京都MTB見仏(亜紀編)


●99年11月22日月曜日晴れ。見仏初日。

プロローグ

みうらじゅん氏・いとうせいこう氏共著の「見仏記」に触発されて見仏に目覚め、 小野家とサイクリング仲間でもある大学の後輩夫婦の4人で、車2台で京都に行く。 京都では、つんできたMyMTBで東寺、三十三間堂、六波羅蜜寺、広隆寺の4つを1日で巡り、 ついでに紅葉も楽しもうという、かなり欲張りなこの計画は、 また、事前の勉強会によって、 日本という自国の歴史を、改めて顧みる旅ともなった(ホントか?)。

仏を彫刻芸術として見るこのスタイルには、意見が分かれるようだが、 なんとなく入りにくかった宗教的な壁を感じずに、 すんなりと仏教の世界を勉強できるきっかけとなったことを考えれば、 それほど悪いことではないと思う。むしろ芸術の視点で見る仏達は、 なんと緻密ですばらしく、「目からうろこ」的な衝撃を与えてくれたことだろうか!!。

東寺(教王護国寺)

これが初見仏という見仏初心者の私(たち)にとって、最初に訪れるにしては、 凄すぎるお寺だったと後になって思う。 消化不良気味の感は正直言って否めない。 その後の過密見仏スケジュールが気になり、ゆっくり見仏できなかったということもあるが、 一体たりとも”抜いて”見る事を許してくれないのだった。 どの仏も匂い立つ程の存在感を強烈に放ちながら、 今にも動き出しそうな迫力で我々を襲ってくる。

まずは立体曼荼羅の講堂。大日如来、四大明王等、 修理中でお目にかかれなかった仏もいたが、 それでも目白押しの仏達は、圧巻で厳粛で魅力的だった。 一体見るごとに目を奪われ、しばしたたずむ。
仏の細かい見事なレリーフを目の当たりにし、 遠い昔に無心でそれを掘った仏師の姿を想像してみようとした。 仏達が見てきた遥か長い年月を感じてみようとした。 しかし私たちが生きてきた年月に比べれば、 途方もなく長いその時間の前では、 やはりただただひれ伏すしかすべはなかった。

簡単に言えば(簡単にしか言えないのだが)、 みんな半端でなくかっこよくて、傑作なのだった。 甘いマスクの女性キラー帝釈天に、いとも簡単にいかれてしまうし、 さらにマッチョ好みの私は、ワイルド持国天の前でも、 ぼーっと立ち尽くしてしまっていた。

お隣りの金堂には、講堂に比べて数こそ少ないがでかい薬師三尊がおられる。 有無を言わせぬ仏像の実在。圧倒される。 大きいがゆえに威圧されるとも言える。 薬師の光背に化仏が立体的に飛び出しているのが印象的だ。 化仏にも輪光までついている。 光背の中にあるから化仏も平面的である、と思い込んではいけないらしい。
細目から小さくのぞく、日光菩薩の瞳と目が合って一瞬動けなる。 自分の全てを見透かされているようで、 今にも動きだして説教されるのではないかと思わせる。生命感を錯覚してしまう。


三十三間堂(蓮華王院本堂)

重文の千体千手観音菩薩立像。整然と所狭しに並んでおられた。 後ろ数列以降の千手観音は顔さえも見えない。 放射光だけがにょきにょき目に刺さるようだ。 1000体という金色の集合力をアピールしているのだった。
修理中等で見られないのではなくて、そこにおられるのにお顔が拝見できない。 何度来ても見られない。そう考えるとちょっと残念な気もしたが、 この千体の千手観音はどれもつくりがとても良く似ている。 と言っても当然手作りなので、良く見ると微妙に表情がひとつひとつ違っていて面白いのだが。
また持物を持つ40手が彫刻としてどう表現されているかと後ろを見てみると、 背中の両脇に、ちょうど天使の羽根のように板が着いていて、 前で合掌する2手に比べてかなり細くなった手が、その板から にょろにょろ生えていた。

千体千手観音の前に並んだ、二十八部衆立像と風神・雷神、 そしてメインボーカルの中尊千手観音坐像をじっくりと見仏した。どれも国宝である。 逆立ったパンクヘアー、鍛えぬかれた筋肉、浮き上がった血管、珍しい楽器、水晶玉眼、 流動的な天衣、人身獣頭、ヘビまきまき。 インドを起源とする二十八人の神々は、それぞれが個性豊かで飽きることがない。 中尊は「ほうっ」とため息がでるばかりで、言葉を失うほど見事な姿をしておられた。

今日まで約千年の時を経て存在していること自体が、まさに奇跡そのものであることが実感される。 京都に原爆が落とされなくて本当に良かったと思う。 我々今を生きる者は、これを出来る限り守っていかないとばちが当たる。

六波羅蜜寺

とうとう庶民派ラッパー、空也上人にお目にかかるれる時が来た。 見仏記にも書かれていた通り、収蔵庫に入る前から上人像が見えた。 思わず気持ちがはやり、小走りになってしまう。 空也さんはガラスの箱の中に入っておられた。 だから風が当たるはずはないのだが、 口からでた針金の上に乗る六体の弥陀が、かすかに揺れているのが見て取れた。 今でも念仏をとなえ続けている気がして、神秘的な感じを受けた。

左隣の地蔵菩薩立像(髪掛地蔵)。こちらもガラス箱入りであったが、 妙に惹きつけられるものがある。なぜか? 左手に持った頭髪のせいだとわかった。 唯一木造でない部分の頭髪が、 人間のなまめかしさをかもし出しているからと思われた。

広隆寺

本日最終目的地に到着。かの有名な国宝第一号、そしてこの旅の最大目的、 弥勒菩薩半跏思惟像がおられる。 暗めのオレンジ色のライトアップが、霊宝殿内に独特の雰囲気を作っていた。 緻密な彫刻に見慣れた目には、弥勒菩薩の飾り気のないなめらかな木肌が、 返って新鮮に映るのは無理もないことのように思えた。 飾り気がないゆえに、見る方も余計な力が入らず、 口元にたたえる微笑に安堵感を覚える感じがする。

振り返って、弥勒菩薩と向かい合わせに立つ、「見仏記」でも一番刺激的と書いてあった、 不空羂索観音、千手観音坐像、十一面千手観音立像を見る。やはり刺激的だ。
中でも千手観音立像は、三十三間堂のそれとは違って、 後ろに羽根をつけていないことに驚いた。 ひじから先や、中には手首から先しかない手もあるが、 ちゃんと体から手が出ているように表現されており、 横から見ても不自然さは感じられなかったからだ。 どの腕も前で合掌する2手と同じような太さなのだ。 しばらくほうけたまま、そのお見事な表現力に見入ってしまった。
この日は聖徳太子像、薬師如来立像の御開帳期間中でもあった。

夕暮れの差しかかった境内を仁王門に向かって歩いている途中に、 右側に小さなお堂があるのに気づいた。 鍵がかかっていたが、小さな格子の隙間から中を覗くことができそうだった。 きっとかっこいい仏がしまってあるに違いないと、 わくわく勢い勇んで、覗いてみることにした。 だが思わず「うわー」とたじろいでしまった。
うっすらとわずかな光しか届かぬ程の真っ暗なお堂の中で、 こちらを見下ろした、でっかい地蔵菩薩坐像の顔が、 真ん丸くって、真っ白だったからだ。
闇の中に突然現れる白いでかい顔というのは、想像していなかっただけに、 相当にショックキングなものだった。翌日へつづく・・・。


京都見仏翌日
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