あぶすとらくと 1999年11月22日〜24日にかけて、京都自転車見仏を行った。 筆者らは、 いとうせいこう氏&みうらじゅん氏共著の「見仏記」[1]に触発されて本旅行を計画した。 市中の移動手段には自転車を用い、その有効性を確認した。 また、併せて鴨なんばと鴨なんばんについての新しい問題に遭遇し、空想した。 以下に本旅行の計画から実行について詳細に報告する。
数日後、 通読したMさんからのメールで「自転車見仏に行きましょう」と発案があり、 この旅行は始まることとなったのである。
1日目:昼から移動(川崎→京都) 夜京都着 宿(嵯峨野) 2日目:宿 教王護国寺(東寺) 蓮華王院(三十三間堂) 六波羅蜜寺 広隆寺 どっかの居酒屋 宿 3日目:宿 嵯峨野散策(徒歩) 昼前から移動(京都→川崎)2日目に周る寺は、 4人が見たいと思っている仏が居る寺をピックアップした。 教王護国寺の立体曼荼羅、 三十三間堂の千体千手観音、 六波羅蜜寺の空也上人像、 そして広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)である。
3日目は早めに帰路に就くことを考え、 午前中のみ嵯峨野周辺を散策することとした。 紅葉シーズンの真っ只中でかなりの混雑も考えられるので、 この日は自転車をも用いず徒歩で周ることにした。
計画と併せて宿の手配を行った。 後輩夫妻の利用実績の有るペンションに電話を入れてみたが満室だった。 その後ガイドブックを参照して数箇所当たってみたがすべてだめだった。 秋の京都はかなり流行っているようである。 最後の頼みの綱、 嵯峨野の民宿組合に条件を伝えた所、 取れるということなのでそれに託した。 具体的な民宿名は後日連絡するということらしく、 本当に取れるのか一抹の不安を感じながらも。
数日後、 Mさんから宿泊する民宿に関するメールがあった。 大覚寺の近くで農家が使われていない空き部屋で宿泊サービスをやっているというものらしい。 農家に泊まるというところに、 この旅行の面白さにさらに深みが加わったような気がした。
21:30頃民宿に到着し、 その家の御先祖様の写真が飾られた部屋で眠った。
まず教王護国寺(東寺)に向かった。 宿から渡月橋に出る道を下って行くと、まだ8:00くらいだというのにものすごい人の数。 天龍寺の参道入り口よりも美空ひばり記念館の方にたくさん人が集まっているのを確認しながら 渡月橋に出た。 桂川をずっと下っていく計画である。 この日は連休の合間の平日だったので、 一般観光客、修学旅行生、観光バス、通勤の車が一挙に道路にあふれていて、 どうなることかと一瞬思ったが、観光スポットを外れれば一気に快適クルーズとなった。 桂川の東岸を下り桂大橋まで来て八条通りを東に突き当たるまで進み、 JRの下をくぐって九条通を経て東寺に到着した。
拝観料500円を払って講堂に向かった。 講堂東側の扉から入る。 暗い講堂内に南側の格子戸から光が差し込んで、すべてが柔らかい光に包まれていた。 入ってすぐのところに五大菩薩と多聞天、持国天、梵天がいらしゃった。 多聞天は宇宙戦艦ヤマトの沖田艦長のような劇画風のちょっと濃い顔立ちだった。 正面の五大如来像の方へ向かうとすぐに大日如来がいないことに気づいた。 どうやら修復中らしい。 ちょっと残念に思いながら私がもっとも楽しみにしていた五大明王の方へ向かう。 不動明王が独特の角張った座、瑟瑟(しつしつ)座の上に座っておられた。 よかったいらっしゃったと思った次の瞬間、 不動明王の周りが妙にすっきりしているのに気づいた。 実は大日如来と一緒に他の四明王もリフレッシュ休暇中だったのだ。 何たること。 この瞬間、東寺再訪の決心は固まった。 最も西側に増長天、広目天、そして帝釈天がいらっしゃった。 休暇中を含めて21の仏がこの講堂の須弥壇上に整然と配されている。 わたしにはちょっと狭苦しいように感じたが、 かえってその密度のせいで講堂内の空間をあます所無く満たし表現された立体曼荼羅の中に 自分自身も取り込まれてしまっているような感覚もおこった。 Mさんと亜紀は帝釈天のお顔の美しさに釘付けになってしまったようだ。
講堂を出て金堂へ向かう。 やはり東側の扉から中へ入った。 天井の高い空間に、薬師如来座像を中心として右に日光菩薩立像、 左に月光菩薩立像が配されている。 いずれも大きな像である。 薬師如来の座には十二神将が周囲を監視するようにぐるりと配されている。 金堂は講堂の過密感とは違った雰囲気が支配していた。 講堂と比較すると広々としているものの、しかし「疎」というわけではない。 空気中を仏が放出したエネルギーが満たしている感じとでも言おうか。 東寺の予習では講堂の立体曼荼羅ばかりを意識していて、 金堂のことはあまり調べていなかった。 しかし実際に見に来てみると、 金堂にぐっと惹かれていた。 金堂の構造から三尊像の後ろの壁の向こうにも空間があるはずであることがわかった。 K君と私はその空間は仏たちのシャワールーム付き控え室であろうと推測した。
金堂を出て庭園で写真撮影。 仏像の写真撮影は禁止されているので、 庭の写真しかとりようがない。
拝観を終わって慶賀門へ向かおうと歩いていると、 門の外から歩道を掃除していた人たちが掃除用具を持ちながら入ってきた。 昔からずーっとこういう人たちに支えられきたんだなーと思っていると、 さっき駐輪するときに出てきた駐車場の係りの人のことを思い出した。 自転車や自動車や現在の道路交通法や交通ルールができるずっと前から東寺はここに有って、 そして今も生きている。 信仰もなくただ見仏に来ている私たちのような存在は空海から見たらなんでしょうかね。
駐車場には観光バス数台があり沢山の人が拝観チケット売り場やゲート前にいた。 次の観光スポットへ移動する観光客をねらったタクシーも列を作っていた。 「見仏記」でみうら氏がカメラでばしゃばしゃおさえたといういわゆる流行っている状態である。
拝観料(600円)を払っていとう氏指摘のシステム優先ゲート&下駄箱を通過、 三十三間堂内部に入る。 圧倒的な千体千手観音菩薩立像。 その前に二十八部衆と風神雷神像が配されている。 ここは修学旅行でも来たところである。 しかしその時は二十八部衆が千体千手観音の前に配されてはいなかった。 ひたすら同じものが並んでいるという印象しかなかった。 中尊があったという記憶もないのである。 今回は二十八部衆を一体ずつ楽しみなが歩を進めることができた。 二十八部衆の一体、那羅延堅固王の足元には一升瓶が供えられており、 熨斗(のし)紙には家田荘子と書かれていた。 ゆっくりと見仏しようやく中尊、千手観音坐像の前に来た。 ここへはたくさんのお供えがなされていた。 バックコーラスよりもメインボーカルはファンが多いのは当然のことか。 私はかなりゆっくり見仏していたのだろう、 他の多くの観光客にオーバーテイクされた。 そのかわりいつでもS席で見仏できた。 ところどころ千躰千手観音像が抜けている所があった。 あるところは東京や海外の美術館に出張中 またあるところは修復リフレッシュ休暇ということだった。 私のすぐ横で見仏していた外国人観光客に女性が business trip と説明しており、 わたしと同じ感覚だねあんたと心の中で言っていた。 三十三間の反対側に達したときもう一度初めに戻って見直したいと思うほど、 充実した見仏だった。 一定レベルの興奮状態が持続し続けていたのである。 三十三間堂の西側の廊下、 ちょうど中尊の真裏に修復を呼びかける千躰千手観音の一体と募金箱が置かれていた。 東寺でもそうであったが、千年以上に渡っての立ち仕事である。 足の疲れも人間の想像もできないくらいのものでしょう。 リフレッシュしてまた仏パワーを発散して欲しいと思った。
見仏を終わってガイドブック推薦の奥の庭を見たいところだったが、 12時半も過ぎはらぺこになっていたし拝観時間内に広隆寺まで行かなければならなかったので、 庭はあきらめて昼食をとることにした。
そば屋。 当然メニューには鴨なんばがある。 しかしこのときはこれを食せず別なものにした。 食事を済ませて会計後店を出ようとしたとき、 K君が店のおばさんに「関東では鴨なんばんっていうんですけど---」とまで言ったところで 間髪入れずに「そりゃー、その土地土地でものの呼び方も違いまっしゃろうなぁー。」 と、簡単にあしらって他の客の応対に行ってしまった。
境内に入り、本堂正面の階段から上がって外廊下つたいに宝物殿へ。 ここでいとうせいこう氏が「空也上人像は拝観料を払わなくても外から見える」と書いていた ことを思い出して、宝物殿入り口前から後ろを振り返ると、 確かに外の通りを歩いている人が見えている。 空也上人は建物に入る前から見えているし、 顔を向けている方向もまさにその通りの方なので、 今でも民衆に向かって念仏を唱えている状態である。
近づいて見る。 「南無阿弥陀仏」の6文字を象徴する小さい仏が針金でつながれて空也上人の口から出ている。 出ているだけでなく、振動している。 空也上人は今でも念仏を唱え続けていているかのようである。
[2] 「密教の美術 東寺/神護寺/室生寺」日本美術全集第6巻 (学習研究社)
[3] 伊東史朗 監修「京都 仏像を訪ねる旅」(講談社)
[4] 副島弘道、「仏像に会いに行こう」(東京美術)
[5] 人見春雄、野呂肖生、毛利和夫、「図解 文化財の見方」(山川出版)
[6] 「日本の国宝(広隆寺)」(朝日新聞社)
[7] 「スーパーマップルJr.大阪・神戸・京都」(昭文社)