誤解の「あきつみ神」・現人神

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【折口信夫のあきつみ神】

折口信夫の「あきつみ神」(1/9)

折口信夫は明治20年(1887年)生まれで昭和28年(1953年)に没している。66年の生涯だったが、全集37巻とその別巻3冊があるから、膨大な著述をなしたといってよいだろう。アラヒトガミ事件でも触れたが、彼の天皇観は影響力があったからやはり検証する必要がある。

「古代生活に於ける惟神の真意義」は昭和5年である。「惟神」を分類して、「神として」「神の如く」「神そのもの」「神のままに」としているが、「神として」は範囲が広いとしているのみである。

「惟神とは、天皇が神であると言ふ事を基礎として出て来る。天皇は何故神であるか。古来天皇を現津御神と申し上げてゐるが、現津御神とは生神といふ事である。」また、アラヒトガミ事件での発言からすると、折口信夫においては、現御神=天皇であるが、現人神はさまざに用いられているから、天皇のみを指すものではない、ということである。

「天皇は、天の神のみこともち」、即、神の代理者であらせられる。其みことが非常に神聖であるから、天上の神と同一の威力が人に感じられて来る。此状態が実は惟神なのである。」

これは「信仰上」のことではあると思うが、もしそうなら、天皇の政治的立場と混乱させることのないような表現が必要なのではないか。天皇は「みことのり」、つまり政治上の発言である詔勅を渙発されるのであるから、ここは慎重であるべきだろう。現御神は主に宣命等にあるものだからである。

折口信夫の「あきつみ神」(2/9)

「惟神」と「現御神止(と)」が同じ意味を持つことは、本居宣長が解説したところである。そうすると折口信夫の「惟神」の分類とは整合性があるだろうか。

折口信夫においては、まず天皇が神の「みこともち」ということからして、「惟神」の道とは、「事実は天皇の御上にある事で、我々にあるのではない。我々が惟神の道なる言葉を用ゐる事は恐れ多い訳である。」ということになる。

そして、「日本では古来、上の生活が下に模倣せられてきた」から、「我々の生活は惟神の道理に合ってゐると言っても、理屈としては不都合はないと言へる」というのである。

上の生活が下に云々について、折口は具体的な説明をしていないから検証は不可能である。ただ、「惟神」が天皇の御上、ということについては重要な意味があるように思われる。

折口信夫の「あきつみ神」(3/9)

折口信夫においては、「天皇は、天の神のみこともち、即、神の代理者であらせられる。」ということである。これが個人の信仰上のことであれば何の問題もない。

しかし国典にある詔勅、つまり天皇の公式発言にたいする見方だとすればかなり分析が必要である。神の国と地上の国を綯い交ぜにしては、その内容が正確に把握できず、歴史を枉げて解釈することになるからである。

「宮廷生活の幻想」では、折口は「明神御宇日本天皇詔旨」の「あきつみかみと」を解説して、「聖なる御資格を宣り給ふことには違ひない」と語っている。

これには確信があるはずである。それは「天皇非即神論」において、「あきつ神」は「明らかに天子のお身をおさしして居るばかりか、天子御自身の発言であることも、確かであるから・・」と述べているのがそれである。

折口信夫の「あきつみ神」(4/9)

「天皇非即神論」において、「あきつ神」は「天子御自身の発言であることも、確かであるから、」と述べているのは、即位の宣命のなどのことであるのは間違いない。「宮廷生活の幻想」で「明神御宇・・」について、「此神旨から出た天子御自身のお名宣りの「あきつ神」と解説しているからである。

ここに折口信夫の決定的な間違いがあると言わざるを得ない。「あきつ神」を天皇ご自身とする文言は公式文書に存在しない。「あきつ神」は「現御神止(あきつみかみと}と「止(と)」をつけて用いられており、これは「しろしめす」の副詞である。現御神=天皇ではない。

どのように「しろしめす=広義の統治」かの内容が「現御神止」なのである。一言でいうと「私心無く」である。「祖先の叡智に遵って」ということでもある。「惟神」も同様である。ここにはむしろ、宗教的な色合いはない、と考えたほうがよいだろう。歴史法学的な表現ととるほうが妥当である。

現に、津田左右吉や石井良助などの研究者も、天皇は現御神であったが、宗教的な崇拝の対象であった記録はない、と語らざるを得なかった事実がある。彼らにも天皇=現御神の先入観があって、国典の正しい解釈を妨げたのである。「現御神止」の「止」が理解できなかったと言ってもよいだろう。

折口信夫は歌人でもあったが、彼の論考においては、天皇の公式発言と文芸作品上の文言とを混同するクセがある。文芸上で修辞的に用いる表現と、詔勅などの公式発言を同一の次元で解釈しては間違いが発生する。稲尾投手が巷間「神様」と呼ばれたことをもって、稲尾和久=(宗教上の)神様でないのは明らかなことである。特に優れた能力をもった人としての「神様」であるにすぎない。

折口信夫の「あきつみ神」(5/9)

折口信夫は「大君は神にしませば」を「天皇即神」とみるのは驚くべき幼さだ、として、すでに「大君即人間」の時代に「上古の夢を失うた人々の文学であった」と語っている。これはこれで一理ある考え方ではあるが、「現御神止」が「しろしめす」の副詞であるとの考えはまったく見られない。

そうして詔書式の表現は、「天皇即現神」とは宣せられては居ないのである、として、「あきつみ神」の資格を以て「あきつみ神」の如く「あきつみ神」のみ業を代行して居られるよしを示されたのだ、というのである。

「現御神止」は資格ではなく、むしろ天皇の統治に対する姿勢、と考えるべきだろう。「あきつみ神として」は「私心無く、祖先の叡智に遵って」という意味の「しろしめす」の副詞だからである。「しろしめす」を措いて、「現御神止」は説明できない。

「私心無く我が国を統治なさる」は天皇の「資格」ではなく、その「属性・姿勢」である。代々の天皇がそのように私心を交えず、祖先の叡智に遵って統治されてきた、これが「惟神」の意味であり、即ち「現御神止」の意味である。

これで本居宣長が、「現御神と大八州国しろしめすと申すも、其御世御世の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり、万葉集の歌などに、神随(かんながら)云々とあるも、同じこころぞ。」といったことがよく理解できる。

折口信夫の「あきつみ神」(6/9)

そもそも折口信夫における「神」とは何か。威力を持つとして恐怖の対象となるもの(ア)。信仰の対象となるもの(イ)。雷(ウ)。獰猛な動物を、やや尊敬・恐怖の心持ちで言ふ(エ)。これがその内容である。これだけでは折口のいう天皇は「神の代理者」の意味は分からない。

「古代人の信仰では瓊々杵尊のみが天照大神の御孫であり、其後の方々は此地上で誕生あらせられ、此土地で皇位を継承遊された、とは考へなかったのである。御代々々の天皇が、それぞれ新しく天の世界から此地上に、御現れになると信じた。これはさすがに古い文学である万葉集には、処々にかかる意味を詠じてゐる。」

万葉集のような文芸作品は別として、『続日本紀』を読めば、天皇が「此地上で誕生あらせられ、此土地で皇位を継承遊された」ことは明らかである。元明天皇・元正天皇の皇位継承に関するお言葉などがそれを表している。折口のいう古代人の「信仰」には疑問が残る。

折口信夫の「あきつみ神」論はどうもあいまいである。彼の考え方の基礎にある前提に何か不可解なところがある。折口によれば、天皇は「あきつみ神」の資格を持ち、「高天原の神と同格になり、朕が考へは神として考へてゐるのである」とし、天皇の発言にそれがあるというのである。

「現御神止」が「しろしめす」の副詞であることは、本居宣長・池辺義象(そしておそらく井上毅)・木下道雄に明らかであるが、折口信夫は「しろしめす」にどんな意味を読み取っているのだろう。

折口信夫の「あきつみ神」(7/9)

「現御神」が「しろしめす」の副詞であることは、本居宣長や木下道雄が説明したとおりである。折口信夫は「しろしめす」をどのように解釈していたのか。重要な解釈のポイントは「うしはく」と「しろしめす」の比較である。

本居宣長は「宇志波祁流(ウシハケル)は、主(ウシ)として其物を我物と領居(シリヲ)るを云、但天皇の天下所知食(シロシメス)ことなどを、宇志波伎坐と申せる例は、さらに無ければ、似たることながら、所知食などと云とは、差別(タガヒメ)あることと聞えたり」とその相違を述べている。

明治憲法起草者の一人井上毅は「古典に、うしはくといふことと知らすといふことと二の言葉を両々向き合せて用ゐ、又其のうしはくといひ知らすといふ作用言の主格に玉と石との差めあるを見れは猶争ふことのあるへきやは、若し其の差別なかりせば此の一條の文章をは何と解釈し得べき」と解説している。

しかし折口信夫における「しろしめす」「しらす」はやや不透明である。彼は「知らす」を「知るの敬相。しるは、聞く・見るが、感覚から領有の意義を持つ場合がある如く、此はしるの内容を延長して、占有する・支配する意に用ゐた。唯、うしはくと対照的に考え過ぎるのは悪い。ともかく明浄な感じを与える言葉だったに違ひない。」と説明した。

本居宣長・井上毅に共通するのは、「うしはく」と「しらす」には相違があるということである。折口信夫はこの違いを認めていないし、なにより「しらす」には占有する・支配する意味などないことは宣長に明らかである。

折口信夫の「あきつみ神」(8/9)

井上毅における「しらす」は統治の義であって、「君主の徳は八州臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非ざることを示されたり」である。つまり「私心を交えず統治する」ということである。

折口信夫は「古代生活に於ける惟神の真意義」において、「天皇は政事を遊される。それは天の神の代理として行はせられるもので、約めて言へば、政事とは田を治める行事だけを指すのである。食国の政事とは、即その意味の事である」と語るのみで、「しらす」という統治の概念を語っていない。

むろん、記紀などに「しらす」の意義が国語辞典のように記されているわけではない。我が国の歴史を考えると「しらす」のもつ意味が理解できるということである。だから宣長は「神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく」と述べたのである。神勅ありき、ではない。

折口信夫には政治哲学的な理解としての「しらす」はなく、あくまで信仰上の理解のようである。「天つ神のみこともち」だけで「しらす」の概念は明瞭となりようがない。「しらす」が領有・占有なら天皇の「私事に非ざる」統治に違背する。

「現御神と天の下しろしめす」が「天つ神のみこともちとして、天の下を領有する」では井上毅の解釈とは雲泥の差があると言わざるを得ない。天皇が天下を領有(独裁)して「万世一系」はないし、「ことよさし・委任」も説明が困難となるだろう。折口信夫におけるこれらの矛盾は、詔勅を歴史的文脈で解釈していないことによるのではないか。

折口信夫の「あきつみ神」(9/9)

折口信夫は「惟神(かんながら)」を語る論考のタイトルを「古代人の信仰」としている。「信仰」だから検証は不可能である。しかし日本書紀・続日本紀などにある「惟神」随神」の説明にもなっているから、論旨が不明瞭なのである。日本書紀・続日本紀は国史であるから客観的な検証に堪える解釈でなければならない。

また天皇の政治的発言と臣下における文芸作品を区別していないことも混乱を呼ぶものとなっている。「大君は神にしあれば」は「神様・稲生様」と同様に宗教的意味合いを含んでいるとの証拠は存在しない。

タイトルにかかわらず、折口信夫の文章には、ある解釈が(古代人の)「信仰」であるとする表現が常にある。「信仰」なら肯定も否定もしようがない。折口信夫における詔勅の解釈―特に即位の宣命―には語句の解釈に客観性がなく、説得力もない。「信仰」を持ち出すのは、自らの解釈に客観性がないことの裏返しなのではないか。

被占領下に発表された文章には、やはり様々な制約があったことも考慮する必要はあるだろう。しかし「あきつみ神」は「現御神止」としての用例で説明することに制約のあろうはずがない。折口信夫にこの理解がなかったことが、そもそも「信仰」を持ち出さざるを得ない状況となったのではないか。

いわゆる「人間宣言」は今日でも正しく解釈されていない。その意味で、折口信夫にも責任がある。昭和17年には「朕が考へは神として考へてゐる」と語ったものが、昭和22年の「天皇非即神論」では「あきつみ神」は資格であって「天皇即現神」とは宣られては居ない、と述べているのである。

「現御神止」と「惟神(随神)」は同じ意味であり、「しろしめす」の「副詞」であることがはっきりと表現されてはじめて正しい「現御神論」である。このことに関して、折口信夫には厳しい評価を下さなければならないのではないか。個人的な「信仰」は自由であるが、国史を基にした折口信夫の「あきつみ神」論は有害である、というのが妥当な評価だろう。

―終わり―2011年

 

【アラヒトガミ事件】

アラヒトガミ事件(1/7)

昭和戦前の記録を読むにはよほど注意が必要である。特に政府や軍の職にあって、戦後にその時のことを回想して書かれたものは、うのみにできない。異なる人の著作などでその真偽を検証する必要がある。

文芸評論家平野謙に「アラヒトガミ事件」がある。昭和17年9月、新京において満州建国10周年慶祝祝典が開催された。出席した日本文学報国会の事務局長(専務理事)久米正雄が「東京日日新聞」に載せた記事がこの事件の発端である。

新京は満州国の首都であり、現在の吉林省長春市である。記事には「御眼鏡の御裡に深き慈光を湛えさせられ、厳として立たせ給う、洵に天照大臣を御神祖と仰がれ、日満一如を具現せられ給う現人神とわれらも斉しく心よりおろがみ奉った・・」と記されていた。

この「現人神」が問題となったのである。当時のいわゆる右翼が「文士の久米正雄が満州国皇帝を現人神というのは不敬ではないか」と批判したのである。むろん天皇に対する不敬である。所管は情報局第五部第三課、のちの文芸課であった。

情報局第五部第三課の事実上の担当責任者は井上司朗(歌人逗子八郎)である。平野謙はそこの嘱託であった。

アラヒトガミ事件(2/7)

平野謙の「アラヒトガミ事件」は昭和27年9月の日付であるが、『群像』の昭和28年11月号に掲載された。のちにこれを読んだ当時の上司、井上司朗がその内容のいい加減さに驚き反論したのが「忘恩の徒、平野謙を弔う」である。友人の示唆もあって、平野謙の没した翌年の発表となった。

井上司朗は平野謙にある偽りの事実を糾弾しただけでなく、自らへの評価に大いに不満があって、これを正すために反論したのである。たしかに平野謙の表現は保身のために歪んだものとなっている。平野は情報局に入りたくて井上に懇願して入ったものの、戦後はこの経歴を否定的に語ることで売文業としての地位を保とうとしたのである。

安岡章太郎『良友・悪友』にこれに関連する文章があったことを思い出して、確認した。安岡らの発行した同人雑誌について出頭命令があり、三宅坂の陸軍参謀本部跡にあった情報局に赴いた際の話である。のちに安岡は、あの人が平野さんであったのかもしれない、と思い、直接質問した。

平野謙は言下に「そんなはずはない」と否定した。時期的な食い違いがあるというのである。たしかに平野・井上両者の著述に三宅坂の陸軍参謀本部跡は出てこない。井上が帝国劇場の構造を改装して、と記してあるのみである。これはやはり食い違いであり、平野が過去を隠蔽した、とするのは根拠がないだろう。

アラヒトガミ事件(3/7)

井上司朗の「忘恩の徒、平野謙を弔う」は最初、昭和54年9月号の「月刊時事」に掲載された。その後手直しをして、『証言・戦時文壇史』に収載された。副題は「情報局文芸課長のつぶやき」である。本書を読むと、著者はとにかく自分のプライドが傷つきそうな時には激情するタイプのようだ。自分を侮辱する相手に対しては、前後を忘れ、徹底抗戦の姿勢となるようだ。

二人の著述を比較してみると、久米正雄の記事(文章)だけは―新聞記事だから当然であるが―事実として共通のものとなっている。それ以外は、平野謙が井上司朗を貶め、井上司朗はその平野謙の無礼な態度にたいする憤怒をぶちまけている、というものである。

平野謙の文芸評論家としての評価はともかく、「アラヒトガミ事件」は実に後味の悪い著述である。井上にたいする言葉遣いもそうだが、自己保身がみえみえで、内容的にも文章を商売にしていた人のものとは思えない。

しかしまた井上司朗の、知人や後輩の就職を周旋した自慢話や、その当事者たちの著者にたいする非礼を語る場面にはいささかうんざりする。そもそも周旋をお願いしてくるのだから、実力がなく他人との対応にも足らぬものがあるからである。井上は案外世間知らずだったのかもしれない。

井上司朗はのちに、後楽園スタジアムやニッポン放送の要職を務めたが、世間知らずが利潤追求組織の幹部になることが不思議でないことは、いつの世も世間をみればわかることである。

アラヒトガミ事件(4/7)

アラヒトガミ事件は、実は久米正雄の新聞記事から約半年も経った昭和18年の春に起きている。平野謙によれば藤堂玄一、井上司朗はこれを正してもと文芸春秋社社員安藤彦三郎としているが、その安藤が「日本文学報国会」の短歌部会の総会で久米正雄を批判したのである。

これに久米が反論し、さらに安藤は「皇弟高松宮殿下は、天皇陛下に奉るお言葉の末に、「臣宣仁謹ミテ言ス」と結ばれたのでありますぞ」と止めを刺した。天皇と満州国皇帝は同格ではない、満州国皇帝を現人神とは何事か、ということだろう。

結局、久米正雄事務局長の進退問題に発展した。そこで日本文学報国会は理事会を開き審議した。久米正雄、菊池寛、柳田国男、佐藤春夫、山本有三、長与善郎、吉川英治、その他山田孝雄、折口信夫などが参加していた。

久米ははっきり辞任の意を表明したが、菊池寛らがその必要はない、と留意した。このあと折口信夫が発言して久米の勇退希望は承認されず、そのまま閉会となった。

この折口信夫発言が興味深い。いわゆる「現人神論」である。そしてこの議論は二重三重に入り組んでいる。「アラヒトガミ事件」の本質が、実はここにある。

アラヒトガミ事件/(5/7)

井上司朗は右翼を心から説伏するため、「現人神」の意義を「当時国学の最高峰で、右翼にも押えの利く山田孝雄先生に、御教示を求めさせ」ていたのである。山田孝雄博士の見解は次のとおりである。

現人神の意義として、イ)住吉明神を意味すること(荒人神)、ロ)人間の形をとって現われた神の意、ハ)天皇の別称、二)大きな功績をあらわして、死後神と敬われる人(軍神)、ホ)死後、人間にたたりをなすので、それを封ずるため、神にまつられた人(北野天神)等々と幾つかの用例が認められている、以上が要約である。

これによれば、「現人神」が天皇を指すのは、幾つかの用例のうちの、その一つのケースということになる。久米の発言は「神の如く尊いお方という意味につかったので、敢えて不敬ではない」ということになる。

この話は山田孝雄から事前に折口信夫へ伝えられていたものであり、平野は折口発言に感激しているが、「勇気といえば、最初に私達にそういう意見を表明した山田先生の方が格段に上ではないか」と井上司朗は反論している。

井上司朗・平野謙の「現人神」理解はこの程度である。山田孝雄や折口信夫らの「現人神論」が、国典の正しい解釈と歴史の事実をまったく無視したものであることにも気がついていない。ここを分析しなければ「アラヒトガミ事件」は解明されないのである。

アラヒトガミ事件(6/7)

山田孝雄は教育勅語や「国体の本義」の解説書を書いた一人である。教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の「中外」について、「中」は国中、「外」は国外、と解釈している。筆者のサイト「教育勅語異聞」に示しているように、これは明らかな誤りである。

「中外」をただ一つの例文から解釈し、「管子」の「中外不通」等は語られていない。昭和14年にはじまった文部省の協議会でも教育勅語を正しく解釈できなかった。そのうえで「国体の本義」を解説したのだから、幾重にも誤りを重ねたことになる。

また、折口信夫は「天皇非即神論」において、「あきつ神」は「明らかに天子のお身をおさしして居るばかりか、天子御自身の発言であることも、確かであるから、・・」と記している。そしてそれはこの国をお治めになる「神の資格」だと云うのである。

天皇が御自身を「あきつ神」と公式に宣言された文章はどこにも存在しない。「現御神」と「現人神」は同義である。そして「現御神」には必ず「止」がついて、「現御神と」は「しろしめす」の副詞である。これを理解できなかったのは折口信夫も山田孝雄も同様であった。彼らの著作にこの説明は一つもない。

この二人の誤った現御神=現人神論を何の疑いもなく紹介している平野謙と井上司朗である。彼らが情報局で文芸を対象とする課にいたこと自体、昭和戦前の我が国は暗黒時代であった。国典を、そして本居宣長を正しく理解していれば、「アラヒトガミ事件」から詔勅における「現御神止」の正しい伝統的な解釈を、少なくとも戦後において、世に示し得る可能性があったのである。

アラヒトガミ事件(7/7)

「アラヒトガミ事件」に関係した情報局の彼らは、そのことの本質を追究することもなく、結果として超国家主義を後押しすることになった。平野謙・井上司朗らは山田孝雄や折口信夫とともに、戦後においても戦前の天皇=現御神観を放置した。このことを反省できなかった彼らの弁明は、すべて無意味である。

井上司朗「忘恩の徒、平野謙を弔う」の発表は昭和54年である。木下道雄『宮中見聞録』が出版されてからすでに11年経っている。「昭和二十一年元旦に発せられた新日本建設に関する詔書について一言」を読んでいなかったのだろうか。これには「現御神止」が「しろしめす」の副詞として使われている、と明言されているのである。木下道雄はいわゆる「人間宣言」の草稿に最も深く関与した当時の侍従次長である。

「アラヒトガミ事件」は文壇知識人の単なるエピソードなどではない。平野謙の保身から出た井上司朗への侮辱と、それに対する井上司朗の私憤などは些末な話である。

この事件は、昭和戦前から戦後、いや今日に至るまで、我が国において代表的な詔勅が正しく解釈されていないことの証明である。本居宣長・池辺義象(そしておそらくは井上毅)・木下道雄と受け継がれてきた「現御神止」の正しい解釈を、今日の知識人も理解していない。政教関係の不毛な議論や判決は、ここに一つの原因があるように思う。

―終わり―2011年