+++ 神名釈義 名義ミニ事典 +++



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若御毛沼の命 (ワカミケヌ)

名義は「若わかしい御食物の主」。

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命玉依毘売との間に生れた 四神中の第四子。

「御饌」の名をもつ。「若」を冠しているのは、穀霊の新生を予告している。のちの神武天皇(記、神武天皇の段)である。 別名は豊御毛沼命・神倭伊波礼毘古命神代紀下では狭野尊(神稲の主)とある。第三の一書に「稚三毛野命」とあるのは別神 である。



豊御毛沼の命 (トヨミケヌ)

名義は「豊かな御食物の主」。

前項「若御毛沼の命」の別名。その項参照。



神倭伊波礼毘古の命 (カムヤマトイハレビコ)

名義は「神聖な、大和国の磐余の男性」。

「伊波礼」は奈良県桜井市西部から橿原市東南部にかけての地域。「石寸・いはれ」の表記は「石村」の古字であるが「村」の 古語を「ふれ」という。神武前紀に「邑(むら)に君有り、村(ふれ)に長(ひとごのかみ)有りて」、 神功前紀に「荷持田村・のとりたのふれ」に例がある。そこで「石村」によって「いはれ」と訓むのであろう。

一方「磐余」は「いはあれ」の約で「いはれ」と訓む。この地名は「堅固な村」の意か。

前々項「若御毛沼の命」、前項「豊御毛沼の命」の別名。その項参照。のちの人皇第一神武天皇。



槁根津日子 (サヲネツヒコ)

名義は「船カジの根元の立派な男子」。

「槁」は船を進める棹。「根」は根元の義で美称。「日子」の「日」は、この場合、「子(男子)」の美称としての用法。

神武天皇の東征の途中、速吸門(明石海峡)で出現した国つ神。亀の背に乗り、釣りをしつつ羽ばたいて来た、とある。 これは風や波を起す神の姿態を意味する。潮路を熟知し、天皇を案内した。大和国の国造の祖先となる。神武前紀には「珍彦・うづひこ」 (渦を掌る男性)と言ったが、「椎根津彦」の名を賜ったと、とある。「椎」も「槁」も同じく棒状のもので、船を進める具。

「姓氏録」には「神知津彦命・かむしりつひこ」(宇豆彦・椎根津彦)の名も見え、大和宿禰の祖とあり、大倭国造に任ぜられ、大倭 直の始祖となる(大和国、神別)。



佐士布都の神 (サジフツ)

名義は「光が指し輝く、ぷっつり断ち切る太刀」。

「佐士」は従来未詳語として著名。あるいは、「指し」の「し」の濁音化ではあるまいか。記では清音語を濁音で表現する例も 少なくない(
「火之夜芸速男の神」の項参照)。 それだけではなく、「宇知比佐受・うちひざす」(万葉、巻五、886)のように、「打日指す」の「す」を「ず」と濁った例もある。 「高佐士野」の「佐士」も、「指し」で日のよく当る野、の意と解してよい。そこで、「佐士」は「指し」の意としてよい。 そこで、「佐士」は「指し」の意として「布都」の修飾語とみるならば、 「建布都の神豊布都の神」および 次項「甕布都の神」の神名と全く同じ構成となるわけである。「布都」は 「建布都の神」の項参照。

神武天皇が熊野で失神したとき、建御雷神 が葦原の中つ国平定に用いた横刀 によって蘇生した、その横刀の名。別名を甕布都神、また布都の御魂と言い、石上神宮に祭られた。 「三代実録」(巻四、貞観二年七月十日条)には「弥加布都命神・比古佐自布都命神」と見える。



甕布都の神 (ミカフツ)

名義は「神秘的で厳しい、ぷっつり断ち切る太刀」。

「甕」は「御厳」の約。前項「佐士布都の神」の別名。その項参照。



布都の御魂 (フツノミタマ)

名義は「ぷっつり断ち切る太刀の神霊」。

「布都」は
「建布都の神」の項参照。「佐士布都の神」の別名。その項参照。

「延喜式」神名帳には「石上布都之魂神社・いそのかみふつのみたまじんじゃ」(備前国赤坂郡)とある。 ところが、同帳には、今日の石上神宮の名が「石上坐布留御魂神社」(大和国山辺郡)とあって、「布都」ではない。また「布都」は 物を断ち切る擬声音で、断ち切るとは宗教的に悪霊を断ち切る意をも含み、そういう霊力をもつものが太刀であったから、「御魂」 として神格化されたのである。

その太刀が石上神宮の祭神であった。そして、石上神宮が朝廷の武器庫ともなり、物部氏が管掌した。その物部氏の 伝承に、十種の神宝の名を挙げて、「由良由良止布璃部・ゆらゆらとふるへ」ととなえる魂振(「鎮魂・たましずめ」と同じように、 人体から遊離しようとする魂をしっかりとつなぎとめ、振い立たせること)の神事行為があった。 それで、この神剣を「布留御魂・ふるのみたま」と呼称するように変ったのである。



贄持之子 (ニヘモツノコ)

名義は「贄を持ち貢上する者」。

神武前紀に「苞苴担・ほうしょたん」を「珥倍毛莵・にへもつ」と訓注している。「苞苴」の「苞」は「つと」 (包んだものの意から、その土地の産物などをみやげものにする場合にいう)、「苴」は「下に敷く草」で、 物を包む藁などをいう。「担」は「持つ」意。「贄」は土地の産物を言う。

したがって、稲などの五穀を始め、野山河海の産物(鳥獣・魚貝・塩藻など)をさして言ったのが、 のちに、五穀以外の産物を朝廷に貢上する場合に言うようになった。その贄を貢上する者を「子」と 称したのである。神武天皇東征の際、吉野川で簗を伏せて魚を取っていた国つ神の名。 阿陀の鵜養の祖。贄の内容は鮎である。鮎は神饌の魚。



井氷鹿 (イヒカ)

名義は「神異の光りをもつ井戸」。

「井」は今日のような深い掘抜き井戸ではなく、地上に湧出する清泉を、木や石で井桁を組んで溜めておく所をいう。 「氷鹿」は「光る」の語幹。神武東征の際、光のある井戸から出てきた尾を生やした国つ神の名。 尾があるとは、鉱夫や樵夫が獣皮の尻当てをしている姿を言い、光のある井戸とは水銀の坑口をさすか。 吉野川上流の丹生川の「丹生」は水銀の朱砂(辰砂)を産出することに基づく名。そのために赤く光るのである。 したがって「井氷鹿」はそれを採掘する鉱夫の名となる。奈良県吉野郡井光の地名として残る。

神武前紀には「井光・いひか」とある。 「姓氏録」(大和国、神別)の、吉野連の項に「加禰比加尼之後也」とあるが、これは「加禰比加尼・かねひかね」 (「金光ね」で、「ね」は親称)で水銀の光の神格化であろうし、祭神の「水光姫・みひかひめ」も 水銀の光に基づく名であろう。



石押分之子 (イハオシワクノコ)

名義は「巌石を押し分けて出てきた者」。

神武前紀に「磐排別之子」とあり、「排別」に「飫時和句・おしわく」の訓注がある。神武東征の際、吉野の山中で、 巌を押し分けて出てきて、天皇を歓迎した尾を生やした国つ神の名。これは獣皮の尻当てをした穴居住民をさす。吉野 は国巣の祖である。「吉野の国主(くにす)等」とも見え、讃歌二首を大贄献上の時に歌っている。

「延喜式」践祚大嘗祭、また宮内省の条によると、吉野の国栖は、大嘗祭および諸節会に参上し、 承明門外で歌笛を奏し、御贄を献上していた。

応神紀十九年十月の条には、その性淳朴で、山菓(くだもの)を取って食し、また毛瀰・もみ(かえるを煮たもの)を 美味としていること、土毛・くにつもの(粟・菌・年魚など)を貢上することが記され、その古代的生活と天皇に従順 であった行為とをしのばせる。

「姓氏録」の「国栖」の項(大和国、神別)には、石穂押別神の子孫とし、「入穴」 と記しているから、穴居生活者であったことを物語る。



邇芸速日命 (ニギハヤヒ)

名義未詳。

「邇芸」は
邇邇芸命の項参照。 饒速の太陽の意と考えられることから天つ神である。「旧事本紀」では天忍穂耳尊の子 とするように、神武天皇と同族となる。

物部氏の祖神であり、この邇芸速日命の帰順によって伊波礼毘古命の東征は成就し、畝傍の橿原宮で即位し神武天皇となる。 帰順の際、天つ神の子であることを証する天つ瑞(神宝)を献上したとされ、これは国譲り神話の再現と考えられる。

この神宝は、「旧事日本紀」よると天璽端宝(アマツシルシノミズタカラ)ともいわれ、 澳都鏡(オキツカガミ)、辺都鏡(ヘツカガミ)、八握剣(ヤツカノツルギ)、生玉(イクタマ)、 死反玉(マガガエシノタマ)、足玉(タルタマ)、道返玉(チガエシノタマ)、蛇比礼(ヘビノヒレ)、 蜂比礼(ハチノヒレ)、品物比礼(クサグサノヒレ)という十種である。

登美毘古(奈良県生駒郡富雄村の土豪、先住民族と考えられる)の妹・登美夜毘売を妻にし、 宇摩志麻遅命(物部連、穂積臣、采女臣の祖)を生む。物部連は大伴氏と並んで朝廷の軍事を掌った 伴造氏族。呪術・軍事に長じ、刑の執行者でもあった。

「紀」では櫛玉饒速日命といい、長髄彦の妹・三炊屋姫を娶って、可美真手を生んだという。 「姓氏録」では神饒速日命、饒速日命、速日命という。石上朝臣を祖とする。



大物主の神 (オホモノヌシ)

名義は「偉大な、精霊の主」。

神の観念における「物」とは、畏怖すべき対象(鬼・魔物・怨霊・精霊など)を一般的・抽象的に表現する語。 それらの「物」の主たる神を讃えて「大」を冠する。「美和の大物主の神」とあるから、奈良県桜井市三輪町の大神神社 (おおみわじんじゃ)の祭神である。「大神」を「おほみや」と訓むのは、「神」と言えば三輪の神をさすほど、 神のなかの神であったことに基づく。

出雲の
大国主神の国作りの終わりごろ、協力者の 少名毘古名神 が常世の国に渡っていったので、独力では国作りが完成できない と慨いていたところへ、海を照らして依り来る神があって、その神が大国主神に対して、「自分の御魂を御諸山(三輪山)に祀れ」 と言ったとある。これによって、大国主神が三輪の神の祭祀を約束させられたことは明らかである。

その三輪の神が、大物主神というわけである。このように、記では、大国主神と大物主神とを、深い関係にあるとはしている ものの、別神として扱っている。上巻では大国主神に五つの名があるとしているが、そこには大物主神の名はない。 中巻では大物主神は、雷蛇神の神格で丹塗矢と化り勢夜陀多良比売と結婚し、富登多多良伊須須岐比売(比売多多良伊須気余理比売) を生む。この比売が神武天皇の皇后となる。

また崇神天皇の段では、祟り神として天皇の夢枕に立ち、子孫の意富多々泥古(おおたたねこ)に祭祀を掌らせよと命じ、 天皇は彼を神主として祭らせると祟りは止んだとある。その意富多々泥古は、蛇体の大物主神が活玉依毘売に通って生れた 櫛御方命の子孫であった。

このように、大物主神と大国主神とは別個の神格であり、記編者は、もちろんこの両神を 「亦の名」で結びつけていない。ところが、「出雲国造神賀詞」では、大穴持命(大国主神の別名)が「自分の 和魂を鏡につけて、倭の大物主櫛ミカ玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)と名を称えて、三輪山に鎮めよ」 とあり、天武朝にはこの神賀詞の骨子はできていたと考えられる。ここには大穴持命(偉大な、精霊の主で、 神秘的な厳しい神霊)だとする思想があるが、記ではこれを資料としなかったわけである。

神代紀上では、大国主神の「亦の名」として、大物主神と大国玉神の名を掲げているが、これは神賀詞と同種の資料に 拠っているわけである。そして崇神紀では、大物主大神を祭るに大田田根子命をもってし、倭の大国魂神を祭るに 市磯長尾市(いちしのながおち)をもってしている。前者は大物主神の子孫であり、後者は神武前紀に見える 椎根津彦(大和国造の祖)の子孫となっている。ただし、大物主神は祟り神であること(崇神紀七年二月条)、 倭迹々日百襲姫命と通じ蛇体を示したこと(崇神紀十年九月条)、三諸岳の神、大物主神が大蛇(正体は雷)であること (雄略紀七年七月条)などの記事は、記と同傾向であるが、造酒の神であること(崇神紀八年十二月条)が付加 されている(記では少名毘古名神が造酒の神となっている)。このように、大物主神に対する記紀編者の考え方は ほぼ同じでありながら、大国主神との関係の捉えかたが大きく隔たっていることに注意すべきである。

大物主神を祖とする氏族は「姓氏録」では神宮部造(山城国、神別)三歳祝(未定雑姓、大和国)があり、大物主を 祖とするものには石辺公(左京、神別、下・山城国、神別)狛人野(山城国、神別)がある。「延喜式」神名帳 には「大神大物主神社」(大和国城上郡)とある。



天之御影の神 (アメノミカゲ)

名義は「天上界の神霊」。

「御影」は「和名抄」に「霊」を「美太万・みたま」また「美加介・みかげ」という、とある。 神霊、の意。この神は、近江の御上神社(滋賀県野洲郡野洲町三上)の祭神である。 「延喜式」神名帳に、御上神社(近江国野洲郡)とある。

第九代開化天皇の子、日子坐王が、この天之御影神の娘の息長の水依比売を妻にして、丹波の比古多々須美知能宇斯王 (ひこたたすみちのうしおう)以下五子を生む。 この系譜は天上界の神霊、息長川(今の大野川)や琵琶湖の水霊というように神秘的な素性でつながり、のち 沙本毘古の謀叛の後段に、垂仁天皇に召されて後宮入りをする浄き民の父として美知能宇斯王(みちのうしおう)が存在している。 「姓氏録」には「明立天御影命」の名が見え、額田部湯坐連の祖とある。



伊奢沙和気の大神の命 (イザサワケ)

名義は「誘い合う神稲の男子の大神」。

「伊奢」は「誘う」の「いざ」。もと感動詞で「さあさあ」と促しさそう意。「沙」は神稲(さ)。 「和気」は
「淡道之穂之狭別」の項参照。男子の敬称。 敦賀市角鹿の気比神宮の祭神。応神天皇と名を交換した、その名。名の交換は服従帰属儀礼の一つ。 以下、この神の別名は、食物に関するものばかりである。


御食つ大神 (ミケ)

名義は「御食物の大神」。

敦賀市角鹿の気比神宮の祭神。応神天皇と名を交換した礼に神饌の料(魚類の代表として「入鹿」の名を挙げる)を献る。 それを賞して命名されたもの。



気比の大神 (ケヒ)

名義は「食物の神霊の大神」。

「気」は食物。「比」は「霊・ひ」。敦賀市角鹿の気比神宮の祭神。神巧前紀に「角鹿の笥飯(けひ)の大神」とある。 「笥飯」は敦賀の旧名であるが、その文字選択の意識において、「笥」は食器、「飯」は食物という文字が選ばれている わけで、海産物朝貢地敦賀の性格をよく表している。



阿加流比売の神 (アカル)

名義は「色美しくつやのある女性」。

「阿加流」は「明る」で「比売」への美称。新羅の賤女が日光に感じて「赤玉」を生み、その玉が新羅国の王子の手に入り、 乙女に化って王子(天之日矛)の妻となる。しかし、王子が妻を罵ったので、日本に逃げ難波に到り、そこの比売碁曾の社の 祭神となる。

この神社は今の大阪市東成区東小橋南之町にあるが、もとは天王寺区小橋町愛来目山の産湯稲荷神社の井戸あたりにあったという。 「延喜式」神名帳に、摂津国東生郡に比売許曾神社があるとする、その社であろう。

ところが、同じ「延喜式」の四時祭の条には「下照比売社一座、或号比売許曾社」とあり、臨時祭の条にも「比売許曾神社一座、 亦号下照比売」とあるから、祭神は下照比売という伝えもあったことになる。

「阿加流比売」と言い、「下照比売」と言い、 もとは新羅の赤玉の乙女であったのに、もはや日本化さえた名であることは否定できないが、「延喜式」神名帳には別に 「赤留比売命神社」(摂津国住吉郡)があり、これは今の大阪市平野区東一丁目の三十歩神社に擬せられている。 つまり、阿加流比売は二社に祭られていたことになる。

これはおそらく、古くは赤留比売命神社に祭られていたのが、難波の孝徳朝以後、外国使節歓迎の便宜上、比売碁曾神社 近辺に祭神を新たに移したものであろう。このことの反映が、記の「ここは難波の比売碁曾の社に坐す阿加流比売の神といふ」 の注記になったものと考えられる。



伊豆志の八前の大神 (イヅシノヤマヘ)

名義は「出石の八座の大神」。

「伊豆志」は兵庫県出石郡出石町宮内で、出石神社がある。「延喜式」神名帳には「伊豆志坐神社八座」(但馬国出石郡) とある。天之日矛が将来した八種の宝物を神格化した。「前」は神の敬称。



伊豆志袁登売の神 (イヅシヲトメ)

名義は「出石の巫女の神」。

「伊豆志」は兵庫県出石郡出石町。前項「伊豆志の八前の大神」の娘で、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ) と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)との兄弟二神から求婚される。春山之霞壮夫の神の一夜妻(祭儀ののち、 神人が巫女と一夜共寝すること)となり、一子を生む。



秋山之下氷壮夫 (アキヤマノシタヒヲトコ)

名義は「秋山の木葉の色づいた立派な男」。

「下氷」は「したふ」(赤く色づく意。四段動詞)の連用形。「秋山のしたへる妹」(万葉、巻二、217) に例がある。「壮夫」は「美人」の対語で、「立派な男」の意。秋山の擬人化。弟春山之霞壮夫と 伊豆志袁登売神を争い敗れる。



春山之霞壮夫 (ハルヤマノカスミヲトコ)

名義は「春山の霞の立派な男」。

前項の兄の秋山之下氷壮夫と伊豆志袁登売神を争い、母の助力によって乙女を得る。一子を生む。



悪事も一言善事も一言言離の神葛城の一言主の大神
(マガゴトモヒトコトヨゴトモヒトコトコトサカノカミカツラギノヒトコトヌシノオオカミ)


名義は「凶事も一言で、また吉事も一言で言い放つ神である、葛城の一言で託宣する主の大神」。

「言離」は「言放か」で、言葉を放つこと。動詞の未然形が体言と同じ機能をもつ用法で、「さけつ鳥」にも見られる。 「離く」の未然形「さけ」である。明らかに名詞になった例には「築く」が「塚」に、「なふ」が「縄」に、など多くある。

「葛城」は今の奈良県御所市森脇に一言主神社がある一帯。「延喜式」神名帳に「葛木坐一言主神社」とある。 「一言主」は、いわゆる言霊信仰(善い言葉を発すればその言葉どおり善い事現れ、悪い言葉の場合はその逆になる、という 言葉の呪力に対する信仰)に基づき、それを一言で言い放つ託宣の神である。

一言主神は、仁徳天皇皇后石之日売命以来、皇室の外戚として勢力のあった大豪族葛城氏の奉斎神である。雄略天皇と 葛城の一言主神との説話は、さまざまな意味をもっているが、葛城氏の奉斎神が雄略天皇に見出されたという点をのみ 見れば、葛城氏の祭祀権が奪われたことを意味するものと言えよう。葛城氏はこれ以後記紀から姿を消すのである。







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