸軍省軍務局の軍務課内政班長で阿南陸軍大臣の義弟だった。ちなみに古賀少佐は東条英機の娘婿。彼らはまったくの反日将校としか考えられない。

ところでこの川口放送所(実際には第一放送の中継所)は、いま川口市上青木にあるNHKアーカイブスの場所にあった。それゆえ巻き込まれたのは陸軍予科士官学校の生徒たちだった。

この陸予士は朝霞にあって、かつては東京ゴルフ倶楽部のコースがあった。ポツダム宣言に深く関与した戦前の駐日米国大使ジョセフ・グルーはそこの名誉会員で、昭和9年には来日したベーブ・ルースとプレーする写真も残されている。

 

平成27年8月13日

映画「日本のいちばん長い日」。1967年版から48年。昭和史の新たな資料が公開されて、現在では様々な見方が発表されている。その意味で同じ原作の映画化の意味が、いま一つ分らない。

ポイントは「終戦の決定」と宮城クーデター。和平派と主戦派、いわゆる戦争継続派の物語。1967年版を観れば、当然気が付くことに今回も触れていない。

要するに和平派のいうポツダム宣言受諾は国体の護持。これは天皇が明言された。しかし主戦派のポツダム宣言受諾は、すなわち国体の壊滅という認識である。50年近く経って、なぜここが描かれなかったのか。

つまり「日本のいちばん長い日」の原作と映画は、国内の内輪話のみゆえこうなったと考えられる。対日和平工作放送だったザカライアス放送。ここを欠いたのでこの矛盾が残った作品となってしまったのだろう。

ザカライアスは「無条件降伏か日本の壊滅か」と語り、日本側は「無条件降伏すなわち日本の壊滅」と考えた。結局、ザカライアスのいう無条件降伏を理解できなかった日本、これを描けなかったことが、この作品の失敗だと考えられる。

 

平成27年8月6日

国会ではいわゆる安保法案が様々な話題とともに議論されている。合憲論違憲論も際限がないようだ。いづれにしても日本国憲法を歴史文書として解釈する向きが少ないように見える。

問題は憲法第9条だが、これが1928年のパリ不戦条約を基礎にしていることは、林健太郎らの著述にも明かである。ゆえにそのポイントは国家の自衛権を認めるということである。

また、憲法第98条2項は「国際条約の遵守」となっている。対象となる国連憲章第43条には以下の文言がある。
「国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ1又は2以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する」

加えて第51条は国家の「個別的自衛権と集団的自衛権」を認めている。つまり日本国憲法第9条とパリ不戦条約、そして憲法第98条と国連憲章第43条や第51条を考慮すると、違憲論は矛盾となる。

違憲論の多くは日本国憲法の(GHQ)神授説が基本である。しかしGHQの占領があって帝国憲法が改正され日本国憲法となった。どの角度からも日本国憲法は歴史を基礎にして解釈する以外に考えられない。

 

平成27年7月26日

広島・長崎への原爆投下。それ以前の米軍による空爆も、非戦闘員に対する攻撃があった。しかし原爆はその殺傷能力も然ることながら、別な観点でみることも可能だろう。ポイントは8月6日と9日の日付にある。

ポツダム会談は米・英・ソの首脳によって、昭和20年7月17日から8月2日にかけて開催された。マンハッタン計画による原爆実験の成功は7月16日とされている。

米国大統領トルーマンは、チャーチル英国首相にはその詳細を伝達した。しかしソ連のスターリンには新たな兵器の開発という程度しか伝えなかったようだ。何故か。

その謎は、日本がソ連に仲介案を持ち込んでいたことにあるのではないか。戦後を考えると、米国にとってソ連が日本に深く関与することは許されない。ソ連の参戦を望んだことは事実だが、多くの犠牲者を出して戦ったのは米国自身である。それが本音だったと推測できる。

5月8日にドイツが降伏して以降、三か月後にソ連は対日参戦を約束していた。ゆえに8月7日までに第一弾を投下したかったのではないか。8月上旬にはテニアンに準備が整う予定だったが、天候の関係で6日の投下になったともされている。

 

平成27年7月11日

玉音放送の録音盤が公開されるとの報道。原盤は日本電気音響いまのデノンのレコード盤で、10インチ、78回転、一枚の録音時間は3分。玉音は4分37秒で、重複部分を含め2枚に録音されたという。

現在テレビなどで再生されているのは、GHQがデノン製から再録した16インチ盤、そのレコードから磁気テープなどに再録したものだと言われている。録音時間は4分33秒で4秒短縮された。今度公開される原盤は、針を置くだけで再生したと伝えられた。

玉音放送そのものは4分37秒だが、8月15日の正午から37分半にわたって放送された。玉音のあとはアナウンサーによる
詔書の奉読、
内閣の告諭、
交換外交文書の要旨、
ポツダム宣言受諾の経緯、
大御心によるご聖断、
ポツダム宣言、
カイロ宣言、
共同宣言受諾、そして8月9日から14日までの重要会議の開催経過が解説された。

ところで「終戦の詔書」は本文と「裕仁 昭和二十年八月十四日」まで814字で構成されている。八月十四日で814字は偶然なのかどうか、謎というしかない。

ちなみに、詔書に句読点が入るのは「昭和二十一年元旦の詔書」いわゆる「人間宣言」が最初。これは国会図書館の画像に確認が可能である。

 

平成27年6月28日

先の大戦での和平工作。最も早いものはバチカン和平工作と考えられる。以下は昭和天皇の命を受けたバチカン公使・原田健のコメント。

「いま振り返ってみて私がさらに重要だと思う点は、戦争勃発前に天皇陛下がバチカンと外交関係を結び、使節を派遣するよう政府にご命じになっていたという事実です。戦争を防ぐことを最も強く望んでおられた陛下は、やむをえず戦争になった場合に備えてバチカン駐在使節に和平交渉の準備をさせるおつもりでした」

昭和20年6月、バチカンから2通の電報を打ったが、東京は黙殺した。スイスではダレンの和平工作がある。ただしこれも黙殺された。またソ連への和平工作はポツダム宣言受諾のぎりぎりまで続いた。あるいはそう日本側が希望的観測をしていた、と言ってよい。これはソ連の日本領土への侵攻で破綻した。

グルーとドーマンが米国で為した様々な活動は、これも広い意味での和平工作だと言える。そして注目すべきはザカライアス大佐の対日放送、いわゆるザカライアス放送である。

ドイツが降伏した昭和20年5月8日から8月4日まで14回。日本へ無条件降伏を促す内容だった。これをプロパガンダとみる向きもあるが、彼の『密使』を読むと、明らかな和平工作だとわかる。日本側が無条件降伏の真意を理解できなかったのだが。

 

平成27年6月16日

愛宕山から移転した川越受信所。鳥居英晴氏らの研究によって「工業学校」だったことがほぼ特定されているようだ。そもそもは商業学校だったが、戦況が厳しくなって工業学校となり、そこに移転したということらしい。

らしい、というのは根拠が伝聞であることによる。川越受信所の幹部らでも異なる記憶があるし、正確な記録は残されていない。当時の資料は敗戦で焼却されたものも少なくないだろう。

川越受信所にいた武井武夫に『原子爆弾』がある。これは自費出版だったようだが、1995年に復刻された。どうやらこの小説が有力な糸口になったようだ。戦後から50年経っていた。

また昭和20年8月24日の川口放送所占拠事件。徹底抗戦を放送するよう圧力をかけるために、窪田兼三少佐らが陸軍予科士官学校の生徒60余人を率いてなした暴挙である。

放送所職員の機転と東部軍の田中静壱司令官による説得で、事件は収拾された。しかし川口放送所の実態は中継所であって、「放送」はなかったのではないか。このあたりの資料も意外に少ない。

 

平成27年6月5日

昭和20年5月26日の東京空襲。港区の愛宕山にあった東京逓信局の受信所は電源がとれなくなった。そこで移転したのが埼玉県川越市。当時の資料は焼却されたのか、場所は小学校と工業学校の二説あって、未だに特定されていない。

この川越受信所の近辺には国際電気通信、のちの国際電信電話・KDDIだが、その上福岡受信所があった。電波の送受信に適し、政府機関のある都内にも近かったことが移転先の選定理由と考えられる。

実はポツダム宣言を受信した一つが、この川越受信所である。放送局は「言葉」、送信所・受信所は「モールス信号」による。

外務省のモールス・キャスト(防空壕)、調布市国領にあったラジオ室も受信した。さらに川越受信所は8月6日、広島の原爆も傍受した。

広島から岡山への第一報は「特殊爆弾」だとされている。川越が傍受したのは、トルーマン大統領の発表である。「原子爆弾」と解釈した最初なのではないか。

 

平成27年5月29日

湯本武比古は明宮(はるのみや)皇太子、のちの大正天皇の教育掛だった。途中、欧州へ渡るが、帰国して二か月後に解任された。本人はこの事情を書かない、と語ったという。

ところで森有礼の思想を嫌ったのは元田永孚。やはり洋風の考え方を日本に導入し、それをもって教育の方針とすることに反対していた。元田には『教学聖旨』『幼学綱要』などがある。

湯本が解任されたのは1893年(明治26年)。湯本の登用は伊藤博文や森有礼の推薦が考えられる。しかし森有礼は1889年の大日本帝国憲法発布式典日に暗殺された。元田も1891年に他界している。

すると解任に関係したのは山県有朋が考えられる。ただ山県が解任に関係したとしても、その理由はよくわからない。

山県とは別に、一つだけ考えられることもある。湯本が大正2年に出した『勅語述義』。この教育勅語解釈は、井上毅のそれとは異なっている。井上毅も問われたら、解任の回答をした可能性もある。あくまで憶測であるが。

 

平成27年5月22日

「日本の歴史家を支持する声明」が公開されて話題となっている。当初は187名の署名だったがその数は増える傾向にあるという報道もある。この内容はかなりイデオロギーの先行するものだと考えて妥当だが、以下はその根拠である。

署名者の中に入江昭ハーバード大学名誉教授の名があるから、その著作『日米関係五十年』を引用する。
「昭和天皇の存在は、変転する日米関係の中にあって一つの継続性を提供したともいえる。天皇の変わり方を通じて、多くのアメリカ人は日本及び日米関係の変化をも理解していたわけである。天皇の変わり方、それは「神」から「人間」へのものであり、また軍国日本の統治者から平和日本の象徴へのものでもあったが、このような変化にアメリカ人が特に関心をそそられるのも、その過程において米国が密接にかかわり合っているからであり、また同時に、現代の日本を理解する上で、天皇制の変容が重要な鍵を与えてくれると考えられているからでもある」

しかし、戦前になぜ天皇が「神」とされたのか。その論理の生成と推進力の分析は何もない。当然のことながら、いわゆる「人間宣言」を読めば、文武天皇即位の宣命などに言及があっておかしくない。

このことは当サイトの「人間宣言」に述べているところである。また、署名人には『暗闘』の著者である長谷川毅の名もみえる。「「現人神」から「人間天皇」への転換は、占領下になってなされたのではなく、降伏決定の過程のなかですでに行われていたのである」

これは昭和天皇について語ったもの。しかし天皇による現人神論の否定は、昭和天皇の独白録(昭和10年)に記されている。降伏云々とは関係がない。この点からも『暗闘』は、やはり歴史ではなく小説の部類と言って妥当だろう。

 

平成27年5月13日

ある本に、歴史学者の三上参次が八紘一宇について異論を述べたとあったので、調べてみた。昭和13年12月教育審議会の席上。

「日本語を研究しつつある所の外国人が曾て私に向って、八紘一宇と云ふことは日本が現在支那大陸に向って取りつつある所の侵略と云ふ文字と似寄ったものであるかと云ふ意味の質問を受けたこともあるのであります」

「私考へますのに、教育に関する勅語の中に「之を古今に通して謬らす之を中外に施して悖らす」ー「之を古今に通して謬らす」と云ふやうな意味の程度ならば洵に結構なことでありますが、此処にありますやうな「八紘一宇の肇国精神を顕現すべき」と云ふことに付きましては稍々どうも穏やかでないのじゃないかと思ふのであります」

「是は唯私の杞憂に過ぎないかも知れませぬけれど、私はこの「八紘一宇の」と云ふ五字を削って、唯「肇国精神」と云ふだけにしまして、其の下を世界に顕現すると云ふやうな趣旨にしますと八紘一宇と云ふ意味は其の中に明白に含まれて居るのでありまして、さうすれば世界の人に向って、日本が或は野心を包蔵して居るのではないかと云ふやうな痛くない腹を探られることがなくて済みはしないかと思はれますので、文字の末ではありますけれども、其のことを一寸一言伺ひ且意見を述べた訳であります」

しかしながら、三上参次の教育勅語解釈は、やはりトンデモ解釈であった。
「此の高崎正風さんの欽定道徳書は之を海外にまで及さなければならぬと云ふ議論は眞に見上げた意見であって、後日 教育勅語に「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と述べられましたのと符節を合はすが如き意見であって、その間八九年の隔たりがありますが、全く同一の趣旨であります」
完全な曲解。

 

平成27年5月10日

長与善郎の『わが心の遍歴』で思い出した。西田幾多郎「世界新秩序の原理」は国策研究会からの要請だったようだが、実は、西田と海軍の高木惣吉が親しかったという事実。

「西園寺さんの無二の忠僕であった原田がその水口屋や大磯の別荘、時には東京の自宅に専吉を招いたことは実にしばしばで、それは(興津の場合を除き)大抵西田幾多郎先生を囲んでその話を聴く会であった。太平洋戦争勃発以来、その会合の機は一層頻々となったが、そこには軍人には異例な西田さんの崇敬者高木惣吉中佐(当時)も殆ど必ず混っていた」

「近衛や木戸も稀に顔を見せることがあったが、近衛の亡くなった妻の母堂は西田先生の旧主、前田家の息女で、その母堂から近衛の帝大在学中、後見をしてくれと先生は頼まれていた関係もあった」

高木惣吉はすでに西田幾多郎の文脈から、それが大東亜共栄圏の思想に合致すると考えていたことは容易に想像できる。要するに識者のいう「西田の迎合」ではないことが、これから判明する。

西田における教育勅語の曲解。それが八紘為宇となり「世界新秩序の原理」とつながっている。この分析は井上毅・元田永孚を解読して初めて実現できる。

 

平成27年5月4日

(長与・6/6)
長与善郎『わが心の遍歴』はその題名のとおり、「心の遍歴」である。ゆえに時代への考察で着目すべき文章は見られない。この時代の作家にしては奇異な感じがする。

「正直な話、専吉(長与善郎)は天皇制の寿命は勿論無窮ではなく、早晩時の問題ではあろうが、それにはそれの機の熟する用意の時間があると思っている」

長与善郎の長兄・称吉は父の専斎の功によって男爵となった。そのことと、上の発言はどんな関係になるだろう。そもそも人間に矛盾はつきものかも知れないが、これを整理した文章は見当たらない。

結局のところ、長与善郎の気分は高等遊民だったのではないか。せっかくの華麗な人脈とは裏腹に、あの時代が何だったのか、一向に語らない。

ただし、安倍能成や和辻哲郎のように、教育勅語を語ってオウンゴールを放ち続けた連中もいるから、事はそう簡単ではない。雑誌「世界」のその後を見れば、同心会も想像がつく。

 

平成27年5月4日

(長与・5/6)
岩波の同心会の席上。和辻哲郎が、「教育勅語には何ら普遍的人倫に抵触する箇所を見出し得ない」という趣旨の発言をした。

これに対し、同感できないとする長与善郎のコメント。「教育勅語は明治天皇の学問思想上の師傳であった元田永孚の造ったもので、明治天皇の親書ではないと聞くが、」として

「なるほど「・・進んで公益を博め世務をひらき、」とか「恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、徳器を成就し・・」とか、一応聞こえのいい徳目の言辞を羅列してはいる」

「しかしその最終目的は「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という天皇家のエゴイズムを暴露することに帰着している」

長与善郎の、この見解の基礎にはいくつかの誤解があると言わざるを得ない。当サイトの主要テーマであるが、彼も教育勅語に徳目しか見ていない。要するに長与善郎も教育勅語を曲解していたという事実を確認できる。

 

平成27年5月4日

(長与・4/6)
戦後、長与善郎は安倍能成に手紙を認めた。「何か日本の柱石とも背骨ろもなる大同団結のようなグループをつくること」が必要と感じたからである・

さまざまあって、集合したのは次の面々であった。志賀直哉・安倍能成・田中耕太郎・和辻哲郎・柳宗悦・谷川徹三・広津和郎・山本有三・加瀬俊一そして児島とあるのは児島喜久雄だろう。

この会は柳によって同心会と名付けられ、出すことになった機関雑誌が岩波書店の「世界」である。昭和21年創刊で、初代の編集長は吉野源三郎。

ところで、学習院にいた長与善郎の人脈は西田幾多郎や鈴木大拙にまで及ぶ。とくに西田との交流が記されているところは興味深い。

さてこの長与が、和辻哲郎の教育勅語観を批判している箇所がある。長与善郎の教育勅語とはどのようなものだったのか。

 

平成27年5月4日

(長与・3/6)
学習院時代の長与善郎と原田熊雄は平気で森鴎外やケーベルを訪問している。その実現は熊雄の人脈でもあったが、善郎の長兄と鴎外はともにドイツへ留学していたから、その縁があったのかもしれない。

さらに彼らの同級生には近衛文麿や木戸幸一がいた。まさしく昭和史の重要人物ばかりである。これらは長与善郎の『わが心の遍歴』に記されている。

興味深いのは尾崎士郎との比較である。尾崎は昭和戦前を振り返って『天皇機関説』を書いた。この事件が当時の日本を狂わせたことを、彼は徹底調査の上、書き残したのである。

しかし『わが心の遍歴』には天皇機関説云々もなければ、憲法が蹂躙された時代への考察も見られない。尾崎より10歳年長の善郎が、当時の政治状況をどう眺めていたのかわからない。

 

平成27年5月4日

(長与・2/6)
長与称吉はドイツで子をなしたが、周囲に反対され手切れ金を渡すこととなった。この役を引き受けたのがドイツにいた後藤新平。父・長与専斎の部下であった。

長与称吉の胃腸病院は繁盛したが、自身は44歳で他界した。このことも漱石の 「思ひ出す事など」に記されている。ただ兄の成功は善郎の生涯にとって大きく幸いした。

学習院に入った長与善郎の同級生には原田熊雄がいた。のちに西園寺公望の私設秘書。彼の『西園寺公と政局』は昭和史の最も貴重な資料の一つである。

原田熊雄の父は地質学者だったが早逝した。その後は叔父・原田直次郎が面倒を見た。直次郎は画家で鴎外とも親交があった。

熊雄の母はドイツ系のハーフ。社交的で熊雄の妹はケーベルにピアノを習っていた。漱石の「ケーベル先生」に出てくる、あの哲学教授・ケーベルである。

 

平成27年5月4日

作家・長与善郎(1888-1961)の教育勅語。
その前に、長与善郎の時代に興味があるので、彼とその周りについて少し書き留める。

(長与・1/6)
長与善郎の父は大村藩出身の長与専斎。長崎市の長与という地名と関係があるかどうかはわからない。専斎は緒方洪庵の適塾に入り、4歳年長の福沢諭吉の後任として塾頭となった。

のちに内務省の衛生局長に登用された。二人は生涯の友となり、専斎は時事新報に諭吉の追悼文を寄せている。善郎はその五男。

夏目漱石が胃潰瘍に苦しみ、入院を繰り返したのは長与胃腸病院。東京のみならず伊豆修善寺の病院でも加療した。その辺りは「思ひ出す事など」に仔細がある。病院長は長与称吉で善郎の長兄。

その称吉は明治17年に医学留学のためドイツへ渡ったが、のち帰国して開業した。同時にドイツ留学をした一人が森林太郎、のちの森鴎外である。

 

平成27年4月28日

昭和63年(1988年)10年19日、明治学院大学森井眞学長は声明を発表した。昭和天皇の御容体悪化に伴い、いわゆる「Xディ」の対応を検討することにした、として三つのことを挙げたのである。

  1. 現天皇個人の思い出を美化することにより、昭和が、天皇の名によって戦われた侵略戦争の時代であったという歴史の事実を、国民が忘れることになるような流れを作ってはならないこと。
  2. 現天皇個人の意志や感情がどうであれ、「天皇制」を絶対化しこれを護持しようとする主張が、どれほど多くの無用な犠牲をうみ惨禍をもたらしたかを、今後いよいよ明らかにせねばならないこと。
  3. 「天皇制」の将来を国民がどう選ぼうと、それが神聖化されてはならないこと、国の体制は人間の精神を抑圧し、思想・信仰・表現・行動等の自由を害うような性格からできるだけ遠いものでなければならないこと。

森井眞学長は東大西洋史学科出身の歴史学者である。その歴史学者にして「侵略戦争」とは、いかにも学問的根拠を欠いていると言わざるを得ない。「侵略戦争」は東京裁判の訴状第5条にあるが、あくまで連合国とくに米国の表現である。

歴史学者であれば、連合国のいう根拠の妥当性を検証するのが義務だろう。もしそれが八紘一宇だとしたらその由来の分析が必要である。しかしこの決めつけでは教育勅語「中外」の解釈を分析するなど、及びもつかないことは明白である。

 

平成27年4月20日

井上毅の「倫理と生理学との関係」の意義について、もう少し説明が必要である。大日本帝国憲法は明治22年2月11日に公布された。これに関連して、「立憲政体は道徳を要せず」との論があったと陸羯南は記している。

羯南は「家庭に私徳なく国又た公徳なし、斯の如くなれば社会の前途甚た憂ふへきにあらすや」として、教育勅語の渙発に際し「敢て皇威を以て徳育の標準を立つるに非るを知る」と述べた。

大日本帝国憲法の第28条はいわゆる「信教の自由」条項である。「君主は臣民の心の自由に干渉しない」が井上毅の姿勢だったから、、倫理一般は「人身の構造の自然」と述べて憲法に抵触しない旨を語ったのである。

陸羯南は「我国固有の主義」と表現しているが、「皇祖皇宗の遺訓」であるから「我が国の歴史」に則った、そう解釈して不自然ではない。哲理哲学の「主義」とは異なるものである。

この当時、世教と世外教、つまり支那の儒道や欧州の哲学は世教であり仏教や基督教などは世外教とされた。これらを基とする複雑な論争を抑制するために、井上毅は「世人が倫理を以て、儒教主義の特産に帰せんとするを笑ふ者なり」として「人身の構造の自然」を記したのである。教育勅語そのものの普遍性とは関係がない。

 

平成27年4月19日

陸羯南は正岡子規が恩人と称した人である。新聞「日本」を発行したことで知られている。その人生は紆余曲折だったが、フランス語を修得していたことで井上毅の目にとまり、彼の下で翻訳などをした。

明治の新聞は、とくに新聞「日本」は当時の状況を正確に伝えて読み応えがある。明治23年の教育勅語渙発に関しては、やはり新聞「日本」がもっとも参考になる。

維新以降の世間を語る陸羯南
「是に於てか国人の心は旧慣新説の間に彷徨し、倫理道徳の燈光皆な疑惑の雲を以て蔽はれ、社会は将に無君無父の暗黒世界に陥らんとす」

さらに羯南は、勅語渙発前の文部大臣・榎本武揚が「徳育の標準は儒教に取るべき旨」を語ったところ、「我国自ら固有の道徳あり」との反論があったことを報じている。

このことがあって、井上毅の「倫理と生理学との関係」の意味が解ってくる。従来はこれが教育勅語の「普遍性」で語られてきた。しかし実は、倫理一般は「人身の構造の自然」を述べて、教育勅語が帝国憲法第28条「信教の自由」に抵触しないと語っていたと考えて、最も妥当性があるということになる。

 

平成27年4月12日

GHQの占領下において、参議院議長だった松平恒雄の参議院葬が実施されたことはすでに述べた。昭和24年11月17日。その後幣原喜重郎の衆議院葬は同26年3月16日に実施された。

参議院葬は平成2年4月27日にも行われている。故人は元日本社会党・小野明参議院副議長。当時の社民党委員長・土井たか子が弔辞を読んでいる。また西岡武夫の参議院葬は平成23年11月25日に行われている。

さてこれらの公葬の会場はどこだったのか。松平恒雄は議長公邸、幣原喜重郎は築地本願寺、小野明も築地本願寺、西岡武夫は青山葬儀所である。

また戦後歴代首相のなかでは、内閣・自由民主党合同葬が6名、内閣・衆議院合同葬が1名となっている。葬儀の会場は日本武道館。「政教分離」の見地から宗教色を排する目的と考えられる。

日本武道館や青山葬儀所はともかく、築地本願寺となれば仏式のイメージは拭えない。しかし憲法違反ではないかとの抗議があったとの資料は見つけられない。靖国問題とは大違いである。

 

平成27年3月28日

西田幾多郎は井上哲次郎に学んだが、和辻哲郎もやはり学んでいる。その和辻の教育勅語解釈。やはり井上哲次郎の域を出ていない。

「教育勅語は第一段において水戸学風の国体の考えを掲げ、第二段において当時の道徳的常識を反映した道徳の教えを説き、第三段においてこの教えが日本の伝統に合するとともに普遍的に通用し得ることを主張したものである」

和辻も第一段の「樹徳深厚」の「徳」を「徳目」と解釈した証拠である。しかしこの「徳」は何回も当サイトで示した通り、「君治の徳」であり「徳目」ではない。これは井上毅の史料に明らかである。

さらに和辻は天皇現御神論者であった(『日本倫理思想史』「下」)。また昭和14年から行われた文部省「聖訓の述義に関する協議会」では、その圧力で議論を打ち切って誤った解釈のままにした。

戦後の和辻哲郎の評価はそう低くない。むしろ高く評価されている。しかし以上のことを考えれば、大正から昭和へかけては、大罪を犯した可能性もある。検証すべき課題ではないだろうか。

 

平成27年3月20日

西田幾多郎の八紘為宇を書いたら、国会で八紘一宇が問題になったとインターネットでみた。奇妙なタイミングだが、この際、徹底的に議論しては如何と思うが、まずないだろう。

ことの発端は三原じゅん子参議院議員の発言のようだが、出典は清水芳太郎『建国』と議員のブログに記されている。さてその清水の『建国の大義』(創生会出版部、昭和11年12月、P22)から。

「日本の国是は皇孫の大理想を弘めることにある。どの程度に弘めるのかと言へば国内はもとよりのこと世界中に弘めねばならぬ。皇孫の大理想を世界中に弘めることが国是である」

(教育勅語)「斯の道は皇祖皇宗の遺訓にして・・、之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」

一目瞭然、この文章の構造は教育勅語の構造である。そして著者も教育勅語を曲解したから「世界中」となったのである。昭和10年の天皇機関説事件そして同11年の2・26事件。同書はそのあとに出版されている。

『建国』は昭和13年の出版であるが、内容はほぼ同じと推測できる。この文章構造はまた西田幾多郎「世界新秩序の原理」とほぼ重なり合う。

 

平成27年3月10日

西田幾多郎は明治3年生まれ。西田が帝国大学文科大学の哲学科に入学したのは明治24年。教授には洋行帰りの井上哲次郎がいた。イノテツは飛ぶ鳥を落す勢いだったと想像できる。

さて、問題は西田幾多郎の文体である。
「皇室を中心としての我国の肇国には、天地開闢即肇国として歴史的世界形成の意義があるのである。故に万世一系、天壌無窮である。神国といふ信念の起る所以である。詔に現人神としての神の言葉を聞くと云ふことができる。そこに理性的に法と道徳とが基礎附けられるのである。八紘為宇の語も、そこから云はれねばならない」昭和十九年二月

西田によれば天皇は現人神である。そうして皇室を中心とした肇国の歴史を持つ我が国は歴史的世界形成へと進む。「皇道を四海に宣布」と同じである。

この文体を解体・分析すれば教育勅語に行き当たる。「肇国樹徳」「国体の精華」そして「斯の道」から「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」がその構造とわかる。

むろん西田の「中外」も井上哲次郎と同様、「国の内外」と曲解していた。この曲解が「世界新秩序の原理」として表現された。文体を分析しない西田論者では、ここを解明できるはずもない。

 

平成27年2月28日

西田幾多郎「世界新秩序の原理」
NHK戦後史証言「日本人は何を考えてきたのか」の「近代の超克」、つまり西田幾多郎編を改めて観た。前半は「純粋経験」などの哲学的内容。いわゆる認識論かと思うが、それ自体でどんな価値があるのかはわからない。

後半は「世界新秩序の原理」である。西田が現実政治に踏み込み、大東亜共栄圏において「日本が盟主」にならねばならぬ、なぜこう説いたのか。西田の本音を追って番組は進行する。

これはたとえば半藤一利・竹内修司・保阪正康・松本健一『戦後日本の独立』などでもテーマになっている。しかし「八紘為宇」になると「これが困るのですよ」(半藤)程度の検証しかない。

「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである」

「万世一系の我国体の精華」「我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居る」ポイントはこれらの文言にある。

 

平成27年2月26日

2・26事件は昭和11年に発生した。その前年にあったのが天皇機関説事件である。その前には5・15事件や統帥権干犯論などがあった。

この昭和戦前を、政治家と軍人、さらに軍を海軍と陸軍、また皇道派と統制派で語る論者が少なくない。しかし結果として有効な分析となっているだろうか。

2・26事件を起こしたのは皇道派であり、これが粛清されて統制派の時代となったという。憲法を停止し、天皇を現御神としその御親政を恃むのが2・26事件首謀者の思想である。

だが結果として2・26事件の後の国体明徴運動、その延長線上に発行された文部省『国体の本義』は皇道派の考え方と変わらない。これはどうしたものか。

林内閣は昭和12年の短命内閣だった。祭政一致内閣を唱えたそうだが―誤解を恐れずに言えば―祭政一致は天皇にしかない。支離滅裂なスローガンだった。いずれにしても皇道派・統制派はたんなる権力争いでしかないだろう。

 

平成27年2月8日

『文藝春秋』2014年10月号に「昭和天皇実録の衝撃」が掲載された。「昭和天皇実録」に関する対談である。その中に興味深い部分があるので引用してみる。半藤は半藤一利氏で保阪は保阪正康氏である。

「天皇機関説排撃は「迷惑」」
半藤 次にテーマになるのは、昭和十年の「天皇機関説」問題ですね。
 天皇自身が機関説に賛同していたというのは、これまでなんとなく又聞きの又聞きのような感じで言われてきましたが、ここにはっきりと、
<すなわち機関説であるとのお考えを示される>(昭和十年三月二十八日)
 と書かれています。これで、史実として確定したと言っていいですね。

保阪 天皇はその根拠として大日本帝国憲法の第一章四条を挙げています。<天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ>という部分が引用されていて、だから機関説でよい、と。これはすごいなあ。

半藤 他にもすごい箇所がありますよ。
<侍従武官長をお召しになり、天皇機関説排撃のために自分が動きのとれないものにされることは迷惑である>(昭和十年三月十一日)
 排撃は「迷惑」とまではっきり言っているんですな(笑)。

昭和天皇が天皇機関説排撃にご不満だったことは、2・26事件の鎮圧で証明される。天皇機関説を擁護した渡辺錠太郎がテロに斃れ、その事件を鎮めたのがその裏付け。側近のメモで「史実として確定」は分析力に欠ける。

少なくとも昭和史を個々人のエピソードから分析するだけでは、憲法や政治スローガンとの関係がわからない。はっきり言えば歴史事実の因果関係がわからない。

 

平成27年1月30日

戦前の我が国には「日本文学報国会」なるものが存在した。昭和17年5月26日の発足。当サイトの「誤解の「あきつみ神」・現人神」には、その中心人物だった情報局文芸課長・井上司朗が登場している。

今回採り上げるのは、「日本文学報国会」の「詩部会」会長だった高村光太郎である。要するに彼が戦時中そして戦後に書いた戦意高揚そして反省の詩についてである。

昭和17年12月「神これを欲したまふ」
神明の気いんうんとして空と海を圧し
ほとほと息づまるばかりの時
かの十二月八日が来たのだ。
天佑を保有したまふ明津御神(あきつみかみ)
神の裔なるわれらをよばせたまふ。
即刻、膨大な一撃二撃は起り
侵略者米英蘭を大東亜の天地から逐(お)ふ。

「終戦」
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに滅亡を免れてゐる
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神にあらずと説かれた。

昭和25年6月「典型」
三代を貫く特殊国の
特殊の倫理に鍛へられて、
内に反逆の鷲の翼を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みづから風切の自力をへし折り、
六十年の鉄の網に蓋はれて、
端坐粛服、
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。

これらを読むと、光太郎の現御神観や教育勅語解釈がほぼ正確に推測できる。戦時中の現御神が国典にある「即位の宣命」の曲解であることを理解せず、三代の倫理とする教育勅語も誤って理解していた。

高村光太郎は、生涯においてこの誤りに気が付かなかった、これが歴史の事実である。

 

平成27年1月7日

新年から始まったNHK大河ドラマ「花燃ゆ」。前宣伝には「新論」が映し出された。正志斎・会沢安(1782-1863)の書である。これは国体・尊王位攘夷を論じた書として知られている。当時出版はされなかったようだが、水面下で読まれたらしい。

ドラマの初回で登場したのが「海防憶測」。古賀とう(人偏に同)庵で古賀精里の子であり古賀謹一郎の父である。井上毅が称賛したことで気になる儒者ではあった。腐儒を腐儒と言えるタイプだったと想像できる。

いずれもかつてこの「異聞草紙」で採り上げたが、「花燃ゆ」からつい思い出した。それにしても「新論」はなかなか話題にならない。もし多く読まれていれば当時の「中外」の用法がわかって興味は増すだろうと思うが、そうはならない。

古賀とう庵であれ会沢安であれ、海外についての知見は素晴らしいものがある。表現にはいろいろあるが、時代を知る最高のテキストを残したというべきだろう。

ところで平田篤胤本は登場するだろうか。本居宣長とはまったく異なる筋の平田本を、ドラマがどう映すのか、興味深い。

 

平成26年12月24日

昭和5年のロンドン軍縮会議におけるテーマは、海軍における補助艦の制限であった。これに対する政府の意思決定を、天皇の大権を犯すものだとしたのが、いわゆる統帥権干犯問題である。

この統帥権は帝国憲法の第十一条にある。「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」。『憲法義解』には「兵馬の権は仍朝廷に在り」として、武門にそれが移り「政綱従て衰へたり」と説明されている。

ただ当時の軍人並びに一部の政治家が、この第十一条を以って、統帥権干犯であると政府を責めたのは、実は第十二条に関係していた。「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」。

美濃部達吉によれば、この第十二条の大権は統帥権の外に在る。ただし「内部的編成に付いては軍令を以て定め得べきこと」としている。また「軍の編成に付ても経費の支出を要する限度に於ては予算を以て議会の協賛を得ることを要するは官制に於けると同じ」と説明している。

つまり大臣(議会)は予算には関与するも、軍令には関与しない、これが両条の存在する根拠だと考えて妥当だろう。むろん第十三条の「条約の締結」も大臣の輔翌によるとされていた。以上から統帥権干犯論は憲法解釈の誤りと判断できるということになる。

 

平成26年12月13日

千葉胤明は高崎正風を師とし、明治・大正・昭和の三代にわたって御歌所に職を奉じた歌人である。およそ教育勅語に触れた著述において、「中外」を正確に用いた人は、この歌人以外見つけられない。

その著『明治天皇御製謹話』から
「斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と、仰せられてあります。『神ながら道をしへぐさ』を皇國に茂らせよと仰せられた聖慮と御同一であると拜するのであります。

「中外」を「皇國」と解釈し、海外には及んでいない。また、同書の「結語」において、「皇軍の威武を中外に宣揚あらせられて・・」と日清日露を語って、これまた正しく「中外」の別用法「国の内外」の意で用いられている。

さらに
國體明徴とは、何か。國體は已に建國の古より明徴して居る。三千年後の今日、今更、これを明徴せねばならぬのだというて、兎や角かしましい問題を起こすのは、『萬邦無比』と稱へ自國の卓絶を賛美してゐる手前、外国人に對しても、今更何の面目がありませう。いかにも心外なことであります。

これは昭和13年出版で、文部省「国体の本義」の翌年である。この確固たる文章にはただただ頭が下がる。国体明徴運動の盛んな時に、その非を説いた千葉胤明は、つくづく真の知識人だったと思う。

 

平成26年12月11日

津地鎮祭訴訟の名古屋高裁。裁判所側の職権で鑑定人となったのが佐藤功と和歌森太郎。具体的な発言の記録は探せないが、判決文からしてその内容が推定できる。ちなみに名古屋高裁は違憲判断だった。

その和歌森太郎。
「だから、その当時、古来の神社神道というものが国家神道化する方向をぐんぐん高めて参りましたが、その国家神道となることと、宮中祭祈が国の祭祈であり、みんながそれぞれの地元々々において紀元節を祝うべき祭であるというふうに広げられてきたのだ、そういうことになる」

以上は昭和32年、紀元節に関する公聴人として国会で述べた一部である。この「国家神道」はいうまでもなくトンデモ国家神道観であり、GHQ神道指令のそれとは関係がない。

その和歌森太郎に『天皇制の歴史心理』がある。昭和48年6月だから、名古屋判決のほぼ2年後の出版である。そしてこの『天皇制の歴史心理』を改めて読むと唖然とする。

「人間宣言」を読み誤り、そしてそもそも国典に天皇=現御神などないのに、平然とそれを語っている。こんな学者が日本史の教科書に深く関与していたのだから、戦後も戦前と変わりなく暗黒の時代だったのではないかと思う。

 

平成26年12月3日

山本夏彦が2・26事件に関連して、渡辺錠太郎が犠牲となったのは天皇機関説を肯定したからだと語ったことは以前書いた。ただそのあとの文章には疑問が残る。

「天皇は君臨すれども統治しない。法人である国家の機関だという説は大正年間は平気で通用していた」「それにしてもなぜ機関などと訳して平気だったのだろう。これが大正デモクラシーなのである」

しかしこの文章は、そもそもが違っている。伊藤博文がこのことを追究し、帝国憲法の基礎としたのが事実である。大正年間云々は無関係である。

「君主は国家に於て卓越の地位を有し且つ国権を掌握せり凡そ君主の有する権利は国有の特権なり又君主は万般の国権を一身に総攬す此原則は旧独逸連邦の法律に於て明言せられ又此法律に基きて起りたる独逸法の大部に於て之を明言せり」

これは尾佐竹猛『明治憲政史の研究』に引用された伊藤博文の文章である。尾佐竹はこれについて、次のように語っている。「この説はどの程度迄伊藤の頭に這入ったかは疑問であるが、兎も角、機関説輸入の最も早き一人として伊藤を数ふることが出来る」

 

平成26年11月24日

山本七平は現人神を語った知識人の一人。しかし結果として現人神が何だったのか、わからないまま生涯を終えた。改めて山本七平『空気の研究』を読むと様々なことが思われる。

今度出版された『戦争責任と靖国問題』から引用する。
「そして天皇とは、教育勅語の発布者すなわち道徳制定者と規定され、日本は「道義国家」であり、これが敷衍されると「道義に基づく大東亜共栄圏」という発想になった」

この山本七平の論調も、当サイト「丸山真男・超国家主義論のカラクリ」に示したものと、ほぼ同じものである。両名とも教育勅語を曲解し、天皇を「道徳制定者」と認識した。

また、山本七平は『空気の研究』において、「人間宣言」では現人神を否定したと語る。しかし詔にあるのは「現御神」である。なぜ現人神ではなく「現御神」だったのか、この検証がない。

つまり、山本七平は国典にある「現御神止」をまったく理解していなかったとわかる。その意味で、戦後の典型的な人文系論者の一人だったと考えて妥当かと思う。

 

平成26年11月22日

『宮本武蔵』の吉川英治は昭和23年の深秋、逃亡中の一人の男に10万円を手渡した。一期一会だったという。懇意の美術商、木村東介の店員で山本なる青年が、ぜひ会っていただきたい者がいると懇願した。

佐藤・軍人・中国・吉川の『三国志』・中国の崩壊等々の言葉から吉川は直感した。
「その佐藤さんとは、もしや、辻正信さんではありませんか」

辻正信は元大本営参謀・陸軍大佐。イギリス軍から戦犯容疑者とされ、逃げ回っていた。ビルマ戦線から昭和20年5月、タイ国駐屯軍参謀となり敗戦。バンコクにある重慶側地下工作本部に飛び込み、さらに南京へ行き、国民政府国防部へ勤務した。そして昭和23年5月、大学教授に変身して佐世保に帰国した。

吉川を描いた『吉川英治』の著者・松本昭は、それは東京裁判への回答であり、「それに英治は、辻の人物と憂国の情熱に惚れたようだ」と記している。左・右に関係なく援助した吉川英治だったらしいが、辻正信への10万円は、辻のなした罪からすれば異常だと思う。

辻正信はノモンハンで服部卓四郎などと強硬策を推進し、対米開戦を煽った参謀の一人である。作戦の起案権は行使するが、責任は取らない。その典型のような軍人。だれか吉川英治の本音を解明してくれないものか。

 

平成26年11月18日

「知識人の怠慢(1)」を掲載しました。今回は今年11月11日の産経ニュース「日本は謝り続けないといけないのでしょうか? 内田樹の「ぽかぽか相談室」」が対象です。

 

平成26年11月6日

唐が崩壊して五代十国時代を経て宋の時代となった。この封建社会の安定には儒教が必要だった。インドでは絶望的なカーストに至る風土から「現世離脱」や「浄土思想」として諦観を基礎とする仏教が生まれたといわれている。これに対し中国は積極的に身分社会を肯定した。こう考えていいかもしれない。

戦国時代を経て初期の江戸時代。やはり封建社会を肯定する儒教が尊ばれたのは当然だろう。初期の儒者は林羅山が知られている。しかしその後半生は朱子学に没頭した。要するに際限のない理念の世界に入り込んだのである。

やがて羅山の没後、若い頃師事したこともある山鹿素行は『聖教要録』でいわゆる「腐儒」を批判した。孔子に戻れ、ということだろう。そして赤穂に追放された。そこで自分と国家を「日本書紀」から見直したのが『中朝事実』。「中朝」はわが日本である。

むろんあくまで儒者としての「日本書紀」解釈だから、この点で本居宣長とは一線を画す。本居宣長に素行は出てこないが、歴史法学的立場で国典を解釈した宣長と、儒教的な解釈をした素行では根本が異なっている。

山鹿素行の『配所残筆』は、よく読むと林羅山とその弟子たちへの批判でもある。山鹿素行はたしかに羅山を超えた。幕末には陽明学が流行したから、素行には早すぎた時代だったのかもしれない。

 

平成26年10月16日

木村篤太郎は司法大臣・法務大臣だった人である。保安庁長官・防衛庁長官にも任ぜられた。その1954年。おそらくは防衛庁長官としてだと思うが、意外な答弁をしたことがある。

GHQ日本占領を経て1952年発効のサンフランシスコ講和条約。この講和条約に(米国の)駐留条項がある。日本の集団的自衛権にも触れている。そして1954年のMSA協定。これは相互防衛援助協定であり日本の防衛力見直しであった。

この集団的自衛権の行使について、「日本の自衛隊は、海外に派遣するというようなことは、任務、性格になっていないということを申し上げたい」と答弁したのである。自衛隊法が国際条約(協定)に優先するということだろうか。

国際条約や協定は憲法に違反しない範囲で締結される。ゆえにこの場合は、憲法>国際条約(協定)>法律が妥当なのではないか。そうでなければ双務協定にはならず、片務協定となり「相互」の名に値しないことになるだろう。

これらの政府答弁が積み重なって、今日の複雑な解釈となったと考えて概ね妥当である。要するに、当時の状況では歪な解釈もやむを得なかったということである。

 

平成26年10月9日

「阿衡事件・あこうじけん」は宇多天皇と藤原基経の間に発生した関白の職掌をめぐる事件である。887年から888年。この事件で菅原道真が登用されることになったとする説がある。理由は「昭宣公に奉る書」で、昭宣公は基経である。

菅原道真の件には「十訓抄」も関係していると考えられる。これはもう一人の当事者である橘広相と道真の関係を記したもので、直接には道真の登用に言及していないが、最後にある道真の夢が誤解された可能性がある。

「十訓抄」は鎌倉時代の作とされているが、仁和年間に起きたこの事件を貞観年間としているほどだから、その信憑性には問題がある。そして『江記』なども平安時代に記された重要な記録ではあるが、同様に慎重な検証が必要である。

たとえば冷泉天皇に関するエピソードがある。御能を病んでいたとされる天皇について、100年後に記された同書の内容はあくまで伝聞である。むろん語り手は当時の生存者であるはずがない。つまりは噂の域を出ないということである。

『古事談』『続古事談』『江談抄』などにもこの手の話が少なくないようだ。やはり説話文学の一つとして捉えるのが妥当だろう。また『中外抄』は宮廷の内外のことを記したものだが、外記の中原師元から「中外」との名称になったと解説する研究者も信頼できない。

 

平成26年10月2日

伊藤正己は最高裁の判事であった。1917年に生まれ2010年に没している。38歳で東京大学法学部教授だから、余程の秀才だったのだろう。その後、最高裁の判事を10年務めた。

伊藤正己は英米法の専門家で、「法の支配」を理解した学者としてその名が知られている。「いうまでもなく、「法の支配」の核心は、公権力が法によって規制されること(「国王も神と法の下にある」という中世的表現が重いおこされる)にあるのであり、そのことが司法審査制を支える役割と結びつくのである」

そして「残念ながら最高裁の裁判官の意識のうちでもこの「法の支配」の意義が十分に認識されず、和の精神が違憲審査の活用を弱めるのを阻止するだけの力をもつことができないように思われる」とも語っている。たしかに実態ではあるだろう。

ただ最高裁判事としての「自衛官合祀訴訟」における「少数意見」(反対意見)はお粗末すぎる。この裁判は合憲とされたが、伊藤正己はただ一人違憲を主張した。しかしその事実認定は津地鎮祭訴訟などの誤ったものを基礎にしているのである。

「法の支配」について、その解釈は試験だと高得点だろう。しかし憲法第20条の解釈においては、その由来を検証することもなく、杜撰な意見を述べていたというのが実際のところである。

 

平成26年9月22日

首相の靖国神社参拝をめぐって、いまなお提訴が跡を絶たない。毎日新聞の2014年9月18日版から。

「安倍晋三首相の昨年12月の靖国神社参拝で憲法が保障する平和的生存権を侵害されたとして、市民ら222人が18日、安倍首相と国、靖国神社を相手取り、参拝差し止めや1人当たり1万円の賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。大阪地裁では今年4月に続く2次提訴で、原告は768人になった。」

しかし被告となる安倍首相や国に有効な反論は期待できない。当サイトにあるように、靖国判決は欺瞞に満ちている。これを覆す確実な証拠文献があっても、被告側は関心を示さない。

もし本当に靖国問題を解決しようとするなら、当サイト「靖国判決の欺瞞」や「国家神道」が参考になる。しかし未だ「藁をもつかむ」状況にないといういことなのか、この方面の研究は進まない。

おそらく判決は合憲で、傍論のようなもので首相の靖国参拝否定論が付くだろう。怠惰な戦後日本の象徴となる判決はまだまだ続きそうだと言える。

 

平成26年9月8日

平城京への遷都は710年。その前は藤原京だったが、その規模は平城京に劣らないものであった。したがって平城京遷都の理由は土地の広さではない。

『続日本紀』には様々記されているが、「王公大臣咸言」とある。「咸」は「みな・すべて」であるが、ことに藤原不比等の思いが強かったことは間違いないだろう。

平城京遷都を実施したのは元明天皇。その先代は子の文武天皇。藤原不比等はその妃である宮子の父。つまり後の聖武天皇の外祖父である。

ところで「平城遷都の詔」に「必未遑也」がある。「きっとてんてこまいとなるだろう」との意味である。「未必遑也」なら「必ずしも余裕はない」の部分否定となる。

柳町達也『漢文読解辞典』はこの「必未・・」と「未必」はカナラズシモ区別できないと説いた。しかしすぐに西田太一郎『漢文の語法』で批判された。いづれも角川小辞典として出版された。

 

平成26年9月2日

戦後の昭和史は丸山真男「超国家主義の論理と心理」から始まったと言ってもいい。要するに何の分析もなく、ただただ神道指令に副って状況を述べるのみ。新聞記事の羅列に近い。

そのことは三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』および中川八洋『山本五十六の大罪』などを除いて、今日までそう変わりないようだ。

そして海外とくに米国の「昭和史」も例外ではない。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』あるいはハーバート・ビックス『昭和天皇』などがその典型である。

GHQ占領期の前後を描いて、およそ新聞記事に有り余るエピソードを盛り込んだこれらの著作は、読者をなんとなく納得させる。

しかしよく読むと、昭和日本の精神史を論じているようで、実はその時代の論理の生成とその推進力については何も教えてくれない。いづれも非学術的というべき著作である。

 

平成26年8月28日

東京裁判に関する書籍で比較的読みやすく解かりやすいものでは、清瀬一郎『秘録 東京裁判』菅原裕『東京裁判の正体』がある。前者はこの裁判の管轄権で歴史に残る名言を残している。また後者は荒木貞夫の弁護人で清瀬一郎らとともに、八紘一宇を説明した。

両者ともその著作において、八紘一宇の正しい意味を裁判官に認めさせたと記している。そこで判決文を眺めてみる。

「八紘一宇は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であった。これらの二つの理念は、明治維新の後に、再び皇室と結びつけられた。1871年に発布された勅語のなかで、明治天皇はこれらの理念を宣言した。その当時にこれらの理念は、国家組織の結集点を表現したものであり、また日本国民の愛国心への呼びかけともなった(判決B部第4章軍部による日本の支配と戦争準備序論)」

つまり明治における八紘一宇は語られているが、昭和戦前のそれには触れていないことがわかる。おそらく八紘一宇は神道指令で禁止済みゆえ、無用な議論を避けたと考えて妥当なのではないか。

八紘一宇→世界征服思想→日本の侵略戦争。こう連合国なかでも米国が考えたことはヒュー・バイアスやグルーの言説に明らかである。やはり教育勅語の曲解を推進力とした八紘一宇は検証対象である。

 

平成26年8月22日

大東亜戦争時のスローガンに「八紘一宇」がある。神武天皇即位前紀にある「みことのり」の「掩八紘而爲宇」からとったものである。全土をまとめて一つの家としよう、という意味となる。

政府の公式発言に見られるのは昭和15年、第二次近衛内閣の「基本国策要綱」。「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ」

対米開戦直後の米国における日本・日本人観にこの「八紘一宇」は外せない。ヒュー・バイアスなどは戦争の要因が経済にあるのではなく、軍部の欲望だと考えていた。それで「皇道」「八紘一宇」にたいする批判がある。

戦後の我が国において、この「八紘一宇」を徹底検証したものは見当たらない。せいぜいが田中智学の造語で、道徳的なものだという評価である。

しかし田中智学の『勅語玄義』を読むと、「之を中外に施して悖らず」を曲解していたことがわかる。これがエンジンとなって「八紘一宇」に推進力が付いた。この分析があってはじめて「八紘一宇」が解明できる。

 

平成26年8月18日

ドイツと日本はともに第二次大戦において敗戦国となった。連合国はそれぞれ、いわゆるニュルンベルク裁判と東京裁判を行った。二つの裁判にはたしかに相違点があるようだ。

ヤスパースはドイツの哲学者であるが、『戦争の罪を問う』を著して我が国にも大きな影響を与えている。彼によれば、罪はあくまで個人が負うもので、集団の罪はあり得ないということである。

つまり問題としたのは「ナチスの犯罪」である。これは集団が罪を負うべきでなく、個人がその罪を負うべきだとする考えである。ただし国民は政治的な責任を負う。要するに金銭的賠償の責である。

一方東京裁判では、国際法上の一般的な戦争犯罪はあっても、ナチスのような「犯罪」は見当たらない。そうすると裁判を含めて、GHQ日本占領で裁きたかったものは何か、ということになる。

結論からすると思想の問題ではないかと思う。当時は国際法上の侵略という定義はない。したがって日本の侵略戦争思想、これが問題だったのではないか。精神的武装解除が日本にのみ言われたのも、これで納得する。ただその思想も、八紘一宇などのスローガンだろう。むろんエンジンは教育勅語の曲解である。

 

平成26年8月15日

対米開戦後、米国で出版された日本関連書には共通点がある。①天皇は神道の「神」とされている ②その「神」は八紘一宇の基礎である神勅の具現者である ③またその勅語は全世界を支配する使命を意味している。

ヒュー・バイアスは広く民間の著作から、以上のようなことを論じていた。それに対しホルトムは学者・官僚(軍人)・政治家の著述を参考にしているが、文部省『国体の本義』と教育勅語を重要視している。いわば国家の表現である。

ここで改めてGHQの日本占領を考えてみる。占領直後の指令・政策で重要なのは人権指令・神道指令・「人間宣言」・公職追放令である。米国の日本に対する認識と最も深く関連している。

国家と神道の分離が神道指令。「人間宣言」は天皇の神格化を否定したとされている。公職追放令はポツダム宣言「世界征服の挙に出づるの過誤」をなさしめた者の排除である。

これで日米対戦中に米国人が考えていた日本への懸念は払拭できる。あとはその細目となる。日本軍は解体されていたから、この「精神的武装解除」こそGHQの占領目標だったとして妥当性がある。我が国ではなぜかこの比較研究・分析が見られない。

 

平成26年8月13日

ジョセフ・グルーの1943年シカゴ演説。この後半にはヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』、ヒルズ・ローリィ『帝国日本陸軍』から多くが引用されている。それぞれ1942年と1943年の出版である。

彼らは日本に永く住み、昭和戦前をかなり詳細に調査・分析していた。サンソムを含め、グルーが彼らと日本に対する見解を共有していたからこその引用である。

そこで各人が日本の宗教、とくに神道についてどんな発言をしたか、調べてみる必要がある。神道指令では国家神道を特定しているが、この用語を用いたホルトムの『日本と天皇と神道』は1943年の出版。

ポツダム宣言の草稿は1945年5月であるが、これに関係したドーマンのコメントに国家神道がある。グルーらは古来の神道と「偽造の神道」を区別していた。ただし国家神道なる用語は用いていない。

そうなると、やはりドーマンがホルトムを読んでいた可能性はかなり高い。1945年9月、つまり神道指令以前のレポート(ファー)にも国家神道があるから、ホルトムはかなり知られていたと考えていいようだ。

 

平成26年8月10日

対米開戦前までの駐日米国大使ジョセフ・グルー。のちに三枝茂智をして「海外の清麻呂」と言わせしめたほどの知日家・親日家であった。たしかに彼らが起草したとされているポツダム宣言がそれを証明している。

ところで1943年12月29日、グルーはシカゴで演説を行っている。国会図書館のサイトにある説明を抜粋すると、以下のようなことである。

「日本の軍国主義は徹底的に罰しなければならないが、戦後改革の際には、偏見を捨て日本の再建と国際復帰を助けるべきだと主張した。そして、天皇を含む日本国民を軍部と区別すべきことを強調し、具体例を挙げて、日本人の多くが友好的であり「羊のように従順」であることを論じた。またグルーは、神道は軍国主義者によって教条的に利用されたが、天皇崇拝という面は平和国家再建のために利用できると主張した」

原文には、faked religion(偽造の宗教)そして fraudulent Constitution(詐欺の憲法)がある。いづれも Hugh Byas からの引用である。グルーはバイアスのほかにジョージ・サンソムやヒルズ・ロリーらも引用している。みな滞日が長く日本に関する知識に富んだ人たちだった。

グルーの演説には日本の world conquest がある。これはポ宣言第6項と同じ言葉である。やはり天皇・カルトとしの神道そして八紘一宇・教育勅語の「中外」を考えないわけにはいかない。

 

平成26年8月8日

いわゆる「人間宣言」についての著作は数多ある。代表的なものは平川祐弘『平和の海と戦いの海 : 二・二六事件から「人間宣言」まで』、児島襄『昭和天皇 戦後 「人間宣言」』などである。

このほか、保阪正康「ナショナリズムの昭和」―『国体の本義』という仮面―がある。しかしながらこれらの著作から「人間宣言」の意味を理解することは不可能である。著作のほとんどは、詔書の渙発に至る経緯を語っているのみだからである。

平川祐弘本と児島襄本の類は「人間宣言」の内容そのものに関心を示さない。その渙発経緯を詳細に記すだけである。我が国における昭和史本の典型。

当サイトの「人間宣言」に述べた通りだが、古い宣命にある「現御神止」の解説を欠くものは、その真意を説明できない。これは木下道雄「昭和21年元旦の詔書について」を読めば明らかとなる。

やはり本居宣長・井上毅(そして小中村義象)・木下道雄は歴史上まれにみる碩学であった。彼らほど国典を正しく理解した臣下はいないのではないか。

 

平成26年8月1日

ロバート・O・バーロウ『神国日本への挑戦』の原著は『SHINTO』である。昭和20年10月の出版だから神道指令の二か月前。書き出しのタイトルは「連合軍が戦ったのはシントウである」となっている。

「この理念こそ日本の侵略的軍国主義を育て、日本の国土と国民、そしてその統治者は神聖であり、日本の使命は世界を征服し、世界のすべての国民は絶対不可侵の神聖なる天皇に服従すべきであると説く、神道の考え方なのである」

神道指令とほぼ同じ文言である。ホルトムの著作に加え、バーロウもGHQのスタッフに読まれていた可能性は否定できない。

ホルトムやバーロウから加藤玄智や井上哲次郎そして田中智学らを分析すれば、やはり教育勅語の曲解にたどりつく。この中間にあるのが、GHQのバンスやダイクらのコメントである。バーロウは意外にストレートで貴重な史料である。

 

平成26年7月24日

我が国が侵略戦争をしたか否か。侵略国家であったか否かが論争の対象となる。日本共産党のサイトには以下の文章が掲載されていて、興味深い。

ポツダム宣言「第2次世界大戦末期の1945年、米・英・ソ・中の四国が署名し、日本に無条件降伏を要求した共同宣言。13項目からなり、日本軍国主義の一掃、戦犯の処罰、侵略した領土の放棄、基本的人権の尊重など平和的、民主的な日本の建設を要求しました。また、日本の戦争が「世界征服の挙」つまり侵略戦争だったことを明確にしています」

やはり「世界征服の挙」がその根拠とわかる。むろん日本共産党をはじめ、わが国では当サイトの管理人を除き、誰一人この真意を解明していない。要するに鵜呑みをしてきただけのことである。

日本は侵略国家ではないとする立場、侵略国家だとする立場。いずれも歴史的検証に堪えられない。ゆえに文学的な感想文のやり取りだと断言できる。

この「世界征服の挙」は遡って仁明天皇紀までの調査が必要となる。詔勅は有効でないとした日本国憲法。今後この解明がなされるかどうか、はなはだ心もとない。

 

平成26年7月23日

D・C・ホルトムは戦前我が国にいた宗教研究者。GHQにも関与したが体調が芳しくなく、来日はしなかったが、彼が著した『日本と天皇と神道』はGHQの占領政策を分析するうえで欠かせない一級資料である。

邦訳は昭和25年で、米国では同18年に出版されている。邦訳の第7・8章は戦後に追加されたものだが、当サイトで主張しているように、教育勅語の誤解がそのまま反映されている。

いま改訂版の邦訳にある「序」を改めて眺めてみる。

「日本の征服の宗教は一九四五年十二月十五日をもつて終わりを告げた」

この文章からは以下のような連想が可能となる。「征服の宗教」→「国家神道」→「教育勅語という聖典」→「神道指令による国家と神道の分離」→「聖典としての教育勅語の排除」

しかしこの連想のポイントは教育勅語の曲解である。日米両国においてこれが理解されなかったので、この一級資料も残念ながら生かされていないと思う。

 

平成26年7月21日

舎人親王は「日本書紀」の編纂に深く関与した天武天皇の皇子。また後に淳仁天皇として即位した大炊王の父である。その淳仁天皇が即位して約十か月後、太皇太后である藤原光明子から命を賜った。

つまり「兄弟姉妹を悉く親王と称せよ」とのことである。その後の叙位を読むと親王・内親王があって、これが実現されたと確認できる。兄弟は親王で姉妹は内親王である。

舎人親王はまた崇道尽敬皇帝と追号された。いわば擬制的な天皇である。これで淳仁天皇の兄弟姉妹は「天皇(崇道尽敬皇帝)」の皇子・皇女となり、親王・内親王のかたちが整う。

同様に施基親王も春日宮御宇天皇と追号された。光仁天皇の父で天智天皇の皇子である。これで光仁天皇の兄弟姉妹も同様に親王・内親王と称されたのである。

以上のことは「継嗣令」の「註」「女帝子亦同」が「ひめみこも帝の子はまた同じ」とする解釈の裏付けとなる。「女帝の子」とは関係がない。この薗田守良「新釈令義解」の解釈は史実と整合性がある。

 

平成26年7月6日

直木孝次郎『難波宮の歴史と保存』に興味深い記述がある。都の門について。「難波宮の中外門は、大切な楯槍を立てる所ですから、朱雀門(外門)の中の門と考えられます。外門の中だから中外門です。中門の外側の門と解してよい」

この「中外門」は『続日本紀』の天平十六年三月十一日条にある、「石上、榎井の二氏、大いなる楯槍を難波宮の中外門に樹つ」のそれである。おそらく六国史での「中外門」はここだけだろう、他には見つけられない。

しかしこの見解は如何なものかと思う。「中外門」があるとされているのは、大極殿と朝堂院の間である。大極殿では儀式が行われ、朝堂院は天皇が政務を執るところである。機能で区別すれば宮中と外朝と言ってもよい。

『管子』には「中外不通」という言葉が出てくる。後宮(の女性)と外朝(の男性)が秩序を乱さないように、その交わりを禁止したのが「中外不通」である。「中外」は「宮廷の内と外」である。

結局この「中外門」は「外門の中だから中外門」なのではなく、「宮廷の内外」を分ける門と考えて妥当である。

 

平成26年6月30日

柳田国男が教育勅語を批判したことはよく知られている。ただよく読まないと、その理由はわからない。

「私もあの当時、教育勅語の批判がましいことをいって一時右系の者から狙われたことがありましたが、あまりに表に現れてゐる道徳律に捉われすぎて、あれだけでは足りません。公徳心、公衆道徳というものが書いてありません。愛国ということはあるけれども愛村、愛県、愛地方というものがないし、一般に人に対する態度というようなものが出ておりません」

「天皇陛下については余りはっきりいいたくないのだけれども、私としては勤皇心を持っております。如何なる場合でも陛下に忠実であるべきだと思っております」

明治維新があって廃藩置県があり、天皇と臣民の関係について新たな確認が必要だった。教育勅語は三一五字のエッセンスだから、たしかに中間組織の役割は語られていない。

柳田国男は、教育勅語を補完するものが必要だと言ったなら、無用な軋轢を招かなかったのではないか。中間組織の話は、教育勅語の再解釈といわれた文部省「国体の本義」などと違って正しい見解である。

 

平成26年6月20日

日本国憲法への批判は戦後間もなくからあったようだ。井上孚麿や三枝茂智らのそれは現在でも容易に読むことができる。ただ彼らの戦前における言説や行動も同時に検証する必要がある。

井上孚麿には「ポツダム宣言に所謂デモクラシーと憲法・國體」がある。「所謂」は「謂う所の」であり、『現代神道研究集成 九』に収載されている。やや観念的なところもあるが、見逃せない文章もたしかに記されている。

「国際関係に於ては、軍国主義を否定し、平和愛好国家たらしめるのが、ポツダム宣言の要求であるが、この平和愛好といふことこそは、万世一系一貫不変の最も顕著なる聖旨である。所謂軍国主義とか侵略主義とかの傾向は、この聖旨が閑却され、奉体せられざる場合に起りうべき逸脱に外ならぬ」

軍国主義や侵略主義は聖旨が閑却されたことが原因、との見解である。しかしここに至るまでには天皇機関説排撃運動があり二・二六事件があった。昭和戦前の憲法蹂躙時代とも言える。

その天皇機関説を排撃し、帝国憲法に背き昭和天皇を悩ました一人が井上孚麿だった。それは彼の『所謂天皇機関説に就いて』に明らかである。そしてその後、彼自身の昭和戦前を反省した著作は見当たらないのである。

 

平成26年6月5日

GHQの宗教政策を知るための著作。D・C・ホルトムの『日本と天皇と神道』、R・P・ウッダード『天皇と神道』そしてロバート・O・バーロウ『神国日本への挑戦』がある。

『日本と天皇と神道』の原題は『Modern Japan and Shinto Nationalism』で初版は昭和18年。『天皇と神道』は同47年の出版で邦訳は同63年。バーロウの著作は平成2年に邦訳が出た。

GHQの宗教や教育関係のスタッフがホルトムを熟読していたことは、マーク・T・オアらの記録に明らかである。そしてホルトムは日本にいたから日本人学者の影響が大きい。

つまり加藤玄智らの引用の多いのがホルトムである。結果から言うと誤った(国家)神道観や教育勅語観はここに原因がある。また主として明治以降の詔勅解釈の誤りもそっくり引き継いでいる。

ところでバーロウはほぼホルトムの受け売りだと考えていたが、彼の原著『Shinto』は昭和20年。そうすると米国における一般的な神道観の形成にバーロウも一役買っていたことになる。ならば再読もある。

 

平成26年5月28日

南北朝正閏論争。南朝の重臣だった北畠親房の『神皇正統記』はむろん南朝正統論。そののち朝廷は統一されて後小松天皇の時代となった。そして『本朝皇胤紹運録』が編纂された。

後小松天皇は北朝の系統で、『本朝皇胤紹運録』も北朝を正統とした。ところが『大日本史』によって南朝正統論が唱えられた。明治の『纂輯御系図』はそれを踏襲したといってよいだろう。

ただし安政二年と明記された孝明天皇の宸筆には第122代とあって、これは『本朝皇胤紹運録』に遵った表記と確認できる。この安政2年から明治10年の間に様々な議論があって南朝の正統が定まったようだ。

以上のように史実を基礎とするかイデオロギーを基礎とするかで、南北朝正閏論は複雑となった。伊藤博文『皇室典範義解』では南北朝を「変運」と記しているが、「不幸」「不運」あるいは「異常」という意味だろうか。

実は江戸時代に『太平記』が流行って以降、楠正成の評価が一変し、正親町天皇は請われて朝敵赦免の綸旨を賜ったという。尊皇心に限れば楠正成をいつまでも朝敵とできない時代の雰囲気があったのかもしれない。

 

平成26年5月25日

井上孚麿・三枝茂智そして菅原裕らは戦後に日本国憲法を否定したことで知られている。なかでも三枝茂智『真説・新憲法制定の由来』などは、ポツダム宣言 と新憲法の関係を分析して読み応えがある。

ただこれらの著作がなぜ高い評価を受けず、憲法論議に反映されなかったのかという疑問が残る。少なくともポツダム宣言の「世界征服」が何を意味しているか、 解明されなかった事実をみると、高い評価も論議への反映もなかったと判断できる。

元東京弁護士会の会長だった菅原裕についはよくわからないが、昭和16年井上孚麿『新体制憲法観』では天皇機関説を否定し、天皇御親政論を展開している。 要するに帝国憲法を蹂躙した側に立っていたと言える。

また三枝茂智はコミュニストと言われている海軍少将・高木惣吉のブレーンだった。第二昭和研究会とも称されたブレーン・トラストの外交懇談会や総合研究会 に属していた。ブレーン全体のメンバーをみると、かなり「赤い」のは事実である。

結局のところ、井上孚麿や三枝茂智らの意義ある日本国憲法批判が主流にならなかったのは、彼らが自らの戦前を文字通り総括しなかったことに原因があったの ではないかと思う。日本国憲法の否定、それとともに昭和戦前の憲法蹂躙時代を否定しなければやはり主流とは成り得ないだろう。

 

平成26年5月22日

案の定『明治天皇紀』を読むと、明治44年勅裁の内容は明治10年『纂輯御系図』と同じであることがわかる。南朝を正統とし北朝は歴代に入れず、それゆえ明治天皇は第121代ということである。

むろん、北朝の天皇にたいする尊号・御陵・御祭祀は従前どおりとされた。実はここに至るまでのエピソードがいくつか残されている。最初は衆議院の藤沢元造議員による文部省への質問書であった。

尋常小学校用日本歴史に「両皇統の御争いとなり」と云えるごときの文句を見聞したというのである。これは文部省の喜田貞吉博士による講演のなかに、北朝正統論とも目すべき内容があったからである。

そして南朝の正統を主張する有志が枢密院議長山県有朋に訴え、山県が陸軍大臣寺内正毅や内大臣平田東助を巻き込み、最終的に明治44年2月27日の閣議決定に至っている。

翌28日、内閣総理大臣桂太郎は天皇に拝謁し、南朝の正統そして長慶天皇については「他日御在位の事実判明の場合」歴代に加えることを奏上した。勅裁の真意は、宮中における北朝は従前通り、ということから考えてみる必要がある。

 

平成26年5月20日

大正15年の摂政宮(のちの昭和天皇)による「みことのり」で長慶天皇は歴代に列せられることとなった。第98代の天皇である。ただ明治41年に出版された『歴代詔勅全集』掲載の「歴代天皇継承表」ではすでに長慶天皇は第98代とされている。

同書の発行所は大日本皇道館事務所。一部民間団体の間においては、長慶天皇の即位は確実とされていたのかもしれない。これらの議論があって、大正15の「みことのり」に及んだと推測される。

明治43年出版の『歴朝詔勅集』は帝国皇学会事務所の発行であるが、ここの「表」は大日本皇道館事務所のものと同じだから引用だろう。ゆえに明治天皇は第122代である。

南北正閏論があって、その後明治44年、天皇によって南朝が正統とされたといわれているが、本当のところはまだわからない。それなら明治10年にまとめられ翌年発行された元老院『纂輯御系図』と変わらないからである。

確認はできていないが、要するに明治44年の天皇はこの『纂輯御系図』を再確認されたと考えていいのではないか。大正15年までは明治天皇は第121代だったとして整合性がある。

 

平成26年5月17日

今上陛下は第125代。そうすると昭和天皇・大正天皇と遡れば大正天皇は第123代となる。しかし大正15年10月21日に長慶天皇が歴代に列せられるまで、大正天皇は第122代だったのである。

では明治天皇はどうだったのか。ご在位中の当初は第121代で大正15年から第122代で間違いはないが、実はやや複雑である。明治天皇の先帝・孝明天皇にご自身を第122代と記された安政2年の書があるという。

ならば明治天皇は第123代となるが、明治3年、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇が歴代とされた。さらに明治10年、元老院は北朝を歴代から除いて、明治天皇は第121代となったのである。

南北朝については諸説あって、いわゆる南北朝正閏論が盛んとなった。閏はプラスαというような意味である。潤に字が似ていることから「うるう」とも読まれる。

皇統譜に加えて三種の神器などの継承、あるいは南朝のこれまた御親政論も絡んで話はややこしい。北朝5代を加えれば、重祚の二方(皇極・斉明、孝謙・称徳各天皇)を考慮して、128名の天皇ということになる。

 

平成26年5月10日

1948年10月7日、米国家安全保障会議が採択した「アメリカの対日政策に関する勧告」。これ以降GHQの日本占領は緩和の方向へ向かった。歴史の事実からしても、たしかに勧告が実現されたと言っていいだろう。

米ソ冷戦の本格化が占領方針の緩和の要因だといわれている。また敗戦国への過度な援助から、米国民にとっては日本の自立が彼らの利益となることもあったのかもしれない。

そこで故松平恒雄参議院議長の公葬である。被占領下の昭和24年(1949年)に行われたこの公葬は、勧告と関係があるのかどうか。

それにはGHQが実施した占領初期から昭和23年夏までの主な政策をみる必要がある。昭和20年10月の人権指令をはじめとして神道指令・公職追放令・新憲法発布そして同23年6月19日に決議された教育勅語の排除。

これらに共通しているのは、ポツダム宣言第6項の実現であり「世界征服(world conquest)思想の排除」である。一連の精神的武装解除の基礎ができた。GHQがそう考えたゆえ公葬のお咎めがなかった、こう考えて歴史の事実と矛盾しない。

 

平成26年5月8日

菅原道真は大宰府の権の帥として左遷され、延喜3年(903年)現地で他界した。「権」とは「仮の」という意味で皇族が太宰帥の場合、権の帥が長官代理として実務を担ったのである。

ところで延喜23年(923年)、醍醐天皇は故菅原道真に正二位を追贈してその霊を慰めた。これを策命(さくみょう)という。古くは文徳天皇による藤原豊成への、明治天皇時代には楠正成への策命がある。

この策命によって、例えば道真が大府の権の帥として左遷を命ぜられた際の詔勅(この場合は宣命)は、焼却の命が下されている。「みことのり」で焼却を命じているのである。

列聖全集編纂会による大正5年『列聖全集』、昭和13年辻善之助監修森末義彰・岡山泰四編『歴代詔勅集』にはこの道真左遷の宣命が収載されている。「政事要略」の「年中行事二十二」に掲載があったからと思われる。

しかしこれに森清人が憤慨した。焼却すべき詔勅の掲載は詔命による焼却廃棄に悖るというのがその理由。たしかに藤原豊成左遷の詔勅は『続日本紀』に掲載がない。ただ森清人の憤慨は学問研究と尊皇心の混同とも言えないこともない。

 

平成26年4月30日

GHQの占領下において、内務文部次官名による「公葬禁止」の通達が出されたのは、昭和21年11月1日であった。 政教分離の見地から、というのがその理由とされていた。

しかしその通達が有効な被占領下において、参議院による公葬が行われていたのである。昭和24年11月17日に行われた葬儀の様子が当時の新聞にある。

「前参議院議長故松平恒雄氏の参議院葬は十七日午後一時、千代田区紀尾井町の参議院議長公邸で神式により悲しみの中にも厳かに行われた」

さらに「前衆議院議長故幣原喜重郎氏の衆議院葬は16日午後一時から築地の西本願寺で行われた」とあり、これは昭和26年3月のことである。

松平参議院議長の葬儀には英国大使、中国大使、カナダ公使そしてGHQからはホイットニー民政局長とウィリアムス国会課長らの花輪が飾られていたと新聞にある。被占領下なのに。

 

平成26年4月20日

養老令の継嗣令については当サイト「皇位継承論を読む―継嗣令の解釈」に述べた。ところで平成17年の皇室典範有識者会議の報告書からは、さらに以下のようなことがわかる。

現行皇室典範第7条「王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする。」この条文は旧皇室典範からのものである。

旧皇室典範第32条「天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王内親王ノ号ヲ宣賜ス」支系だから王が即位されればその兄弟姉妹はそれぞれ親王・内親王になるということである。

さらにこれは継嗣令「凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同)」からのものである。そして旧皇室典範はこの註(女帝子亦同)を「女(ひめみこ)も帝の子はまた同じ」と解釈したことの証明となっている。本文にない姉妹は内親王とするということである。

平成17年の「報告書」には「女帝の子」と解釈して論じた識者が3名いた。つまり彼らは新旧皇室典範を理解していないということになる。「女帝の子」からは、この新旧の条文の由来はわからず、姉妹を内親王とした淳仁天皇や光仁天皇の事実が説明できないからである。

 

平成26年4月9日

平成26年4月9日の産経新聞朝刊には、教育勅語の原本が52年ぶりに発見されたという大きな記事が掲載された。原本の価値はともかく、記事を読むと戦後が未だ終わっていないことが明らかとなる。

記事全体の教育勅語観は伝統的な「徳目」のそれである。したがって第一段落の「肇国」「樹徳深厚」などの解説は省かれる。また第三段落の「古今」と「中外」からは「普遍的」が語られる。

教育勅語はGHQの強い示唆により国会で排除・失効となった。しかし占領の初期にあってはGHQのなかに教育勅語を評価する声があって、新教育勅語の案があったと披露されている。

しかしその新教育勅語案が、明治の教育勅語を否定する目的だったことは語られていない。いったいこの記事は何なのか。むしろGHQは「勅語」の影響力を評価したのであって、明治の教育勅語否定こそポツダム宣言からの政策である。

教育勅語は「「軍国主義教育の象徴」というイメージが独り歩きするようになった」と記事は伝えている。しかしどの文言がなぜそう解釈されたのか、そこを省略するからそのイメージはますます強くなるばかりである。

 

平成26年4月6日

宇多天皇が藤原基経にたいして下した「みことのり」に「阿衡」があった。基経は阿衡には職掌がないと云って出仕を拒んでいた。これが「阿衡事件」である。

結局は基経の女(むすめ)温子の入内と、天皇の使による説得でことは収まった。この基経の説得に功があったとされているのが菅原道真「昭宣公(基経)に奉る書」である。

しかし温子の入内は10月であり、「書」には「去る10月」とある。つまり事件が収まって後の「書」であり、かつ温子の入内にも触れていないものとなっている。

そこで文献の信頼度を、「宇多天皇御記」「政事要略」「日本紀略」「扶桑略紀」の順番にして検証してみる。すると道真の「書」は、内容に誤りはないが、事件の収拾に「功」があったとは考えにくい。

決定的なことは、「書」が道真の編による「菅家文草」に収載されていないことである。道真自身、日付の誤りや時宜を得たものでなかったことに気がついて収載しなかった、こう考えて妥当性がある。

 

平成26年3月26日

「女帝」という言葉について、これは継嗣令の公式令になく、『続日本紀』には一度も用いられていない。そのことは当サイト「継嗣令の解釈」に詳細がある。

実は『続日本紀』のみならず、六国史を通して「女帝」は一度も用いられていない。ところが「類聚三代格」に「男帝」「女帝」があるという。しかも天平三年だという。

その内容。「勅シ玉ハク 戸座(へざ) 安房国 阿雲部 壬生 中臣部 右男帝御宇之時供奉  備前国 壬生 海部 壬生首 壬生部 右女帝御宇之時供奉 天平三年六月二十四日」

これは「勅」であるから、「右男帝御宇之時供奉」が後の註であることは明確である。なぜなら「供奉」は臣下の言葉だからである。天平3年は長屋王の違勅事件からまだ7年である。

違勅事件は公式令という文書規定をめぐる事件。その7年後に公式令にない「男帝」や「女帝」が「勅」にあれば問題となったはずである。

 

平成26年3月11日

平安時代の研究について、説得力のあるお手本がそれほど多いとは思えない。たしかに歴史書は散逸し各書にも異同が多く見られるようである。

六国史は「日本書紀」から「日本三代実録」の光孝天皇紀まで。宇多天皇紀からは「政事要略」その他「日本紀略」や「扶桑略紀」などに頼るしかない。ただし日付などの疑問は避けられない。

そのせいか、たとえば阿衡の紛議で橘広相が失脚したなどとする解説書もある。しかしこれは「公卿補任」でみると誤りだと分かる。

紛議のあと、広相は正四位下から正四位上となり「蔵人式」を完成させている。歴史の事実からすれば「失脚」はあり得ない。

国史を通しての詔勅の研究もこれに似ている。その解釈と歴史の事実に食い違いが多いからである。文武天皇即位の宣命や教育勅語そしていわゆる「人間宣言」などの曲解も、この分析を怠ったことによる。

 

平成26年3月2日

『物語岩波書店百年史』はこれまでの岩波物語を網羅して三部作となった。初期の岩波書店は岩波茂雄カラーでなかなか面白い。

小林勇は岩波茂雄の女婿で後に経営を担当するが、一時は岩波を出て鉄塔書院をつくっている。命名は幸田露伴らしい。

この鉄塔書院に協力したのが三木清と羽仁五郎。このあたりから共産主義思想が入り込んで、以後は復帰した小林勇のせいもあったのか、今日まで左翼本を出し続けている。

「本を読んで居ては本は出せないよ」が岩波茂雄であり、「学問や識見や芸術を日本の社会に徹布普及させる配達夫であり撤水夫であります」と自任していた。

以上はすべて同書からの受け売りだが、教育関連についても興味ある文章が記載されている。

 

平成26年2月19日

阿衡の紛議は宇多天皇の時代のことである。宇多天皇は父・光孝天皇の即位後、源姓を賜り源定省(さだみ)となって臣籍降下していた。

光孝天皇の崩御に際し、定省は皇籍復帰し親王宣下があって皇太子となった。践祚はその翌日だった。その後、即位された天皇は実力者である藤原基経に執政を委任した。

当時は三譲表、つまり二度断って三度目に委任を受理する慣習があったという。ところが勅の中に「阿衡の任」とあったことで紛糾した。

阿衡とは殷の湯王を補佐した宰相・伊尹(いいん)の官名である。これが周代に入って阿衡は三公となり、座して道を論ずる、つまり職掌の明確でない立場となった。

これを問題にして基経は出仕を停止した。時代の変遷による定義の変化を混同して起きた紛議であるが、「十訓抄」などを読むと、文章博士らの勢力争いと思えなくもない。

 

平成26年1月30日

新暦でいえば1月30日は橘諸兄が没した日である。敏達天皇の子孫で父は美努王、母は県犬養橘宿祢三千代。臣籍降下して橘を継ぎ、橘諸兄となり正一位左大臣となった。

諸兄の子に橘奈良麻呂がいて、奈良麻呂の乱の当事者となった。当時勢いを増してきた藤原仲麻呂との確執とされているが、新たな天皇の擁立騒動で「乱」といわれている。

諸兄の六代孫が橘広相(たちばなのひろみ)である。広相は宇多天皇の詔を起草し、その文言から「阿衡事件」が発生した。阿衡は古代支那の官職で、もとは殷の湯王に仕えた尹尹の官職である。

これが後に三公となって、論ずるだけで職掌のない名誉職のようなものだ、ということから議論になった。時代に依る職掌の変化を混同した議論なのか、権力争いなのか、見方はいろいろである。

広相の娘・義子は宇多天皇の女御だったから、その排除を願った勢力の仕業とも言われる。しかし広相はこの事件の後、正四位下から正四位上に昇格している。ゆえにこれは単なる文言事件だったのかもしれない。

 

平成26年1月19日

尾崎士郎『天皇機関説』と松本清張「天皇機関説」を読み比べてみた。尾崎士郎本は昭和30年の出版だが「凡例」には昭和26年の日付がある。松本清張本の出版は同43年。

尾崎士郎は「憲法論において対立する上杉博士と美濃部博士の論争について批判を加へるごときは私の任ではない」と記した。ただ全体としては美濃部の機関説を肯定している。

一方、松本清張本は「明治憲法は、絶対主義の面からも解釈できるし、民主主義的な面からも解釈できるのである」と記している。そして共産主義者・長谷川正安を引用した。

天皇機関説は伊藤博文『憲法義解』からすると、否定さるべきものは見当たらないが、松本清張本は、久野収・鶴見俊輔らの明治憲法「顕教・密教」説まで引用している。

しかしこの「顕教・密教」説は帝国憲法の条文解釈と『憲法義解』をよく読めばそれほど意味がない。帝国憲法は歴史法学的立場で記されているから、そもそも神権的要素など無いのである。

 

平成26年1月7日

1915年(大正4年)は辻善之助が『田沼時代』を出版した年である。翌1916年(大正5年)には第四次日露協約が結ばれた。そしてこの協約が第二次大戦に影響したといわれている。

辻善之助の時代まで、田沼意次の政治は腐敗政治とか賄賂政治などと評価されていた。それを辻善之助は、田沼時代の経済政策をもとにいわば自由な経済社会と再評価したのである。

しかし問題は対露政策にある。意次は対露貿易を考えていたから、要するに対露協調論者であった。これに対し、田沼に代わった松平定信は対露国防推進論者といってよいだろう。

林子平が『海国兵談』を幕府に無断で出版したのは、定信によって制裁対象となった。しかし現実に対露国防を推進したのは松平定信である。いわばこの北進論は今日でも高い評価となっている。

第二次大戦の最終段階。あろうことかソ連に仲介をしてもらおうという案があった。これは第四次日露協約の流れだとする見解にもうなづける。辻善之助は案外政府の顔色を見ていたのではないか。

 

平成25年12月11日

被占領下における作家の公職追放。これに触れているものとして本多秋五『物語戦後文学史』あるいは丹羽文雄「告白」がある。

しかしながら一向に要領を得ない。公職追放令には附属書A号があって、ポツダム宣言第6項の実現がうたわれている。上記のいずれもがこの附属書に言及がないのである。

火野葦平も追放となったが、年譜を見る限り追放中も作品を発表している。この理由は解らない。追放は昭和23年で解除は同25年である。案外深刻なものではなかったのかもしれない。

尾崎士郎も追放解除後はこの件について特にコメントはしていないようだ。長女の尾崎一枝が著した『父・尾崎士郎』にも核心部分は見当たらない。

坂口安吾が書いた「迎合せざる人」は尾崎士郎擁護の文書であるが、GHQの追放令を熟読しているとは思えない。「誰よりも打ちひしがれ、顔色すら蒼ざめて戦争を呪っていたのは尾崎士郎であった」これでは附属書A号に対抗できない。

 

平成25年11月8日

和同開珎はもとワドウカイホウと呼ばれていたが、現在ではワドウカイチンである。唐の開元通宝も開通元法と読まれたりしていて、古代はなかなかむつかしい。

和同開珎の「珎」は「珍」の異字体であることから「チン」と読まれる。一方、「宝」の旧字でさらにその俗字「寳」に「珎」が用いられていたことが、「珎」を 「ほう」と読まれた由来である。

ところでこの和同開珎を初めとして皇朝十二銭がある。新銭は概ね旧銭の10倍の価値と定められた。しかし目方や銅の含有量が減少したから、思うような通貨管理はできず、958年の乾元大宝で頓挫した。

これとは別に富本銭がある。680年代のものと推定されているが、これはまた厭勝銭(ようしょうせん)であると云われている。

厭勝銭とは縁起物あるいは護符である。多分に宗教的なものであるが、富本銭を厭勝銭とするのも未だ証拠に乏しい。なかなかの謎というしかない。

 

平成25年10月20日

柳田国男の弟である松岡静雄がその著『國體明徴上の一考察』―(現神観念)―(昭和11年)において天皇=現御神論を展開したのは当サイトで紹介したところである。

では柳田国男自身はどうか。「玉依姫考」より
「自分の学んだ所では、天皇は現神で、もとは多くの神よりも更に高い御位であった。従って前帝を神に祭り奉ると云ふことは、古代には決して聞かぬことである」

やはり天皇=現御神であった。古典を縦横に引用して語る柳田国男であるが、六国史に天皇が自らを現御神と宣言せられたものは存在しない。

「年木・年棚・年男」より 「殊に顯神と貴まれたまふ御方の、食物の力となるべき御竈木であれば、これを年頭に用意せられるのもさることであらうが、なお百官が袖を連ねて、手に手に納め進らせたといふには重い理由が無くてはならぬ」

これらは文芸上の修辞的表現と政事上の発言を混同した、その結果なのではないか。折口信夫などにも見られる傾向である。やはり「現御神止」が解説されていない。

 

平成25年10月5日

平田篤胤と伴信友は本居宣長没後の門人といわれているが、前者は自身が主張しているのみで、門人には認められていなかったようだ。

ところで平田篤胤の「現御神=現人神」論を読めば、宣長の門人たちの疑問もうなづける。

「玉襷」
「現人之神とは、古事記を始め古書どもに天皇命を御事を現人神とも遠神とも申せり。そは掛けまくも畏き申し言ながら、天皇も御人には御坐(おはしませ)せども、天照日大御神の正しき御統におはし坐て、凡人とは遙に遠く、御尊さの類なく御坐すが故に、人と現はれ御坐す神といふ義(こころ)をもて、上代よりかく称し奉れるなり。」

古事記に現人神はないし、天皇=現人神も存在しない。また後醍醐天皇の崩御について、 「左の御手に仏経を持せ給へる事、仏法の盛(さかり)なりし時とは云ひながら、いとも尊き現人神と御坐す大御身を穢させ給へるは、畏しとも忌忌(ゆゆ)しき御事なりかし」と述べている始末。

平田篤胤も伴信友と同じように「現御神止」を解説できず、いわば天皇現御神論となっているのである。宣長の説明では「現御神止」は「しろしめす」の副詞である。彼らが宣長の門人とはとても思えない。

 

平成25年9月25日

明治の初め、「史学」が輸入された。むろん西洋史学であるが、ゼルフィーという人の大著『史学』は全7章で各論もあるが史学史の概説もあったという。

そのゼルフィーによれば西欧の歴史は、イギリスにおいては「信仰(faith)」でありフランスでは「意見(opinion)」、そしてドイツでは「智識(knowledge)」だったということらしい。

また編年史家と歴史家を区別しているのも興味深い。たとえとして、「鉱夫ノ常ニ地質学者ニ非ズ」あるいは「大工ハ常ニ建築家ニ非ズ」と表現している。鉱夫・大工が編年史家である。

「編年史家ハ自ヲ以テ史家ト思フ可ラズ」というのもあるようだ。要するに事実を並べるのが編年史家で、史実の因果関係を分析するのが歴史家ということである。

以上は関幸彦著『ミカドの国の歴史学』からの引用である。歴史がイギリスにおいて「信仰」だったというのはもう少し解説の欲しいところだが、フランス・ドイツは然もありなんと思う。

 

平成25年9月17日

いわゆる「人間宣言」について。当サイトはその誤った解釈を正すことが目的のひとつである。専門家といわれる人の言説についても、やはり正さねばならぬものがある。

「実は、問題は英文ではなく日本文にある。英文から日本文へ翻訳する段階で決定的な誤訳が生じた。the Emperor is divine を「天皇ヲ以テ現御神トシ」と訳したからである」

これは大原康男『天皇―その論の変遷と皇室制度』に記された文章である。要するに「天皇ヲ以テ絶対神トシ」とすべきだったというのである。

たしかに日本の神はGod(絶対神)ではない。しかし「人間宣言」の解釈とGodは関係がない。この詔は宣命の「現御神と」を誤って解釈してきたことに対する戒めである。詳細は当サイトの「人間宣言」にある。

その後の大原康男氏に宣命解釈を語ったものは見られないから、見解は今でも同じだろう。木下道雄『宮中見聞録』「昭和二十一年元旦の詔書について」を読めば、この見解に疑問があることは明らかである。

 

平成25年9月7日

貞観8年(866年)応天門の変というのがあった。宮殿前の正門が焼かれた事件である。当初は左大臣・源信の犯行と言われたが、真犯人は大納言・伴善男らであった。

真犯人摘発は太政大臣・藤原良房の進言によるものだった。これで伴氏(大伴氏)は完全に失脚したが、その後、藤原良房は臣下としてはじめて摂政になった。

この時代の天皇は清和天皇であるが、母は藤原明子(あきらけいこ・めいし)で藤原良房の女(むすめ)である。明子は清和天皇の父・文徳天皇の女御だった。

ところでこの応天門はその後に大手門とか追手門といわれたものと同じだろうか。それにしても大手門とか追手門の意味ははっきりしない。

則天武后の時代の洛陽城には応天門があった。長安には承天門があった。平安時代初期は唐風文化全盛だから、洛陽城をまねていたことは明白だろう。ゆえに大手門とか追手門はダジャレなのではないかと思いたくなる。

 

平成25年8月30日

延暦四年七月十七日は西暦785年8月30日で、淡海三船が没した日である。三船は壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子の曾孫で葛野王の孫である。

淡海は神武天皇から元正天皇までの漢風諡号(しごう)を定めたといわれている。『日本書紀』『続日本紀』を読むと歴代天皇のご事績をよく表していることに驚く。

天平勝宝三年(751年)無位御船王は淡海真人を賜って臣籍降下した。養老六年(722年)の生まれだからその生涯は奈良時代そのものである。

奈良時代は云わば天武天皇系の時代である。天智天皇系の淡海としては紆余曲折のある時代を生きたと言えるだろう。

淡海が定めていない漢風諡号は、弘文天皇と文武天皇といわれている。弘文天皇は明治3年に追号されたが、文武天皇は不明である。ただ752年『懐風藻』にその名があって撰者は淡海三船とする説もある。

 

平成25年8月22日

西暦672年8月22日は文武天皇元年8月1日、珂瑠皇子が第42代として即位された日である。天武天皇の孫で父は草壁皇子、母は後の元明天皇である。

その即位の宣命。
「現御神と大ハ嶋国しろしめす天皇が大命らまと詔りたまふ大命を・・」

この「現御神と大ハ嶋国しろしめす天皇」を正しく解釈したのは本居宣長と池辺義象(おそらく井上毅も)と木下道雄である。あとは概ね曲解した。

これは「山と薪の積まれた庭」と同じ構文と考えてよいだろう。この場合「山」と「庭」は同じではない。「山と」で「薪の積まれた」状態を修飾している。つまり「積まれた」の副詞である。

この「現御神と」が副詞であることは木下道雄が『宮中見聞録』に明言した。しかし今なおこの解釈が理解されていないのは、昭和21年元旦の詔書を「人間宣言」と称していることで明らかである。

 

平成25年8月18日

西村茂樹は明治35年(1902年)8月18日、75歳の生涯を閉じた。彼の『日本道徳論』は明治20年に出版され今日でも引用されることが少なくない。

「凡そ天下に道徳を説くの教数多あれども、合せて之を見るときは二種に過ぎず、一を世教と云ひ、一を世外教(又之を宗教といふ)と言ふ。」

そして支那の儒道、欧州の哲学はみな世教であり、印度の仏教、西国の耶蘇教はみな世外教であるという。世教は道理を主とし世外教は信仰を主とするというのである。

西村茂樹の結論は「世教中に於て其教義の真理に協(かな)ふ者を採りて是を日本道徳の基礎とすべし」というものであった。これを明治23年に渙発された教育勅語と較べるとどうなるか。

教育勅語は哲理哲学を排除している。語られているのは皇祖皇宗の遺訓である。この書を読んだ伊藤博文が激昂し、最終的には絶版事件にまで発展したというのは興味深いところである。

 

平成25年8月8日

森清人のお墓にお参りをしてきた。現在では各種の人名辞典にも掲載されていない森清人は、詔勅研究に一生をささげた研究者である。

早稲田大学に学び、最初は文学の研究をしていたとの話もあるが、残した成果は詔勅に関する著作である。その研究姿勢には学ぶところが多い。

ただ残念なことに昭和戦前において、天皇機関説排撃に加担した。その原因は文武天皇即位の宣命と教育勅語を読み誤ったことによる。

昭和36年12月6日、明治神宮の寮において脳出血が原因で他界した。毎日新聞の訃報欄に金蔵院での葬儀とあったので訪ねてみた。

案の定、「森家之墓」の裏に「森清人一族の永眠のために」とその建立の日付けが刻まれている。功罪の大きい研究者であったが、詔勅研究においては勲章に相当するのではないか。天皇機関説排撃でその相殺は当然だが。

 

平成25年8月4日

東日本大震災から約2年半になろうとしている。東北大学の「日本三代実録」を中心とした研究が活かされなかったのは、返す返す残念である。

貞観大津波は貞観11年(869年)だった。「船に乗るに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難し。溺死する者、千許(ばか)り」。つまり死者は1000人余と記録されている。

慶長大津波は慶長16年(1611年)。「駿府記」には松平陸奥守政宗が幕府に報告している内容が記されている。そして明治三陸津波は明治29年(1896年)で死者は21959名である。

貞観大津波では清和天皇の、明治三陸津波では明治天皇の「みことのり」が残されている。、そして東日本大震災における今上天皇のお言葉は記憶に新しい。

慶長大津波は後陽成天皇から後水尾天皇へ譲位(新暦の5月)された年の12月(新暦)に起きている。残念ながら後水尾天皇の慶長大津波に関する「みことのり」は見つけられない。幕府から朝廷への報告もよくわからない。

 

平成25年7月25日

田沼意次のあとに政務を担ったのは、白河藩主・松平定信であった。徳川吉宗の孫である。25歳で藩主となり、天明7年(1783年)に29歳で老中となった。

天明年間だから本居宣長(1730-1801)の時代の人である。紀州藩主・徳川治貞に請われて『秘本玉くしげ』を献上した宣長だが、『玉くしげ』も含めて両者にわたったといわれている。

定信は天明8年10月、「御心得之箇条」を幼君・家斉のために記したという。
「古人も天下は天下、一人の天下にあらずと申候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばれ候御事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、・・」

要するに「無私」の政治姿勢であり、大政委任論といわれるものである。現在では渋沢栄一『楽翁公伝』に読むことができる。

弘化3年(1846年)に渙発された孝明天皇の「海防勅諭」が重要視されたのは、以上のような経緯があったからだとする論考もある。ほぼ妥当な見解だと思う。

 

平成25年7月23日

昭和24年に発行された「公職追放に関する覚書該当者名簿」は総理庁官房監査課・編である。この名簿には20万人以上の追放該当者の名が記されている。

石橋湛山らの名に加え、森清人のそれも記されているが、森清人は「皇国運動同盟」の理事であったこと、その著書が追放の根拠とされている。

とにかくこの名簿によれば、「皇国」云々あるいは「大日本」云々というような団体が夥しいほど記載されている。要するに「天皇御親政」を唱え「天皇現人神論」の信奉団体である。

森清人はある日、里見岸雄を訪ねて出版の助力を嘆願した。『日本新史』がそれである。古代史を検証した著作であるが、出版は昭和37年である。

実はこの嘆願の翌日、森清人は明治神宮寮において脳出血で他界した。昭和36年12月6日だったと毎日新聞の訃報欄に記事がある。

 

平成25年7月18日

木下道雄『宮中見聞録』は昭和43年1月1日の発行であるが、『新編 宮中見聞録』は平成10年1月15日が初版である。

前者には「昭和二十一年元旦の詔書について」があり後者には「昭和二十一年元旦に発せられた新日本建設に関する詔書について一言」がある。

いずれも「現御神と」が「しろしめす」の「副詞」であるという核の部分は同じであるが、前半部分は異なる文章となっている。違いはあるが、両方とも戦後日本における最高峰の文章だろう。

平成版になく昭和版にあるのは、万葉集にある「王(おおきみ)は神にし座せば・・」は「宣命というが如き公式のものではなく、個人の感情を云い表わしたものと見るのが至当であろう」と明言されていることである。

まことに至言というしかない。文芸上のレトリックと判断しなければ、イチローが野球の神様という表現でもイチロー=神様になり兼ねない。熱狂的なファンは別として。

 

平成25年7月16日

およそ詔勅を研究するにあたって、現在では本居宣長と森清人の資料はまず外せない。宣長の『続紀歴朝詔詞解』は「続日本紀」のみなので、その後の詔勅は森清人ということになる。

一般に詔勅の読み下しは難解である。それを丁寧に書き残してくれた森清人の功績は誠に大なるものがある。残念なのは『詔勅虔攷』第二巻「大日本詔勅全表」がどこにもないことである。

この詔勅研究とは別に、森清人は松岡洋右を賛美し、菊池武夫とともに帝国憲法を蹂躙した。おそらくは本人もその意識はなかっただろう。

詔勅を読めば読むほど「天皇親政」は本筋ではないし、天皇現御神論はデタラメだとわかる。あれだけ詔勅を研究した森清人でさえ、本居宣長を理解せず「現御神止」を誤解した。

森清人のこの二面性は研究に値する。日本国憲法で詔勅は効力を有しないとされた。「現御神」と「中外」の誤解さえなければ、あるいはこんな条文にはならなかった、そうも思いたくなる。

 

平成25年7月15日

森清人が詔勅を研究していて、なぜ天皇機関説排撃を唱えたのか、なぜ帝国憲法を踏みにじったのか、これらは研究の価値がありそうだ。

結論を言えば「文武天皇即位の宣命」「教育勅語」の解釈を誤ったことが原因である。前者は「現御神」に関連し後者は「中外」に関連する。

森清人は天皇=現御神である。しかし当サイトに記している通り、国典においては「現御神止」と用いられており、それは木下道雄のいうように「しろしめす」の副詞である。

また教育勅語の「中外」を「国の内外」としているが、これは「中央と地方」「朝廷と民間」であり外国は関係がない。

この二つの誤解が、天皇機関説排撃や国体明徴運動というような帝国憲法に違背するもととなったことは間違いがないだろう。

 

平成25年7月13日

森清人(1894-1961)。詔勅研究に生涯を捧げたその研究姿勢は特筆すべきものがある。日本精神協会理事・森清人は昭和9年、能の「蝉丸」の廃曲を関係者に迫ったという。

「蝉丸」は盲目の第四皇子と、髪が逆さに生い立つという姉の逆髪という皇女が登場する。森清人はその内容が不穏当であると主張したのである。

確認はできないが、「蝉丸」がその後上演されたのは戦後だといわれている。たしかに「蝉丸」の内容は森清人にすれば不愉快だったろう。

そのことが昭和9年の「東京日日新聞」に掲載されているというので調べたが、記事は見あたらない。ただ話の内容からして事実であることは間違いないだろう。

日本精神協会の発足が昭和8年。その後、国体明徴運動などがあって文部省「国体の本義」に至る。森清人が菊池武夫(日本精神協会会長)などの理論的支柱となったことは、返す返す残念なことである。

 

平成25年7月7日

昭和21年元旦の詔書(いわゆる「人間宣言」)について、森清人・詔勅講究所長が朝日新聞に投稿した。同年1月9日のことである。

「まづ第一に、君民の関係について「天皇ヲ以テ現御神」とすることが「架空ナル観念」として否定されてゐることである。そもそもこの現御神の語は、大宝令の公式令詔書式に五事の別を定めて、詔書の用語例を示し、その第一・第二・第三項に「明神」(後世、現御神の字を充つ)の用語例の明示されてあるのに由来するものであつて、爾来一千二百余年間の永きに亙り、詔勅用語として使用され来つた語で、特に続日本紀所載の宣命などには、その用例が多い。従つてその否定は、大宝令詔書式の否定といふべく、その影響するところはきはめて大きいと思はれるのである。」

これは森清人が「現御神止」を理解していない証拠である。国典にある「現御神」は必ず「止」が付けられ「現御神止」と用いられている。例外はあるが天皇の「みことのり」は「現御神止」である。

この意味は天皇=現御神ではなく、「現御神止」は「しろしめす」の副詞だということである。代表的な用例としては「現御神と天の下しろしめす天皇」であり、「現御神天皇」はひとつも存在しない。

森清人は天皇=現御神と理解していたので、上のような文章となったと考えて無理はない。彼の謹解でも天皇=現御神である。

 

平成25年7月4日

詔勅に関して言えば、本居宣長『続紀歴朝詔詞解』がある。これは『続日本紀』の詔勅を解説したもの。そして国史を通しての詔勅解釈では森清人『大日本詔勅謹解』『大日本詔勅通解』などがある。

その森清人について、昭和24年6月3日の「時事新報」に記事がある。「東京ロビンソン漂流記」として「夢の島」に人がいた、というものである。

森清人は当時56歳で、「六国史」190巻の和文訳を五カ年で行う計画をたて、一人「夢の島」に移り住んだ。「夢の島」はもと海軍航空隊の秘密基地だったが、戦後は海水浴場となった。

詔勅の研究をするにあたって、本居宣長と森清人の二人から受ける恩恵は計り知れない。ただ森清人は昭和戦前の国体明徴運動の側にいたから、必ずしも客観的な解釈をしたというわけではない。

一言でいえば皇国史観(天皇親政・天皇現御神論)の人である。「夢の島」では平安朝の「健児・こんでい」を研究し、その理想的「健児村」建設を考えていたとも記事は伝えている。

 

平成25年6月30日

弘化3年(1846年)、仁孝天皇が崩御され孝明天皇が践祚された。この前年、1845年には米国捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流者を載せて浦賀に入港した。

孝明天皇の即位は弘化4年であるが、弘化3年、幕府に対し「海防勅諭」を発せられた。若干16歳であったが、その洞察力は幕府の要人を驚かせたのではないか。

弘化3年8月29日御沙汰書。
「近年異国船時々相見候趣、風説内々被聞食候」 異国船が我が国周辺に来ているという風説を、内々に聞こし召されて。 天皇は次のように仰せられた。 「武門之面々洋蛮之不侮小寇不畏大賊宜籌策有之」 武人は洋蛮の小寇を侮らず、大賊を恐れず、宜しく策を練って。 「神洲之瑕瑾無之様精々御指揮候」 神洲である我が国に瑕(きず)のつかないよう精一杯指揮をとってほしい。

大要は以上であるが、この「海防勅諭」から明治維新は始まっているとも言えるのではないか。その後の幕府は内治外交に混乱を極めるが、この勅諭は特筆すべきものである。

 

平成25年6月22日

教育勅語の渙発は明治23年。その翌年、第一高等中学校において、嘱託教員だった内村鑑三は教育勅語に対し最敬礼をしなかったとされた。いわゆる「不敬事件」である。

これについて、当時の代表的な基督者・植村正久は次のように論評した。

「これがために一人の教諭を免ずるに至るほど熱心なる学校は、何故に生徒のモッブ然たるを不問に置くや、何故に壮士的の運動を擅(ほしいまま)にせしめたるや、何故に秩序を紊るの行を容赦するや、何故に生徒を恐れ、生徒の意を迎ふるに汲々たるや。吾人は当局者のためにすこぶるこれを惜しまざるを得ず、その自家撞着の甚だしきに驚かざるを得ざるなり。」

mobは暴徒である。つまり内村の皇道を非難する生徒に迎合した学校への批判である。この時点で国家が拝礼を強制したわけではない。

第一高等中学校・校長
「此勅語は我国教育の基礎学制の大本にして、決して学理学説と同一視すべきものにあらず、若し之に違ふものはこれを我国民ちいふべからず、万一本校職員或は生徒にして之に違へる行為あるときは校長素より寸毫も之を仮借せざるべし」

内村は依願解嘱を余儀なくされたが、校長の考えに基づいた、結局は現場の判断であった。この時点で国家の強制があったかの様に語ることは、歴史の事実と異なるものである。

 

平成25年6月15日

『二・二六事件と郷土兵』。二・二六事件の部隊参加人数は昭和56年当時の調査で1558名。うち第一師団歩兵第一連隊456名・同第三連隊937名で1393名。

この第一連隊・第三連隊の徴兵区が埼玉県だったから、二・二六事件の参加者の半数以上が埼玉県出身者だったらしい。同書はそのインタビュー本である。

ところでインタビューに応じた元兵士の口からは、当時の「成り行き」の詳細ばかりが知らされる。事件後45年経っても昭和史の中の二・二六事件は読みとれない。

幹部以外何も知らなかったというのはほぼ真実だろう。ただ生き残った人たちの多くが「悪かったとは反省できない」と語っている。

帝国憲法停止を唱えた北一輝『日本改造法案大綱』の影響を考えれば、二・二六事件は反憲法事件である。昭和56年はまだ昭和戦前を情緒的にとらえる時代だったのだろうか。

 

平成25年6月11日

昭和21年元旦に渙発されたいわゆる「人間宣言」
「天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念」

この文言の「天皇=現御神」、「世界を支配すべき運命」の出処は文部省「国体の本義」と教育勅語であると推測して間違いないだろう。

問題は後者の「世界を支配すべき運命」である。「之を中外に施して悖らず」を誤解したものだが、その誤解が日米に共通しているのである。

「天皇=現御神」の否定は、GHQによって神道指令ではなく詔書だったということも重要である。本人の否定が最も効果的であり、GHQが日本の宗教に関与しない証拠にもなる。

戦前の米国における神道や教育勅語の研究、そして神道指令とこの「人間宣言」を分析すればそこに一貫する誤解が解明される。この謎に挑戦する研究者がいてほしいものだ。

 

平成25年6月5日

五事御誓文と欽定憲法とに帰れ
これは昭和二〇年九月一日号「社論」(東洋経済新報)に掲載された石橋湛山論考のタイトルである。

ポツダム宣言に触れて「思うにわが国民がこの宣言を見て最も懸念し、当局者もまたその受諾に際して最も注意を用いたのは、その第一の「日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出でしめたる権威と勢力とを永久に除去すべし」と記せる一条であろう」と語った。

「しかし私はここに断々乎として述べるが、万一わが国に事実「国民を欺瞞し、世界征服の挙に出でしめたる権威と勢力」のごときが存したとすれば、あえて外国から要求されるまでもなく、わが国みずからこれを永久に除去しなければならない」

「なんとなればわが建国の精神は断じてかかる不逞の存在を許さず、今次の戦争がまだ世界征服の企図のごときに出たものでないことは、累次の聖詔および当局の声明等に明示されたところであるからだ。もとよりわが皇室がかかる権威にも勢力にも当らざることは弁明するまでもない」

「また言論、信教、思想の自由ないしいわゆる基本的人権の尊重はわが欽定憲法のとくに重きを置きて定められるところであって、いまさら三国に指摘せられるまでもない。」「日本国民は速かに五事の御誓文と欽定憲法とに帰れ。しからば米英ソ中なにごとをなすをえん。」

しかし結局のところ石橋湛山自身が、このポツダム宣言第6条によって公職追放とされたのである。その弁駁にこのポツダム宣言への批判が一度も出てこないのは理解しかねることである。

 

平成25年6月4日

公職追放。GHQの占領下において、我が国では計200、856人が追放された。これはポツダム宣言第6条を基にしてのことである。

その第6条
「われ等は、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序は生じ得ないものであることを主張するものであつて、日本国民を欺き世界征服の挙に出る過誤を犯させた者の権力と勢力とを、永久に根絶させなければならない」

「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」いわゆる公職追放令は昭和21年1月4日に発せられた。そしてその具体的な内容は附属書A号にあり、タイトルは「罷免及び排除される者の範囲」である。

その項目Gは「その他の軍国主義者及び極端な国家主義者」であるが、実に抽象的でわかりにくい。これはポツダム宣言第6条が分かりにくいことに関連している。

つまり「世界征服の挙に出る禍誤」の「世界征服」がそもそも意味不明なのである。結論は教育勅語解釈の誤りであるが、すぐに解除されたせいか、追放された人たちがこれを追究した形跡は見あたらない。

 

平成25年5月22日

一条兼良(1402-1481)は「かねよし」、あるいは「かねら」と呼ばれている。室町時代の学者で応仁の乱の前後を生きた。従一位であり、摂政関白太政大臣とも称された。

その兼良が養老令を講義し、それを記録したのが子息の一条冬良(1464-1514)、「ふゆよし」あるいは「ふゆら」であった。現在では『続群書類従』「第十輯 上」「後妙華寺殿令聞書」に残されている。

承和元年(834年)12月5日、仁明天皇は詔を発せられた。「令義解を天下に施行し給ふの詔」である。「令義解」は先帝である淳和天皇の勅により清原夏野らが撰述したものであり、養老令の解説書である。

『続日本後紀』は仁明天皇の一代紀である。解読のための参考書物はそう多くないが、この詔の解説は「後妙華寺殿令聞書」で十分といえる。ありがたい文書を残してくれた。

ちなみに清原夏野は右大臣であり、遡ると父・小倉王→御原王→舎人親王そして天武天皇にたどりつく。この舎人親王から九代あとには、元輔(三十六歌仙)を父にもつ清少納言がいる。

 

平成25年5月18日

当サイトで対象にしている詔勅。これは現代にも大きな影響を与えている。『続日本紀』の文武天皇即位の宣命、元明天皇の「不改常典」そして「平城遷都の詔」。

文武天皇即位の宣命にある「現御神止大ハ嶋国所知天皇」の「現御神止」は「所知(しろしめす」の副詞であって、現御神=天皇ではない。「不改常典」は元明天皇の「壬申の乱トラウマ」から渙発された。これは当サイト以外では発表されていない。

「平城遷都の詔」にある「必未遑也」は「必ずしも」ではなく、「きっと」である。今日の遷都1300年記念での解説は詔勅を誤解し、漢文法をも無視しているのである。

『続日本後紀』に多用されている「中外」は「中央と地方」「朝廷と民間」である。これが教育勅語の解釈では「国の内外」と誤解された。そしてGHQに世界征服の思想とされたのである。

「中外」は上記のとおりであるが、「現御神止」の誤解は戦前の天皇=現御神との誤解を生んだ。これらは今日の国語・漢和辞書等では到底解読の不可能なものである。歴史の文脈で解読する以外に方法はない。

 

平成25年5月11日

昭和20年のスイス。バーゼルの国際決済銀行(Bank for International Settlement)は略称BISという。ここの理事として北村孝治郎・横浜正金銀行(東京銀行の前身)ドイツ総支配人がいた。

いま一人は吉村侃。北村の4年後輩でBIS為替部長だった。このBISに顧問でいたのがスウェーデン人のペル・ヤコブソン。のちにCIA長官となったアレン・ダレス・OSS戦略諜報局の欧州総責任者と通じていた。

その他、加瀬俊一・駐スイス公使、岡本清福中将・遣独伊連絡使節団長そして藤村義一中佐・海軍武官などがいてヤコブソンらと終戦工作に努力していたのである。

大事なことはポツダム宣言について、吉村侃などは次のものは護持できると正確に解釈していたことである。彼らの政治感覚こそ称賛されるべきだろう。

1日本の主権 2天皇 3憲法の大筋 4不可欠な工業力(ドイツはもてなかった)。

 

平成25年5月7日

先の大戦における終戦工作。実現しなかった歴史。これについては検証できないことが少なくない。終戦工作はその典型である。

ポツダム宣言の解釈をめぐるやり取りも不可解なことが多い。「無条件降伏」「天皇と憲法」等々。日米の直接交渉が叶わなかったことは致命的であるが、両者のニュアンスの違いは如何ともしがたいものがある。

「the revival strengthening of democratic tendencies among the japanese people」当時、ベルンにいた日本人はドイツ語訳に wieder が二度用いられていることに注目したという。

つまりこのポツダム宣言第10条は、1889年憲法の「回復」だと考えたのである。昭和戦前が帝国憲法を蹂躙していることを感じていたのだろうか。

これに対する鈴木貫太郎首相の演説は彼らを落胆させた。戦争継続か和平か、はっきりしないことが彼らをいらだたせた感がある。これは日本国内の強硬派による圧力が原因だとされている。

 

平成25年5月2日

昭和20年6月1日の朝日新聞。「迷ふな「米国の声」 威嚇と懐柔の敵の宣伝ビラ」。以下は米第三艦隊司令長官ハルゼーのコメント。

「平和を達成するためには日本民族を無力にし、第一にわれわれは日本人を再教育して日本人の頭から神道を叩き出したるのち戦争に責任ある日本人はすべて地位と階級にこだはることなく、処罰されねばならない」

米軍は手強い日本軍人の、その精神的基礎は神道にあると考えていたということである。おそらくはD・C・ホルトムの影響が大きいだろう。

GHQの日本占領政策は物的武装解除と精神的武装解除であった。そして彼らは教育勅語の「之を中外に施して悖らず」を世界征服思想だと断定していた。

ゆえにGHQの精神的武装解除は教育勅語にある世界征服思想の排除にあった。ただし日本人の教育勅語解釈は曲解であり、もともと教育勅語に世界征服思想は存在しなかった。

 

平成25年4月26日

オーウェン・ラティモアはアメリカの中国学者である。太平洋問題調査会の主要なスタッフでもあった。1934年からは『パシフィック・アフェアーズ』の編集長も務めていた。

その『パシフィック・アフェアーズ』はカナダの季刊学術雑誌である。ここにGHQ民間情報教育局のスタッフとなった海軍少佐スピンクスが1944年3月に論考を載せた。

スピンクスによれば、教育勅語は「この国の精神的マグナ・カルタである」。また「教育勅語を擁護することがなければ、日本の古代の過去の原始的観念は復活せず、世界は〝八紘一宇〟に脅かされなかったろう」とも記している。

この論考はD・C・ホルトムからの影響が相当感じられる。この時期の米軍にはありがちな見解であるが、歴史的検証に欠けている。そして雑誌はリベラルというより過激である。

そのせいか、共産主義者を一掃したマッカーシーらの圧力でその発行母体は1961年に解散した。編集部はカナダのブリティッシュ・コロンビア大学に移転し現在はそのアジア研究センターにあるという。

 

平成25年4月22日

『日本書紀』は全30巻で、神代紀から持統天皇紀までが記されている。撰述は文武天皇の時代からはじまったとされている。持統天皇のあとは文武天皇・元明天皇そして元正天皇である。

奏上(完成)は720年でその時の天皇は元正天皇であった。しかし文武天皇紀・元明天皇紀は『続日本紀』に記載された。なぜだろうか。

『日本書紀』の編集方針として全30巻は決定していたと想像できる。最初は文武天皇紀までの予定だった。それが元明天皇によって巻28は「壬申紀」となり、全30巻となって持統天皇紀までとなったのではないか。

また本来は元明朝に完成の予定だったが、この「壬申紀」の詳細を記すことで完成が元正朝まで遅れたとも考えられる。元明天皇が上皇としてその編纂に深く関与したことは間違いない。

元明天皇にあったのは紛争のない皇位継承である。「壬申の乱」は二度と起こってはならない。文武朝の歴史と評価は後世に委ねる。こう元明天皇の思いを推測して歴史の文脈に齟齬がない。一つの見方だろうと思う。

 

平成25年4月18日

ポツダム宣言は米英中から我が国へあてたものである。ソ連は入っていない。またポツダム宣言の基になったものが、米英中で行われたカイロ宣言であることはよく知られている。

このカイロ宣言に修正加筆がなされてポツダム宣言となっていることは一目瞭然である。ところで現在我が国において、ポツダム宣言の逐条解説を読もうとしてもほぼ見当たらない。

福田恆在『日本を思ふ』の「当用憲法論」はポツダム宣言第9条から13条までの解説である。残念ながら第6条「世界征服の禍誤」は解説されていない。

ポツダム宣言と日本国憲法を同時に論じた著作はあっても、それらがほぼ無益であることは想像できる。なぜなら日本における「世界征服の禍誤」は教育勅語「中外」の曲解が理解できないと論じられないからである。

靖国神社問題→日本国憲法の政教関係条項→神道指令→ポツダム宣言第6条→米国の教育勅語研究→ホルトム→加藤玄智→井上哲次郎における教育勅語解釈の誤り。この流れの解明こそ現代史の課題である。

 

平成25年4月13日

「講令備考」は江戸時代に編纂された養老令の法解釈史料集である。養老令は奈良時代のものだが、平安時代になって解釈に乱れが生じるようになったようだ。

嵯峨天皇時代の弘仁式、清和天皇時代の貞観式そして醍醐天皇時代の延喜式がある。「格式」の「格」は補助法令で「式」は施行細目だとされている。

「講令備考」の編者に稲葉通邦、河村秀根、神村正鄰、石原正明らの名が挙げられることが多い。しかし本文を読むと河村秀根は(秀)とわかるが別に(秀興)がある。

河村秀根の父は河村秀世。父を同じくする秀興は秀根の兄で秀穎である。みな国学に通じていた。実は「継嗣令」第一条の「註」(女帝子亦同)を解説したのはこの秀興である。

ただその解説は歴史の事実に矛盾している。この「註」は「女帝の子」でも漢皇子に関するものでもない。正しくは「女(ひめみこ=帝の子)もまた(皇子と)同じ(にせよ)」である。でなければ歴史の事実は解明できない。

 

平成25年4月2日

養老令の「継嗣令」第一条にある「註」(女帝子亦同)の解釈については、当サイト「皇位継承論議を読む―<継嗣令>の解釈」にその全体を述べた。これは「女帝」ではなく「女(ひめみこ=帝の子)もまた(皇子と)同じ(にせよ)」というものである。

この解釈があってはじめて解明できる歴史の事実。一つは淳仁天皇の兄弟姉妹が親王・内親王となった事実。第一条の本文は「およそ皇兄弟と皇子、皆、親王と為す」であるから姉妹・皇女は含まれない。そこで「註」においてそれを補足したと考えてこの事実が理解できるのである。

もう一つは光仁天皇である。宝亀元年(770年)11月6日、「法のまにまに」志紀皇子(施基親王)を追号して天皇と奉称し、兄弟姉妹および諸王子(子女)を親王としたことに通じている。この「法」も「註」を上記のように解釈しなければ文脈上乱れが生じるだろう。

養老令の<喪葬令>(親王一品条)には「親王には・・を聴(ゆる)す」とあり「註」に(女亦准此・ひめみこもまたこれにならへ)とある。(亦准此)は(亦同)とほぼ同じ意味であるが、この註から推測すると<継嗣令>(女帝子亦同)は(女亦同)の「女」に「帝子・みかどのこ」とさらに註が加えられて(女「帝子」亦同)となり(女帝子亦同)となった、こう推測して不自然ではない。

この「註」の解釈を検討した著作において、他の令との整合性や歴史の事実から検証されたものには出会わない。「註」の文言のみで正しく解釈しようとするのは、単なる文理主義で法匪の世界の話でしかない。

 

平成25年3月16日

「竹取物語」のかぐや姫は帝を拒否した物語となっている。「伊勢物語」第69段は「男」と斎宮の密通である。そして「源氏物語」は父帝に対する裏切りとも考えられる物語である。

いったいこの時期の「物語」はなぜ天皇に対する背信ばかりなのだろうか。これまでの研究では政争に敗北した貴族が文人となって「竹取物語」や「伊勢物語」ができたとされてきた。ただこれは「源氏物語」にもあてはまるのだろうか。

「伊勢物語」の斎宮は、天皇に代わって伊勢の大神を祀る存在である。したがっていわば天皇の分身である。その分身と密通だから「男」は反体制とされているようだ。

「男」とされているのは在原業平であり、その父は阿保親王で平城天皇の第一皇子である。阿保親王は皇位継承に絡み、承和の変のあとすぐ薨去した。業平はこの16年前に父の上表により臣籍降下している。

業平は天皇の儀式を受けられなかった恬子斎内親王と密通する物語を書いた。それが父の処遇への恨みを晴らしたという見方は本当だろうか。平安時代初期は宮廷文化の時代である。なぜ許容されたのだろうか。やはり藤原政治への不満だったのだろうか。

 

平成25年年2月17日

文久元年(1861年)、皇女和の宮は公武合体策により、第14代将軍・徳川家茂のもとへ降嫁となった。中山道経由である。街道の各宿は滞りなく通行・宿泊できるよう、準備におおわらわだった。

これらの宿に対し、近郊の村などは「助郷」つまり支援すべき村に指定されて、人馬等が駆り出されるという制度があった。「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの区別もあったとされている。

皇女和の宮の江戸下向の際も、各助郷からは課役を減じてほしいなどの嘆願書が出されている。しかし結局は妥協しうる範囲で増助郷が実施されたことは各自治体の郷土史などに記されている。

これに先立つ安政五年(1858年)、我が国は米国との間に日米修好通商条約全14条と貿易章程7則を締結している。これにしたがって横浜港が開かれたのは翌安政六年(1859年)である。外国人に関内での居留が許されたのもこの年だった。

慶応二年は1866年である。横浜が開港となって我が国から物資は流出し、この頃までには長州征討などへの準備から米の買い占めなどが行われ、諸物価は高騰していた。山間部に傭役で暮らす人々に不満が募り、関東では武州一揆が発生した。

 

平成25年2月1日

神谷美恵子は終戦直後の文部大臣・前田多門を父に持つ精神科医であった。当時は実用英語に通じた人が少なかったので、文部大臣の父を手伝って通訳・翻訳をした。その次の安倍能成大臣の時には、正式に辞令も出て通訳として活躍した。

その神谷美恵子が残した「文部省日記」であるが、特に安倍文部大臣と民間情報教育局長・ダイクとの会見記は昭和史の研究には欠かせない。問題は昭和21年2月11日の第二回会見記である。

第一回の会見記は英字新聞、朝日新聞などに公開された。しかしこの第二回会見記は安倍大臣によって、次官にも内密にされた。公開されたのは雑誌「ももんが」の安倍能成追悼特集である。昭和41年9月。

しかし全文ではなく、紙面の都合からか最も重要な文が欠落している。その後昭和43年1月の「みすず」に掲載された。そして一般に読むことができるようになったのは昭和55年の『神谷美恵子著作集9―遍歴』の「文部省日記」である。

そこには民間情報教育局長・ダイクが「之を中外に施してもとらず」を、軍国主義者は「誤用」したと明言したことが記されている。急新派といわれたダイクであるが、その洞察力は天才的であった。日本人の誰一人、「誤用」に気がつかなかった。

 

平成25年1月11日

皇室の儀式における服装は、平安時代の嵯峨天皇の時に定められたといわれる。820年の「みことのり」にその詳細がある。今上陛下の即位式でも同じ色が用いられているから、少なくとも1200年弱の伝統である。

飛鳥から奈良時代は百済と新羅の文化が我が国に導入された。それぞれの文化の担い手が、我が国の政争に影響を及ぼしたとする研究もある。平安時代はどうか。

平安時代は唐の文化が主流だった。この皇室の服装も唐の影響が大である。そしてその根本は五行説にあるという。五行説とは五つの要素による世界観である。

木・火・土・金・水がその基本で、色はそれぞれ青・赤(朱)・黄・白・黒(玄)である。黄が中央にあり、それは大地であり、黄は晃晃でもあるという。最も尊い色ということだろう。

三皇五帝のうち、三皇の第三代は黄帝である。文物制度を創設したとされている。したがってこの黄帝の「黄」は偶然ではない。天皇陛下の最も大切な儀式における服装の色は「黄櫨染(こうろぜん)」と呼ばれている。

 

平成25年1月4日

葦津珍彦は戦後、「国家神道」は神道の側にはないと綿密な考証をした人である。森清人は戦前において詔勅を研究した人である。そしてこの偉大な二人には共通点がある。大いなる自信と謙虚さである。

葦津珍彦「(国家神道について)それが山積する資料の検討の残る余地ないまでに万全を期していたのでは、いつまでも研究の進まないのを遺憾として、あえて未熟の点あるを承知して、問題提起の試論を発刊することにした。」(『国家神道とは何だったのか』)

「神道同学の士の将来の修補改正を期待し、発刊に至るまでの事情を誌した。」(同)

葦津のいう「将来の修補改正」と森清人の「将来の研尋討覈を期す」は同義である。彼らは情熱を持って「国家神道」や「詔勅」の研究を行い、成果を残した人たちである。その人たちにしてこの発言である。

たしかに新しい史料が公開されて、彼らの見解には修正すべきものがある。したがって問題は彼らの遺した言葉に応えることである。財産を倉の中にしまっておいては先人に申し訳がない。

 

平成25年1月1日

また一年、「みことのり」の研尋討覈がはじまる。『大日本詔勅謹解』をはじめとする詔勅研究に打ち込んだ森清人はつぎのように述べている。拳拳服膺して今後の姿勢としたい。以下に『謹解』の序から引用する。

「本稿執筆以来、斎戒沐浴、一切の訪客を辞し、競々として筆を進めしも、一個の管見、往々にして述べて悉くさざるものあるを懼る。これ一に著者不学の致すところであるが、もし夫れ義に悖り解を過まるところあらば、悉くこれ一身の罪にして、読者幸いにこれを諒とせられよ。虔んで大方の垂示と叱正とを乞い、将来の研尋討覈を期す。」

この序が書かれたのは昭和8年12月1日である。発行は日本精神協会である。天皇機関説を排撃した菊池武夫がその会長であった。時代はやがて国体明徴運動へと進み大日本帝国の自滅へと向かう雰囲気の中にあった。

この一連の流れは残念ながら帝国憲法に違背したものである。なぜそうなったのか。詔勅研究の立場からすると、やはり教育勅語の曲解が大きなポイントだった。この曲解が少なくとも時代の後押しをした。

現代に生きる者として、教育勅語の曲解といわゆる「人間宣言」の曲解は正さねばならない。当サイトを継続する所以である。

 

平成24年12月21日

1961年12月21日中央公論社は「思想の科学」―天皇制特集号―を自主規制した。思想の科学研究会の会長は久野収であって発行が中央公論社だった。雑誌はその後思想の科学社が発行するところとなり、1996年休刊となった。

久野収で有名なのが『現代日本の思想』にある「日本の超国家主義」である。「顕教」=無限の権威をもつ天皇への信奉、たてまえ。「密教」=近代西洋風の自由民主の制度に準拠する、支配層間の申し合わせ、というものである。

上記のことを一般的には、「顕教」=天皇絶対説といい、「密教」=天皇機関説といった。「顕教」の極端な表現が2・26事件で、「密教」のそれは昭和天皇の「終戦」に至る英断というところだろう。天皇は重鎮らが決定できず請われて考え方を表明された。

しかしこの見方は歴史の羅列に言葉を添えただけである。明治憲法下における我が国の分析としては不十分かつ誤っている。言葉は不適切だが、明治憲法と教育勅語はこれでいうならいずれも「密教」である。

「顕教」は教育勅語を曲解し、そのうえで明治憲法の解釈を行うと必然的にこうなるという典型的な誤りである。今このことを究明せずに『現代日本の思想』を古典あつかいにすれば将来への禍恨となるだろう。

 

平成24年12月7日

我が国における民間新聞のはじまりは「中外新聞」だという。幕末から明治初めの洋学者・柳河春三の会訳社が発刊した佐幕派新聞だった。安政元年以降、オランダは新聞を幕府に差し出すことになった。

幕府はこれを蕃書調所に翻訳させ、文久二年には「官板バタビア新聞」として公刊した。バタビアのオランダ政庁発行の週刊新聞「ヤバッシュ・クーラント」からの抄出和訳。The Japan Times なども柳河春三らが翻訳した。会訳社にはのちの初代東大綜理・加藤弘之もいた。

「太政官日誌」の創刊が慶応4年2月23日、「中外新聞」は同2月24日。以下、「内外新報」「公私雑報」福地桜痴の「江湖新聞」そして「遠近新聞」「横浜新報」「都鄙新聞」「崎陽雑報」などが慶応4年中に創刊された。新聞の創刊ブームだったといってよいだろう。

「中外新聞」は外字新聞からの訳出と国内記事をもとに編集された。したがってこの「中外」は「国の内外」である。この時代の洋学者だから国典に通じていた可能性はほぼないだろう。明治7年の漢和辞書でも「中外」は「国の内外」だった。

「日本経済新聞」の前身は明治9年の「中外物価新報」。創刊者は三井物産社長・益田孝で明治18年には日刊となった。その後「中外商業新報」となり昭和21年「日本経済新聞」と改題された。国典の「宮廷の内外」とは異なる意味である。

 

平成24年12月3日

これまでの政教関係裁判では、ほぼ合憲判断がなされてきた。傍論における余分なコメントはあるものの、政教分離原則を振りかざす訴訟にたいし常識的な判断が下されてきたことは僥倖としかいいようがない。

それでも訴訟が繰り返されるのは、津地鎮祭訴訟の名古屋高裁判決(違憲判断・昭和46年5月14日)に徹底批判が加えられていないことにあるのではないか。今日でもこの判決文にある文言が引用されているからである。

「戦前の国家神道の下における特殊な宗教事情に対する反省が、日本国憲法第20条の政教分離主義の制定を自発的かつ積極的に支持する原因になっていると考えるべきである」「天皇を現人神とし、祭政一致を我が国体と観念した国家体制の下で・・」

しかし「国家神道」の定義はなく、天皇を現人神としたことの原因も語られていない。これらは捏造本である村上重良『国家神道』の口写しである。すでにこれらの問題点は、1980年以降に公開された史料に明らかである。

政教分離原則の徹底にたいする反論では、国家神道や現人神というものの歴史的検証を欠いている。これが当サイトを公開するきっかけであるが、その根本には教育勅語などの詔勅解釈がある。この名古屋判決の誤りを正さない限り、政教分離訴訟は繰り返されるだろう。

 

平成24年11月23日

日本国憲法の八月革命説は宮沢俊義で有名だが、この説そのものに疑問がある。革命以前の歴史があるとの認識だから、戦前が革命に値する時代であったこと、そしてそれが帝国憲法に原因がある、そのことが確実でなければならないからである。

この説に近い立場の横田耕一著『憲法と天皇制』を読むと、この説の矛盾があらわになる。同書における戦前は、帝国憲法=天皇主権、天皇=現人神、そしてこれまで語られてきた「国家神道」が存在したというのである。

まだまだ矛盾は記されている。しかしこの三つに決定的な錯誤がある。帝国憲法に天皇主権はないし、天皇が自らを現人神と宣言せられたことはない。そしていわゆる「国家神道」は、当サイトが検証しているように教育勅語の曲解が原因である。神道とは関係がない。

彼らの云う革命以前、つまり戦前が否定すべき情況になければ革命説は成立しない。日本国憲法の制定そのものに疑問が出てくるということになる。GHQの圧力云々は措くとしても、日本国憲法絶対派の八月革命説は非学術的だということになる。

近現代史で最もあいまいなのが昭和戦前である。統帥権干犯論・5・15事件そして2・26事件から国体明徴運動、その延長線上で発行された文部省「国体の本義」がはっきり帝国憲法に違背したと検証できないことが原因である。むろんその根本は教育勅語の曲解にある。

 

平成24年11月18日

天皇を語る際、日本国憲法の「象徴天皇制」ということを基礎にする著作が少なくない。つまり今上天皇が125代であることを否定する見解である。天皇は日本国憲法に記された立場があり、それ以前とは断絶しているとする見解である。

皇位継承や皇室典範の改正論議において、この日本国憲法・初代天皇論があるようだ。横田耕一著『憲法と天皇制』には「原理的に国民主権原則と矛盾する象徴天皇制」とあり、憲法学者でさえもこの主張がある。同書では今上天皇125代を疑問視している。

また同書において、政教分離原則なる言葉について奇妙な記述が見られる。「(政教分離原則は)超歴史的なものではなく、国家神道が存在し、天皇が神格性をもって統治していた、敗戦前の日本の状況の反省から生まれたものであるから・・」

政教分離は、国家神道を否定し、天皇と神道を公的な結合から分離せしめるものである、という認識である。天皇条項については日本国憲法、政教関係条項については国家神道を基礎とする。しかし当サイトでは国家神道と神道が無関係であることを検証している。

まず国家神道論の論者は、少なくとも国家神道を証拠に基づいて実証すべきである。持説に根拠のないことが誰にも明らかになるだろう。また天皇という歴史的御位は成文法で尽くせるものではない。「断絶」された天皇など、そもそも矛盾した表現である。

 

平成24年11月7日

佐々木盛雄は東京外大卒で新聞記者10年、そして自民党から衆議院議員となり内閣官房副長官・労働政務次官を歴任した。昭和47年2月11日『甦る教育勅語』を出版した。発行は国民道徳協会である。

あとがき「今ごろ「教育勅語」などを引受ける殊勝な出版屋などはどこにもない。仕方なく自家出版にしたが、同憂の諸氏から激励や、援助をいただいてうれしかった。」奥付には送料とも500円とある。道徳の乱れに対する止むにやまれぬ気持が出ている。

現在巷間に流布している教育勅語の口語訳文。これはこの、おそらくは協会員本人1名の、国民道徳協会の訳文である。『勅語衍義』の見事な受け売りではあるが、GHQ占領政策の評価などは興味深い。

「「教育勅語」は、道義人倫の正道を示したものであって、古今東西を貫く不易の教訓」として最初から誤った解釈が露呈されている。もちろん「樹徳深厚」や「之を中外に施して悖らず」などは、当サイトで主張しているように、完璧な誤解をしている。

ただ参考になることも記されている。漢文訳・教育勅語の「通諸古今而不謬施諸中外而不悖」である。これは元田永孚の書簡の漢文と同じであるが、重野安繹では「通之古今而不謬、施之中外而不悖」である。「諸」は「之」であり「斯の道」であることは元田の書簡に明らかである。「諸中外」ではない。

 

平成24年11月5日

皇室典範は新旧ともに第一章「皇位継承」とあるように、皇位継承の法を定めたものである。また時代に応じて多少の修正が必要となることは他の法と同じである。朝鮮併合後における皇族女子と朝鮮の王公族との婚姻などは当初想定されていなかった。

大正7年の「増補」は、朝鮮王公族の法的地位を明確にする意味で必要な修正であった。大正9年の「皇族の降下に関する施行準則」はあくまで皇室経済を危惧しての「準則」だった。降下を促す意味があったということだろう。

この「準則」の説明。「天皇より八世まで、各世一人に限り皇族の班列に留めて尊栄の身位を保たしめ、其の他の王は総て臣籍に降下せしむるを以て常則と為すなり」大正天皇を基準とすれば皇玄孫・悠仁親王の子から四世で「皇位継承」が途絶えることになる。皇位継承法なのに本当か。

このカラクリは皇室典範第31条「皇子より皇玄孫に至るまでは男は親王女を内親王とし五世以下は男は王女を女王とす」の解釈にある。これは常に今上天皇(あるいはその皇子)を基準とする。皇位は継承されるのだから当然である。淳仁天皇の即位で兄弟姉妹が親王・内親王とされたこととが史実にある。

つまり天皇の嫡系長子孫、あるいは皇位継承者には適用されるはずのないものである。そして皇位継承候補者の減少があれば再度修正されるべき内容である。皇位継承が基本の皇室典範が、「増補」「施行準則」で廃絶を想定することなどあり得ないのである。

 

平成24年11月2日

(皇室典範―1/5)

皇室典範は大日本帝国憲法と同時に制定された。帝国憲法の発布は明治22年2月11日の官報に確認できる。伊藤博文『帝国憲法・皇室典範義解』は同年6月1日に出版されていたが、皇室典範は皇室の家法と考えられ官報には掲載されなかった。

明治40年2月11日「皇室典範増補」が制定され公布となった。全8条で第1条から6条までが臣籍降下関連条項、第7条・8条は条文を引用すると「皇族と人民とに渉る事項」であった。

皇族と人民にトラブルが生じた場合の、皇族に適用される規程と人民のそれを定めたものである。実質的に人民は民法に依るが、皇族に不利あるとき皇族は皇室典範の定めるところに依るとされたのである。

さらに大正7年11月28日「皇室典範増補」が公布された。梨本宮方子女王と李王世子との婚約が成立して朝鮮王公族の法的地位を明確にする必要があったからである。したがって条文の内容は「皇族女子は王族又は公族に嫁することを得」のみである。

(皇室典範―2/5)

(「皇族の降下に関する施行準則」)
大正9年3月17日、枢密院において「皇族の降下に関する内規の件」が議題とされた。明治40年の「増補」第一条を実施するための内規である。将来における皇室経済の逼迫が懸念されたことによる。顧問官・伊東巳代治から詳細な説明がなされた。

同年5月15日、枢密院のあとを受けて皇族会議での議論となったが強い反対意見があった。議事録は確認できないが要人の日記等から皇族会議令第9条「皇族会議員は自己の利害に関する議事に付き表決の数に加はることを得す」を理由として結論を出さなかったといわれている。

その後同年5月19日「皇族の降下に関する施行準則を裁定し其の施行を命ず」とのご裁可があった。その文書は現在国立公文書館で確認できる。

大正9年7月芳麿王の臣籍降下を始めとして大正年間に3名、昭和戦前は藤麿王から徳彦王まで9名の臣籍降下が確認できる。いずれも明治40年の「増補」第1条の「情願」によるものであり、すべてご次男以下の方々であった。

(皇室典範―3/5)

(「論点整理」にある誤った解釈)
「皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まえた論点整理」は平成24年10月5日に公開された内閣官房の報告書である。この57頁には大正9年「皇族の降下に関する施行準則」についての解釈が参考資料として掲載されている。

〔旧皇族の特例〕・旧皇族はすべて崇光天皇の16世孫である邦家親王(伏見宮)の子孫であったため施行準則をそのまま適用した場合には、全員が皇籍離脱をすることとなった。そこで、邦家親王の子(17世)を、特例として、5世王とみなして施行準則を準用することとされた。

すなわち、旧皇族については、11の宮家それぞれについて長男の系統のみ17世~20世までを皇族とし( ◎ )、それ以外の方は皇籍離脱をする(◇)こととされた。

その結果、17~20世であっても次男以下の系統は皇籍離脱をする(◇)こととされていた。また、長男の系統も21世は皇籍離脱をする(◇)こととされていたので22世以降は誕生したときから皇族ではない(▼)こととされていた。

以上がその内容である。つまり旧皇族は邦家親王(16世)を皇玄孫とみなし、ここから4世の20世までの長男のみ皇族で21世からはすべて臣籍という解釈である。また畏れ多くも大正天皇の皇玄孫は悠仁親王であるから、その五代あとは臣籍降下、六代目からは生まれながらにして臣籍という解釈である。

どのようにしても、大正9年の 「皇族の降下に関する施行準則」によって必然的に皇統は絶たれ、我が国はもはや天皇を戴く国ではなくなっているような図にしか見えない。

(皇室典範―4/5)

(枢密院の説明に矛盾する「論点整理」の解釈)
この天皇の系図は「皇統廃絶」という大きな誤解を与える可能性がある。この図は、実はこの誤解の原因が大正9年「皇族の降下に関する施行準則」についての誤った解釈にあることを示しているのではないか。

当然のことであるが、記録にある枢密院における顧問官・伊東巳代治の説明に「宮家廃絶」や大正天皇の嫡男の系統への言及は見られない。言うまでもなく明治40年の「増補」は「祖宗の丕基を永遠に鞏固にする所以の良図を惟ひ」制定されたのである。

内閣官房の報告書の通りに解釈すれば、皇統は近い将来において廃絶となる。伊東巳代治の説明ではあくまで「王」が対象である。したがってこれは天皇の嫡男(親王)や宮家の当主に適用する内規などではあり得ない。「永遠に鞏固にする所以」とある「上諭」がそれを証明している。

「増補」が制定されたのは「時に随ひ宜を制す」つまり状況の変化に対応して、あくまで皇室典範の本文の範囲内での補助法令として制定されたのである。律令制度における「格式」が、律令の本文を変更せずに補助法令として制定されたことと同じ意味である。

だから『令集解』の叙に以下のような文章がある。要約すると「格はその時を考慮して制を立てるものであり、式は法令の不足を補い、落ちているものを拾う、いわゆる「拾遺補闕」ということである」。そもそも皇室典範は皇室護持のためのものであり、「増補」がこれを覆すことは到底あり得ない。

(皇室典範―5/5)

(内閣官房の皇室典範「報告書」は無効)
平成17年11月に公開された小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書にも「養老令」(継嗣令)の曲解が放置されている。これらを含め一括して内閣官房の皇室典範に関する会議またその報告書はすべて無効とすべきである。

議論は事実に違背しない歴史解釈をもとに行われるべきである。この報告書にある参考資料を基礎にした皇室典範議論など、世が世ならまさしく不敬罪に相当するというべきものである。

内閣官房「皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まえた論点整理」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/pdf/121005koushitsu.pdf

 

平成24年10月25日

奈良時代には本格化した律令制度であるが、平安時代に入って格式(きゃくしき)が編纂された。律令の補助とされている。嵯峨天皇の弘仁格式、(弘仁格・弘仁式)、清和天皇の貞観格式、醍醐天皇の延喜格式をまとめて三代格式という。格は補助法令で式は施行細則である。

この格と式は「時に随ひ宜を制す」というものであった。律令の本文は変更せずに、その時代にあった修正をしたということの様である。『令集解』の叙。「格式何物。答。格者。蓋量時立制。「其式者。補法令闕。拾法令遺。」格式とは何か。その答。格はその時を考慮して制を立てるものであり、式は法令の不足を補い落ちているものを拾う、いわゆる「拾遺補闕」ということである。

明治皇室典範は先ず皇室経済の将来に備えて臣籍降下を考慮し、「皇族と国民」との間の適用法令について明確化する必要があった。これらは皇室典範の本文に記されていないので増補となったのである。律令に対する格式に相当する。

そもそも三代格式の存在が「時に随ひ宜を制す」を証明している。弘仁格式は830年に施行され貞観格は869年貞観式は871年の施行、延喜格は908年そして延喜式は967年に施行されたと云われている。時代に副ったものへと適宜、修正されたのだろう。

明治皇室典範は大正7年に入って第2回目の増補となった。大正5年に梨本宮方子女王と李王世子との婚約があったからである。したがって増補の本文は「皇族女子は王族又は公族に嫁することを得」となった。朝鮮王公族の法的地位の明確化が急がれたのである。

 

平成24年10月23日

明治皇室典範は明治22年2月11日に裁定された。大日本帝国憲法発布の日である。その後、明治40年2月11日と大正7年11月28日に増補が行われ、GHQ占領下の昭和22年5月2日に廃止となった。現在の皇室典範はその翌日5月3日に施行された。

井上毅の没後、明治30年代から国法一元論が語られるようになった。宮中事務と国家事務は区別すべきでない、との考え方である。国民も遵守すべきものだから皇室典範は皇室の家法というだけでは如何か、という論であった。「皇族と人民」に渉る事項への適用規定を明らかにする必要があった。

また同時に皇室経済の逼迫という懸念があった。そこで「五世以下の皇族男子を臣籍に列するの制」の検討をはじめた。明治40年の皇室典範増補は全8条であるが、第1条から6条までは臣籍降下関連で第7条と8条が皇族関連規定と他の規定との関係を定めたものとなっている。

本来はこの第7条8条が優先されて増補される予定だったが、この二ケ条のみでは「余り強く人民の注意を牽くが故に表面を掩ふの政略」(有賀長雄・御用掛)として急ぐ必要のない臣籍降下制度が用いられたという。

皇室経済の逼迫は皇位継承者が豊富に存在した、ということである。当時の状況から臣籍降下が制度化されたのは嵯峨天皇の時代と変わらない。このことを無視し第5条「皇族の臣籍に入りたる者は皇族に復することを得ず」を金科玉条として旧皇族の復帰を阻止するのは歴史音痴というしかない。

 

平成24年10月20日

元明天皇の詔にある不改常典についての諸説はおおむね6種類に分けられるという。

①近江令説・②嫡系ないし直系主義にたつ皇位継承法・③隋唐風の専制君主としてのあり方を定めている・④皇位継承者の決定を天皇大権として位置づけている・⑤君臣の義を定め、皇統君臨の大原則を定めている・⑥幼帝の即位を定めている、の6種類である。

以上のうち①近江令説は根拠が確認できない、③の専制君主は歴史の事実に違背する、即位の宣命にある「現御神止」は専制と逆だからである。④の天皇大権なら天智天皇以前の皇位継承がわからなくなる。⑥の幼帝云々も聖武天皇のために時間をかけたことが説明できない。

残るは②と⑤である。⑤の皇統君臨は開国以来なので天智天皇がはじめたとのことが説明できない。また皇位継承を君臣で争ったことがないから君臣の義もあてはまらない。のちに道鏡事件はあったが、元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇・淳仁天皇のあと称徳天皇の時代のことである。

やはり不改常典の内容そのものは②嫡系ないし直系主義にたつ皇位継承法である。ただし元明天皇が二度と壬申の乱を起さぬよう戒めるために発せられたものである。文武天皇から聖武天皇への皇位継承のため、元明天皇・元正天皇と中継ぎをされたこと自体がそれを示している。

 

平成24年10月11日

戦前の駐日米国大使・ジョセフ・グルー「「明治憲法は天皇に主権を与えているため、どの政党も国民主権を主張できないと指摘したうえで、憲法が改正され日本国民が十分な時間を与えられれば、日本に議会制度を再建し政党制度を確立することができるだろうと論じた。」以上は国会図書館の説明にある。

「主権」は憲法に無いが、グルーの原文には次のような言葉もある。「日本人は自らが偽りの宗教と詐欺の憲法からの解放者でなければならない」。グルーは神道の儀式に感動もしたし、また『滞日十年』(昭和19年米国出版)には帝国憲法への批判も見当たらない。

つまり「偽りの宗教」と「偽善の憲法」は『滞日十年』の脱稿後からシカゴ演説の昭和18年12月29日までに整理された見解のようだ。そしてこの言葉を言いかえると、日本人が「国家神道」と「大日本帝国憲法」から自身を解放せよとなる。

「国家神道」が教育勅語解釈の誤りが原因であることは当サイトのテーマである。また帝国憲法は昭和戦前において踏みにじられた。グルーの赴任期間は帝国憲法蹂躙時代と重なっている。問題は憲法にあったのではなく、これに違背した我が国の政治にあった。

残念な話であるが、「神道指令」(その後の政教分離政策)や「憲法改正」(日本国憲法というGHQ占領基本法)はいずれも誤った歴史認識からなされたものだった。この解明こそ喫緊のテーマなのではないか。

 

平成24年10月9日

岩波・新日本古典文学大系『続日本紀』における不改常典の解説は、これまでの諸説が網羅されていてその解釈の全体が概ねわかる。そしてこの解説の中にも不改常典の内容を推定させるコメントがある。

「不改常典が天智天皇が真実定めた皇位継承法であるならば、文武即位詔にも記されてよさそうであるのに、元明即位詔において唐突にあらわれる。」

不改常典は文武天皇から聖武天皇へ確実に皇位を継承するための、元明天皇の思いから持ち出されたものである。その思いの中に、二度と壬申の乱のような皇位継承争いを起してはならない、それがあって不改常典が用いられたのである。

したがって、文武天皇の即位については、元明天皇が持統天皇の思いを忖度されて「持統天皇が文武に譲位されて、ともに我が国をご統治されたのは、天智天皇の不改常典によって行われたことと、衆受被賜(もろもろうけたまはり)て」と語られたのである。

「行われたことと」の「と」は「そのように」である。文武天皇即位の詔に不改常典がなくても、元明天皇が持統天皇の気持ちを忖度された表現で、元明天皇における不改常典の意味がわかるのである。上記の解説に壬申の乱が一言もないことで、このコメントの的外れが知れるのである。

 

平成24年10月7日

『日本書紀』は全30巻。その巻28はすべて壬申の乱の詳細であり、壬申紀ともいわれる。のちの天武天皇と大友皇子による皇位継承争いである。巻28はこれまで天武朝の正当性を著したものとされてきた。しかし記述にそれは感じられない。

天武天皇はその10年3月17日に「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という内容の詔を発せられた。これが『古事記』『日本書紀』のもとになったとされている。このことがあって「天武朝の正当性」が語られるのだろう。

しかし元正天皇の養老4年(720年)に『日本書紀』が完成したことを考えれば、その撰述には707年から715年までの在位期間をもつ元明天皇の関与が最も大きいと推測してよいのではないか。少なくとも元明天皇が認めなければ『日本書紀』の完成はなかっただろう。

上記のように考える確かな根拠が存在する。元正天皇の「不改常典」に関する深い理解である。元明天皇は壬申の乱のような皇位継承争いを防止するため「不改常典」を語られた。元正天皇はそのことを完璧に理解されたのである。詔にそれが表現されている。

だから元明天皇は壬申の乱の詳細を『日本書紀』巻28に撰述せしめられたのではないか。これで巻28が壬申紀であることに納得がいく。『日本書紀』「壬申紀」そして「不改常典」、これらはすべて元明天皇の視点から分析してその意味がわかってくる。

 

平成24年10月6日

今も昔も人間の狡猾さは変わりがない。生活保護の不正受給はその一つであるが、奈良時代から平安時代にも同様なことがあったらしい。田についてである。

646年に班田収授法の制定が始まり、652年には班田(給田)が行われた。新たな田の開発も行われ、723年には三世一身法(開墾者から三代の間の私有)も施行となった。

しかし不満があったのだろう、743年には墾田永代私財法(永年私有)が施行された。のち902年に班田制は廃止となるが、この間にいろいろあった。

「戸絶」は家が絶えることであるが、戸絶の場合、田は公に返還である。しかし名を偽っての相続があったらしい。そこで「氏族志」の整理があり、のちの「新撰姓氏録」となった。出自を明らかにするものである。

我が国では蔭位制が主で試験は従であったから、親又は祖父の身分で叙位されたのである。だから「新撰姓氏録」の編纂理由に「冒名冒蔭」の防止があったとしても矛盾はないだろう。

 

平成24年9月24日

第50代・桓武天皇は現在の京都に都を遷した天皇である。平城宮から784年に長岡へ遷都したが藤原種継の暗殺事件などがあって、794年に山城(山背)国、現在の京都へ遷都となった。

その桓武天皇のご事跡に「停烽廃関」がある。軍事上の通信手段であった烽燧(ホウスイ・のろし)を停止し、三関(不破の関・鈴鹿の関・愛発(あらち)の関)を廃止したということである。

前者の理由には「烽燧之設。元備警護。而今内外無事。防禦何虞。」とある。烽火の設置は本来(外国の侵攻からの)国家の警護であった。しかし現在は国の内外とも安定している。国防について何を心配するのか、というところだろう。(外国の侵攻)と意訳したのは、烽火が白村江での敗戦以降設置されたからである。

そして三関の廃止理由には「置関之設。本備非常。」「徒設関険。勿用防禦。遂使中外隔絶。既失通利之便。」とある。関を置いたのは本来非常への備えであって、防禦のために用いてはならない。関での調べをきつくして中央と地方を隔絶させ、すでに通行の利を失っている、ということである。

「停烽」の「内外」はむろん文脈から「国の内外」が妥当であり、「廃関」の「中外」は国内のことであるから「中央と地方」である。まことに適切な使い分けであるという以外にない。

 

平成24年9月15日

我が国が自国を「中国」と表現したのは以外に古い。『日本書紀』の雄略天皇紀や『続日本紀』の文武天皇紀に我が国を「中国」とした表現がある。山鹿素行『中朝事実』の「中朝」は我が国のことであるが、やはり国典を熟読していた証拠だろう。

本居宣長も「馭戎慨言」において、皇国こそ「中国」だと語った。自国はともかく、周辺国がChinaを中華中国というのはけしかんということである。Chinaについて、支那は荻生徂徠が用いていたと云われるが、江戸時代のChinaは「もろこし=諸越」が多かったのではないか。ただ幕末の会沢安『新論』では「中国」である。

現在でも中国という表現に批判的な向きがある。これも中華中国と云わず支那と言え、ということだろう。たしかに中華人民共和国は中共が妥当であるし、中華民国は台湾だがこれを中国と略すのは不自然である。

世界史的な観点からは各王朝を総合して国名とした方がわかりやすい。その意味では「中国」もやむを得ないが、秦からChinaとなったのなら支那は都合がよい。

支那の「支」に支店のニュアンスがあって中共は嫌がったのだろうか。あるいは「暴支膺懲」などのイメージがあったのだろうか。シナの「倭奴・わど」だってひどい表現としか言いようがないのに。

 

平成24年9月6日

山鹿素行の『中朝事実』。乃木大将が明治天皇への殉死の直前、同書を迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)に献上したことはよく知られている。この「中朝」は我が国である。外国とくに中国を崇拝して我が国を軽んじることへの批判である。

未確認だが山鹿素行の日記の一部に「中外事実」と記されているものがあるという。このレポーターは誤植だろうかと疑問を隠せない。ただ素行にとっては「中朝」が我が国、「外朝」は外国であるから案外整合性はあるのではないか。

漢和辞典によれば「中朝」は天子が政務をとる処であり「外朝」は儀式を行う場所であった。のちには「外朝」で外朝官らが政務を行ったから「中朝」は天子の居処となった。また「中朝」には「中原」の意味もある。

『管子』の「中外不通」は、「後宮」の女官と「外朝」の男性が交わると朝廷の秩序が乱れることからそれを禁止したという意味である。大雑把には「中」は宮中、「外」は府中といったところだろう。

ところで『中朝事実』の本文に「中外」が二か所あった。「国、中外に有ると雖も」「中外以て之を重しとなす」これらはいずれも「国の内外」という意味である。山鹿素行の「中外」は「中朝」同様、この時代では独特の用法である。

 

平成24年9月2日

ドイツと日本の戦後。ニュルンベルク裁判と東京裁判。Aは平和に対する罪・Bは通例の戦争犯罪・Cは人道に対する罪。ドイツのユダヤ人虐待は空前絶後だったから主にCで裁かれた。日本は共同謀議など主にAで裁かれた。日本の場合Cの有罪はゼロでちなみに「C級」はBの実行者だった。

ドイツの戦後処理と我が国のそれに違いがあることは知識人の常識だった。しかし朝日・毎日新聞はヴァイツゼッカー演説を曲解して我が国の戦後補償を煽り続けた。1993年7月宮沢内閣末期の河野洋平官房長官は歴史を歪曲した河野談話を発表し、1993年8月細川護煕首相は訪韓して「従軍慰安婦、徴用などで、耐えがたい苦しみと悲しみを体験された事に加害者として、心より反省し、陳謝したい」と語った。

彼らの「従軍慰安婦」には、貿易を拡大したい日本商人と中国へのおもねりがあった。誤った贖罪意識もこれに加勢した。

ドイツは国家賠償を拒否し個人賠償とした。そしてすべての責任をヒットラーとナチスに押し付けた。これで非ナチ化した「善きドイツ人」の国となったと言われている。したがってこれはドイツの巧妙な「操作」だとも言われている。

左派リベラルの南ドイツ新聞2000年5月。日本は「第二次世界大戦の戦前と戦中、国家神道と『神=天皇』の名において、近代的なニッポン侵略軍部隊が全アジアへ襲いかかったのではなかったか?」(『戦争責任とは何か』)。この見解はGHQのそれと同じであるが、当サイト以外の追究は見あたらない。

 

平成24年8月25日

昭和13年の「日本には戦争景気が出はじめていた」とは小林勇『惜櫟荘主人』である。そして支那との関係はますます複雑になっていた。岩波新書はこの時期に中国問題をはじめとして一般に理解しやすい書物として発刊された。

岩波茂雄による「岩波新書を刊行するに際して」
「天地の義を輔相して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の神髄にして東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられたる世界的義務である」

ほとんどこの2年後の昭和15年に示された、第二次近衛内閣による基本国策要綱と変わりない。すでに日本全体が我が国を東洋の盟主と考えていたということだろう。

「古今を貫く原理と東西に通ずる道念によってのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果されるであらう」

この文言は教育勅語の「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」からきていると考えて無理はない。

この「普遍的な」原理と道念つまり道徳的観念なら全世界にあるはずである。日本に限ったことではない。この教育勅語の曲解をたしなめる言論は無理な時代だっただろう。岩波茂雄のような知識人でさえ完璧にこの曲解に洗脳された時代であった。

 

平成24年8月24日

昭和10年は美濃部達吉の天皇機関説を排撃する国体明徴という憲法を蹂躙する言葉が流行った年だった。徳富蘇峰は「未だ美濃部博士の法政に対する著作を読まない」のに美濃部を攻撃し、岩波茂雄は「私は博士の学説を知らない」のに美濃部を擁護した。そんな時代だった。

ただ岩波茂雄の朝日新聞への投稿はのちに岩波書店会長となった小林勇らが取り下げた。商売人だから厄介な事を避けるための行為だったと思われる。朝日新聞側も当惑していた。これらは小林勇『惜櫟荘主人』にある。

「忠君愛国は一部人士の占有物でなく全日本国民の光栄ある特権にして中外に誇るべき国民的情操である」この「中外」は国民的情操を誇るのだから「国の内外」で妥当だろう。「全国に誇る」では文章が流れない。

岩波は出版業だからどうしても網羅的になる。自由主義的なものから共産主義まで取り扱いたい。『資本論』はすでに各社から出ていたが岩波も固執した。河上肇・宮川実共訳ではじまりのちに時勢から絶版となった。

「皇道は天壌の無窮なる如く宏大無辺である。偏狭なる忠義観、固陋なる国体観を以て他を非国民扱ひにするが如きは最も恐るべき危険思想である」この「国体」はのちの文部省『国体の本義』のそれである。

 

平成24年8月18日

国会事故調・黒川清委員長。「事故は「日本文化に根差した慣習」によって生じた「日本製(メード・イン・ジャパン)」の危機だったと断じた。」と英語版に記載した。日本語版にこの記載は見当たらない。不思議な表現だと思っていたが、あっさり判明した。この委員長もある種の典型的な知識人であって、彼のブログからルース・ベネディクト『菊と刀』に洗脳された一人だったと知ったからである。

『菊と刀』はE・H・ノーマンを多く引用して書かれた日本文化論。ノーマンは軽井沢生まれのカナダ人外交官であって、羽仁五郎らと親交のあった共産主義シンパであった。GHQの一員でもあって、府中刑務所から志賀義雄・徳田球一らの共産主義者を釈放した。

『菊と刀』は当時、柳田国男らから批判を受けた。しかし川島武宣らの宣伝があって多くの知識人の読むところとなった。その後は現在に至るまで大学などの推薦図書の一つとなっている。

この『菊と刀』は、歴史の事実から検証すると、ほぼ各章において間違いが散見されるトンデモ本である。またサミュエル・スマイルズ『西国立志編』「品行を論ず」を読めば、「恥の文化」が日本特有でないことは明白である。日本社会の分析もポイントを外している。

黒川委員長が事故原因について、Its fundamental causes are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture と語ったのは、彼がいまだにトンデモ本『菊と刀』の呪縛から解放されていないことの証明である。

 

平成24年8月10日

昭和20年6月9日、鈴木貫太郎総理大臣の施政方針演説。
「万邦をして各々其の所を得しめ、・・実に我が皇室の肇国以来のご本旨であられる・・」
「米英両国の非道は遂に此の古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる国是の遂行を、不能に陥れるに至ったものであります」

「中外に施して悖らざる国是」は「大義を八紘に宣揚」や「我が肇国の理想を東亜に布き」とほぼ同じある。GHQからするとこれが「世界征服思想」、国家神道・国体神道の教義だった。

「万邦をして各々其の所を得しめ、・・実に我が皇室の肇国以来のご本旨であられる・・」が「治、値也」からきていることは疑いがない。治まるということは値、つまりそれぞれふさわしい位置を占めること、ということである。

「治、値也」はそれなりの説明を要するが、ここでは省く。問題は「中外」である。そもそも上の「中外」は教育勅語の引用である。そしてその場合の意味は「朝廷と民間」「中央と地方」であり外国は関係がない。

「中外」と「八紘」「東亜」が道義となったのは教育勅語の曲解による。今日までの昭和史の論考で、この鈴木貫太郎演説を正しく解釈したものは拙著『日米の錯誤』以外に見当たらない。

 

平成24年7月27日

ルース・ベネディクト『菊と刀』は1946年にボストンで出版された。昭和23年に邦訳が世に出て以降、昭和25年には『民族学研究』第14巻4号において、柳田国男・和辻哲郎・南博・有賀喜左衛門・川島武宣らの賛否が掲載された。

結論を言えば、有賀喜左衛門・川島武宣は好意的な評価で、あとはかなり厳しい評価である。「日本文化の型」を模索する作業はどうしても象徴的な事柄を中心に考える。その歴史的な検証やそれが多くの国民の行動の基礎となっているかどうか、こういった批判がある。

また評者はみな学者であるから最初にベネディクトの方法論を問題にする。ここが批判文を読むポイントだろう。どんな方法であれ、分析の結果に妥当性があれば問題はないはずだが、最初に方法論を批判するのは如何かと思う。

「天皇に対する無条件、無制限の忠誠」と著者は語るが、およそ日本を紹介する文章でここだけを強調するのはバランスを欠いている。一方的な刷り込みとなる。しかし評者にこの点への批判は見られない。

日本人の天皇へのこの姿勢は皇恩に対するものであり、この皇恩こそ「しらす」という歴代天皇の「無私」の統治である。これが日本人の自由を保障してきたのである。トップが「無私」なのだから我が国には独裁がないのである。本書が日本人の自由の淵源を語っていないことこそ、批判されるべきである。

 

平成24年7月22日

文系の学生にはルース・ベネディクト『菊と刀』が推薦図書とされることが少なくない。現に国際教養大学の学長推薦にも挙げられている。現代教養文庫に入った昭和42年以降は特に読まれた日本人論である。

多くの評者はベネディクト女史が一度も来日せずに同書をまとめたことに感心する。しかし内容をよく読めば、ハーバート・ノーマンを多く引用している。そしておそらくはD・C・ホルトムあるいはラフカディオ・ハーンそしてチェンバレンなどを参考にしたことはほぼ間違いないだろう。

そのハーバート・ノーマンは1909年(明治42年)軽井沢生まれのカナダ人である。16歳頃結核となりカナダのカルガリーで療養した。のちにトロント大学からケンブリッジを経て青年共産同盟のシンパとなった。

戦後は日本語ができたことからGHQに招聘され、そのあとにはワシントンの極東委員会にカナダ次席代表で参加した。学問を通して都留重人・羽仁五郎・丸山真男らと親交があったからその思想本籍は明らかである。

『菊と刀』を慎重に読むと各章に歴史の事実に反する部分が散見される。これらを事実に基づいて分析批判することが、これまであまりなかったようだ。ベネディクトの国家神道論などまったくその根拠を歴史に求められるものではない。

 

平成24年7月4日

我が国への仏教伝来について、538年とするものや552年などがある。『日本書紀』からすると欽明天皇13年で552年説となるが、定説はないということらしい。

ただ仏教は、百済の高句麗や新羅との外交上の戦略から我が国への支援要請の見返りとして伝えられた、このことはほぼ間違いないだろう。百済・聖明王の在位は523-554年だから、この間だと推測していいのではないか。

唐の時代、西から東へ、唐・百済・新羅そして日本があった。百済の北は高句麗である。任那は諸説あるが、朝鮮半島南部と北九州が様々な意味で交流があったことは事実だろう。

地政学的に百済は日本へ支援を要請する必要があった。その後そうした縁で百済復興軍とともに白村江で戦ったが、結果は唐・新羅軍に惨敗した。ここから我が国の唐化が促進された。律令制度の本格化である。

大陸と我が国の緩衝地帯としての朝鮮半島は、分裂と統一を繰り返してきた歴史である。その状勢によって我が国も影響を受けてきた。現在の北朝鮮・韓国はロシア・中国に阿っている。いつでも要注意である。

 

平成24年6月26日

対米開戦時の駐日米国大使・ジョセフ・グルー著『滞日十年』は戦前日本を的確に分析した好著である。昭和23年の邦訳であるが、原著は昭和19年ニューヨークで出版されていた。

「老金子伯爵(この人は日本における米国の最もよき友人という一種の伝説的後光で包まれているが、私は一九三二年の苦い経験から、彼がちつとも友好的でないことを知つている)」これは金子堅太郎の帝国憲法蹂躙と関係があるだろう。

1932年は昭和7年であり、ロンドン海軍軍縮条約を枢密院が批判した年である。そしてこれが統帥権干犯論に発展した。むろん野党も同じ考えだったが、統帥権干犯論そのものが帝国憲法に違背していた。金子堅太郎は枢密院顧問官であった。

世界情勢からして、当時は軍縮の時代だった。帝国憲法を蹂躙し軍縮に反対する金子堅太郎の姿勢は反米(英)とされてもやむを得ないだろう。若い頃に海軍軍人を目指していた金子の大罪である。

日露戦争の金子堅太郎はその外交手腕で大きな役割を果たした。米国との交渉に成功したからである。「日米同志会」会長でもあった。しかし昭和戦前の金子堅太郎はグルーが観察したとおりである。金子の統帥権干犯論と天皇機関説排撃は戦前日本の汚点であった。

 

平成24年6月17日

対米開戦時の駐日米国大使、ジョセフ・グルーにシカゴ演説(1943年12月29日)がある。現在では国会図書館の「日本国憲法の誕生」に読むことができる。大戦末期には国務長官特別補佐官だった。

国会図書館の説明。「グルーは、日本の軍国主義は徹底的に罰しなければならないが、戦後改革の際には、偏見を捨て日本の再建と国際復帰を助けるべきだと主張した。」

問題はグルーの帝国憲法解釈である。「明治憲法は天皇に主権を与えているため、どの政党も国民主権を主張できないと指摘したうえで、憲法が改正され日本国民が十分な時間を与えられれば、日本に議会制度を再建し政党制度を確立することができるだろうと論じた。」

米国内ではグルーの天皇制存置論に対し反発もあった。ただ、この憲法観には疑問が残る。『滞日十年』を読むと、グルーが特に話し合った我が国の要人は自由主義者であり、例えば西園寺公望・牧野伸顕・齋藤實・広田弘毅らであった。

彼らが帝国憲法を「天皇主権」などと考えていたとは思えない。『西園寺公と政局』にそれが表れている。英語もうまかった彼らがグルーに対し、当時、帝国憲法が如何に蹂躙されているか、説明するチャンスはなかったのだろうか。

 

平成24年6月9日

白村江の戦いに敗れた日本は、その後、西国方面に水城を築いたりした。しかし徐々に国防力は低下した。島国だから外敵に備えるためには沿岸の警備が必要である。

663年の敗戦後、北陸道沿岸の警備を強化したのは780年、光仁天皇の宝亀11年である。117年経っていた。大東亜戦争後、GHQの占領が終わって60年だが、未だに我が国は軍隊がない。二つの敗戦は同じ状況をもたらしたようだ。

GHQの占領下では武道が禁止された。白村江の後、壬申の乱を経て即位した天武天皇には、675年の肉食禁止令がある。これを戦勝国・唐による日本の弱体化だとみる向きもあるが、あまり説得力はない。猪や鹿などが除外されているからである。

唐に乱があって、朝鮮半島にも影響が出る状況となった。それを見た藤原仲麻呂は新羅征討を計画したが、自身の乱によって沙汰止みとなった。その後、渤海国から北陸沿岸に漂着する船があって、光仁天皇は北陸道沿岸の警備を指示したのである。

この間、我が国は国内問題、つまり蝦夷や隼人の扱いに苦慮していた。光仁天皇の晩年になってようやく国防意識が高まり、具体策が講じられたのである。

 

平成24年6月2日

歴史の仮説。元明天皇が宣命に残した父・天智天皇の不改常典は、よくわからない。皇位継承に関するものだとする説が多いものの、天智天皇から弟・大海人皇子(天武天皇)へ引き継がれたことが、なお解明を困難にしているらしい。

白村江の戦いの翌年、戦勝国・唐の郭務?が筑紫に来た。様々な要求があったと考えても不思議ではないだろう。不改常典を解明する一つのヒントがある。天智天皇崩御の後に起きた壬申の乱である。叔父と甥による皇位継承争いである。

つまり戦勝国・唐が天智天皇からその皇子・大友皇子への継承を嫌い、天武天皇を選択したのではないか、という仮説である。実際に天皇は病が重くなって、大海人皇子に「後事を以て汝に属(つ)く」と伝えられた。

大海人皇子は固辞したが、太政大臣・大友皇子との間で壬申の乱が起き、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。白村江の敵・天智天皇の皇子に皇位を継承させないのが唐の方針(圧力)だったと考えても不自然ではない。

元明天皇は戦勝国・唐の圧力に屈せざるを得なかった天智天皇を想い、、我が国の「法」に遵うことを強調したのではないか。それが父から息子への皇位継承法としての不改常典であり、自らを中継ぎと意識したことにつながっているのではないか。

 

平成24年5月26日

前言を若干訂正しなければならない。日米開戦時の在日米国大使ジョセフ・フルーは、1943年12月29日シカゴにおいて演説を行った。その際に、日本の政治的再教育を語り「憲法改正」を口にした、と占領研究の書に記されているからである。

そして同時に神道を「資産」と評価したらしい。その演説の原本を確認できないが、1944年2月ニューヨーク・タイムズは次のようにグルーを批判した。「近代の神道は、ナチズムと同様に、八紘一宇の標語のもとに膨張主義の教義と化し、全世界を日本天皇の支配下に『統合』することを説いた。」

どうやら「憲法改正」と神道批判は同時に語られていたようだ。日本の「宗教」即ち国家神道、そしてそれに基づく統治機構、外交・軍事方針、これらが混然一体のものとして把握されていたような感じがする。

たしかに当時の我が国では文部省『国体の本義』などで「祭政一致」が主張されていたから、これには妥当性があるといってもよいだろう。結局のところGHQはニューヨーク・タイムズのような考え方で日本占領を実施した。

『国体の本義』がいかに帝国憲法や教育勅語に違背したものであったかは、当サイトが繰り返し検証しているところである。憲法改正は誤りの上に立つものであった。もう少し、ここを追究する研究者は出てこないものか。

 

平成24年5月22日

帝国憲法の改正と教育勅語の排除について、我が国ではその政治決定の時系列的な追跡のみしか行われていないようだ。日本国憲法が施行されてのちに教育勅語が排除決議された、これ以上の追跡はない。ポイントの一つは人権指令(自由の指令)が発せられた昭和20年10月4日、近衛文麿がマッカーサーとアチソン政治顧問に面会した事実である。

この席で、外務省の奥村勝蔵はマッカーサーの「政府の行政機構を改革すべきである」を「憲法は改正すべきである」と訳して近衛に伝えた。どう考えてもこれが憲法改正で最初に注目すべき事柄のようである。

その後マッカーサーから幣原首相に憲法改正が命じられ、天皇から近衛に憲法草案作成の命が下ったといわれている。これに対し、教育勅語は昭和19年のフォーリン・アフェアーズにも掲載されているから検討は早かった。

米軍人による教育勅語の分析論考(昭和19年)→ポツダム宣言→(占領)初期対日方針→日本軍の解除→自由の指令→憲法改正着手→(ヴィンセント国務相極東部長による神道の特権廃止声明)→教育改革なかでも「神道指令」(昭和20年12月15日)→日本国憲法発布(昭和21年11月3日)→教育勅語の排除(昭和23年6月19日)

米国の占領目的は日本の脅威の除去であり、目標としては軍国主義と超国家主義の排除であった。問題は超国家主義の排除。そこで日本精神の基礎にある神道のうち国家神道、そしてその聖典である教育勅語を排除した。憲法改正よりも先に教育勅語にある世界征服思想を問題にした事実は、D・C・ホルトムが参考にされたことで証明されるだろう。

 

平成24年5月15日

文部省調査局宗務課『日本の宗教』は昭和39年3月の出版である。そして「神道」は小野祖教の執筆であった。岸本英夫『戦後宗教回想録』は昭和38年の発行であったが、その国家神道に関する内容はほぼ同じである。

まず神道を創唱神道と非創唱神道に分ける。そして非創唱神道を祭祀神道として皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀に分類する。そして神社祭祀を国家の祭祀=国家神道と定義するのである。

神道指令では国家神道=国教神道とし、さらにそれを皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀に分類しているとするのが小野祖教の理解であった。したがって小野祖教と神道指令では非創唱神道=祭祀神道>神社祭祀=国家祭祀=国家神道となる。

一方、岸本英夫はGHQの忠実な翻訳者であったから、「神道思想の中には、どれほどか、かような過激なる国家主義の発展しやすいような要素があった」とし、「日本民族が他の民族と比較を絶して、特別な勝れた民族であり、その民族のもつ特異な理想が、世界の思想の指導原理」という考え方があったと語ったのは当然である。

しかし小野祖教も岸本英夫も戦後約20年近く経って、GHQが教育勅語を国家神道の聖典とし「之を中外に施してもとらず」が超国家主義の表現だとしたことについてはまったく触れていない。GHQに対応した宗教学者の怠慢というべきだろう。

 

平成24年5月12日

神道指令を起草したのがGHQ民間情報教育局・宗教文化資源課長バンスだったことはよく知られている。彼は1936年4月から1939年4月まで松山高校で英語を教えていた。同志社大学に勤務していた義父の紹介による。

バンスは海軍に志願し終戦直後の日本で宗教関係を担当した。そして最も熱心に読んだのがD・C・ホルトムである。そしてホルトムの著書『日本と天皇と神道』は今日に至るまで我が国に多大な影響を及ぼしている。

バンスがのちにインタビューで答えた興味深い話がある。神道指令の二日前だから昭和20年12月13日かと思われるが、発令を阻止するべく終戦連絡中央事務局第一部長・曽祢益がバンスのところへ行った。そして独自の案を提出したというのである。

バンスによればその案はGHQの神道指令によく似たものだったという。この話は終戦直後の状況をよく表しているのではないか。日本政府関連のキリスト者たちともよく似ている。曽祢益はのちに社会党から参議院になった。

戦前の政府が用いたスローガンを検証することもなく、とにかく戦時中を断ち切るために「神社」「神道」「神憑り表現」から国家は手を引いてくれというのが本音だったかもしれない。そして真実に目をつぶって今日に至っている。

 

平成24年5月2日

明治13年天皇は正三位橘朝臣にたいし正一位を追贈された。橘朝臣とは楠正成のことである。先には正成を祀る湊川神社を別格官幣社に指定されたが、さらなる追贈であった。

橘姓だから楠正成の祖は聖武天皇の時代に政権を補佐した橘諸兄ということになる。藤原氏の勢力が拡大するなかで、聖武天皇・橘諸兄・大伴・佐伯連合を象徴するのが「海ゆかば」だとはよく云われていることである。

ところでこの橘諸兄の子に橘奈良麻呂がいた。のちに奈良麻呂の乱で失脚するが、問い詰められた奈良麻呂は東大寺大仏の造立で人民が辛苦したと語っている。しかし奈良麻呂の父の時代に造立したと反論されて閉口した。

我が国が白村江で敗退したのは663年である。その後704年に遣唐使・粟田真人が帰国して707年、平城遷都が計画された。遷都の詔は708年である。

歴史家の中には平城遷都・東大寺大仏などの事業は、戦勝国・唐による敗戦国・日本への圧力だったと解する向きもある。内需拡大による弱体化政策だとみるのである。第二次大戦後の日米関係と似ているが、いま少し研究が必要だ。

 

平成24年4月24日

帝国憲法を称賛する人たちは少なくない。そしてその人たちの日本国憲法批判には厳しいものがある。GHQ占領憲法だということである。心情的には理解できる。

日本国憲法の条文は、やはり占領基本法としか考えられない第二章「戦争の放棄」があるし、何より帝国憲法第75条「摂政を置くの間これを変更することを得ず」に抵触するからその有効性を認めない、とするのである。

ところで日本国憲法の前文には「人類普遍の原理」とある。この理念は純理哲学的といってもよいようだ。これに対し帝国憲法は歴史法学的立場である。歴史と伝統が基である。我が国固有の立場が基、といってもよいだろう。

しかしながら、帝国憲法を称賛する人たちでも教育勅語を「普遍的」ととらえて疑問を抱かない。帝国憲法と教育勅語は順接である。したがって教育勅語も歴史法学的立場で起草されたことは、どちらも井上毅が深く関与したことで証明される。

この誤りは、教育勅語を「之を中外に施して悖らず」から能天気に「普遍的」と解釈していることに原因がある。つまり反米、反GHQが先行して反日本国憲法となり、帝国憲法称賛となった可能性がある。支離滅裂も甚だしい。

 

平成24年4月20日

正志斎・会沢安は天明2年(1782年)生まれの水戸の人。その『新論』は案外読まれていないようだ。むろん、日本思想史の研究者かよほどの好事家でなければ通読するようなものではない。幕末には発禁本とされたが、各藩の知識人によく読まれた本である。

岩波文庫『新論』は昭和6年が初版で昭和44年で第三版である。なにしろ漢文読み下しに翻訳されているが、漢字が難しい。それに詔勅にしか用いられていないような言葉が多い。

ところで『新論』の著者、会沢安は尊王攘夷で知られており、この本は天皇と臣民の国家を論じたものである。そしてこの中に「中外相関すれば即ち天地の気扞格無きを得ん」とあるのである。

扞格(かんかく)は拒否である。つまり上の文は、朝廷と民間が心を一にすれば、天地も味方する、と云う意味である。尊王攘夷に外国との同盟はないから、この「中外」は「我が国と外国」ではない。「朝廷と民間」である。

結局のところ、我が国の思想史研究家は『新論』を解読できていない、というべきだろう。なぜなら教育勅語の「中外」が正しく解釈されていないからである。『新論』の語彙が教育勅語に用いられていることは事実であり、教育勅語の「中外」は『新論』の「中外」と同じ用法だからである。

 

平成24年3月31日

道鏡事件とは結局何だったのか、そう簡単ではなさそうだ。孝謙天皇の即位以来、皇位継承をめぐる政争では謀反に対し、法にしたがって厳しい処分が下されている。しかし道鏡事件での決定的な処分は見あたらない。

757年の橘奈良麻呂の乱、そして764年の恵美押勝の乱における首謀者は杖下に亡くなったり、争いの末に敗死した。残ったものが特赦を受けたのは770年の光仁天皇の時代である。

765年、皇位をうかがったとされる和気王は殺害された。但し連座した者の中には左遷等で済んだ者もあった。769年、志計志麻呂に皇位を継がせようとした(と断定された)連中は配流となった。しかし死を賜った者はいない。

道鏡事件での和気清麻呂やその姉・法均尼は追放されたが、彼ら自身が誰かを擁立したとは記載されていない。ただ宇佐八幡の託宣を奏上したのみである。称徳天皇の寵愛があったとして道鏡の処分は軽かったが、首謀者のいない事件なのかもしれない。

道鏡が皇位につけば天下は安泰、と媚を売ったのは大宰府の主神・阿曽麻呂であるが、具体的な行動はとっていない。称徳天皇にも(道鏡を皇位につけるという)決定的な言葉は残されていないのである。後代の潤色があるのかもしれない。

 

平成24年3月29日

奈良時代は皇位継承をめぐる政変の多かった時代である。聖武天皇の天平元年(729年)、長屋王の変があった。左道(邪道)が理由とされた。長屋王は天武天皇の孫であり、妃は聖武天皇のおば、吉備内親王である。一家は全員自死を賜った。

長屋王の邸から発掘された木簡には「長屋親王」とあった。しかし実際は左大臣正二位である。親王なら「品」であり、正二位は諸王と諸臣に与えられるものである。妃が内親王だから親王「格」としたのだろうか。

吉備内親王の男女が皇孫扱いとされたのが715年。聖武天皇の皇太子・基王が満一歳未満で夭折したのが728年。そして翌729年が長屋王の変。後に誣告(ぶこく=偽りの報告)とされたが、吉備内親王と長屋王の皇子による皇位継承を藤原氏側が先手を打って阻止したのかもしれない。

757年に起きた橘奈良麻呂の乱は、長屋王の子・黄文王を擁立しようとするものであった。母は藤原不比等の二女・長娥子(ながこ)である。謀略に加わった者は拷問死となった。奈良麻呂も刑死したと推測する説が多い。

恵美押勝の乱は764年であるが、塩焼(王)が擁立の対象だった。いずれも敗死している。結局のところ皇位をうかがう謀反は大罪であり、死を賜ることになる。しかし道鏡は死刑ではなく下野国への追放だった。なぜだろう。

 

平成24年3月23日

『純粋理性批判』のイマヌエル・カントにおける歴史は方向性を持つ歴史である。かれのいう歴史主義とは、一定の方向性を定め、それに向かっての発展を強調する歴史観だと説明されている。

この歴史観は云いかえれば歴史法則主義である。そもそも歴史主義というなら、その判断基準は純理的でなく、比較的でなく、積み重ねられてきた歴史に発見する、というべきである。歴史主義の判断基準に恣意性はない。

ところで我が国でいう「特殊即一般」はどこから出てきたのだろう。哲学用語辞典などにも見つけられない。あるいは教育勅語渙発の後に広がった可能性もないとは言えないが、これに近い表現が井上哲次郎にある。

「『教育勅語』に「斯ノ道」とあるのも決して儒教の道を意味されたものでなくして、日本固有の道である。日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即ち宇宙の根本原理である。宇宙の根本原理は普遍妥当性のもので、何も日本に限ったものではない。」

日本固有の道の根本が世界遍在の道とは飛躍も甚だしい。固有の意味が支離滅裂となる。仮に我が国の道徳が世界遍在の道であるとしても、その淵源は皇祖皇宗の遺訓である。そこまで井上哲次郎が考えたとは、著書を読む限り確認できない。

 

平成24年3月21日

「「中外ニ施シテ」は、国の中に用ひても、国の外に用ひてもといふことである。「悖ラス」は、逆らひそむくことがないと云ふことである。斯の道を、古の時、今の時に通じ行っても、少しも誤り違ふことがなく、又斯の道を我が国の中に施し行っても、国の外に施し用ひても、少しも、もとりそむくことがない。」

「即ち「斯ノ道」は、時から云へば「古今ニ通シテ謬ラス」処からいへば、「中外ニ施シテ悖ラス」世界永遠に行き渡った真の道であるといふことを、強くたしかめて仰せられたのである。」

以上は亘理章三郎の「教育勅語大意」にある文章である。教育勅語の典型的な曲解としか言いようがない。この種の曲解はあげるときりのないものではあるが、校長の嘉納治五郎に嘱望されて東京高等師範学校の教授となったから特に引用した。

興味を引くのは、亘理が、他国家を無道に侵略征服することを批判した、とされていることである。ここにGHQが超国家主義と断定した「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」をめぐる謎がある。

日本人の「之」は「皇道」であり、GHQのそれは「世界征服思想」である。亘理ら日本人の云う「皇道」は独りよがりの「仁政」であった。「真の道」も客観的な説明はない。「中外」の誤った解釈をもとにすると、こうして意味不明となるのである。

 

平成24年3月18日

源氏物語の光源氏は、桐壷帝の第二皇子であるが、その名が示すとおり臣籍降下となって親王の名称はない。桐壷帝の第一皇子は後の朱雀帝であり、母は右大臣の娘・弘徽殿女御である。

光源氏の母は桐壷更衣であり、大納言の娘であった。身分としては弘徽殿女御に劣るが、桐壷帝の寵愛を一身に集めた。そのため周囲から妬まれ、その心労から光源氏三歳の時に他界した。

桐壷帝は、光源氏が外戚の後ろ盾のない状態で皇位継承権をもつことに不安を感じて臣籍降下せしめた、こう考えて自然だろう。臣下でも実力さえあれば政権中枢にのぼる可能性があるからである。

奈良朝の政変も中心人物の母の出自にかかわるものが多い。長屋王は天武天皇の孫であり、妃は元明天皇の娘・吉備内親王である。元明天皇が吉備内親王の子等を皇孫としたことからその待遇がわかる。

しかし、長屋王の変といわれる藤原氏の勢力による追い落としで長屋王の一家は断絶した。1988年に発掘された木簡には「長屋親王宮鮑大贄十編」とあった。「親王」は非公式にしてもやり過ぎの感じがする。やはり周囲の妬みがあったのだろうか。

 

平成24年3月15日

日本国憲法は昭和21年11月3日に公布され、その「上諭」には「帝国憲法を改正」と記された。法匪的憲法論ではこれが気に入らないらしく、「上諭」は憲法の一部をなさないとされている。

しかし憲法の前文は有効だと云うのだから、この憲法論は面白い。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

つまりこの前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」を前提条件としている。したがってもしこの前提条件の崩壊が客観的な事項によって確認されれば、第9条などは当然無効となる。

信頼して隣人に財産を預けた。しかし信頼を崩す客観的な事項が出現した。ならば前提条件が変ったので、財産を取り戻す、これが常識だろう。ここを議論させずにきた、戦後の我が国憲法学者の一団は何とも恐ろしい。

 

平成24年3月12日

「自民党の憲法改正推進本部は9日、憲法改正原案で削除した政教分離規定を盛り込むべきかどうか再検討することを決めた。出席者から「きちんと規定しておいた方がいい」との意見が出たため。」

以上は産経新聞3月10日の記事である。憲法改正案における政教分離規定というのだから、現・憲法第20条および第89条のことだろう。しかし本当にこれらが清算されているとは考えられない。

憲法の制定過程からすると、第20条は「簡略にされ、修正され、信教の自由を正面から保障し、かつ教会と国家との分離を規定するものとなった」(『日本国憲法制定の過程』高柳賢三他)とある。

これがポツダム宣言からGHQの占領方針まで一貫していることは明らかである。しかし帝国憲法第28条は信教自由の条項であった。改正の必要はないはずであった。ではなぜ国家の宗教への関与が特に明記されたのか。

問題は超国家主義という世界征服思想が教育勅語にあり、これが国家神道の思想であるとされたからである。したがって国家神道と神道は関係がない。教育勅語解釈の問題である。このことを清算してはじめて憲法改正案となるだろう。

 

平成24年3月8日

女性宮家創設問題の中心的役割を担う人として元最高裁判所判事・園部逸夫氏がいる。その著書には『皇室制度を考える』などがある。タイトルのとおり皇室「制度」の論考ではあるが、「制度」として皇室を考えようとするものでもある。

皇室を考えるにあたって、著者は一応多角的なアプローチから論の展開をしているように見える。憲法にもとづく皇室、外国との比較からの皇室、そして歴史的な観点からの皇室をそれなりには網羅している。

しかしそもそも天皇および皇室が歴史的な存在であることは自明の理である。したがって外国との比較は、知識として以外必要ない。問題は歴史と憲法解釈である。

園部逸夫氏の憲法解釈は基本的に文理的解釈といっていいだろう。それは条文の文言解釈を中心とするもので、条文の制定経緯やその文言の歴史的由来は重要視されていない。

たとえば同書には「政教分離原則との整合」という文言がある。しかし憲法に「政教分離」はないからこれは著者個人の解釈でしかない。なぜなら憲法第20条から神道指令そしてポツダム宣言と遡れば、これが詔勅の誤った解釈の上に制定されたことが判明するからである。

 

平成24年2月29日

斯の道は実に祖宗の遺訓にして子孫臣民の?に守るべき所凡そ古今の異動と風気の変遷とを問はす以て上下に伝へて謬らす以て中外に施して悖らさるべし」

以上は教育勅語の草稿のひとつにある文章である。いわゆる第三段落の部分である。この「上下」は身分の高低が一般的であるが、「史記」には「昔と今」の意で用いられている例もあると辞書にある。

元田永孚は井上毅とともに教育勅語の草案作成に深く関与したが、元田の残した言葉につぎのようなものがある。「国教は仁義礼譲忠孝正直を以て主義とす」「君臣上下政憲法律此主義を離るるを得ず」である。

この用例から考えて、「上下」は身分の高低、つまり立場の上の者と下の者、である。引用した「上下に伝へて謬らす以て中外に施して悖らさるべし」も同じである。

勅語であるから主体は明治天皇であり、大帝が「今と昔」に伝えるでは意味が通じないからである。そしてこのことは、教育勅語において「君臣」が「中外」と云い換えられたと考えることの根拠でもある。この「中外」は「宮廷の内外」「国中」であり、外国は関係がない。

 

平成24年2月26日

二・二六事件は昭和11年だから、1936年の出来事だった。いまから76年前のことである。この前年には天皇機関説排撃があり、二・二六事件のあとは国体明徴運動があって、大日本帝国憲法は蹂躙された。

「当時において、この問題の発生が後に生ずる民族没落史の出発点になることを想像した人はおそらく、どこにもゐなかったであらう。」とは『天皇機関説』を著した尾崎士郎である。

昭和26年に書かれた文章であるが、この時点で昭和戦前を正確に把握した数少ない知識人の一人だったと思う。現在でも天皇機関説から敗戦までを分析した著作は案外少ない。

教育勅語の誤った解釈は勅語渙発後からあったものだが、この時期からスローガンとして使われた。「之を中外に施して悖らず」が「皇道を四海に宣布」となったのである。

「皇道」とは結局、東アジアを共産化することであった。これは東條英機が戦後に語ったことを読めば明らかである。第一アメリカと戦争をしたことが、その動かない証拠だろう。

 

平成24年2月21日

畏れながら、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の「みことのり」には疑問のあるものが少なくない。天平宝字8年(764年)10月、藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の際に渙発されたものもその一つである(当時は高野天皇)。

父である聖武天皇は孝謙天皇に「天下は朕が子いましに授け給ふ。事をし云はば、王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも、汝の為むままに。」と語ったという。奴を王と云ふ、これは信じ難い。

また神護景雲3年(769年)10月、称徳天皇が元正天皇の遺詔として「己が得ましじき帝の尊き宝位を望み求め」る人は、自分が「退け給ひ捨て給ひきらひ給はむ物そ」と紹介している。

孝謙天皇の立太子は天平10年(738年)正月であり元正天皇は10年後に没している。この間、皇位継承に関係があると言われている、安積親王の他界と塩焼王の配流はたしかにあった。

その安積親王は聖武天皇を継いで申し分ない立場にあった。そして塩焼王が配流とされた原因は安積親王への支援の可能性が強い。そうすると元正天皇が上記のように遺詔されたというのも疑問が拭えない。

 

平成24年2月12日

岩波書店『続日本紀』(日本思想大系12~16)は全5巻で、その14(三)には淳仁天皇紀の「巻第二十二」がある。天平宝字三年(759年)六月、光明皇太后は淳仁天皇に対し、次のように伝えられた。

「然るに今は君として坐して御宇(あめのしたしらしめ)す事日月重なりぬ。是を以て先考を追ひて皇とし、親母を大夫人とし、兄弟姉妹を親王とせよ」

上記岩波本「巻第二十二」の註解は笹山晴生である。そしてその註解。「継嗣令1に「凡皇兄弟皇子、皆為親王(女帝子亦同)」とある。舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁天皇の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる。」

この註解からすると、(女帝子亦同)の「女」は「ひめみこ」である。どう読んでも「女帝の子」とは解釈していない。

平成17年の皇室典範有識者会議のメンバーであった笹山晴生が、参考人等の「女帝の子」とする解釈にクレームを付けた記録は残されていない。学者としてまことに不誠実、と言わざるを得ないのではないか。歴史の事実よりもイデオロギーを優先した、と言われても仕方がないのではないか。

 

平成24年2月8日

天平宝字三年(759年)六月、光明皇太后は淳仁天皇に伝えられた。「「然るに今は君として坐して御宇(あめのしたしらしめ)す事日月重なりぬ。是を以て先考を追ひて皇とし、親母を大夫人とし、兄弟姉妹を親王とせよ」

聖武天皇・孝謙天皇・淳仁天皇そして称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の奈良時代のことである。光明皇太后は聖武天皇の后であり、藤原不比等の女(むすめ)であった。

「養老令」<継嗣令>の「凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同)」に副った措置である。天武天皇の孫である大炊王が淳仁天皇となった。そのため天皇の父である舎人親王をのちに崇道尽敬皇帝とし、母の当麻夫人を大夫人(おおみおや)とし、兄弟姉妹を親王とした。

この「兄弟姉妹を親王とせよ」は註の(女帝子亦同)の解釈が「女(ひめみこ・皇女)も帝の子、また(皇子と)同じにせよ」であることを裏付けている。淳仁天皇の子はいなかった(記されていない)から、子女の措置はないが、「姉妹」でその意味が判明する。

淳仁天皇の「姉妹」が対象となったことは、本文からだけでは根拠づけられない。註があってはじめて理解できる。註の「女」はひめみこ=皇女と解釈して矛盾が無いし、「女帝の子」と解釈できる歴史の事実は存在しない。

 

平成24年2月4日

GHQ民間情報教育局(書籍には民間情報教育部とある)の『日本の宗教』は昭和23年9月に出版された。戦後に我国の国家と宗教を語る著作は、ほとんどこれの焼き直しといってもよいだろう。

特に神道についての解説は、その参考文献を見れば納得がいく。D・C・ホルトムと加藤玄智(書籍では元智)が圧倒的である。加藤玄智の影響を強く受けたホルトムだから、彼らの言説はほぼ同じである。

神社制度と行政政策の「統一のイデオロギーは、一八九〇年に発布せられた教育勅語と、それを補足し支持する法令」とみているが、教育勅語の文言を客観的に検証した文章はひとつもない。

「宗教に関する占領政策は、根本的に、「ポツダム宣言」と「対日初期占領政策」とに基礎が置かれている」 ここを一貫して流れているのは、世界征服の思想と断定された超国家主義の排除であり、その根本は神道にあるとGHQのバンスらは明言している。

教育勅語はこの流れの上で排除となった。教育勅語の文言と超国家主義=世界征服思想がどのように関連しているか、これまでただ一人として検証しなかったことは戦後史の大きな謎である。

 

平成24年2月1日

「この日本の伝統的道徳思想を、最も要約的に示したものは、明治天皇の教育勅語である。この教育勅語を以て、アメリカ人は神道の宗教的聖典であると認めた。(D・Cホルトム日本と天皇と神道参照)」

「この勅語を日本人の方では、一般的に、神道と敢て結びつけて意識してゐなかった者が多い。しかしこれは客観的には、アメリカ人の見解の方が当ってゐるのであらう。」

これは葦津珍彦『近代政治と良心問題』からの引用である。昭和30年に発行されたものであるが、当時の状況を考えると、実に勇気のある真摯な論考というしかない。

GHQの宗教政策に多大な影響を与えたD・C・ホルトムの『日本と天皇と神道』は昭和25年に邦訳が出版された。岸本英夫などはこれに触れていないが、葦津珍彦の意識は段違いに高い。

この教育勅語をアメリカ人が「神道の宗教的聖典」と認めた理由を、さらに追究すれば神道指令がなぜ発令されたかが明確になった可能性がある。この意思を引き継ぐ者が出なかったことは誠に残念である。

 

平成24年1月30日

小森義峯著『天皇と憲法』の第十三章に「教育勅語の国会両院「無効」決議の無効性」がある。様々な理由から無効決議は無効、とするものであるが、著者は教育勅語を解読できていない。

「第三段(全体からいえば第五文)は、第二段までに示された「道」が時間と空間を超越した普遍的なものであり、「天地の公道」であることを説かれたもの」として「斯ノ道ハ皇祖皇宗ノ遺訓・・中外ニ施シテ・・悖ラス」を引用している。

当サイトの主要なテーマである教育勅語の解釈について、典型的な誤りを犯しているといってよいだろう。「中外」は「宮廷の内外」であり意訳すると「全国(民)」であって、「空間を超越」はあり得ない。

同著の第八章は「神道指令及びその継承としての日本国憲法の不当性について」である。しかし神道指令を語るには教育勅語解釈の誤りと、GHQがそれを鵜呑みにした事実が把握されていなければならない。

(註)には葦津珍彦が「アメリカ人は教育勅語を神道の宗教的聖典であると認めた」と記してある。これがD・C・ホルトムの言説であって、その根拠を追跡すれば神道指令の解明にたどりつく。しかし同著にはその痕跡はまったく存在しない。

 

平成24年1月26日

小森義峯氏は「現御神」天皇論考」(『天皇と憲法』)において、いわゆる「人間宣言」について触れている。その中で、占領軍が「現人神」をゴッドと勘違いをして「人間宣言」を渙発せしめた、という説に同意している。

以下「「現人神」天皇と大嘗祭」では天皇の祭祀と「現人神」を様々語っているが、「現人神」天皇、という表現は国典に存在しない。あくまで「現御神止」と「止」を付けて用いられているのが原則である。

岩倉具視が「明神にます我が天皇(すめらみこと)」と言ったのは、「現御神と天下(あめのした)しろしめす天皇」の略である。そして天皇がご自身を「現御神」と宣言されたことは一度もない。

そして西洋の君主の統治は顕界だけのものであり、「現人神」天皇の統治はいわば「顕幽二界」にわたるものである、としている。ここから我が国は祭政一致の国柄だというのである。

とにかく主張としては天皇=現人神・現御神である。これでは「日本書紀」「続日本紀」は解読不可能なのではないか。本居宣長や木下道雄が言うように「現御神」は「現御神止」と用いられ、「しろしめす」の副詞である。天皇=現御神ではない。

 

平成24年1月26日

津地鎮祭訴訟は最高裁判決で合憲となったものであるが、名古屋高裁の判決では違憲とされた。それを批判して政教関係を正す会が設立され、『法と宗教』が出版された。

拙著『日米の錯誤・神道指令』において、『法と宗教』の各論について批判した。神道指令の分析がなく、したがって憲法第20条などの政教関連条項が正しく解釈されていないからである。

ただ小森義峯氏(当時は京都教育大学助教授)の「神社地鎮祭の合憲性」は日本国憲法の無効性を主張していることでユニークである。大日本帝国憲法第31条(戦時又は国家事変における天皇大権の施行)によってポツダム宣言を受諾した、との見解である。

いわば非常大権の発動であったから、それによって発布となった日本国憲法は、「本来暫定的な基本法という性格を有する」というものである。

旧憲法は実質憲法であり、現日本国憲法は形式憲法である。両者に矛盾がある場合は実質憲法が優先する、と考えるべきだというのである。論旨はそうおかしくない。ただこの学者の「「現人神」天皇論考」には疑問がある。

 

平成24年1月24日

「養老令」<継嗣令>の「女帝子亦同」について、「女帝」ではなく、「女(ひめみこ)」の意味であるとかつて書いた。<公式令>の「平出」や「闕字」に「女帝」の指定が存在しないからである。

これは冠位・位階制から考えても明らかである。推古天皇十一年(603年)の冠位十二階では対象者の区別は示されていない。それが、天武天皇十四年(685年)正月の冠位十二階・四十八階において、対象者は「諸王」と「諸臣」に分けられた。

そして文武天皇大宝元年(701年)三月、対象者はさらに「親王」「諸王」「諸臣」とされ、それぞれ「四階」「十四階」「三十階」が与えられた。これに対応するように<継嗣令>で、「ひめみこ」についての「内親王」「女王」の規定が確認されたと考えてよいのではないか。

「確認」とは、<継嗣令>つまり「養老令」施行(757年)の前、大宝元年(701年)七月には「皇大妃、内親王と女王、嬪(ひん)との封、各(おのおの)差(しな)有り」と記載されており、すでに「内親王」と「女王」が用いられていたからである。

「日本書紀」「続日本紀」はいわば編年体であり、したがって前後を読めば理解可能なことが多い。<継嗣令>第4条は「皇女」の婚姻制限であるが、これは<選叙令>の(蔭位制)に関係するだろう。「皇女」と「諸臣」の子への叙位は混乱を招くと考えられたのではないか。

 

平成24年1月18日

TPP参加への反対論議から遡ると、東アジア共同体提案があり70年安保反対があり当然ながら60年安保反対がある。これらに一貫しているのはアジアからの欧米の排除である。

戦前になると大東亜共栄圏がある。これも欧米の排除であった。そうしてその前の、いわゆる大アジア主義そして西郷隆盛の征韓論にまで達する。征韓論がTPP反対論にまで発展したとは西郷も驚きだろう。

征韓論とは我が国の防衛のために、大陸とのバッファーである朝鮮半島に近代化を迫るものであった。ただそのやり方に欧米列強がどう干渉してくるかで意見が分かれた、と一般的には言われている。

開国して間もない我が国の軍事力では武力は行使できない。大久保利通や伊藤博文らはこう考え、西郷は反対の立場であった。欧州を実際に見たかどうかの違いがあったのかもしれない。

脱亜入欧、アジア主義、そして国粋主義が明治の主な外交思想としてあった。先の大戦の主流は国粋主義だったように語る向きもあるが、事実はアジア主義が戦前の我が国を亡国に導いたのではないか。多くの検証が必要である。

 

平成24年1月12日

北海道旭川市は第7師団でその名が知られている。近年では作家の三浦綾子や旭山動物園が話題となった。夏は暑く冬は厳寒の地である。

その市内に常磐公園があって、周辺の地名を古くは常盤といった。公園地決定は明治43年3月で開園は大正5年5月であった。昭和天皇のご即位式は昭和3年であるが、昭和5年に御大典記念の公園名碑が建てられた。

これを揮毫したのが当時の第7師団長渡辺錠太郎である。その際に「常盤」を「常磐」つまり「盤」を「磐」と記して今日に至っているという。

以上のことは詩人・東延江が案内する写真集『旭川街並み今・昔』にある。ゆかりのある人には大変貴重な本だろう。旭川の歴史も豊富に語られている好著である。

そして陸軍教育総監だった渡辺錠太郎は2・26事件で殺害された。国体明徴の訓示を批判し天皇機関説を排除しない、数少ない良識派だったためである。昭和戦前の異様な光景である。

 

平成24年1月8日

皇居の竹橋近くに和気清麻呂の像がある。神護景雲3年(769年)、和気清麻呂は称徳天皇にたいし「天の日嗣は必ず皇緒をたてよ。无道の人は早に掃ひ除くべし」という大神の託宣を持ち帰った。

「无道(むどう)の人」は臣下の僧道鏡であり、皇位を継ぐべき資格をもたない、ということだろう。道鏡はこの上奏に怒り、清麻呂を左遷した。後に名誉は回復するが、清麻呂は穢麿(きたなまろ)、姉の法均も広虫売(ひろむしめ)とされた。

聖武天皇の遺詔により道祖王(ふなどおう)が皇太子であったが、即位した孝謙天皇(重祚して称徳天皇)はこれを廃し大炊王を皇太子とした。藤原仲麻呂の圧力ではあるが、遺詔に違背した。

称徳天皇は神護景雲3年10月、聖武天皇からは「朕が立てて在る人といふとも、汝が心に能(よ)からずと知り目に見てむ人をば改めて立てむ事は心のまにまにせよ」と言われたことを告白している。

しかし畏れながらこの話は道鏡のことから信頼性に乏しい、と考えてよいのではないか。聖武天皇の御事跡から考えても事実を立証できないだろう。

 

平成23年12月30日

市村光恵は上杉慎吉や美濃部達吉らと同時代の、国体論を語った京都帝国大学の教授であった。結局のところ、その考え方は美濃部達吉に近づいていったと考えてよいだろう。

ところでこの市村光恵に「教育勅語の権威」なる小論がある。大正2年4月1日の「太陽」に掲載された、上杉進吉「教育勅語の権威」への批判である。

上杉慎吉の教育勅語観は「勅語は一切の批評を超越せり」として、「勅語を是非するは皇道の本義に非ず」であった。これでは天皇絶対主義となり帝国憲法に違背する。

この上杉の主張を批判した市村光恵の姿勢は正しい。ただし、教育勅語が尊いのは勅語であることのみならず、その内容が「之を古今に通じて謬らす、此れを中外に施して悖らす」に因る、という主張はまた誤りである。

教育勅語には皇祖皇宗の遺訓である歴史の事実が語られている。設計合理主義的に創られたものではなく、確固とした歴史と伝統に根ざしているから「之を中外に施して悖らす」と云われたのである。市村光恵の解釈も転倒している。「中外」の誤解が原因である。

 

平成23年12月18日

称徳天皇(孝謙天皇重祚)は聖武天皇と藤原光明子との間の子である。聖武天皇は文武天皇と藤原宮子の第一皇子である。母と祖母は腹違いながら姉妹だった。

つまり、称徳天皇は藤原光明子を通して藤原不比等の血を25%、藤原宮子を通して12.5%の合計37.5%を受け継いでいる。藤原光明子は光明皇后でありながら、自らを藤三娘(とうさんろう・藤原不比等の第三女)としていたし、両親を通して血を受けた称徳天皇はあくまで藤原不比等の一族としての意識であった。

この光明皇太后と称徳天皇の関係は則天武后と韋皇后の関係に似ているとされている。いわゆる「武韋の禍」である。光明皇太后と称徳天皇はほとんどの天武系皇位継承者を葬った。最終的に称徳天皇は道鏡という非皇族を皇位につけようとまでしたのである。

命がけで和気清麻呂が「必ず皇緒を立てよ」という託宣を奏上し、結果として皇統は護られた。すでに天武系は枯渇していて、天智天皇の孫である光仁天皇(父は施基親王) が即位した。

またぞろ皇位継承をめぐり、女性宮家創設などの議論がはじまる。しかし光明皇太后と称徳天皇の歴史事実から、女性宮家があってはならないことは明白だろう。女性宮家創設は皇統を紊乱し破壊に至る道である。万世一系の男系男子による皇位継承のみが、すべての恣意性を排除する。

 

平成23年12月10日

天皇機関説に反論した上杉慎吉は『新稿憲法述義』において「天皇親政」を論じている。「天皇の統治権は無制限にして及ばざるの範囲あることなし」であるから「天皇絶対論」である。

「天皇絶対」なら「立憲」そのものが不必要であるし、帝国憲法第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の條規に依り之を行ふ」あるいは第55条(大臣の輔弼)は意味のないものとなる。

帝国憲法の中心的起草者である井上毅に「言霊」があって、これは「しらす」論といってもよい。また『憲法義解』においても「しらす」とは天皇の統治が「一人一家に享奉するの私事に非ざること」を示したものだと説いている。

上杉慎吉には当然この「しらす」への積極的な言及はみられない。帝国憲法について「しらす」を除いた議論では如何なものかと思うが、「しらす」から天皇親政は導けないから無視したと考えて妥当だろう。

上杉慎吉はともかく、天皇機関説に関する美濃部達吉の「弁明」では、「しらす」が天皇の権利としての統治の意味ならそれは「うしはく」に帰することになる、と語っている。天皇機関説は限りなく『憲法義解』に近いが、この点の美濃部は「言霊」を理解できなかった、と考えるしかないのではないか。

 

平成23年12月4日

GHQの占領下において、帝国憲法の改正と神道指令は最も大きな出来事だったといってよいだろう。戦後の今日まで多大な影響を及ぼしているからである。

江藤淳編集『憲法制定経過』(占領史録第3巻)にある昭和21年7月17日に行われたケーディス(GHQ民政局次長)と金森国務大臣との会談は秘密事項として扱われ、のちに公開されたものらしいが、その内容は不可解といわざるを得ないものである。

いわゆる松本案に対し「マ元帥は現行憲法は根本的に改正せらるべきこと、而もそれは左の方に急傾斜すべきもの(sharp swing to the left)でなければならないと考えている」とケーディスは語っている。

要するに松本案は「現行憲法を美濃部機関説に副ふ如く改正せんとするもの」との見解を示したらしい。そして「恰も現行憲法に対する伊藤公の「憲法義解」が現行憲法の意味を歪曲してゐる如く、(略)不安の念を抱かざるを得ない」と語ったらしい。

もともと帝国憲法と「憲法義解」そして天皇機関説は順接である。しかしGHQの見解では帝国憲法と「憲法義解」そして天皇機関説は逆接である。GHQが否定したかったのは、帝国憲法を蹂躙した国体明徴運動の精神だったのではないか。そしてそれは「憲法義解」や天皇機関説に違背したものだったのである。ここに大きな矛盾がある。

 

平成23年12月1日

「建国の初めより今に至る迄天壌と與に窮りなきの末に至る迄天皇を以て国家の機関たりと為すなり」 これは美濃部達吉などの天皇機関説ではない。後にそれに反論した上杉慎吉の文章である。明治38年の『帝国憲法』に掲載されている。

「予が主張は、我帝国の組織を見て、我国にては、天皇は統治権の主体に非ずとするに非ず。抽象概括の論理として国家を人格と見るが故に天皇は国家の機関たりと説明するなり」 「天皇が国家の機関たりと云うは、天皇を以て国家の使用人事務員とするの意に非ざることも、亦十分に明瞭にせらるることを希望す」

どう読んでも天皇機関説である。その上杉慎吉がなぜこれを排撃するような天皇主権説の側にまわったのか、近代史の謎である。

「殊に一論説を著わして天皇は国家の機関なりと切論せるが如きは真に狂妄を極めたりと云うべし」 これも上杉慎吉の文章である。大正6年に出版されたものに掲載されているから、数年から10年程度で変節した、ということだろう。有力者の意見に迎合したと考えることも可である。では有力者とは誰か。

 

平成23年11月28日

「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである」

丸山真男「超国家主義の論理と心理」にある文章である。三島由紀夫は『文化防衛論』において、この文章について、―帝国憲法下の日本を―「氏が否定精神によってかくも透徹的に描破した無類の機構」と表現した。

そして「我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てない」とする丸山の認識を、これらは誇張された表現であり、論理の飛躍を犯している、と述べている。

しかし結局のところ、三島由紀夫はこの丸山真男の文章そのものについては何も分析していない。これが教育勅語(の誤った解釈)を演繹したものだということに気が付いていない。それを示す文章がない。

「縦軸の無限性」は「古今に通じて謬らず」であり、「中心からの価値の無限の流出」は「中外に施して悖らず」からのものである。「中外」を「国の内外」と誤解したままであった。丸山真男・三島由紀夫ともども明治大帝の教育勅語を理解していなかった証拠である。

 

平成23年11月24日

『日本古代史を学ぶための 漢文入門』という大変役に立ちそうなタイトルの本があって、ページをめくってみた。最初に「この「教育勅語」は近代日本人に極めて深刻な影響を与えた」とある。

そして(1947年6月23日の)「「第一回国会開会式のおことば」以降は詔や勅の文字は使われなくなって、すべて「おことば」として天皇の意志が公表されることになった。かくして「教育勅語」以来二世代六十年近く広範に流布されてきた古典漢文訓読体の詔勅は姿を消した」と記している。

続いて「しかしそこに盛られた儒教イデオロギーは、東洋の価値ある伝統思想として脈々と後代に受継がれている」とある。「極めて深刻な影響」と「東洋の価値ある伝統思想として脈々と後代に受継がれている」の関係はよくわからない。

日本古代史はともかく、漢文をよくする者でも教育勅語を(井上毅や元田永孚ら草案作成者の)確実な資料から解釈していない証拠である。いくら漢文が読めても歴史の事実を無視して誤った解釈をすれば、明治の儒者重野安繹らと同じレベルとなる。

教育勅語に関する歴史の事実は、本文自体が示していることではあるが、それが儒教イデオロギーではない、という証拠が残されているということである。歴史は過去であるから、前後の事実から詔勅の解釈を検証することが可能なのである。思いこみは通用しない。

 

平成23年11月21日

詔勅を理解するためには、とにかく六国史を読み込まなくてはならない。つまり漢文を理解する必要がある。しかし原文から読んだのでは時間がないから、読み下し文を検証して史実と突き合わせる方法をとる。

そしてそぐわないものがあれば、原文にあたる。そこで漢文を読む必要が出て来る。しかしこれが、なかなかむつかしい。専門家の読み下しにも理解しがたいものがあるからである。

世有伯楽、然後有千里馬、千里馬常有、而伯楽不常有、

吉川幸次郎は「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有り。而うして伯楽は常に有らず。」と読み下している。1968年『吉川幸次郎全集』第二巻も2006年『漢文の話』も同じであるから、ミスプリントではないだろう。

素人が読んでも、「而伯楽不常有」は(千里の馬は常にあっても)「伯楽の有ること常ならず」(伯楽がいつもいるとは限らない=稀である)となるのが普通だろう。「常に有らず」では「存在しない」と誤解されるのではないか。吉川幸次郎にしてこうだから、漢文はやはりむつかしい。

 

平成23年11月16日

沖安海(天明二年~安政四年・1782~1857)は伊勢白子の人、本居宣長の養子、本居大平(1756~1833)の門弟である。彼の著書を読むことはおそらく不可能だと思われるが、大変な発見をした人である。

聖武天皇が造立した盧舎那仏には約147kgの金が使われたといわれている。このうち900両(約12.65kg)の金を陸奥国が献上した。のちに陸奥守・百済王敬服は従三位を賜った。

ところで陸奥国には黄金山神社が金崋山と遠田郡にある。黄金の算出で、土地の神主も少初位を賜ったのであるが、この黄金山神社は金崋山ではなく、遠田郡(当時は宮城県小田郡)涌谷町迫(はざま)の黄金山神社とされている。

これを発見したのが、この沖安海である。『日本後記』や『和名類聚抄』などから断定したらしい。こののち、昭和32年に発掘調査が行われ、昭和42年には国史跡の指定を受けて今日に至っている。

『天平産金遺跡』は東北大学教授・伊東信雄のレポートであるが、これらのことが記されていると思われる。涌谷町の出版なので国会図書館での閲覧となるが、神社の運命も含め、大変興味のある本である。

 

平成23年11月12日

物部氏・蘇我氏・藤原氏は朝廷のお側にあって、実力を行使してきた。奈良時代は藤原不比等がその実力をいかんなく発揮した時代と言ってもいいだろう。文武天皇と不比等の女(むすめ)宮子との間にできたのが首皇子、聖武天皇である。

その聖武天皇と、これまた不比等の女である光明子(宮子とは異母)の間にできたのが、後の孝謙天皇(称徳天皇・重祚)である。なんと不比等の血が37.5%ということになる。

聖武天皇が「盧舎那仏造立の詔」を渙発されたのは天平15年であるが、この詔に珍しい表現がある。「それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢いを有つ者も朕なり」

また淳仁天皇(廃帝)の天平宝字四年には、「創建東大寺及天下国分寺者。本太后之所勧也」とあって、光明子の力が東大寺や国分寺の創建に大きかったことを伝えている。

聖武天皇の詔にある表現は、藤原氏の強大な実力を意識してのものではないか。聖武天皇のための平城京から何度も遷都したことを考えると、奈良時代を代表する天皇にも多くの苦悩があったことを想像しないわけにはゆかないのである。

 

平成23年11月7日

聖徳太子は仏教を中心に国を治めようとした、とはよく言われることである。しかしながら、仏教は一般的に現世、つまり地上の国とはかけ離れたものと考えられている。7・8世紀では仏教をどのようにとらえていたのだろうか。

天武天皇の5年、持統天皇の8年、そして文武天皇の大宝2年と慶雲2年に「金光明経」が語られている。聖武天皇は神亀5年12月、「金光明経」64部計640巻を諸国に配布している。聖武天皇の時代には「金光明最勝王経」といわれた唐の新訳もあった。

この「金光明経」には、諸仏の前での懺悔(さんげ)、発露(ほつろ=告白)することで業障(ごっしょう=過去の罪)が消滅する、というのがある。そして諸物の根本は空であり、物の認識は相対的なものである。たとえて言えば、裏があって表がある、表のみでは存在しないというような哲理を述べている。

これに感激した多聞天王・持国天王・増長天王・広目天王が、この経を尊重するならその王を守護する、と述べたのである。これで「護国経典」の意味がはじめてわかる。

国王に病なく、寿命長遠、怨敵なく兵衆勇健なること、そして安穏豊楽を上の四天王が守ると云うのである。国王に近づかず政治に参与しない出家集団において、この経典にはめずらしく政治論や王論がある。これが天皇によく読まれた理由と考えてよいのではないか。

 

平成23年11月3日

明治天皇は1852年11月3日にお生れになった。当時の暦では嘉永5年9月22日である。そして近代日本にとって、嘉永5年は殊に印象的な年でもある。

この嘉永5年は10月にロシアのプチャーチン中将が太平洋艦隊を極東に向けてクロンシュタットを出港し、また11月にはアメリカのペリー提督が東インド艦隊を率いて、日本に向けノーフォークを出港している。

この6年後、1858年には日米修好通商条約全14箇条および貿易章程7則が締結された。安政5年である。この第8条がタウンゼント・ハリスの挿入した、いわば「信教の自由」条項であった。

実際にキリスト教を禁ずる高札が各地で撤去となったのは、この15年後の明治6年である。その後の我が国は急激な欧米化の時代となり道徳の紊乱が問題となって、明治天皇は明治23年10月30日、教育勅語を渙発された。

昭和23年6月19日の国会で排除・失効確認決議をされ、歴史文献の一つとなった教育勅語である。しかし、今日の政教関係問題の根本はこの解釈にあるのだから、実に大きな意味をもった文献というべきである。

 

平成23年11月1日

教育勅語の再解釈が『国体の本義』であると、日米ともに理解していた。しかし「之を中外に施して悖らす」の「中外」を誤解しての再解釈であるから、これは逆接の関係にある。

大日本帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語は井上毅が中心となって起草されたから、これらは順接である。そして天皇機関説も同様である。したがって、天皇機関説排撃・国体明徴運動・『国体の本義』『臣民の道』がこれらと逆接の関係にある。

また倫敦会議に反対した加藤寛治軍令部長を、財部海軍大臣が「更迭して終へばよかった」と昭和天皇の独白録にある。つまり統帥権干犯論にも反対だったと考えて間違いではないだろう。

天皇は2・26事件でも断固たる態度で鎮圧された。いわば天皇機関説擁護であり、憲法停止・天皇親政に反対された。これら一連のご判断は、大日本帝国憲法・『憲法義解』・教育勅語の側に立たれたものである。

「中外」を「国の内外」とする教育勅語、そして『国体の本義』・靖国神社を同時に擁護することは矛盾である。当然ながら明治大帝の教育勅語と靖国神社は両立している。昭和天皇お一人のみが真の保守主義者だったと云われるのは、これらから明らかである。

 

平成23年10月29日

神社本庁が発行している冊子に『敬神生活の綱領 解説(稿本)』がある。初版は昭和47年で、いま手元にあるのは平成16年の補訂版である。これを読むと、いろいろ思うところがある。

「稿本」とあるのは、「本庁が神道教学の定説を自ら作って神社を指導する所でなく、神職の総意を汲んで、全神職の活動し易いやうに力をいたす所である」とのことである。

「ここにいふ「大御心をいただく」とは、皇祖天照大御神の神勅を継承する天皇を現人神と仰ぎ、その大御心を国民が敬仰し奉るといふことである」これは信仰の範囲であるから是とするにしても、宣命を引用しているところは納得できない。

当サイトに示している通り、「現御神」はそれのみでの用例は国典に無い。「現御神止」であり、「しろしめす」を修飾している。つまり副詞である。この解釈を「信仰」の名で枉げることは如何なものだろうか。天皇≠現御神=現人神である。

事実は、解釈を枉げたというより、「現御神止」の意味を理解していないと考える方が妥当だろう。現在でも訂正されたとは聞いたことがない。

 

平成23年10月24日

終戦の年の秋、GHQの宗教政策を担当したメンバーが訪れた神社に所沢市の中氷川神社がある。高橋紘・鈴木邦彦著『天皇の密使』―【秘録】占領と皇室―に、そこでメンバーが乞われて書いた色紙の写真が掲載されている。

まず KEN R.DYKE 25.NOV.'45 とあって、これは民間情報教育局ダイク局長である。BOTH APPRECIATION AND THANKS「感謝とお礼の心を籠めて」。次はW.K.BUNCE 宗教担当課長のバンス、EXTRAORDINARY INTERESTING「極めて興味深く」。

H.J.STOBは A GREAT PLEASURE「深き歓びを以って」。これは民間情報教育局の職員と想像ができ、和訳は岸本英夫と記されている。民間のお祭りが見たいと彼らは訪問し、上機嫌だったと伝えられている。

この少し前、11月19日から22日まで、彼らは靖国神社における秋の例大祭に参加していた。そしてこの20日後、「神道指令」が発令され神社神道と国家は分離させられた。

彼らは神道に対する国家の関与から国家神道を考えた。そしてその聖典は教育勅語だと断定した。それは世界征服=超国家主義の要素を含み、その表現は「之を中外に施して悖らす」だと考えたのである。錯誤も甚だしい。

 

平成23年10月19日

平成14年『人づくりは国の根幹です!』は清和政策研究会による「教育基本法改正への5つの提言」である。同研究会は自由民主党のひとつの議員集団であるが、この提言は平成18年の教育基本法改正に大きな影響を与えたものだといってよいだろう。

たしかに教育基本法は第一条(教育の目的)を「人格の完成」とする難解なものである。日本国憲法では国家は宗教に関与できない。しかし田中耕太郎や南原繁らによれば、「人格の完成」は宗教に求めるしかない、というものである。

これでは公教育において、「人格の完成」をめざすことは無理である。そこで『人づくりは国の根幹です!』にあるように、「伝統の継承」が前文に入り、第15条には「宗教に関する一般的な教養」の尊重が加えられた。

しかし案の定、『人づくりは国の根幹です!』でも教育勅語がなぜ排除・失効確認決議となったのか、理解されていない。「教育勅語は教育基本法と併存するものとされていた」「教育勅語を読んで、軍国主義的・国家主義的なものを感じる人がどれほどいるだろうか」

そして結局、教育勅語の理念は「現代にも通じる徳育の指針となり得る」という感想である。依然として「徳目」にしか関心がない。GHQの教育改革を研究し、歴史の事実を検証する努力を、なぜ怠るのだろう。

 

平成23年10月15日

昭和30年、教育刷新委員会で行われた会議の議事録は興味深い。山崎匡輔は鉄道院技師で東大工学部教授になったが、終戦後の安倍能成文部大臣と田中耕太郎文部大臣の次官であった。

「教育勅語の中にあげている徳目その他については、委員の中でも異見を差しはさむものでない、これは中外に施してもとらないのだという考えがありましたが、一、二の言葉については非常に疑義を生ずるということでした。」

要するに、教育勅語がなぜGHQによって排除を示唆され、国会決議までして葬ることになったのかが、まるでわかっていないと云うことである。無理もない、このことは今日でも同じだからである。

GHQは「之を中外に施してもとらず」を問題視したが、日本人は「「父母に孝に」がなぜ否定されるのだろうと、ここに極端なズレがあった。これは現在でも変らない。超国家主義の排除を「日本人の弱体化」としかとらえられない知識人の怠慢だろう。

教育基本法施行後も14カ月ほどは教育勅語もたしかに併存していた。これは文部省などが、GHQの教育勅語観を理解できず、あいまいなままにしていた、というのが歴史の事実である。神道指令との関係がわからなくて、そうなったのである。

 

平成23年10月11日

教育勅語が国会で排除・失効確認されたのは、昭和23年6月19日であった。ただし、21年10月8日には文部次官通牒でその奉読は禁止され、22年3月31日には教育基本法が、同5月3日には日本国憲法が施行されて、民主的でない詔勅は無効となっていた。

ではなぜ1年間経って、GHQは教育勅語の排除決議を示唆したのだろうか。実際のところ各学校にあった教育勅語の謄本が回収されたのは、この国会決議以降である。

第一回国会の衆議院では、憲法が改正されて日本国憲法となり、確認できるだけで247の法律が制定されている。平成21年・22年などは100件以下であるから、大変多忙な国会だったことは事実だろうし、日本側は国会決議など念頭になかったはずである。

当時の教育刷新委員会でも議論していたはずであるが、やはり教育勅語に関してはあいまいだった。教育基本法と併存が可能だと考えたことも高橋誠一郎文部大臣の答弁にある。

GHQにとって、占領目標の一つである超国家主義の排除と、その表現を含む教育勅語の排除とは同義であった。しかし日本側は「徳目」が否定されるはずはない、と考えていた。GHQが教育勅語を国家神道の「聖典」としていた意味を理解していなかったのである。今日も同じであるが・・。

 

平成23年10月3日

教科用図書の採択手続きについて、さまざまな攻防が何回も報道されている。主に歴史教科書と公民の教科書である。しかし例えば、I社版とT社版でそんなに違いはあるのだろうか。

文部省の現行学習指導要領の下で作成する教科書なら、似たり寄ったりになるのは容易に想像できる。市販本がでているI社版の「公民」を読んでみたが、やはりそんな感じだった。他は推して知るべし、である。

憲法の基本原則を指導することになっているが、「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」とある。しかしこれは大日本帝国憲法から日本国憲法へと改正された際の、反日憲法学者による「改正のポイント」である。

日本国憲法の原則というなら、「天皇を戴く原則」「信教の自由の原則」「私有財産を尊重する原則」「三権分立の原則」「間接民主制の原則」を挙げるべきだろう。

日本国憲法第20条は、その制定過程における議論で、「簡略にされ、修正され、信教の自由を正面から保障し、かつ、教会と国家との分離をそうていするものとなった」と『日本国憲法制定の過程』は伝えている。「政教分離」と云わず、正しく「信教の自由」条項というべきだろう。

 

平成23年9月29日

伊藤博文らは自由主義的政治思想の建前から、憲法学者の研究に対し寛容な態度であった。それに対して山県有朋らは国体論について極めて厳格な態度で臨み、それが枢密院内での対立を生ずるに至った、と昭和10年3月の東京日日新聞は伝えている。

山県が枢密院議長の時、美濃部達吉の天皇機関説は言辞が過ぎているとして、枢府の問題となった。山県議長と枢密顧問官伊東巳代治は美濃部博士の帝大教授解職を政府当局に迫った。

しかし大隈重信侯爵、一木喜徳郎男爵そして岡野敬次郎男爵らが奔走した結果、解職なくして問題は落着した。山県有朋は大正11年(1922年)に没しているから、これは明治末年から大正期のことである。

美濃部達吉の直接の相手は上杉慎吉であって、その上杉は昭和4年に他界している。この論争を持ち出したのが、昭和10年の天皇機関説事件である。大日本帝国憲法の蹂躙はすでに山県枢密院議長時代から始まっていたということである。

そして、帝国憲法の草案作成に寄与したとされる伊東巳代治の姿勢もここに出ている。伊東の統帥権干犯論と天皇機関説排撃の罪は実に重い。

 

平成23年9月22日

GHQの占領下において、彼らに軍国主義者や過激なる国家主義者と認められた者は追放された。すべてではないが、国体明徴運動の賛同者は否定された、と考えて妥当だろう。しかし、美濃部達吉を代表とする天皇機関説側の意見が復活したわけではない。

美濃部達吉の「憲法改正問題」は昭和20年10月20日から3日間、朝日新聞に掲載された。憲法改正は急ぐ必要がなく、帝国憲法はこの十数年来歪曲されてきたのであり、もし改正に着手するにしても慎重さが要求される、が要旨であった。

ところが実際にはあわただしく日本国憲法は制定された。GHQの強力な圧力の前には如何ともしがたい状況だった。戦前の反省からか、日本側の改正案は天皇機関説だったとされているが、国民主権で根本が変えられた。そして結局はこの圧力を利用して帝国憲法の否定に回った連中が主流となった、ということだろう。

天皇機関説排撃を批判した河合栄治郎などは終戦前年に没している。昭和天皇を別とすると、天皇機関説側はほとんど見当たらない。そして当時のキリスト者にさえも、天皇機関説排撃を批判した著作はないのではないか。金森徳次郎の君主政論も美濃部とは差異がある。

つまり終戦直後には、昭和戦前の天皇機関説排撃を正確に批判して影響力のあった著述は案外ないのである。その反対に帝国憲法体制をGHQと同じ観点で批判した丸山真男「超国家主義の論理と心理」が大いに受け入れられたという事実がある。

 

平成23年9月20日

昭和戦前の歴史を振りかえると、GHQが否定すべきは少なくとも国体明徴運動(天皇機関説排撃)から終戦までの日本だったはずである。この後『国体の本義』が出版され、昭和15年の基本国策要綱では八紘一宇が用いられている。

天皇を現御神とし、肇国の大精神に基づく国是の遂行に邁進する、これらは宣命や詔勅の誤った解釈から出た文言である。前者は即位の宣命の「現御神止」を誤解したものであるし、後者は教育勅語の「中外に施して悖らず」の誤解による。

GHQが特に問題としたのは、1930年代から1940年代初期に国民に強制された「国体のカルト」である、とウッダードは述べている。これらの思想はむろん明治後半からあったものだが、国家の公式文書に表れたのは、やはり昭和10年の天皇機関説排撃がきっかけだろう。

つまりGHQは国体明徴運動以前の日本を見直すべきだったのではないか。大日本帝国憲法に世界征服思想はないし、教育勅語にもそれは存在しない。ただ、教育勅語解釈の歴史を検証すると、GHQへ助言できた可能性はほぼなかったろうと思われる。

もし、これらの正しい助言が受け入れられていたならば、「神道指令」は発令されず、当時のような憲法改正は無かったのではないか。かなり大きな歴史のイフではあるが・・。

 

平成23年9月19日

いわゆる三大神勅なるものがある。「天壌無窮の詔勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭稲穂の神勅」である。『日本書紀』にこれらは確認できる。何事もこれらの神勅からはじまるとするのが、神勅主義である。

明治の後半には、一木喜徳郎・美濃部達吉らのいわゆる天皇機関説に対抗する意味の神勅主義とも言えるような言説があった。井上毅の没後といってもよい。この傾向の論者は、穂積八束・上杉慎吉が代表的である。

昭和戦前の我が国は、この天皇機関説を排撃し国体明徴運動となって、この神勅主義・天皇主権・天皇現人神論が国家の姿勢となった。文部省の『国体の本義』がその証拠である。

つまりGHQは、この神勅主義・天皇主権・天皇現人神という思想を否定するために「神道指令」を発した、と考えて妥当ではないか。当時、天皇機関説という『憲法義解』に忠実な考え方があったことを、我が国要人が主張できなかったことに悔いが残る。

我が国には三大神勅があって、「現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざること」(本居宣長)だから、あくまで我が国の来歴からすると古伝承は正しく尊い、ということである。神勅主義ありき、ではない。

 

平成23年9月18日

山形県にいたGHQの担当者が示した教育勅語の問題個所は象徴的である。第一点「朕惟ふに、我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深更なり・・教育の淵源亦実にここに存す」

いわゆる「人間宣言」や日本国憲法のポイントは、天皇の「神性の否定」と「主権在民」である。したがって皇祖皇宗の肇国が彼らには神話的であり、樹徳は君主主権と捉えられた可能性があるだろう。

また第二段落の「徳目」は問題にせず、「一旦緩急あれば・・皇運を扶翼すべし」をあげている。婦人教育担当のドノヴァンが「より明らかな危険性」がこの文章にあって、「道徳的な行為の最高目的は天皇の繁栄を熱望するところにある」と語った部分である。

最後は「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして・・之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」である。ここがなぜ問題とされたのか。

GHQ民間情報教育局長ケン・ダイクは、「之を中外に施す」として日本の影響を世界に及ぼす、と誤って伝えた、というのである。古い文章は誤った解釈を行わせやすい、とも語っている。「中外」を日米ともに誤解していた証拠である。

 

平成23年9月16日

家永三郎『太平洋戦争 第二版』は複雑な本である。支離滅裂といった方がよいかもしれない。帝国憲法体制を「天皇主権国家」「絶対主義国家」といいながら、天皇機関説排撃を批判し国体明徴運動を批判しているからである。

国体明徴運動とはまさしく帝国憲法体制を「天皇主権国家」「絶対主義国家」と解釈するものだからである。美濃部達吉が主張した天皇機関説の真意は帝国憲法の正統的解説書『憲法義解』に副っており、その主張するところは反「天皇主権国家」であり反「絶対主義国家」である。

そもそも家永三郎は教育勅語も正しく理解していない。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」を軍国主義的至上命令と解しているからである。「一旦緩急あれば」は軍国主義云々よりも国防上の国民の義務として当然だろう。

1946年6月10日、山形に駐在する陸軍中尉からSCAPあて、「教育勅語」に関する問合わせがあった。山形県の学校では、年4回の儀式の際、教育勅語を読むところとまったくそうしないところがあるとし、学校での教育勅語朗読の可否の明確化を求めたものである。

添付された英文には、以下の三箇所に傍線を引き、問題箇所とあったという。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク孝ニ克ク忠ニ億兆心ヲ一ニシテ世世そノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」
「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」
「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」

当然ながら、問題個所に五倫五常の「徳目」は入っていない。

 

平成23年9月11日

シビリアン・コントロールを文民統制と訳して、軍人に対する文民優位、と解説されることが多い。しかし『日本国防軍を創設せよ』を著した栗栖弘臣は英米の記者からシビリアン・コントロールとは何物かとの逆質問を受けて驚いたという。

そして「米国がここでシビリアンというのは国民全体を指すのであって、軍事についても国民、その代表たる大統領が最終決定権を持つとする民主主義の概念である」と記している。

昭和戦前の歴史から、「軍部の独走」がよく語られる。しかし国益に重大な影響を及ぼした出来事のなかで、満州事変はたしかに「軍部の独走」であるが、これには功罪両方の見解がある。

しかし国際連盟の脱退、支那事変の拡大、三国同盟の締結、南部仏印進駐は「文民の独走」だとするのが妥当な見解だろう。そして昭和戦前の軍人は軍人勅諭を無視して政治に介入し、文民化して5・15事件や2・26事件を起したことが問題であった。

やはり帝国憲法の「軍政事項」と「軍令事項」を正しく解釈せず、統帥権干犯などと枉げたことを、今、真摯に反省すべき時期なのではないか。

 

平成23年9月7日

今年は天変地異の多い年で、東日本大震災のみならず各地での集中豪雨も予想を超えたものとなっている。これ以上被害が拡大されないことを祈るのみである。猛威をふるったこの9月の台風は「平成23年台風第12号」あるいは「1112号」(2011年の第12号台風)という。

ところで、台風には別名がある。我が国では室戸台風・枕崎台風のように台風の上陸地名がつくこともあった。しかしどうやらGHQの占領下で、ABCD順に「アイオン」「キティ」「キャサリン」などと米国風に女性の名がつけられたらしい(俵孝太郎『敗戦・占領下の日本の歴史』)。

「平成23年台風第12号」の別名は「Talas(タラス)」である。「鋭さ」という意味でフィリピンが提出した名前である。最近では日本が提出した「Tokage(トカゲ・平成23年第7号台風)」「Kompas(コンパス・平成22年第7号台風)」などがある。

洞爺丸台風は昭和29年伊勢湾台風は同34年である。我国の主権回復は同27年である。それぞれに「Marie(マリー)」「Vera(ヴェラ)」の別名をもつが、やはり和名の方が鮮明な記憶を呼び起こす。

台風の名前も然ることながら、GHQの占領下における日本の分析はまだまだであるように思う。特に彼らが目標とした「日本人の精神的武装解除」の実態は解明されたとはいえないのではないか。

 

平成23年9月2日

昭和20年9月2日、我が国はミズーリ艦上において連合国を相手とする降伏文書に調印した。ミズーリとは当時の米国大統領トルーマンの出身州の名であった。

調印式を終えたマッカーサーはこの後、鎌倉にある鶴岡八幡宮に出向いている。午後三時頃、14名の米軍将官を乗せた濃緑色の自動車は鳥居前に到着した。

マッカーサーは神札授与所で白羽の破魔矢を受け取り、拝殿に向かって礼拝ののち、応対した宮司に「私は40年前このお宮に参拝したことがある。そのときと少しも変らない。しかしそのころ君は未だ少年だったろう」と云ったという。

「どうぞご少憩を」とすすめる宮司に、マッカーサーは「有難う、けふは急ぐから」と幕僚たちとともに静かに辞した。雑田宮司は「その敬神の念の厚さには大いに学びました。これも一つに総司令官の人格が下にまでよく反映してゐるのではないかと思ひます」と語っている。

「元帥にとっては日本進駐以来これが最初の私的な行動だったろう」と読売報知新聞は伝えているが、この記事は昭和20年9月18日に掲載されたものである。マッカーサーの占領中における私的な行動は、実はそれほど公開されていない。

 

平成23年8月27日

柳原前光(やなぎわらさきみつ)は明治皇室典範の草案作成に井上毅らとともに深く関与した、公家出身で後に伯爵となった人である。明治27年9月2日、45歳で没した。

縉紳(しんしん)は「礼装のとき、笏(しゃく)を紳(大帯)に挿し入れること」との説明は全訳『漢辞海』であるが、高位・高官・士大夫を指す、とあるから身分の高い人ということになる。柳原前光は西園寺公望とともに、縉紳家の二星と評せられたという。

その柳原前光、大病にかかりながらも「露国は今百万の兵を以て攻め来る、予は露兵征討大将軍の命を受け是より直ちに発行すべければ其用意を為すべし」とのうわ言を発し、家来共を叱咤することがあったという。

明治27年はすでに7月から日清戦争がはじまっている。明治維新から大日本帝国憲法の発布・国会開設と内治は整ってきたものの、外交についてはなお困難な時代となっていた。

病人のうわ言とはいえ、露国の南下政策にたいし、これほどの危機感はさすがというべきだろう。これも『尾崎三良自序略伝』にある話である。

 

平成23年8月23日

陸奥宗光は第二次伊藤博文内閣の外務大臣であった。彼は英米をはじめとする他の国々との条約における治外法権の撤廃などに功のあった人である。明治10年に要人を暗殺しようとして明治11年から7年の刑となったが、5年を経て特赦となり出獄した。

欧米同化論なるものはこの陸奥宗光が主唱したと云われている。当時の外務卿井上薫は条約改正を完成しようと苦心惨憺だった。そこへ陸奥は、条約改正を円満に成就せしめるためには我より彼に同化して務めて彼の同情を得る、と外務卿に進言した。

そこで欧米人を模倣するために舞踏会をはじめたのである。鹿鳴館や外務卿の官舎において仮面舞踏会となり、伊藤博文なども参加した。つまり彼は欧米同化論を是としたのである。世間はこの同化論に付和雷同したものの、遂には難問の発生するところとなった。

欧米人を模倣したものの、彼らから見れば日本人の宗旨は神道であり仏教だから外邪宗旨であって、欧米人は日本人をヒーゼン(heathen・異教徒)として軽侮の目でみていたという。そこで国教を耶蘇宗に定め、高等官はその洗礼を受ける条件を付す、との議があったのである。

むろんこれも陸奥宗光の発議であって、井上外務卿がこれに賛同した。一大事と考えた柳原前光や尾崎三良らがこれに反論した。「祖宗の法に従ふものは総て排斥」し「皇室尊崇心を根底より覆滅」せんとするは、我国家の大乱を醸成するものだと必死であった。

 

平成23年8月21日

尾崎三良(おざきさぶろう)は天保13年(1842年)に生れ大正7年(1918年)77歳で没した幕末から明治の人である。のちに太政大臣となった三条実美に若いころから仕え、いわゆる七卿落ちにも同行し、激動の時代を生きたいわば「歴史の人」である。

七卿落ちとは、攘夷を急ぐ三条実美や長州藩を幕府側の守護職松平肥後守容保(会津藩主)らが薩摩藩と結託して京都から追放したことをいう。文久三年(1863年)のことであった。追われた彼らは長州から大宰府に移され、王政復古の時に赦免となった。

尾崎三良には中公文庫『尾崎三良自叙略伝』全3巻がある。自叙伝にありがちな自慢話や行動家としての名誉欲や金銭欲にも少々辟易するが、幕末を生きて明治政府で活躍した人物にはある程度共通したことだろう。

慶応三年10月、つまり坂本竜馬が暗殺されたひと月前、尾崎三良はゆえあって戸田雅樂と称し、京都河原町四条上る醤油屋某方に坂本竜馬と共に寓居していた。そこで彼が坂本竜馬に示したのが「新官制擬定書」のもとになる「職制案」である。

坂本良馬はこれをみて、共にこれを周旋しようと提案するが、尾崎は九州にいる三条公への報告のためこれを断った。坂本は、然らば勝手にし玉へ、といってその翌月、京都見廻組に斬殺された。尾崎はもし一緒に難にあっていたら、従四位で招魂社に祭られている位だろう記している。

 

平成23年7月13日

元明天皇は天智天皇の「不改常典(かえるまじきつねののり)」に随って、文武天皇から皇位を引き継いだ。ただ、この不改常典のたしかな証拠が存在しないので、いろいろと議論がある。

文武天皇の皇子、のちの聖武天皇がまだ若いので、天皇は母である元明天皇に譲位をされた。「みまし親王(みこ))(=聖武天皇)の齢(よはい)の弱きに、荷重きは堪えじかと、念(おもほ)し坐して、皇祖母と坐しし、掛けまくも畏き我皇(わがおほきみ)天皇(=元明天皇)に授け奉(まつ)りき。」

これは元明天皇の皇女で、のちの元正天皇から甥である聖武天皇へのお言葉である。そしてさらに大事な文言がある。元明天皇から元正天皇へ伝えられたお言葉である。

「掛けまくも畏き淡海大津宮に御宇(あめのしたしらしめ)しし倭根子天皇の、万世(よろづよ)に改るまじき常の典と、立て賜ひ敷き賜へる法の随(まにま)に、後遂には我子に、さだかにむくさかに、過つ事無く授け賜へ」」

「我子」は元明天皇の孫である聖武天皇のことである。これを読むと、やはり元明天皇から元正天皇への譲位がいわゆる「中継ぎ」であったことが明確になる。

 

平成23年7月7日

日本書紀などを読むにあたっては、「すべて漢文の潤色多ければ、これをよむには、はじめよりその心得なくてはあるべからず」と注意を促したのは晩年の本居宣長翁であった。

「然るを世間の神学者、此わきまへなくして、ただ文のままにこころえ、返て漢文の潤色の所を、よろこび尊みて、殊に心を用いるほどに、すべての解し様、ことごこく漢流の理屈にして、いたく古の意にたがへり」

昨年遷都1300年で話題だった、元明天皇「平城遷都の詔」は隋書の「新都創建の詔」を模したとものだといわれている。そして今でもこの詔を「漢文の潤色の所を、よろこび尊み」て解釈している研究者が少なくない。

「平城遷都の詔」は『続日本紀』であるが、「必未遑也」を隋書にある「心未遑也」だとするなど、この典型だろう。両者の違いを追及できなければ、文脈上からも違和感のある解釈となるのは必定である。

『続日本紀』は「女帝」の時代といわれ、神々は仏法を守護する存在とされた時代である。本居宣長は『続紀歴朝詔詞解』で宣命を解説したが、これさえも誤解して読まれているのが実態である。この時代を恣意的に解釈する傾向が、どうにも強く感じられて仕方がない。

 

平成23年7月4日

皇位継承に関して、養老令の「継嗣令」にある註の「女帝子亦同」がどうしても話題になる。「女帝の子」と訓むか「「ひめみこも帝の子」と訓むかということである。結論としては後者が正しいと思うが、事実を追ってみる。

明治の学者、小中村清矩やその養子だった池辺義象らが「女帝の子」と訓んだことは間違いない。前者は『陽春蘆雑考』「女帝考」にあるし、後者は『日本法制史』「皇位継承」にある。

この小中村清矩の『陽春蘆雑考』「女帝考」を読んでみると、「女帝の子」と訓むようになったのは『講令備考』「継嗣令」の河村秀根による解説を参考にしたことが書かれている。

その『講令備考』「継嗣令」の河村秀根による解説は、皇極天皇が舒明天皇の皇后になる以前、用明天皇の孫である高向王の夫人として漢皇子を生んでいた。「女帝の子」はこのことを指しているというのである。

誤読も甚だしい。なぜなら『講令備考』の「公式令」<平出条項>に「女帝」がないことを解説していないからである。つまり養老令の頃には「女帝」という言葉は存在しないのである。

河村秀根は日本という国号を敢えて外して『書紀集解』とした学者である。『日本書紀』が「日本書」「紀」の意味なのは当然だから、漢心(からごころ)に毒された国学者という方が的確な評価だろう。ちなみに河村たかし現名古屋市長はその子孫といわれている。

 

平成23年7月2日

元明天皇は天智天皇の皇女で、天武天皇と后である後の持統天皇の皇子、草壁皇子の妃であった。草壁皇子は若干28歳で他界した。天武天皇の後、皇后の持統天皇が皇位を継ぎ、そのあとは天武天皇の孫である文武天皇が即位した。

慶雲三年十一月、病を患っていた文武天皇は母に「天つ日嗣の位は、大命に坐(ま)せ大坐し坐して治め賜ふべし」と皇位の継承を要請した。これに対し母は「朕(わ)は堪(あ)へじ」として再三にわたって固辞をした。

文武天皇の健康回復を願う母の思いが伝わってくる。心を強く持って生き抜いてほしいと思う母心である。しかし慶雲四年六月十五日、「詔命(おほみこと)は受け賜ふ」と母は即位の決意を余儀なくされた。文武天皇崩御の日である。

文武天皇の皇子、後の聖武天皇はこの時まだ7歳である。元明天皇は天智天皇の改(かは)るまじき常の典(のり)を受けて、中継ぎとして即位した。この不改常典については様々な見解があるが、重要なことは元明天皇が今でいう万世一系の皇統を強く意識されていたことだろう。

夫に先立たれ、また子息である文武天皇も25歳で他界した。元明天皇の悲しみは想像に余りある。しかし聖武天皇への皇位継承のために、自分は年をとったが皇太子はまだ幼い、として元正天皇に譲位された。万世一系の皇統を本当の意味で教えてくれたのは、この元明天皇なのではないか。

 

平成23年6月26日

養老令の継嗣令にある「女帝子亦同」を「女帝」と訓むなら、公式令にある「平出条項」になぜ「女帝」がないのかを説明しなければならことは前回書いた。しかしこの説明は存在しない。養老令の時代には「女帝」など存在しないのだから、これは「女」を「ひめみこ」と訓みことの証明だろう。

また、「平出条項」には「凡明神御宇。如此之類。非是斥-説一人。故不可平闕。」がある。「凡そ明神御宇、此くの如くの類い、是れ一人を斥(さ=指)して説くにあらず。故に平闕すべからず。」である。

つまり、明神御宇は一人を特定する語句ではないから、尊んで表記する平出や闕字は必要がない、ということである。当サイトの主張する一つは天皇現御神論の否定であり、それが詔勅解釈の誤りからのものであるとのことである。

公式令でも「明神天皇」ではなく、「明神御宇」である。「明神御宇」は「あきつみかみと(して)」天下(あめのした)「しろしめす」の意で副詞である。これで文武天皇即位の詔にある「現神と大八嶋所知す天皇が・・」(あきつみかみとおほやしまぐにしろしめすすめらが・・)の意味が明瞭となる。

現御神として、は「無私の精神で」「祖先の叡智にしたがって」の意である。もう少し公式令の平出条項は検討されるべきではないか。

 

平成23年6月22日

国旗国歌起立命令違憲訴訟はこの21日で4件目の判決があり、すべての判決において職務命令は合憲、との判断が下された。この裁判官の一人田原睦夫裁判官が反対意見を述べているが、同裁判官は砂川市有地神社違憲訴訟において、戦前の神社神道は「事実上国教的取扱い」だったと語っていた。

この意見は津地鎮祭裁判の最高裁判決(合憲判断)にある反対意見を基にしたものである。この反対意見を書いた藤林益三裁判長は矢内原忠雄を引用し、その文章は岸本英夫などの見解とも合致している。そしてこれが歴史の事実を無視して書かれたものであることは、当サイトが明らかにしたところである。

これらは裁判官の見識というより、彼らに歴史の事実を提示できない知識人の怠慢である。国教なら教義がなければならないが、これまで客観的な事実として明瞭にされたものは一つもない。GHQは「国家神道」に世界征服思想があると断定したのである。ここも説明されていない。

原発の津波災害から、セシウムの半減期が29年と報道されてみな驚いた。しかし戦後における歴史の検証への怠慢は一向に「半減期」が来そうにない。むしろこの怠慢からの誤った歴史認識が増幅されつつある。

 

平成23年6月20日

大日本帝国憲法に付随するものとして「告文(こうもん)」「上諭」「勅語」がある。このうち、「上諭」と「勅語」ははじめ、ひとつの文書で検討されていたことが尾佐竹猛の講演記録に残されている。事実、『伊東巳代治関係文書』にその一つだった文書がある。

「朕カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠実勇武ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ、朕カ意ヲ奉体シ、朕カ事ヲ奨順シ、相與ニ心ヲ一ニシ和衷叶同ノ方嚮ヲ取リ、文明安富ノ軌道ニ就キ相議シ相謀テ、益々我カ帝国ノ昌栄ヲ中外ニ宣揚シ、祖宗ノ遺業ヲ無窮ノ久シキニ鞏固隆盛ナラシムルノ希望ヲ同クシ、此ノ大事ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ信スルナリ」(読点は筆者)

ここに記されているのは、天皇と臣民との絆である。そして「我カ帝国ノ昌栄ヲ中外ニ宣揚シ」の「中外」を「国の内外」とする根拠はここにない。また、「告文」には「内ハ以テ子孫ノ率由スル所」と為し、「外ハ以テ臣民翼賛ノ道」を広め、とある。子孫は天皇の継嗣であるが、ここに外国はない。

帝国憲法発布は西南戦争の12年後である。幕府が倒壊してまだ間もない。天皇と臣民の新たな絆の確認が必要だったのではないか。これらの文章に井上毅が関与していた確率は高いだろうから、「中外」は「宮廷の内外」「国中」と解釈して意味が理解できる。

 

平成23年6月17日

岸本英夫は当時、「国家神道を、偏狭な国家主義思想に凝り固まった、きわめて煽動的な宗教であるとみなすことが、世界の強い一般的な世論になっていた。」と述べ、「連合国の考え方は、すでに終戦前に、日本に呼びかけるために発せられたポツダム宣言に示されている。」と語っていた。

この見方は、連合国の誤解を把握していれば、ほぼ正しいだろう。「国家神道の廃止の問題は、単に一宗教の問題としてだけでなく、全占領政策中の根本政策の一つとしてとりあげられていたほどであった。」と語ったこの後半部分も、その通りである。

しかし彼において全く不可解なのは、「彼らは神社神道と神道的国家主義とを、まったく同じもののように考えていた。」とする認識である。もしこのことに疑問をもったのならば、いわゆる神社神道に神道的国家主義(=GHQのいう超国家主義)が存在したかどうかを追及すべきだったろう。

岸本英夫は、ポツダム宣言は軍国主義、超国家主義を除去する必要を強調している、とも記している。ここまでくれば、GHQは教育勅語を国家神道の聖典としたのだから、後にでも、教育勅語にあるという超国家主義の文言を分析するべきだったのではないか。

GHQの神社神道(彼らにおいては=国家神道)観は、岸本英夫の伝えるとおりだろう。しかしGHQの占領終了後、宗教学者として、国家神道の教義なるものを真摯に追求せず、「日本じゅうの神様は、僕のおかげで助かったのだ」と語っていたことは、何とも残念なことというしかない。

 

平成23年6月14日

岸本英夫はGHQ神道指令の担当者、バンスからその草稿を渡され、その中に禁止用語として「国体」が入っていることに気がついた。それなら教育勅語が即座に廃止されることになる、と考えたのである。

交渉の末、「国体」は禁止用語から省かれることとなった。そしてそのことを知った前田多門文部大臣は、教育勅語を守ったことへの謝礼の言葉と金一封を、岸本英夫あての使いに持たせたという。問題はこの後のことである。

「やがて日本側の発意という形で、教育勅語の奉読が停止されたのはもう少し後のことになる。(中略)そして、さらに二十三年六月に至って、正式に撤廃令が文部省から通達された。こうして多年にわたって日本の精神教育の支柱となっていたこの勅語は、激しい時代の波の間にかき消されて行ったのである。」

何という他人事のような文章だろう。GHQが教育勅語を国家神道の聖典と断定していたことは、知らないはずがない。バンスもそう記している。ならば、何が問題なのか、なぜ追及しなかったのだろう。当時は無理としても、少なくともサンフランシスコ条約発効後にはこの反省が必要だったはずである。

『戦後宗教回想録』は同条約発効11年後の、昭和38年の発行である。なのに、その「序」においても、これらには全く触れていない。岸本英夫は容易に理解できない宗教学者である。

 

平成23年6月12日

終戦直後、GHQの日本人顧問としてその宗教政策に深く関与したのは、岸本英夫(当時東京大学助教授)であった。彼はのちに、「日本じゅうの神様は、僕のおかげで助かったのだ」と自慢していたという。これは『時と人と学と』―東京大学宗教学研究室の七十五年―に小池長之が記している。

「神道思想の中には、どれほどか、かような過激なる国家主義の発展しやすいような要素があった」と彼が語っているのは、「日本民族が他の民族と比較を絶して、特別な勝れた民族であり、その民族のもつ特異な理想が、世界の思想の指導原理となり、他の国が日本の政治的支配の下に属することが、その国々にとっても幸福であるというような思想」があったからだとしている。

上の文章の後半は、GHQ神道指令に類似している。そして今日、その神道指令から日本国憲法に至り、国家の要人の靖国神社参拝さえ論議の対象となっている。GHQが問題にしたのは「神道」ではなく、「国家神道」である。被占領下ならともかく、その後の岸本英夫にはここの説明がない。

「いわゆる国家神道は単なる宗教ではないとして、キリスト教や仏教と区別され、国民はめいめいの信仰のいかんに拘らず神社には崇敬の誠をつくすべきものとされたのである。この状態は明治維新からこの度の終戦まで約八十年続いた。」

この文章こそ、GHQのいう国家神道を全く理解していない証拠である。GHQが教育勅語を国家神道の聖典と断定した意味もわかっていない。これが村上重良『国家神道』につながり、今日の誤った政教関係論のもとになっているのである。

 

平成23年6月10日

6月6日、最高裁は東京都教育委員会の職務命令である国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否した者に関し、都がその後の非常勤の嘱託員採用で、この拒否者を不合格としたことに関する判決において、上告を拒否し原審に差し戻す判決を下した。

上告への前提として、①侵略戦争と「日の丸」「君が代」②国家神道の象徴を賛美③国家主権に反対する④教育の画一的統制⑤これまでの自主的判断の実践に矛盾する⑥多様な国籍、民族、信仰、家庭的背景からの生徒の信仰や思想を守らなければならない、というのがあるという。

①侵略戦争の定義は国連総会決議3314(1974年)によるべきであり、それ以前には適用されない。②国家神道の定義は教育勅語「中外」を除いてはありえない。③そもそも公教育は無制限の個人の尊重を志向していない。④国旗国歌に関し、画一的統制云々は妥当な議論ではない⑤これまでの教育姿勢の是非を問う必要がある。⑥多様な背景があるからこそ、国家の象徴が必要なのである。

以上は上告の前提への直観的な批判であるが、これらの前提に対し、裁判所が少なくても①②の各項目について、明確に否定していないのはどうしたことだろう。歴史の事実を無視した上告への前提を徹底批判しない限り、アナーキストによる訴訟に毎回対応せざるを得ないことになるだろう。

問題は裁判官に(そして世間一般に)、これらの前提への批判を可能とする資料が少ないことだろう。①の侵略戦争は明らかにしても、②の国家神道の定義については、未だあいまいである。教育勅語の誤解からつくられた「教義」という事実を、多くの研究者が検証されることを望むのみである。

 

平成23年6月1日

真崎甚三郎大将と平沼騏一郎男爵(枢密院副議長)は、天皇機関説排撃を考えると、同じ側の人間であった。昭和10年2月26日、つまり美濃部達吉の貴族院本会議における「一身上の弁明」が行われた翌日に、真崎と平沼は国本社において会食をしている。

真崎が美濃部の意見について平沼に尋ねたところ、男爵は一笑に付し、「彼は素人には尤もらしく響くも専門的に見れば明瞭なり、彼は大権の体と用とを誤あり、権利などの言を使用すべきものにあらず」と語ったとある。

帝国憲法第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の條規に依り之を行ふ」。この大権については『憲法義解』にその解説がある。

「蓋し統治権を総攬するは主権の體なり。憲法の條規に依り之を行ふは主権の用なり。體有りて用無ければ之を専制に失ふ。用有りて體無ければ之を散漫に失ふ。」これからすると、統治権の総攬=大権≠専制(絶対権)である。

平沼騏一郎のいう美濃部が用いた「権利」とは詔勅批判の権利と推測できる。つまり結局は天皇絶対性の否定である。「憲法の條規に依り之を行ふ」や『憲法義解』の解説からすると美濃部が正しいことはいうまでもない。平沼こそ、「大権の体と用とを誤」ったというべきである。

 

平成23年5月27日

昭和戦前における、いわゆる皇道派と統制派の区分はよくわからない。歴史の見方は様々であるが、単なる派閥とみても大きな間違いではないのではないか。真崎甚三郎はその日記において「国家社会主義の思想を退治するは予等の思想なること」と記しているが、事実はどうか。

国防上の戦略・戦術にいろいろな考え方があることは、当然だろう。刻々と変化する世界情勢に対応するには様々な角度からの見方が必要となるからである。したがって、国防政策の比較だけでは両派の違いは明瞭にならない。

皇道派のリーダーの一人であった真崎甚三郎教育総監は、天皇機関説を排撃する国体明徴運動を強力に推進した。その延長線上で発行されたのが、昭和12年文部省『国体の本義』である。『国体の本義』からさらに国民の役割を詳述したのが昭和16年文部省『臣民の道』である。

つまり『国体の本義』と『臣民の道』は順接である。昭和16年はすでに皇道派は主流ではない。東条英機らのいわば統制派が主流であった。にもかかわらず、上記の二著には連続性がある。

天皇を現御神とし、天皇親政を称揚する根本は同じである。いづれも我が国のありように違背している。具体的には大日本帝国憲法に違背している。そして教育勅語の誤った解釈も両派に共通している。この点からみると、両派の根はほぼ同じだと云えるのではないか。

 

平成23年5月25日

昭和10年2月18日の貴族院本会議における菊池武夫の演説に近い質問の一週間後、美濃部達吉はいわゆる天皇機関説についての弁明を行った。詳細は当サイトの「昭和戦前異聞」にある。

その弁明を聴いて、菊池武夫は「同博士の著書を全部通読したのでもない、只今承る如き内容のものであれば何も私がとりあげて問題とするにも当たらないやうに思う」と述べたと朝日新聞は記していた。

実際には「御本を全部通覧いたしまして、今日の御説明のやうに感ぜられまするならば、何も問題にもならぬのでございます」が貴族院の記録にある。「感ぜられまするならば」という仮定法で、その主語は菊池武夫自身ではないから、やはり読んでいないのだろう。

日本精神協会会長菊池武夫の発行した『大日本詔勅謹解』、また金子堅太郎が編纂局総裁だった『明治天皇紀』は我国の歴史上、大変重要なものである。しかしこの二人における詔勅の解釈こそ昭和戦前の大きな過ちであった。

国家社会主義者とそのシンパ、それとともに帝国憲法を蹂躙し詔勅を誤解した勢力を明らかにしなければ昭和戦前は分からない。特に後者は教育勅語の「中外」と国典における「現御神止」の致命的な誤解を知らなければ解明できないから、大変厄介なのである。

 

平成23年5月24日

昭和10年2月18日の貴族院本会議での菊池武夫はいくつもの質問で饒舌だった。綱紀の乱れから「怪文書」が飛び回っていること、憲法解釈に問題のある著作が野放しにされていること、等々を延々と語っていた。

松田源治文部大臣は議長に対し、憲法解釈に関するその書物と著者である教授を特定するよう提案した。これに応えて菊池武夫は末弘厳太郎の『法窓閑話』『法窓漫筆』、美濃部達吉の『憲法提要』『憲法精義』そして一木喜徳郎『国法学説』などを挙げた。

これに対し松田文部大臣は、末弘教授の思想はすでに変わっており、『法窓閑話』などは自ら絶版とした、と述べた。美濃部の天皇機関説には「むろん反対でありますけれども」としてこれらは「学者の議論に委して置くことが相当でないかと考へて居ります」と語った。

菊池武夫の主張は「日本憲法を説くには日本精神で説かなければならぬ」というものであった。天皇機関説はドイツからの輸入物に過ぎないというのである。帝国憲法第一条は統治権の主体は天皇であることを示しており、天皇の命を審査する権が大臣にはあるはずがない、とのことである。

しかしながら諫言も認められている、それが日本の本旨であるというのである。菊池武夫の主張はわかりにくい。用語以外、天皇機関説との相違が明確になっていない。彼の「日本精神」の説明はあくまで空虚であった。

 

平成23年5月22日

菊池武夫は昭和10年2月18日、貴族院本会議において「我国政界の有様が堕落いたしまして、綱紀の頽廃せること実に久しいものでございます」と語った。

そこで「本壇に於きまして、我が皇国の伝統並に倫理を政治化せられまして、言葉を換へますれば伝統倫理の行政化、法律化、教育化と云ふやうなことになるのでございまして」とし、帝国大学の廃止や高等文官試験委員並びに試験問題の変更を語ったのである。

そして精神弛緩から、地方官は精神上のことは甚だ不熱心とも述べた。それは「歴代の詔勅謹解と云ふものを栫へまして、之を普く知らせることが宜しい云ふ考から拵へました」、ところがたとえば東北六県には配分したものの、御返事のないところがある、というのである。

「如何に官吏と云ふものが上の好む所の影響を受けて堕落して、唯利益に趨(はし)って、利権黄白(金銭)以外眼中にないかを見るものでございます」と憤った。

この「歴代の詔勅謹解」とは日本精神協会発行の『大日本詔勅謹解』全七巻のことであると思われる。森清人・高須芳次郎両氏の著作であり、菊池武夫が日本精神協会の会長として、協会設立の趣旨を載せているからである。

 

平成23年5月19日

東京新聞1971年4月6日に「バチカンが仲立ち 神父通して働きかける」の記事がある。この米国のバチカンを通しての工作は「船作戦」と呼ばれ、同年4月3日号のジェスイット教団の機関誌月刊『ラ・チビルタ・カトリカ』にその記事が載り、インタナショナル・ヘラルド・トリビューンもとり上げたという。

キグリー『PEACE WITHOUT HIROSHIMA』(邦訳『バチカン発・和平工作電』)は1991年の出版だが、1971年の東京新聞では、「文字どおりのナゾだらけで・・」となっている。ベッセル(VESSEL==船)としか名乗らない米国人だから、「船作戦」ということらしい。

駐バチカン公使だった原田健もこの時点では、「わたしが打った暗号は終戦時に焼却もされず、残っているという話を聞きましたが、どうなってますか・・」と語っている。キグリ―への返信は1972年だから、やはり実態が判明したのはその時なのだろう。

昭和20年の日本政府はソ連一辺倒だった。広田弘毅はマリク駐日ソ連大使に「日本は将来、何事についてもまずソ連と話をする意向である」と6月に語っていたことが、そのことの証明だろう。親ソ派が我が国をソ連に貢ぐつもりだったという見解は、ほぼ妥当なのではないか。

「東郷外相は、如何すれば和平交渉(有条件講和)に入ることが出来るか苦慮した。中立国関係として、法王庁、瑞西(スイス)瑞典(スウェーデン)等は見込みなしとした」(外務省「終戦史録」)と新聞は伝えている。昭和天皇の思いは、どこまでも無視されたとしか言いようがない。

 

平成23年5月17日

5月17日はフランス文学者村松剛が没した日である。1994年、65歳だった。論壇では保守的な論者として、天皇制を支持していた。図書館で読もうと思っても、今では書庫入りした一人である。

村松剛が葦津珍彦らと書いたものに、『元号―いま問われるもの』がある。元号は文化の問題であるとして、「自国の民族の文化伝統に対する愛情なしに、文化は成立ちませんし、したがってその未来もないでしょう」と語っている。

彼は昭和4年生まれであるが、皇紀2589年・西暦1929年、そして回教暦1347年だという。回教暦は西暦622年を元年とし、陰暦だから、少しややこしい。要は元号と西暦の併用派である。

同書では、福田恆存・葦津珍彦らも同様である。メートル法や町名「改正」は似非開化主義であり、歴史的地名が高速道路や歩道橋の名に残っている、統制狂はひそかに涙を流しているに相違ない」と福田恆存は述べた。葦津は、「キリスト教暦で祝詞や経文を読み上げるのは、到底違和感をまぬかれない」と語った。

そして、昭和25年の参議院において、「元号が、そのままに残っていることは、天皇主権がそのまま残っているようで、主権在民の新憲法の精神に反する」と、田中耕太郎は西暦一本化論を唱えたという。葦津は、その新憲法の公布は昭和21年11月3日と元号入りだとも批判している。

 

平成23年5月15日

駐バチカン公使だった原田健に 『原田助遺集』がある。原田助は原田健の父である。熊本生まれで熊本洋学校に学び、その後、同志社英学校に編入した。1888年には渡米してシカゴ神学校、イェール大学に学び、1891年にはイギリス・ドイツにも渡り、1896年に帰国した。

熊本洋学校は明治3年の設立で、西洋の文物技術を移入するために設立された学校である。米国人ジェーンズがすべて英語で授業を行ったという。明治4年に開校となり、徳富蘇峰らを輩出したが、明治9年には廃校となった。

ジェーンズの影響でキリスト教に入信する者が多く、後に熊本バンドと呼ばれるようになった奉教結盟を花岡山で行い、この活動が当局を刺激して廃校になった、とネット上などで紹介されている。

この熊本バンド、クラークの影響を受けた内村鑑三・新渡戸稲造らの札幌バンド、ブラウンの影響を受けた植村正久・井深梶之助・本多庸一らの横浜バンドがプロテスタントの黎明期を象徴するものとして有名であるが、築地市場近く聖路加病院のあたりも明石町バンドといえるかもしれない。

原田健とともにバチカンに駐在していた金山正英書記官は妻もキリスト教徒だった。原田健も宮内庁式部官長を1968年まで務めたが、東京在任中は番長教会に所属していたと『日本キリスト教歴史大事典』には掲載されている。

 

平成23年5月13日

第二次大戦当時、駐バチカン公使だった原田健は1972年3月12日、『PEACE WITHOUT HIROSHIMA』の著者キグリーがその正体を明かしたことに感謝して、彼からの手紙に返信した。二通の電報に返答がなかったのは、当時の東京がモスクワへの和平仲介を決定していたことをあげている。

「いま振り返ってみて私がさらに重要だと思う点は、戦争勃発前に天皇陛下がバチカンと外交関係を結び、使節を派遣するよう政府にご命じになっていたという事実です。戦争を防ぐことを最も強く望んでおられた陛下は、やむをえず戦争になった場合に備えてバチカン駐在使節に和平交渉の準備をさせるおつもりでした。」

何事も後に語ればその真偽を疑う者が出るのは世の常である。しかし国立公文書館には二通の電報がある。原田健はまた、「この事実は、後に出版された天皇の政治顧問、木戸(幸一)内大臣の日記に記されています(41年10月13日)。」とも伝えていた。

「ぜひ指摘しておかなければならないことですが、真珠湾攻撃の二か月も前に和平の道を見通しておられたのは天皇陛下ただお一人でした。それだけに、陛下の特使としてバチカンにいながら、陛下の当初の思し召しにかなう働きができなかったことを実に申し訳なく思っております。」

その後宮内庁式部官長を務めた原田健は1973年9月18日、東京で亡くなった。傍受された電報がワシントンで正確に解読されていたことは言うまでもないだろう。問題は「日本は国家神道の論理から侵略戦争に乗り出した」というバチカンをはじめとするキリスト者たちの認識である。

 

平成23年5月13日

第二次大戦中、バチカンには原田健公使・金山政英書記官・渡辺真治電信官、教務顧問として富沢孝彦神父がいた。金山書記官とその妻、そして原田公使の妻はカトリックだった。ローマの聖職者たちは、やはりカトリックの山本信次郎海軍少将の意見を日本軍部の総意と考えていた。

欧州の戦争が終結に向かっていた当時、バチカンは日本の戦後処理問題に関心が向いていた。「そもそも日本は国家神道の論理から侵略戦争に乗り出したのであり、天皇はその神道と深く結びついている」として、天皇の運命が議論の中心だった。

米国軍統合参謀本部、OSS(戦略事務局)がエージェント(工作員)を用いて和平工作を日本に打診したことは、外務省に残されている二通の電報が証拠となっている。この工作の伝達を持ちかけられた日本使節は熟考に熟考を重ねたが、伝達の最終判断は原田公使の告白による。

「この職に任命されたとき、私は天皇陛下ご自身から、和平の可能性を見逃さないようにとのご指示を賜ったのだ。ヴァニョッツイのこの提案は奇妙で異常な話ではあるが、畏れ多くも天皇陛下が予見あそばされた和平の可能性ととらえて差し支えなかろう」

以上はキグリー著『バチカン発・和平工作電』の邦訳にある。原題はPEACE WITHOUT HIROSHIMA であり、邦訳の副題は-ヒロシマは避けられたか-となっている。昭和天皇は早い段階から和平の道をお考えだった。昭和戦前は帝国憲法にも天皇にも背を向けた時代だったというしかない。

 

平成23年5月10日

『昭和天皇独白録』に「開戦后法皇庁に初めて使節を派遣した、之は私の発意である」という文章がある。昭和天皇はローマ法皇庁の「全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること」を考えられて、東条に公使派遣方を要望されたのである。

これとは別に、外務省資料には「バチカンのローマ法王庁ヴァニヨッチ(Vagnozzi)司教は、日本公使館嘱託の富沢孝彦師に対して、「一米人」より和平問題について日本側と接触するための橋渡しをしてほしいとの申し出があったと明かしました。」とある。

実は昭和20年6月3日、原田健駐バチカン公使から東郷外相あてにこの件の打電があった。6月3日打電、同5日受電、そして6月12日打電で同14日受電の記録は国立公文書館の資料にある。しかしながら日本からの返事は何もなかったと伝えられている。

この電報に関する書物はいくつかあるようだが、法皇庁が日本人の宗教観をどのように把握していたかはよく分からない。「神道指令」にはマッカーサーの思いが反映されていたが、当サイトに記したように、これはGHQのスタッフが日本人の誤解を鵜呑みにして発令したものである。

映画「英国王のスピーチ」の演説には、我国の対米(英)開戦をつくづく考えさせられた。当時言われた日本の「道義国家」の意味を、本当に説明できるだろうか。資本家の搾取なき統制経済社会という、社会主義に洗脳された跳ね上がりの屁理屈が「道義国家」の意味だったのではないか。

 

平成23年5月7日

産経新聞平成23年5月5日に「昭和天皇 米に謝意」というタイトルの記事が掲載された。駐日米国大使ウィリアム・キャッスル夫妻に、関東大震災(大正12年・1923年)の復興支援にたいする米国への謝意を述べられた会話の記録に関するものである。

この記録は関東大震災の7年後、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結後のものであり、そこには天皇が同条約締結を「此上もなく悦ばし」と評価され、英国大使には「益々日英米の協力により世界平和の増進せられんことを希望す」と語られたとある。

天皇は、この条約締結に猛烈に反対した加藤寛治軍令部長を海軍大臣が「更迭して終えばよかった」のにぐずぐずしてしていたから事が紛糾したのである、と戦後に語られた。記事の資料は昭和5年4月の会話記録であるから、昭和天皇の一貫性がさらに明瞭となった。

昭和戦前は帝国憲法を蹂躙し、教育勅語を曲解した真の意味での「暗黒時代」であった。統帥権干犯論が憲法蹂躙であったことは、昭和天皇の発言に明らかである。今回の沢田廉三「外国人拝謁記」はそれを解明する重要な史料となるだろう。

当サイトでは「昭和戦前異聞」において金子堅太郎の統帥権干犯論・天皇機関説排撃という憲法蹂躙を述べた。そして教育勅語の曲解についても「教育勅語異聞」に仔細を述べた。これらのことは、昭和戦前の解明のため、もっと研究されるべきではないか。

 

平成23年5月4日

文化14年5月4日は幕府の儒官、古賀精里の没した日とされている。子に古賀?庵、孫に古賀謹一郎がいる。古賀?庵は井上毅が本居宣長とともに卓識というべし、と評した人である。古賀謹一郎は幕末、ロシアのプチャーチンとの交渉で名を残している。

古賀精里は「躯幹長大にして深沈寡黙、措置頗る厳密にして、人、苟くも不善なれば直面之を戒む、しかも一度戒むるの後曾て言の其事に及ぶなし。」という人であり、また「学者固陋の風を戒めて、活学、直に世道に益せんことを旨とせり。」の学者であった。

精里が某候に招かれて書を講じていた時の話である。一老臣が、逐一罪状を述べてその罪人に科すべき刑を問うた。精里は答を他日に期して帰った。数日後訪れた精里に老臣が、本日は講日でもないのに、と訝しがるのに対し、精里は、前日の答をもってきた、と語った。

老臣は「その事ならば、座談の端に申出たるばかりの議」であるから、わざわざのお出ましに恐縮だと述べた。それを聞いた精里は「一国の政を執りながら人命を以て一場の談柄に供するとは何事ぞ。以ての外の心得かな」と憤慨した。

その後の老臣のとりなしが目に浮かぶ。以上は『贈位功臣言行録』にあるが、精里については「彼や誠に天下の活儒、治国平天下の理想を実現したる真学者なりける也」と評している。贈従四位と記されている。

 

平成23年5月2日

以前にも述べたことであるが、「平出(へいしゅつ)」とは敬意を表すために天皇などの文字を改行して文頭に書くことである。例えば、 我が 皇祖皇宗、という書き方である。また闕(欠)字というのもある。我が 皇祖皇宗、であり、一字を空けている。

『令義解』は養老令の解説書である。そこに「公式令」があって、この「平出」に該当する文字が列記されている。皇祖、皇祖妣、皇考、皇妣、先帝、天子、天皇、皇帝、陛下、至尊、太上天皇、天皇の諡、太皇太后、皇太后、皇后である。以上について、「右皆平出」とある。

『令義解』「継嗣令」の「皇兄弟皇子。皆為親王。(女帝子亦同)。」にある( )の註について、論争がある。「女帝の子」と訓むか「女(ひめみこ)も帝(みかど)の子」とするかである。皇統の男系男子継承は歴史的事実であって、女性天皇は中継ぎであったが、論争のその後はどんな状況なのだろうか。

「公式令」の「平出」に「女帝」は該当しない。「皇祖妣(わうそび)」「皇妣(わうび)」とあるのだから、「平出」条項に「皇帝」のあと「女帝」があっても不自然ではない。これがないことから、やはり「女帝の子」と訓むには無理がある。「女帝子亦同」は(ひめみこも、みかどのこに、またおなじ)と訓み、内親王への言及とする方が説得力がある。

『水鏡』『西宮記』に「女帝」が見られるが、これらはいずれも養老令の後、平安期に書かれたものである。養老令の20年後とされている「古記」には「女帝」と訓んだことが『令集解』にあるが、井上哲次郎が教育勅語の渙発後すぐに誤って解釈したことと同じような間違いだろう。

 

平成23年4月28日

今上陛下皇后陛下は4月27日、東日本大震災で多大な犠牲者の出た宮城県の被災地を訪問された。東北に大きな被害があって、今上陛下はことに思うところがおありだったのではないかと、推察される。昭和20年12月にあった皇居勤労奉仕の件があるからである。

大東亜戦争の直後、応仁の乱以後の京都そして内裏(皇居)と同様、皇居は荒廃していた。皇居内の木造の建造物はほとんど消失し、礎石、玉石、煉瓦などはいたるところに散乱し、まことにいたましい有様だった。また当時は占領軍の威圧下にあって、御門のすべてに歩哨が立っていた。

そこへ皇居の惨状を伝え聞いた宮城県栗原郡の青年・女子60人が、二重橋前広場の草刈りやお掃除のお手伝いをさせてほしいと上京した。食料燃料はもちろん、みな一挺ずつ草刈鎌を携えていたという。木下道雄侍従次長が意を汲んで皇居内の片付けを提案した。

彼らの仕事は猛烈なものであり、三日ののち、散乱していた瓦や石は実に見事に整頓されていたという。この勤労奉仕が昭和天皇のお耳に達し、のちにいうご会釈となった。天皇は、遠いところから来てくれて、ありがとう、の後、郷里の農作の具合や何が一番不自由か、など次々と質問されたという。

そして陛下が二三十歩お戻りになった際、突如彼らから君が代の合唱が湧き起ったのである。占領軍の取り締まりがやかましい時代である。陛下はこの歌声に立ち止まられ、彼らの歌声は万感胸に迫り、はては嗚咽になったという。

この悲しさこそ日本復興の大原動力となった、と木下道雄は『宮中見聞録』に伝えている。そして彼らは、皇居の草をいただいて、持って帰って堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのです、と述べたという。

 

平成23年4月23日

本欄の1月10日において、元明天皇「平城遷都の詔」にある「必未遑也」は誤って解釈されてきたと述べた。しかし、その誤りがどのようなものか、記していなかった。これまでの解釈は「(遷都については)必ずしも急ぐ必要はない」というものだった。例外はない。

まず、「未遑」は「未だ遑(いとま=暇)あらず」ではなく、単に「遑あらず」である。「未」には(いまだ・・せず)と単なる「不」の意味で(せず)がある。「平城遷都の詔」の「未」は後者である。また「未必・・」は「未だ必ずしも・・せず」の部分否定であるが、「必・・」は全否定である。

したがって「必未遑也」の正しい訓下しは「必ず遑あらず」であって、その意味は「きっとてんてこ舞いになるだろう」ということになる。元明天皇は新都造営に携わる役(えだち)の民を慮って、こう宣べられたのである。その後の詔が証拠である。

元明天皇が藤原京を懐かしんで詠まれた歌が万葉集にある。しかしこれは文芸作品であって、天皇の政治的発言とは別物である。ここを理解しない論者が多いのは、まことに解せない。それこそ不敬というべきだろう。天皇の政治発言は「無私」である。

「必ずしも急ぐ必要はない」という解釈なら、役の民への詔はどう説明をつけられるだろう?また『続日本紀』には遷都に優先する事項も記されていない。どう読んでも「必ずしも急ぐ必要はない」と解釈できる根拠は存在しない。

 

平成23年4月20日

政教分離(四)

GHQは教育勅語を国家神道の「聖典」とした。彼らの数人にその文書が存在する。神道指令担当課長のバンスがその筆頭だろう。また担当局長のダイクは教育勅語の「之を中外に施して悖らず」が世界征服思想の表現だと述べた記録がある。

当サイトで述べているように、「中外」は「国の内外」ではなく、「宮廷の内外」「全国」である。つまり日本人が誤って解釈してきたものを鵜呑みにしてGHQは神道指令を出したのである。したがって教育勅語を正しく解釈すれば国家神道は一瞬にして雲散霧消する。

国家神道が神道と関係がなければ、神道指令は無効であり、日本国憲法の関係条項も当然無効である。いますぐ無効にできなくても、ここではじめて「国家神道復活阻止」を駆逐し、正しく伝統に沿った「国家と宗教」が議論できる。絶対分離主義を批判する側は、神道指令を軽視して自滅しているといってよい。

またこれまで「聖典」としての教育勅語を検証した研究は我が国には一冊も存在しない。その理由は謎であるが、推測すると、これまでの解釈に疑問を持っていない、ということだろうと思う。「聖典」が解読できなくて神道指令は解明できるはずもない。

以上の様なことと共に、政教関係裁判の判決文の実態まで論じたのが拙著『日米の錯誤・神道指令』である。これまでの専門家の政教関係論も批判せざるを得なかった。靖国神社を擁護し、伝統的な国家の祭祀を重視してきた知識人のオウンゴールを明らかにすることに意義があると考えたからである。

 

平成23年4月20日

政教分離(三)

神道指令は占領終了とともに失効した、として軽視するのは神道指令を解明していないからである。神道指令にいう国家神道を分析し、その正体を把握してはじめて日本国憲法における政教関係条項の誤りが明らかになるはずである。イデオロギーで政教関係を議論しては結論が出ない。

政教分離一辺倒派を批判する側は、伝統を重視し慣習を尊重する。公的機関が地鎮祭や玉串料などに関与することは慣習だと主張する。これらは慣習だから宗教的活動ではないとなる。しかしこれも、たとえば神道は創唱宗教ではないのでその線引きはむつかしい。

また絶対分離主義にたいし緩やかな分離主義を主張する。これはいわゆる目的効果基準に通じるものである。ある程度まで国家の宗教に対する関与を認める、というものである。たしかに知恵ではあるが、前述のように判定には難儀する。

また政教分離とは「国家と宗教」の分離ではなく「国家と教会」のそれだと主張する。神道指令は明らかに「国家と神道」の分離であったが、日本国憲法はそうではない、という。もしそうなら、GHQが排除したかったものとの整合性はどうなるのだろう。

GHQが目指したものは、日本人の「物的武装解除」と「精神的武装解除」である。前者は軍隊の解体で終了し、後者は超国家主義の教義を含む国家神道を排除するために神道指令を出して対処したのである。世界征服思想が彼らのいう超国家主義であることも彼らの文書にある。(つづく)

 

平成23年4月20日

政教分離(二)

日本国憲法第20条や第89条をかいつまんで言えば、国家は宗教に関与してはならない、ということだろう。素直に読んで、これ以上の解釈はない。しかし神道指令と切り離して政教関係を論ずれば、政教分離とは何か、が議論のはじめとなり、観念的な論議に終始するのではないか。

東京都における関東大震災の慰霊、長崎県の公有しているザビエル銅像、国立大学医学部の解剖遺体の合同慰霊祭、戦後の参議院葬・衆議院葬、受刑者への公費による教誡、全国戦没者合同追悼式、厚生労働省管理の千鳥ヶ淵墓苑、神社仏閣の文化財保護、宗教系学校への補助金等々を、日本国憲法に違反しないとするのは無理がある。

しかしこれを拡大すると、日本国民の日常生活は成立しない。ここに大きな矛盾がある。この矛盾の解決は、憲法の政教関係条項に誤りがある、と仮定するしかない。ではその誤りの原因は何か。

そもそも神道指令がなければ日本国憲法の政教関係条項もあり得なかったはずである。GHQの日本占領方針からして、我が国の超国家主義排除が大きなテーマだったからである。超国家主義が神道(彼らのいう国家神道)と深い関係があると彼らが考えたことは文書に残されている。

やはりこの国家神道を分析しない限り、この矛盾は解けないのである。(つづく)

 

平成23年4月19日

政教分離(一)

宮中祭祀の簡略化が問題となっていることは、斎藤吉久氏のメルマガ・レポートに詳細がある。宮中祭祀は明治皇室典範がそうであるように、「臣民の敢て干渉する所に非るなり」であるから、本当のところ、その実態はわからない。ただ、おそらく政教分離ということに関係があると想像がつく。

図書館に安蘇谷正彦著『天皇の祭りと政教分離』(1990)があったので読んでみた。安蘇谷氏は今年3月國學院大學学長を退任された神道学者である。専門家の政教分離論は、やはり多大な興味がある。

同書には、天皇の祭りを私的行為としたのは「神道指令」であり、昭和27年(のサンフランシスコ講和条約)で占領指令は無効となった、とある。したがって、新憲法の解釈は皇室の伝統に基づくべきである、というのである。

しかしこの見解こそ今日の不毛な政教関係を生んでいるひとつの要因なのではないか。現在のような政教分離論争となったのは、GHQの神道指令を起点とし、日本国憲法にその思想が反映されたからであることは明白である。

ポツダム宣言から教育勅語の失効まで、GHQの方針が一貫していたことは歴史の事実であり、ここを軽視しては政教問題の解決には近付かない。(つづく)

 

平成23年4月12日

松田福松は、『熟語本位英和中辞典』の著者であり正則英語学校の創立者斎藤秀三郎の高弟である。明治中期頃まで、発音と文法を軽視したのが変則英語、それらを重視したのが正則英語だといわれている。正則英語学校には斎藤茂吉や山本有三などが学んでいる。

その松田福松はリンカーン~ゲティスバーグ演説の高木八尺(やさか)・斎藤光訳を批判したことで知られている。「government of the people, by the people, for the people」の of をめぐる批判である。高木らは主体の of とし、松田は客体の of だと主張した。

そもそも高木らの「人民の、人民による・・」では「人民の」の意味が分からない。of が主体なら「人民による」との関係があいまいである。この of のあとは govern の目的語ととらえて自然である。government of a big city は「大都市を治めること」(『ジーニアス英和辞典』)である。

松田福松は「人民のために人民自ら人民を治めるという政治を、・・」と「人民を治める」と正しく解釈したが、高木らはこの二つの解釈をあげて、民主主義的解釈をとった、と解説した。イデオロギーから文章を解釈する誤りを犯したのである。

高木八尺は政治学の東大教授であり、娘婿の斎藤光は英文学の東大教授であった。信じ難い誤訳である。蓑田胸喜とともに活動した汚点は拭えないが、この松田福松の解釈はやはり「正則」であったというべきだろう。

 

平成23年4月9日

三陸の大津波は明治29年6月15日にも大きなものがあった。『明治天皇紀』には「三陸大海嘯」としてその実態が記されている。ただし、『新明解国語辞典』によれば、「海嘯」は満潮時に遠浅の海岸や特殊な河口部に起こる高波、誤って「つなみ」の意にも用いられる、とある。

「午後8時7分、宮城・岩手・青森の三県地方に大海嘯起り、南金華山より北尻矢崎に至る間約百里の地怒涛襲来し、波浪高き所五十呎に達す」

五十呎(50フィート)だから15メートルの高波だったということになる。福島第一原子力発電所の津波想定高さは5.7mだったというから、これには驚くばかりである。貞観大津波は『日本三代実録』に漢文で示されているが、『明治天皇紀』はほぼ現代文である。理解は容易だったはずだ。

東北大学の箕浦幸治教授や今村文彦教授らの地震・津波専門家からすれば、西暦869年(貞観11年)はそれほど昔ではないだろう。しかし一世紀単位の話には切迫感がないことも現実かも知れない。ただ、明治29年はたかだか115年前のことである。なぜ考慮されなかったか解せない。

昭和8年の三陸大津波では大船渡で海抜28.7mの最大遡上高を記録したという。原子力技術者は『日本三代実録』や『明治天皇紀』などに興味はなかったかもしれない。しかしこれらを読むと、彼らの「想定外」はやはり「想定ミス」だったのではないかと思いたくなる。

 

平成23年4月7日

『日本三代実録』は清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代、天安2年(858年)から仁和3年(887年)までの30年間の記録であり、平安時代の901年に編纂された歴史書である。陸奥国の大津波は清和天皇の貞観11年(869年)5月26日に記されている。

「陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。(中略)驚涛涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。(中略)乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

(要約)人々は叫び、立っていることもできず家屋の下で圧死し、地割れの中に埋もれたりしていた。信じられない津波は城下に迫り一面が海となった。船に乗ることも山に登ることもできず、溺死者は千人を超え、財産は何一つ残らなかった。

この漢文を眺めるだけで、今回の大震災と同じような恐ろしい光景が目に浮かぶ。東北大学の箕浦幸治教授や今村文彦教授らは、この『日本三代実録』等から東北関東の太平洋岸における津波災害の再来がある、とレポートをしていたらしい。800年から1100年の周期だということも調査されている。

「貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」と<津波災害は繰り返す>に述べていた。海岸地区の小学校には津波を考慮して建設され、倒壊せず生徒全員が助かったところもある。国典はもっと尊重されるべきである。

 

平成23年4月5日

宮城県沖で大津波のあった貞観11年(869年)は肥後でも大変な雨害のあったことが記録にある。とにかく災害の多く発生した年だった。清和天皇は貞観11年10月13日、「陸奥の国震災賑恤(しんじゅつ=金品で救う)の詔」を渙発された。

「如聞(きくならく)、陸奥の国境は、地震尤も甚しく、或は海水暴(にはか)に溢れて患(わざはい)を為し、或は城宇(じやうう=城と家)頻りに圧(つぶ)れて殃(わざはい)を致すと。百性(ひゃくせい)何の辜(つみ)ありてか、斯の禍毒に罹れる。」

「既に死せる者は、尽く収殯(しうひん=棺におさめる)を加へ、其の存する者は詳に賑恤を崇(おも)くせよ。其の害を被ること太甚(はなはだ)しき者は、租、調を輸(いた)す勿れ。鰥寡孤独(かんかこどく=よるべない貧窮の者)にして、窮して自ら立つこと能はざる者は、在所に斟量(しんりゃう=事情をくむ)して、厚く支へ濟(たす)くべし。」

いつの世も「みことのり」は「私という事のない」天皇の統治姿勢が感じられる。

 

平成23年4月2日

大井上輝前(おおいのうえ・てるちか)は北海道樺戸集治監の典獄であった。当地では樺戸集治監を月形集治監ともいうが、初代の典獄、月形潔にちなんだものである。

大井上典獄は明治25年元旦、御真影を倉庫に格納し囚徒に拝礼させなかったことが不敬とされ、当時の新聞で叩かれたことがある。

明治24年、樺戸集治監が北海道の本監となり、空知・釧路・網走は分監となった。大井上典獄の在任期間は明治24年8月から同28年8月までであった。以前、空知集治監跡近くの図書館で大井上典獄時代の日誌を見つけて読んだことがある。

大井上典獄が教誨師としてキリスト者の原胤昭や留岡幸助を採用したことは、当時の国家と宗教を考えるひとつの要素ではある。大井上は明治維新前にアメリカに留学した人で、少なくともキリスト教シンパだったろう。留岡幸助は新渡戸稲造からも刺激を受け、その後留学した。

この留岡幸助を描いた映画「大地の詩」が完成した。生地の岡山やゆかりの北海道ではすでに公開されているが、本日中野で上映され、4月9日から順次首都圏でロードショーとなる。

 

平成23年3月26日

阪神大震災の震災担当相は小里貞利であった。その本人が読売新聞のインタビューに対して様々なことを述べており、その内容が平成23年3月25日付の朝刊に掲載された。当時の課題の一つに瓦礫の片付けがあったことは私たちの記憶に新しい。

「「阪神」では、個人住宅の解体、瓦礫の撤去・処理などに初めて国費を投入することを決めた。復旧・復興には、瓦礫をどかさないことにはどうにもならない。「私道や神社、仏閣(の瓦礫撤去)まで公費でやりますか」という慎重論もあったが、「そうしてものも含んでやれ。(政治と宗教団体の関係など)政治的な雑念を持たずにやれ」と押し切った。」

日本国憲法第89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」というものである。

日本国憲法第20条(信教の自由)や第89条は、その制定経緯を知らなければ上の(おそらく役人)ような慎重論にも発展する。政教分離の原則(?)を復旧に優先させるなど狂気の沙汰でしかない。今日まで神道指令を分析しなかったツケだろう。

 

平成23年3月19日

大正12年9月1日に起きた関東大震災ののち、9月12日には「(摂政御名)皇都復興に関する詔書」が渙発された。

「朕深く自ら戒慎して已まさるも、惟ふに天災地変は、人力を以て予防し難く、只速に人事を尽して、民心を安定するの一途あるのみ。凡そ非常の秋に際しては、非常の果断なかるへからす。若し夫れ平時の条規に膠柱して、活用することを悟らす、緩急其の宜を失して前後を誤り、或は個人若は一会社の利益保障の為に、多衆災民の安固を脅すか如きあらは、人心動揺して抵止する所を知らす。朕深く之を憂惕(いうてき)し、既に在朝有司に命し臨機救済の道を講せしめ、先つ焦眉の急を拯(すく)ふて、以て恵撫慈養の実を挙けむと欲す。」(抄)

今上陛下は今年3月11日に発生した東北関東大震災に関し3月16日、つぎのようなお言葉を下された。

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」(抄)

 

平成23年3月10日

我が国の政教関連裁判で、最高裁の判決が下された主なものは11件ある。1977年の津地鎮祭訴訟をはじめとして、2010年の砂川市神社訴訟までの件数である。その内、違憲とされたのは愛媛玉串料訴訟とこの砂川市神社訴訟の2件である。

これだけ話題になったものの、違憲判決が11件中2件とは意外な気がする。よくここまで合憲判決を取りつけてきたものだと感心する。傍論や反対意見はあったが、全体としてはまずまずだろう。(平成16年福岡地裁判決の傍論は違憲判断)

ただどうしても納得できないのが、いわゆる「国家神道」云々の話しである。これは津地鎮祭訴訟の名古屋高裁判決以降、ちらちら語られてきた謬論ではあるが、砂川市神社訴訟の判決文にまで記されているのだから根は深い。

「国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み、個々人の信教の自由の保障を全うするため政教分離を制度的に、(制度として)保障した」のが日本国憲法第89条だというのだから裁判官の不勉強も甚だしい。

国家神道の歴史的事実は当サイトの主張するところである。それにしても神道指令から今日まで、我が国知識人の怠慢には呆れるばかりである。

 

平成23年3月5日

内藤湖南は支那史学史などで名を残した学者である。湖南は十和田湖の南であり、本名は内藤虎次郎で吉田松陰の寅次郎にちなんだものだという。新聞記者あがりと云われたものの、44歳で京都大学教授となった。

その湖南に「日本文化史研究」がある。忠孝を語って、その名目は支那より輸入した語であるが、日本国民がもっていた徳行の事実があり固有の国語がある以上その事実に相当した名目がなければならぬ筈である、と説いた。

支那語の輸入以前には忠孝に相当する言葉がないので、その思想そのものも存在しなかったのではないか、というのである。福沢諭吉が「リベルチ」を「自由」と翻訳するのに大変な苦労があったことはよく知られている。しかし言葉がなかったからといって、それ以前の日本に「自由」がなかったとは考えられない。

湖南は、支那においては文物典章を作った人は聖人といわれるとし、伏羲神農以下文武周公まで皆そういう性質の人だと記している。どうして支那のことになると(文字のない時代の)伏羲のような皇帝の伝説を尊重し、我が国のことになると支那語輸入以前は輸入語に相当する思想はなかったというのだろうか。

マイナス評価の少ない内藤湖南ではあるが、改めて読んでみると「漢意」がちらちらしている。やはり支那学を専門とする典型的な学者の一人ということだろうか。

 

平成23年2月28日

サンフランシスコ講和条約(昭和27年)が発効して以来、我が国には28名の歴代総理大臣がいる。この内、靖国神社へ参拝したのは12名である。吉田茂・岸信介・池田勇人・佐藤栄作・田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸・中曽根康弘・橋本龍太郎・小泉純一郎である。

参拝しなかった16名の総理大臣は鳩山一郎・石橋湛山・竹下登・宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一・細川護煕・羽田孜・村山富市・小渕恵三・森喜朗・安倍晋三・福田康夫・麻生太郎・鳩山由紀夫・菅直人ということになる。菅直人総理大臣は現役であるが、参拝はありえないだろう。

こうしてみると、参拝しなかった総理大臣は結果として短命政権であったということになる。最長政権は海部俊樹の818日、最短は羽田孜の64日であって、単純平均は(菅直人総理大臣を除いて)411日である。一方、参拝した総理大臣の政権は単純平均で1255日である。

参拝した総理大臣の中でも、皇室典範をさらに改悪しようとした小泉純一郎などもいたが、総じて長期政権だったといえる。これは偶然だろうか。靖国神社問題、つまり憲法解釈や神道指令のとらえ方には誤解ばかりが目立つ現状である。

しかしこの数字を見ると、多くの日本人の思いが為してきた業ということを考えざるを得ない。やはり心情的なところでは靖国神社否定派を安定政権とさせない何かが国民にあるとしか考えられない。

 

平成23年2月19日

天皇機関説論争を描いた主なものに、尾崎士郎『天皇機関説』・松本清張『昭和史発掘―天皇機関説』そして宮沢俊義『天皇機関説事件』がある。尾崎士郎版は1951年、松本清張のそれは1968年、宮沢俊義のは1970年の出版である。

いずれも詳細に当時の状況を時系列的に語っているが、いまひとつ説得力がない。ことは憲法論議である。国体明徴運動にいたるまでに、何か強力な力の存在を考えなければ美濃部に議員らが反論できるわけはない。

上の中で唯一金子堅太郎に触れているのが宮沢俊義本である。西園寺公望が語った金子堅太郎評を引用している。ただ金子が加藤寛治へあてた「天皇機関説に陥りたる原因は二ツあり」という書簡は掲載されていない。

帝国憲法は伊藤博文・井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治らが中心となって起草されたと伝えられている。伊藤・井上の没後、金子堅太郎は帝国憲法の正統的な解説書『憲法義解』と順接の天皇機関説を排撃したのである。

以上のことは当サイトの「昭和戦前異聞」に述べた。上記の三冊はいずれも「結果の上書き」をしただけで、資料価値は高いものの、やはり決定的なポイントを外していたと言わざるを得ない。書簡は後の公開にしても、『西園寺公と政局』第4巻は1951年に出版されている。少なくとも松本清張と宮沢俊義は金子堅太郎の憲法蹂躙を追及すべきだったろう。

 

平成23年2月13日

1946年8月9日夜、GHQの民間情報教育局教育課と文部省、そして翌10日に設置予定の教育刷新委員会の話し合いが行われた。その場でまず最初にオア教育課長は、教育勅語の地位こそ、教刷委が検討すべき第一の主要な項目であると語ったという。

文部省からは田中耕太郎文相・山崎次官、教育刷新委員会からは安倍能成が出席していた。田中文相は、日本国民は教育勅語に表現されているような道徳綱領を必要としている、と述べた。両者の話はすれ違っている。この話は鈴木英一『日本占領と教育改革』にある。

当サイトで示したところであるが、GHQが問題としたのは「之を中外に施して悖らず」であった。教育勅語の第三段落である。田中文相のいう道徳綱領とは「爾臣民父母に孝に・・」の第二段落である。

安倍能成も田中文相と同じように教育勅語を「普遍的」と考えていたから、GHQがなぜ教育勅語を否定するのか議論すべきであった。しかしその議論がなかったことは「排除・失効」という結果が示している。

被占領下における文部省関係者の大罪は、未だに清算されていない。教育勅語を葬った、その責任はまず文部省にある。教育勅語解釈の歴史的検証もせず、占領終了後もまったく反省もない。文部省・文科省に道徳教育は無理なのではないか。

 

平成23年2月2日

津地鎮祭裁判は我が国の政教関係を考える上で大きな裁判である。津市の体育館建設にあたって市が地鎮祭に公費を用いたというものである。これが政教分離に反するか否かが問われたのである。

大きな裁判である、というのは最高裁では合憲とされたが未だに名古屋高裁での違憲判断が今日でも通用しているからである。いま改めて名古屋高裁の判決文を読んでみると、事実を無視した捏造話を引用して判決文が書かれていることに唖然とする。

要約すると、戦前においては天皇を現人神とし祭政一致を我が国体と観念し、事実上神道に国教的地位を与え、神社参拝を強制した、というものである。これが基本で違憲判断が下されたのだから、その杜撰さは一級である。この内容は村上重良『国家神道』をもとにしている。

当サイトの「政教関係論を読む」にも述べたところであるが、「政教関係を正す会」がこの判決を批判した。しかしポイントである、天皇現人神論、神道の国教的地位、神社参拝の強制などに対する有効な反論はほとんどないに等しい。反論として決定打に欠いている。

名古屋高裁におけるこの捏造の政教論と政教関係を正す会の情緒的な批判が今日の政教関係論を支配している。かろうじて「目的効果基準」でそこそこに収まっているものの、どちらも歴史の事実をもとにしていない。単なるイデオロギーの対立なら歴史の検証は空しいだけである。

 

平成23年1月27日

邪馬台国については相も変わらず畿内か九州かの論議が盛んである。しかし支那の古書と『日本書紀』などを比較して、彼の国の古書に誤りが多いことは本居宣長が『馭戎慨言』で明らかにしたところである。

もともと国境近くの民が、自らのために諸外国に対し偽りをなしてきた歴史は少なくない。親書改ざんの小説もあながち作り話でもないだろう。本居宣長以降の邪馬台国論をまとめたものに、安本美典『江戸の「邪馬台国」』がある。

本居宣長『馭戎慨言』・鶴峯戊申『襲国偽僭考』・近藤芳樹『征韓起源』・山片蟠桃『夢の代』を並べて江戸の邪馬台国を整理しているが、編者である安本美典の文章を読むと本居宣長をまったく理解していないと言わざるを得ない。本居宣長が皇国史観だというのだから論外である。

皇国史観は天皇親政論であり、また天皇現御神論でもある。いずれも本居宣長に存在しない。「しろしめす」「ことよさす」あるいは「現御神止」が解読できないのだから、こんな誤った認識に陥るのだろう。

本居宣長のいう、邪馬台国は筑紫近辺の者が捏造した国家、というのが最も説得力がある。鶴峯戊申・近藤芳樹の論には誤りも多いが、基本的には本居宣長に近い。山片蟠桃は少し違って、かれは「ものの行進」=「道理」でしか事物・現象を理解しない立場だから応神天皇以降しか認めない。文字即ち人間の存在らしい。これでは腐儒に近いのではないか。

 

平成23年1月19日

『続日本紀』の現代語訳に東洋文庫と講談社学術文庫があることは、前回書いた。「平城遷都の詔」の現代語訳はいずれも原文の文脈上、あるいは文法上から正確な訳とは思えないが、他の重要な詔勅についても、決定的な間違いが目立つ。

和銅改元の宣命は、武蔵の国に自然になれる和銅出でたり、として渙発された。西暦708年のことである。ここに「神ながら」の語句がある。先の二著はいずれも「神として」と無思慮な訳をしているのみである。講談社学術文庫は東洋文庫の請売りの感がある。

現御神を「天皇は人にして神格を具有せらるるにより、かく申し上ぐ」」と文脈を理解せずに解説した森清人『大日本詔勅通解』であるが、上の二著も考え方は同じである。「現御神止」の意味を解読できていない。だから「和銅改元の宣命」にある「神ながら」を「神として」と訳して平気なのだろう。

「神ながら」は、歴代の御世御世が天皇の「君の私といふことはなき」統治で治まってきており、今の世もそうした神代からつながる統治姿勢である、ということである。「現御神と大八州国しろしめすと申すも、・・・神随(ながら)云々とあるも、同じこころぞ」(宣長)である。

図書館で容易に閲覧できる『続日本紀』の現代語訳が東洋文庫と講談社学術文庫だけなのは残念だが、これらの訳を不思議に思わないことの方が深刻である。我が国の詔勅研究は、今や無いに等しい。

 

平成23年1月10日

『続日本紀』はいわゆる奈良朝の歴史が記されたもので、桓武天皇の時代に成立した。『日本書紀』に比して現代語訳はそう多くない。東洋文庫と講談社学術文庫に現代語訳があって、図書館で閲覧できる程度である。ただしいずれも正確な訳とは思えない。

註釈書として古いものには村尾元融(1805-1852)『続日本紀考証』あるいは寺村成相(しげみ)(1785-1855)『続日本紀問答』がある。また比較的新しいものでは林陸朗『完訳註釈 続日本紀』そして岩波書店『新日本古典文学大系 続日本紀』などがある。

これらのなかで、「平城遷都の詔」にある「必未遑也」を正しく訓み下し、解釈したものは見当たらない。ただし『続日本紀考証』『続日本紀問答』はこれに言及がない。最近までの解釈はおそらく『国史大系』の訓み下しを基礎にしているのではないかと思われる。

それにしても奈良朝を語る著作者たちには、どうしてもある種の傾向があるように思えてならない。仏教文化を称揚し、女帝を連発する。要するに神道と男系男子の皇位継承を否定した時代、ととらえているのではないかと考えたくもなる。

だから「私ということのない天皇」ということが等閑に付され、「必未遑也」が個人的な天皇の思いとされて、真意が歪められているのである。民のことを思う天皇の「無私」の伝統が忘れられている。これは研究者の恣意性というより国典の読解力の問題ではないか。

 

平成23年1月2日

『古事類苑』には「帝王部」(四)に「明御神」の説明があって、『続日本後紀』巻第十九も参考にされている。

「異聞草紙(H21-22)」の平成22年2月15日に、『続日本後紀』に関わった太政大臣藤原良房と参議春澄善縄らの「現人神」観は、後の本居宣長とはまったく違うもので、天皇=現人神論である、と書いた。しかしこれには訂正が必要である。

嘉祥二年は仁明天皇四十歳の年であり、興福寺大法師らは観音菩薩像40体を作ったし、その他数々の像に加え、長歌なども献上された。その長歌に「現人神」が出てくるのである。つまり、文芸の範囲のものであって、公式な天皇の発言ではない。

「御世御世尓。相承襲弖。毎皇尓。現人神止。成給。(みよみよに、あいうけつぎて、きみごとに、あらひとがみと、なりたまひ)」というのが、その原文である。これは万葉集の「大王は神にしませば・・」と同じ文芸上の表現である。したがって当然、天皇の現人神宣言ではありえない。

やはり『続日本後紀』の撰者らは、天皇の公式な発言と臣民の文芸表現とをはっきり区別していると考えてよいだろう。天皇の発言に、天皇=現御神=現人神など、『日本書紀』をはじめ、どこにも存在しない。あるのは「現御神止」に代表される「しろしめす」の副詞としての用例のみである。

 

平成22年12月23日

平城遷都1300年に関連して、元明天皇が遷都を「必ずしも急ぐことはない」と詔したという解釈は間違いではないかと12月2日に述べた。すべての「遷都本」がそうだから、やはりこの解釈の根拠が知りたくなる。

平城遷都の詔はその範を『隋書』にある高祖2年の詔にとっていることは、よく知られているところである。その中に「心未遑也」がある。元明天皇の詔は「必未遑也」である。岩波『続日本紀』などでは「必」について、「註」に『隋書』『北史』には「心」とある、と記されている。

『隋書』に「東京賦」の(作之者労、居之者逸・それを作る者は大変で、そこに居る者は安楽である)が引用されていることは、元明天皇の詔も同じである。しかし元明天皇の文末には遷都について、「勿致労擾」(労役を強制して混乱させてはならない)があって、高祖にはない。民を思いやる言葉である。

やはり「必未遑也」は「きっとてんてこ舞いとなるだろう」の意味で文脈上無理がない。「勿致労擾」があるから元明天皇の詔は最初から「必未遑也」であり、臣下や民の苦労を慮って宣べられたのである。「急ぐことはない」とする解釈の根拠が示されないのは、ここが理解されないからだろう。

『隋書』と「平城遷都の詔」との類似性を発見した賢しらな学者が、「心未遑也」が心に余裕がない、急がなくてよい、であるから、「必未遑也」も同様に解釈したと推理できるのではないか。元明天皇が藤原京を懐かしんだことは個人的な感情であって、天皇の政は「無私」である。そのことは文脈からも容易に読みとれる。

 

平成22年12月15日

海音寺潮五郎は、いわば司馬遼太郎の一世代前の歴史小説家といってよいだろう。海音寺の直木賞受賞は昭和11年であり、司馬遼太郎のそれは同34年であるが、戦争をはさんでいるからやはり一世代の違いで適当だろう。

その海音寺潮五郎の昭和34年に『大化の改新』(現代人の日本史)がある。フィクションではなく、歴史読み物であるから、その言説は検証に値するだろう。彼の『日本書紀』解読には疑問が残る。

「明神」について、「「現つ神」即ち「人身をそなえた神」と自称しているのだ。天皇がこう自称した例は、『書紀』にはこれが初見である。」としている。

これが海音寺潮五郎の「現御神」観である。この天皇は天武天皇のことを指しているから、ここでは三つの誤りを犯している。その第一は「自称」ということである。これは宣命だから、宣命使の言葉であって「自称」ではない。第二に「明神」=現御神などは孝徳天皇紀にすでにあるから初見ではない。

そうして第三は、「現御神(止)」がまったく解読できていないことである。「現御神(止)」は「現御神としての立場で」「私ということがなく」、「祖先の叡智にしたがって」という意味で、(統治する)の副詞である。天皇=現御神=現人神ではない。宣命に天皇=現御神はひとつも存在しない。

『日本書紀』を物語として面白おかしく語ることは小説家だからよいとしても、「現御神(止)」の誤解は知識人としては如何かと思う。

 

平成22年12月10日

聖徳太子の17条憲法について、現在では条文の内容を称揚する読み物はあっても、作られた経緯はなかなか語られることはない。岩波文庫『日本書紀(四)』は敏達天皇から斉明天皇までが語られているが、ポイントは敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の巻である。

敏達天皇・用明天皇の御世は、仏法をめぐる物部氏と蘇我氏の対立の時代である。物部氏は廃仏派(神祇派)であり、蘇我氏は崇仏派として知られている。結局、蘇我馬子は物部氏を退けた後、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る」として崇峻天皇を弑逆した。

そして推古天皇11年には新羅へ向けた2万5千人の大軍を、大将軍来目皇子の死によって「遂に征討(う)つことをせず」として撤兵となった。臣下の動揺が予測されたと考えてよいだろう。そして冠位12階が定められ、同12年正月には諸臣に賜ったことが記されている。

用明天皇は「朕、三宝に帰(よ)らむと思ふ」であり、推古天皇は「三宝を興し隆えしむ」とある。聖徳太子が「三宝を敬へ」として氏族間の紛争を鎮定したかったことは明らかである。したがって推古天皇12年4月の17条憲法は、この明確な目的のために作られたと考えてよいだろう。

仏法をめぐる氏族間の対立、撤兵による臣下の動揺の予測、それらを鎮めるために冠位12階の制定・叙位があり、その後にこの官人(官僚)たちに向けた命令文調の憲法が作られたのは偶然ではないだろう。17条憲法は現代でも通用する内容であるが、「三宝を敬へ」には議論があるかもしれない。議論のためには作られた経緯を知ることが大切である。

 

平成22年12月2日

今年は平城遷都1300年ということで、さまざまな催しものや関連の書籍が出版された。11月末でいわゆるイベントは概ね終了したと聞く。しかしどうにも納得しかねるのが、元明天皇「平城遷都の詔」の解釈である。

遷都について、元明天皇が「必ずしも急ぐことはない」と言われたとの解釈は、一体どこからくるのだろうか。原文は「遷都之事、必未遑也」(『続日本紀』)である。「遑(いとま)」は「暇」である。そして専門家によれば、この「未遑」の用例は『史記』にあって、「未」は「不」と同じだというのである。

「必ずしも急ぐことはない」は部分否定であるが、その場合は「未必・・」「不必・・」だと辞書にある。したがって「必未遑也」の「必」は「かならず、きっと」の意味だろう。そして正しい訓みと解釈は「必ず遑あらざるなり」(きっとてんてこ舞いになるだろう)となる。

たしかに詔には民を思い、「作之者労、居之者逸」(それを作る者は大変で、そこに居る者は安楽である)と宣べられているから、天皇が遷都に積極的でなかったのは民を慮ってのことである。「必ずしも急ぐことはない」は訓読の誤りからできた解釈に違いない。

調べた範囲では、「必ず遑あらざるなり」と訓み下したものは見当たらず、(きっとてんてこ舞いになるだろう)と解釈したものも見当たらない。詔勅研究を怠ってきたツケがまわってきたのではないか。文脈からして「必ずしも急ぐことはない」の根拠がないことは明白である。

 

平成22年11月22日

『続日本紀』に気になる文章がある。巻十五聖武天皇の天平十六年三月、甲戊(きのえいぬ)にあるものである。

「石上(いそのかみ)・榎井の二氏大きなる楯槍(たてほこ)を難波の宮の中の外門に樹つ」(今泉忠義『訓読 続日本紀』)

聖武天皇は遷都についていろいろな話題を残した天皇であるが、難波宮に皇都を遷したことがある。ところでこの、「宮の中の外門」とはどんなものだろうか。

原文は「石上榎井二氏樹大楯槍於難波宮中外門」であるが、「難波宮中外門」を「難波の宮の中の外門」と解釈しているのである。宮城防衛のために楯槍を設置したのであるから、宮の中、では不都合なのではないか。宮の中に逆賊を入れての防衛では価値がない。

「中外門」はやはりそのまま「中外の境の門」として、宮中とその外を仕切る門と考えた方が妥当ではないだろうか。それなら大きな楯槍を設置した意味がよくわかる。

 

平成22年11月14日

今年の1月19日に当サイトで話題にした『中外抄』についてである。『新日本古典文学大系』における『中外抄』の題目の説明は、大外記中原師元の名前から付けられた、というものであった。

そこで、宮田裕行著『校本 中外抄とその研究』を読んでみた。同書にも「『中外抄』なる名称は、この筆録者から取って後になってから付けられたものである」と記されている。

しかし面白いことに、現存する様々なテキストのなかには異なる題目のものもあることが報告されている。同書にある宮内庁書陵部蔵本(六)の内題は「中内記」である。『中外抄』というタイトルとはどう関連するのだろうか。

『中外抄』は群書類従では「公事」の部に分類されているし、内容も宮廷の有職故実が主だから「中」は「宮中」の「中」で妥当だろう。中務省の官である「中内記」は9世紀初めに廃止されており、『中外抄』は12世紀の著作である。ここにも関連性は見いだせない。やはり「中内記」は「宮中内部」の話、という意味なのではないか。

そして『中外抄』以前の宣命における「中外」は「宮廷の内外」「国中」である。やはりタイトルが大外記中原師元からということには、説得力のある根拠は見られない。

 

平成22年11月7日

今年の9月と10月、講談社学術文庫から森田悌著の全現代語訳『続日本後紀』(上・下)が出版された。現代語訳と原文が記載されている。出版不況下にあって、たいへん勇気と意義のある出版である。『続日本後紀』は仁明天皇の18年間を記したものであり、六国史の一つである。

ところで仁明天皇の宣命には「中外」が数回用いられている。
第八五七詔「宜しく中外に告げて、咸く聞知せしむべし」(承和二年・臣籍降下)
第八七〇詔「普く中外に告げて、此の意を知らしめよ」(承和五年・御元服)

これらについて、全現代語訳『続日本後紀』ではそれぞれ「全国に宣告し、広く知らしめよ」「広く内外に告知して周知させよ」と訳している。いずれもこれらは内政に関するものだから、「中外」は「宮廷の内外」「中央と地方」転じて「全国」と解釈して文脈上矛盾がない。

後者の「広く内外に告知して」はややあいまいである。文中に「之を率土に被らしむべし」があるから「中外」を「内外」とした可能性がある。「率土」は「全陸地の果てまで」だからだろう。しかし御元服と租税の未納を免除するなど、やはり内容は内政に関するものだから、「中外」は「全国」が妥当だろう。

文脈から解釈して「中外」が「全国」としか解釈できない例が現実にあることを、全現代語訳『続日本後紀』は示したといってよい。そしてこの伝統的な用法が、教育勅語の「中外」であることは当サイトで主張しているところである。

 

平成22年11月2日

美濃部達吉は、その表現には多少過ぎるものがあるけれども、帝国憲法を伊藤博文『憲法義解』に副って解釈しようとした正統派といってよいだろう。しかし大正12年『憲法撮要』における「信教自由」はよく分からない。帝国憲法第28条に関連して次のようなコメントがある。

「就中、国家的宗教の地位を有するものは、我が民族的原始的宗教としての神社神道是なり。神社神道は宗派神道と異なり、行政上の取扱に於ては宗教と区別せらると雖も、其の本質に於ては宗教の一種なること疑なく、而して神社は国家の公の造営物として国家が自ら之を管理し、天皇は其の最高祭主たる地位に在ます。即ち我が古来の歴史に基く国家的宗教なり。」

神社神道は宗教であり、国家が管理する「国家的宗教」であるとの見解である。しかし法令上に国教の定めはなく、神社参拝を強制するものもなかったことは田中耕太郎が昭和2年に記している。

「神社神道の外に、尚国家の特別の保護を受け随て又国家の特別の監督を受くるものに、神道各派及仏教各宗あり。此等は固より私の宗教にして、国家が自ら之を管理するものに非ずと雖も、尚歴史的伝統に基き国家との間に此の限度に於ての特別の関係を有するものなり。」

これではキリスト教だけが国家の保護監督を受けておらず、神道仏教と別扱いのような印象を受ける。神社局と宗教局の違いも判然としなくなる。「信教自由」については、さすがの美濃部達吉も事実に基づいていない。

 

平成22年10月26日

今年は教育勅語が渙発されてから120周年である。渙発後、30周年・40周年・50周年は戦前であるが、杉浦重剛や金子堅太郎らが精力的に講演を行っている。そしてその内容は曲解そのものであって、今日まで悪影響を与えているものである。

今回もやはり事実に基づかない言説が散見される。そしてそれらは必ず「之を中外に施して悖らず」をとりあげ、教育勅語の徳目の「普遍性」を語っている。御座なりの解説であるとしか思えない。

なかには、教育勅語は国内向けであると同時に、翻訳することを前提としてつくられている、との説明もある。これは「之を中外に施して悖らず」を金子堅太郎が誤解した事実を知らないことが原因のあやまりである。井上毅は帝国憲法第28条との関係を金子に相談した、これが真実である。

ところで、かつて日経新聞『私の履歴書』は思いのほか本音が出ていると評されていた。森戸辰男は教育勅語の排除・失効決議をした当時の文部大臣であるが、彼の『私の履歴書』にはこの件がひとつも出てこない。

彼は『教育不在』において、日本国憲法にはアメリカの国柄である人類普遍の原理として民主主義の思想が導入された、と記していた。それによって、我が国の国柄と精神的伝統が中断されたと語り、戦勝国型の民主主義や民主教育が我が国に定着することは困難であり、望ましいことではない、とも述べていた。昭和37年頃の話である。

戦後すぐに鈴木安蔵らと「憲法研究会」を組織し、帝国憲法を否定した森戸辰男である。教育勅語も帝国憲法と運命をともにするものだ、とも語っていた。上の発言はアメリカ嫌いということなのか、それとも「人民民主主義」がよいということなのか。彼の言説はあまりにもブレ過ぎていて、いい加減である。

 

平成22年10月17日

上杉慎吉は語りつくされた人物ではあるが、それにしても奇異な東京帝国大学教授がいたものである。上杉慎吉の教育勅語解釈もしたがって当然、曲解に満ちたものであったことは想像に難くない。

教育勅語渙発30周年の大正5年に出版された『国体憲法及憲政』において、上杉慎吉は「教育勅語ノ権威」(大正2年4月)と題し彼の教育勅語観を書き残している。

「教育ニ関スル勅語ハ、日本人ノ倫理的活動ノ基礎綱領タリ、何カ故ニシテ然ルカ、曰ク、勅語ナレハナリ、凡ソ教育勅語ノ権威ハ本ツク所、唯一、其ノ勅語タルニ存スルノミ、他二理由原力ノ尋ヌヘキモノアルコトナシ」

教育勅語は「勅語=天皇のお言葉」であること、唯一それをもって権威とするとの評価である。「故二、勅語ハ一切ノ批評ヲ超越セリ」とは尋常な知識人の発言ではない。丸山真男などがこれを真に受けて「道徳の泉源体であるところの天皇」と論じたことも、噴飯ものであった。

上杉に対して法学博士市村光恵は、唯勅語なるが故に完全無欠としその神聖を主張する者もあるが、教育勅語の権威は、その内容が古今に通じ「之を中外に施して悖らざるに因る」と批判した。市村光恵は正論派の熱血漢と読んだことがあるが、この解釈も誤ったものであることは、当サイトに仔細を述べてある。

 

平成22年10月8日

GHQのいう国家神道はあくまで世界征服の超国家主義思想を含むものであった。朝日新聞は昭和二十年十月九日、八日付の「スターズ・アンド・ストライプ」の次の記事を紹介していた。「〝神道〟に外紙が鋭い批判」として、「国民への従順の強要」や「罪過は戦争への正義観注入」というものである。

八日付「スターズ・アンド・ストライプ」
「この宗教は、国民を従順にしておき、支配階級の優越性を維持する恰好の手段である、また神道は、日本人が神の後裔であり、世界を支配する“麗しい運命”を担っていると教えて来た、当然、神道は国民に戦争への正義観を植えつけてきたことの罪を負わねばならぬ」

国家神道の研究において、この「世界を支配する“麗しい運命”」という世界征服の超国家主義思想」がなぜ追究されなかったのだろう。神社の歴史のなかで、この思想がいつどのように表現されたのか。

村上重良『国家神道』にあるように、大日本帝国憲法と教育勅語によって国家神道が完成されたというなら、それ以前に国家としての世界征服思想がなければならない。しかしそんなものはどこにも存在しない。

神社行政史から国家神道を研究したものにも、この思想を重要視したものはひとつもない。米国の識者やGHQの要人が問題視した、神道における世界征服思想、そして彼らのいう国家神道の聖典である教育勅語をなぜ徹底追及しないのか、本当に謎である。

 

平成22年10月1日

小太郎古賀どう(人偏に同)庵(1778ー1847)は井上毅が本居宣長とともに名を挙げている碩学である。儒者古賀精里の子で古賀謹一郎の父である。どう庵について、『想古録』に面白い話が載っている。

どう庵は「良将達徳録」に上杉謙信がその兄を殺したことを載せていた。それに対し、上杉家はそれを虚説として削除を申し出た。

しかしどう庵はこれを拒否。「若し貴家の旧記中に確実なる反証」あれば書き加えることもある、しかし本文は削除せず、と返答した。

上杉家の担当者は、「数百年後の今日に於て確実なる反証を捜し出さんとするは、物を闇室中に探ると一般、困難此上も無き事なり」と語ったという。

どう庵の根拠を明確にと論じる姿勢は心強い。教育勅語の「中外」と人間宣言の「現御神」の今日までの解釈には、確実な根拠が何ら示されていない。古賀どう庵に聞かせたい話ではある。

 

平成22年9月29日

『現代のエスプリ』という雑誌がある。最近は読む機会もないが、第280号は平成2年11月に発行された「昭和から平成への天皇論」である。

杉原誠四郎城西大学教授と大原康男國學院大学助教授(いずれも当時)の編集で、13篇の論文が掲載されている。

しかしこの中に、天皇の統治を象徴する「しらす」という言葉を中心に論じたものは一つも存在しない。本居宣長や井上毅が着目した「しらす」を論じないことは、やはりウイスキーを欠く水割りでしかないのではないか。

吉田茂「私の皇室観」や葦津珍彦「国民統合の象徴」などは今後も読まれるべき論文だろう。しかし大原康男「天皇の「人間宣言」とは何か」や阪本是丸「国家神道についての覚え書」などはどうだろうか。

「人間宣言」「国家神道」は詔勅解釈の問題であるとするのが、当サイトの主張である。どちらの論文も宣命や勅語の解釈に触れていないが、これは現在に至るまで変わっていない。

この20年間、天皇論でいえば皇位継承論は広く議論されてきた。ただ基本的にはGHQ「神道指令」の克服は、まだまだ出来ていないというべきだろう。戦後の天皇論においては、「神道指令」は外せないテーマである。

 

平成22年9月22日

「中外」という言葉に「国」の概念が含まれるかどうかは、やはり疑問がある。諸橋轍次『大漢和辞典』には『史記』「孝文本紀」から「中外之国」を引用しているからである。これは匈奴とのことを記した文章で、お互いに兵を連ねていれば「中外之国」は安寧を得られない、との文章である。

「中外」に「国」の概念があれば、「中外之国」という表現は必要なく、「中外」だけでよいのではないか。この「中外」は「中央と地方」から「内外」という程度の意味ではないだろうか。また同辞典に引用されている『舊唐書(くとうじょ)』「徳宗上」の「不納中外之貢」の「中外」は文脈から「宮廷の内外」だろう。

「古今中外」も現代の中日辞書ではほとんど「古今東西」とされている。しかし古典の用例は一つも示されていない。大東文化大学編集『中国語大辞典』では、「古今中外」を「古今と国内外」「古今東西」と解説しているが、やはり古典からの引用はない。

「古今中外」は、明治日本に亡命して来たジャーナリスト梁啓超が、当時日本人が用いていたものを逆輸入した可能性が強い。彼が和製漢語に多大な興味をもっていたことは明らかにされている。『中国語大辞典』の「中外」の項に梁啓超の名があるのも因縁めいている。

三省堂『全訳漢辞海』は古典に忠実な辞書であるが、「中外」に「国の内外」はない。そして少なくとも『大漢和辞典』が「国の内外」として引用した文章では、その「中外」を「国の内外」と解釈すると上のような不都合が発生する。

漢和辞典では、用例の出典を明らかにしていないものは信頼できない。出典が記されていれば確認が可能である。「中外」が日本語として「国の内外」の意で用いられていたことは事実である。しかし教育勅語や憲法発布勅語の「中外」は支那の古典にあるものであり、「宮廷の内外」いわば「国中」である。

 

平成22年9月17日

『伊藤博文関係文書』は伊藤博文へ送付された膨大な書簡が、差出人や日付ごとに整理されている。遠近に関係なく、現在の電話や電子メールのようなかたちで手紙が利用されていたのだろう。

岩倉具視・井上毅らからの書簡には、あるいは岩倉具視から三條実美へのそれにもあるが、「宮廷の内外」「朝廷と民間」「国中」の意味で「中外」が用いられている。特に井上毅にはこの用例が少なくとも6か所は確認ができ、「国の内外」の用例は1か所しか見つけられない。

しかもその一か所は日清間の問題について記したもので、「於中外」とあるから「国の内外」と解釈して妥当だろう。あとはみな文脈から判断して「宮廷の内外」「朝廷と民間」「国中」の意味である。

ただ伊藤博文自身が「中外」を「宮廷の内外」で用いた例は探し出せない。清国との開戦が迫った明治27年6月2日、議会解散の奏請をなした伊藤博文内閣総理大臣の文章には「殊に中外交渉ノ大事ハ、一日ノ緩慢ヲ容レス」とあって、これは「国の内外」だろう。

また、「憲法発布勅語」の「中外」解釈も伊東巳代治とおなじ「国の内外」である。憲法について伊藤博文は、「是れ天皇陛下の大典を親裁して、天下に宣布し玉ふ所以にして、要は唯だ上下和同して、内は一国の康福を増し、外は我国威を張るの叡慮に在せらるるは昭々たり」と述べた。

伊藤博文が岩倉具視・井上毅らの「中外」を誤解していた可能性は低い。宮内大臣と総理大臣を兼務し、宮中府中混淆の解消が一つのテーマだったからである。ただ『伊藤博文伝』においては、自身で用いた「中外」に「宮廷の内外」は見当たらない。

 

平成22年9月8日

明治憲法の発布については、「御告文」「憲法発布勅語」「帝国憲法上諭」がある。このうち、「憲法発布勅語」と「帝国憲法上諭」は草案段階においては一括して「上諭」として検討されていた。そしてその前半が「帝国憲法上諭」となり後半が「憲法発布勅語」となった。

当サイトは勅語の「中外」を徹底追及しているが、「憲法発布勅語」にある「益々我が帝国の光栄を中外に宣揚し」の解釈にも疑問がある。この文章だけを読むと「我が帝国の光栄を国の内外に宣揚し」と読めなくもないが、草案からすると、やはり「宮廷の内外」「国中」が正しい読み方なのではないか。

「朕カ意ヲ奉体シ、朕カ事ヲ奨順シ、相與ニ心ヲ一ニシ和衷叶同ノ方嚮ヲ取リ、文明安富ノ軌道ニ就キ相議シ相謀テ、益々我カ帝国ノ昌栄ヲ中外ニ宣揚シ、祖宗ノ遺業ヲ無窮ノ久シキニ鞏固隆盛ナラシムルノ希望ヲ同クシ、此ノ大事ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ信スルナリ。」

読点は筆者がつけたものであるが、これが草案段階の文章である。「上諭」の草案は天皇と臣民の関係を繰り返し述べられたもので、外国への言及はない。「祖宗ノ遺業ヲ無窮ノ久シキニ鞏固隆盛ナラシムルノ希望ヲ同ク」するために、外国に宣揚する必要はない。「国中」に広く知らしめることこそが重要である。

伊東巳代治に「Imperial Speech」なるものがある。「憲法発布勅語」の英訳である。伊東巳代治は「中外」を正しく解釈できず、「国の内外」と誤訳した可能性が強い。これに関する井上毅のコメントは探し出せないが、金子堅太郎といい伊藤巳代治といい、西園寺公望のいうとおり、憲法制定の場合に直接枢機に参した者ではない、という意味がよく分かる。

「makeing manifest the glory of Our country、 both at home and abroad」がその伊東巳代治の訳である。日本語の草案を読むと、外国は文脈上からありえない。以上は「伊東巳代治関係文書」にあるが、伊藤博文はこれをどう感じただろうか。興味あるテーマである。

 

平成22年9月1日

東久邇内閣は終戦直後の内閣である。本土決戦を叫ぶ軍人らを抑える必要から、陸軍大将であった皇族に組閣の命が下された。結局は10月4日のGHQ「人権指令」をめぐって内閣は行き詰まり、10月9日に総辞職した。

東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)王の生涯は波瀾に富んでいるが、それはともかく、その政治信条はどのようなものであったのか。『東久邇日記』に興味深い記述がある。

「第一に、私は終戦処理のために内閣を組織したが、いま考えて見ると、あの際私が出なかった方がよかったと思う。だれか若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと若々しい、新しい日本となっていたことであろう」

「私はかねてから、近衛公、緒方書記官長と、農林、厚生両大臣には現在の社会情勢に鑑み、無産政党の人々に就任してもらうのがより、と話し合っていた。(中略)無産政党を主体として、現在の時勢よりも先に進んだ社会主義政策を実行することができ、また将来大いに発達するだろうと見られる労働組合運動にも理解のある、やがてこれも大いに活動すると予想され共産党とも接触ができる、いいかえれば民主主義無血革命をやることができる人々によって、内閣の大改造をしようと思ったことがある。」

マッカーサーは帰国する日本の共産党員について危惧したが、東久邇首相は特別の措置はとらないと言いきった。一貫性があったかどうかはわからないが、やはり赤い将校の一人だったとも考えられる。60年安保で石橋湛山・片山哲とともに岸首相に退陣を迫ったことも、これを裏付けるのではないか。

 

平成22年8月21日

伊藤忠の会長であった瀬島龍三は平成19年に没したが、シベリア時代には「クレムリンの犬」と噂された元日本軍幹部であった。東京裁判ではソ連側の証人として出廷しているから、共産主義者であったとの推測はほぼ正しいだろう。

瀬島はみるところ話術の大家であって、その言説は慎重に受け止める必要がある。「軍事的専門行政とは軍の編成、装備、兵力等に関する事項であり、私共はこれを統帥と軍政との「混成事項」と称しておりました」。「混成事項」が憲法解釈として正しいかどうかを決して語らない。

「すなわちこの編成大権、換言すれば既述の混成事項に関する行政権も、統帥権と同様に原則的には内閣に帰属すべき一般行政権の範疇外に属すると見なされることが多かったのであります」

これは『憲法義解』や軍の編制予算は「陸海軍自身に於て自ら決すべき所に非ざればなり」とした美濃部達吉『憲法撮要』等に違背している。

「統帥事項はもとより、統帥と軍政との混成事項も、内閣総理大臣の権限外であり、従って内閣総理大臣はもとより大本営の構成員ではありません」「しかし私は陛下に問題があったのではなく、明治憲法にこそ問題があったものと確信してやみません」。

本当の問題は明治憲法の解釈と運用にあったのである。統帥権干犯論こそ明治憲法違反だったはずであるが、瀬島龍三の上の発言は平成10年『大東亜戦争の実相』からのものである。この時点でこの認識では明治憲法が気の毒であるし、瀬島が終生赤い将校だったことが分かるのである。

 

平成22年8月10日

終戦直後の昭和20年10月2・3日、矢内原忠雄は木曽福島の国民学校において「日本精神への反省」という講演会を行った。本居宣長に代表される日本精神の批判だった。

矢内原はキリスト者だから、「宗教の最高発展形態たる一神教に於ては、神といふ以上それは絶対者でなければならない」として、「宣長に於てその信仰がありません」と語ったのである。また「人格神の観念がない」とも付け加えた。

宣長は人格神の観念がないから安易な現状是認となるとの論である。しかし宣長が語ったのは、禍津日神によって「善人も禍り、悪人も福ゆるたぐひ、尋常の理にさかへる事の多かるも、皆此神の所為」である。この世はみな善悪の神の御はからひ、ということである。

ベルジャーエフは「神の国は歴史のうちにはあり得ない」と語っていた。絶対者としての神がいて、なぜこの世に悪と不正があるのか。ロシア・インテリゲンチァはそうして「道徳的」に無神論者となり無政府主義者となった、とも語っている。絶対神のおそろしさがここにある。

昭和戦前の帝国憲法蹂躙時代と宣長は逆接の関係にある。天皇現御神論と天皇御親政は宣長になく、『国体の本義』の主張するところだった。矢内原忠雄は本居宣長を理解していない。戦後に葬った、帝国憲法・教育勅語・『国体の本義』・『臣民の道』はすべて同じゾーンにあるものではない。

矢内原はよく読むと、学者としての精緻さを欠いている感じがする。

 

平成22年8月1日

金子堅太郎『教育勅語の由来と海外に於ける感化』は昭和11年11月に大阪市役所から出版された。明治天皇記念館での講演の速記録である。金子堅太郎には同じような著作がいくつかあるが、これにも貴重な文言が記されている。

国会図書館(あるいは大阪府立・市立図書館)では閲覧が可能であるが、それ以外の公共図書館ではまず見当たらない。それが、Googleで検索すると写真版で全文(30p)が閲覧できる。Googleブックスが提携している慶応義塾図書館の所蔵である。

稀覯本であるから閲覧できることはありがたい。それにしてもこの間違いだらけの講演内容が、誰にでも閲覧できることは功罪相半ばするのではないか。金子堅太郎の教育勅語解釈を研究し、その誤りを正したものは拙著『国家神道は生きている』のみである。

「教育勅語異聞」にも書いたところであるが、金子堅太郎は井上毅からの相談を勘違いした。教育勅語の「徳目」がキリスト教の「教義」に悖るかどうか、その点について相談されたと受け取ったのである。

しかし井上毅が相談したのは、あくまで帝国憲法第28条(信教の自由)に抵触しないかとの相談であった。キリスト教国では道徳教育は教会が担っており、君主が政事命令として云々するところではないと考えたからだろう。金子の回想録等があやしい記憶によることは稲田正次『明治憲法成立史』の述べたことでもあった。

 

平成22年7月23日

『美濃部達吉著作集』は慈学社から高見勝利編で出版された。内容の濃い論文集である。ただ美濃部の紹介文にはいろいろ思うところがないわけではない。

「1873年、兵庫県生まれ。東京帝国大学卒業。国家法人説に基づく天皇機関説をめぐり、穂積八束・上杉慎吉と論争となるが、1934年、国体明徴運動により天皇機関説は排撃され、著書は発禁とされた。1948年没。勲一等旭日大授賞受賞」

これでは美濃部の天皇機関説が国家や大日本帝国憲法に違背していたような誤解を招きかねない。著書が発禁となって、戦後ではあるが勲一等旭日大授賞を受賞したこととの関連もわかりにくい。やはり著書の発禁は昭和戦前の憲法蹂躙派がなしたことを明記すべきである。

また「憲法制定資料」はGHQ占領下における憲法改正についてのものであるが、これもいろいろな著作における引用に疑問がある。「新日本ヲ建設シ民心ヲ一新スル為ニハ寧ロ其ノ全部改正ニ着手スルヲ可トセサゼルヤ」がその文章である。

国会図書館の「美濃部意見書」なども「憲法の全体的な改正が必要ではないかという見解」と紹介している。しかし美濃部は帝国憲法の少なくとも第一条から第四条までについては改正するなどとは言っていない。実際に彼の私案は第八条以降の改正であった。

上の文章のみを引用したのでは美濃部が帝国憲法否定派と勘違いされる可能性がある。国体明徴運動が帝国憲法に違背したものであったとの事実認識がなければ、何か奇妙な文章ばかりが横行することになりかねないのではないか。

 

平成22年7月16日

平沼騏一郎に関する著作はなぜか多くない。国本社などに関連してその名が出てくるが、彼の思想を分析したものはほとんど見つけられない。昭和戦前において重要な天皇機関説事件で、漁夫の利を得たのは結局平沼騏一郎だとされている。いったい彼の国家観とはどういうものか。

『我が国体と祭政一致』は神職講習会に病欠した平沼騏一郎が講習生のために寄稿したものである。昭和15年12月に神祇院から発行されている。「外国に於ては君主独裁制、立憲君主制等の述語があるが総て我が国には当て篏らざるものである」とあるが、彼の立憲君主制は説明がない。

「天皇を以て国家の機関となすは、我が肇国の大義に反するもの」とも記している。しかし伊藤博文『憲法義解』を読めば天皇が国家の最高機関と客観的に表現して何ら問題ではない。平沼騏一郎は自身のあいまいな信仰表現と法学理論とをないまぜにしている。

また、「窮極するところ神と合一すること、即ち神人不二の境地に到達すること」と祭祀を定義している。これも説明になっていない。この原因は「天壌無窮の神勅は国家統治の基本を示し給うたものである」との認識にあるのではないか。いわゆる神勅主義である。

本居宣長は「神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく」と述べた。「現に違はせ給はざるを以て」が平沼騏一郎や神勅主義者には欠如している。神勅について、歴史を無視し哲理から付会して語る人々は本居宣長や井上毅とはその考え方が根本的に違う。

「東亜の新建設は其の第一歩である。我が国民が肇国の大精神を振ひ東西に活動するの日は将に至らんとしつつある」とは文部省『臣民の道』と同じ思想である。「肇国の大精神」も牽強付会以外の何物でもないだろう。やはり共産主義者撲滅をのぞいて、平沼には評価できるものはない。

 

平成22年7月8日

治安維持法に関してはとにかく「悪法」との評価が一般的である。戦後の著作者の多くが反帝国憲法だから当然と言えば当然である。奥平康弘『治安維持法小史』はひと通り治安維持法の流れを解説したものとされているが、やはり「悪法」と決めつけている。

企画院事件を「わけのわからない事件」と述べていることで、著者の共産主義(者)擁護がよくわかる。企画院事件は三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』に明らかである。企画院内における左翼グループの実態は恐るべきものがあり、帝国憲法に反したものであった。

『治安維持法小史』には、平沼騏一郎が親軍的な一国一党を標榜する「革新」右翼と対立する国体明徴といった精神運動を重視する「観念」右翼として描かれている。これは間違いではないが、これだけでは根本的な分析に欠けているというしかない。

治安維持法を「悪法」という前に、「国体変革」「国体明徴」のいずれもが帝国憲法に違背していたものであるとの認識が必要だろう。天皇機関説排撃に熱心だった平沼騏一郎は結果として政府に「「国体明徴声明」を出させ、国家を自滅に追いやった一人である。

もちろん、「国体破壊」の共産主義者への治安維持法の適用は当然である。個々の行き過ぎはどんな場合でも起こり得る悲劇ではあるが、治安維持法について誇張し過ぎるのは如何なものか。戦後において破壊活動防止法の適用をためらって惨事となったことは記憶に新しい。『治安維持法小史』は歪んでいる。

 

平成22年7月4日

政治家の姿勢に矛盾があることはいつの世にもあることだが、平沼騏一郎の場合も、もう少し分析が必要なのではないか。平沼が共産主義思想や無政府主義を排除しようとした功績は認められるべきである。しかし天皇機関説排撃派であったことも事実である。

これは帝国憲法下ということを考えると、矛盾である。帝国憲法第一条からすると共産主義による統治はありえないし、天皇機関説排撃も同様である。ただ平沼が対米姿勢については一貫して友好関係を築こうとしていたことも重要である。

昭和16年8月14日、平沼は右翼の一団に襲われて負傷した。彼が対米関係を修復しようとしたことがその原因だとされている。また昭和20年8月15日、ポツダム宣言受諾確定の会議に平沼が参列した直後、平沼は親英米派の頭目だとして約40名の暴徒の一隊から襲撃を受けた。

何かあいまいな平沼の政治姿勢は不可解ではある。しかしやはり問題は彼の「国体観」にあったと言ってよいのではないか。戦前における「「国体観」は一様ではない。平沼のそれは少なくとも井上毅とは異なっているから、つまり帝国憲法に違背していた。

井上毅・帝国憲法を中心とすると、国家社会主義者たちと平沼らの天皇機関説排撃派は両極にある。しかしどちらも天皇を利用する立場にあったことは否めないだろう。その点では両者はともに帝国憲法から遠い。

帝国憲法の番人であるべき枢密院(金子堅太郎・伊東巳代治・平沼騏一郎)や教育勅語の番人として振る舞った井上哲次郎らが、それぞれを曲解していたことの解明が昭和戦前を明らかにすることに繋がるのではないか。

 

平成22年6月26日

「大本事件」は戦前の宗教弾圧として語られている。しかし図書館などでこの事件に関する著作を読んでみても、その本質はよく分からない。帝国憲法第28条では社会の安寧秩序を乱さない限り、信教の自由が保障されていた。ではこの宗教弾圧とは一体何だったのだろう。

「大本事件」は大正10年に不敬罪と新聞紙法違反が適用され、昭和10年暮れには治安維持法が適用された事件である。安寧秩序を乱すものであれば法の適用は当然である。しかし大正元年に検事総長となった平沼騏一郎などの国体観からすると、解明すべき謎があるようだ。

平沼騏一郎はロンドン海軍軍縮条約に反対し、天皇機関説排撃派であった。したがって西園寺公から疎まれた存在であった。西園寺公望は憲法遵守派であって、統帥権干犯論や天皇機関説排撃に批判的だったからである。

そして平沼騏一郎は昭和維新の意義を「天皇御親政」、「我が建国の精神」の拡充と発揮と述べたのである。これは文部省『国体の本義』に通じている。つまり帝国憲法に違背している。治安維持法の運用等に深く関与した平沼騏一郎はいわば憲法蹂躙派であった。

戦前を一括りにするから複雑になるが、帝国憲法に違背した行為を正確に剔抉することが重要なのではないか。帝国憲法・教育勅語・国体の本義・臣民の道、そして治安維持法の運用は同じゾーンにあるものではない。

無政府主義や共産主義の団体を取り締まる目的の治安維持法が、もし宗派「思想」の弾圧にまで及んだとしたら、やはり憲法蹂躙派の思想を徹底解明する必要がある。そして「大本事件」が宗派「思想」に関するものでなければ、宗教弾圧は用語として適正ではないと云うことになるだろう。

 

平成22年6月14日

『帝国議会貴族院委員会速記録』の明治44年2月24日に、男爵高木兼寛の問いに答えて内務省神社局長井上友一が答えている記録がある。

「靖国神社の祭典の如きも、或る学校では参拝をするが、或る学校は参拝しないと云ふ風に、一定の参拝の法で出来て居らぬと云ふやうなことがあります」

政教裁判の判決文には「神社参拝を強制」されたとの文面がよく見られる。しかしこの神社局長の答弁を読むと、少なくとも明治の末期までは神社参拝は強制ではなかったことが事実だと考えられる。

戦前の明治憲法下において、信教の自由はあったが、多くの新興の宗教集団は官憲による弾圧で息の根をとめられた、と語ったのは岸本英夫である。「新しくおこった教団が勢いを加えてくると、社会の安寧秩序を害したというような言いがかりをつけられたものである」とも言っている。

しかし官憲の弾圧が厳しい世の中で、新興宗教集団が多くでき、勢いを増すなど考えられるだろうか。話が逆の可能性がある。統計によると明治30年代以降、神社数は国家の神社行政によって減少しているが、教派神道・仏教・キリスト教の教会などは順調に数を増やしている。

どうも岸本英夫のいう弾圧と数字の事実にズレがある。

 

平成22年6月5日

津地鎮祭裁判は最高裁において合憲判断が下されたものであるが、名古屋高裁における昭和46年5月の判決は違憲判断であった。この違憲判決に対して翌47年12月、「政教関係を正す会」は『法と宗教』―いま一つの公害を追う―を出版した。

また愛媛玉ぐし料訴訟は、平成9年に最高裁によって違憲と判断された。これに対し「政教関係を正す会」は『最高裁への批判』を出版した。この二つの著作には35年の間があって、さすがに論者は入れ替わっている。しかし判決や裁判官を批判する姿勢はほぼ同じだといってよいだろう。

批判をまとめると、公的機関による地鎮祭の実施や例大祭への公金による玉串料支出は我が国の一般的な慣行であって宗教上の行為ではない、というものである。一方、判決文は憲法制定の由来をもとに厳格な政教分離主義といわれる姿勢をとっている。上記は宗教上の行為であるとの判断である。

「政教関係を正す会」は結局のところ目的を達成したとは思えない状況にある。平成16年の靖国福岡判決や平成22年の北海道砂川市の政教関係裁判の判決文からも、充分な成果をあげているとは考えられない。

「政教関係を正す会」は有志による任意団体だろうから、その成果を云々することは余計なことかもしれない。しかし神道政治連盟のホームページには「政教関係を正す会」の考え方が反映されているし、上記のような著作も公開しているのだから、ここでその姿勢を論じてみたい。

「政教関係を正す会」の論者による違憲判断に対する批判は、情緒的にはまったく問題はない。しかし本当に判決文を熟読し、事実による反論を試みただろうか。混迷する政教論争の原因は、案外「政教関係を正す会」の主張に足らざるものがあることなのではないか。

 

平成22年5月22日

愛媛玉ぐし料訴訟は、平成9年に最高裁によって違憲と判断されたいわゆる政教分離裁判の代表的なひとつである。愛媛県知事および一部の県職員が、靖国神社の例大祭や愛媛県護国神社に玉ぐし料を公金から支出したことが憲法違反ではないかと問題にされたのである。

「国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた」とは判決文の一部である。

「しかるに国家神道(神社神道)だけは、法令上これらと区別せられて、いわゆる宗教ではないとせられながら、実際上は宗教たる性質をそなえ(中略)神社神道以外の宗教(例えばキリスト教の如き)を、あたかも国事に有害であるかのように取り扱う人々すらあった」

上記は昭和21年文部省「新教育指針」からの引用である。また「事実上神社に国教的地位を認めながら、ただ諸外国に対する関係上、信教自由の原則に抵触せざらしめるため、神社は宗教にあらずとの解釈を下したのである」は昭和24年の矢内原忠雄である。

さらにGHQの占領下において神道指令を発した民間情報教育局の日本人助言者であった岸本英夫は、昭和38年に次のような文章を残している。「国民の信教の自由は保証されても、国家神道は別であった。自分の信仰と並行して、国家神道の儀礼への参加を強制されるということもありえた」

政教裁判の判決文は実に歯切れが悪い。根拠を欠いた内容の「新教育指針」「矢内原論文」「岸本論文」や、それらの影響が顕著な村上重良『国家神道』にその源泉があるようだ。政教関係を論ずる識者はなぜこのことを話題にしないのだろう。「事実上の国教」では公正な判決とは言えないのではないか。

 

平成22年5月15日

昭和5年は教育勅語渙発40年の年で、様々な催しがあったようだ。金子堅太郎の講演は当サイトにおいて何回か述べたところであるが、新渡戸稲造も11月15日の『実業之日本』に、「教育勅語発布四十年を迎へて」というタイトルの小論を載せている。

「教育勅語が一般国民の心を新しくして盲信的に西洋化せんとする風を矯めた力のあったことはいふまでもないが・・」と正しく勅語渙発の経緯を述べ、昭和5年当時においても「現に所謂危険思想にかぶれてゐる男女の青年共の多いことのごときは・・」と語っている。

そして「我輩は教育勅語を今後一般民衆のうちで徹底的に教ゆる方法を講ずる必要を感ずる」、として指導方法には注文を付けているが、全体として教育勅語を称賛していることが読んで取れる。

「我輩は教育勅語をもって少くとも我国における不朽の文と思ふ・・」とも記している。ただし、新渡戸稲造が高い評価を与えた部分はやはり「徳目」であって、「一旦緩急あれば・・」を強調し過ぎるあまり、「徳目」が置き去りにされていると考えたのである。

教育勅語異聞にあるように、新渡戸稲造も教育勅語の外国語訳に参画した一人であった。そして彼らが「徳を樹つること深厚なり」の「徳」と「中外」を、誤った解釈を参考に翻訳したことは誠に残念なことであった。

 

平成22年5月4日

歴代総理大臣の伝記叢書26(ゆまに書房)は「平沼騏一郎」である。口述筆記を主としたもので、天皇機関説に関しての平沼見解が明瞭に記されている。天皇機関説排撃で最も利を得たのは平沼騏一郎だといわれているが、そもそも彼の考えとはどういうものか。

「上杉慎吉と美濃部達吉と大いに議論を闘はせたことがあった。この時は美濃部が勝った。天皇機関説であるが、当時は誰も怪しまなかった。当時上杉の説は穂積八束の説を祖述したものであった。美濃部は判ってゐない。西洋流で勝ったに過ぎぬ」

平沼騏一郎が共産主義思想の排除に注力したことは認めてよいだろう。しかし彼の国体観といい憲法観といい、それらは粗雑で誤りに満ちている。井上毅の思想や『憲法義解』などをまったく理解していなかったのではないか。理解していれば穂積・上杉の説が『憲法義解』に違背していると述べて当然だからである。そして美濃部は概ね『憲法義解』に副っている。

平沼のいう国体は、「回顧録」のどこを探しても確固たるものは見当たらない。「日本では国家を統治することは神慮によってする」だから、ありふれた神勅主義である。我国の来歴を考えると、まさに古伝承が顕現されている、したがってそれが虚偽ではないとわかる、と述べたのは本居宣長である。神勅ありきとは正反対である。

平沼は、昭和維新の意義は「天皇御親政」であり「我が建国の精神」というのだから、極めつけの憲法蹂躙派であった。統帥権干犯論で濱口雄幸首相を苦しめ、ただ単に権力を志向しただけの人物だったと評して妥当なのではないか。

 

平成22年4月27日

加藤寛治の「日記」などを中心とした『続・現代史資料5』は伊藤隆氏他の編集である。同氏の『近代日本の人物と史料』にはまた、統帥権干犯論に関する重要な文章が記されている。

『西園寺公と政局』の著者、原田熊雄が寺島軍務局長から「軍令部長の権限の拡張」を目指して、「加藤寛治大将だの金子子爵だのが、かれこれ軍令部に都合のいいやうな憲法の解釈をしてしきりに煽っているといふ事実がある」と聞いたことである。

このことについて、「金子との往復を含めてこの日記の記述と照応している」、と確認している。加藤「日記」はしたがって信頼しうる資料と考えて良いだろう。『西園寺公と政局』なども、その信頼性を問う向きもあるようだが、現実におきた事柄や残された書翰などで根拠付けができるところは問題ないのではないか。

同書には真崎甚三郎と平沼騏一郎という「統帥権干犯論」による憲法蹂躙派が、加藤海軍大将を最も適当として加藤内閣運動を推進していたことも語られている。昭和9年の5月のことである。

昭和10年からの天皇機関説排撃で最も利のあったのは平沼騏一郎だと一般的には言われている。しかし多くの人が天皇機関説排撃に向かったのだから、その全容は解明されていないというべきだろう。ひとつには個々の「私」が誤った「公」を形成したと言えないだろうか。

天皇機関説排撃を唱えた人たちは、それぞれ「私」を優先し「公」をなおざりにしている。一面では「私」を中心とした権力闘争とも見える。金子堅太郎のような明治の功労者が、誤った憲法解釈で要人を煽ったことは、やはり昭和戦前における「私」であるとしか考えられない。

 

平成22年4月24日

西田幾多郎が生涯の友で教育者の山本良吉にあてた「ミノベ氏憲法学説」という書簡がある(『西田幾太郎随筆集』)。昭和15年5月19日だから天皇機関説が騒がれていた時期である。そしてこれは西田の憲法感覚よりも学問感覚がよく出ているというようなものである。

「例の憲法問題、陸軍大臣などどうしようというのだろう」
「学者はどういう解釈をしたからとて、政治家や司法官は国策上不可とすればとらなくてもよいではないか」

「ミノベ氏の説をよいというのではない。他の説がまけたのは他の学者が学識才能の足らざるによるのである」
「日本の法学者は法律の哲学的歴史的研究というものを怠っている」
「軍隊では学問の解釈も権力で定めてよいように思うかも知らぬが、それでは却って学問の進歩を阻害することになると思う」

「人々は何故に反ミノベ説がこれまで学問上衰えたかという事を考えて見なければならぬ」
「それは単に外来思想崇拝という単純なことでないと思う」

以上が主な内容である。学問と国策を区別しているところは西田らしい。しかし天皇機関説は『憲法義解』を論ずることであるから、ここは少しややこしい。なぜ『憲法義解』(=天皇機関説)がいけないのだと明言できなかったのだろう。

1)国策上政治家や司法官は学者の解釈はとらなくてよい。2)憲法学説の優劣は学者の学識才能による。3)学問の解釈は権力で定めるものではない。2)・3)はたしかにそうであるが、1)は違和感がある。政府の憲法曲解を許しかねないからである。

同じ山本良吉にあてた「不愉快だが教学刷新委員に」というのもある。天皇機関説排撃派の委員と肩を列する不愉快さが表れている。この手紙には本音が出ているから、ここから天皇機関説問題をもう少し語っていてくれたらと思う。

 

平成22年4月21日

『書陵部紀要』第60号に掲載された飯田直輝「金子堅太郎と国体明徴運動」は稀有で貴重な論文である。国体明徴運動は天皇機関説に端を発した運動である。それを金子堅太郎との関係で調査研究した論文はほかに見ない。

天皇機関説排撃は昭和10年2月の貴族院ではじまった論争であるが、金子堅太郎が「意見書」を政府要人に送付したりした事実が彼の「日記」にあるという。この日記は、現在翻刻作業中であると聞いた。一般公開されれば注目を集めるのではないか。

ただ上記論文は金子堅太郎の帝国憲法解釈について積極的には触れておらず、国体明徴運動に至る経緯を克明に調査報告したものとなっている。日本歴史を重要視せず、西洋の学問を偏重している実態を嘆き、天皇機関説もその流れにあると金子は考えていたという。

帝国憲法は歴史法学的立場で起草されたものである。そして伊藤博文『憲法義解』はその説明書である。美濃部達吉らのいわゆる天皇機関説はこれに準じている。したがって天皇機関説排撃は反『憲法義解』である。これこそ解明すべき昭和の謎である。

今回新しく掲載した「昭和戦前異聞」はこれがテーマである。金子堅太郎の総論は問題ないが、やはり昭和に生き残った帝国憲法の起草者として存在を主張し過ぎたのではないか。老害といわれてもやむを得ないだろう。

「ここからは金子が、機関説に対する自身のこれ以降の行動につき内閣・軍部などの公的な依頼に基づくものであるという正当性を確保するための布石を打っている様子が窺える」(上記論文)、「元老西園寺公望らは金子の関与を嫌っていたようだ」(同)。

上のふたつの文章にある要人の複雑な立場は憲法解釈に関連する。ここを徹底追求すれば、金子堅太郎の昭和が明らかになるのではないか。国体明徴運動以降の我が国の悲劇を考えれば、これは大罪に匹敵するのではないか。

 

平成22年4月1日

二・二六事件はすでに語りつくされた感がある。しかし本当にそうだろうか。山本夏彦翁はかつて渡辺錠太郎教育総監が狙われた理由がわからないと某大雑誌に書いた。すると渡辺錠太郎の子孫の方から、自分もよく知らない、教えてくれと電話があったことに驚いたと記している。

二・二六事件の首謀者たちは、自分たちが頼りにする真崎甚三郎のイスを奪って渡辺錠太郎が教育総監になったこと、また渡辺錠太郎が天皇機関説を擁護しているとして狙われたと山本翁は結論づけている。そして、なぜ機関などと訳して平気だったのだろう、と語っている。

当時の新聞を読めば真崎甚三郎を更迭したのは林陸相である。その林陸相は無事だった。やはり天皇機関説にたいする態度が基準だったことは間違いないだろう。機関という言葉がいけない、当時天皇はあらひと神である、生かしておけぬ、となったとも山本翁は述べている。

機関という言葉は、ざっと見て帝国憲法の解説書『憲法義解』のなかで前文を含め10か所以上は使われている。「憲法は即ち国家の各部機関に向て適当なる定分を与へ」などである。これは明治22年6月発行だから、山本翁のいう大正デモクラシー云々より以前の事である。

美濃部達吉『憲法撮要』の第一章第四節は「国家の機関」としてその性質が説明されている。直接機関・間接機関などがその対象である。第三章には「国の元首と謂ふは尚国の最高機関と謂ふに同じく」とあって、これは『憲法義解』を基礎としておりまったく問題はない。

「昭和戦前まっくら史観」は間違っていない。帝国憲法の正しい解釈をした美濃部達吉は著書を発売禁止にされ、民間人からは自決を迫られ襲撃を受けている。昭和天皇は機関説の主義に基づく政治の機構まで変ずる時は、憲法の改訂にまで進む虞れあり、と仰せられたという。

帝国憲法を蹂躙したのが昭和戦前である。正しい意味において「昭和戦前はまっくら」だったというしかないだろう。カフェーや天ぷら屋の繁盛とは別の意味である。宮沢俊義『天皇機関説事件』はその豊富な資料にのみ価値があるが、読めば「昭和戦前まっくら史観」にならざるを得ない。

 

平成22年3月25日

昭和10年からはじまった国体明徴運動は実に根が深いと言わざるを得ない。宮沢俊義『天皇機関説事件』に詳細があって、とにかく理不尽な天皇機関説排撃が行われた様子がよくわかる。

美濃部達吉の天皇機関説を要約すると、天皇に私という事はなく、万能の権限もありえない、というものである。つまり国の最高機関として国家の一切の権利を総攬するということである。そしてそれは天皇御一身の権利ではない。これは『憲法義解』に副っている。

天皇機関説を排撃した徳富蘇峰は「未だ美濃部博士の法政に対する著作を読まない」のに「記者はいかなる意味に於いてするも天皇機関説の味方ではない」と語っている。徳富蘇峰に限らず、天皇機関説排撃論はすべてその学説というより言葉尻を問題にした感がある。一体なぜこうなったのか。

金子堅太郎は伊藤博文・井上毅・伊東巳代治らと帝国憲法を起草した明治の大功労者である。その金子堅太郎が天皇機関説を排撃するために、岡田啓介首相・松田源治文相、そして林銑十郎陸相・大角岑生海相・真崎甚三郎教育総監に「意見書」を渡している。

「天皇と警察官とを同一視するの嫌あるにあらずや」とした金子堅太郎は、『憲法義解』のもとになった帝国憲法に関する逐条説明書の共同審査に参加していない。彼が本当に帝国憲法第一条を井上毅の考え通り理解していたかどうかは疑問が残る。

英国の保守主義者エドマンド・バークを訳して『政治論略』を出版した金子堅太郎であるが、教育勅語の解釈といい天皇機関説の排撃といいい、昭和の自滅的日本のもとになったことも事実だろう。宮沢俊義はなぜ金子の「帝国憲法制定の精神」が国体明徴に役立つと考えられたか分からない、と記している。能天気も甚だしい。

 

平成22年3月16日

昭和戦前は、憲法論議が実に盛んだったように思う。統帥権干犯論議や天皇機関説排撃など、当時の新聞では事細かに報道されている。昭和10年2月18日、貴族院議員菊池武夫が、末弘厳太郎の『法窓閑話』その他の著作や美濃部達吉の『憲法撮要』などを、国体に悖るものだと発言して天皇機関説排撃が本格化した。

2月26日の朝日新聞を読むと、前日の貴族院本会議における美濃部達吉の堂々たる反論が掲載されていて当時の雰囲気がよくわかる。天皇機関説と聞けば難解な憲法論議かと思うが、要するに伊藤博文『憲法義解』を美濃部達吉の言葉で表現しただけのものである。

「天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であるといふことは古来常に意識されたことであるし、歴代の天皇の大詔の中にも其中に明示してをるものが少なくない」、この考え方は『憲法義解』そのものである。何も問題はない。

この天皇機関説を排撃して国体明徴運動となり、翌年に2・26事件があって、昭和12年には文部省『国体の本義』が出版された。したがって『国体の本義』は『憲法義解』つまり大日本帝国憲法に違背している。これらを一括して葬ったGHQと、戦後の我が国はこの整理ができていない。

戦前と戦後で仕分けをしたのでは解明できないものが少なくない。大日本帝国憲法・教育勅語・『国体の本義』・『臣民の道』が同じゾーンにあると考えたのでは上の矛盾は解決できない。教育勅語の曲解から書かれた『国体の本義』・『臣民の道』である。これがポイントである。

 

平成22年3月8日

『國體明徴上の一考察』―(現神観念)―が時事新報社から出版されたのは昭和11年の6月である。著者は退役海軍大佐、松岡静雄である。天皇機関説が貴族院で論議となったのが昭和10年2月、天皇機関説排撃から国体明徴運動が起り、その延長線で昭和12年5月、『国体の本義』が文部省から発行された。

『國體明徴上の一考察』はこれらの中間に出版されている。文部大臣平生釟三郎が文を寄せていることから、ほぼ公認の書に近い。

「天皇は天ツ日嗣であらせられる。換言すれば天之下に関する限り天照大御神の神位継承者におはします。この意味に於て天皇は神格であらねばならぬから現神(アキツミカミ)と申上げた。この点はたとひ襁褓にいましても変りはない」 襁褓(きょうほ)は幼児を背負う帯と産着だから、幼少にあっても、という意である。

「真実カミ(神)であらせられるといふ信念が厳在したればこそ天皇御自身もカミと自称せられた例があるのである」 これは万葉集を例にとったり、祝詞を引用して解説したものであるが、やはり宣命の「現御神止」を正しく「しろしめす」の副詞と理解していない。

松岡静雄の父は医師にして国学者、兄弟に医師であり歌人の井上通泰・元貴族院書記官長柳田国男・画伯の松岡映丘がいる。これだけの人が天皇を現御神であると宣命を正しく解釈することなく、堂々と上のような著作をなした時代であった。戦前における国学の衰退も看過できないものがあるというべきだろう。

 

平成22年2月22日

新潮社『日本文学大辞典』について、森銑三翁に「第二巻瑣言」なるものがある。『艶道通鑑』の著者増穂残口(ますほ・ざんこう)がないことに触れ、「これらは、もし出来るならば補遺に加へておいて貰ひたい」と流石は翁である。増穂残口を忘れるなとは貴重な発言である。

森銑三翁はまた水谷不倒の『草双紙と読本の研究』を読んで「読本の前に過渡期の読本の項を設けて残口以下の人々を説かれたる、本書の特色の一とすべし」と記している。草双紙は挿絵を主体にしたものであり、読本(よみほん)は文字通り読むのを主体にした小説である。

郭象(かくしょう)の『郭註荘子』をもじった洒落本に福輪道人著『郭中掃除』がある。古文字屋という茶屋へ祖礼、三猴、一興、南角が集まって雑談をするというものである。それぞれは荻生徂徠、増穂残口、一休和尚、服部南郭であるとされている。他に春会は太宰春台だとも云われている。

『洒落本大成』第七巻に「郭中掃除雑編」があって、その翻刻の一部を読むことが出来る。三猴「毛唐人はきているか」や「しれた事神風が吹て神あつまりにあつまりたもふ」、あるいは「神は非礼を受けたまはず無心の筋おゆるしおゆるし」から三猴は増穂残口だとされたのかもしれない。

神儒仏の三者を遊里に会して語らせる趣向は『聖遊廓(ひじりのゆうかく)』や『異素六帖』があるとされている。宝暦年間だから杉田玄白らが活躍した時代である。読本の芸術的価値は高くないとされているが、「郭中掃除雑編」だけではよく分からない。

『洒落本大成』ははじめて手にした本である。増穂残口のことがなければ読む機会はなかったかもしれない。図書館の棚にはタイムカプセルの中味が実に無造作に置かれている。

 

平成22年2月15日

受験生ならともかく、今では六国史を問われても正確には答えられない。日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳天皇実録・日本三代実録がそれであるが、続日本後紀などを現代文で読むことはむつかしい。

佐伯有義校訂標註『六国史 巻七』には続日本後紀の註釈があるが、置いてある図書館はそう多くない。続日本後紀は仁明天皇一代、天長十年(833)から嘉祥三年(850)までの18年間にわたる史書で全二十巻がある。

この第十九巻に「聖之御子能(ひじりのみこの)・・・現人神止(あらひとかみと)。成給(なりたまひ)。」とあって、『古事類苑』の現御神の項に紹介されている。そして「古代に在ては、天皇に限れる尊称なりしに、後に転じては専ら神を云ふこととなれり」と説明している。

続日本後紀は太政大臣藤原良房と参議春澄善縄によって完成・進上されたものである。彼らの「現人神」観は後の本居宣長とはまったく違うもので、天皇=現人神論である。宣長は現人神=現御神であるが、あくまで「現御神止」の「しろしめす」の副詞としての意味を強調している。

吉川弘文館『国史大系』は原文(漢文)であるが、図書館にあるのはありがたい。また『国史大系書目解題』が上下二巻あって、各書の解説を読むのも面白い。六国史は我が国の正史といわれているが、続日本後紀の手軽な註釈書や現代語訳がないのは何ともさみしい。

『国史大系』は採算を度外視して発行されたとあるが、商売にはならなかったろうと思う。しかしその価値は計り知れないものがあるのではないか。

 

平成22年2月8日

大隈重信と共に立憲改進党を組織し、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立した小野梓に「若我自当」がある。「若し我自ら当らば」は明治十四年の政変と言われる年に記された、人民を「無政府の不幸より救済」するために憲法制定を推進する、そのためのいわば政治戦術である。

「而して其一策たる、聖上還御の前に当て間を請ふて天皇に謁見し、憲法制定の今日に止むべからざる所以を具状し、更に内閣外に就て憲法制定論の賛成者を求め、中外の声援に依て其制定の議を断行する、是れ也」(『小野梓全集』第三巻)。

天皇と内閣の外に賛成者を求めて憲法制定を促進するということである。「即ち在廷官吏の鏘々たるもの及び在野負望の士にして其影嚮を内閣の議に及ぼすに足るべきものを求むるを謂ふ也」(同)。「在廷官吏」と「在野の士」が語られている。

「是を以て今我党に於て朝野の賛成者を求むるの策最も之が巧妙を尽し、・・・」(同)。これらから「中外の声援」は明らかに「宮廷の内外」である。「朝野の賛成者」と整合する。

また「今政十宜」では藤原氏や平氏その他の特定少数者による政治の専有を批判し、「聖上登祚ましませし以来?々明詔を垂させ給ひ中外の衆庶に詔示し給ひ、衆庶も夫の明詔に薫陶せられ深く其切なるを感銘したるものなれば、・・」と記している。「中外の衆庶」は「中央と地方」つまり「全国の人々」と考えて妥当である。

小野梓における「中外」の用法は古典に忠実である。そのことは彼の経歴を読んで納得がゆく。我が国と中国の古典に通じ、明治十年に太政官少書記官そして翌十一年には元老院少書記官を拝命している。小野梓には「勤王論」があって、これも読み応えがあってなかなか面白い。

 

平成22年2月1日

あるフレーズを確認しようとして、それが増穂残口ではなかったかと思い、読んでいるうちについつい丸1日が過ぎてしまった。

増穂残口は浄土僧から日蓮僧となり61歳で還俗し、神職となり神道を講釈するに至った人である。1655年生まれで1742年に没しているから1730年生まれの本居宣長より一時代前の人である。

「残口八部書」の一つとして世に知られているものであるが、「艶道通鑑」は男女の機微を描いて文体にリズムがあり話題が豊富で実に面白い。現在では『神道大系』―論説編22増穂残口―で読むことが出来る。

「八部書」のなかには「文盲成(なる)者は正直にして、学者の曲がらざるはすくない」といった歯切れのいい学者批判や、「五倫五常の人道、儒でなければ行はれざる事か」として腐儒をやり込める痛快な文章がある。「天竺の寓咄(うそばな)し、支那の作り物語に心をうつすべからず」。

「房主(ぼうず)の神道の談義は、天竺へ落とし、儒士の神を講ずるは、支那仕廻(からじまい)」となり「日本人とは申がたし」。本居宣長以前にこれほど一般向けの書物で国学を称揚し儒仏を批判したのは増穂残口しか見当たらない。本格的に「転向」したことがよく分かる。

本居宣長の「漢意(からこころ)」とおなじように増穂残口においては「支那根性(からこんじょう)」である。宣長先生よりはかなり大雑把で、儒仏を引きずっているところはあるが、まあ読後感は悪くない。

 

平成22年1月28日

『津地鎮祭裁判資料集』(神社本庁)は非売品だから大きな図書館で読むしかない。この貴重な資料集が文庫本等のかたちで出版されなかったことは本当に残念である。昭和53年5月15日の発行である。

この裁判は昭和41年1月、三重県津市が総合体育館の建設にあたって地鎮祭を行ったことが発端であった。第一審の津地裁は合憲、名古屋高裁では違憲、昭和52年7月の最高裁では合憲の判断が下されたものである。最高裁では15人中10人が合憲、裁判長を含む5人が違憲と判断した。

資料集は神社本庁等が支援し作成した最高裁への上告書を中心としたものである。この裁判の全容を知ることができる稀少本である。注目すべきは上告書の作成姿勢と最高裁藤林益三裁判長の追加反対意見である。

藤林益三裁判長の追加反対意見には矢内原忠雄「近代日本における宗教と民主主義」から多くを引用したとある。これは矢内原忠雄全集第18巻に所収されている短い論文である。昭和24年に書かれている。

「日本の民主主義化のためには、国民の間に真正の基督教信仰が広く且つ深く植えつけられねばならない」と語った東大教授矢内原忠雄、そして藤林益三裁判長はともにキリスト教徒であった。

「事実上神社に国教的地位を認めながら・・」も同論文にある。そしてこの文言は昭和21年5月、GHQの強い圧力のもとで書かれた文部省「新教育指針」に酷似している。

平成16年福岡地裁の「靖国判決」や平成22年1月の最高裁「砂川市判決」にも「津地鎮祭裁判」の文章が引用されている。GHQの占領下でキリスト教徒によって書かれた文章を根拠として今日でも神道が裁かれている。

 

平成22年1月19日

図書館の入り口近くに『新日本古典文学大系』が並べてある。いま古典文学の世界はどうなっているのだろう。源氏物語は千年紀に限らずいつでも人気だが、他の作品は読まれているのだろうか。

当サイトは教育勅語にある「樹徳」の「徳」と「中外」の真意を追及することから始まった。したがって「中外」とあればやはり気にならないことはない。『新日本古典文学大系』の第32巻は『中外抄』である。関白藤原忠実の話を大外記(おおげき)中原師元が聞きとって記したものとされている。

「中」は「中原」であり「外」は「大外記」からとっているとの説明がある。しかし素人の感覚ではあるが、これは本当だろうか。中御門右大臣(なかみかどうだいじん)を省略して「中右記」は分かる。しかし大外記中原師元と書くのが普通であって、中原師元大外記とは記さなかったのではないか。

「小右記」は小野宮大臣(従一位右大臣藤原実資)の日記であるが、小野宮(おののみや)は小野宮殿で住まいのはずである。名前ではないと解釈すべきだろう。「小右記」は後につけられた題名だそうだが、「中外抄」は何時つけられた題名だろうか。

どうもこの「中外抄」を読んでみると、公家社会のことを述べており「宮廷の内外」のことを記した書物のように思えてならない。「外記日記」や「師元日記」などとするのが一般的であって、「中原外記抄」は異例である。少し追求してみる値があるようだ。

 

平成22年1月10日

大日本帝国憲法の起草者として伊藤博文・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎がいる。井上毅は明治28年3月、伊藤博文は明治42年10月26日に没している。

伊東巳代治は昭和9年2月9日、金子堅太郎は昭和17年5月16日に没したが、彼らの晩年には大日本帝国憲法に違背する言動がある。

昭和戦前の大きな議論は「統帥権干犯問題」と「天皇機関説問題」であった。枢密顧問官であった伊東巳代治は帝国憲法の弱点であった内閣の規定について、なぜ補完せず統帥権干犯などと主張したのだろう。

金子堅太郎は天皇機関説を評して、天皇と警察官を同一視するものであると述べたのである。帝国憲法はいわば天皇機関説である。国体明徴運動の宣伝書になった『国体の本義』は天皇を現御神とし、天皇御親政を主張するものである。帝国憲法にこれらの思想は存在しない。

やはり人は範囲を超えると信じられないことを起こすという典型だろう。井上毅が存命なら何としたか。

帝国憲法第一条の井上毅案は「日本帝国は万世一系の天皇の治(しら)す所なり」であったが、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」になった。伊東巳代治や金子堅太郎は本当に「しらす」を理解していたとは思えない。

 

平成21年12月29日

名のある人で生前に著作を出版しなかった人がいる。本居宣長没後の門人、伴信友がそうであった。著書150余部といわれているが、「説くところ精密で、一も確証のない私見を発表しない」と森銑三は記している。

古賀どう(人偏に同)庵は出版の準備をしていたようだが、病に倒れた。子息の古賀謹一郎らが努力して原稿の整理は進んだようだが、膨大な量のまえに途方に暮れたのではないか。これも信じられないほどの量があるが、いま現代語訳で読むことは不可能である。

伴信友・古賀?庵は同時代の人であるが、いづれも生前に板木をつくらなかった。後の時代では狩野亨吉がいる。夏目漱石の友人で京都帝大文科大学の初代学長であった。安藤昌益を発見したともいわれている。

安藤昌益などは知って益のある人物でもないが、以上の3人には共通するものがあるのではないか。知の私物化である。あるいは課題のそれである。

古賀どう庵はもう少し長生きしていれば、生前の出版は可能だったかもしれない。しかし出版に慎重すぎたことはあるだろう。やはり「世に問う」ことで課題が解決することもある。彼らはなぜ世間に解を求める勇気をもてなかったのだろう。ややジコチュウ(自己中心主義)のような気がしてならない。

本居宣長は鶴鳴市川匡麻呂や上田秋成らと堂々と論争をした。そしてその論争をとおして、自らの思いを語ってくれたことで、より本居宣長が理解できるのである。宣長は知を私物化していない。やはり最高の叡智である。

 

平成21年12月12日

古賀どう(人偏に同)庵を語った本に真壁仁『徳川後期の学問と政治―昌平坂学問所儒者と幕末外交変容―』があった。2007年の出版である。なかなか検索がむつかしい本ではあるが、『早すぎた幕府御儒者の外交論』から知って読んでみた。

学位論文が基であることと、対象が儒者の論文だから漢字漢文がむつかしく、かなり肩が凝った。しかし第4章から第六章まではたっぷり古賀どう庵が論じられており、これも実に貴重な読み物である。

タイトルからして幕末の学問と政治を論じたものであるから、引用は断片的となる。それでも「殷鑒論」どう?庵新論」「海防憶測」などの雰囲気は伝わってくる。?庵はやはり「夜郎自大」的でなく、腐儒を腐儒と言い切る見識がある。

上に挙げた三つの論文を現代語訳で読みたいものだが、商業出版としては無理かもしれない。巻末資料に?庵の読書之法を記した「読書矩」にある入門之学、上堂之学、入室之学の段階に分けた多くの書物が紹介されている。膨大な量である。

どう庵は1788年生まれで1847年に没している。海外事情にも通じていた彼らの教養が、明治維新以降の欧米化の下地になっていたこともあるだろう。欧米化の是非はともかく、「下地」は事実なのではないか。大東亜戦争の前後もそうだが、何事も連続性がある。

 

平成21年12月1日

井上毅が「支那の病は一言にして尽くすべし、曰く文弱なり」とし、「此の大病源の醸造者を見出せし者は、偏枯の見ながら、我が国の本居宣長古賀どう(人偏に同)庵なり、実に卓識といふべし」と語った古賀どう庵の書は今では御目に掛れない。

梅澤秀夫著『早すぎた幕府御儒者の外交論』に「先考どう庵府君行述」があって、子息である増(まさる)の漢文を現代訳で読ませてくれる。「先考」は「亡父」であり、「府君」はその敬称である。

この本は佐賀の出門堂から2008年6月、肥前佐賀文庫003として出版されたものであるが、企画をされた元編集長の古川英文氏には敬意を表したい。どう庵を知るうえで大変貴重な著作である。

増は古賀謹一郎で川路聖謨らと共にロシアのプチャーチンと外交交渉を行ったことで知られている。川路の『長崎日記』にその名が出てくる。古賀謹一郎→古賀どう庵→古賀精里と遡ることのできる学者の名門で、精里は佐賀藩士の子であり、先祖は劉邦だという。

この本で古賀どう庵に関する著作が他にもあることを知ったが、何といっても『海防憶測』や井上毅が卓識と述べたどう庵そのものの文章を読んでみたい。国会図書館の近代デジタルライブラリー『天香楼叢書』に「殷鑒論」があるが、原文は漢文である。どなたか現代語訳か訓読文を出版してくれないものだろうか。

 

平成21年11月21日

大学の図書館には教育史関連の書籍が少なくない。それは必ずしも教育学部のあるなしに関係しない。しかし我が国の教育史学はそもそも学問と言えるのかどうか、疑問に思わないでもない。

普通に考えて、ある仮説・理論が客観的な資料で検証が可能となって、学問なのではないか。しかしほとんどの終戦前後をテーマにした教育史の著作は出来事の羅列であって、因果関係がまったくわからない。

教育勅語から教育基本法へとあっても、教育勅語の何が問題だったのかは明らかにされていない。教育史の著者たちの見解はGHQのそれとほぼ同じであるが、GHQ教育改革指令の根拠が何であるのか、明らかにしたものは一冊もないのではないか。

あるのはGHQの口真似か捏造したものであって、事実で検証できるものではない。我が国が国家として教育勅語を曲解してきた事実を明らかにした著作が1冊も存在しないことがその証拠である。この曲解は事実で証明し得るものである。

国民学校令第一条は「皇国の道に則りて」であり、「皇国の道」は教育勅語の「斯の道」であった。しかし「斯の道」がどのように扱われてきたが分からなければ、教育勅語から教育基本法への意味もわからないのである。

出来事の詳細な羅列のなかには重要な事柄もたくさんある。もったいないと言えばもったいない。

 

平成21年11月11日

教育勅語の渙発に大きく貢献したのは明治天皇の侍補元田永孚である。元田永孚の著作は、大学はともかく県立図書館で揃えているところは稀であるが、このなかに重要な文書がある。明治11年、北陸東海両道巡幸から戻られた天皇から岩倉右大臣へ各地の民政教育について叡慮あらせられた。

これについて同僚相議して、「勤倹の旨 真の叡慮に発せり 是誠に天下の幸 速に中外に公布せられ 施政の方鍼を定めらるべしと・・・」と記されている。元田永孚が「中外」を「宮廷の内外」つまり全国民の意味で用いている例である。

この文章を引用したものに海後宗臣『教育勅語成立史の研究』があるが、著者は頓着がない。教育勅語の「中外」と同じ用法であることに気がつきそうなものだが、この文章についてはコメントしていない。意識がなければ眼に入らない例だろう。

そして著者は君治の徳にも言及していないから、そもそも教育勅語の正しい解釈は望むべくもない。それにしても、教育勅語の成立史や成立過程の研究者たちがこれだけ資料を集めて従前の解釈に疑問をもたなかったことは謎中の謎である。

元田永孚から井上毅への明治23年10月24日付の書簡にも同様の重要な文章がある。上記『教育勅語成立史の研究』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』にも引用されているが、両者共その部分に着目していない。

井上はもとより元田も歴史事実というものに基礎を置いて教育勅語の文案を考えている。なぜ中外に施して「不悖」としたかがそこにある。外国など出てくる余地はまったくない。

 

平成21年11月2日

『道』が新装版になるとともに、新たに天皇陛下御即位二十年記念が加わった。御即位から二十年間の「お言葉」が出版されたことは誠にめでたい。

「崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりにあってひとときも忘れることができません。?殿に、また殯宮におまつり申し上げ、霊前にぬかずいて涙すること四十余日、無常の時は流れて、はや斂葬の日を迎え、轜車にしたがって、今ここにまいりました。」

御父昭和天皇への今上天皇の「お言葉」である。万感胸に迫る。すばらしい口語文である。この『道』には「?殿」「殯宮」「斂葬の儀」「轜車」等の丁寧な註記がある。公共の図書館にはぜひ揃えておいてほしいと思う。

高等学校や中学校高学年の生徒には、御即位二十年記念の『道』第三章第一節「各国元首と共に」を読んでもらいたいとも思う。様々な人が登場して歴史の参考にもなるのではないか。

特に昭和天皇のご名代でスウェーデンをご訪問された際のお話は興味深い。スウェーデン国王ご夫妻と行かれたウプサラ大学では、オランダ商館の医師であったツンベリーの帰国後、彼にあてた中川淳庵と桂川甫周の手紙が大学の図書館で保存されているのをご覧になられたとある。

中川淳庵は杉田玄白らと「解体新書」を訳した蘭学の秀才である。また『北槎聞略』の桂川甫周は森銑三『オランダ正月』に詳しい。ロシアから帰還した大黒屋光太夫が幕府要人の質問に答え、ロシアでは「桂川甫周様中川淳庵様などいう方の名前を存じています」と述べたその場にいたのが桂川甫周その人であった。

これらは生徒たちに興味ある歴史を教えることになるのではないか。いや現今では無理か。GHQ占領憲法である日本国憲法では前文と第98条で(非民主的という理由によって)詔勅を排除した。公立学校で『道』を薦める教師はGHQ占領憲法違反ということになるのだろうか。

 

平成21年10月20日

神道指令そのものを文書で見つけることは意外にむつかしい。Web上にはいくつかあるが、引用となるとやはり書籍を探すしかない。図書館内をうろうろして結局『戦後日本教育史料集成』に掲載されていることが判明した。著名なウッダード『天皇と神道』にも全文はない。

日本図書センター『GHQ日本占領史』(全55巻別館1)の「21宗教」にも収録されていない。そういえば山本夏彦は平凡社の『世界大百科事典』(昭和30年初版)に触れ、「木口小平」「鑑札」そして「教育勅語」がなく以後使う気を失った、と記していた。

「私が百科事典にあいそをつかしたのは教育勅語のテキストが出ていなかったからである。教育勅語の項目はある。そこには教育勅語がいかに教育を害したかが書いてあるだけで、肝腎な勅語の原文が出ていない。原文は四百字に足りない短文である。」(「応酬」)

そして勅語の悪口を延々と書いて、ついにそのテキストをのせなかった根本の編集方針を難じている。いかにも戦後の本らしい編集方針である。 >

神道指令の条文は大原康男『神道指令の研究』にその全文が英文邦訳とも掲載されている。ただこの本も県立図書館以上の規模をもつところでなければ置いていないのではないか。今日これだけ靖国神社論争があっても、神道指令をさがすのに骨が折れる状況である。

『神道指令の研究』は神道指令の前後史ともいうべきものである。神道指令の条文そのものの研究ではない。なぜならここにもGHQが国家神道の「聖典」だと断定した教育勅語の研究がまったくないからである。

したがってGHQ民間情報教育局長のダイクや婦人教育担当のドノヴァンらが、なぜ教育勅語をもって世界征服思想と断定したかは検討されていない。彼らの文書はすでに公開されていたはずであるし、ここに彼らのいう超国家主義がある。教育勅語→超国家主義→国家神道→神道指令が一つの有力なラインを構成していると考えてよいのではないか。

国会図書館のインターネット検索では、神道指令そのものの研究発表は見当たらない。あるのは神道指令前後に起きた事柄をならべた著作ばかりである。衆寡適せず、これは山本夏彦がよく引用したものであるが、これだけ国家神道の「聖典」とされた教育勅語を無視した著作ばかりでは本当にやりようがない。

 

平成21年10月11日

某図書館の書庫に入る機会に恵まれた。全集ものなどで開架式の棚にないものが並んでいる。PCの検索では見つけにくいようなものもあって、時間を忘れる。日本大学精神文化研究所の『教育勅語関係資料』全15集などの閲覧にはもってこいである。これは非売品とある。

調べ物を済ませて他の棚を見ていたら『現代天皇と神道』というのがあった。(財)国際宗教研究所のシンポジウムを骨子としたものである。多くの宗教学者が文を寄せている。神道指令、人間宣言、日本国憲法と天皇を語ったものといってよいだろう。

しかし不思議なことに、GHQに勧告書を送った宗教学者ホルトムが国家神道の主な聖典だったとした教育勅語について、検証した人は一人もいない。当然GHQが教育勅語の何を問題にしたのかも説明されていない。

また『現代天皇と神道』は大喪の礼のあと、平成元年(1989年)三月開催のシンポジウムを基にしている。木下道雄『宮中見聞録』から20年以上も経っている。それでも現御神(止)を解説した「昭和二十一年元旦に発せられた新日本建設に関する詔書について一言」を参照にした発言もない。

したがって人間宣言についても宣命解釈という立場から検証されたものはない。木下道雄『側近日誌』は1990年6月の発行であるが、以上の話は『宮中見聞録』で充分説明し得るはずである。

(財)国際宗教研究所はGHQの宗教政策スタッフだった『天皇と神道』のウッダードの発議で設立されたという。占領当時の日本側協力者だった岸本英夫ものちに理事長を務めている。この二人同様、神道指令のもとになった超国家主義をふくむ国家神道については、このシンポジウムでもやはり解明できないままである。

将来の我が国において、詔勅学は構築されるだろうか。もしこのまま続紀の宣命や教育勅語、新日本建設に関する詔書の解釈がこのまま訂正されないとしたら、延々と不毛な政教論争が繰り返されるだろう。

 

平成21年9月25日

日本書紀の謎に関する本は面白いと述べたが、このサイトのテーマのひとつである現御神をキーワードに読むとさらに面白い。最近のものは書かれた時代をめぐる謎の本が少なくない。孝徳天皇紀などが対象とされている。ただ今のところ、そのことで歴史理解が進んだということはない。

河村秀根・益根著『書紀集解』と飯田武郷『日本書紀通釈』を眺めてみた。河村秀根は享保8年(1723年)の生まれ、本居宣長はその7年後、享保15年(1730年)の生まれである。実際には子息である益根がほとんどをまとめたようであるが、江戸時代の日本書紀解説書としては貴重である。

その書名も然ることながら、河村父子は「日本」という言葉が嫌いらしい。大化二年二月十五日の詔、「明神御宇倭根子天皇」を解説して倭の上にはもと日本の二文字があって、これは読み仮名が混じって入ったものであると述べている。それで本文では削除している。また明神の解説はない。

『日本書紀通釈』は明治二十二年から翌年にかけて出版されている。上の『書紀集解』を批判して「日本二字傍訓ざん(手篇に讒の旁)入として削れるは殊に私なり」と論じている。公式令には「明神御宇日本天皇詔旨」とあるから、やはり「日本」の削除は無理があるのではないか。

飯田武郷は御宇日本として日本をしろしめす倭の根子と訓むべしとしている。日本倭の根子と続けて訓むのは非だとしている。御宇は漢文で天下を統治する意があるから不自然ではないが、御大八洲との整合性がない。このあたりは日本書紀編纂者たちに「しろしめす」の統一理解がなかったというしかないようである。

それにしても現御神・明神を用いた文章の意を解説したものがないのはどうしたことだろう。天皇を神とする古代人の天皇観などとは文学の世界である。宣命解読とは別物である。現御神としてしろしめす、この意味が説明されなければ宣命解説の価値はないのではないか。

 

平成21年9月12日

宣命を調べるにあたって、もっとも利用度の高いのが錦正社『みことのり』である。手元において常に参考にしている。

活字というものについて、注意が必要であることを以前専門家から聞かされたことがある。ただ学者の翻刻などは本当に有難いもので、活字でなくては読むことが不可能なものが少なくない。ただし活字はやはり数冊を参考にする必要があるようだ。

『みことのり』の孝徳天皇紀、大化二年二月十五日の宣命では「明神御宇日本根子天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとねこすめらみこと)」となっている。「倭」がない。しかし本居宣長「国号考」では「明神御宇日本倭根子天皇」であって、「日本」と「倭」が重なることはないから「日本」は「やまと」ではなく「にほむ」だったとされているのである。井上光貞『日本書紀』などの原文も宣長と同じ「明神御宇日本倭根子天皇」である。

様々な写本があるから致し方ないことかもしれないが、これは「日本」という国号の最初の使用にかかわる話だから、看過できない。ここは『みことのり』の森清人先生もやや慎重さに欠けたのではないか。それとも別の意図があったのだろうか。

この孝徳天皇紀について、漢文に通じた外国人が書いたものに三宅臣藤麻呂が手を入れたとする説がある。森博達『日本書紀の謎を解く』では音韻学的な見地からα群β群というような分類をし、上のような結論を出している。

「現御神(止)」の正しい解釈を外国人ができたと断定しうる資料は見たことがない。したがって孝徳天皇紀の宣命を日本の知識人が書いたか手を入れたとすることには疑いの余地はないだろう。これは音韻学とは別に我が国の来歴を理解していれば分かることだと思うが、どうだろうか。α群β群の解説はむつかしくてよく分からないが、「現御神(止)」の正しい解釈から判断すれば当然の結論である。

「しろしめす」はまことに妙(たえ)なる言葉であって、「御宇」や「馭宇」のような支配のイメージはない。対象を我が物にしてコントロールするイメージはないのである。これはやはり外国人の安直な発想と考えるしかない。「所知」では含蓄に欠く。「所知」は「知っていること、知人」の意だからである。

日本書紀の謎に関する書物は読み物としては面白い。しかしなぜ孝徳天皇紀の宣命にはじめて「現御神(止)」が語られたのか、解説したものは見あたらない。畏れながら、孝徳天皇が「仏法(ほとけのみのり)を尊び、神道(かみのみち)を軽(あなづ)りたまふ」天皇であられたことが、その要因としてあるのではないか。

 

平成21年9月4日

天皇論は様々あるが、石井良助『天皇-天皇の生成および不親政の伝統』は戦後の典型的な著作のひとつだろう。「不親政の伝統」を歴史事実に基づいて語ったものだからである。以前、古書店で見つけたがやや高価だったのでなんとなく買いそびれた1冊である。今回図書館で読み直してみた。

前半の邪馬台国論は退屈である。支那の史書から推理した読み物だが、検証不可能の話だから学問的な価値はあまりないのではないか。不親政については読むべきところが少なくない。問題は孝徳天皇についてである。

「天皇の神格性がとくに強調されたのは、大化改新のときと、明治初年と昭和末期」の三度だと述べている。明治初年と昭和末期はわからないが、これらは復古だろうから大化改新のときが問題である。明神御宇日本天皇からの連想だろう。統一国家の威厳付与が天皇を「明神」と称することだったというのが著者の見解である。

仏法を尊び神道を軽んじられた天皇であると日本書紀にはある。しかし臣下が「まず神々を祭りしずめ」その後政治を議するのがよいでしょうと申し上げ、翌月には「天神の奉け寄したまひし随に(あまつかみのうけよさしたまひしままに)」国を治められることを天皇は宣べられたのである。

そうして孝徳天皇大化三年には「惟神とは」云々の有名な註が記載されている。ここまで読めば天皇=現御神でないことは明白である。ここが解読できていないので、明治初年も昭和末期も意味不明なこととなっているのである。石井良助『天皇』は昭和57年の出版だから昭和末期とは如何なる意味か。理解に苦しむ。

天皇に関する書物を読むときに、天皇=現御神だったとしているか否かはその著者の見識を知るリトマス試験紙である。宣命が解読できなければ日本書紀を解説しても誤謬が多くなる。

「改新の詔」には『紀』編纂者の改竄がある、ない、の論争があるらしい。木簡などから後に施行されたものが遡って記されているというのが、改竄説らしい。しかし、それはともかく、孝徳天皇紀になぜ「明神御宇」がはじめて用いられ「惟神」が説明されているのだろう。ここを解説した著作を見たことがない。

 

平成21年8月26日

駅前のシャッター通りで、時々一週間ほど古本屋が出張営業をする。規模は小さいがたまには面白いものもある。『國學院黎明期の群像』は図書館ではお目にかかれない。皇典講究所の歴史と人物が描かれている。

当サイトに出てくる小中村(池辺)義象は明治15年、東京帝大古典講習科国書課に学んだが、同期に落合直文・今泉定介らがいて、そのあとに佐々木信綱がいた。義象はのちに講師となるが、同じ明治15年に設立された皇典講究所には教師として義象の養父小中村清矩、そして本居豊頴、物集高見、久米幹文らがいたとある。

物集高見は前回書いたが、久米幹文が現御神止を理解できない学者だったことは「人間宣言異聞」に書いた。この水戸藩士の履歴にそう関心は高くないが、会沢安なども本居宣長とずれがある。こうして考えると水戸の学問は同じ国学でも異質のようだ。

『國學院黎明期の群像』の人物描写は、人数が多いせいかあまり読みごたえがない。購入には至らなかった。

掘り出し物といえば、当サイトの基本姿勢である反証法のカール・R・ポパー『歴史主義の貧困』が格安だったので購入した。昭和48年の第18版である。当時こんなに読まれて今は捏造話ばかりが闊歩しているとは信じがたいことである。以前どこかにあったのだが、もう探し出せない。

 

平成21年8月11日

学者の作業というものは大変なものだと思う。物集高見は幕末から昭和のはじめまで生きた国学者であるが、その子息、高量と共に『廣文庫』(こうぶんこ)を著した。様々なことについて、幅広く著書を紹介しその要点を記録したものである。我が国の文献を調べる際には本当にありがたい著作である。全20冊で他に索引がある。

ここに「あきつみかみ」があるから読んでみると、本居宣長「続紀歴朝詔詞解」「出雲国造神寿後釈」と伴信友「中外経緯伝」が引用されている。宣長の「現御神止」(あきつみかみと)の解説と、伴信友の「明神とハ、天皇を顕らかに、世におはします御神と崇み畏みて称す言なり」ではその意味が全く違う。

伴信友は平田篤胤と同じく、本居宣長没後の門人であるが師を正しく理解していたとは云えないのではないか。宣長は天皇=現御神とは述べていない。「現御神止」を「しろしめす」のいわば副詞だと言っているのである。また平田篤胤は一神教的な考えに傾き、禍津日神について師に異説を唱えている。ここに宣長と両者の決定的な違いがある。

本サイトでは遡って明治26年には天皇=現御神論があったと述べたが、やはり木下道雄のいうとおり、「近世に至って、この解釈に乱れを生じ」たというのは事実だろう。鈴木重胤もグレーというより伴信友に近い。

森銑三によれば伴信友と平田篤胤は最初もっとも親しい仲であったが、最後は絶交したとある。篤胤は俗物で信友は純学者であったとしている。信友は説くところ精密で、確証のない私見を発表しなかったそうである

それにしてもこれらの人たちはなぜ肝心なところで師を誤解したのだろう。これらの誤解を放置して本居・平田とくくってみたり、没後の門人などと言い続けるのは後の世の研究者のためによくないのではないか。

こうして考えると、本居宣長→井上毅(小中村義象)→木下道雄に至る人々だけがが正しく、あとは皆々誤解の人たちである。何ということか。この少ない中から井上毅が大日本帝国憲法や教育勅語の草案作成に深く関与したことはまったくの僥倖としか言いようがない。

ところで『廣文庫』は実に有用なものであるが、物集高見はただ上記を引用してその違いを説明していない。残念ながら「誤解の人たち」の一員であったというしかない。

伴信友「中外経緯伝」は『史籍集覧』にあって、我が国と支那・朝鮮・琉球・蝦夷との交流史ともいうべきものが記されており、したがってこの「中外」は「国の内外」である。念のため。

 

平成21年8月5日

久米邦武は「神道は祭天の古俗」によって帝国大学教授の立場を追われた学者であるが、岩倉使節団の一員として欧米を視察し『特命全権大使米欧回覧実記』の編者としても知られている。

「古代神道の重なる式」を例によって虫眼鏡で読んでみる。この中の「日本人は神と人との別なし」では「天子を神といふことは殆んど当今まで国民は天皇を諸神より尊いと信じて居た・・・場合によっては明神(あらがみ)の御宇と称へ、万葉集や宣命文などにも神と称へてある」とある。

文章は読みにくいが、久米邦武の誤りが明確に表現されている。「明神御宇」が「あきつみかみとあめのしたしろしめす」と読むことの意味が理解されていない。これは天皇統治の姿勢を意味するから、したがって天皇=神と称えているわけではない。「人間宣言異聞」に述べたが明神止の「止」を理解できなかったということだろう。

また「天神之子」という表現について、「天神之子が即ち姓氏録の天孫に当たり、又皇孫とも書いて「我すめ御孫」といひ、或は「神ながらの我御子」ともいひ、惟神我子と訳されたのもある(大化三年の詔文)」とあるのも不思議な文章である。

(大化三年の詔)
惟神(惟神とは神道に随ひて、亦自ら神道有るを謂ふなり)も我が子応治さむと故寄せき(あがみこしらさむとことよさせき)。是を以て天地の初より君と臨(しら)す国なり。

本居宣長『直毘霊』ではこの段を引用して、「神道(かみのみち)に随ふとは、天下(あめのした)治め賜ふ御しわざは、ただ神代より有こしまにまに物し賜ひて、いささかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ。」と明らかに天皇統治から解説している。

久米邦武を本居宣長と比較すれば、久米がいかに歴史的文脈から詔勅を解読するということができなかったかが判明する。「しらす」を理解できなかった典型的な学者だったのかもしれない。また「神道と君道」では「国家は一人に主権を託せざるべからず」とも述べている。明治41年に書かれたものとしては『憲法義解』に比べ大いに劣るというしかない。

明治という時代における知識人の実態を知るうえでは貴重な論者であるが、肝心要がこうでは根本的に信頼できる論者とはいえないようである。

 

平成21年7月26日

大正期の著名な論者に吉野作造がいる。『中央公論』等に幅広い論説を多く残し『吉野作造選集』全16巻がある。枢密院というものがどのように機能していたかを知る重要な論文がその第4集に残されている。

「枢密院と内閣」から要約して引用する。国務大臣は君主の詔命を奉じて大政の施行にあたるもので、詔命そのものの構成については干与し得るものではない。君主が如何なる詔命を発すべきやに付ては、別の輔翼機関が要ると云うことになる。これ即ち枢密院の設けられたる所以。

それが実際には枢密院の一挙一動が直に甚大の影響を内閣の運命に及ぼすようになり、枢密院は君主最高の顧問府たるは今やほとんど空名に属し、実は政府に対する一牽制機関となって了ったと述べている。

枢密院が次第にその範囲を逸脱して影響力のあったことがよく分かる。すでに大正期から『憲法義解』にあるような本来のあり方ではなくなっていたのだろう。こういう点は大いに参考になる。

ところで吉野作造の天皇観は非常に興味深い。『憲法義解』によれば「首相既に各相を左右すること能はず」であるから、吉野作造は「各大臣の上に立って最後の大方針を決定する地位に在るものは、制度上君主の外にはない。即ち君主親政の原則に拠ったものである」と述べているのである。

「蓋統治権を総攬するは主権の體なり。憲法の条規に依り之を行ふは主権の用なり。體有りて用無ければ之を専制に失ふ。用有りて體無ければ之を散漫に失ふ」という帝国憲法第4条に関する『憲法義解』の解説をどう理解したのだろう。この文章からは誤解を生むような君主親政という言葉は出てこない。

吉野作造は帝大を辞したあと、朝日新聞に入ってすぐに筆禍問題で追い出されている。要は所謂天皇中心主義と相容れざる立場だとされたのである。そして「孰れにしても所謂天皇中心の政治主義は、明治の初年から真面目な政治家からは排斥されて居たものである」と記している。

言葉尻だけでは矛盾しているようにも見える。そして今のところ吉野作造の「しらす」論は見つけられない。天皇の統治は「しらす」が語られなければやはり説明しきれないのではないか。

「政治に対する宗教の使命」では「立憲政治の美果は国民の宗教心の発露によりて結ばるるもの」だが、「余の云ふ宗教が基督教」を指すものであり、「断じて神道や仏教が主張する処の能力を政治の上に貢献するものとは思はない」と語っている。

吉野作造の国典について述べた価値ある論文は見当たらない。国典理解が十分でないからこんな乱暴な言葉が出てくるのではないか。

新渡戸稲造が「尊ぶべき伝統の宝庫として、また太古の伝説の最高の解釈者として、神道は保守主義の砦である」と語ったことと比較すれば、同じ基督者でもずい分ちがうものだと思わざるを得ない。吉野作造には井上毅のような天皇統治を正確に語った論文も見当たらない。

興味があるのは我が国基督者の国典理解である。そんな研究をしている人はいるのだろうか。

 

平成21年7月3日

超国家主義といえば引用されることの多いのが杉本五郎中佐著『大義』である。城山三郎の小説に「大義の末」というのがある。『大義』をめぐる復員兵の天皇制への葛藤の話である。

小説といえばそれまでだが、やはり城山三郎の昭和2年生まれということを考えさせられる。明治36年生まれの竹山道雄が『昭和の精神史』を著したことを思うと、あの戦争が何であったかということについて年代による大きな違いがあると言わざるを得ない。『昭和の精神史』は昭和31年(発表は前年)、「大義の末」は昭和34年の出版である。

終戦から10年後、すでに竹山道雄はあの時代を正確に描いている。現在でも修正するところのほとんど無いといってよい好著である。これに新たな発見を加えていけば、あの複雑な時代がよく理解できるだろう。竹山道雄は三田村武夫『戦争と共産主義』を大きな部分真理であったことは説得される、としている。

しかし「大義の末」では「誰も共産主義など知っている者はいなかった。一体アカは何を考えていたのだろうか」とあるが、獄中にいた共産党員だけを考えて軍人や官僚、政治家の中の共産主義者たちには思いが至らない。城山三郎の主人公は、あの日本の戦争がスターリンらの世界共産化に乗せられたものであったことにも関心がない。この違いには歴然としたものがある。

「大義の末」の主人公は『大義』がいったい何であったのかを顧みることはない。本当にあの文章を追及すれば『大義』の基盤が教育勅語にあることは一目瞭然である。しかも現人神思想や教育勅語「中外」の誤った解釈の上にあり、政党を否定する天皇御親政の考えであることも分かるのである。これは大日本帝国憲法と教育勅語に違背している。

戦後14年で「大義の末」のような認識では生き難い世の中でしかないだろう。すべてを失うと知りながら、戦前は『大義』に心酔していた主人公が、戦後、皇太子殿下の列に向かって「セガレ」と叫んでしまう最後の場面はそれを表している。

三田村武夫は明治32年生まれであって、内務省警保局勤務の経験がある。竹山道雄は終戦時42歳、城山三郎は18歳である。仕方がないとも言えるが、城山三郎の世代では戦後14年経ってもあの時代を客観的に把握できなかったというしかない。

 

平成21年6月24日

『美しい日本語』というオープンフォーラムに行ってから、国語について少し気になっていて文化庁『国語施策百年史』をめくってみた。

マッカーサーは「昭和20年10月22日から翌21年1月9日までに具体的な五つの指令を発した。一番目から四番目までがいわゆる「四大教育指令」と呼ばれるもので、日本の超国家主義的、軍国主義的な教育の一掃を求めたものであった」とある。ちなみに五番目は米国対日教育使節団の招聘の発表指令である。

「彼らの考えは、戦前に「国民精神の宿るところ」とみなした国語とその表記とを分けること、「漢字かなまじり文」の廃棄を求めるもの」であったという。これはポツダム宣言の第10条を根拠としている。

その条文。
日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし

国語問題に熱心だったのは、R・K・ホールである。彼は「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特権性によって情報はコントロールされ民主主義は広がらないと見ていた」とある。

超国家主義が何であるかを特定せず、神道指令や「四大教育指令」を発したGHQには大いに不満が残る。しかし超国家主義の正体は我が国知識人も分からなかったことである。これは痛恨事以外の何物でもない。

駐米公使で日本史家のサンソムが国語改革に反対してくれたが、未だに我が国ではホールの呪縛から脱出できていない。GHQに同調したローマ字論者や漢字廃止論者が我が国知識人に多かったことも悲劇であった。否、喜劇というべきか。

当サイトの目的のひとつは、この超国家主義的といわれたものの正体を明らかにすることである。ここを曖昧にしたままでは、伝統的な国語教育の議論や政教論争は不毛な議論に終始するのではないか。

 

平成21年6月14日

『美しい日本語』というオープンフォーラムに行ってみた。基調講演をされた方やパネリストの方々は雲の上の有名人ばかりであった。会場はほぼ満席で、盛況だったといってよいだろう。

基調講演では国語教育に関する三つのがん細胞がこの国の青少年の心を蝕んでいるとのことだった。①新仮名遣い ②漢字制限 ③古典教育からの解放、この三つががんであって、是正の必要があるとのことだった。つまり旧仮名遣ひを尊び、語源の分かる漢字を認め(臭→嗅)、文語文や漢文を教えることが重要だとの話であった。

戦後はたしかに古典教育からの解放とあって、古典を軽視してきたことは大きな間違いだったろう。ただし、①②が青少年の心を蝕んでいるとのことには実感がない。また文語文や漢文が美しい日本語といっても、講演者やパネリストの誰一人として教育勅語を正しく解釈できた人がいないのは滑稽でしかない。

鼻血を「はなじ」とし、「はなぢ」としなかったことは実に理不尽である。しかし教育勅語の「徳を樹つること深厚なり」の「徳」と「中外」の誤った解釈こそ、戦後の日本人を蝕んできたのではないか。GHQに「之を中外に施して悖らず」が世界征服思想といわれ、神道が貶められた。そして、徳育は混乱のままである。

国語教育に尽力されている方々ではあるが、なぜ外堀を埋めることばかりに注力し本丸に迫らないのだろう。そして功成り名を遂げた方々は自説に固執し今さら教育勅語解釈の見直しなどしないだろう。本当に我が国青少年の将来を思うなら、すでにそのことは行われていたはずである。

同じことの繰り返しではあるが、新たに「超国家主義論を読む」を書くことにした。丸山真男の超国家主義論などは正面から論駁しなければ意味がない。そのことに挑戦しようという訳である。

 

平成21年6月4日

古本市の散策は楽しみのひとつであるが、失敗もある。文庫本などは帰りの電車で読み始めて、もしやと思う。果たして帰宅すると同じものがある。前々回の古本市で購入を見合わせた稀覯本を再び見つけることがある。値は変わっておらず、旧知に会ったような感じがする。

『明治前半期のナショナリズム』という本を見つけ、中に源了圓「教育勅語の国家主義的解釈」というのがあったので立ち読みをした。源了圓という人の著述に接したのは初めてであるが、この論文は得るところのないものだった。『勅語衍義』を論じて教育勅語を論じていない典型的なものである。教育勅語の正しい解釈にはほど遠い。

梅渓昇の論文も掲載されているが、今となってはこれも取るに足らない「成立史」である。当然購入は見合わせた。古本市でいつも思うことは、文庫本はともかく、出されている本に代わり映えのないことである。やはり古書は神保町を歩くのが一番である。

思いのほか多く出ているのが皇室記者の本である。河原敏明『天皇裕仁の昭和史』があったのでめくってみると、1983年とある。昭和58年だから木下道雄『宮中見聞録』はすでに出版されている。しかし著者はまったく『宮中見聞録』を理解していないと言わざるを得ない。皇室記者が、戦前の天皇は現人神・現御神であり戦後は人間宣言をされた、などと書くのは浅はかである。あの詔書の意味がわからない証拠である。

薄い本で『末摘花』が無造作に置かれていた。解説のない小冊子だからあまり注目されていないが、やや滑稽な感じがしないでもない。御婦人が源氏物語の一帖かと手にしたらどんな顔をするだろう。

「蛤は初手赤貝は夜中なり」からはじまる『末摘花』には誹風とあったり川柳とあったりする。房事ばかりの句集だから誹風も川柳も少し違うような気がするが、とにかくそうなっている。これもめくればついつい読んでしまう類の本である。

石井研堂『明治事物起源』は図書館には大抵あるが、これはよくよく注意が必要である。教育勅語の渙発に山岡鉄太郎が関与したかもしれない話があるとしているが、これはあり得ない。時の文部大臣井上毅に建言とあるから間違いである。中村敬宇云々も参考にはならない。これは人伝に聞いたものを記しただけで事実に反しているといわざるを得ない。

ただしこの中に「闕畫」=欠画について面白いことが書いてある。「闕畫」とは「天子や父祖の生前の名と同じ文字を書くとき、はばかってその最後の一画を省くこと」(漢辞海)であるが、桓なら最後に書く一を省くことである。徳川慶喜のお触れ云々とあるが、その後はどうなったのだろう。

インターネットサイトに「超漢字」というのがあって、清の時代には欠画された文字が使われていたとある。またこの類に「平出」もあり、これは敬すべき名を次の行にあげて他の行と同じ高さにする、「平擡頭」と同じ意味かと思われる。一文字上げれば「単擡頭」二文字は「双擡頭」というらしい。

『憲法義解』にある「皇室典範および帝国憲法制定に関する御告文」は「平出」、つまり「「平擡頭」である。この後には御告文(ごこうもん)は見当たらないし、これらの決め事がいつどうなったかは分からない。

 

平成21年5月21日

国会図書館の検索システムで「国家神道」を入力すると、改訂版を含め全部で35冊がリストに出てくる。その内15冊は最近10年間の出版だから、いくらか研究が活発になってきたともいえる。「国家神道」は「神道」や「天皇」に関する著作でも多く論じられているが、そちらは膨大な数になる。

「国家神道」を論じたもので、日本国憲法に影響を与えた神道指令の「国家神道」を直接論じたものはそれほどない。ほとんどが幕末・明治維新から戦前までの、いわば我が国神社行政史というようなものである。

それらの本の終わりの章に近づくと、GHQによって解体された、とあるから混乱するのである。この種の本のなかにはGHQが解体の理由とした「国家神道」の教義に触れたものは見当たらない。教育勅語で「国家神道」の体制が確立されたといっても、教育勅語のどの部分が問題なのかを語ったものはない。あってもGHQとのずれがある。

「国家神道」本を大雑把に整理すると以下のようなことではないかと思う。まず、前提として神道指令というものがあった。 そこで、①一体我が国の宗教行政はどうなっていたかを研究したもの。②GHQの立場を再現したもの。③神道の側から考えた「国家神道」。④GHQと我が国要人の誤りを検証したもの、等々である。

①に属するものは宗教学の専門家の著作に多い。そしてGHQが問題にしたことを全く検討していないのが謎である。「国家神道」という用語を無理やり戦前の神社行政に求めても神道指令のそれとは一致しない。GHQとは別物の概念を考えているようである。したがって現在の政教問題とは直接結びつかない。

②はGHQと同じ物言いであるが、彼らが解明できなかった部分を自ら捏造して埋め合わせたものである。つまり事実に基づいていない。村上重良『国家神道』が典型である。GHQのダイクやドノヴァンらの語った意味を検討していないから、問題解決に至っていない。

③は葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』である。そこで語られているのは、むしろ「神道」は「国家神道」から疎外されていたという事実である。「神社非宗教」だったのだから正論である。この本の「十八 本史論試みの目的」にすべてがある。一部を「教育勅語の曲解」に置き換えれば、ほぼ言い尽くしている感がある。ただこの重要な一点だけが検討されなかったのは誠に残念である。

④は拙著『国家神道は生きている』のみである。GHQ及び我が国知識人の教育勅語の曲解を事実に基づいて指摘し、それを「国家神道」の思想だとしたものは外にない。この本のテーマは日本国憲法に影響した神道指令の「国家神道」を解明することが目的であるから、①とは目的が違うものである。

今後の政教論争においては、①や②を土台に研究しても先がないような気がしないでもない。③をベースにGHQ神道指令の「国家神道」を解明しない限り、政教分離の程度を論ずることのみに終始するだろう。ただ教育勅語に関心がない時代だから、望みは僅かしかないないことも事実である。

ところで先日、久しぶりに行った国会図書館で「国文学研究範囲の拡大について」-改元詔書、即位の宣命を論じて昭和二十年の詔書に及ぶ-という論文に遭遇した。丁寧かつ公正で正確な論文だった。最近ではめずらしいのではないか。愛知淑徳大学岩下紀之教授が『愛知淑徳大学国語国文』第31号に掲載されたものである。

井上毅は「国文の部 小言」において、「言霊の幸はふ国なり世の人はすへて国文の盛衰の国運に関係ありて等閑ならぬことを疑わす」と述べている。そして「あらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申すところのものである」と言ったのは「国を知らす」という言葉のことである。

祖国は国語といっても、それだけではよく分からない。やはりこの「国を知らす」の価値まで到達して、国文の「光焔を万丈に放つの力」(井上毅)となるのではないか。

先行研究に拘泥せず、国語国文の専門家があらたに詔勅を論ずるということに、僅かな望みがある。

 

平成21年5月6日

近くの大学図書館で国家神道に関連する紀要を手当たり次第に読んでみた時のことである。国家神道という言葉はGHQの独占用語ではなく、明治41年の第24回帝国議会で小田貫一なる衆議院議員がすでに使用していたというものがあった。執筆者や内容は詳しく憶えていない。

明治事物起源の類ならともかく宗教局関係の論文だったから、学者は大変だなと思うと同時に苦笑せざるを得なかった。国の神社行政を国家神道といってもおかしくはない。しかしその国家神道はまったく教義のないものであり、GHQが解体しようとしたそれとは全く違うものだったのである。

多くの著書にある八紘一宇について。
明治36年に田中智学が用いたとあっても、なぜそれに推進力がついたのかは説明されない。日本国民の圧倒的多くが田中智学の国柱会に属していたわけではないのに、この思想にたいする反対意見は、記録にあるものでは昭和15年2月2日斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」に八紘一宇の皇謨は理解し難いとあるのみである。

西田幾多郎・和辻哲郎以下、錚錚たる学者もみな八紘一宇を唱えている。いわば肇国の古伝とされているものに、なぜ2500年以上経って推進力がつき、反対意見が少なかったのか。思想傾向を問わず、肇国の大義、「之を中外に施して悖らず」である。なのに教育勅語解釈の研究はほとんどないし、あっても事実に基づいた正しい解釈ができていない。

古今中外という四字熟語について訂正したい。明治29年(1896年)に内藤耻叟が『教育勅語訓義』に「古今中外に於て」と用いている。梁啓超の日本への亡命は1898年だから、したがって彼は日本人の表現をそのまま利用したと考えて妥当である。

 

平成21年4月29日

井原西鶴は謎の人物である。『好色一代男』の世之介と西鶴はどうなっているのだろう。そのことが気になって、森銑三『井原西鶴』を読み直してみた。現在の西鶴研究については仔細を承知しない。

昨年は千年紀だというので、はじめて『源氏物語』を通読した。本当は本居宣長の紫文要領その他を読んでみたいのがきっかけだった。最初は退屈だった。しかしすぐに四六時中『源氏物語』となった。古語の味わいに引き込まれたといっていい。その『源氏物語』に並ぶとされる『好色一代男』はやはり本格的に読まないわけにはいかない。

「私の見解は従来の諸氏の研究と相容れず、明治以降5-60年間に出来上がった通説というものを遵奉して、その上に自己の研究を打立てようとしている人々からは不人気であるが、(中略)しかし現在の研究家諸氏に認められようと、認められまいと、それはどうでもいい。地下の西鶴に喜ばれようことを念願として、私は私の研究を進めて行こうとする」と森銑三は述べている。

かいつまんで言えば、『好色一代男』以外は団水その他が書いたとするのが森銑三の見解である。『諸艶大鑑』以下を西鶴関与作品とするのである。この綿密な考証には勇気づけられる。「通説を遵奉」する研究者たちがこの考証を無視し続けたことは周知のとおりである。

それにしても、木下道雄の『宮中見聞録』にある「昭和21年元旦に発せられた新日本建設に関する詔書について一言」が無視し続けられているのは悲劇である。この詔書については『側近日誌』にも詳細がある。しかし今日まで「人間宣言」などと謂って昭和天皇を貶めている。

昭和天皇を語る著作者たちは、現御神は一神教的なゴッドではないとして更に誤解を複雑にした。宣命に於ける「現御神止」の「止(と)」がついた文章を解説しない。これでは「現御神止」が「しろしめす」の副詞であると述べた木下道雄を無視していることになる。「みことのり」のなかに天皇が現御神であると宣言されたものはひとつも存在しない。

畏れ多くも、昭和天皇と木下道雄以外その真意を理解していた人は見当たらない。藤田尚徳『侍従長の回想』ですらあの詔書を理解していない証拠となっている。

あの詔書から63年、昭和天皇崩御から20年経って未だにあの詔書の正しい解釈が行われていない。「通説を遵奉」する著作者たちで溢れている。

 

平成21年4月16日

図書館の開架式の棚にある教育勅語の解説書は思うほど多くない。新刊書も少ないといってよいだろう。国会図書館を検索しても2000年以降で16冊である。教育勅語の解釈と近現代史のなかの位置づけがほぼ定まったと考えられているのではないかと思われる。

戦前のものは井上哲次郎『勅語衍義』をお手本とし、戦後は今日に至るまでこれに海後宗臣『教育勅語成立史の研究』と稲田正次『教育勅語成立過程の研究』が加わってくる。あとの二著は写真資料が貴重である。ただこれだけ資料があって、「徳」と「中外」解釈の誤りが訂正されていなのはむしろ驚きである。

一体に「思想史」「哲学史」の類を書いている人たちの「解釈」は理解できないものが少なくない。事実に反する言説をなしているものが散見されるのである。

調べた範囲でいうと、教育勅語を論じたもので「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「しらす」と解説したのは、拙著を除き八木公生『天皇と日本の近代 下』のみである。その点は評価すべきものである。しかし「中外」は「日本だけでなく外国にも」である。また「古今に伝えて」と「上下に伝えて」を同じ意味だとしている。文部勅語上奏案には「以て上下に推して」とあるからこれは間違いである。「君臣上下」の意識がないようだ。

この著書の後半はしどろもどろで辻褄合わせに苦労しているが、「中外」を誤ったままだから辻褄が合わないのである。また『天皇と日本の近代 上』は現人神に触れているが、そもそも宣命の読み方が違っているので現人神の解釈も誤っている。「徳」を「しらす」と解説しただけに残念である。

明治神宮では今も誤解されたままの教育勅語本が販売されている。明治大帝のお言葉を誤って解説し、御遺徳を穢していることに気が付いていない。まるで明治神宮が奉戴しているのは明治大帝の教育勅語ではなく、井上哲次郎の『勅語衍義』のようである。

 

平成21年4月11日

教育勅語にある古今と中外という言葉を四字熟語にして古今中外と用いる人がいる。古今東西と同じ意味で使われている。しかし中国の古典に本当にあるのかどうか、匿名某氏に質問をした。古今中外は古今東西の意で、故事来歴はないが用例はあるとのことだった。

漢和辞典をいろいろ調べても古今中外は見当たらなかったのだが、用例があるならその原文を確認する必要がある。そして教えていただいたのが、二つの用例である。

ひとつはジャーナリストで歴史学者の梁啓超の著した『意大利建国三傑伝』であり、もうひとつは茅盾という作家の『子夜』にあるという。前者は1873年生まれ、後者は1896年生まれである。そして梁啓超は1898年に、茅盾は1928年に日本へ亡命した経験を持つ。

教育勅語の渙発は1890年だからこれらの用例は問題外と判明した。「悖らざるべし」を『中庸』にあるからといって「悖らず」と改めた元田永孚や井上毅が参考にすることなどあり得ない。古今と中外を古今中外として、時間的空間的普遍性、などと解説する「古今」の著作者たちはこれらをどう解説するのだろう。

ちなみに梁啓超は和製漢語に関心の高かった人でもあるらしい。日本語の古今東西を古今中外という和製漢語に置き換えたのは、案外この辺りではないかと想像したくなる。教育勅語の古今と中外に影響を与えたはずもないことは、年代が証明している。

もし中国古典に「古今中外」があるなら、ぜひ知りたいものである。

 

平成21年4月5日

宣命の研究というものが現在大学等でどのようになっているかは知る由もない。近所の大学図書館で各大学の最近の紀要を眺めてみても、解釈に関する論文を見つけることはない。教育勅語や人間宣言などのこれまでの解釈に異論がないのだから、研究は無いに等しいのだろう。

まれに宣命とか現御神などの語があっても、論文の参考文献を読んだだけでほぼ内容が知れるのである。先行研究を研究し過ぎで、間違いの厚塗りとなっている感じである。人文系の若い研究者には職がかかってくることだから、指導教官が宣命のテーマを選択させないのかもしれない。

詔勅に関する参考書は図書館なら1冊や2冊はある。錦正社『みことのり』に解説はないが、村上重良『近代詔勅集』、真藤建志郎『資料「天皇詔勅」選集』は語義説明もある。しかし、教育勅語の解説はやはり誤りである。今後新しい詔勅の解説本は出るのだろうか。

本居宣長が「続紀歴朝詔詞解」を書いたくらいだから、解説本は意義のあることだと思っても採算がとれるものではないのだろう。そうだとしたら、宮内庁書陵部で出版されないものだろうか。これだけの宣命があって本格的な解説本がないというのは理解しがたいことである。

「人間宣言を出すべき者は、現人神だと言い出した者であっても、現人神だと言われた者ではないはずである」と述べたのは山本七平である。そして「だが奇妙なことに現人神だと言い出した人間を追及しようというものはいない。もっとも追及してもおそらく無駄である。それは例によって「空気」の仕業だから。天皇制とはまさに典型的な「空気支配」の体制だからである」という。

明治以降のいかなる記録を調べても、天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言は出したことがない、と述べながら、「空気」でことを解決しようとするのは怠慢であって、思考停止としか思えない。もともと宣命に自らを現人神と宣言されたものはひとつもない。

「空気の研究」はいまでも読まれる日本人論であるが、現人神については、天皇制云々については、事実に立脚していない。もちろん一つの読み物だからどうということもないが、当時はかなり話題になった本だから気になるのである。もうそろそろ「空気」論は卒業すべきではないか。

 

平成21年3月23日

「教育勅語異聞」と「人間宣言異聞」の趣旨は、それぞれ平成19年(2007年)と平成20年(2008年)に「人形町サロン-黒岩政経研究所」のサイトに掲載していただいたものと同じである。教育勅語については「『勅語衍義』を批判する」、人間宣言については「「人間宣言」と謂う誤り-新「現御神」考-」というタイトルであった。

「教育勅語異聞」は「『勅語衍義』を批判する」とは違う視点からのものであり、「人間宣言異聞」は「「人間宣言」と謂う誤り-新「現御神」考-」に加筆・修正をしたものである。

教育勅語については渙発の翌年、明治24年(1891年)に『勅語衍義』が発行されているから以来116年経っていた。また、人間宣言については昭和43年(1968年)の木下道雄『宮中見聞録』以来だから40年である。それほど月日が経って、これらの解釈を見直そうとした著作は見当たらない。信じられないが事実である。

教育勅語の成立に関する著作で著名なものに、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』及び稲田正次『教育勅語成立過程の研究』がある。どちらも解釈の根拠となる勅語の草稿を写真に撮ったものが掲載されている。『勅語衍義』の誤りを示すものが厳然と存在する。

また後者には『勅語衍義』が井上毅文部大臣によって小学校修身書「検定不許」となったことも記されている。しかしそれ以上の追求は見られない。「高尚に過ぎる」とはいえ、天覧に供したものを「不許」とした事実は重い。

彼らが教育勅語の「成立史」や「成立過程」にしか興味がないというより、井上毅があれほど書き残した「しらす」ということについて触れていないことが不思議である。その君徳は「日本国家学開巻第一に説くべき定論」と井上毅が述べているのだから、大日本帝国憲法第一条と教育勅語に反映されていると考えない方が異様である。

「人形町サロン」が一時休刊となったのはまことに残念である。あの種のサロンは他に探しても見つからない。そこでWeb上に自分なりの小さなライブラリーをと考えたのがこのサイトの次第である。

 

平成21年3月1日

【雉子の巣】は事実の吟味をもとに歴史のキーワードを読み解こうとするサイトであるから、議論よりも事実による反証法を旨とする。表紙に掲げたポパーの『歴史主義の貧困』にある言葉は重い。支持する事実だけではご都合主義となる。反する事実による検証はやはり理論・解釈の信憑性を吟味する最善の方法だろう。

念のため書き添えればポパーのいう歴史主義とは歴史(法則)主義である。歴史がある一定の法則に則って進行するという考え方への批判である。歴史哲学への批判である。

誤解が角質化されたまま現実が動くということは致し方ない。歴史は受け入れるしかなく現実に目をつぶっても何も解決しない。ただ重要な歴史のキーワードにたいする意味不明な解釈に翻弄され続けるのは如何なものかと思う。

「戦争過程に於ては日ソ支結合にて米英に対抗せんとしたこともある」とは東條英機の弁である。そして「自由主義は共産主義よりも可なりである」と結論付けた。これは平成19年に出版された『新編靖国問題資料集』にある。国会図書館の編集である。つまり大東亜共栄圏とは大東亜「共産圏」だといっても間違いではない。これが事実だろう。

この事実がわかって、あの戦争の不可解な部分がかなり明らかとなる。三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』あるいは中川八洋『大東亜戦争と開戦責任』は米英と戦ったあの戦争が「共産化への道」であったことを強調している。そうではないとしたら、事実である東條英機のこの弁はどう考えたらよいのだろうか。

これを含め、あの戦争が「共産化への道」の要素が強かったことは上記二著にいやというほど記されている。否定できない事実ばかりである。