異聞草紙30(by 佐藤雉鳴さとうちめい

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平成30年8月16日

「詔勅の昭和精神史」第九回を掲載します。タイトルは「皇室典範と「みことのり」」です。 なお第八回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年8月6日

「詔勅の昭和精神史」第八回を掲載します。タイトルは「「女帝」と「みことのり」」です。 なお第七回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年7月26日

「詔勅の昭和精神史」第七回を掲載します。タイトルは「「昭和史」を読む」です。 なお第六回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年7月20日

「詔勅の昭和精神史」第六回を掲載します。タイトルは「西田幾多郎「世界新秩序の原理」」です。 なお第五回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年7月10日

「詔勅の昭和精神史」第五回を掲載します。タイトルは「丸山真男「超国家主義の論理と心理」」です。 なお第四回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年6月20日

「詔勅の昭和精神史」第四回を掲載します。タイトルは「昭和戦前と「昭和天皇独白録」」です。 なお第三回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年6月2日

「詔勅の昭和精神史」第三回を掲載します。タイトルは「「人間宣言」と即位の宣命」です。 今日まで「人間宣言」は正しく解釈されていません。これは六国史の宣命を解読していないことが原因です。ここを解明しない限り、問題は解決しません。 なお第二回までの内容は「史談録」に収載しました。

 

平成30年5月21日

「詔勅の昭和精神史」を掲載しています。

第一回「戦争スローガンと「みことのり」」
第二回「靖国神社と教育勅語」

昭和の精神史は「みことのり」の曲解を無視して語ることはできません。ポツダム宣言第六項、神道指令、公職追放令などは詔勅の解釈が重要なポイントです。この講演会記録では 質疑応答を含め、その辺りを詳細に説明したいと思います。

これらは順次「史談録」「詔勅の昭和精神史」に収載していきます。

 

平成30年1月8日

新年が明けて、教育勅語の解釈に関するブログが公開された。「オノコロ こころ定めて」でタイトルは「教育勅語の曲解を正そう--発布直後から国をあげての曲解。井上毅に戻り当たり前の解釈を取り戻そう」となっている。

戦前には300百冊以上あった教育勅語の解説本だが、まともな解釈をしたものは一冊も存在しない。たとえば「之を古今に通じて謬らず」の「之」は目的語だが、その通り解釈した本は見つけられない。

また「之を中外に施して悖らず」も同様である。誰が「施し」たのか、明確に語った著述もないようだ。当然ながら「樹徳深厚」の「徳」も徳目として、意味不明な解説が多い。

その点でいえば、「オノコロ こころ定めて」は「国体の精華」を正しく解説しているから、上記のような誤りがない。最近では出色の解説といってよい。あるいははじめての有意義な解説かもしれない。

同ブログは「オノコロこころ定めて」2018/1/4
新年早々から清々しい文章が読めることは幸せである。

 

平成29年12月16日

明治維新は様々語られてきた。しかしなぜ幕府が弱体化したのかは、案外わかりにくい。関連の書物を読めば、その原因の一つは田沼意次の時代に遡る。

田沼意次は印旛沼の開発など、様々な事業を行ったが、結果は失敗だった。そして天明の飢饉などで苦しんだ。各地で幕府に不満を持った人たちの一揆が発生し、これもうまく収められたとは言えない。

そこで幕府の実力者となったのが松平定信で、寛政の改革を行った。田沼政治の後始末といっていい改革だった。やや厳しすぎた感もあるが、問題は定信の政治観である。

いわゆる大政委任論は本居宣長の「玉くしげ(秘本玉くしげ)」にその詳細がある。これは天皇から将軍そして各大名へと大政を委任されているのが、我が国の政治であるとの見解である。

紀伊徳川家の藩主治貞に奉上した一書であるが、定信にも伝わっていたと読んだことがある(残念ながら出典を失念した)。この大政委任論が明治維新まで影響を与えたと考えるのは、そう不自然ではない。

 

平成29年11月24日

雄山閣から出された、飯倉晴武『明治以前 天皇文書の調べ方・読み方』は、同社の古文書入門叢書7である。昭和62年の発行。

明治以前というから、当然、奈良時代の文書から始まる。そしてその解説の最初は「詔書」。お決まりのように「公式令による様式」が語られている。しかしこの解説は、解説として不十分というか、誤りに満ちている。

つまり「現御神御宇」「明神御大八洲」の意味が解説されていないのである。臨時の大事は詔で、尋常の小事には勅というのはその通りだが、肝心の「現御神御宇」の解説がない。

「現御神御宇」は「あきつみかみと あめのしたしろしめす」である。飯倉本では「Cの現神は「あきつみかみ」と読み」だけである。しかし原文には「アキツミカミト」とルビがある。

つまり著者は「現御神」が必ず「あきつみかみと」と読まれ、「しろしめす」を修飾していることを理解していないということになる。これが昭和62年版だから呆れるしかない。人文系は衰退するのみである。

 

平成29年10月18日

第51代の平城天皇から第77代の後白河天皇まで、27名の天皇。西暦でいえば806年から1156年。このうち、藤原氏を母とする天皇は25名で、第59代宇多天皇と第71代後三条天皇が例外だった。

藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだのは、1018年とされる。第66代一条天皇に女(むすめ)の彰子を、第67代三条天皇には同じく妍子を入内させた道長が、第68代後一条天皇に威子を入内させた頃である。

主に藤原氏が天皇の外祖父として政治に介入した、これがいわゆる摂関政治である。これに対し、皇親政治(天皇と皇族による政治)や武家政治なども言われるが、やや曖昧な用語ではある。

つまり、皇親政治と言っても有力な臣下がなくて行政の執行は無理である。また摂関政治という言葉そのものが、天皇の権威を前提にしているからである。

さらには武家政治。信長ですら綸旨に頼って武田氏を追い込んだ。また孝明天皇は京都所司代を通じて、幕府に対し外交政策に関するコメントをされた。貴族も武家も、天皇を除いた政治などあり得ないということだろう。

 

平成29年10月12日

後白河上皇は66歳で崩御したが、天皇としての在位は3年間だった。皇位は二条天皇そしてその皇子、つまり皇孫の六条天皇、そして二条天皇の異母弟である高倉天皇、その皇子である安徳天皇、さらにはその異母弟の後鳥羽天皇に継承された。

上皇となって院政を行ったが、このうち二条天皇以外はみな幼少での即位である。したがって後白河上皇が明らかに院政を目指したと考えて不自然ではない。さて二条天皇は16歳での即位であった。この場合はどうなのか。

後白河天皇の在位は3年間だから、実質的に摂関政治を排除したとすれば、院政の狙いはあったと想像できる。

この裏付けとして「太上天皇(後白河上皇:筆者注)朝にのぞませ給ふつねのことなるに(二条天皇の:筆者注)御心にもかなはせ給はず、世のみだれなをさせ給ふ程といひながらあまりにはべりけるにや」との文章が『今鏡』にある。

後白河天皇の時代は、藤原氏の勢力が衰退して、内紛に武士の介入を許す時代でもあった。保元の乱がそれである。

 

平成29年10月6日

皇位継承については様々な形に分類し得る。一般的には天皇の崩御に伴って、皇太子に皇位は継承される。つまり践祚である。この後、即位式が行われる。

天皇が存命のまま皇位の継承が行われるのを、譲位という。持統天皇は太上天皇つまり上皇となり、孫の珂瑠皇子が即位した。文武天皇である。持統天皇がはじめての太上天皇とされる。

さて譲位の中でも、中継ぎと言われる女性天皇からの譲位がある。文武天皇から聖武天皇までの、元明天皇・元正天皇が典型的な例である。また、天皇の健康上の理由から譲位が行われた例がある。

元明天皇の譲位は、その詔にある通り、健康上の理由もあげられる。清和天皇の譲位の詔にも健康上の理由が記されている。さらに譲位には院政のためのものがある。

後白河上皇の時代。即位年齢が2・8・3歳の天皇が存在した。幼少の天皇だから、院政を考えた譲位と考えて不自然ではない。保元の乱の後だから、摂政の藤原氏の勢力は衰えていた。加えて政争による譲位もあったが、理由は重なっていることも少なくない。

 

平成29年9月23日

政教分離。これについても、当サイトの追究するところである。昭和20年12月15日のGHQ神道指令から今日まで、我が国の政教関係は混迷し続けている。しかし全体として、解明の気運すら見られない。

たとえばカトリック中央協議会が出版した『信教の自由と政教分離』。国家神道や神道指令を論じているが、前提に客観性を欠いているから、全体として信憑性に疑問が残る。

「日本国憲法で政教分離の原則が規定されたのは、明治以降十五年戦争まで国家神道が国民精神統一のために国家祭祀や皇室の儀礼と結びつき、仏教、キリスト教、教派神道などには完全な信教の自由をあたえなかったためであると言えます」

この「明治以降十五年戦争まで国家神道が」云々の根拠も分り易い。たとえば村上重良『国家神道』には、次の文章がある。
「明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした」

また岸本英夫「嵐の中の神社神道」の文章。
「そしてかようないわゆる国家神道は単なる宗教ではないとして、キリスト教や仏教と区別され、国民はめいめいの信仰のいかんに拘らず神社には崇敬の誠をつくすべきものとされたのである。この状態は明治維新からこの度の終戦まで約八十年間続いた」
『信教の自由と政教分離』はこれらの受け売りだと、容易に推測できる。

 

平成29年9月18日

再び昭和精神史について。久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』は1956年。ここで久野収は「日本の超国家主義-昭和維新の思想」において、顕教と密教で昭和戦前のいわば国民感情を整理した。

顕教は天皇を絶対君主とする見方であり、密教は機関説的天皇を基礎とする見方ということである。そしてそれぞれは、教育勅語と帝国憲法を代表的なテキストとする。

一方、竹山道雄『昭和の精神史』は1965年。ここでは統帥権的天皇制と機関説的天皇制で分類されている。

久野収と竹山道雄は立場が異なるようだが、顕教は統帥権的天皇制、密教は機関説的天皇制とほぼ同様な分類と考えていいのではないか。ただし久野収は、国体明徴運動で密教が征伐され、顕教が表面化したという。

しかしこの見解ならば、顕教の基礎は教育勅語と国体明徴運動、つまり文部省「国体の本義」ということになる。教育勅語と「国体の本義」がそもそも逆接の関係にあることは、当サイトで繰り返し主張しているところである。この解明こそ昭和精神史のテーマである。

 

平成29年9月5日

日露戦争以降の、日本及び日本人を語った著作は数多ある。なかでも桶谷秀昭『昭和精神史』と竹山道雄『昭和の精神史』が著名である。

まず桶谷秀昭『昭和精神史』であるが、戦後における典型的な「精神史」といっていい。つまり昭和戦前における神憑り的な言説などを、ただ羅列しただけの著作となっている。

およそ精神史なら、その時代に特徴的な文言がどのように生成され、何が流布の推進力となったのか、この分析が必須である。しかし『昭和精神史』は見事に両方を欠いている。

そして竹山道雄『昭和の精神史』は天皇機関説事件や二・二六事件そして国体明徴声明、文部省『国体の本義』を語って昭和戦前がよく分る。しかしながら、教育勅語には一言も触れていない。

鈴木貫太郎首相の施政方針演説には「中外に施して悖らざる国是の遂行」とあった。これは教育勅語の一節であり、その最解釈が『国体の本義』とも言われたのである。このカラクリを分析していなのは、やはり竹山道雄の限界と考えるしかない。

 

平成29年8月28日

昭和10年の天皇機関説事件。昭和史の重要なポイントの一つであるが、これも唐突に始まったことではない。時系列で整理すると、その前年の昭和9年10月10日に発表された陸軍省新聞班「国防の本義と其強化の提唱」が起点と言える。

これに対し同年11月、美濃部達吉が批判した。「陸軍省発表の国防論を読む」である。「国家既定の方針を無視し、真に挙国一致の聖趣にも違背す」これが陸軍の怨嗟を受けたとされている。

昭和10年2月18日、貴族院において菊池武夫が美濃部達吉を批判して、天皇機関説事件がはじまった。そして迫られた岡田内閣は国体明徴声明を出した。これにも要求はエスカレートし、第一次第二次の声明がある。

昭和11年は二・二六事件だが、渡辺錠太郎教育総監の殺害理由として、総監が天皇機関説論者だったことがある。さらに昭和12年、文部省は「国体の本義」」を発表したが、これは国体明徴声明の延長線上のものである。

さて問題は「国体」観念である。天皇機関説論争は憲法論議であったが、一方では国体が論議された。昭和12年11月文部省『八紘一宇の精神』である。
「(この精神は)中外に施して悖らず、古今に通じて謬らざる天地の大道である」

 

平成29年8月25日

八紘一宇。この用語は少なくとも大正11年には田中智学が『日本国体の研究』に使用している。おそらく初出はさらに遡ると思われるが、そのことはいま問題にしない。

「神武天皇の世界統一は、「八紘一宇」といふことと、「六合一都」といふことで言ひ現はされた」これが田中智学の八紘一宇である。そしてこの「世界」とは何かが問題となる。

ところで昭和における天皇機関説事件は昭和10年。ここから国体明徴が叫ばれ、岡田内閣は同年、二次にわたって国体明徴声明を発表することとなった。要するに天皇機関説排撃論である。

これは詰まる所、帝国憲法論議でもあった。しかし実は、国体明徴運動即ち天皇機関説排撃のみでは無かった事実が重要である。つまり国体とは何かが問題となったのである。

国体から八紘一宇、そして記紀を基礎に「建国の大義」「肇国の大義」が語られた。それが証拠に「建国の大義」「肇国の大義」で検索すると、関連著作は昭和10年代からが圧倒的である。なぜこうなったのか。

 

平成29年8月4日

日本国憲法の制定、つまり帝国憲法の改正に関し、興味深い資料がある。江藤淳編『占領史録』である。ここにGHQ民生局次長ケーディスのコメントがある。

「その際ウイトニイ准将は当時の吉田外相及び松本博士に対して、マ元帥は現行憲法は根本的に改正せらるべきこと、而もそれは左の方に急傾斜すべきもの(sharp swing to the left)でなければならないと考へてゐる旨を伝へた」

「松本案は、要するに、現行憲法を美濃部機関説に副ふ如く改正せんとするものであった」さて、ケーディスの帝国憲法観は反・天皇機関説である。もう少し具体的なコメントもある。

「新憲法評釈を出されることは一向差支へないが、恰も現行憲法に対する伊藤公の「憲法義解」が現行憲法の意味を歪曲してゐる如く、新憲法に対する同様の起案者の評釈が如何に新憲法の解釈に関する権威ある解釈となるかを考へ、不安の念を抱かざるを得ない」

つまりケーディスによれば、帝国憲法と文部省「国体の本義」は順接の関係である。しかし事実は帝国憲法・『憲法義解』と「国体の本義」は逆接である。この解明こそ憲法論の基礎だろうと思う。

 

平成29年7月18日

五畿七道の七道は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道である。このよみかたが本居宣長『玉勝間』にある。東海道は「ウチヘツミチ」「ウヘツアチ」「ヒウガシノウミノミチ」。

西宮記には「ウチベツミチ」とあって、写しあやまりと宣長は記しているが、「海辺つ道(うみべつみち)」だという。また「ウベツアチ」は「うみべのみを省きたるにて」だとする。

「アチは、即チ道也」。書紀の訓にも「ミをも、アと書ること」があるという。北山抄にあるよみを、宣長は正しいと評したが、後の世に書かれたものにはまがい物が少なくないようだ。

東山道は「ヤマノミチ」北陸道は「クルガ道」「キタノ道」である。山陰道は「ソトモノミチ」山陽道は「カゲトモノミチ」だが、「背向(そとも)」は北、「影面(かげとも)」は南だという。

南海道・西海道はそれぞれ「ミナミノミチ」「ニシノミチ」である。ところで畿内は「ウチツクニ」だが、ここに挙げた七道の訓も書紀にあるという。

 

平成29年7月8日

中国という呼称について。おそらくは中共中国を嫌う気分からかと思うが、中国とは戦後の言い方だとする人たちがいる。これは政治的発言であって歴史的検証ではないと思われる。

その証拠として、まず会沢安の『新論』
「是を以て中国及び満清を除く外、自ら号して至尊と称するもの、曰く莫臥兒、曰く百兒西、曰く度爾格、曰く熱馬、曰く鄂羅なり」

『新論』は1825年(文政8年)。莫臥兒はモンゴル、百兒西はペルシャ、度爾格はトルコ、熱馬はゼルマニア、鄂羅はロシアである。そしてこの前には本居宣長『玉勝間』がある。

「もろこしの国を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇国のことなるを、しかいふをばつたなしとして、中華中国などいふを、かしこきことと心得たるひがことは、馭戎慨言に(云々)」

『玉勝間』は1811年(文化8年)。つまり江戸後期には中国という呼称があったということになる。これが厳然たる歴史の事実。

 

平成29年6月28日

祝詞には現御神(明御神)が記されている。延喜式などに遺されている「中臣寿詞」の冒頭にも「現御神止大八嶋国所知食須大倭根子天皇我御前仁」とある。

本居宣長『玉勝間』によれば、「あきつみかみと おおやしまぐにしろしめす おおやまとねこすめらが みまえに」と読む。その天皇の前で「天神を称える寿詞」を述べる。

この「現御神と」は「しろしめす」を修飾している。ゆえに「祖先(神々)の叡智に遵って、大八嶋国をご統治されている天皇」の意味となる。それで、その統治を「事依さし=ご委任」された神々を称えるのである。

また「出雲国造神賀詞」の後段には「明御神(能)大八嶋国」がある。「明御神の大八嶋国」だから「天皇=明御神」と解釈したくなる。しかしその前には「明御神(止)大八嶋国所知食(須)天皇命」が二箇所に記されている。

「明御神と大八嶋国しろしめす天皇のみこと」、これも中臣寿詞と同様に「天皇=現御神」ではない。「明御神の大八嶋国」は省略の表現と解釈して自然である。

 

平成29年6月15日

異聞論集に「西田幾多郎「世界新秩序の原理」の構造」を掲載しました。

すでに戦後も70年が過ぎました。今回は昭和史の論者らが、戦前から被占領期における特徴的な事柄について、どの様な評価をしているか、その辺りをお話ししたいと思います。西田幾多郎「世界新秩序の原理」の検証です。

いまここに、『占領下日本』(2009年)そして『戦後日本の「独立」』(2013年)があります。いずれも筑摩書房から発行されました。昭和史関連の著述が多い、半藤一利・竹内修司・保阪正康・松本健一という方々の座談会記録です。これらを参考に、今日の「昭和史」を眺めてみたいと思います。

 

平成29年6月14日

平成28年暮れに他界した渡辺和子さんは、ノートルダム清心学園の理事長だった方。2・26事件の犠牲者となった教育総監・渡辺錠太郎を父に持つ。

父が第七師団長の時代に旭川で出生された。旭川には常磐公園があるが、その公園碑は渡辺錠太郎が揮毫した。ただ近所には常盤という地名があって、「常磐」と「常盤」の違いが話題になったこともある。

コラムニストの山本夏彦が2・26事件に触れた。子細を書く余裕がなかったのか、あとで子孫の方からなぜ殺されたのかと、問われたという。

2・26事件の主犯の一人だった磯部浅一は、渡辺錠太郎を天皇機関説のご本尊と書いているから、それが原因だと分る。要するに2・26事件は反帝国憲法の行為だった。

事件の時、和子さんは9歳で、1mの目の前で父が殺害された。想像を絶する場面としか言いようがない。そしてこれは阿閉皇女(元明天皇)における壬申の乱にも言えることである。それが「不改常典」の基礎となっている。

 

平成29年6月4日

大正時代が昭和戦前を生んだ、これは歴史の事実が証明していると思う。まず、昭和5年の統帥権干犯論。これは帝国憲法における軍政と軍令の問題だったが、大正元年の上原勇作陸軍大臣の帷幄上奏による辞任が一つの基礎となっている。これは5月28日に記したところ。

大正時代は、さらにシベリア出兵もあった。この整理がつかないまま、昭和での満州国建設となって常任理事国だった我が国は国際連盟を脱退した。以後は世界を相手の戦争となった。

1911年、辛亥革命・清朝滅亡
1912年、宣統帝・愛新覚羅溥儀は紫禁城へ
1914年、第一次世界大戦
1917年、ロシア革命(2月・10月)
1918年、8月シベリア出兵
1918年、11月第一次世界大戦終結
1920年、1月国際連盟発足
1922年、10月シベリアから撤兵
1922年、12月ソ連成立
1925年、日本のソ連承認

つまり、1920年の国際連盟発足までなら、満州国建設も国際的な批判はなかった可能性がある。しかし当時の日本政府は、この世界戦略を欠いていた。1920年以降の満州国建設は成功するはずがない。

軍政と軍令の区別と憲法解釈。世界戦略の欠如。それに加えて、明治末年から大正元年・2年にわたって行われた天皇機関説論議。昭和戦前はまさに大正時代の落とし子であった。

 

平成29年5月28日

昭和に起きた統帥権干犯論。昭和5年、海軍のロンドン軍縮条約をめぐって論争となったテーマである。海軍内部ではいわゆる「条約派」と「艦隊派」の対立とされた。そしてこれは大きな政争となった。

これを考えると、実は大正政変にたどり着く。組閣にあたって、上原勇作陸軍大臣が帷幄上奏をして辞任した件である。軍の人事が軍令に属するか軍政に属するか、これが問題のポイント。

帝国憲法第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」また第12条は「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」、さらに第13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」である。

つまり第11条は軍令であって参謀総長や軍令部長、第12条は軍政であるから軍部大臣、そして第13条の国際条約は外務大臣が輔弼するということだろう。

もしそうでないとすれば、軍部大臣と参謀総長・軍令部長の役割分担、そして外務大臣の職掌があいまいとなる。軍の編成(人事・予算)が軍令事項なら、国会の予算編成は無意味となり、組織とも不整合となる。

 

平成29年5月20日

大正政変が勅語の問題だったことはすでに書いた。明治の時代に詔勅の定めはあったものの、勅語の規定はなかった。それが桂太郎首相時代の、齋藤実海軍大臣への優諚として政治問題化した。

この勅語には、当然ながら大臣の副署は記されていない。勅語については明治19年の公文式、22年の帝国憲法そして明治40年の公式令にも記載がない。すべて詔書と勅書、つまり文書の規程であった。

そしてこの勅語問題は昭和3年にも発生している。時の総理大臣は田中義一。選挙がらみで内務大臣が辞任した。後任に逓信大臣をあてたが、さらにその後任に田中の同郷人・久原房之助を推した。

これに反対した文部大臣の水野錬太郎は憤慨して田中に辞表を提出。ところが水野は、久原の親任式直後に、優諚があって辞表を撤回したと声明を発表したのである。

これが政治利用と批判されて、結局水野大臣は辞任した。しかし昭和政変とは語られていない。これは大正政変が勅語の問題であり、公式令などに無い事項の問題だったことが検証されていないからだと考えられる。

 

平成29年5月10日

教育史学会から「「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)の教材使用に関する表明について」がホームページに掲載されたのは29年5月8日。

教育史学会が何を主張されても自由だと思うが、誤りが多い表明である。「教育史学会では、多くの会員が教育勅語の内容、儀式及び社会的影響等を長年にわたって研究し、その成果を蓄積してきた」

しかし教育勅語の正しい解釈、つまり草案作成者の井上毅や元田永孚の資料を無視した解釈では議論にならない。教育史学会の関係者から、この史実に忠実な解釈は読んだことがない。

「第一に、教育勅語が戦前日本の教育を天皇による国民(臣民)支配の主たる手段とされた事実である」
「第二に、学校現場での教育勅語の取り扱われ方に関する事実である」
「第三に、教育勅語が民族的優越感の「根拠」とされるとともに、異民族支配の道具としても用いられた事実である」

上記の何れもが、教育勅語に対する知見を欠いている。教育勅語のどの文章が問題なのか。
「教育勅語に記述された徳目が一体性を有して「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂することは、その文面を読めば明らかである」
これはGHQが問題にした文章ではない。
まして「実際のところとても「中外」(国の内外)に広く受け入れられるようなものではなかった」とあるから、手に負えない誤読である。

 

平成29年4月27日

今上陛下の「お気持ち」表明。その内容については様々な見解が報道されている。ただこの「お気持ち」は大臣の副署もなければ官報への記載もないものである。

むろん日本国憲法に新たな詔書・勅書の定めは存在しないから、「お言葉」はそのまま「お言葉」とされている。要するに政治的意味合いは無いとということである。

では、平成28年8月の「お気持ち」表明は、どう受け止めるべきか。報道では「天皇は政治的権能を有しない」として、憲法違反が考えられるとする見解もある。

しかしこれはそう単純な話ではない。詔勅に関する規定である公式令は、現憲法の施行にともなって廃止とされた。つまり政治的な文書としての規程は存在しない。

規定がないから憲法違反は存在しない、こう考えると「お気持ち」は副署のない勅語である。政治的文書とはなり得ないが、大正政変を思うと、なかなかに複雑な問題である。

 

平成29年4月25日

日露戦争後から大正時代に関する著作は、その前後に比べて少ないようだ。明治と昭和が断絶しているようにみえるのは、この期間の研究があまり公開されていないことにも関係があるのではないか。

例えば明治45年には美濃部達吉『憲法講話』、同38年には上杉慎吉『帝国憲法』がある。それぞれ天皇機関説と君主国体説(天皇主権説)として語られている。

これが昭和10年に再燃して天皇機関説事件となった。また大正7年のシベリア出兵。その派兵範囲はのちの満州事変の範囲と酷似している。これも一種の連続性だろう。

幸徳秋水事件で刑が執行されたのは明治44年。すでに無政府主義が我が国を侵食していた。女優の沢村貞子が左翼運動で2回逮捕されたのは、昭和7・8年のことだった。

明治と昭和の間は、まさしく歴史の連続性を示す明治末期と大正時代がある。曲学阿世や国体明徴は大正時代の新聞に頻発していた。この時代の研究はもっとされるべきかと思う。

 

平成29年4月15日

詔勅は天皇のお言葉。またそれは日本の最重要史料でもある。ただしその文言は難解で、解釈には歴史事実との整合性が基礎となる。そしてその規定にも変遷がある。

古くは養老令の公式令。これには詔書の形式などが定められ、詔書は臨時の大事、勅書は尋常の小事に公布されるものだった。明治には19年に公文式が制定された。

「公文式 第三條 法律勅令は親署の後御璽を鈴し内閣総理大臣之に副署し年月日を記入す其各省主任の事務に属するものは内閣総理大臣及主任大臣之に副署す」

また明治22年にはその改正。「法律及一般の行政に係る勅令は親署の後御璽を鈴し内閣総理大臣年月日を記入し主任の大臣と倶に之に副署す其各省専任の事務に関するものは主任大臣年月日を記入し之に副署す」

さらに明治40年には全21条の公式令が出され、公文式は廃止となった。ただここには勅語への明確な規定が記されていない。これが大正時代の憲政擁護運動の基となった。

 

平成29年4月3日

侍補職の廃止に至る明治12年9月の岩倉上奏文
「廟議ニ任スルモノノ外、侍従ノ臣、別ニ内旨ヲ奉スルカ如キアリテ、万一中外ニ漏洩セハ、毫モウ千里ノ差、其弊害勝ケテ言フヘカラサルニ至ラン、是レ尤懼ル所ナリ」

これは宮中・府中の別が問題となっての文章である。明治12年だから帝国憲法下の政府ではないが、「廟議ニ任スルモノ」は政府の幹部とほぼ同義と考えていいだろう。

天皇の政務に関して、政府(府中・廟議)の幹部のほか、侍従(宮中)らが関与すれば宮中・府中は混乱する。だから「中外ニ漏洩」の弊害は「勝(あげ)て言ふべからざるに至らん」と記したのである。

さてこの「中外」はむろん「宮廷の内外」であって、「国の内外」ではない。教育勅語の「中外」もこれと同じ用法である。やはり宮中に近い人の「中外」と言える。

帝国憲法第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」であり、その2項は「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」であった。ここにも宮中・府中の別がある。

 

平成29年3月30日

日本書紀に男大迹王(をほどのおおきみ)とあるのは第26代継体天皇である。その継体天皇25年には「男大迹天皇立大兄為天皇。即日男大迹天皇崩」とあるから、譲位の範疇に入る。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、重祚して斉明天皇となったが、日本書紀に太上天皇の記載は見られない。太上天皇の記載が見えるのは、続日本紀の持統天皇に関する記事である。大宝令にその称があったと考えても不自然ではない。

譲位の理由は様々だが、皇位継承ということを離れてはその意味が分らなくなる。また院政となれば、直系の即位と切り離せない。歴史上には権臣の悪意ある意思が譲位の原因となったこともある。

特例法による譲位は律令における「格式」の「格」と同じ運用となるかどうか。「格はその時を考慮して制を立てるものであり、式は法令の不足を補い、落ちているものを拾う、いわゆる「拾遺補闕」ということである」

現状では今上陛下より若い皇位継承資格者は3名。徳仁親王殿下・文仁親王殿下・悠仁親王殿下である。少なくともこの状況で譲位を恒久法にする案など、権臣の悪意としか考えられない。

 

平成29年3月22日

教育勅語の解釈には様々な疑問がある。「之を古今に通じて謬らず」の漢訳は「通之古今而不謬」であるが、ほぼ同じ漢訳をした重野安繹は以下のように解説をした。

「斯の道は天地の正道にして古今を通貫するも決して差謬あることなし」(『教育勅語衍義』)。つまり「之・斯の道」が主語となっている。これでは「通」の目的語が「之」とはならない。

そうすると「通之」はどう考えたらよいか。構造はVOとしか考えられないが、「之」が主語で語順が同じなら漢文法は無意味だろう。

文脈からして「通・通じて=伝えて」の主体(主語)は皇祖皇宗として妥当である。そして「不謬」は「通」の結果補語と解釈して自然だろう。

重野安繹は漢学者で歴史家、薩英戦争の戦後処理を行ったことはよく知られている。それにしても複文と言われる教育勅語の漢訳と彼の解釈には、文法を無視した齟齬があると思われる。

 

平成29年3月15日

森友学園の国有地払い下げ問題から、教育勅語が話題となっている。学園の運営する塚本幼稚園では、教育勅語が園児の指導に用いられているという。世間では反対賛成で「炎上」している。

ところで、話題は何時も徳目ばかりだが、当サイトは教育勅語の徳目以外の解釈に問題があった、この解明が目的である。つまり教育勅語の曲解がテーマ。

そこで、教育勅語の原文・漢文訳・英語訳、そして現代語訳を比較してみる。問題の「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」の部分である。

漢文訳では「通之古今而不謬、施之中外而不悖」。重野安繹の訳ではあるが、基本的には元田永孚とほぼ同じである。ポイントは原文の通り、「之」が「通」「施」の目的語となっていることである。

しかし英文訳は「 infallible for all ages and true in all places 」である。主語は「The Way here set forth」。つまり「之」が主語で「通」も「施」も訳されていないのである。

 

平成29年3月4日

阿倍比羅夫は斉明天皇の時代に活躍した。659年03月には「可以後方羊蹄為政所焉」とあって、北海道の「後方羊蹄・シリベシ」に郡領を任命して戻ったとされている。

ところで北海道といえば林子平(元文3年・1738年- 寛政5年・1793年)。桂川甫周や工藤平助と同時代人で、『海国兵談』を著した。いわゆるロシア脅威論。

それからやや時代が降って、平山行蔵(宝暦9年・1759年 - 文政11年・1829年)。「一日の苟安、数百年の大患なり、豈に知言に非ず乎」として、その国防論を説いた。

「平山行蔵傳」は蒲生重章『近世偉人伝』に収載されているが、明治前期の版しかないようだから、気軽に閲覧することは無理である。

その後の北海道は黒田清隆や榎本武揚の明治維新後となる。高島易断の高島嘉右衛門は横浜の高島町にその名を遺したが、実は北海道に転じて北海道炭鉱鉄道の社長にもなっていた。

 

平成29年2月22日

日経新聞のサイトに「変わる歴史用語、聖徳太子→厩戸王 学習指導要領案」という記事が出た。2017/2/15。これに対しインターネット上では様々なコメントがある。

変更する意図はよくわからない。ただし厩戸皇子が皇太子であったことは「日本書紀」に明らかだから、「王」では推古朝が見えなくなるのではないか。「立厩戸豊聡耳皇子為皇太子」

歴史教育に一貫性を求めるならば、歴代天皇の標記はどうするのだろうか。その多くは諡号や追号である。これらを生前の呼び名で表すのは複雑に過ぎる。

現在の天皇は今上陛下あるいは当今(とうぎん)と称される。しかし後の歴史においては昭和天皇のように追号で表現して読者の理解が進む。それで不都合があるかどうか。

ポイントは諡号や追号について、丁寧に解説することではないかと思われる。その基本が分れば教科書における標記の意味や意図が、理解されるだろうと思う。

 

平成29年2月14日

後花園天皇は第102代で、北朝・崇光天皇の曽孫。父はのちに後崇光院と称された貞成親王である。時の実力者は足利義政。伏見宮家の子孫の即位となって貞成は神慮と記した。

この時代は武家の時代だったから、天皇が政治に深く関与することはなかったようだ。その義政が、人民の困苦を顧みないで宴遊にふけり負担を人々に押し付けた。

天皇はこれに対し、漢詩一篇を賜って戒められた。その解説が『歴代天皇紀』(秋田書店)にある。「残民争いて採る首陽の蕨、処々廬を閉ぢ、竹扉を鎖す」。

ところが群書類従によると「蕨・わらび」は「薇・ぜんまい」であり、「廬」は「序」となっている。なぜこうなったのか。「蕨」と「薇」は転記間違いだとしても、「蘆」と「序」では全く異なる。

「序」は「垣・かき」あるいは「土塀」であり、「廬」は小さな家。やはり群書類従の「垣を閉じ、竹扉を鎖(とざ)す」で意味が通じると思うが、真実はどうなのか。

 

平成29年2月10日

外国船による尖閣諸島近辺への領海侵犯は、近年になってその頻度が高くなっているという。領海とは基線から12海里(約22.2km)であり、国家の主権が及ぶ。

紛らわしいのは無害通航権である。いかなる船舶も単に通過するのみなら、公海から領海まですべての通航が認められる。これはいわゆる国連海洋法条約(1994年)による。

ただし、船舶の行動には制限があるから、領海侵犯と見なせば国際的な慣習法では武力も行使し得る。海上保安庁法にも規定はあるが、外国の軍艦や公船は対象とされていない。

自衛隊法では第82条に(海上における警備行動)がある。1999年3月に発令され警告爆撃を行った事実はある。しかし最近の尖閣諸島関連では発令されていない。

「武力の行使」は主体が国家、「武器の使用」のそれは自衛隊の現地部隊であるとされている。しかしこの混同が整理されず、国防の議論が進んでいないのは、如何な国かと思う。

 

平成29年1月31日

第二次世界大戦後の中共中国。台湾の李登輝総統の選挙に当って、これを軍事威嚇した。朝鮮戦争からこの軍事威嚇まで、何と12回の軍事行動を実施したという。

朝鮮戦争・蒋介石軍との二度の衝突・チベット解放戦争・チベット動乱の鎮圧・中印国境紛争・中ソ国境紛争・文化大革命の鎮圧・西沙諸島でのベトナム戦・中越戦争。南沙諸島でのベトナム戦・天安門事件の鎮圧と李登輝選挙の軍事威嚇である。

中共中国が周辺国と紛争になるのは、彼らのいう「中華の復興」が清朝最盛期の版図奪回にあるからだという。そしてその図を見ると、まるで元帝国である。

彼らが、尖閣諸島や沖縄を日本が奪ったとする論理もそこにある。国際法は関係なしである。中共中国のいう「歴史的水域」も同じ発想から主張される。

これに対し我が国は、ほぼ無防備のように見える。領海侵犯や領土侵犯に関し、自衛隊法は何も定めていない。領空侵犯についても撃墜は規定外である。領土に関心のない国、それが日本と言うことになる。

 

平成29年1月20日

たとえば中国の船舶が尖閣諸島付近を航行する。あるいは軍用飛行機が領空侵犯を度々行う。いづれも平時である。船舶に関しては戦闘状態ではないから海上自衛隊は出動しない。

領空侵犯に関しては航空自衛隊がスクランブルをかける。しかし自衛隊法第84条には、これを着陸あるいは上空から退去させることしか規定されていない。我が国の法律で撃墜はあり得ないということである。

これに関連して、中国の軍事研究者である平松茂雄氏の著作を読み直してみた。中共中国には「地理的境界」と「戦略的境界」という考え方が存在するという。

つまり「地理的境界」とは国際的に認知された領土。これに対し「戦略的境界」とは、ひと言でいえば、軍事力の及ぶところ、と定義できるようだ。

自衛隊はいまだに国防軍とはなっていない。したがって国際法で認められている領空侵犯機の撃墜もままならない。我が国のスクランブルとは、要するに単なる追跡飛行と言われてもやむを得ない。

 

平成29年1月11日

明治天皇の曾祖父は光格天皇。またその父は慶光天皇と称される典仁親王。親王の身分は大臣の下だったから光格天皇は太上天皇の尊号を奉りたかった。しかし松平定信が反対して実現しなかった。

ところで、淳仁天皇の奈良時代には継嗣令のとおり、光明皇太后から天皇の兄弟姉妹は親王・内親王とせよとの達しがあった。そして父の舎人親王は崇道尽敬皇帝と追号された。

光格天皇の時代より以前からそうだったが、継嗣令はすでに有名無実となっていた。継嗣令では天皇の子女なら親王・内親王とされるが、光格天皇の子女には親王・内親王ではなく「宮」と称された方々がいる。

結局のところ、慶光天皇を追尊されたのは明治天皇であり明治17年のことだった。この歴史の事実は、誤った継嗣令の解釈を基礎とした昨今の女性宮家や女帝論議の欺瞞を示していると考えられる。

継嗣令では女帝が認められていたという欺瞞。加えて江戸時代にはその継嗣令が空文化していた事実。要するに女帝論議はいくつもの欺瞞の上に立つ議論だったということである。

 

平成29年1月3日

生麦事件の当事者は、薩摩藩と英国人。島津久光の行列に礼を尽くさなかった馬上の英国人を薩摩藩士が斬った。当時は開国論と攘夷論の時代だった。幕府が開国を余儀なくされたのに対し、朝廷は攘夷を推した。

幕府は安政年間に五カ国条約を締結したが、朝廷の許可を受けていなかった。そこで文久二年(1862年)、朝廷は勅使・大原重徳と護衛の島津久光を江戸に派遣した。

幕府に伝えたのは、薩摩藩を中心とする攘夷の実行、一橋慶喜を将軍後見職とすること、松平春嶽福井藩主を政事総裁職に任命すること、これがその内容だった。

その島津久光が帰国の際、事件に遭遇した。これが生麦事件だが、ニューヨーク・タイムズなどは英国人が日本の慣習を理解していなかったと論じたというが、原文を確認したことはない。

前回も述べたが、孝明天皇の時代は外交について朝廷と幕府は方針が異なった。それで譲位を語ったとされるが、朝廷の権威を保つための、一つの方法ではあったと思う。

 

平成28年12月26日

譲位ということについて。明治天皇の父・孝明天皇は幕府の外交手続きを批判して譲位を表明されたことがある。自らを微力だとして、皇位を伏見宮邦家親王、有栖川宮幟仁親王、同熾仁親王のいずれかに譲位したいという勅諚だった。

現実としては、孝明天皇の譲位は実現しなかった。ただこれを機会に江戸時代の譲位をその詔勅から調べてみると、当然のことながら一つの事実が表れてくる。

後陽成天皇「譲位の宣命」は「菲徳の身は、此の位に堪ふ可からずと歎き畏み賜ひ・・・今日二品政仁親王を皇太子と定め賜ひ・・」である。さらに明正天皇「譲位の宣命」は「紹仁親王を皇太子」と定めている。

そして後西天皇は「某親王を皇太子」と定め、中御門天皇は昭仁親王を、後櫻町天皇は英仁親王を皇太子と定められた。つまり譲位とは皇太子の特定だったと考えてよい。

今上陛下の「お気持ち」表明は、畏れ多くも、やはり譲位をお話になられていると考えて不自然ではない。つまり、皇太子の即位を見届ける、その「お気持ち」の表明だったと思えてならない。

 

平成28年12月19日

平成28年12月12日から4夜にわたって、NHKではドラマ「東京裁判」が放映された。世界から集められた11人の判事の物語。ドラマとしては独自の意見書を書いたオランダの判事を中心として展開する。

結論として戦後70年のNHK「東京裁判」は、何ひとつ「侵略戦争」が深く追究されてこなかった証明となっている。つまり当時は侵略戦争をどのように裁くかが議論されたのであって、侵略戦争と称する根拠には無関心だった。

そして裁くのが戦勝国で裁かれるのが敗戦国だとしても、被告は無罪を主張するも判事が下したのは厳しい判決だった。つまり被告の方に、国際法上の「侵略」はないとする自覚だと言える。

さて、そうすると日本の「侵略」とは何か。ジョセフ・グルーのいう「標語」、つまり戦争スローガンがその表現だと受け取られた、そう考えて不自然ではない。

八紘一宇は清瀬一郎弁護人が、道徳的なものだと説明して、これは成功したと記している。しかし神道指令でその使用が禁止された八紘一宇は、被占領中に解禁となったわけではない。当サイトはこの謎を追究して今日となった。

 

平成28年12月12日

12月8日は某所において「大東亜戦争はなぜ「侵略戦争」と言われ続けるのか」と題して、約70分ほどお話しをさせていただいた。結論は詔勅解釈の問題だが、それ以外にもポイントがある。

侵略戦争vs自衛戦争あるいはアジア解放戦争、という論議。この自衛戦争は当事国の感覚であるし、侵略戦争は他国の評価ゆえ結論は出ないだろう。またアジア解放戦争も結果として事実ではあるが、昭和戦前の言説からはやや遠い。

戦前の駐日英国大使はクレーギー卿だったが、彼は日米交渉はアメリカに問題ありと本国へ報告した。チャーチルはその報告を極秘にしたといい、その後のクレーギーは冷遇されたという。

つまり英国はドイツの攻撃に悩まされていた。願うは米国の参戦。ソ連も兵力を東西に分散したくないから、日米戦争で日本の南下は望ましい。ドイツを降伏させてから対日戦も考えたのではないか。

大東亜戦争、この場合は対米開戦だが、やはり世界史のダイナミズムでみる必要がある。大東亜・太平洋戦争は肯定・否定より、止め時を間違ったのが致命的だったと思う。

 

平成28年12月4日

今上陛下の「お気持ち」表明について。畏れながら。これは「新・不改常典」ではないかと拝察される。不改常典は、元明天皇が皇位を文武天皇の後嗣である首皇子(聖武天皇)に継承するための詔だった。

そもそもこの不改常典は、国史における謎として今日に至っている。そのためいくつかの説が紹介されるのみで、解明はされてこなかった。

しかし当サイトの「不改常典「壬申の乱・トラウマ説」」で、ほぼ反証に堪え得ると思う。つまり阿閇皇女(あへのひめみこ)と称されていた元明天皇の、少女時代に起きた壬申の乱。

この叔父と異父兄との間に起きた皇位継承の乱は、少女にとって恐ろしく悲しい出来事だった。天智天皇の思いが叶い、大友皇子が即位していれば乱はなかった。

それで、元明天皇は文武天皇から中継ぎの元明天皇ご自身、そして元正天皇を経て、確実に聖武天皇へと皇位を継承された。つまり今上陛下の「お気持ち」は確実な皇位継承を見届けるための「新・不改常典」だと考えて妥当性がある。

 

平成28年11月28日

クレーギー卿は戦前の駐日英国大使。米国のグルー大使とともに、日本への理解も深かった。ところで昭和16年11月20日、我が国は米国に対して「乙案」なるものを提示した。

この「乙案」は要するに日米交渉における日本側の最終案だった。南部仏印からの日本軍の撤兵、米国による日本の海外資産の凍結解除、そして米国の援蒋停止状況つまり蒋介石支援の停止がその内容だった。

この最後の条件が受け入れられず、26日には交渉決裂が決定的となった。そしていわゆる「ハル・ノート」が突き付けられることになる(日本時間27日)。

この経緯を見て、クレーギーは本国に対し、米国が強硬過ぎると報告をした。それを厳しく批判したのがチャーチル首相。英国はドイツとの戦争に手を焼いていたから、米国の参戦はありがたい。

つまり日米交渉の決裂は、スターリンとチャーチルの願いでもあったと考えられる。グルー大使は帰国してのち、国務次官となった。しかしクレーギー卿はいわゆる干された状態だったという。

 

平成28年11月22日

平成27年5月20日、国会では両院による国家基本政策委員会合同審査会が開催された。質問に立ったのは日本共産党委員長。要約すれば、総理はポツダム宣言の認識を認めるかどうか、というものだった。

これに対し総理大臣は「今、私もつまびらかに承知をしているわけではございませんが、ポツダム宣言の中にあった連合国側の理解、例えば、日本が世界征服を企んでいたということ等も今御紹介になられました」と述べたにとどまった。

そこで質問者は、「私は、ポツダム宣言が認定している間違った戦争という認識を認めないのかと聞いたんですから。認めるとおっしゃらない。これは非常に重大な発言であります」としてドヤ顔をした。

さて問題はポツダム宣言第6項にある「世界征服」。連合国側とくに米国は何を根拠に「日本の世界征服」と判定したのか。むろん政治の舞台で行うものではないが、実はそれがポイントである。

ジョセフ・グルー「日本人は標語が好きな国民です。日本人は標語によって統治する、といっても差支へないくらゐです」つまりは八紘一宇の分析となる。なぜこれが戦争スローガンとなったのか。

 

平成28年11月15日

村雨退二郎は明治36年(1903年)に生まれ、病が快癒しないとして昭和34年(1959年)に睡眠薬自殺をした歴史小説家。この時代の人らしく、一時は日本農民組合の運動にも参加した。

その「明治天皇への脅迫状」は、幸徳秋水の大逆事件を語ったもので、読んで味わいがある。秋水が渡米したのは明治38年。当時のサンフランシスコ市政は社会党が掌握しており、市長も社会党だった。

社会主義者としての秋水は彼の地でも大いに歓迎された。しかし親密に交際をしたのは、いわゆる無政府主義である。彼らとの関係からクロポトキンなどとも通信をするようになった。

秋水は帰国後、自分が無政府主義者であることをすぐには宣言しなかった。時を考えていた。そのころ、サンフランシスコの日本領事館に「睦仁君足下に与う」と題する過激な貼り紙があった。

様々あったが、この件は何とか収まった。その後、長野県で発覚した小規模な天皇暗殺陰謀事件はのちに大逆事件とされた。実は過激派の運動を注視していた桂首相がこの貼り紙を利用した。それが厳しい処分の原因。以上は村雨退二郎から知ったことである。

 

平成28年11月6日

清水卯三郎の話からモースも来た埼玉県の吉見百穴について。実はここにヘンリー・フォン・シーボルトも来ていたが、このシーボルトはフランツ・フォン・シーボルトの次男。

長男は薩英戦争のとき、清水卯三郎とともに英国艦に通訳として乗り込んでいたアレキサンダー・フォン・シーボルト。ヘンリーはドイツ語読みでハインリヒとも訳されている。

ところでこの吉見町は、福沢諭吉の婿養子となった福沢桃介の生誕地。NHK大河ドラマ「春の波濤」で風間杜夫の演じたのがこの福沢桃介だった。主役は川上貞奴の松坂慶子。

桃介は紆余曲折を経て投資家となった。そして事業経営にも意欲的で後には電力王と称された。後輩には松永安左エ門がいて、彼は桃介と一緒に仕事をした仲である。

桃介における事業経営のそもそもは、井上角五郎にある。福沢諭吉の門下で北海道炭鉱鉄道の幹部だったが、桃介はその秘書役をした経験がある。同社には諭吉も多少関与したというから歴史は興味深い。

 

平成28年10月30日

今年も教育勅語の渙発された10月30日がきた。渙発は1890年ゆえ126年経ったということになる。しかし未だに曲解され続けている事実は筆者の理解を超える。

しかし近代日本わけても昭和戦前の歴史は、永い我が国の歴史の中でも激動の時代だった。そしてその根本に教育勅語の誤った解釈があった。

それゆえこの曲解を発見した者として、様々な資料を基に当サイトに書き続けている。ポツダム宣言・神道指令・公職追放令などもこの曲解が分らなければ、理解は深まらない。

最初にこの曲解を感じたのは『教育と宗教の衝突』だった。どう読んでもそこにある議論の基礎がおかしい。要するにどの立場も教育勅語を誤って解釈しているのではないか、これを直感した。

拙著『繙読「教育勅語」』は2007年10月30日に出版された。あれから9年。この間、新たな資料も公開された。人文系の世界で教育勅語の解釈を検証する日は来るのだろうか。甚だ心もとない。

 

平成28年10月29日

清水卯三郎からモースが訪れた埼玉県の吉見百穴までつながった。ところで勝海舟の「海舟日記」には卯三郎の名が百数十回記されており、瑞穂屋卯三郎などとも称されている。

また清水卯三郎がのちの五代友厚と寺島宗則を救出した一件は、福沢諭吉『福翁自伝』に記されている。では彼らはどんな関係だったのか。

実は勝海舟と福沢諭吉は万延元年(1860年)の遣米使節団の一員だった。勝海舟は咸臨丸の実質的な艦長で、福沢諭吉は提督・木村摂津守の従者の一人だった。

万延元年の翌年は文久元年だが、その12月(新暦では1862年1月)に遣欧使節団が送り出された。この通訳として、松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪・福沢諭吉が団員として乗り込んでいた。

また森有礼や福沢諭吉そして箕作秋坪らの明六社では、清水卯三郎は会計担当として招かれた。そして学者ではないにも拘らず、堂々たる漢字廃止論の「平仮名の説」も発表していた。

 

平成28年10月26日

薩英戦争の和平交渉に関与した清水卯三郎。彼が最も尊敬し、世に出る機会を作ってくれたのが母方の伯父・根岸友山。友山は熊谷冑山の豪農で代々根岸判七を襲名して第11代となった。

その第12代伴七が根岸武香。清水卯三郎との関係でいえば、武香は10歳ほど若い従兄弟ということになる。この武香は、実は埼玉県の吉見百穴に関係が深い。

もともと冑山近辺から出土する土器等に興味のあった武香だが、明治10年のエドワード・S・モースによる大森貝塚発見は刺激だった。これで地元の武香らによる吉見百穴の発掘に勢いがついた。

そして明治12年、そのモースが根岸武香宅を訪れ、吉見百穴を視察した。その思い出がモース『日本その日その日』に描かれている。訪問するモースとそれを歓待する武香と周りの人々。

その内容は実に感動的に記されている。モースも武香も超一流の人だが、モースが道路ですれ違った子供たちの一団の礼儀正しさも素晴らしい。好き時代の日本の典型といってよいのではないか。

 

平成28年10月17日

1854年、下田に停泊中のロシア・プチャーチン提督率いるディアナ号は大津波で大破した。このことは川路聖謨『下田日記』に詳細がある。

ところでロシアとの交渉において、全権として臨んだのは筒井政憲と上記の川路聖謨。この筒井政憲の供人の一人が清水卯三郎。今の埼玉県羽生市の生まれである。

この清水卯三郎は、実は薩英戦争の際に五代才助(五代友厚)と松木弘安(寺島宗則)を救出したことでも知られている。卯三郎は伯父・根岸友山の世話で『江戸繁盛記』の寺門静軒に漢学を学んでいた。

そして蘭学にも関心を持ち、下田で会った箕作阮甫の門下となり、その聟である箕作秋坪にオランダ語を学んだりした。横浜では英語にも興味を持った。

その時たまたま英国艦隊の通訳の話があった。生麦事件からの薩英戦争に関わり、鹿児島で五代と松木を救ったのである。また大久保一蔵(利通)に請われ、薩英の和平交渉にも貢献したというエピソードも伝えられている。

 

平成28年10月10日

昭和20年10月4日のGHQ人権指令(自由の指令)は東久邇宮内閣の倒閣につながった。指令は内務大臣はじめ特高警察職員ら約4,000名の罷免・解雇、政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じたものだった。

さらには自由を制限するあらゆる法令の廃止も含んでいたから、その後、治安維持法や宗教団体法などが廃止とされた。また指令には「天皇陛下、皇室制度並に日本帝国政府に対する自由な討議に対する制限令を含む」とあった。

この指令によって共産主義らが釈放された。当時の米国は共産主義に対してどんな意識を持っていたか。
「米蘇関係、米国国内ニ於ケル共産党ノ容認及共産党自身ノ当面採ルヘキ政策等ニ鑑ミ米国トシテハ少クトモ共産党ヲ正式ニ否認乃至禁圧スルコトニハ同意セサルヘシ」
(ただし)
「占領軍ノ安全保持等ノ名目ニ依リ共産党等ニ依ル過度ノ治安攪乱ノ惧アルニ至レハ之ヲ弾圧スルモノト信ス」

加えて政治犯の釈放
「「不法」ナル語ノ解釈ハ困難ナルモ事実上右不法ナリヤ否ヤノ解釈ハ米側ノ見解ニ依リ判断セラルルコトナルヘク、極右犯人ノ釈放、左翼犯人ノ拘禁継続ノ如キハ採ラサル所ナルヘシ」
やはり民主主義を標榜するあまり、共産主義者に対しては脇が甘かったと云わざるを得ない。

 

平成28年10月3日

本居宣長と北畠親房。宣長の『玉勝間』に北畠親房は出てくるが、『神皇正統記』には触れていない。皇統を論じた『神皇正統記』ゆえ、何かしらのコメントがあっても不思議ではないが、何もない。

これはおそらく、両者の北条氏に対する評価の違いに関係していると思われる。
本居宣長「北条足利が所為は、蘇我馬子に亜(つぎ)て、古今の間に第二の大逆無道也」

蘇我馬子は物部氏を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺した。それに次ぐ大逆であると、天皇を蔑ろにした北条足利を本居宣長は批判したのである。これに対する北畠親房の見解。

「大方泰時心ただしく政(まつりごと)すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし・・」

北条義時・泰時は承久の変で後鳥羽上皇を隠岐に追放した。これらの人々に対し、本居宣長と北畠親房の見解が異なるのは時代の違いなのか。もう少し調査が必要な案件かと思う。

 

平成28年9月25日

歴史を学ぶ上で、決定的な事件の因果関係は何にも増して重要だと思われる。権力争いには違いないが、物部氏と蘇我の場合は仏教導入の是非がポイントだった。

この蘇我氏を倒したのは乙巳の変の中臣氏で、以後は藤原氏として永い間実力者として歴史に輝いた。しかし保元・平治の乱で朝廷内の争いに後白河天皇が武力を導入して平氏の時代となった。

さらに承久の変では後鳥羽上皇が北条義時の討伐をはかったが失敗。結果として鎌倉幕府の強化につながった。武門の執政が終了したのは明治維新。鎌倉幕府から約680年だが、平清盛からすると、約700年となる。

これらの中で、検証すべきはやはり承久の変があげられる。当時は「将軍の令を聞きて天子の詔を聞かず」というのが北条方の武士にあったという。なぜか。

これはやはり東国武士は農業が主、つまり将軍による土地の安堵が第一だったと推測し得る。西国は宋銭による通貨経済で東国は物々交換とするレポートもあるが、案外そうかもしれない。

 

平成28年9月16日

GHQ日本占領。彼らの目的は、日本が二度と世界の脅威とならないようにすることだった。そしてその目標は物的武装解除と精神的武装解除。軍隊の解体で前者は達成する。では後者はどうか。

GHQは日本人の精神の基礎には神道があるとした。なかでも世界征服の思想つまり超国家主義を含む国家神道を危険なものと見た。そしてその聖典は教育勅語だと断定して排除の示唆をした。

ところでハーグ陸戦条約第46条には(敵国の)「宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない」とある。しかし日本政府は神社神道を非宗教としていたから、この条約には違反しないとのGHQ見解もあったとされている。

さてここに珍説もある。日本国憲法第20条は信教の自由に関するものである。神社神道、なかでもGHQのいう国家神道は宗教ではない。ならば現憲法下でも国家神道は許容されるとの意見である。

靖国神社(国家護持)法案は成立しなかったが、国家神道非宗教論なら何度でも出そうな案となる。ただし国家神道の基礎が教育勅語の曲解にあるとしたらどうなるか。珍説まみれの国家神道論。

 

平成28年9月11日

靖国神社国家護持法案は、昭和44年から同49年までの間に、5回提出されて結局は成立しなかった。これに反対する団体等の意見としては国家神道への回帰阻止がある。

しかしこれは、当サイトが主張しているように、誤った国家神道論のなせる技である。教育勅語の曲解がGHQ神道指令のいう国家神道の根拠だから、この検証で反論の多くは雲散霧消する。

ただ反論はそれだけではないという。少なくとも現憲法下においては政教分離が基礎にあるとして、非宗教の国家護持に対する批判があるという。戦前は宗教局とは異なる神社局の管轄だったから靖国神社非宗教論は当然出てくる一つの案ともいえる。

戦後になって、一宗教法人としての道を余儀なくされた靖国神社だから、国家護持についても関係者にはいろいろな思いがあることは想像できなくもない。

この硬直化した件について、まず国家神道の解明そして国家護持の場合の儀式の方法などを改めて議論する必要があるのではないか。戦後日本における最大課題ではある。

 

平成28年9月7日

波平由紀靖『正宗』776頁を読了。これは2014年の服部英雄『蒙古襲来』を読んでいたから、興味深かった。『正宗』は小説だが、その歴史観には鋭いものがある。

そもそも元寇は元帝国の世界征服の一環とされていた。しかし服部教授によれば、もっと具体的で、元帝国に屈しない南宋を攻略するための日本侵攻だったという。

この南宋封じ込み説はこれまでにもあった。しかし日宋貿易における硫黄をポイントに置いたのは説得力がある。黒色火薬の原料である硝石・木炭は大陸にある。しかし硫黄は日本に豊富。日本から南宋への輸出で主な硫黄が元寇の基だった。

ところでこの『正宗』の出版は2010年。小説ではあるけれども、この服部研究を先取りした文章がある。
「宋は焔硝(火薬)の原料になる硫黄の他、刀剣などの武器を得ております」

小説は作家の想像力がものをいう。服部本を読んでいたということもあるが、この小説の歴史観はすばらしいと思う。

 

平成28年8月30日

中路啓太『ロンドン狂瀾』(2016年)は570頁近くの長い小説。テーマはロンドン海軍軍縮会議と国内での統帥権干犯論議。この時代はその流れを新聞の縮刷版で眺めるだけでも小説のような感がある。

これを読むきっかけは、軍縮会議における補助艦の対米比率7割を主張する海軍とその理由だった。つまり海軍では日米戦争が主たる話題で、米国の主張はさほど検討されていないからである。

この小説でも米国の主張はあまり書かれていない。米海軍のザカライアス(のちに大佐)が当時の横山一郎中佐(のちに海軍少将)に語ったのは、太平洋における米国の商業活動だった。

しかしこの小説には海軍の頑固な主張と、ほぼ内政上の事情から国際関係に乗じた政府のやり取りに終始している。小説ではあるが、歴史の因果関係が示されず、ややフラストレーションがたまる。

また、海軍の加藤寛治・軍令部長が条約阻止派として登場する。彼の背中を押したのは金子堅太郎である。これは金子の日記や書簡に明らかだが、これについても触れていない。憲法上の問題を加藤がなぜ主張できたのか、ここがポイントだったと思うが、これもない。

 

平成28年8月24日

昭和史は昭和3年の張作霖爆殺事件から語られることが少なくない。『昭和天皇独白録』もほぼその構成となっている。それに続く出来事はやはりロンドン海軍軍縮会議だろうと思う。

当初は英・米・仏・伊に加え日本がメンバーだった。しかし仏・伊は部分的な参加となり、結局は日・英・米が中心の会議となった。

ところで我が国の昭和史ではこの軍縮会議が何であったのか、よく分らない。これを理解するにはザカライアス『密使』(もしくは『日本との秘密戦』)が参考になる。

当時の米国は太平洋に於いて約2億ドルの商業活動を行っていた。英国も大西洋に於いて同様な規模の活動を行っていた。そして米国は以下のような理由で会議に臨んでいた。
「公海における商船の行動の制限に我慢できず、また将来も我慢できないだろう」

つまり日本は当時、太平洋に於いて非常にわずかの商業活動しかしていない、これが米国・英国・日本をそれぞれ5・5・3とする比率の論理だった。我が国の昭和史では単なる戦力の比較議論しか見られないから、何がなんだか理解できない。

 

平成28年8月21日

今上陛下の「お気持ち」

戦後になって、日本国憲法では天皇に政治的権能はないとされ、政教分離から祭祀はあくまで皇室のものとされた。また詔勅も効力を有しないとされ、GHQにおける例外は「終戦の詔」と「人間宣言」のようである。

しかし天皇が今上陛下で第125代であることは、即ち歴史的御位である。そして「現御神としろしめす」統治者である。祭祀は私心を排する儀式でもある。日本国憲法で象徴のみとされては、天皇を歴史的存在として認識できない。

結局のところ、神道指令と「人間宣言」を解明しなければ、この現憲法下における天皇の位置づけは矛盾だらけのままとなる。

日本国憲法は条文のまま、つまり文言のみで正しい解釈は不可能である。当サイトが追究しているポツダム宣言・神道指令・「人間宣言」の解読は、我が国で本当に進むのだろうか。甚だ心もとない。

 

平成28年8月20日

今上陛下の「お気持ち」が歴代天皇の「みことのり」に重なるのは我国の伝統。そしてむろん昭和天皇と同様、今上陛下も「お祭り」、つまり宮中祭祀を最重要視されていることは間違いない。

「既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています」
宮内庁のサイトでは陛下の「ご公務」などが掲載されているが、宮中の内外で、信じがたい過密さが読み取れる。

陛下のご高齢化に際し国民がすべきことは、宮中の外でのご臨席要請を控えることが考えられるのではないか。

「更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります」

この「行事に関わる人々」のうち、政府や宮中関係者は政教分離を原則とする。昭和天皇の崩御に際して、「葬場殿の儀」のあと、鳥居と真榊を撤去し神職のいない「大喪の礼」を行った。このご発言にはやはり政教分離思想が関係しているように思う。

 

平成28年8月20日

今上陛下の「お気持ち」について、もう少し読み込んでみたい。その文末には「国民の理解を得られることを,切に願っています」と仰せられたからである。

「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます」

陛下はなぜご公務の縮小に「無理があろう」と仰せなのか。これには昭和天皇時代の事情が関係していると考えられる。側近の入江相政や富田宮内庁長官らは宮中祭祀の簡略化を推進した。

さらには侍従長だった渡邉允も同様だった。つまり彼らのいうご公務には宮中祭祀も含まれていた。陛下の御高齢によって、ご公務の縮小を理由に宮中祭祀まで縮小しようとした、ということになる。

しかし斎藤吉久『宮中祭祀はなぜ簡略化されたか』によれば、昭和天皇は側近の一人に「もう少しお祭りに励んだ方がよいのでは」と云われたという。簡略化の否定である。今回の「お気持ち」も、このことと関係があると思われる。

 

平成28年8月14日

この8月8日、今上陛下は「お気持ち」をビデオ・メッセージにおいて表明せられた。

「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」

「これまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」

この「お気持ち」は、詔勅研究者の立場から読むと、歴代天皇の詔勅と重なってみえる。

「(元明)太上天皇、長屋王、藤原房前を召して後事を托し給ふの詔」
「朕聞く、萬物の生、死有らずといふことなしと。これ則ち天地の理、なにぞ哀悲すべき。葬を厚くして業を破り服を重ねて生を傷(やぶ)ることは、朕甚だ取らず」

さらには「太上天皇、薄葬の旨を遺し給ふの詔」
「喪事にもちうる所一事以上、前の勅に准ひ依りて闕失を致すこと勿れ。其の轜車霊駕の具には金玉を刻みちりばめ丹青をかざることを得ざれ」

また嵯峨上皇の「送終の御遺詔」
「今生きて堯舜の徳を有(たも)つ能はず、死して何ぞ用(もつ)て国家の費を重ねむ(中略)流俗の至愚といえども、必ず将に之をわらはむ。財を豊にし葬を厚くするは、古賢の諱む所なり」

今上陛下のお言葉は、畏れ多くも民を思う歴代天皇のそれと寸分違わない。これを国民が、歴史を基礎に理解することが、いま求められていることではないかと思われる。

 

平成28年8月11日

ザカリアス『密使』の邦訳は1951年の出版で、翻訳は石井好子の夫で新聞記者だった土居通夫である。原題は『 SECRETS MISSIONS 』で、別に日刊労働通信社訳『日本との秘密戦』がある。

ザカリアスはザカライアス大佐であり、米国の対日降伏勧告を流した放送の担当者であったことは、当サイトの平成27年6月28日などに述べた。今や『密使』の古本はなかなか見当たらない。

『密使』はむろん国会図書館などで閲覧はできるが、『日本との秘密戦』が古本にあったので入手した。文庫版スパイ戦史シリーズの一つだが、実は日本の降伏を知る上で欠かせない資料である。

毎年8月になると、大東亜・太平洋戦争の終戦が話題となる。しかしポツダム宣言の受諾をめぐって、継戦派と終戦派で意見が分かれたことの分析は、案外少ない。

この謎を解くのがザカライアス放送である。終戦派はこの放送の内容を信じたと考えていいだろう。継戦派はその内容に関係なく徹底抗戦を主張した。論理が異なっていたとしか思えない。

 

平成28年8月5日

教育勅語解釈の曲解を正すのが、当サイトの目的である。しかしなぜか教育勅語の解釈だけは神格化されて、その真意は語られることがない。いま改めて櫻井よしこ『気高く、強く、美しくあれ―日本の復活は憲法改正からはじまる』を参考にその解釈を検証してみたい。

櫻井よしこ「明治政府は、教育勅語の中で示す教えは「古今ニ通シテ謬ラス」(昔から今に至るいつの時代に実践しても間違いのない)「中外ニ施シテ悖ラス」(我が国で実践しても外国で実践しても道理に反しない)ものでなければならないとした」

女史におけるこの文章の主体は明確にされていない。そしてそもそも「通シテ」の意味を曲解している。「通シテ」は「伝えて」である。ゆえに「古今ニ」以下を直訳すれば「(歴代の天皇が)斯の道を昔から今に伝えて誤りがなく」として意味が分る。

また「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」は「(歴代の天皇が)斯の道を宮廷の内外に及ぼして道理に反しない」である。外国は関係がない。そもそも「国体の精華」とこれらとの関係が、櫻井女史の解釈ではさっぱり解らない。

歴代の天皇が「昔から今に伝え、宮廷の内外に及ぼして道理に反しなかった」から「国体の精華」となっているのである。斯の道を外国で実践したからではないし、当然その根拠も存在しない。

 

平成28年8月1日

琵琶湖疏水、いわゆる京都インクラインの技術者だった田辺朔郎。その父は田辺孫次郎で、高島平にその名が残っている高島秋帆に西洋砲術を学んだ者である。

砲術の訓練をしたのは、当時においては徳丸が原と称されていたが、現在の板橋区高島平附近である。現在、高島平と徳丸の地名は隣り合っている。

いわゆる東京大仏の辺りだが、その近くに松月院がある。境内では高島秋帆の記念碑や説明板を読むことが出来る。孫次郎は42歳で他界し、朔郎は叔父の世話になって工部大学校を卒業した。

技術者として抜きん出た才を認められ、琵琶湖疏水の担当となった。信じられない若さでの登用である。その時の京都知事は第三代の北垣国通であり、のちに朔郎の岳父となった。

北垣はその後北海道長官となり、田辺朔郎を呼び寄せた。主に鉄道敷設を担当したが、狩勝峠の命名者にもなった。石狩と十勝を結ぶ峠である。

 

平成28年7月28日

琵琶湖疏水事業を描いた田村喜子『京都インクライン物語』は第一回土木学会著作賞を受賞した。琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都へ流す水路であり、第一疏水は明治23年(1890年)、第二疏水は同45年(1912年)に完成した。

同書によれば、そもそもこの琵琶湖疏水に関しては慶長19年(1614年)から計画があったという。林道春が考案し、角倉与一つまり角倉了以の息子に相談した。しかし了以は計画の二か月前、そのあと与一も間もなく他界して実現しなかった。

その後、様々な計画があったものの、実現には至らなかった。これを実現させたのは第三代京都府知事だった北垣国道。技術者は工部大学校を出たばかりの田辺朔郎である。

さてこの北垣国道は明治25年、北海道長官に任命された。北海道独自の制度によって、今ではワインで有名な池田町に鳥取藩が牧場を開くことになったのは明治29年の土地貸付からとされている。池田町は池田藩主の名にちなんだものである。

北垣は鳥取藩に仕官していたことがあり、維新後はその相談役でもあった。情実政策のようだが、当時の北海道を考えれば大変な決断だったと思われる。その10年前、明治17、8年頃にも鳥取から移住した人たちがいて、釧路市には鳥取の地名がある。

 

平成28年7月25日

昭和戦前の我が国を分析した本に、英国人記者ヒュー・バイアスの『敵国日本』がある。これは当サイトの平成26年8月15日などで触れた。GHQの日本占領政策を考える上で、大変興味深い本である。

このヒュー・バイアスから70年経って、このヘンリー・ストークス本が出版された。タイトルは『連合国戦勝史観の虚妄』。いろいろ話題となった本であるが、70前のバイアスと比較してどうなのか。

いま、GHQ日本占領を振り返ると、バイアスらの日本観が反映されていることがよくわかる。ジョセフ・グルーがシカゴ演説で引用したことも、それを裏付ける。

ヘンリー・ストークスは三島由紀夫とも親交があったという。それでこの本の第6章は「『英霊の聲』とは何だったか、となっている。

この第6章が、とくに「人間宣言」について、今日における英国人の公約数的見解であるかどうかは分らない。しかし検証する意義はあると思う。

 

平成28年7月19日

北海道に後志支庁がある。ニセコ町や真狩村と小樽市を結んだ日本海側の町村などが含まれる。このシリベシ、実は「日本書紀」の斉明天皇紀にその記載がある。

まず、斉明天皇の四年。阿倍臣は蝦夷を伐ち、渟代・津軽二郡の郡領(みやつこ)を定める。同五年。胆振さえ(金に且・いふりさえ)の蝦夷、と記されている。

また、蝦夷らの質問に、後方羊蹄(しりへし)を以て政所(まつりことところ)と為すべきか、ともある。これに対し、『海国兵談』で知られている林子平が疑問を呈した。

「按ずるに、此後方羊蹄は今のシリベシなるか、不審。(中略)津軽をシリベシと心得たるには非ずや」と林子平は語ったのである。多賀の碑の建設さえ、ようやくその百年後だったではないか、ということだった。

この説に対し、明治に『大日本地名辞書』を著した吉田東伍がさらなる疑問をもった。かいつまんで言えば、国境は時代によって変遷するというものだった。この辺りの検証は進んでいるのだろうか。

 

平成28年7月15日

伊藤野枝は大正12年、大杉栄とともに甘粕事件で殺害された。無政府主義者だったことがその理由である。野枝は福岡から上京し明治43年上野高等女学校4年に編入、44年の夏休みに末松福太郎と結婚させられる。

翌年全科目主席で卒業、卒業直前から英語教師辻潤と恋愛、6月から同棲、離婚して二児をもうける。大正元年、青鞜社へ入社。大杉栄と接近し、堀保子、神近市子と四角関係となる。野枝は辻と二児を捨て大杉と同棲、五女をもうける。18歳から殺害された28歳までに7人産んだ。

炎の女・伊藤野枝は大正年間にソビエトから「女性解放」が入ってきてもこれには賛同しなかった。わずかな文面からだが、女性解放より母性が優先したと考えたい。

山川菊枝との論争は腰折れだったが、やはり母性のなせる技だったとも考えられる。与謝野晶子が主張した母性は個人に属し、平塚らいてうのそれは国家が保護すべきとして論争となった。どちらにしても、母性を重要視したことに変わりはない。

その意味で、平塚らいてうの大正期は存外面白い。ただ戦後には反日活動家となってわが国を貶めた。ところで伊藤野枝が殺害されなかったら、その多子と思想は、のちにどんな表現になったのか、たしかに興味深い。

 

平成28年7月12日

沢村貞子。兄に役者の沢村国太郎、その妻は「日本映画の父」といわれた牧野省三の四女でマキノ智子、その子に長門裕之、津川雅彦がいる。そして弟には俳優の加藤大介。

大正15年には日本女子大師範家政学部へ入ったが、教師の道を捨てて、役者を志す。沢村貞子は新築地劇団に参加、昭和5年日本女子大を退学、翌6年には左翼劇場のプロレタリア演芸団に土方与志の指名で入団した。

そこで沢村貞子は日本プロレタリア演劇同盟の杉本良吉に今村重雄との結婚を進められる。「君、<赤い恋>をよんだろうね」

このソビエトの作家、コロンタイ女史の「赤い恋」は階級的恋愛小説あるいは階級的同志愛として、当時大いに読まれた小説だった。ソビエト版女性の自立というところだろう。

昭和7年3月、いわゆるコップ弾圧で沢村貞子は検挙された。非合法の共産青年同盟に入っていたので、検挙されたのだが、同盟に勧誘されて「意外だっただけに、うれしかった。感激した」と当時を振り返った。沢村貞子は演芸団メザマシ隊に属しており、「革命はいつおきるだろうか」と考えていたという。

 

平成28年7月6日

中山晋平の「カチューシャの唄」が、大正3年に松井須磨子によって人気を博したことはすでに述べた。この中山晋平が大正8年の夏、日本蓄音機商会のディレクターだった森垣二郎そして野口雨情と民謡調査の旅に出た。

松井須磨子が島村抱月の後を追って、自らその命を絶ったのは大正8年1月5日。抱月の書生だった中山晋平は市子夫人と抱月・須磨子の間で苦労した。抱月と須磨子の死と、この夏の旅が無関係と思えない。

その後、中山晋平がいわゆるヨナ抜きの旋律で一世を風靡したことは、日本歌謡史に歴然としている。ヨナ抜きとはドレミファソラシドの4番目7番目の音、ファとシを抜いた五音長音階である。ミとラを半音下げれば短音階となる。

「船頭小唄」がそのヨナ抜き音階で知られている。「上を向いて歩こう」や、新しいところでは「北国の春」などがヨナ抜きと云われている。そしてこの後、様々な才能が開花した。

中山晋平の後の作曲家としては、古賀政男・佐々紅葉・服部良一・万城目正そして古関祐而らが出た。「てるてる坊主」「東京行進曲」等々、中山晋平の曲はその後の日本人の感性に染みついている。

 

平成28年6月30日

北海道旭川市の買物公園には数々の彫像が展示されている。代表的なものに佐藤忠良制作の「若い女」がある。宮城県生まれで佐藤忠良記念館は宮城県美術館のなかにある。

ただ幼少期を北海道の夕張で過ごしたことから、作品と北海道にはいくつかの縁が発見できる。このことは北海道開拓史にも関係がある。話は函館戦争に遡る。

戊申戦争後の海軍総裁は矢田部景蔵で、副総裁は榎本武揚だった。新政府軍は艦隊引き渡しを要請したが、榎本武揚副総裁はこれを拒否し、艦隊を乗っ取って北へ向かった。

函館戦争は新政府軍が勝利し、榎本たちは投獄された。しかし黒田清隆の強い推薦もあって、明治新政府に登用され、文部大臣など要職を歴任した。榎本武揚は科学者であった。

空知炭田の発見物語にもその名を残しているが、石炭輸送のため小樽幌内間には鉄道が設置された。そしてこの中間の江別に榎本公園があり、佐藤忠良作の榎本武揚像がある。縁の一つである。

 

平成28年6月22日

蓄音機の歴史はエジソンにはじまる。これに対抗したのがベルリナー。二人の戦いは円筒(シリンダー)と平円盤(ディスク)のそれであった。後者を継いだのはジョンソンで米国ビクターの初代社長。

日本におけるエジソンの流れが日本コロンビアでありベルリナーのそれが日本ビクターだった。我が国で蓄音機、蘇言機と訳されたのはエジソンの「フォノグラフ」だと云われる。

ベルリナーの方は「グラモフォン」と称されたが、これは欧州で主力となり米国ではエジソンが主力だった。そして最終的にはベルリナーの平円盤が市場を席巻することになった。

平円盤は明治の終りころ、我が国に導入された。大正3年には東洋蓄音機(オリエント・レコード)が中山晋平作曲の松井須磨子「カチューシャの唄」を出して大いに売れた。

「カチューシャの唄」はトルストイ「復活」の劇中歌で、すでに人気だったが、レコードという媒体があって、爆発的に普及したと言える。ちなみにタイトルは「復活唱歌」だったと伝えられている。

 

平成28年6月18日

大正時代の金解禁などについては、3月30日の「異聞草紙」に少し述べた。金解禁とは金の輸出の解禁。つまり貿易の決済を金で行えるから、金本位制である。この場合、貨幣の発行額は金の保有量が基準となる。

これに対し、現在は管理通貨制度となっている。貨幣の発行額と金の保有量は連動しない。金本位制と管理通貨制度。どちらも一長一短だが、歴史を眺める上で重要なポインではある。

今日、日本銀行では一部にマイナス金利を導入している。日本銀行は「銀行の銀行」としての役割があるから、市中銀行は金利を払って日銀にお金を預ける場合が発生する。これが何をもたらすか。

たとえば銀行がドルを貸すために円資金を元手にする場合。ドル金利に対し円金利の調整がある。変動金利では「ドルの3ヶ月Libor⇔円の3ヶ月Libor±α」となる。「-α」の絶対値が大きくなると「ドルの調達コスト増大」と表現される。

ドル保有側から言えば「円の調達コストが減少」となる。ゆえに当面はゆるやかな円高傾向となりそうだ。ではその円はどこに向かうのか。後世の歴史家にとっては、やや難解な場面になるかもしれない。

 

平成28年6月10日

辛未洋擾(しんみようじょう)とは朝鮮国と米国艦隊の交戦である。明治4年(1871年)。発端は1866年、朝鮮国が米国商船ジェネラル・シャーマン号を奇襲して沈没させ、乗組員全員を虐殺した事件であった。

翌年米国は事件究明のため軍艦を派遣した。そして1871年に長崎で編成された5隻の艦隊は、江華島に向かった。戦闘になり米国側の勝利に終わったが、朝鮮国は米国による開国要求を頑固に拒否したという経緯がある。

佐田白茅によれば、我が国が朝鮮国に書契を提示したのは明治元年。米国より早く朝鮮国に事実上の開国を迫るものでもあった。我が国はすでに欧米諸国との修好条約を締結していた。

しかし朝鮮国は清という宗主国をもつ国である。我が国が朝鮮国の独立を促したというのはその意味である。そして朝鮮国では埒が明かないとして結ばれた明治4年の日清修好条規は、日本と清との対等条約と言われるが、朝鮮国への関係を念頭にしたものであった。

米国との交戦、開国拒否、これらが征韓論に拍車をかけたことは否めない。黒船もそうだが、この米国艦隊などからも、我が国にいわば砲艦外交論が出てきたことは、世の流れのひとつだったかもしれない。

 

平成28年6月9日

西郷隆盛らの征韓論とはどのようなものであったのか、案外分りにくい。参考になるのは佐田白茅『征韓論の旧夢談』である。明治36年に出版された。

佐田白茅の征韓論の基礎には「我が属国視する所の朝鮮国」とある。この理由は明らかではないが、我が国にとって「朝鮮は応仁天皇(応神天皇)以来義務の存する国柄である」と断定している。ここはやや説明不足の感がある。

さて西郷隆盛の征韓論。明治5年の冬、西郷は政府に対し征韓論を提出したという。ただしこれは明治36年時点での話ゆえ、すべてが事実かどうかは分らない。

この征韓論に対し、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは反対だった。議論になり激昂した西郷隆盛が単身で往くという決意を表したという。岩倉公は「もし殺されたときはどうするか」と尋問した。

これに西郷は「サア其時コソ征韓が始まるのである」と答え、大議論となったという。これが明治6年の政変につながった。白茅の本音は、武力による朝鮮の開国だった。これには朝鮮特有の国家的立場が関係していた。

 

平成28年6月7日

我が国は幕末の安政5年(1858年)、各国と修好通商条約を締結した。いわゆる安政五か国条約で、我が国の開国と称される。相手国はアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ。

そこで問題になるのが近隣諸国。朝鮮は永い間にわたって対馬藩がその交渉の窓口だった。明治維新となって、今後は藩ではなく日本国として対応することになる。天皇は朝鮮にその旨を伝達された。

ところが朝鮮側はその文書に不満をもった。7項目ほどある。

  1. 左近衛少将
  2. 平朝臣
  3. 書契押新印
  4. 礼曹参判公
  5. 奉勅
  6. 「厚誼所存則不可容易改者」

いずれも過去の例にないとの見解である。興味深いのは「皇」と「奉勅」。宗主国である清国以外では用いるべき漢字ではないということである。

維新直後の日本は、この見解に対し様々な意見があった。朝鮮に対する因循論と征韓論である。これが後々に大きな影響を与えることになる。

 

平成28年6月3日

山本夏彦「朝鮮人慰安婦のことを思えば夜もねられぬというたぐいの記事が、ある時期毎日のように出た。ことに朝日新聞に出た。四十なん年枕を高くして寝ていたのに急に眠れなくなったのである。新聞はその声を集めてずいぶん嬉しそうである」

朝日新聞はもと新聞小説と通俗記事の小新聞だった。大新聞(おおしんぶん)はブランケット判で現在の新聞の大きさ、小新聞(こしんぶん)はタブロイド判である。

その後は内容に政論が加わり、いわゆる中新聞となった。朝日新聞は1879年大阪で創業された。1888年には「めさまし」新聞を吸収して東京にも進出した。「東京朝日新聞」である。

朝日新聞がその発行部数を増やしたのは日清戦争である。大谷正『日清戦争』によれば、1894年上半期では17万部弱が下半期には20万部に達したと推定され、全国一になったという。

西南戦争・日清日露戦役そして大東亜・太平洋戦争に至るまで、紆余曲折はあったものの、新聞は戦争とともにあった。またその姿勢は歴史の示すとおりである。

 

平成28年5月30日

講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の妻は須磨子で外交官・竹添進一郎の次女。竹添進一郎・朝鮮弁理公使は対朝鮮積極政策派で朝鮮への内政に深く関与し、それが明治15年の甲申事変となった。

井上毅の2歳年長だった竹添進一郎は、ともに儒学者木下犀潭に学んだ漢学者。のちには東京帝国大学の教授にもなった。竹添は大正6年に他界したが、井上毅は明治28年3月に没している。

日清戦争の宣戦詔書は明治27年8月1日で講和条約締結は同28年4月17日。したがって井上毅は講和条約(下関条約)締結を見ていない。

ただこの日清戦争はやや複雑で、総合的には朝鮮、清国、そして台湾が相手だった。事実として大本営が解散したのは同29年4月である。また開戦についても様々な見解がある。

明治27年7月23日には朝鮮王宮占領があった。これは朝鮮軍との戦いで宣戦詔書の前。日本軍による台南占領は同28年10月で、講和条約後に行われた戦いである。

 

平成28年5月26日

「世にたかくひびきけるかな松樹山せめおとしつるかちどきの聲」(明治天皇・明治28年)

松樹山は日清戦争時において、第二軍が旅順口攻略のために砲台を築いた軍事上の要地。第二軍の司令官は大山巌だった。

「いくさびといたる處に勝を得てやまとごころを世にしめすらし」」(昭憲皇太后・明治28年)

出典は昭和27年・明治神宮社務所『明治天皇御集・昭憲皇太后御集』。なぜか日清戦争に関して詠まれたものは、昭憲皇太后の御集が多く、明治天皇のそれは案外少ない。

しかし、この時期に多かったのは天皇から軍人の功績に対する「勅語」である。とくに野津道貫と伊東祐亨に賜った勅語は特筆される。

 

平成28年5月24日

日清戦争時、当初の第一軍司令官は山県有朋だった。したがって明治27年9月17日、野津道貫に下された勅語の肩書は第五師団長で、そのタイトルは「平壌大捷に付第五師団長野津道貫へ勅語」である。

明治27年12月31日のそれは「海城大捷に付第一軍司令官野津道貫へ勅語」となっている。野津が山県の後任として第一軍の司令官となった。第二軍の司令官は大山巌。

そして明治28年3月15日、明治天皇は「営口地方の戦捷に付第一軍司令官野津道貫へ勅語」を賜った。

その奉答。
「営口地方の敵兵を掃攘するを得たるは実に 陛下覆載の恩と 皇威聖徳の致す所にして固より臣等の力に非す今や至仁優渥なる 聖諭を賜ふ洵に恐懼の至に堪へす唯々前途益々奮励して愈々皇猷に副はんことを期す謹て奏答す」

野津道貫は日露戦争時、第4軍司令官として参戦した。そして明治39年1月31日、野津道貫と伊東祐亨はともに元帥に任ぜられたのである。

 

平成28年5月24日

明治27年9月17日、明治天皇は伊東祐亨に対し勅語を下された。伊東祐亨は日清戦争時の聯合艦隊司令長官である。タイトルは「平壌大捷に付聯合艦隊司令長官伊東祐亨へ勅語」

「朕本営を進むるの初に方り我軍大に平壌に捷つの報に接し深く将校下士卒の勤労を察し速に特偉の功績を奏せしを嘉みす」

また同9月20日、「黄海大捷に付聯合艦隊司令長官伊東祐亨へ勅語」もある。これを承けて同28日、伊東祐亨が奏答した。
「聯合艦隊の黄海に於ける戦勝を聞し召され特に優渥なる勅語を賜ふ祐亨恐懼に耐へす茲に恭しく 陛下の萬歳を祝し謹て奉答す」(この「萬歳」は「長寿」の意)

伊東祐亨については、明治27年11月28日付「大連湾旅順口占領に付聯合艦隊司令長官伊東祐亨へ勅語」もある。さらに同28年2月18日「威海衛北洋艦隊全滅の時聯合艦隊司令長官伊東祐亨へ勅語」を下された。

以上は田山宗堯『明治詔勅集』に確認できる。ただ高須芳次郎謹述『大日本詔勅謹解』にはもう一つ、同3月8日「伊東祐亨に下し給へる勅語」が掲載されている。伊東祐亨は日露戦争時の軍令部長であり、終戦後に元帥となった。

 

平成28年5月20日

NHKニュース(平成28年5月14日)に「幕末に米を初公式訪問 外交使節団の記念碑設置」があった。

「幕末にアメリカを初めて公式訪問した外交使節団を記念する石碑が首都ワシントンに設置され、日米両国の関係者の子孫が集まって完成を祝いました」 

我が国からは副使・村垣淡路守の子孫が参加した。正使は新見豊前守正興であるが、その三女は養女となり奥津りょうという名で、維新後には柳橋の芸妓となった。

この奥津りょうとの間に子をなしたのが柳原前光。伊藤博文と落籍を競ったという。子の名前は燁子(あきこ)、後の白蓮である。燁子は結婚して最初の子を15歳で産んだ。

その後離婚し九州の炭鉱王と再婚してひと悶着を起こす。いわゆる白蓮事件であるが、結局これも離婚となり、宮崎龍介と再々婚をした。宮崎龍介は孫文を支援した宮崎滔天の子息である。話題に事欠かない白蓮の人生だった。

 

平成28年5月14日

満州については満州事変以降から語られることが多い。つまり昭和戦前の満州。しかし彼の地はロシア・中国・モンゴル・朝鮮と接し、それ以前から国境線をめぐる複雑な経緯が存在した。

露清間の主な条約は以下の通り。

1689年 ネルチンスク条約 黒竜江での国境が確認された
1727年 キャフタ条約    同様に露清間でモンゴル北辺の国境が確定された
1858年 アイグン条約  清国にとっての不平等条約で、露国による黒竜江左岸の獲得だった
1860年 北京条約    これでロシアは沿海州を領有
1873年         ロシアはウラジオストック港を解説

満州の地はロシアの南下政策や漢人らの流入、そして満州事変以降の日本の政策によって、狩猟文明から農業文明そして工業文明へと姿を変えた。まさにロシア・中国そして日本を含めた文明間の係争の地でもあった。

 

平成28年5月10日

藤田哲也(1920-1998)はミスター・トルネードと称された米国の気象学者。博士号を取得した昭和28年にシカゴ大学の気象学客員研究員となった。市民権を得たのは昭和43年。

当時の米国では航空機の墜落事故がたびたび発生していた。藤田博士は米国内の竜巻被害を調査検証し、ついに航空機墜落の原因がダウンバースト(下降噴流)にあることを発見した。

ところで藤田博士は福岡県生まれ。昭和18年に明治専門学校(現・九州工業大学)を卒業し助手となった。広島長崎の原爆による被害調査に派遣されたことも、後の発見に影響を与えた。

つまり下降噴流によって、被爆中心地の樹木は垂直を保ち、遠くになるほど樹木は放射状に倒れる。これがダウントルネードの発見につながった。画期的な発見ゆえ、藤田博士はいつも議論を巻き起こしたという。

藤田博士が編集者に説明する時間がもったいないと、自著を自費出版していた話をテレビで観た。このことは実に興味深い。実験再現性のある科学でもこうだから、歴史の発見なら推して知るべしだろう。

 

平成28年5月7日

詔勅の副署に関して追加すべきことがある。以下は要約。

明治19年2月26日公文式
「法律勅令は内閣総理大臣が副署、各省主任の事務に属するものは内閣総理大臣及主任大臣がこれに副署する」

明治22年2月11日帝国憲法
「国務に関する詔勅は国務大臣が副署する」

明治22年12月30日(公文式中改正の件・勅令第百三十九号)
「一般の行政に関するものは内閣総理大臣と主任大臣の副署、各省専任の事務に属するものは主任大臣が副署する」

明治40年1月31日公式令(勅令第6号)
「詔書において皇室に関するものは宮内大臣と内閣総理大臣の副署、大権の施行に関するものは内閣総理大臣又は他の国務大臣とともに副署する」
「勅書において皇室に関するものは宮内大臣、国務大臣の職務に関するものは内閣総理大臣が副署する」

問題は明治22年12月の「改正・公文式」である。「各省専任の事務に属するものは主任大臣が副署」だから陸海軍大臣は内閣総理大臣抜きの統帥権を手にできる。

大権の施行に関する詔書に関し、明治40年の公式令において内閣総理大臣の副署は復活した。ロンドン海軍軍縮条約の締結は天皇大権であって統帥権とは別物だから、締結を担当した浜口雄幸内閣に誤りがないのは当然である。

 

平成28年5月4日

明治44年10月10日に武昌蜂起があり、翌45年2月12日には宣統帝(溥儀)の退位となった。これが辛亥革命である。我が国では第二次西園寺内閣の時代。

陸軍の二個師団増設要求は、この辛亥革命から本格化した。西園寺公望は支那に対し内政不干渉を主張したが、山県有朋や桂太郎をはじめとする陸軍関係者は干渉主義の立場だった。

日露戦争以降、日本からも満州方面に移住する人々がいた。ただし二個師団は朝鮮半島におく予定だった。当時の新聞には、混乱する支那に対する一部の尊大な主張も掲載されている。

二個師団の増設が決定し、実際に師団長が赴任したのは大正7年、1915年だった。ロシア革命は1917年だから、まさしく満州は我が国の国防上、問題の地ではあったと言える。

辛亥革命から結果として二個師団が朝鮮半島に設置され、ロシア革命からのシベリア出兵もあった。後者は「無名の師」といわれたが、昭和6年の満州事変はこれらの延長線上にある。まだまだ戦略的検証が必要ではないか。

 

平成28年5月2日

詔勅の研究で第一人者とされるのは森清人で、『大日本詔勅謹解』その他多くの関係書がある。1894年生まれで1961年に他界した。現在では錦正社『みことのり』にその名が遺されている。

森清人は『詔勅虔攷』において、軍人勅諭と教育勅語についてその経緯を述べている。両方とも明治40年の公式令以前に渙発された。それゆえ「勅諭」「勅語」に明確な区別がなかったという見解である。

詔勅の中で、言葉によるものは勅語とされる。側近がこれを記録して後世に伝わった。勅諭は名の通り「お諭し」であって、あくまで内容によってそう称される。ただ軍人勅諭も教育勅語も大臣らの副署のないことは同じである。

森清人で気になるのは、教育勅語が「明治四十年以後に渙発されてゐたならば、おそらく詔書の形式をとらせられたであらうと思はれる」と記している部分である。

井上毅によれば、教育勅語は「社会上の勅語ならば大臣の責任の件と同じからず」だった。つまり教育勅語は国務に関するものとは別だから、詔書にはなり得ないと考えて妥当である。

 

平成28年4月28日

大正政変の基礎に勅語があったことはすでに述べた。詔書・勅書、いわゆる詔勅については定めがあった。明治19年の公文式、同22年の大日本帝国憲法そして同40年の公式令である。しかし文書ではない勅語には言及がない。

公文式が定める主なものは「法律命令」で、要するに法律と勅令である。布告の方法と印璽についての条文がある。「法律勅令ハ親署ノ後御璽ヲ鈐ス」とある。

大日本帝国憲法第55条2項は「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」である。「国務に関する詔勅」とあって副署とあるから勅語は含まれていない。

さらに公式令は「皇室ノ大事ヲ宣誥シ及大権ノ施行ニ関スル勅旨」に関するものであり、詔書・勅書のほか上諭について定められている。いずれも内閣総理大臣等の副署が必須となっている。

さて、明治25年と同34年にほぼ同じ勅文が下されている。前者は勅諭で御名御璽と総理大臣の副署はあるが後者は勅語で御名御璽や副署はない。この混乱は公式令以前ということで整理されてきたが、さらなる講究が必要だろう。

 

平成28年4月24日

明治36年12月11日、衆議院は解散となった。第一次桂太郎内閣でのことである。そしてこの解散の原因は詔勅奉答文にあった。どのような経緯だったのか。

まず10月21日、憲法に則り12月5日を以って(第19回)帝国議会を召集する旨の詔が渙発された。ついで12月7日には12月10日帝国議会開会の詔が伝えられた。

12月10日に発せられた開院式の勅語は、外交について「国務大臣をして慎重其の事に当らしむ」であり、予算についても「議会の議に付せしむ」であった。

さてこの勅語に対し衆議院議長・河野広中は議会冒頭、独断で内閣弾劾の奉答文を朗読した。議会ではこの奉答文に反対もあったが、形式的には認められ一事不再議が適用された。

第三次桂内閣は詔勅の濫用が致命的だった。それでいわゆる憲政護憲運動が起き、大正政変となった。宮中府中の別は明治年間を通しての課題だったが、殊に詔勅をめぐる時代でもあった。

 

平成28年4月20日

昭和恐慌は世界的な規模だった。各国による第一次世界大戦の処理に加え、我が国では大正12年の関東大震災の処理があった。いわゆる震災手形等の決済である。

支払猶予(モラトリアム)は実施してもやがて決済期日は巡ってくる。世界大戦による需要は激減し負債の処理が付きまとう。昭和2年に鈴木商店が営業を停止した背景でもある。

ところで政府の一般債務は2015年度で約1229兆円。同じように金融資産は約600兆円だから政府純債務残高は約629兆円と各種のサイトに公開されている。

財務省のサイトではこれらの金融資産に対し、たとえば独立行政法人などへの出資は「そもそも市場で売買される対象ではありません」としている。

しかし出資先にも売買可能な資産が存在するだろう。また国立大学法人などは十分に市場価値はあるのではないか。国債残高が増え、その資産が市場価値のないものとなるという論理は、やはり承服できない。

 

平成28年4月15日

尾崎行雄「まるでだめです。あれは井上毅が作ったのでしょう。何のことか、わけがわかりません。「わが国体の精華にして」なんのことかわかりません。亡国のてつだいをしただけの話です」

これは戦後(1949年)、教育勅語について語ったものである。文責は鶴見俊輔。つまりこれを読むと、尾崎行雄自身も教育勅語を曲解していたと分る。

大正政変では桂太郎首相の勅語濫用を正して憲政擁護運動を行った尾崎行雄。しかし共和演説事件などで不興を買い、明治天皇や側近の信任を失って文部大臣の職を辞すことになったといわれる。

これら一連をみると、憲政擁護運動も自身の権力闘争の一つだったと考えて納得がゆく。帝国憲法にはそもそも共和制など念頭にない。共和演説はその意味で二枚舌と言われてもやむを得ないのは当然である。

教育勅語を罵倒して頓着のない尾崎行雄。そのメモリアルホールは「東京都千代田区永田町1-1-1 憲政記念館内」にある。歴史を丁寧に見直せば、この憲政記念館も反日の象徴となるのではないか。

 

平成28年4月12日

『宇垣一成日記』は全3巻で朝鮮総督府時代はその第2巻にある。昭和6年6月17日に赴任した。満州事変は同年9月18日に起きた柳条湖事件にはじまるから、宇垣の着任3ケ月後のことである。

さてその時の陸軍大臣は南次郎。参謀総長は金谷範三。いずれも宇垣が評価した軍人だった。当時満州への「越境将軍」と言われたのは林銑十郎だが、何があったのか。

「両三日来満州事件は陸軍の陰謀なりとの声が耳に入る。余り迅速機敏に仕事が出来たから左様な憶測を逞ふするに至りし様子である。己れ憎き奴、何か機会がありたら眼に物見せて遣らんと待ち構へて居た矢先に鉄道破壊の彼の暴挙が引掛りたのであるから、あの手際は何の不思議もなく奇妙もない」(9月27日)

朝鮮軍の「越境」については政府内でも反対が少なくなかった。結局は追認した若槻内閣であるが、統帥権上のことは天皇大権だったから、具体的には参謀総長からの上奏で裁可ということになる。

しかし宇垣の姿勢はやはり問題だろう。朝鮮総督府官制は総督府に全権を与えていたが、海外出兵の権限は付与していない。宇垣朝鮮総督府は少なくとも天皇のご裁可と政府(の予算)決定まで、満州派兵を阻止すべきだったということになる。

 

平成28年4月7日

明治38年12月。伊藤博文は初代の韓国統監に任命された。11月に締結された第二次日韓協約で韓国が日本の保護国となったことによる。さて統監府及理事庁官制である。

その第4条
「統監ハ韓国ノ安寧秩序ヲ保持スル為必要ト認ムルトキハ韓国守備軍ノ司令官ニ対シ兵力ノ使用ヲ命スルコトヲ得」

伊藤博文は文官である。ゆえに陸軍がこれに不満を持った。文官が軍に命令を下すかと。そこで桂太郎首相らは天皇に勅語を賜って、条文通りで良いことを確認せしめた。

その後、韓国統監府は朝鮮総督府となったが、その官制第二条には「総督ハ親任トス陸海軍大将ヲ以テ之ニ充ツ」として武官の総督を定めることになった。

上部に担当大臣のいない、天皇直轄の組織。帝国議会の協賛を要さない権限。たしかに超法規組織と批判される存在である。

 

平成28年4月4日

美濃部達吉が治安維持法を批判したとするコメントがある。しかしその条文は帝国憲法に副っていて、拡大解釈をされる危険性はあるが、大きな違和感は感じない。では何を批判したのか。

大正14年に制定された治安維持法は昭和3年に改正となった。最高刑が10年から死刑とされたのである。さて、美濃部達吉の治安維持法批判とはどんなものだったのか。

「治安維持法の改正問題」はこの昭和3年の改正についての批判である。「政府は議会の閉会後に至り、緊急命令をもつてその改正を行はんことを企て」たというのである。

「議会閉会後に至つて緊急命令をもつてこれを処理せんとするは、明かに憲法違反である」
つまり、改正の手続きについての批判だと判明する。以下はその真意を表現している。

「不満を除きおよび合法的にその不満を訴ふる途を開くことは、革命を防止すべき唯一の安全弁である。この途を講ぜずして徒らに権力を濫用して弾圧迫害を加ふるのは、如何なる厳刑をもつてするも、寧ろ革命を誘発するものである。この意味において治安維持法そのものすらも悪法の非難を免れないもので、況や改正においてをや」

 

平成28年3月30日

大正から昭和戦前の日本及び世界の経済状況について。たとえば高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』がある。しかし本書は子細を語って経済のダイナミズムを要約しないから分りずらい。

日露戦争後、戦費の返済で我が国経済は困窮した。それが第一次世界大戦がはじまって未曽有の好景気となった。大戦の当事国である欧州各国などからの注文が多かったからである。

しかし大戦の終了後、その反動が来た。ここでデフレ政策が考えられた。その方法が金解禁つまり金本位制だった。外国為替の適正化対策であるが、当然この政策には痛みが伴う。

金本位制は金の保有高の範囲内しか貨幣は発行されない。ゆえに輸入超過では金が流出し国内の貨幣も減少する。これが過ぎるとデフレ不況となる。

このデフレ不況に対し、考えられたのはインフレ政策である。金輸出を禁止し、いわば管理通貨制度とする。需要を国が作り出し国債を発行してインフレを起こす考え方である。大雑把だが、以上は鈴木隆『高橋是清と井上準之助』にまとめられている。

 

平成28年3月27日

昭和史本は『昭和天皇独白録』などを中心に、昭和3年の張作霖爆殺事件から語られることが少なくない。ところで、これ以前に軍部が関係した出来事を眺めると、陸軍海軍間の事情が分かって興味深い。

まず、大正元年に起きた第二次西園寺内閣の総辞職。原因は陸軍の二個師団増設問題で、西園寺首相はこれに反対だった。大正10年には海軍軍縮会議のワシントン会議、ついで昭和5年には同様のロンドン会議が開催された。

五・一五事件は海軍の将校が主体で起こしたから、海軍の軍縮が原因である。さらに二・二六事件。これは陸軍の将校が起こした事件。陸軍から海軍そして陸軍が事件の中心となって来た。

上原陸軍大臣が直接上奏して辞任した件が引き金となった大正政変。そのあと斎藤實海軍大臣は優諚で留任したが、これで陸軍に対し海軍も軍部大臣現役武官制で組閣に圧力をかけようとした雰囲気が読み取れる。

こうしてみると、陸軍海軍は競って大正昭和戦前の政治に深く干渉し、大日本帝国を滅亡に追いやった感がある。軍人勅諭の精神はどこに行ったのかと思う。

 

平成28年3月22日

ドイツ・オーストリア・オスマン帝国そしてブルガリアなどの中央同盟に対し、英仏露そして伊などがこれに敵対した第一次世界大戦。その最中にロシア革命が起き、露は戦線を離脱した。

ロシア東部に日米の出兵を期待したのは英仏だが、当初の米国は革命ロシアに同情的だった。

ウィルソン米国大統領「専制政治から永遠に脱却し、独立自由の国民たらんと努力をつづけるロシア国民に対し、合衆国国民はあげて満腔の共感の意を表する次第である」

それでも結果として日米は出兵したが、米国が撤退した後も、我が国は駐留した。無名の師、つまり大義名分のない駐留とさえ批判された。尼港事件のあと撤退したが、これらを指揮したのは上原勇作参謀総長である。

大正の政変で軍部大臣現役武官制を悪用し政局を混乱させた張本人。そしてシベリア出兵で戦略を間違えた。ようするに日米協調路線を選択できなくて、これがその後の日米開戦につながったと言っても過言ではないだろう。

 

平成28年3月20日

明治の最後から大正の初めにあった陸軍の二個師団増設問題。上原勇作陸軍大臣が強く主張し、西園寺公望首相がこれに反対して政局が不安となった。上原大臣は直接上奏し辞任してこれに抗した。

その後ややあって、大正4年に二個師団の増設が決定した。第19・20師団である。これで近衛師団を含め師団数は21となったが、日露戦争後の国家財政からして、当時の西園寺首相の方針は当然だったと言ってよいと思う。

この増設された二個師団は朝鮮半島に派遣された。その後の大正7年(1918年)、我が国は第12師団を中心としてシベリアに出兵した。第一次世界大戦は1914年から1918年までだったが、1917年にロシア革命が起きた。

英仏露とドイツは戦争状態だったが、ロシアの過激派は戦線を離脱した。それによるドイツ勢力の東部拡大を阻止するために英仏は日米の出兵を期待した。このシベリアをめぐって日米に齟齬はあったが、双方とも出兵となった。

米国はチェコ軍支援が終わって1920年に撤兵したが、日本は居残って、撤退したのは1922年だった。その間、尼港事件などで大きな犠牲を払うことになった。誰が何を決断してこうなったのか。

 

平成28年3月18日

大正の政変は、要するに詔勅の扱いに関する問題であり、宮中と府中のそれであった。第三次桂太郎内閣は、勅語あるいは勅書で政治を行った。国務に関する詔書や勅書には大臣の副署が必要である。しかし勅語に副署は義務付けがない。

いわゆる「尋常の小事」が勅書で「臨時の大事」が詔書だから、議会の停止などは勅書である。大正二年二月五日のそれは総理大臣らの副署がある。

問題は勅語である。帝国憲法第55条に勅語は含まれていないとするのが、桂首相の弁だった。元田肇や尾崎行雄らがこれに反論した。国務に関するものは勅語も詔勅であるとする見解だった。

帝国憲法や公式令からすると、桂太郎の考え方は誤りである。勅語で政治をするなら天皇親政であり、立憲主義に反することになる。第三次桂太郎内閣が反憲法だったことは否めない。

昭和初期の統帥権干犯論や天皇機関説排撃もいわば憲法蹂躙であった。当サイトが、この桂太郎から二・二六事件までつながっているというのは、この意味においてである。

 

平成28年3月15日

昭和8年は華族社会に象徴的な事件のあった年。華族赤化事件と不良華族事件である。前者は華族の若者10名が共産主義運動に関連し、治安維持法によって検挙された事件。

別に演劇の土方与志はソ連を訪問していたが、爵位の返上を命ぜられた。さて世間を騒がせたのは不良華族事件であった。

赤坂溜池にあったダンス教室の教師小島幸吉が華族の夫人数人と通じていたことが報道された。その教師に婦人たちを取り持ったのが吉井徳子である。詩人吉井勇の妻で、柳原義光の娘であった。

ゆえに伯爵柳原前光の孫であり、白蓮の姪である。また斎藤輝子も関連していた。齋藤茂吉の妻である。以後茂吉と輝子は長く別居したが、これが原因の可能性が強い。

さらに近藤廉治・泰子の名も挙がった。泰子は樺山愛輔の長女で白洲正子の姉である。夫婦は華族だったが爵位はないから除族とされた。このことは先日書いたとおりである。

 

平成28年3月14日

巌谷大四は1915年生まれ。菊池寛の遠戚だった関係で、文芸家協会に入り、第二次大戦中は日本文学報国会事業課長、戦後は鎌倉文庫出版部長や『文藝』『週間読書人』の編集長を歴任した。

ところでその「昭和十、十一年代の文芸界」は文芸評論家の限界を示していて興味深い。

「昭和十一年の「二・二六事件」は、」わずか四日間の、しかも失敗に終わったクーデターであったが、この事件を契機に軍部の発言力は増大し、内務官僚や警察の強圧、人権無視はますます日常化していった。ファシズムは国民を骨抜きにし、無理に戦争の方へ引っぱっていきはじめた」

二・二六事件は天皇によって鎮圧された。テロであり帝国憲法を否定するものだったからである。憲法の否定は、天皇機関説を擁護した渡辺錠太郎教育総監が殺害されたことで証明される。

さて、軍隊による失敗したクーデターのあと、なぜ軍部の発言力が増したのか。そしてなぜ巌谷大四のいう「ファシズム」が国民を戦争に引っ張ったのか。以上から、上記のコメントは支離滅裂というしかない。

 

平成28年3月12日

土方与志は伯爵土方久元の孫で、小山内薫とともに築地小劇場を開設した。小山内の急逝後、演劇に対する考え方の違いから附属劇団は分裂となった。

土方を支持して新築地劇団に参加した一人が山本安英である。木下順二が書いた戯曲「夕鶴」の「つう」を演じて演劇史に名を遺した女優で、以前は教科書にも写真があった。

そしてこの山本安英に手紙を書いて俳優となったのが沢村貞子。昭和7年、沢村貞子はコップ(日本プロレタリア文化同盟)関連で検挙された。そのメンバー約400名が実質上共産党指導下の「地上運動」体として入党している疑いがあった。当時の共産党は非合法である。

沢村貞子が最初の結婚をした左翼劇場の今村茂雄も検挙された。彼女は演芸団メザマシ隊の一員として活動していた。自伝の真偽は確認できないが、「革命はいつおきるだろうか」と夢想し、一度は「転向」を拒否したという。

その後沢村貞子は仲間への不信から「転向」した。二度目の結婚相手である藤原釜足のあと、新聞記者だった大橋恭彦と交際二十数年後に正式な結婚をしてその生涯を終えた。

 

平成28年3月10日

昭和2年、映画「椿姫」を撮影中の女優・岡田嘉子が失踪した。共演の竹内良一が一緒だった。これより前、大正の後半に岡田嘉子は同じ座員で学生だった服部義治の子を産んでいる。

その後、舞台演劇の恩師山田隆弥と愛人関係になった。竹内良一との失踪事件はその後のことである。昭和6年、恋仲となった演出家の杉本良吉とソ連へ潜入しようとして失敗した。

昭和13年1月、二人は再びソ連へ向かい入国を実現した。不法入国だったから杉本良吉は銃殺されたが、岡田嘉子はモスクワで日本語放送のアナウンサーとなった、

岡田嘉子が帰国したのは昭和47で35年ぶりだった。東京都知事だった美濃部亮吉などの支援があった。そして岡田嘉子の支援者を眺めるといわゆる左翼つながりが明らかとなる。

モスクワの岡田は、かつて松竹の俳優で11歳年下の滝口新太郎を夫としていた。滝口は徴兵され満州へ行き戦後はシベリアに抑留されて社会主義に同調した。そこで岡田の放送を聞いてモスクワへ行き結婚したという。

 

平成28年3月6日

大久保利通の三男は内務官僚の大久保利武。鳥取県・大分県・埼玉県知事そして大阪府知事を歴任した。その後は貴族院侯爵議員にもなった。長男には歴史家の大久保利謙がいる。

この利武の妻・栄は男爵近藤廉平の長女。その廉平の次男・廉治の妻となったのが泰子で、樺山愛輔の長女であり白洲正子の姉である。さてこの泰子とは如何なる人物か。

昭和8年11月13日、赤坂溜池にあるダンス・ホール「フロリダ」のダンス教師小島幸吉が「色魔」として逮捕された。要するに有閑マダムらのご乱交が世に出たのである。当時は姦通罪の時代だった。

この事件に関与したとされた一人がこの泰子。泰子の父・樺山愛輔は伯爵で母の常子の父も伯爵川村純義である。廉治は男爵の次男ゆえ華族ではあったが爵位はない。

関与した者らはそれぞれに処分を受けたが、近藤廉治・泰子は「除族」とされた。華族でなくなり平民とされたのである。ただこのことは妹が書いた『白洲正子自伝』には出ていない。

 

平成28年3月4日

鈴木商店の鈴木ヨネ。夫の岩治郎が没して35日後の法要の席で、鈴木商店の継続を決断した。その時の口上を、多分要旨ではあると思うが、ここに紹介したい。出典は荒井とみよ「事業への理想と情熱」『近代日本の女性史6』

「二十年にも充たない結婚生活であったが、ここでわたしはほんとうに生きた。気難しい男であった、理不尽に癇癪を起こされたこともあった。周囲の人々も甘いばかりではなかった。厳しい仕うちもあった」

「死を思った日さえある。しかしわたしは逃げたくなかった。商売の修羅場を生きている男の鼓動を聞くのが好きだったから。夫とともに私も闘っていたから。今、鈴木商店ののれんを降ろすことは、夫の野望も葬ることである。夫を二度葬ることはできない」

鈴木ヨネは大番頭にすべてを任せたから、何もしなかったと言われる。しかし事業の継続と停止を決断したのは、このヨネであった。継続の決断は1894年(明治27年)、停止のそれは1927年(昭和2年)。

この間わずか33年。これで三井三菱をしのぎ、いわばGNPの10%にのぼる売上額があったという。平成も28年だが、信じられない躍進だった。

 

平成28年3月2日

明治から昭和の初めまで、総合商社として大いに隆盛した鈴木商店。鈴木岩治郎はもと川越藩の下級士族の次男だった。厳しい貧乏生活で本人は菓子職人となったが、養育を放棄した兄と父母が頼って来た。

岩治郎は目ぼしいものすべてを譲り、自身は長崎へ旅立った。その後、大阪の砂糖商辰巳屋の神戸支店を譲り受け、カネタツ鈴木商店と称したのが鈴木商店の始まりである。

明治10年、この岩治郎と結婚したのが「ヨネ」。姫路の生まれで父は仏壇漆塗師だった。26歳で離婚経験が一度ある。岩治郎は明治27年に他界した。

そこで事業の継続を決定したのが鈴木ヨネ、43歳。金子直吉と柳田富士松の二人の大番頭にすべてを任せて、大正6年には年商15億円を超え、三井物産をしのいでトップとなった。

昭和2年には金融恐慌から倒産を余儀なくされたが、債権者会議も破産宣告もなかったという。帝人、豊年石油、神戸製鋼、播磨造船などがそれぞれ事業を継承したから、鈴木商店の規模が想像できる。

 

平成28年2月26日

明治19年の公文式・明治22年の帝国憲法そして明治40年の公式令。これが近代の詔勅を知る歴史である。

詔書には宮内大臣・総理大臣そして内容によっては国務大臣も副署する。勅書には宮内大臣が副署し国務に関するものは総理大臣、内容によっては国務大臣も副署するとされていた。

さてここで問題となるのは第三次桂太郎内閣の「勅語」。「時局収拾の為め西園寺公望に下し給へる勅語」は大正2年2月9日であるが、宮内大臣や総理大臣らの副署は確認されていない。また官報にも掲載されていない。

さらに桂首相は議会の紛糾を回避するため「勅語」によって議会を停止した。これに反駁した尾崎行雄の演説によれば、大臣の副署が無かったのは間違いないと考えられる。

副署のない「勅語」によって行う政治は天皇親政となり憲法は無視される。この政治の流れと二・二六事件の思想とが重なって見える。

 

平成28年2月25日

桂園時代とは、桂太郎と西園寺公望がサンドウィッチのように交代で総理大臣となった時代のことをいう。桂太郎が三度、その間で西園寺公望が二度総理大臣となった。

第二次西園寺内閣が倒れたのは二個師団増設問題が原因だった。西園寺はこれに反対したが、陸軍はそれに抗して陸軍大臣を出さないことにした。それでは組閣はできない。

さて、問題は第三次桂太郎内閣である。今度は海軍が抵抗した。そこで首相は天皇に上奏し、海軍大臣留任の勅語を賜った。ただし総理大臣等の副署は確認されていない。

これを問題視したのが尾崎行雄らである。ここに所謂大正時代の「憲政擁護運動」がはじまった。少なくとも政治に関する詔勅には大臣らの副署が必要である。これがなければ天皇親政となり、大日本帝国憲法に反することとなる。

以上から、憲法改正運動もないのに、護憲派がでてきた背景が明らかとなる。そしてこの問題は昭和戦前まで尾を引くこととなる。昭和史の一面と言えそうだ。

 

平成28年2月21日

芳川鎌子の心中事件。婿養子寛治と鎌子の間には明子がいたから芳川顕正は鎌子を籍から抜いた。しかし娘のことであるから、渋谷に居を構え中野には別邸を与えて保護することとした。

別邸では気晴らしも必要なことから、三井物産から芳川家専属の自動車運転手・出沢を出向させていた。三井物産は寛治が勤めていた会社だった。

心中事件の運転手だった倉持と出沢は知り合いの仲。そうこうしているうちに、大正7年10月、鎌子と出沢は失踪した。すでに鎌子は平民で二人は独身。しかし世間は駆け落ちとして扱った。

芳川顕正は大正9年1月、数え80歳でこの世を去った。従一位を賜ったから、たいへんな功労者ということになる。その葬儀に鎌子は参列していない。

鎌子は翌年4月、寛治からうつされた病気でこの世を去ったが、まだ31歳だった。以上は三好徹『大正ロマン』の真実にある。

 

平成28年2月18日

芳川顕正。徳島出身で町医者の子として生まれた。徳島は蜂須賀藩ゆえ佐幕派だったが、養子先の医師・高橋家は藩士でなかったから時代の流れには巻き込まれなかった。元は原田賢吉だったが、徳島の吉野川から芳川を採り賢吉を顕正とした。

芳川はそれなりの勉強家だったが、森有礼と知り合って運が向いてきた。その後は教育勅語渙発時の文部大臣になり、司法大臣・内務大臣を歴任した。黒岩涙香『蓄妾の実例』によれば、芸妓あがりの伊藤初子(27歳)を自邸に住まわせていたというから、妻妾同居ということになる。

教育勅語には「夫婦相和し」もあれば「博愛衆に及ぼし」がある。芳川顕正は教育勅語を遵守したと、からかわれたのではないかと、皮肉りたくもなる時代の話である。

ただ不運なことに、生まれた長男次男は早く亡くなったから、四女鎌子の夫として子爵曽禰荒助の次男・寛治を婿養子にとった。さて、その鎌子がお抱え自家用運転手と心中をはかって事件となった。大正6年3月7日。

鎌子は明治24年生まれだから26歳、運転手の倉持陸輔は明治27年生まれだった。夫の寛治は芳川伯爵の跡取りとなったが、芸者遊びにうつつを抜かし、性病にかかって鎌子に伝染させるような御仁だった。この話には続きがある。

 

平成28年2月11日

昭和三十二年五月八日、森清人は国会の内閣委員会公聴会に公述人として招聘された。紀元節復活、正式には「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」に関するヒアリング。歴史研究家として紹介された。

森清人は詔勅研究の参考文献を多く残した研究者である。『大日本詔勅謹解』『詔勅虔攷』『大日本詔勅通解』をはじめ相当な量にのぼる。『みことのり』も森清人の「謹撰」とされている。

この公聴会で森清人は明治以来の通説を批判した。つまり二月二十一日の建国には根拠がないということに対し、その通説も根拠がないという内容であった。そして「神武東征」ということに関し、東を征伐した、征服したというのはどうかと思うとも述べた。征服なら「征東」となるのではないかということである。

また桓武天皇の「征東将軍」などがそうであり、その証拠として淡海三船の『鑑真和尚東征伝』をあげた。「征」とは「行く」という意味だということである。その後、紆余曲折があって、昭和四十二年から「建国記念の日」が適用されて今日に至っている。以下は森清人の名言というべき文章である。

「兢兢として筆を進めしも、一個の管見、往々にして述べて悉(つ)くさざるものあるを懼(おそ)る。これ一に著者不学の致すところであるが、もし夫れ義に悖り解を過(あやま)るところあらば、悉くこれ一身の罪にして、読者幸いにこれを諒とせられよ。虔(つつし)んで大方の垂示と叱正とを乞ひ、将来の研尋討覈を期す」

 

平成28年1月26日

教育勅語の草稿について。元田永孚が「悖らざるべし」を「悖らず」としたのは強い推量にするためと思われるが、「悖らざるべし」は文部省案の可能性がある。井上毅は「悖ることなし」として過去形にしたと思われるが、これにはまだ研究が必要である。

元田の「教育大旨」には「(斯の道、斯の徳は)各国立教の異同と風気の変遷とを問はず、以て古今に照して謬らず、以て中外に施して悖らず」とある。主語は「斯の道」。

しかし「之を」となると主語は異なってくる。「之を古今に通じて謬らず」だから主語は歴代天皇となる。また井上毅が「皇祖皇宗の遺訓」を「古今に通じて」「中外に施して」と過去形にしたのに対し、元田の視点は明治天皇にあるようである。

なぜなら「古今に照して」の主体は明治天皇であり、「中外に施して」も同様となるからである。資料からその解釈を考えると、以上のようなむつかしさが付きまとう。

「之を古今に通じて」と「之を中外に施して」の主語をいづれも歴代天皇とすれば、過去のこととなる。前者の主体が歴代天皇で後者のそれを明治天皇とするのは無理がある。やはり両者の主体は歴代天皇で妥当性がある。

 

平成28年1月25日

教育勅語の「之を古今に通じて」を「之を古今に伝達して」と解釈することについての補足。教育勅語の草案が20回前後にわたって推敲されたことは数多の研究書にある。

この推敲段階の原稿を見ると、「古今の異同と風気の変遷とを問はず、以て上下に伝えて謬らず」から「以て上下に通じ」となったことが分る。これは「通じて」を「伝達して」とする根拠にもなる。

また「之を中外に施して悖らず」は「中外に施して悖ることなし」だったことも重要である。これが「悖らざるべし」と修正されて、最終的に「悖らず」となった。

つまり当初の「悖ることなし」は過去形ともとれる。しかしそれが「悖らざるべし」となって推量に修正された。それが「悖らず」となってやや解釈がむつかしくなった。

元田永孚「教育大旨」には「(斯の道、斯の徳は)以て古今に照らして謬らず」とあるから主体は「斯の道」。しかし教育勅語の「之を古今に通じ」の主体は歴代天皇である。

 

平成28年1月12日

教育勅語の解釈。これは当サイトのメインテーマである。それゆえ文部省が行った昭和15年の「聖訓の述義に関する協議会」の報告書は分析して意味があると思う。

第一のポイントは「徳を樹つること深厚なり」の解釈。この「徳」は「徳目」ではなく「君治の徳」である。これは井上毅の文章から推測できる。そして「之を古今に通じて謬らず」が第二のポイント。

「通じて」は「伝達して」の意味である。では誰が伝達の主体か。「皇祖皇宗の遺訓」が「斯の道」であり「之」であるから、伝達の主体は歴代の天皇として整合性がある。

上記の協議会ではこの「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」を次のように解釈した。
「この道は古今を貫いて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である」

「古今」は「昔と今」「昔も今も」であり、ここから「永久」はあり得ない。ゆえにこれは思い込みの産物である。「中外」も井上毅や元田永孚の用例を検証しないからトンデモ解釈となっている。昭和15年は狂った年だったのか。

 

平成28年1月2日

歴史のダイナミズムについて。蒙古襲来を、蒙古、要するに元帝国と南宋の関係から読むと納得がいく。これは当サイトの平成27年10月28日に書いた。

平家物語は文学である。ただ重商主義の平家対重農主義の源氏とするのも一理ある。福原遷都は大陸との貿易のためだったろうし、東国は農業国だったからである。

また土地制度から日本史を考えることも、一つの視点となる可能性がある。養老年間の三世一身法は新田開発の所有権法。これがのちに墾田永世私有法と変わる。

平安期には皇族の臣籍降下に伴い、地方の土地が下賜された。また中央の貴族や大寺社は荘園を持つようになる。しかし現地を管理する者に実力がついて、これを守る武士が登場した。

守護・地頭などの制度は幕府が定めたものであるが、土地管理と武士は複雑に絡むようになり、荘園は消滅に向かう。そして武士が絡んで戦国となる。