不改常典「壬申の乱・トラウマ説」

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定説のない不改常典

不改常典(ふかいのじょうてん)はまた「あらたむまじきつねののり」「かはるましじきつねののり」などと読まれている。不変の法ということである。そしてこの不改常典は元明天皇の即位の宣命に出てくるのが最初である。

「是は関(かけま)くも威(かしこ)き近江大津の宮に天(あめ)の下しらしめし大倭根子天皇の、天地と共に長く日月と共に遠く改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法(のり)」

「天地と共に長く遠く改るましじき常の典と立て賜へる食国(をすくに)の法」

持統天皇は文武天皇に譲位し、協力して(並び坐して)統治をされた。これは天智天皇の立てた「法」を「受け賜り坐(ま)して行ひ賜ふ事」との認識が元明天皇にあった、という意味の宣命である。ここに示された「法」が不改常典である。

近江大津宮御宇天皇は元明天皇の父・天智天皇であるが、この不改常典に関しては、本居宣長は大化の改新をめぐる諸法としたが、他に近江令を指す等のさまざな見解があって未だ定説がない。

もっとも現在では(1)皇位継承に関するもの(2)それ以外のもの、とする二つの見解が主流である。これは戦後、岩橋小弥太によって直系の皇位継承法という見解が示されてからのものである。

(1)の皇位継承法とする見方についても、元明天皇が聖武天皇の即位のために、父・天智天皇に仮託されたものだという見解も存在する。さらには皇位継承を定める天皇大権のための仮託であるという説もあって、なかなか複雑である。

(2)の皇位継承以外のものとする見解の根拠は、不改常典が「食国(をすくに)の法」とも云われていることにある。食国法は国家統治の法であるから、不改常典を近江令や養老令だとするものである。

不改常典は平城天皇以降、皇位継承との関係が曖昧になっているとの見方も、この(2)の見解を推す根拠だということだろう。

元明天皇と天智天皇

元明天皇は天智天皇の第4皇女であり、母は宗我嬪(そがのひめ)、阿閇皇女(あへのひめみこ)と呼ばれていた。日並知皇子(ひなみしのみこ)、後の草壁皇子に嫁ぎ氷高内親王(元正天皇)・軽皇子(文武天皇)・吉備内親王をお生みになった。

ところで、天智天皇以降聖武天皇までの皇位継承は以下のとおりである。( )内は先代からの続き柄である。

天智天皇→(弟)天武天皇→(后)持統天皇→(孫)文武天皇→(母)元明天皇→(娘)元正天皇→(甥)聖武天皇

これを遡ると、聖武天皇の父は文武天皇、その父は草壁皇子、その父は天武天皇そして天武天皇の父は天智天皇と同じ舒明天皇である。

また女性の天皇であった元正天皇の父は草壁皇子、その父は天武天皇、そして元明天皇の父は持統天皇とおなじく天智天皇であるから、やはりすべて舒明天皇に行きつく。一系が保たれているのである。

元明天皇の父・天智天皇は白村江の戦いで知られている。むろん斉明天皇の時代であったが、遠征の途中で崩御となったから実質的には中大兄皇子(天智天皇)の政治でもあった。そして白村江で我が国は決定的な敗戦を喫したのである。

天智天皇は敗戦後、西国に水城をつくったりして新羅・唐の連合軍に備えたが、それ以降は内政の充実に没頭したといってよいだろう。近江令などもその証拠と言えるかもしれない。

672年1月、天智天皇は崩御した。その時の太政大臣は大友皇子である。そして7月、大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の間でいわゆる壬申の乱となった。

壬申の乱とその後の日本

最近の研究でも壬申の乱とは何か、様々な説があって取りとめがない。しかし我が国の軍事史を考究した松枝正根氏、あるいは仏教伝来から壬申の乱を整理した鈴木治氏らの著作には、やや憶説が多いものの、学ぶべきことが多い。

つまり白村江の敗戦後における我が国と、大東亜戦争に敗北した我が国とは同じような状況にある、という認識である。GHQの日本占領は日本史上にない変革を迫られた。むろんGHQの様々な誤解もあって、現在ではより複雑な様相となっている。

そして白村江の戦後は戦勝国・唐の圧力下にあっただろうことは容易に推測される。唐の郭務?らが戦後すぐに来日したこともその裏付けであるし、また天智天皇崩御の際も来日していた。戦勝国が敗戦国に圧力をかけるのはいつの時代にも共通している。

崩御に際しての一つの仮説として、天智天皇は大友皇子に皇位を継承しようとされた、ということが可能である。大友皇子は5人の高官と「天皇の詔」を守ることを誓ったからである。

しかし戦勝国・唐は敵・天智天皇の皇子であり太政大臣・大友皇子の即位を阻止しようとした。そこで大海人皇子(天武天皇)との間で壬申の乱となった。唐がどんな具体的な指示をしたかは不明である。しかし天武天皇が即位した事実は唐の歓迎するところだっただろう。

少なくとも壬申の乱は唐の影響を除外しては考えられない。我が国が唐の傀儡政権とは誇張であるが、天武天皇の即位は戦勝国の国益と合致したと考えて無理がない。

我が国における本格的な律令制度の導入は、天武天皇以降である。唐との交流が30年間なかったとはいえ、実際に国家再建は唐の制度を模倣して行われたのである。ただ日本的に解釈した部分もあって、それが大宝令等に反映されたと考えて間違いはない。

たしかに早すぎる藤原京から平城京への遷都や東大寺大仏造立などは内需拡大策である。GHQ以降の日本が東京オリンピックや大阪万博に熱心だったことに通じるものである。いづれも国防について積極性は見られない。

唐において安史の乱が起きて以降、ようやく我が国に国防思想が戻ってきた。780年光仁天皇が北陸道沿岸の警備を強化したからである。この間、蝦夷や隼人らへの対応はあったものの、外国への対応は殆ど見られない。

白村江の敗戦は663年であり、117年後の780年になって国防が充実してきた。大東亜戦争後の我が国は67年だが、未だに軍隊を持ち得ない国家であることを考えれば、この二つの敗戦後に起きた状況はよく似ていると考えざるを得ない。

不改常典と壬申の乱

さて、不改常典である。草壁皇子と阿閇皇女 (のちの元明天皇)との皇子・文武天皇の即位に際しては、何といっても持統天皇の存在が大きい。

天武天皇の崩御のあと、皇位継承をめぐりその皇子で草壁皇子の異母兄弟・大津皇子が謀反を起したが発覚して自殺した。天武・持統両天皇の皇子である草壁皇子の優先度は第一だったが、草壁皇子は早世された。

そこで持統天皇の即位となり孫の文武天皇に引き継がれた。冒頭に記したように、持統天皇が協力しての統治だったから問題はない。問題は文武天皇が20代半ばで崩御となった時の事である。

天武天皇の子孫は、つまり皇位継承者は他にも居られたが、文武天皇の皇子・首皇子(聖武天皇)に皇位を継承するため、自ら中継ぎとして即位されたのがその祖母・元明天皇である。

このあと、なおまだ聖武天皇が若いということから、文武天皇の姉・元正天皇に譲位され、その後に誤ることなく聖武天皇への譲位となったのである。この流れを整理することで、不改常典の真意が理解できる。

まず、天智天皇は新羅・唐の連合軍に敗北した。天智天皇は太政大臣の大友皇子の即位を願ったが、唐はこれを阻止しようとした。結果として大海人皇子と戦勝国・唐の方針は一致して壬申の乱となり、大海人皇子は天武天皇として即位された。

その後、天武天皇から持統天皇に皇位が継承されてその後の皇位継承が問題となった。つまり文武天皇の即位に関して、我が国では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとして天皇位の直系相続優先が主張されたのである。つまり直系相続以外の案があったということだろう。

『懐風藻』にある葛野王(かどののおおきみ)のエピソードはよく知られている。 直系相続論は文武天皇を推す持統天皇への援護射撃であった。

実はこの葛野王は壬申の乱で敗れた大友皇子の子息である。壬申の乱のときには子供であったが、後に父が亡くなった事件であったことは聞かされていたはずである。

また元明天皇は父・天智天皇の意思が戦勝国・唐の内政干渉によって果せず、内乱となったことを忘れるはずはない。

大友皇子は元明天皇の異母兄であり、天武天皇は叔父でありのちに義父となった。壬申の乱は元明天皇にとって繰り返してはならない内乱だったはずである。

11歳の聡明な少女・阿閇皇女(元明天皇)にとって父・天智天皇を失ってすぐに起きた壬申の乱。皇位継承をめぐる異母兄と叔父の闘争である。どんなに恐ろしく悲しい出来事であったか、想像するに余りある。


不改常典の真意

不改常典は、元明天皇における「壬申の乱」の教訓を基礎として語られたものである。「壬申の乱・トラウマ説」とも表現できる。

結局のところ、元明天皇は嫡子継承が皇位継承の法であることを強調されたのである。ただこの場合、たしかに直系か嫡子かの疑問は残る。

草壁皇子の直系で皇位継承候補者は一人だったから嫡子と限定されたものかどうかは不明である。また嫡子ならば天智天皇から天武天皇への皇位継承を否定せざるを得ない。

ここは微妙である。ただ最初にあげた文武天皇即位の宣命を、もう少しさかのぼって引用してみると看過できないものがある。

「関けまくも威き藤原宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし倭根子天皇(やまとねこすめらみこと=持統天皇)の丁酉(ひのととり)の八月に、此食国天下之業(このをすくにあめのしたのわざ)を日並所知皇太子(ひなめしのみこのみこと=草壁皇子)の嫡子(むかひめばらのみこ)、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授け賜ひて、並び坐(ま)して此天下を治賜ひ諧(ととのへ)賜ひき。是は関けまくも威き近江の大津宮・・」

ここに草壁皇子の「嫡子」とある。ここは素直に「嫡子継承」と考えてよいのではないか。元明天皇の意識には、天智天皇の望む大友皇子への父子継承があったと考えて無理はない。

とにかく壬申の乱のような内乱は起きてほしくない、これが本音だったと推測して妥当だろう。壬申の乱は自分の異母兄弟と叔父による皇位継承争いである。

壬申の乱ではむろん夫・大海人皇子に協力したが、内乱を好まないのは(大津皇子の件はやや強引だったが)持統天皇も同じではないか、こう元明天皇が忖度しても無理はない。

文武天皇の皇位継承にあたって、皇位継承候補者による争いがあってはならない。天智天皇が大友皇子に皇位継承を願った様に、天武天皇から草壁皇子を経由しての嫡子継承が、我が国の法である、と持統天皇の気持ちを忖度されたのが、元明天皇の宣命ではないか。

そして天智天皇の思いは、大友皇子と5人の高官による誓いに確認できるのである。

文武天皇の皇子・首皇子(聖武天皇)はまだ幼い。ここで皇位継承の法を明らかにして、自らが中継ぎとしてのちに聖武天皇の即位を期待する。そして首皇子が幼いことから発生する皇位継承騒動を阻止し、父・天智天皇の思いを、嫡子継承に発展させ、それを貫きたいとされた意思の反映がこの元明天皇の宣命だろう。

むろん兄弟による皇位継承でも万世一系は成立するが、以上の事から元明天皇はあえて嫡子継承を天智天皇の不改常典として語られたのである。そのことは元正天皇にも伝わって、聖武天皇への中継ぎとしてその役割を誤りなく務められたのである。

壬申の乱のような皇位継承をめぐる紛争の回避、この意識がもっとも大きく、天智天皇から天武天皇への結果としての兄弟継承に対する否定の意識自体は、ほぼなかったのではないか。

不改常典は、元明天皇が壬申の乱を二度と繰り返してはならないとする強い意志のもと、父・天智天皇が願った皇位の直系男子への継承を強調されたものである。

不改常典は元明天皇の詔が初出である。それは父・天智天皇の立てた法である。むろん我が国は万世一系であるが、壬申の乱のような内乱は阻止したい。これが「みことのり」から読み取れる

壬申の乱はまた戦勝国・唐の圧力だったとも考えられる。だから外圧とは無縁の、食国の法=我が国の法、と別な表現で強調された可能性も否定できない。いずれにせよ、不改常典は元明天皇における壬申の乱がなければ解読不可能なのである。

詔勅は、その渙発理由を検証することで解釈に客観性が生じて来る。不改常典は成文法ではないから、あれこれ憶測することがあって不思議ではない。

しかし白村江の敗戦、戦勝国・唐の圧力、壬申の乱。そして首皇子(聖武天皇)という幼い皇位継承者。不改常典はこれらと切り離せず、またこれらが元明天皇の詔を渙発せしめた要因と考えて矛盾がない。

白村江での敗戦、戦勝国・唐による圧力。天智天皇の大友皇子への皇位継承希望、それに対する唐と大海人皇子(天武天皇)の反対方針。そして壬申の乱からその後の天武天皇による律令国家への邁進、つまり唐化が歴史の事実としてある。

壬申の乱に関する唐の影響はまだまだ検証が必要であるとしても、壬申の乱が皇位継承をめぐる乱であったことは間違いのない事実である。

平城天皇以降では天智天皇が「初め」に立てた法なる表現となっていくが、これは「現御神止」の意味が形骸化したことと同じである。形式のみ伝わって、その意味があいまいになったのである。

だから不改常典が皇位継承以外の法、というような文脈上ありえない解釈が出てくるのである。不改常典は、あくまで元明天皇の詔を検証してその解釈が客観的なものとなるのである。

不改常典を語る著作者たちは、ほとんど詔勅を歴史の事実に副って解釈しようとしていない。

当サイトの「人間宣言異聞」に記したところであるが、『続日本紀』における「現御神止」が、本居宣長・木下道雄を除いて、今日まで誰一人正しく解釈できていない現実がそれを示している。これで記紀の詔勅を解釈するのだから、意味の通じないものとなるのである。

歴史的文脈で読めば、不改常典は正しく嫡子による皇位継承の法であり、壬申の乱を除いては歴史の文脈から外れた解釈となるのである。元明天皇・元正天皇がその中継ぎとしてのお立場をはっきり確認された「みことのり」がこのことを証明している。

ちなみに、不改常典の読み方であるが、「かへるまじきつねののり」として妥当性があるのではないだろうか。

―終わり―2012年

参考

『日本書紀』と壬申の乱

『日本書紀』の巻28は壬申の乱が中心である。森博達氏の『日本書紀の謎を解く』によれば、内容はβ群(巻1~13・22~23・28~29)α群(14~21・24~27)そして巻30に整理されるという。

β群は文武朝に山田史御方が撰述し、元明朝の和銅7年から紀朝臣清人が巻30を撰述したとされている。またα群は持統朝に続守言と薩弘恪が撰述した。

つまりβ群は文武朝に撰述されたが、巻28はおそらく阿閇皇女のちの元明天皇が深く関与したと考えられる。『日本書紀の謎を解く』の評価は別としても、『日本書紀』の完成と各天皇の在位期間から大凡のことを推測してもよいのではないか。

文武天皇の在位は697年から707年、元明天皇のそれは707年から715年である。『日本書紀』の完成は720年であり、元正天皇の御代であるが、巻28が元明朝に撰述された可能性が非常に高いと考えてよいのではないか。

あるいは文武天皇時代から元正天皇まで、『日本書紀』の編纂に主導的だったのは元明天皇だとみてよいのではないか。

やはり元明天皇にとって壬申の乱は忘れられない乱である。だから一巻を割いてその詳細を撰述せしめた、こうみてよいのではないか。記述を読んでも天武天皇による皇位継承の正当化などは感じられない。

皇位継承をめぐる内乱が起きてはいけない、それが巻28における壬申の乱の詳細となったのではないか。

この点からも、元明天皇は不改常典を用いて壬申の乱のような皇位継承をめぐる乱を防止しようとされた、この解釈に無理はないのではないか。

元正天皇の養老4年(720年)、『日本書紀』が献上された。だから聖武天皇への譲位にあたって、完璧に元明天皇の意を理解された元正天皇は正しくその意味を「みことのり」において、聖武天皇に伝えられたのである。この解釈に矛盾はない。

『日本書紀』「壬申紀」そして不改常典。すべては元明天皇を中心に解釈すれば納得がいく。やはり不改常典は元明天皇における壬申の乱を基礎としている。不改常典に関連する「みことのり」は、二度と壬申の乱と同じことが起らないように、円滑な皇位継承を願った「みことのり」と考えて自然なのである。